2012年6月6日水曜日

On Cosmetic Surgery

【BW教室byはやし浩司より】

●年長児(数の勉強+プロレス)



●小2児(植木算)




Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【整形という背徳】(はやし浩司 2012-06-06)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

街を歩いていた。
一団となった若い女性たちと、すれちがった。
その近くにある○○専門学校の学生たちだった。
そのときのこと。

その中に、たまたま3人の女性が並んで歩いていた。
それを見て、……というか、オッと驚き、その3人を、まじまじと見てしまった。
3人とも、異様な顔つきをしていた(失礼!)。
額のすぐ下から、みな、まるで三角定規でもあてたかのような鼻をしていた。
高い鼻にはちがいない。
が、日本人離れしているというより、不自然。
明らかに整形顔。

私の横を通り過ぎるまで、私はかわるがわる3人の鼻を見た。
まじまじと見た。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●両目の瞳(ひとみ)

 鼻というのは、両目の瞳(ひとみ)を結んだあたりで、もっとも低くなる。
(実際には、両目の瞳の上を結んだあたりで、もっとも低くなる。)
進化論的に考えても、合理性がある。
これには欧米人も、東洋人もない。
左右を見るとき、鼻があっては、じゃまになる。
そのためそのあたりが、もっとも低くなっている。

 が、整形で鼻をいじると、とたんに「不自然」になる。
左右の目の間に、塀を立てたようになる。

が、今では、こうした整形自体が、ファッションのようになっている。
みな、している。
が、鼻の低い人が高くするのは、理解できる。
が、高い人まで、さらに高くする。
こうしてあの独特の顔つきが生まれる。

●会議場の中の旗(板門店)

 韓国へ行くと、38度線上にある板門店を見学することができる。
ちょうど国境上に会議場がある。
その会議場の中には、大きなテーブルがある。
テーブルの中央で、南と北に分かれている。
そのテーブルの上。

 そこには韓国の旗と、北朝鮮の旗が、小さな台の上に立っている。
旗の棒の長さと大きさは同じだが、台の高さがちがう。
韓国側の旗の台は、2段。
北朝鮮側の旗の台は、3段。
つまり1段分だけだが、北朝鮮の旗のほうが高い。

 聞くところによると、会議のたびに、北朝鮮側は、1段、2段、3段……と、旗の段をふやしていったという。
いかにも北朝鮮らしい、バカげた話である。
が、見栄を張る国は、そこまで気をつかう。

 その旗の台と同じに考えるのもどうかと思う。
が、私は女性たちの、不自然な形の鼻を見るたびに、あの旗の台を思い出す。

 旗の台と、整形した鼻。
どこがどうちがうというのか。

●人生観

 しばらくしてからワイフとこんな話をした。
「もし結婚したあと、自分の妻が整形していたと知ったら、夫はどう思うのかね」と。
「整形」といっても、ここでいうのは、美容整形。

ワ「整形の内容にもよるわね」
私「中には、もとの顔がわからなくなるほどまで、整形する女性もいるというよ」
ワ「私の知人にもいるわよ」
私「ダンナは、それに納得しているの?」
ワ「ダンナにもよるんじゃないかしら?」と。

 整形は美容の範囲なのか。
そのあたりから議論が始まる。
整形も美容の範囲だから、むずかしく考える必要はないと考える人もいる。
が、その一方で、整形は学歴詐称と同じと考える人もいる。
私もその1人。

私「それでね、相手の男性がその顔を見て、その女性を好きになったとするよね。
そのとき、その女性は、罪の意識を覚えないのかな?」
ワ「覚える人もいるでしょうし、反対に、うまくやったと喜ぶ人もいるかもしれないわよ」
私「ぼくはね、整形といっても、整形自体を問題にしているのではない。
整形に集約される人生観を問題にしている」
ワ「そこまで考えている人はいないわよ」
私「そうかなあ……。整形というのは、人生観そのものだよ」と。

●顔は履歴書

 「小沢一郎の隠し子スクープ」(MSNニュース)という記事の中に、こんな一節があった。

 『男の顔は履歴書と言ったのは大宅壮一さんだが、(それを受けて吉行淳之介さんが「女の顔は請求書」と)、人間の顔くらいおもしろいものはない』と。

 男の顔は、たしかに履歴書。
が、同じように女の顔も履歴書。
そのことは、50代になると、よくわかる。
60代になると、さらによくわかる。

 が、整形した顔というのは、その履歴書にならない。
お面をかぶるのと同じ。
美しいといっても、どこか人工的。

 ところで1970年代にも、整形というのは、あった。
当時は、二重まぶたにするとか、脇の脱毛手術をするとか、その程度のものだったが……。
が、中には、おおがかりな整形美容手術もなかったわけではない。
そのため、顔の形が崩れてしまった人もいるという。

たとえばそのつど、あごをほっそりと見せるため、頬の手術を繰り返した女性がいる。
その女性のばあい、加齢とともに、頬の皮が下へ垂れ、耳まで下へ下がってきてしまったという(某週刊誌)。

 ここで「整形した顔というのは、履歴書にはならない」というのは、それをいう。
つまりそれなりの生き方をしてきた人というのは、美しい。
顔の形や見た目ではない。
内から光り輝くように美しい。
たとえばマザーテレサ。
あの女性は、死ぬまで、まさに神々しいほどの美しさをたたえていた。

 が、整形すれば、そういった美しさを土台から崩してしまう。
20代、30代のころは、それでよいとしても、40代、50代になると、そうはいかない。
整形した部分だけが、不自然な形で、残ってしまう。
中には、鼻に入れた金属の棒が、筋となって現れたり、飛び出したりする人もいる。
そうなると、顔に、自分の履歴をぶらさげて歩くようなもの。
「私は、若いころ、かくかくしかじかの人間でした」と。

●美

 生き様だけではない。
本当の美とは何か。
そのあたりの哲学を、今の若い人たちは、自分で創り出すことさえできない。

 知的な美もあるだろう。
健康的な美もあるだろう。
それを磨く前に、手っ取り早く、見栄えだけの美を求めてしまう。

 そこで調べてみたが、鼻の整形手術といっても、プロテーゼ法、軟骨法、ヒアルロン酸注入法、ワシ鼻修正法、ダンゴ鼻修正法、鼻先修正法などがあることがわかった。

 もちろん保健医療の対象外だから、どの手術も高額。
が、どのサイトを調べてみても、具体的に費用が書いてあるところはなかった。
「~~が、0・1CCあたり、~~円」というのはあった。
が、私のような素人には、それがいくらなのか、見当もつかない。

 が、街で見かけた女性たちは、学生だったはず。
当然収入も限られているはずだから、その費用は親の負担となる。
言い換えると、親が承認していることになる。
(むしろ親が勧めているケースもあるかもしれない。
よい男を見つけ、うまく結婚にこぎつけることができれば、万事ハッピー。)

 今の時代に、「知的な美に金をかけろ」「健康的な美に金をかけろ」と言っても、無理なのかもしれない。
男も女も、「欲望」という名前の川の中で、溺れてしまっている。
自分を見失ってしまっている。

