2012年6月4日月曜日

Desire to Possess

●就寝に失敗して……(6月4日の深夜)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今朝(6月3日)は、午前4時起き。
昼すぎに、昼寝。
これが1時間ほど。
が、夕食後にもう一度。
今度は、うたた寝。
これも1時間ほど。

で、午後10時ごろワイフといっしょに床に入った。
が、頭が冴えて、眠られない。
30分ほどがんばってみたが、ギブアップ。
こういうときは、自然体。
成り行きに任せる。
眠くなったら、寝る。

起きあがり、そのまま書斎へ。
……今、その書斎にいる。

先ほど、ホームページの更新を終えたところ。
現在時刻は、0時05分。
6月4日になったばかり。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●老後の生きがい

 先ほどふとんの中で、あれこれ考えた。
そのひとつ。
「老後の生きがい」。

 まだ人生が終わったわけではない。
その実感は、まったく、ない。
つまり「終わった」という実感はない。
若いころは、老人というのは、そういうものと思っていた。
みな、それなりの準備をしているもの、と。
「それなり」というのは、「死への覚悟」をいう。

が、それはまちがいだった。
自分が、この年齢になって、それがわかった。

 多少、色あせているかもしれないが、青い空は青い。
若葉の緑は、緑。
若いころと、何も変わっていない。
「死への覚悟」など、どこにもない。
むしろ、ほしいのは、「生きがい」。
他人に感謝されるという、「生きがい」。
自分は独りぼっちではないという、「生きがい」。
それに向かってがんばることのできる、「生きがい」。

 どんな小さなものでもよい。
その「生きがい」が、ほしい。

●老後の統合性

 が、「生きがい」などといったものは、向こうからはやってこない。
自分で作るもの。
用意するもの。
が、一朝一夕には、できない。
10年単位の年月をかけ、その下地を作る。
用意する。
それが老後になり、花となって咲く。

 エリクソンは、それを「老後の統合性」と呼んだ。
それについては、何度も書いた。
が、その私ですら、それをつかみきれないでいる。
それがそこにあるのだが、正体を見せない。
ぼんやりと、まるで煙のよう。
輪郭さえ、よくわからない。

●怒り

 統合性と関係があるのか、ないのか?
それはわからないが、夕食のとき、ワイフにこう言った。

「歳を取ると、人間が円(まる)くなるというのは、ウソだね。
むしろ怒りが強くなる。
ぼくなんか、とくにそうで、怒りを感じなかったら、文章が書けない」と。

 そう、ものを書くには、(怒り)が必要。
(怒り)が、ものを書く原動力になる。
が、これに対して、別の心が、即座に顔を出し、私にこうささやく。

「あのなア~、もうお前の人生は、それほど長くないよ。
怒ってばかりいないで、平凡の中に身を沈めたらどうか」と。
つまり、もうあきらめたらどうか、と。

●路上コンサート

 私は負け犬。
英語で言えば、「Loser(ルーザー)」。
よくわかっている。
が、負け犬には、負け犬なりの、締めくくり方がある。
その締めくくり方をどうするか。
それをこのところ、それをよく考える。
考えるが、いつも堂々巡り。

 「まだ何とかなる」「もうどうしようもない」と。
この2つが、交互に顔を出し、出しては消える。

 そう言えば、昨日、あるギタリストに会った。
年齢は40歳代という。
会ったといっても、2、3言、言葉を交わしただけ。
で、ホームページを出しているというので、先ほど、そのギタリストのをのぞいてみた。

 そこには、こうあった。

○月○日……浜松駅前で、路上コンサート
○月○日……浜松駅前で、路上コンサート
○月○日……浜松駅前で、路上コンサート
○月○日……浜松駅前で、路上コンサート、と。

 ほとんど毎晩、浜松駅前で、路上コンサートをしているらしい。
かなりの実力をもっている。
並の演奏家ではない。
が、そんな人物でも、路上コンサート?

