2012年6月20日水曜日

Spoiled Children vs. Stupid Parents

(親子断絶2)

●親たちの財産

 では、実際にはどうなのか。
親たちには、それほどの財産があるのか。
子どもに遊興費を渡すほど、余裕があるのか。

 そこで調べてみる。
金融広報中央委員会の「家計の金融資産に関する世論調査(2006年)」によれば、つぎのようになっている。
それによっても、現在、貯蓄ゼロ世帯は、23%。

全国約4000万世帯の、23%。
4世帯につき、約1世帯。

 さらに生活保護を受ける人(生活保護受給者数)が、2011年度、最高を記録した。
その数、約200万人。
144万世帯。
この15年で倍増している。

 さらに先の金融広報中央委員会の世論調査によれば、貯蓄額は、つぎのようになっている。

   20代は171万円、
   30代は455万円、
   40代は812万円、
   50代は1154万円、
   60代が1601万円、
   70歳以上が1432万円。

 この調査は「20歳ー79歳代の男女1万0080人」を対象に調べたもので、
このうち貯蓄を持っているのは全体の、77・1%。
残りの22.9%は貯蓄ゼロ。

貯蓄ゼロの家庭は、年収が300~500万円未満でも21・1%。
500~750万円未満の家庭でも16・2%。

 で、問題なのは、そういった息子や娘をもつ世代。
つまり団塊の世代。

 それについては、貯蓄ゼロの世帯は、8・1%という数字が出ている(「格差脱出研究所」調べ)。
「これから老後……」と考えている人のうち、10人のうち1人が、貯蓄ゼロ?

ただしここに載っている数字にしても、あくまでも、「平均」。
70歳以上だけをみても、中に数億円以上もの金融資産を保有している人たちがいる。
大多数の人は、400~500万円程度と言われている。

 これでは息子や娘に小遣いを渡したくても、渡せない。
が、悲劇はここで終わらない。
老人は今、「ゴミ」になりつつある。
称して「ジジ・ババ・ゴミ論」。

●団塊の世代はゴミ?

 私が「ゴミ」という言葉を使っているのではない。
若い人たちの書くBLOGに、そう書いてある。
最近の若い人たちの老人論には、辛らつなものが多い。
「老害論」から「ゴミ論」へ。
「ゴミ論」から「老害論」でもよい。
「老人難民」という言葉さえ生まれた。
 
 まさかと思う人がいたら、一度、若い人たちのBLOGに目を通してみるとよい。
が、なぜ、私たちはゴミなのか?

●「将来、親のめんどうをみる」
 
 それについて考える前に、若い人たちの意識はどうなのか。
「親」に対して、どのような意識をもっているのか。
それについては、総理府、それにつづく内閣府が、数年おきに、同じ調査をしている。
「青少年の意識調査」というのが、それである。

 で、それによれば、「将来、どんなことをしてでも、親のめんどうをみる」と答える、日本の若い人たちは、世界でも最下位。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21年(2009)3月)

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●年老いた親を養うことについてどう思うか

「どんなことをしてでも親を養う」

   イギリス……66・0%、
   アメリカ……63・5%
   フランス……50・8%
   韓国 ……35・2%
   日本 ……28・3%
(平成9年、総理府の同調査では、19%。)

 日本の若い人たちの意識は、28・3%!
アメリカ人の約半分。

 「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。
しかし現実は、まったく逆。
今どき、「親孝行」という言葉を使う、若い人は、いない!

●「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか

『そう思う』:

   イギリス……70・1%、
   アメリカ……67・5%、
   フランス……62・3%、
   日本……47・2%、
   韓国……41・2%

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 平たく言えば、現代の若い人たちは、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と考えている。
が、「経済的に余裕のある若い人」は、ほとんど、いない。
どの人も、目一杯の生活をしている。
結婚当初から、車や家具一式は、当たり前。
中には、(実際、そういう夫婦は多いが)、結婚してからも親からの援助を受けている夫婦もいる。
それについては、先に書いた。

 親のスネをかじりながら、「親のめんどうをみる」と答える、若い人たちの減少。
それと反比例する形で、ここに書いた、「ジジ・ババ・ゴミ論」がある。
両者を関連付けるのは、危険なことかもしれない。
しかし無関係とは、これまた言えない。