●ありのままの「私」

 先に「顔は履歴書」と書いた。
その結論部分を書き忘れた。

 ……やがて整形に集約される人生観が、その人の顔となる。
顔がまさに履歴書となる。
何も世間の批判を気にする必要はない。
が、50代、60代になったとき、その人は、毎日自分の顔を見ながら、どう思うだろうか。
「私は私の人生を生きてきた」と、果たして胸を張ることができるだろうか。
が、私の想像では、それはできないのではないかと思う。
「思う」だけで、確信はもてない。
しかし理由はある。

 私たちは、ありのままの「私」で生きる。
それがすべてのはじまり。
すべての終わり。
人生は一度しかない。
自分の力で、自分の顔で生きる。

 やがて美容整形はさらに進歩するだろう。
そのうち骨格や身長までいじることができるようになるかもしれない。
そうなったとき、「私」はどこへ行くのか。
心理学の世界にも、「仮面(ペルソナ)」という言葉がある。
ここでいう「整形」とは、中身はちがう。
しかし共通点がないわけではない。

 ……ということで、美容整形について考えてみた。
否定的な意見で、不愉快に思った人も多いかと思う。
しかしだれかがブレーキをかけないと、この先、さらにとんでもないことになってしまう。
ものの考え方が、質的に変化してしまう。
もちろん悪い方向に向かって……。

 いいのか、日本、このままで!

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ペルソナ(仮面)について書いた原稿を
探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫としての仮面など。
もちろん、商売には、仮面はつきもの。
いくら客に怒鳴られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。
ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。
陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわかる。
むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。
妻は、大卒のエリート。
都会の立派なマンションに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。
知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに仮面とシャドウの問題が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。
いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そう言うなら、まだ話がわかる。
しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。
日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。
「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。
身分制度が、そのまま学歴制度になり、さらに出身高校へと結びついていった。
街道筋の宿場町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしまう。
実は、これがこわい。
「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」と。
そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウで話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである
。名優、緒方拳が、みごとな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。
が、その榎津厳もさることながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。
それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。
榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。
そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。
映画を見た人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与える。
嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャンで、それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関係になる部分が、シャドウということになる。
主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりそのまま引き継いでしまった。
そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげた原動力になったとも言える。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ
。見抜くだけならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。
しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。
ついでにシャドウもつくらない。
いつもありのままの自分を見せる。
シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。
もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましいということになる。

(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

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●親の気負いの陰にあるもの

 不幸にして不幸な家庭に生まれ育った親ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」という気負いばかりが先行し、結果的に、よい家庭づくり、よい親子づくりに失敗しやすい。

 それを心理学の世界では、「シャドウ」という言葉を使って説明している。

 つまり子どもたちは、親のそのうしろにあるシャドウ(影)を見ながら、自分たちの心理を形成してしまうというわけである。

 ひとつの例として、こんな例を考えてみよう。
(例として、正しいかどうかは、まだよくわからないが……。)

 ある母親は、自分が、大学を出ていなかったことを、いつも、心のわだかまりとしていた。
そこでその母親なりに、努力した。
大学の公開セミナーなどがあると、積極的に参加していた。資格もいくつか、取った。

 しかし心のわだかまりは消えなかった。
学校の父母会の席などで、学歴が話題になったりすると、その母親は、いつも小さくなっていた。

 そこでその母親は、子どもの勉強にのめりこむようになった。
俗にいう、「教育ママ」になった。
テストの点数が少しでも悪いと、子どもを叱った。そして睡眠時間を削ってでも、そのテストのやりなおしを、させた。

 こういうケースのばあい、母親は、子どものためを思って、そうしているのではない。
自分自身の中にある、不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだけである。

 だから、子どもは、やがてすぐ、そういう親の下心を見抜いてしまう。
見抜くだけならまだしも、そのシャドウの部分だけを、引きついでしまう。

 で、たとえばその努力(?)のかいもなく、その子どもが、親の希望どころか、自分の希望ともほど遠い、CC中学に入ったとしよう。
ふつうなら、「どこの中学でも同じ」「またがんばればいい」というような、合理的な割りきりをしながら、親や子どもは、それを乗りきっていく。
が、シャドウを引きついだ子どもは、そうではない。

 自分はダメな人間だというレッテルを、自らに張ってしまう。

 「どうせ、私はダメ人間だ」「失敗者だ」「失格者だ」と。
さらにそういう思いが肥大化して、自己否定にまで進んでしまうかもしれない。
さらに自ら、自暴自棄になってしまい、二番底、三番底へと落ちていくかもしれない。

 要するに、親が子どもにきびしい学習を強いたとしても、子どもがそれを、「自分のために、親は、がんばってくれている」と感ずれば、子どもは仮に失敗しても、そこを原点として、また前向きに歩きだす。

 しかしそのシャドウを子どもが感じたとき、(たいていのケースでは、親自身も、そのシャドウに気づいていないことも多いが)、そのシャドウのもつ、邪悪な部分を、子どもは引きついでしまう。

 先のケースでいうなら、学歴や肩書きだけで人を判断したり、反対に、それがない自分を、異常なまでに、卑下したりするようになる。

 たしかに親の気負いが強ければ強いほど、その親は、よい家庭づくり、よい親子づくりに失敗しやすい。
それは、教育の世界でも常識である。
しかしなぜ失敗しやすいのか。その一つのヒントが、このシャドウにある。

 まだよくわからない点もあるので、ここに書いたことは、まちがっているかもしれない。
専門家の先生が読んだら、「おいおい、シャドウの意味がちがうよ」と言われるかもしれない。

 しかし一つのヒントの一口はつかんだように思う。
これから先、このシャドウの問題を、もう少し、掘りさげて考えてみたい。

 とっかかりとして、私やあなたには、どんなシャドウがあるか?
それを考えてみると、おもしろいのでは……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●超自我の世界

 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう一つの自我、つまり(超自我)があるという。

 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。

 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。
しかしあいにくと、お金がない。
それを手に入れるためには、盗むしかない。

 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人の自分が、「待った」をかける。
「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れられるぞ」と。
そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。

 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。
ボケ方にもいろいろあるようだが、ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。
つまりその老人は、気が向くまま、思いつくまま、行動するようになる。

 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。

 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであれば、それが超自我となって、その母親に作用するようになる。
母親は無意識のまま、それがよいことだと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。

 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわけではないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてしまう。
そしてそれが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離れていく。
「何だ、お母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。

 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子どもが、かえって、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放化したりすることなどがある。
非行に走るケースも珍しくない。

 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。
が、それだけでは、しかしではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。

 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。

 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のものにしてしまう。
もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであれば問題はない。

 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。
しかしたいていのばあい、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。
その醜い部分だけを、子どもが引きついでしまう。

 それがシャドウということか。

 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。

つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操っている、もう1人の(私)がいるということ。
簡単に考えれば、そういうことになる。

 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用しない。
つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。