 が、考えてみれば、私も毎晩、路上コンサートをしているようなもの。
その演奏家のホームページを読んだとき、恐ろしいほどの共鳴感を覚えた。

 その演奏家もそうだろう。
私もそうだ。
で、だれかが私たちにこう言ったとする。
「いくらがんばっても、どうにもならないよ。
一生、路上コンサートだよ。
だったら、あきらめたら」と。

 が、私たちはあきらめない。
路上コンサートを棄(す)てない。
棄てたら、おしまい。
私が私でなくなってしまう。

●ささやかな希望

 が、悪いことばかりではない。
少し前だが、愛知県犬山市に住む女性(当時40歳くらい)が、こんなメールをくれた。
内容は記憶によるものなので、正確ではない。

「いつか、私が林さん(=私)の年齢になったら、もう一度、林さんの書いた文書を読み直してみます。
私が50歳になったら、林さんが50歳のときに書いた文章を。
55歳になったら、林さんが55歳のときに書いた文章を」と。

 そのときは、「ああ、そう?」で終わってしまった。
が、それが年とともに、私の胸の中で、大きくふくらんできた。
「たとえ1人でも、そういう人がいるなら、がんばって書こう」と。

 つまり、私というより、1人の人間の記録。
その記録が、何らかの形で、この先、老後を迎える人たちの役に立つかもしれない。
ささやかな、本当にささやかな希望だが、そこに私は自分の「生きがい」を感じた。

●デジタル一眼カメラ

 夜中にひとりで原稿を書いていると、どうしても湿っぽくなる。
暗くなる。

 ……先ほど息子が帰ってきた。
裏の家の玄関を開ける音がした。
昼ごろ出かけた。
「今日はみんなと、バーベキューを食べる」と言っていた。

 ふと気分が和らぐ。
ホーッと息が抜ける。
が、どういうわけか、そのときデジタルカメラが頭に浮かんだ。
今、ねらっているのは、オリンパスのPEN LITE。
デジタルの一眼カメラ。
今までのデジタルカメラで撮った写真とは、ひと味もふた味もちがった写真が撮れるそうだ。
カタログに載っている写真を見ても、それがよくわかる。

ネットショップでは、ホワイトカラーが、4万3000円前後の価格になっている。
レッドカラーが、3万7000円前後。(ともにダブルズームセット付き。)
同じ機種なのに、色(カラー)によって、価格がちがう。

 ……こうしたモノには、不思議な力がある。
見ているだけで、心が安まる。
脳の中で、条件反射運動が起きているためらしい。
視床下部の命令で分泌されたドーパミンが、線条体にできた受容体を満たす。
そのとき脳内で甘い陶酔感が生まれる。

 不正確な記事ではいけない。
以前、それについて調べた原稿がどこかにあるはず。
それを探してみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●物欲のメカニズム

++++++++++++++++

子どもの物欲を満たすのは、慎重に。
それに慣れた子どもは、さらに強い
刺激を求めて、やがて物欲の奴隷に
なる。

子どもの心をモノで釣るようなことは
してはいけない。

++++++++++++++++

●物欲

孫の誠司を、あちこちに連れていってみて、驚いた。
ショッピングセンターにも連れて行った。
みやげもの屋にも連れて行った。
コンビニにも連れて行った。
もちろんおもちゃ屋にも、連れて行った。
しかしどこへ連れて行っても、モノをほしがらない。

ただその場で、手に取ってみるだけ。
「ほしい」とか、「買って」とか、言わない。
で、私のほうが、「買ってあげようか?」と声をかけるのだが、
だまっているだけ。
つまり、そういう習慣そのものが、ない。
まったく、ない!
日本の子どもなら、「あれ、買って!」「これ、買って!」と言いそうな
場面でも、そういうことは、いっさい、口にしない。

●育て方の問題

 これは息子の影響というより、嫁のデニーズの影響と思われる。
何回か、デニーズと誠司の買い物に、同行したことがある。
そういうときでも、デニーズと誠司は、そういう会話をいっさい、しない。
「必要なものは買う。しかしそれ以外のものは、いっさい買わない」と。
そういう姿勢が徹底している。
つまり先にも書いたように、そういう習慣そのものが、ない。