●祖父母と同居

 私自身は、3世代同居家族の中で、生まれ育った。
生まれたときから、祖父母と同居していた。
と言っても、当時は、それがごく平均的な家族であった。
「核家族」という言葉が生まれ、それが主流になってきたのは、1970年以後のこと。
夫婦と、その子どもだけの、「小さな家族」を、「核家族」と言った。

 当時はそれが珍しかったが、今では、それが主流。
若い人たちが「家族」というときには、そこには、祖父母の姿はない。

 現在、祖父母と同居している家族の割合は、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)

●「祖父または祖母と同居している」

   日本……20・6%、
   韓国……5・8%、
   アメリカ……3・1%、
   フランス……1・5%、
   イギリス……1・1%
 
 これらの数字を並べて解釈すると、こうなる。

(1)日本人は、親と同居している家族が、比較的多い(20・6%)。
子どもが生まれれば、3世代同居家族となる。
ただしこれには地域差が大きい。
地方の農村部では、多く、都市部では、少ない。

(2)老親は、子どもに老後のめんどうをみてもらいたいと考えている(47・2%)。
が、若い人たちには、その意識は薄い。
世界でも、最低レベルとなっている(28・3%)。

(3)「核家族」という家族形態は、欧米化の1態ということが、この数字を見てもわかる。つまり、家族の欧米化が、現在、急速に進んでいる。
ただし欧米では、各地に「老人村」があるなど、老人対策が充実している。
一方、この日本では、老人対策がなおざりにされたまま、欧米化が進んでしまった。
その結果が、独居老人、さらには孤独死、無縁死の問題ということになる。

 なおこの数字について、一言、付け加えておきたい。

●オールド・マン・ビレッジ

 この日本では、祖父もしくは祖母と同居している家族が、20・6%もある。
ダントツに多い。
で、この数字だけを見ると、日本のほうが、若い世代が老親のめんどうをみているように考える人がいるかもしれない。
しかし実際には、欧米では、老人のほうが若い人たちとの同居を、拒む傾向がある。
社会制度そのものもちがう。

 たとえばオーストラリアなどでは、どんな小さな町(タウン)にも、町の中心部に「オールド・マン・ビレッジ」というのがある。
老人になると、みな、そこに移り住んでいく。
興味深いのは、たいてい幼稚園が隣接していること。
老人と幼児の組み合わせは、たがいによい影響を与えあう。

で、いよいよ自活できなくなると、日本でいう、特別養護老人ホームへと移っていく。
そういうしくみが完備しているから、「同居」ということは、少なくとも欧米人の思考回路の中にはない。

 この数字を読むときは、そういったちがいも、考慮に入れなければならない。

●「団塊の世代は敵」?

 さらにショッキングなことがつづく。
あるBLOGの中に、「団塊の世代は敵」と書いてあるのが、あった。
「敵」は、「カタキ」と読むのだそうだ。
これには驚いた。

 私たち団塊の世代は、感謝されこそすれ、「敵」と思われるようなことは、何もしていない。
そのつもりでがんばったわけではないが、現在の日本の繁栄の基礎を作ったのは、私たち。
そういう自負心も、どこかにある。
その私たち団塊の世代が、敵?

 こうした感覚を理解するためには、視点を一度、若い人たちの中に置いてみる必要がある。
なぜか?

 その理由の第一が、現在の若い人たちは、「貧しさ」を知らない。
生まれたときから、「豊かな生活」がそこにあるのが当たり前……という前提で、育っている。

 が、若い人たちを、責めてはいけない。
たとえば現在、70代の人たちは、こう言う。
「団塊の世代はいい気なもんだ。オレたちが命がけで敷いたレールの上を走っているだけではないか」と。

 私たちはいつも、過去を踏み台にして、現在を生きている。
その現在に視点を置き、「自己中心的な、現在中心論」で、ものを考える。
そういう視点で見ると、私たち団塊の世代は、この日本の繁栄を、ぶち壊してしまった。
少なくとも、若い人たちは、そういう目で、私たち、団塊の世代をながめている。