 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子どもではなく、親自身の(超自我)ということになる。
昔から日本では、『子は親の背中を見て育つ』というが、それをもじると、こうなる。

 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。
親が自分をしつけないで、どうして子どもをしつけることができるのかということにもなる。

 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えてみたい。

(私の書いていることは、まちがっているかもしれないが、まちがっていれば、そのつど訂正することにして、今は、このまま原稿にしておく。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親の心を見ぬく、子どもたち

 『子は親の背中を見て育つ』とは言うが、同時に、子は、親の背中の奥まで、見ぬいてしまう。これがこわい。

 たとえばあなたが子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
そのとき、あなたは、子ども自身のためを思って、そう言っているだろうか。
それとも、自分のメンツや、見栄、世間体のためにそう言っているだろうか。
それを子どもは、あっという間に、見ぬいてしまう。

 フロイトは、「超自我」という言葉を使って、それを説明した。
子どもは、親をその背後から操っている超自我を見ぬいてしまうと。
日本語で言えば、「下心」ということになるが、そんな簡単なものではない。
奥は、もっと深い。親の人間性そのものまで、見ぬいてしまう。

 見ぬくというよりは、感性として、それを判断するといったほうが正しいかもしれない。
親は無意識のまま、仮面(ペルソナ)をかぶる。
その仮面を、子どもは、無意識のまま、身ぬく。
親は、「子どももには、そんなことはできない」と思っているかもしれないが、子どもは、親が考えているより、はるかに敏感である。私の例で考えてみよう。

 私が高校生のときのこと。
進路指導の個別面接があった。
その教師は、あれこれと私の成績をながめながら、「君なら、できる」「がんばれる」「やればできる」と励ましてくれたが、どこかおかしい(?)。
へん(?)。
その教師は、本当に私のことを思って、そう言っていたのではない。
進学率を高めるためにそう言っていた。
それに私はそのとき、気づいた。
と、同時に、その教師への信頼感は、こなごなに消えた。

 その教師にしてみれば、有名大学へ何人、生徒を送りこむかが重要であった。
学校の「実績」をあげるためである。
そのため私のばあい、高校2年から3年にかけて、無理やり、理科系から文科系へ、転向させられてしまった! 
「君なら、K大の工学部は無理だが、K大の文学部になら、入れる」と。
今から思うと、悲劇としか言いようがない。

 これは教師と私との話だが、親子の間では、関係が一度こじれると、ことは深刻。
親子であるがゆえに、問題は、底なしにこじれる。
が、それだけではすまない。
子ども自身が、親のシャドウ(影)に苦しむことになる。

 具体的に、あれこれということではない。
しかしもっと抽象的、観念的な生きザマまで、親から子どもへと、すべてが伝わってしまう。
「学習」というなまやさしいものではない。
子どもの心に、親の超自我が、そっくりそのまま、しみこんでしまう。

 たとえば善悪の感覚、判断能力、倫理観や道徳観など。
親がたとえば、小ずるい人間であったとすると、子どもも、小ずるくなる。
親を反面教師として、別の人格をつくりあげる例もないわけではない。
しかしそのばあいでも、その子どもは、ほかの子どもたちよりも、何倍も苦労をしなければならない。
たとえばほかの子どもなら、自然な形で身につける善悪感についても、不要な葛藤を繰りかえすことになる。

 たとえば親が、駐車場でもないところに平気で車を止めたり、あるいは赤信号でも無視して、車を走らせていたとする。
そういった善悪感は、そっくりそのまま子どもに伝わってしまう。

 そういう親をもった子どもは、不幸である。
生活のあらゆる場面で、その小ずるさが顔を出す。
そのため、一事が万事。長い時間をかけて、その子どもは、善良な世界から、遠ざかってしまう。
気がついたときには、まわりは、悪人だらけということにも、なりかねない。

 そこでフロイトは、人間がもつ良識や良心は、その「超自我」の中で、つくられると考えた。
その中で作られた良識や良心が、その人の生きザマを基本的な部分で、決定づける、と。

 このことは、自分の経験に照らしあわせてみると、よくわかる。

 たとえば道路に、1000円札が落ちていたとする。
そのとき、「私」、つまり、「私としての自我」は、そのお金をほしいと思う。
「拾ってもっていこう」と思う。

 しかしそれにブレーキをかける「私」もいる。
「お金がほしい」というのが、自然な「私」であるとするなら、「もらってはだめ」とブレーキをかけるのは、「私」を超えた「私」ということになる。

 その「私を超えた私」は、自分自身でつくっていくものというよりは、生まれ育った環境の中で、つくられていくものということになる。
もちろんそれをつくっていくのは、親だけではない。
しかし実際には、乳幼児期までには、その方向性が決まってしまう。
そのことを考えるなら、親の責任は、きわめて重大ということになる。

 よく誤解されるが、こうした倫理観や道徳観は、学校での勉強などによって、身につくものではない。
道徳のテストで、すばらしい点数を取ったからといって、その子どもが、善人というわけではない。

 こんなテスト問題があった。小学1年生の問題である。

Q……お母さんが、台所で料理をしていました。
それを見たあなたは、どうしますか。

(1) 手伝う。
(2) そのまま遊んでいる。
(3) どこかへ遊びに行く。

 正解は(1)ということになるが、実際に、料理を手伝うかどうかは、別問題である。
つまりこういうテストで、よい点をとったからといって、その子どもの人格がすぐれているということにはならない。
要領のよい子どもなら、よい点を取るため、(1)に丸をつけるだろう。

 こんな例もある。

 私の知人に、K氏という人がいる。
当時、32歳。

 ある日、K氏のところに、K氏の母親から電話がかかってきた。
「Z氏がもっている、山林を買ってやってほしい」と。

 Z氏というのは、母親の実兄、つまりK氏の伯父である。
値段を聞くと、800万円だという。さらに話を聞くと、「本当は、2000万円くらいの価値がある」と。

 K氏は、お金を集めて、その山林を、800万円で買った。
しかし、その山林は、それから30年近くたった現在ですら、200万円にもならない山林だった。

 母親は、伯父と結託して、息子のK氏をだました。
だまして、当時、80万円でもよい値段の山林(地元の森林協同組合の職員)を、K氏に800万円で売りつけた。

 世の中には、親をだます子どもは、いくらでもういる。
しかし子どもをだます親も、珍しくない。
しかもそのあとも、伯父なる人物は、毎年、K氏に、8~10万円の管理費を請求してきたという。

 K氏は、こう言う。
「おそらく、母は、伯父から、いくらかのペイバック(謝礼)を受け取っているはずです。
母も、伯父も、昔から、そういう人間です」と。

 が、問題は、そのことではない。

 そういう母親をもったK氏自身も、母親から、そういう人間性を引きついでいた。
K氏はこう言う。

 「私の体質の中に、実は、母や伯父の体質がしみこんでいるのですね。
私は、母と伯父に800万円、だまし取られましたが、私も、ひょっとしたら、そういうことが平気でできる人間なのです。
ときどき、そういう自分が、こわくなります」と。