そういう一例だけをみて、こう判断するのも危険なことかもしれない。
しかし『物欲というのは、習慣によって作られる』。

 が、この日本では、モノで子どもの心を買うという習慣が、日常化している。
子どものほしがるものを先に予想して、それを買い与える親は少なくない。
またそれをすることによって、親子の絆(きずな)は太くなると考える。

しかし実際には、逆効果。
感謝されるとしても、一時的。
つぎに今度は、子どものほうから、それを請求してくるようになる。
が、それですまない。

物欲というのは、それを満たせば満たすほど、エスカレートする。
脳の中では、つぎのようなメカニズムが働くためと考えてよい。

●条件反射行動

 何か目新しいものを見たとき、脳の中で、「ほしい」という欲求が生まれる。
(このときすでに条件反射行動(=条件づけ反応)が起きているとみる。)
視床下部あたりから脳に向かって、強力なシグナルが送られる。
それに応じて、ドーパミン(ホルモン)が放出される。
そのドーパミンが、線条体を刺激する。

「この刺激は強烈で、このとき線条体は、『目的達成に向けた行動を起こせ』というメッセージを受けとる。
この刺激は強力で、意志の力だけでこの衝動を克服するのは、非常に難しい」(K・ローットワイラー・オゼッリほか、「サイエンス」)という。

喫煙者がタバコの煙をかいだり、アルコール依存症の人が、酒の臭いをかいだときと同じような現象が、脳の中で起こる。

とたん、子どもは(おとなも)、そのモノを強烈にほしがるようになる。
それはふつうの反応ではない。
ふつうでないことは、たとえばタバコをやめられない人や、酒をやめられない人のことを考えてみればよい。

 しかしこのとき、ドーパミンの働きを打ち消そうという働きも、同時に発生する。
これを大脳生理学の世界では、「フィードバック」と呼んでいる。
つまり、感覚がマヒしてくる。
マヒしてくるから、つぎのときは、さらに強い刺激を求めるようになる。

(実際には、「薬物依存患者などは、線条体に見られる(D2ドーパミン受容体)の数が少ないのがふつう。
……これはおそらく、麻薬などを何度も摂取するたびに繰りかえされるドーパミンの急増を、脳が何らかの形で相殺しようとしているのだろう」(同、K・ローットワイラー・オゼッリほか)とのこと。)

こうして物欲は、かぎりなくエスカレートしていく。

 だから、子どもにモノを買い与えるのは、最小限にしたほうがよい。
できれば、そういう習慣は、やめたほうがよい。

わかりやすく言えば、一度、物欲にとらわれた子ども(人)は、それを断ち切るのは容易なことではない。
ばあいによっては、物欲の奴隷となる。
ちょうど喫煙者がタバコの奴隷になり、アルコール依存症の人が、アルコールの奴隷になるように、だ。

だから、先にも書いたように、モノを買い与えても、感謝するのはそのときだけ、ということになる。

が、さらに恐ろしいことは、つぎのステップで起こる。

 こうした欲望の奴隷になった子ども(人)は、それが満たされないとわかると、パニック状態になる。
狂乱状態になることもある。

ときどきショッピングセンターなどで、「あれ、買ってエ!」と、泣き叫ぶ子どもを見かけるが、それもその一例ということになる。

「実際には逆効果」というのは、そういう意味である。

●物欲社会

 で、だからといって誠司が理想的というわけではない。
現代という社会は、物欲を中心になりたっている。
その物欲が、経済活動の原動力にもなっている。

もし現代という社会で、物欲を否定してしまったら、社会そのものが、崩壊してしまう。
子ども(人)の立場でいうなら、社会そのものに同化できなくなってしまう。

「欲しい」という意欲があるからこそ、そこから勤労意欲が生まれる。
だから「ある程度は・・・」ということになる。
ある程度の物欲は必要だし、そのための教育(?)も必要ということになる。
が、あくまでも「ある程度」。
その「程度」を超えたとき、その子どもは、かぎりなくドラ息子化する。

結果として、結局は苦労するのは、その子ども自身ということになる。

それだけは、注意したほうがよい。

(補記)