 前にも書いたように、意識というのは、そういうもの。
立場によって、相対的にちがう。

●ゴミ

 私たちは、否応なしに、ゴミになりつつある。
またそういうふうに扱われても、抵抗できない。
体力も気力も、とぼしくなってきた。
若い人たちから見ると、私たちの世代は、毎日、遊んでばかりいるように見える。
昔、……といっても、もう30年以上も前のことだが、こう言った高校生がいた。

「老人は、役立たず」と。

 当時の私は、この言葉に猛烈に反発した。
……そう言えば、それについて書いた原稿がどこかにあるはず。
探してみる。

 日付は2010年2月になっている。
当時、私はひとつの理由として、「受験競争」をあげた。
受験競争を経験した子どもは、総じて、心が冷たくなる。
私はそれを実感として、現場で、日々に強く感じている。

●常識?

 意識はたしかに変化した。
あのアルバート・アインシュタインは、こう書いた。

『常識などというものは、その人が18歳のときにもった偏見のかたまりである』と。
そう、まさに、そう。
同時に、常識などというものは、相対的なもの。
A氏にとっての常識は、B氏にとっては、非常識。
B氏にとっての常識は、A氏にとっては、非常識。
こうした意識のちがいが、世代間で、起こることがある。

 私がその変化というより、落差を感じたのは、あの尾崎豊が「♪卒業」を歌ったときのことである。
私たちの世代(戦後生まれ)にとっては、青春時代は、「反権力」が、生き様のテーマになっていた。
が、尾崎豊の時代になると、それが「反世代」へと変化した。

●ああ、父親たるものは……!

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。

 また「父親のようになりたくない」は、78・8%、「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

 念のため、資料をもう一度、整理しておく。
親たる者、この数字をじっくりとながめてみたらよい。

「父親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。

「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%。

 この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。

 この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。

●それから14年

 先の調査から、14年が過ぎた(2012年)。
で、先ほどまで最近はどうなったか、それを調べてみた。
便利になったものだ。
ネットで検索をかければ、即座に情報を手に入れることができる。
それに内閣府(旧総理府)は、数年ごとに同じような調査を繰り返している。
そのため青少年の意識のちがいや変化を、数字として知ることができる。

 が、私が調べた範囲では、平成10年以後、同じような調査がなされた形跡がない。
だからこの調査結果を基に考えるしかない。
またそのころ中高生だった子どもたちが、現在、ちょうど逆の立場で、子育てをしていることになる。

●繰り返される親子関係

 『子育ては本能ではなく、学習である』。
そういう視点で類推するなら、こうした意識は、つぎの世代へと連鎖していく。
つまり戦後の流れからすると、現在は、平成10年当時の調査結果より、悪化していると考えられる。

(それを「悪化」と言ってよいかどうかという問題もあるが……。
しかし家族というのは、たがいに尊敬しあっているほうがよい。
そういう点で、「悪化」という言葉を使った。)

●尾崎豊

 では、どこでどのようにして、世代の意識が大きく変わったか。
そのひとつとして、私は尾崎豊が『卒業』をあげる。
あの歌を聴いたとき、私はふつうでない衝撃を受けたが、あの時代前後が、その節目ではなかったか。
若い人たちが、自分たちより上の世代に反旗を翻した。

「親に何か言われると、ムシャクシャする」
「親にあれこれ指図されたくない」
「親の言うことは、イチイチ、うるさい」と。

 直接的には、親が何かを言おうとすると、「アンタには、関係ない」と突っぱねる。
それが「父親のようになりたくない」(78・8%)という数字と考えてよい。
約80%。
ほぼ全員!

 そこでそうした青少年が、今度は自分が親になる。
そしてこう覚悟する。
「私は私の親とはちがう」
「私はすばらしい家族を築く」
「よい親子関係を作る」と。

 が、現実は甘くない。
結局は、自分がしたこと(=思ったこと)と同じことを、その子どもたちが繰り返す。
子ども、つまり先の親から見れば孫たちが、こう言い出す。
「父親のようになりたくない」
「母親のようになりたくない」と。

 それを世代連鎖という。
だからこう言う。
『子育ては本能ではなく、学習』と。

●親の立場から

 どうであれ、子どもは10歳前後(小学3年生前後)から、親離れを始める。
この時期、(家庭)という束縛から自分を解き放ち、友人との(社会)に、自分の世界を移し始める。