 K氏は、今も、自分自身のシャドウ(影)に苦しんでいる。

 以上、私は、超自我について書いてきた。
シャドウについても書いてきた。
その前には、(私であって私でない部分)について書いてきた。
さらに仏教で教える、末那識(自分の奥底に潜んで、自分を操るエゴ)についても、書いてきた。
もちろん心理学でいう、潜在意識という考え方もある。

これらは結局は、すべて、(私)を知る手がかりということになる。

 「私のことは、私が一番よく知っている」と言う人は多い。
しかし本当のところ、(私)を知るのは、簡単なことではない。
そのことだけでも、わかってもらえれば、うれしい。

(はやし浩司 超自我 末那識 シャドウ 仮面 ペルソナ)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
●日本人のアイデンティティ
 
 日本人は、日本がどうあるべきだと思っているのか。
どうあったらよいと考えているのか。

 日本人が、日本人としてしたいことと、日本が今、進んでいるべき道が、一致していればよい。
問題は、ない。
心理学の世界にも、アイデンティティ(自己同一性)という言葉がある。

 (自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致していれば、その子どもは、落ちついている。
安定している。これを、アイデンティティという。
が、ときとして、その両者がかみあわなくなるときがある。

 A君(小学3年生)は、「おとなになったら、サッカー選手になりたい」と思っていた。
地元のサッカークラブでも、そこそこに、よい成績を出していた。
が、そこへ進学問題がからんできた。まわりの子どもたちが、進学塾に通うようになった。

 A君は、それでもサッカー選手になりたいと思っていた。
が、現実は、そうは甘くなかった。
4年生になったとき、さらに優秀な子どもたちが、そのサッカークラブに入ってきた。
A君は、相対的に、目だたなくなってしまった。

 ここでA君は、(自分の進みたい道)と、現実とのギャップを、思い知らされることになる。
が、こうした不一致は、ただの不一致では、すまない。

 A君は、心理的に、たいへん不安定な状態に置かれることになる。
いわゆる「同一性の危機」というのが、それである。
が、さらに進学の問題が、A君に深くからんできた。
母親が、A君にこう言った。

 「成績がさがったら、サッカーはやめて、勉強しなさい」「サッカーなんかやっていても、プロのサッカー選手になるのは、東大へ入ることより、むずかしいのよ」と。

 子どもというのは、自我に目覚めるころから、自分のまわりに、(自分らしさ)をつくっていく。
これを役割形成という。
が、その(自分らしさ)がこわされ始めると、そこで役割混乱が起きる。

 それは、心理的にも、たいへんな不安定な状態である。

 たとえて言うなら、好きでもない男と、妥協して結婚した、女性の心理に近いのではないか。
そんな男に、毎夜、毎夜、体を求められたら、その女性は、どうなる?

 こうしてアイデンティティの崩壊が始まる。

 一度、こういう状態になると、程度の差もあるが、子どもは、自分を見失ってしまう。
いわゆる(だれでもない自分)になってしまう。
自分の看板、顔、立場をなくしてしまう。
が、そこで悲劇が止まったわけではない。

 A君は、進学塾に通うことになった。
母親が、「いい中学へ入りなさい」と、A君を攻めたてた。
A君は、ますます、自分を見失っていった。

 こういう状態になると、子どもは、つぎの二つのうちの、一つを選択することに迫られる。

 (だれでもない自分)イコール、無気力になった自分のままで、そのときを、やりすごすか、代償的な方法で、自分のつぎの道をさがし求めるか。

 代償的な方法としては、攻撃的方法(非行など暴力的行為に走る)、服従的方法(集団を組み、だれかに盲目的に服従する)、依存的方法(幼児ぽくなり、だれかにベタベタと依存する)、同情的方法(弱々しい自分を演じて、いつもだれかに同情を求める)などがある。

 ふつうこの時期、多くの子どもたちは、攻撃的方法、つまり非行に走るようになる。
(だれでもない、つまり顔のない人間)になるよりは、(害はあっても、顔のある人間になる)ことを望むようになる。

 この時期の子どもの非行化は、こうして説明される。

 で、自分の存在感をアピールするために、学校でわざと暴れたりするなど。
このタイプの子どもに、「そんなことをすれば、みんなに嫌われるだけだよ」と諭(さと)しても意味はない。
みなに恐れられること自体が、その子どもとっては、ステータスなのだ。

 これは子どもの世界の話である。

 で、日本人も、今、私の印象では、その「同一性の危機」の状態にあるとみてよい。
(日本人として、したい道)と、(進んでいる道)が、一致していない。
そのため日本人全体が、今、たいへん不安定な心理状態にある。

 民主主義国家として、平和と自由を愛する国民になるのか、それとも、復古主義的な流れの中で、武士道に代表される過去の日本にもどるのか。
Y神社を参拝して、戦前の軍神たちに頭をさげるのか。
つまりはわけのわからない状態の中で、混沌(こんとん)としている。

 だから中国や韓国で、反日運動が起きても、「どうしたらいい……」と、ただ右往左往するだけ。
自分の主張すら、ない。ないから、声をあげることもできない。

 では、どうするか。

 私は、もう過去の日本とは決別をして、自由と、平和と、平等の三つを旗印にかかげ、国際化のうねりの中で、まっしぐらに前に進むしかない。
その向こうにあるのは、かつて200年前にカントが提唱した、世界国家である。コスモポリタンである。

 はからずも今朝(4・21)、オーストラリアのハワード首相が、日本との間で、FTA(自由貿易)協定を結ぼうと提唱したというニュースが、飛びこんできた。
オーストラリアは、イラクの自衛隊を保護するために、オーストラリア軍を派遣してくれた。

 そういう国もある。(Advance Australia!)

 そういう国の存在を信じて、前に進む。
それこそが、まさに日本のアイデンティティの確立につながる。

 ついでに一言。
よく「アイデンティティ」という言葉を使って、「武士道こそが、日本人が誇るべき、アイデンティティだ」と説く人がいる。

 しかしそもそも言葉の使い方が、まちがっている。
そういう人は、アイデンティティというのは、個性のことだと思っている。
さらに言えば、武士道など、日本人が誇らなければならない精神でも、なんでもない。

 わずか数%の、為政者たちが、刀を振り回して、大半の民衆を虐(しいた)げてきた。
その中で生まれた、自分勝手な論理と精神訓、それが武士道である。
あえて言うなら、官僚道、役人道ということになる。

 自分たちの先祖は、その大半が、武士とは無縁の、町民や農民であった。
そういう立場を忘れて、150年たった今、自分が武士にでもなったつもりで、武士道をたたえるのは、どうかと思う。
少なくとも、私はついていけない。

 もちろん文化は文化だし、歴史は歴史。
だからそれなりに尊重はしなければならない。
が、それを今、もちだす必要は、どこにもない。
改めて日本の「柱」にしなければならない理由など、どこにもない。

 私たちが進むべき道は、前にある。うしろではない。

 日本人の心を、発達心理学にからめて、考えてみた。

(はやし浩司 日本人 アイデンティティ 自己同一性)