ドーパミン……快楽追求行動を調整している神経伝達物質
条件づけ反応……報酬と喜びに関連する脳の刺激に対する反応。これによって
       条件づけ反応が生じ、その環境に身を置いただけで、反応が起こる
       ようになる(以上、日経「サイエンス」07-12、p54) 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 物欲 物欲のメカニズム 子どもの物欲 子供の物欲 線条体 ドーパミン受容体 視床下部)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●買い物依存症

 私の脳の中には、そういったメカニズムができている。
買い物症候群と同じメカニズム。

 ウィキペディア百科事典の中では、「買い物依存症」として紹介されている。
「精神疾患」のひとつだそうだ。
そのまま紹介させてもらう。

『買い物依存症(かいものいそんしょう、かいものいぞんしょう)とは精神疾患の一つであり自身にとって不必要、あるいはすでに同様の物を所持しているにも関わらず、大多数の物品を購入してしまうという症状。
買い物依存症の主な原因としてはストレスが挙げられており、イライラしたり不機嫌になる毎に、デパートなどに行き買い物をし、物質的に満たされるという快楽を得ることで心を癒している。

比較的女性の方が買い物依存症に陥る傾向が高い。
対して男性の場合は同様のストレス解消の手段としてギャンブルを行っており、その症状はギャンブル依存症と呼ばれている。

自己顕示欲の強い人に多く見られる症状であり、自身の経済力を省みずにブランド品や高級品を購入してしまいカード破産やローン破産に陥ってしまったという事例も存在する。

最近ではインターネットによる通信販売が普及した事により、支払能力が無く親の金を利用する学生やひきこもりが買い物依存症となる例も存在する』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

●私のばあい

 私は、ギャンブルはしない。
しかし「物質的に満たされるという快楽」というのは、よく理解できる。
欲しかったものを手に入れたときの安堵感というのは、たしかにある。
ただ、この中で、ひとつ書き忘れていることがある。

 たとえばカメラだが、完成されたものには、完成されたものの美しさがある。
その美しさを見ていると、心が安まる。
買い物依存症というと、意味もなく同じものをほしがる……というように考えられがち。
が、私のようなケースも少なくないはず。
精緻なカメラには、それがある。
完成された美しさ。

 さらに言えば、「それを使って、美しい写真を撮ってみたい」という願望もある。
だから「同様の物を所持しているにも関わらず、大多数の物品を購入してしまう」(同)ということはない。

 で、もうひとつ付け足すと、こうなる。

 私は子どものころから、金属製のものを指先でいじっているのが好き。
これについても、いろいろな説明がなされている。
指先からの刺激により、脳内にある種のホルモンが分泌される。
モルヒネ系のホルモンと考えると、わかりやすい。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
子どものモノいじり(毛布の切れ端や、ボタン、貝殻など)も、そのひとつと考えられている。

●見るだけで満足

 が、ブレーキをかけられないわけではない。
私のばあい、それがほしいと思い、店へ行く。
現金をてにもって行く。
ほとんど買うつもりで、家を出る。
そのときのこと。

それを見たり、いじったりしているだけで、満足感を覚えてしまう。
そういう私が、ワイフには不思議に見えるらしい。
あとになって、「どうして買わなかったの?」と、よく聞く。

 理由のひとつに、子どものころ、家が貧しかったということがある。
(どこの家も貧しかったが……。)
いつの間にか、見るだけで満足する……という習慣を身につけてしまった。
が、こんな男性もいる。

●原動力

 詳しくは知らないが、今度、TOYOTAから、スポーツカーが発売になった。
何でも、ものすごい性能らしい。
その車を知り合いの男性が買った。
買ったといっても、納車は3か月先の秋ごろとか。
ほとんど毎日、その店に行って、その車をながめている。

 その気持ち、ヨ~ク、わかる。
そういうときというのが、いちばん、ハッピー。
物欲には、そういう力もある。
つまり(生きる力)の原動力にもなる。

●就寝

 先ほど、熟睡剤を、半分のんだ。
それが効いてきたらしい。
あくびが、連続して出始めた。

 そろそろ就寝のとき。
時刻は、午前2時。

 では、今日は、ここまで。
どうということにない、平凡な1日だった。
2012/06/04


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司





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