 が、ほとんどの親はそれに気づかない。
ほとんどの親は、「私はすばらしい親だ」「私は子どもたちに慕われ、尊敬されている」と思い込んでいる。
が、これが思い込みであることは、数値の信頼性はさておき、先の「78・8%」という数字を見てもわかる。
言い換えると、それが「ふつう」ということ。
つまり、子どもに尊敬されようと思わないこと。
思っても意味はない。

 親は親で、自分の道を行く。
中には家族主義(たいていは行きすぎた家族主義)を信奉し、「家族こそすべて」と考える人も、いる。
「親子の太い絆こそ、何よりも大切」と。

 しかし親子というのは、皮肉なもの。
親のこうした気負いが強ければ強いほど、子どものほうはそれを負担に思う。
その負担感が、かえって、親子の間に溝を作る。
だから親は親で、自分の道を行く。
「子どものため」という義務感、犠牲心は、もたないほうがよい。
もっても、意味はない。
やるべきことはやるが、期待しない。
またそのほうが、結果的に、親子の絆は太くなる。
子どもも親を尊敬するようになる。
だからあのバートランド・ラッセルは、こう言った。

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、
けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。

 この言葉の中に、子育ての神髄が凝縮されている。

【はやし浩司よりAさんへ】

 つまりね、Aさん、あなたは親バカだっただけ。
そう、親バカ。
(私も含め、みんなそうですから、どうか気分を悪くしないでください。)
「子ども……」「子ども……」と、子ども中心の世界で、親バカなことをしてしまった。
それだけのことです。

 親バカ論については、どこかに書いた原稿があるはずですから、探してみます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●就職率50%

 大不況。
目下、進行中。
大卒の就職率も、50~60%とか。
事務所の隣人は、個人でリクルートの会社を経営している。
その隣人が、こう言った。

「実感としては、50%前後ではないですかね?」と。

つまり大卒のうち、2人に1人しか、就職できない。
きびしい!

 浜松市といえば、昔から工業都市として知られている。
HONDA、SUZUKI、YAMAHAなどの各社は、この浜松市で生まれた。
その浜松市でも、「50%」(2011)!

●親、貧乏盛り

 『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。
私が考えた諺(ことわざ)である。

 で、子どもを大学へ送ることは、得か損かという計算をしてみる。
・・・といっても、学部によって、大きく、異なる。
医学部のばあい、勤務医になれば、勤務後2~3年目には、年収は2000万円を超える。
開業医になれば、月収は500万円を超える(2011年)。

 一方、文科系の学部のばあい、学費も安いが、その分、学歴も、ティシュペーパーのように軽い。
英文学部にしても、高校の教科書より簡単なテキストで勉強しているところは、いくらでもある。
そんな学部を出ても、実際には、何ら、役に立たない。

 全体としてみると、それなりの資格のともなった学歴であれば、得。
資格をともなわない、ただの学歴であれば、損。
その結果、就職率50%ということになれば、何のための苦労だったのかということになる。

●3人に1人が、高齢者

 3人に1人が、高齢者。
そんな時代が、すぐそこまでやってきている。
現在、40歳以上の人は、老後になっても、満足な介護は受けられないと知るべし。
実際には、不可能。

 となると、自分の老後は、自分でみるしかない。
つまりそれだけの蓄(たくわ)えを用意するしかない。
で、たいていの人は、「自分の子どもがめんどうをみてくれる」と考えている。
が、今、あなたが高齢になった親のめんどうをみていないように、あなたの子どもも、またあなたのめんどうをみない。

 60%近い若者たちは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
(この数字とて、ほぼ10年前の数字。)
実際には、みな、目一杯の生活をしている。
経済的に余裕のある人など、いない。
若い世代では、さらにいない。

●反論

 こうした私の意見について、はてなBLOGのほうに、こんな書き込みが届いた。
 が、千葉県に住む、EH氏は、こう書いてきた。
タイトルは、「阿呆(あほう)」。

『老後の自分の面倒を見てもらうために、愛情もない相手と結婚して、子どもを作り、育てるってことですかね。
そんな世界で生きていて、なんの価値があるのでしょう。
世の中は地球規模で変化をし、進化をしているのです。
夫婦、家族、恋愛…… 全ての形が多様化しているのです。
新旧色々あってよいじゃないですか。