(追記)

 農業問題もあるが、オーストラリア、シンガポールと、自由貿易協定を結べば、それ自体が、韓国、中国にとっては、たいへんな脅威になる。

 日本には、ほかに、ブラジルがある。
インドがある。
アメリカも、カナダもある。
EUもある。

 日本は、決して孤立していない。

 去年、オーストラリアの友人(国防省勤務)が、メールで私にこう書いてきた。
(このことは、当時のマガジンに原稿として書いた。)

 「ヒロシ、日本が、K国に攻撃されたら、オーストラリアは、自動的にK国を攻撃することになっている。
安心しろ」と。
日本とK国の間の緊張感が、極度に高まっていたときでもある。

 私はそのメールをもらったとき、どういうわけか、涙が出るほど、うれしかった。
そういう心が、今回の、オーストラリア軍のイラク派遣へと、具体的につながっている。
日本の自衛隊を守るために、だ。

 韓国のN大統領よ、日本は、決して世界から、孤立なんかしていないぞ! 
バカめ! 
孤立させたいのは、N大統領、実は、あなた自身ではないのか! 
中国で反日運動が起きたとき、イの一番に、「これで日本の安保理入りは、流れた」と喜んだのは、どこのどなたでしたか? 
私たち、日本人は、それを忘れないぞ!

 ……とまあ、たがいに、敵意を育てていてもしかたないですよね。
しかしね、N大統領、日本人も変わりましたよ。
どうか戦前の日本人のイメージのままで、今の日本人を見ないでください。
くれぐれも、よろしくお願いします。

 やがていつかすぐ、日本と韓国が、FTA協定を結ぶことになると思います。
そういう時代は、すぐそこまできています。
そういう共通の目標に向って、いっしょに、前に進もうではありませんか。
(050421)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

● 仮面(ペルソナ)とシャドウ

 仮面(ペルソナ)をかぶると、その反作用として、心の奥にもう1人の、別の人格が生まれる。
それをシャドウという(ユング)。
たいていは、無意識のまま生まれる。
そしてそのシャドウ(影)に気づく人は、少ない。

 たとえば牧師、僧侶、そして教職者。
それほど善人でもない人間が、無理をして善人ぶると、その反作用として、その人の心の向こうに、シャドウができる。
そのシャドウに、自分の中のイヤな部分を押しこめることによって、表面的には、善人を装うことができる。

 そのためたいていのばあい、そのシャドウは、邪悪で、薄汚い。
その奥では、ドロドロとした人間の欲望が、ウズを巻いている。

 反対に、善人でも仮面をかぶれば、理屈の上では、シャドウができることになる。
しかし善人が、仮面をかぶるということは、あまりない。
そのため善人の心の奥に、シャドウができるということは、少ない。
ふつう仮面(ペルソナ)というのは、悪人が、自分の心を隠すために、かぶる。

 そこでそのシャドウを、いくつかに分類してみる。

(1)仮面とは正反対の、本性としてのシャドウ。
(2)劣等感を補償するためのシャドウ。
(3)優越感を保護するためのシャドウ。

 たとえば、牧師。もちろん大半の牧師は、善良な人である。
しかし中には、いつも自分の心をごまかしている人もいる。
邪悪な心を押し隠しながら、人前では、あたかも神の僕(しもべ)のようなフリをして、説法をする。

 このタイプの人は、正反対のシャドウを、自分の中につくりやすい。
(本当は、そちらのほうが本性ということになるのだが……。)

つい先ごろ(05年4月)、大阪に住む、あるキリスト教会の牧師が、少女たちにワイセツ行為を繰りかえしていたという事件が発覚した。
被害者は、30数名以上とも言われる。
体を清めるとか何とか言って、少女たちを裸にして、そのあと好き勝手なことをしていた。
とんでもない牧師がいたものだが、牧師であるがゆえに、かえって邪悪なジャドウが、増幅されてしまったとも考えられなくはない。

 その牧師のばあい、牧師という顔そのものが、仮面(ペルソナ)ということになる。
ふつう、シャドウはシャドウとして、その人の陰に隠れて姿を現さないものだが、その牧師のばあいは、反対に、シャドウのほうに、自分が操られてしまったことになる。

 ほかに、手鏡で若い女性のスカートの中をのぞいていた大学教授もいた。
マスコミの世界でも著名な教授であった。
こうした人たちは、世間的にもちあげられればあげられるほど、善人という仮面をかぶりながら、その裏で、仮面とは正反対のシャドウをつくりやすい。

 また「劣等感を補償するためのシャドウ」というのもある。

 たとえば学歴コンプレックスをもっている人が、表の世界では、「学歴不要論」を唱えたり、容姿に恵まれなかった女性が、ウーマンリブ闘争の旗手になったりするのが、それ。

たとえば「私は息子たちには、『勉強しろ』と言ったことはありません。
子どもは、自由で、伸びやかなのが一番です」などと言う親ほど、実は、教育ママであったりする。

 あるいは、ある会社の社員は、ことあるごとに、同僚のX氏を、いじめていた。
「あいつは、4年生の大学を出ているくせに、オレより、仕事ができない」と。

 こうしたいじめをする原動力になっているのが、ここでいう劣等感を補償するシャドウということになる。

 さらに優越感を保護するためのシャドウもある。
たとえば超の上に、超がつくような金持ちが、ことさら自分を卑下してみせたり、貧乏人を装うなどが、それ。

 少し前だが、有名なニュースキャスターが、やや顔をしかめながら、こう言った。
「この不況で、ますます生活がきびしくなりますね」と。

 そのキャスターは、年俸が、2億~3億円もあったという。
1回の講演料が、300~400万円。
そんなキャスターが、「生活がきびしくなる」などということは、ありえない。
いくら演技でも、限度がある。
私はそのしかめた顔を見ながら、思わずつぶやいてしまった。
「何、言ってるんだ!」と。

 彼のばあいは、一応、庶民の味方であるかのようなフリをしながら、コメントを述べていた。
が、内心では、庶民を、軽蔑していた。
あるいは庶民に対して、ある種の優越感を感じていたのかもしれない。

 よく似た例としては、他人の不幸話を、喜んで聞く人がいる。
さも同情したようなフリをして、「それは、かわいそうに」などと言うが、実際には、何も、同情などしていない。
このタイプの人は、他人が不幸であればあるほど、自分が幸福になったように感ずる。

 こうした仮面は、教師には、つきもの。
世間一般では、教職者は、それなりに人徳者と考えられている。
しかし実際には、私も含めてだが、むしろそうでないケースが多い。

 その人の人徳というのは、いくたの苦難の中でもまれて、はじめて身につく。
むしろそういう意味では、教職というのは、意外と楽な仕事といえる。
少なくとも、大学を卒業する時点において、とくにすぐれた人格者が、教師になるというわけではない。

 だから……というわけでもないが、牧師にせよ、僧侶にせよ、はたまた教師にせよ、大切なことは、シャドウをつくるような仮面をかぶらないこと。
ありのままの自分を、まずさらけ出し、その中から、自分をつかんでいく。
それが私は、重要だと思う。

【追記】

 このことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「要するに、自分に正直に生きればいいということね」と。

 いつも核心部分を、ズバリというところが、ワイフの恐ろしいところ。
私が何日もかけて知ったことを、いつも一言で、まとめてしまう。

 しかしあえて言うなら、ワイフは、少し、まちがっている。(ごめん!)

 「自分に正直に生きる」とはいうが、それは口で言うほど、簡単なことではない。

 たとえば隣人を殺したいと思うほど、憎んでいたとする。
しかしそのとき、自分に正直に生きたら、どうなるか? 

 あなたは台所から包丁をもちだし、その人を殺しに行くかもしれない。
しかしそれは、困る。

 「自分に正直に生きる」ためには、その前に、大前提として、(善良な自分)がなければならない。
その(善良な自分)がないまま、正直に生きたら、それこそ、たいへんなことになる。

私「だからさ、学校の先生もさ、無理をしないで、自分に、正直に生きればいいのさ。
へたに聖職者意識をもつから、疲れる。
それだけではない。
シャドウをつくってしまい、今度は、そのシャドウに苦しむことになる」
ワ「ありのままの自分で生きるということね」
私「そうだよ。
オレは、給料がほしいから、教えているだけ。
本当は、お前たちのようなバカは相手にしたくねえが、がまんしてつきあっているだけとか何とか、そう思っているなら、そう言えばいい。
すべては、そこから始まる」と。

 ここまで書いて、新しいことに、私は気づいた。
「嫉妬(しっと)」である。その嫉妬も、シャドウ理論で説明がつくことがある。
つぎに、それを考えてみたい。


●嫉妬(しっと)

 もう20年近くも前のことだが、こんな話を聞いた。

 ある出版社に、部下の面倒みはよいが、たいへん厳格な上司がいた。
しかしたいへんダサイ男で、女性社員に、ほとんどといってよいほど、相手にされなかった。

 その中でも、つまり女性社員の中でも、その上司は、とくにA子さんに好意を抱いていたらしい。
ところが、そのA子さんが、同じ部にいる若いB男と不倫関係になった。
とたんその上司は、A子さんに、無理な仕事ばかり押しつけて、A子さんに対して、意地悪をするようになったという。

 ふつうの意地悪ではない。
執拗(しつよう)かつ陰湿。
最終的には、A子さんをして、その会社をやめる寸前まで、追いつめたという。

 簡単に言えば、その上司は、A子さんに嫉妬したということになる。
しかし嫉妬するなら、その相手の男、つまりB男に対して、である。
どうしてその上司は、B男に対してではなく、A子さんに、意地悪をしたのか?

 こうしたケースでも、シャドウ理論を使えば、説明ができる。

 その上司は、職場の先輩として、つまり人格者としての仮面(ペルソナ)をかぶっていた。
職場での不倫関係を強く戒(いまし)めていた
。部下の面倒をよくみる、できた上司としての仮面である。
しかしその本性は、まったく、別のところにあった。
女性社員に相手にされなくて、悶々としていた。

 その悶々としていた部分が、その上司のシャドウを肥大化させた。
邪悪で陰険なシャドウである。
そのシャドウが、その上司を裏から操(あやつ)って、A子さんを、いじめつづけた(?)。

つまりこのケースでは、その上司は、嫉妬が原因で、A子さんに意地悪をしたのではない。
自分のシャドウに操られて、そうした。
そう考えると、話の内容が、すっきりする。

+++++++++++++++++++++

(補足)

 仮面(ペルソナ)をかぶることが悪いというのではない。
だれしも、ある程度の仮面をかぶる。かぶらなければ、仕事ができないことだって、ありえる。
たとえばショッピングセンターの店員や、レストランの店員など。
ブスッとした顔をしていたのでは、売りあげものびない。

 しかしそこで重要なことは、仮面をかぶっているときは、いつも、その仮面をかぶっていることを、心のどこかで、自覚すること。
その仮面をかぶっていることを忘れてしまったり、あるいは仮面をとりはずし忘れると、たいへんなことになる。

 たとえば教師が、聖職者としての仮面をかぶったとする。
子どもを指導するためには、そういう仮面をかぶることは、ある程度は必要かもしれない。しかしそれが本当の自分とは、思ってはいけない。
さらに一歩進んで、「私は、人格的にすぐれた人間だ」と思いこんではいけない。

 こうした状態が、さらに進むと、それこそ、自分がだれだか、わからなくなってしまうことがある。
仮面人間といってもよい。仮面をずっとかぶりつづけていたため、仮面をはずせなくなってしまう。

DSM―IV(第4版)の診断基準の中には、「演技性人格障害」というのもある。
つまりは、「自分がだれであるかもわからなくなってしまい、他人と良好な人間関係を結べなくなってしまった人」と、考えると、わかりやすい。

ここでいうシャドウとは、少し話がそれるが、参考までに、それをあげておく。 

++++++++++++++++

【演技性人格障害】 

過度の情緒性と人の注意を引こうとする広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。
以下の5つ(またはそれ以上)によって示される。

(1)自分が注目の的になっていない状況では楽しくない。
(2)他人との交流は、しばしば不適切なほどに性的に誘惑的な、または挑発的な行動によって特徴づけられる。
(3)浅薄で、すばやく変化する感情表出を示す。
(4)自分への関心を示すために絶えず身体的外見を用いる。
(5)過度に印象派的な、内容の詳細がない話し方をする。
(6)自己演劇化、芝居がかった態度、誇張した情緒表現を示す。
(7)被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい。
(8)対人関係を実際以上に親密なものとみなす。

++++++++++++++++

 仮にここでいうような、人格障害というレベルまで進んでしまうと、それこそ、「私」が何なのか、その人自身も、わからなくなってしまう。
中には、自分の悪性を隠しながら、「私は絶対的な善人だ」と信じきっている人もいる。
先にあげた、ハレンチ牧師なども、その1人かもしれない。

 仮面をかぶるとしても、その仮面は、必ずどこかで、はずすこと。
くれぐれも、ご用心!

(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ ユング 演技性人格障害)

●私は善人か?

 仮面をかぶるということは、それ自体、とても疲れる。
とくに私のように、もともと性があまりよくない人間にとっては、そうだ。

 そういう人間が、人の前で、さも人格者ですというような顔をして、話をする。
これはとんでもないまちがいである!