結局、はやし先生は御自分の意見が正しいと思い切り主張していて、読んでいてがっかりです。
ちなみに私は、子どもがどこでどんな生き方をしてもよいと言える親をずっと目ざします。
子どもには子どもの人生があるのですから。
それを家族崩壊とは思いません。

むしろ、親の面倒で子どもを縛りつけている方が家族崩壊じゃないのですか?
親の近くにいようが遠くにいようが子どもがよい人間で幸せなら、親としても幸せなはず。
はやし先生は子離れできていないのですね。
そんなに親の面倒を子どもが見るのが当たり前だと思うのなら、ご自分のお子さんに「私の面倒をみろ」と、言ったらよいのに!

 千葉 EHより』と。

 たぶん、まだ老親のめんどうをみたことも、介護もしたこともない若い父親が、こういうことを平然と言ってのけるから、恐ろしい。
また老親のめんどうをみるつもりもないだろうし、介護もするつもりもないだろう。
私がEH氏の親なら、めんどうをみてもらうのも、介護をしてもらうのも、こちらから願い下げる。
想像するだけで、ぞっとする。
EH氏は、こう書いている。

「自分の老後の面倒をみてほしかったら、息子や娘に頼め」と。
「頼め」というところが、恐ろしい。
それともEH氏は、自分の子ども(息子あるいは娘)に対して、日ごろ、こう言っているのだろうか。

 「自分のめんどうをみてほしかったら、親の私に頼め」と。
またそういう親子関係を、「地球規模の変化であり、進歩である」と。
その上で、「子どもが親のめんどうをみることは、「束縛(拘束)」である、と。

 ここに出てくる「家族崩壊」については、またあとで詳しく書く。

●親バカ

 こうして順に考えていくと、子どもに学費をかけることが、いかに無駄かがわかってくる。
……というのは書き過ぎ。
それはよくわかっているが、団塊の世代なら、この意見に同意する人も多いのでは?
あえて言うなら、子どもを遊ばせるために、その遊興費を提供するようなもの。
が、何よりも悲劇なのは、そのためにする親の苦労など、今時の大学生には通じない。
当たり前。
「電話をかけてくるのは、お金がほしいときだけ」というのは、親たちの共通した認識である。

 むしろ逆に、(してくれないこと)を、怒る。
「みなは、毎月20万円、送金してもらっている。10万円では生活できない」
「どうして新居の支度金を出してくれないのか」と。

 保護、依存の関係も行き過ぎると、そうなる。
保護される側(子ども)は、保護されて当然と考える。
一方、保護するほうは、一度、そういう関係ができてしまうと、簡単には、それを崩すわけにはいかない。
罪の意識(?)が先に立ってしまう。

 どこか一方的な、つまり否定的な意見に聞こえるかもしれないが、こうして世の親たちは、みな、つぎつぎと親バカになっていく。

●老後の用意

 しかし私たちの老後は、さみしい。
蓄(たくわ)えも乏しい。
社会保障制度も、立派なのは、一部の施設だけ。
3人のうちの1人が老人という世界で、手厚い介護など、期待する方がおかしい。
となると、自分の息子や娘たちに、となる。
しかし肝心の息子や娘たちには、その意識はまるでない。

 ある友人は、こう言った。
「うちの息子夫婦なんか、結婚して3年目になるが、嫁さんなど、来ても、家事はいっさい手伝わない。いつもお客様だよ」と。

 別の友人もこう言った。
その友人の趣味は魚釣り。
そこで釣ってきた魚を、嫁に料理をさせようとしたら、こう言ったという。
「キモ~イ、こんなこと、私にさせるのオ?」と。

●何かおかしい?