 事実、私は、20代から30代のはじめのころまで、職場から帰ってくると、いつも言いようのない疲労感に襲われた。
精一杯、虚勢を張って生きていたこともある。
子どもを教えながら、その向こうに、いつも、親たちの鋭い視線を感じていた。

 が、あるときから、自分をさらけ出すことにした。
子どもたちの前ではもちろんのこと、親たちの前でも、言いたいことを言い、したいことをするようにした。

 とたん、気分が晴れ晴れとしたのを覚えている。

 で、昔から、『泥棒の家は、戸締まりが厳重』という。

 これは自分が泥棒だから、他人も自分と同じように考えていると思うことによる。
心理学でも、そういうのを、「投影」という。
自分の心を、相手の心に投影してものを考えるから、そういう。
しかしもう少し踏みこんで考えてみると、泥棒は、自分自身のシャドウ(影)におびえているということにもなる。

 「自分の家は、いつも泥棒にねらわれている」とおびえるのは、泥棒に入られることを恐れているのでもなければ、また他人が、泥棒に見えることでもない。
実は、自分自身の中のシャドウにおびえているため、と。

 同じように、仮面をかぶるとなぜ疲れるかと言えば、演技をするからではなく、そのシャドウを見透かされないように、あれこれ気を使うためではないかということにもなる。

 今から、あの当時の自分を思い出すと、そう考えられなくもない。
ある時期などは、さも「お金(月謝)には、興味はありません」などという顔をして、教えたこともある。
しかし私のシャドウは、熱心に、そのお金(月謝)を、追い求めていた!

 お金(月謝)がほしかったら、「ほしい」と言えばよい。
無理をしてはいけない。
つまりは、自分に正直に生きるということになるが、これがまた、たいへん。

 正直に生きるためには、その前に、自分の中の邪悪な部分を、踏みつぶしておかねばならない。
冒頭にも書いたように、私はもともと、性があまりよくない。
「よくない」というのは、小ずるい人間であることをいう。

 気は小さいので、たいしたワルはできない。
しかし陰に隠れて、コソコソと悪いことばかりしていた。そういう人間である。

 そういう自分に正直に生きたら、それこそ、たいへんなことになる。

 そこで私は、まず、身のまわりのルールから守ることにした
。はっきりとそれを自覚したのは、自分が、ドン底に落ちたと感じたときだった。
それについて書いたエッセーが、つぎのエッセーである。

+++++++++++++++++++++

そのときのことを書いた、エッセーをそのまま添付
します。文章が、うまくありませんが、そのまま、で。

+++++++++++++++++++++

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。

そういう意味で善人も悪人も紙一重。
大きく違うようで、それほど違わない。

私のばあいも、幼稚園で講師になったとき、すべてをなくした。
母にさえ、「あんたは道を誤ったア~」と泣きつかれるしまつ。

私は毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばならなかった。
ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き方をするようになった。
酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。
しかしその運命は、いかに自分と正直に立ち向かうかで決まる。
さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。
自分自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。

だから今、そういった自分を振り返ってみると、自分にはたしかに運命はあった。
しかしその運命というのは、あらかじめ決められたものではなく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。
自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。
が、しかし本当にそう言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運命の中に自分はいることになる。
多分私のことだから、かなりの悪人になっていたことだろう。
自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねているに違いない。

が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。
「そのつど私は私の運命を、自分で決めてきた」と。
……となると、またわからなくなる。
果たして今の私は、本当に私なのか、と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。
しかしそういう人とて、自分で偉人になったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。
しかしそれとて考えてみれば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。
ふと油断すれば、そのままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。
つまりそういう運命に吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自分と戦う。
……戦っている。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。
どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ちょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。

今、善人ぶっているあなただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたもその悪人になっているかもしれない。
そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。

何ともわかりにくい話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別のところで考えてみることにする。

++++++++++++++++++++++

この原稿につづいて書いたのが、つぎの原稿です。
55歳のときに書いたので、もうそれから2年以上
になります。

内容が少しダブりますが、お許しください。

++++++++++++++++++++++

【自分のこと】

●ある読者からのメール

 一人のマガジン読者から、こんなメールが届いた。
「乳がんです。進行しています。診断されたあと、地獄のような数日を過ごしました」と。

 ショックだった。
会ったことも、声を聞いたこともない人だったが、ショックだった。
その日はたまたま休みだったが、そのため、遊びに行こうという気持ちが消えた。
消えて、私は一日書斎に座って、猛烈に原稿を書いた。

●五五歳という節目

 私はもうすぐ五五歳になる。
昔で言えば、定年退職の年齢である。
実際、近隣に住む人たちのほとんどは、その五五歳で退職している。

私はそういう人たちを若いときから見ているので、五五歳という年齢を、ひとつの節目のように考えてきた。
だから……というわけではないが、何となく、私の人生がもうすぐ終わるような気がしてならない。

この一年間、「あと一年」「あと半年」「あと数か月……」と思いながら、生きてきた。
が、本当に来月、一〇月に、いよいよ私は、その五五歳になる。
もちろん私には定年退職はない。
引退もない。死ぬまで働くしかない。
しかしその誕生日が、私にとっては大きな節目になるような気がする。

●私は愚かな人間だった

 私は愚かだった。愚かな人間だった。
若いころ、あまりにも好き勝手なことをしすぎた。
時間というのが、かくも貴重なものだとは思ってもみなかった。
その日、その日を、ただ楽しく過ごせればよいと考えたこともある。

今でこそ、偉そうに、多くの人の前に立ち、講演したりしているが、もともと私はそんな器(うつわ)ではない。
もしみなさんが、若いころの私を知ったら、おそらくあきれて、私から去っていくだろう。そんな私が、大きく変わったのは、こんな事件があったからだ。

●母の一言で、どん底に!

 私はそのとき、幼稚園の講師をしていた。
要するにモグリの講師だった。
給料は二万円。
大卒の初任給が六~七万円の時代だった。

そこで私は園長に相談して、午後は自由にしてもらった。
自由にしてもらって、好き勝手なことをした。
家庭教師、塾の講師、翻訳、通訳、貿易の代行などなど。
全体で、一五~二〇万円くらいは稼いでいただろうか。
しかしそうして稼ぐ一方、郷里から母がときどきやってきて、私から毎回、二〇万円単位で、お金をもって帰った。
私は子どもとして、それは当然のことと考えていた。が、そんなある夜。私はその母に電話をした。

 私は母にはずっと、幼稚園の講師をしている話は隠していた。
今と違って、当時は、幼稚園の教師でも、その社会的地位は、恐ろしく低かった。

おかしな序列があって、大学の教授を頂点に、その下に高校の教師、中学校の教師、そして小学校の教師と並んでいた。
幼稚園の教師など、番外だった。私はそのまた番外の講師だった。
幼稚園の職員会議にも出させてもらえないような身分だった。

 「すばらしい」と思って入った幼児教育の世界だったが、しばらく働いてみると、そうでないことがわかった。
苦しかった。
つらかった。
そこで私は母だけは私をなぐさめてくれるだろうと思って、母に電話をした。

が、母の答は意外なものだった。
私が「幼稚園で働いている」と告げると、母は、おおげさな泣き声をあげて、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア、誤ったア!」と、何度も繰り返し言った。
とたん、私は、どん底にたたきつけられた。
最後の最後のところで私を支えていた、そのつっかい棒が、ガラガラと粉々になって飛び散っていくのを感じた。

●目が涙でうるんで……

 その夜、どうやって自分の部屋に帰ったか覚えていない。
寒い冬の夜だったと思うが、カンカンとカベにぶつかってこだまする自分の足音を聞きながら、「浩司、死んではだめだ。死んではだめだ」と、自分に言ってきかせて歩いた。

 部屋へ帰ると、つくりかけのプラモデルが、床に散乱していた。
私はそのプラモデルをつくって、気を紛らわそうとしたが、目が涙でうるんで、それができなかった。
私は床に正座したまま、何時間もそのまま時が流れるのを待った。
いや、そのあとのことはよく覚えていない。
一晩中起きていたような気もするし、そのまま眠ってしまったような気もする。
ただどういうわけか、あのプラモデルだけは、はっきりと脳裏に焼きついている。

●その夜を契機(けいき)に……

 振り返ってみると、その夜から、私は大きく変わったと思う。
その夜をさかいに、タバコをやめた。酒もやめた。
そして女遊びもやめた。もともとタバコや酒は好きではなかったから、
「やめた」というほどのことではないかもしれない。

しかしガールフレンドは、何人かいた。学生時代に、大きな失恋を経験していたから、女性に対しては、どこかヤケッパチなところはあった。
とっかえ、ひっかえというほどではなかったかもしれないが、しかしそれに近い状態だった。
一、二度だけセックスをして別れた女性は、何人かいる。
それにその夜以前の私は、小ずるい男だった。もともと気が小さい人間なので、大きな悪(わる)はできなかったが、多少のごまかしをすることは、何でもなかった。
平気だった。

 が、その夜を境に、私は自分でもおかしいと思うほど、クソまじめになった。
どうして自分がそうなったかということはよくわからないが、事実、そうなった。
私は、それ以後の自分について、いくつか断言できることがある。

たとえば、人からお金やモノを借りたことはない。
一度だけ一〇円を借りたことがあるが、それは緊急の電話代がなかったからだ。
もちろん借金など、したことがない。
どんな支払いでも、一週間以上、のばしたことはない。
たとえ相手が月末でもよいと言っても、私は、その支払いを一週間以内にすました。

ゴミをそうでないところに、捨てたことはない。
ツバを道路にはいたこともない。
あるいはどこかで結果として、ひょっとしたらどこかで人をだましているかもしれないが、少なくとも、意識にあるかぎり、人をだましたことはない。
聞かれても黙っていることはあるが、ウソをついたことはない。
ただひたすら、まじめに、どこまでもまじめに生きるようになった。

●もっと早く自分を知るべきだった

 が、にもかかわらず、この後悔の念は、どこから生まれるのか。
私はその夜を境に、自分が大きく変わった。
それはわかる。
しかしその夜に、自分の中の自分がすべて清算されたわけではない。
邪悪な醜い自分は、そのまま残った。今も残っている。

かろうじてそういう自分が顔を出さないのは、別の私が懸命にそれを抑えているからにほかならない。
しかしふと油断すると、それがすぐ顔を出す。
そこで自分の過去を振り返ってみると、自分の中のいやな自分というのは、子どものころから、その夜までにできたということがわかる。

私はそれほど恵まれた環境で育っていない。
戦後の混乱期ということもあった。
その時代というのは、まじめな人間が、どこかバカに見えるような時代だった。
だから後悔する。私はもっと、はやい時期に、自分の邪悪な醜い自分に気づくべきだった。

●猛烈に原稿を書いた

 私は頭の中で、懸命にその乳がんの女性のことを考えた。
何という無力感。
何という虚脱感。
それまでにもらったメールによると、上の子どもはまだ小学一年生だという。
下の子どもは、幼稚園児だという。

子育てには心労はつきものだが、乳がんというのは、その心労の範囲を超えている。
「地獄のような……」という彼女の言い方に、すべてが集約されている。
五五歳になった私が、その人生の結末として、地獄を味わったとしても、それはそれとして納得できる。仮に地獄だとしても、その地獄をつくったのは、私自身にほかならない。
しかしそんな若い母親が……!

 もっとも今は、医療も発達しているから、乳がんといっても、少しがんこな「できもの」程度のものかもしれない。
深刻は深刻な病気だが、しかしそれほど深刻にならなくてもよいのかもしれない。
私はそう思ったが、しかしその読者には、そういう安易なはげましをすることができなかった。

今、私がなすべきことは、少しでもその深刻さを共有し、自分の苦しみとして分けもつことだ。
だから私は遊びに行くのをやめた。
やめて、一日中、書斎にこもって、猛烈に原稿を書いた。
そうすることが、私にとって、その読者の気持ちを共有する、唯一の方法と思ったからだ。

++++++++++++++++++++++

 私は善人かと聞かれれば、「?」と思ってしまう。
自分の中に、確固たる「柱」がない。
それは自分でも、よく感ずる。

 私は、だれにでもヘラヘラとシッポを振るような人間だったし、今も、基本的には、そうである。
たまたま今は、善の世界に生きているから、悪人でないだけである。
もし近くに悪人がいて、「おい、林、お前も仲間に入らないか」と声をかけられたら、そのままスーッと入ってしまうかもしれない。

 事実、M物産という会社に勤め始めたころ、ヤクザ映画を見て、妙にそのヤクザの世界に魅力を感じたこともある。
魅力というより、あこがれた(?)。

 しかしあの夜を境に、私は、自分でもバカだと思うほど、クソまじめ人間になった。
BW教室という、小さな教室をもっているが、その教室ですら、過去35年近く、ズル休みをしたことは、ただの一度もない。
(本当に、ない! 休んだのは、起きあがれないほどの病気になったときだけ。) 

 電話代の10円を借りたことはあるが、それ以外に、借金をしたことも、ただの一度もない。
もちろんお金のことで、他人に迷惑をかけたことは一度もない。

 しかしそれらは、自分が善人だからではなく、自分自身のシャドウにおびえていたからそうしただけとも言えなくもない。自分が、(泥棒)だから、自分の家の(戸締まりを、厳重)にしているだけということか。

 その証拠に、お金にルーズな人を見ると、必要以上に腹をたてたりする。
しかしそれはその相手に対して腹をたてるというよりは、自分自身のシャドウを、忌み嫌ってのことではないのか。
そういうふうにも、解釈できる。

 シャドウ(ユング)の考え方を、自分に当てはめてみると、そんな感じがする。

 以上、浅学を恥じず、自分勝手な解釈で、「仮面(ペルソナ)とシャドウ(影)」について、あれこれ考えてみた。

 もちろん私は、この道のプロではない。
学者でもない。
だからそういう意味では、どこか無責任。
書きたいことを書き、こうして書くことを楽しんでいる。
ときどき、その道の専門家の先生から、「ここがまちがっている」「ここがおかしい」という意見をもらうが、どうか、そのあたりのことは、勘弁してほしい。

 大切なことは、いろいろな意見を踏み台にして、その上で、自分なりの考えを、前向きに発展させることではないだろうか。
(……どこか、弁解がましいが……。)

 しかし今回、「シャドウ」という考え方には、今までになかった、新鮮さを感じた。さすが、ユング先生! 
あなたはすばらしい!

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2012/06/06改


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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