 否定的な話ばかりとらえた。
が、何か、おかしい。
何か、まちがっている。
しかし今は、そういう時代と思って、その上でものを考えるしかない。
子どもたちというより、その上の親たちが、そういう世代になっている。
その親たちに向かって、「子育てとは……」と説いても、意味はない。
言うなれば、ドラ息子、ドラ娘になりきった親たちに向かって、ドラ息子論、ドラ娘論を説くようなもの。
意味はない。

 言い換えると、私たち自身が、「甘えの構造」から脱却するしかない。
「子どもたちに依存したい」「依存できるかもしれない」「子どもたちが世話をしてくれるかもしれない」と。
そういう(甘え)から、脱却するしかない。
さらに言えば、「私たちの老後には、息子や娘はいない」。
そういう前提で、自分たちの老後を考える。

●私のケース

 私の息子たちが特殊というわけではない。
見た目には、ごく平均的な息子たちである。
中身も、ごく平均的な息子たちである。
だからこう書くといって、息子たちを責めているわけではない。
しかしときどき会話をしながら、その中に、「老後の親たちのめんどうをみる」という発想が、まったくないのには、驚く。
まったく、ない。
むしろ逆。
こう言う。

「相手の親(=嫁の親)は、~~してくれた」「どうしてパパ(=私)は、してくれないのか?」と。

 息子夫婦にしても、「家族」というのは、自分と自分たちの子どもを中心とした(親子関係)をいう。
目が下ばかり向いている。
が、それはそれでしかたのないこと。
息子たちは息子たちで、自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
私たち夫婦だって、そうだった。
が、それでも、お・か・し・い。

●満62歳にして完成

 ・・・こうして親は、子離れを成しとげる。
(甘え)を、自分の心の中から、断ち切る。
そして一個の独立した人間として、自分の老後を考える。

 というのも、私たちの世代は、まさに「両取られの世代」。
親にむしり取られ、子どもたちにむしり取られる。
最近の若い人たちに、「ぼくたちは、収入の半分を実家に送っていた」と話しても、理解できないだろう。
それが当たり前だった時代に、私たちは、生まれ育った。

 が、今は、それが逆転した。
今では子どもの、その子ども(つまり孫)の養育費まで、親(つまり祖父母)が援助する。
それが親(つまり祖父母)ということになっている。

 が、そこまでしてはいけない。
このあたりでブレーキをかける。
かけなければ、この日本は、本当に狂ってしまう。
(すでに狂いぱなし、狂っているが・・・。)

 少し前も、私は「車がほしい」というから、息子に、現金を渡してしまった。
それで私たちは、H社のハイブリッドカーを買うつもりだった。
それについて、まずオーストラリアの友人が、「渡してはだめだ」と忠告してくれた。
義兄も、「ぜったいに、そんなことをしてはだめだ」と言った。
「息子のほうが、今までのお礼にと、新車を買ってくれるという話ならわかるが、逆だ」と。

 私も親バカだった。
息子たちに怒れるというよりは、自分に怒れた。
『許して忘れる』は、私の持論だが、これは自分以外の人について言える。
しかし自分に対しては、言えない。
自分を許し、忘れることはできない。

が、それが終わると、私の心はさっぱりとしていた。
息子たちの姿が、心の中から消えていた。
はやし浩司、満62歳にして、子離れ完成、と。

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言って笑った。
「あなたも、やっと気がついたのね」と。

●親バカにならないための10か条

(1)必要なことはしろ。しかしやり過ぎるな。
(2)求めてきたら、与えろ。先回りして与えるな。
(3)一度は、頭をさげさせろ。「お願いします」と言わせろ。
(4)子どもに期待するな。甘えるな。
(5)親は親で、自分の人生を生きろ。子どもに依存するな。
(6)社会人になったら、現金は、1円も渡すな。
(7)嫁や婿の機嫌を取るな。嫌われて当然と思え。
(8)自分の老後を冷静にみろ。無駄な出費をするな。
(9)遺産は残すな。自分たちで使ってしまえ。
(10)少なくとも子どもが高校生になるころには、子離れを完成させろ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ただし恨んではいけない

 が、ひとつだけ気をつけてください。

 私は『許して・忘れる』という言葉をよく使います。
しかしそれは自分以外の人に対して使う言葉。
が、「私」に対しては、どうか?
私に対して、『許して・忘れる』ことは、できるか?

 結論は、「NO!」です。
自分を許して、忘れるということはできない。
これは私の経験によるものです。
そこで「愛」は、一気に、「憎」に向かいます。
「愛憎は紙一重」というのは、そういう意味です。

 が、「憎しみ」は、たいへん危険です。
自分の心を腐らせます。
それについては、もう少しあとに書いてみます。


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