2012年6月25日月曜日

Monster Parents by Hiroshi Hayashi

モンスタママの子育て狂騒

【ドロ沼の母親狂騒】(付録:ママ診断)

父親族よ、あなたの妻たちは、ここまで狂っている!


【はじめに】

ドロ沼の母親狂騒曲

 埼玉県在住の、Tさん(母親、年長男児をもつ)から、こんなメールが、届いた。 

 「うちの住んでいるところは、新興住宅地。文化性は、まったく、なし。母親のステータスも、ダンナの職種で決まる。

 S放送局や、T銀行、N自動車に勤めるダンナが多いこともある。で、そういうところに勤めるダンナをもつ、妻たちが、いばるわけ。

 で、近くに、このあたりでも有名な、……というか、名門というか、そういう小学校がある。名前はSS小学校。入試が近づくと、その話ばかり。『どうして、あんな子が受けるの?』『あんな子が合格するくらいなら、私、この町を出る!』『幼稚園には、内緒で、SSを受けるそうよ。先生に言いつけてやる』と。

 出るは出るは、低次元な話ばかり。若い母親たちが、集まれば、こんな話ばかりしている。あとはそしてお決まりの、悪口、中傷。

 『あの人、子どもが受験するならするで、一言、言ってくれればいいのに、礼儀知らず。今度は、○○会から、排除よ』

 『Xさんは、幼稚園へ迎えに行くだけなのに、いつもY車(大型の外車)よ。歩いても、五分もかからないのに。でも、幼稚園への寄付は、たったの一万円だったそうよ』

 このあたりでは、SS小学校に合格した子どもを、『勝ち組』。落ちた子どもを、『負け組』といって、差別する。そこらの学習塾でも、差別する。SS小学校の子どもだと、ハイハイと言って、即、入塾。

 しかしそれ以外の小学校の生徒だと、塾長もとつぜん、ふんぞりかえって、『うちはア……』と、しぶってみせる。

 イヤーな雰囲気の地域。

 私は転勤族だから、北は函館から、南は、博多まで、みんなよく知っている。しかし埼玉県のここは、最低。最悪。『このあたりが地球の中心』と思っているような人ばかり。バカみたい。外から見れば、ただの新興住宅地なのに。

 私、奈良にも住んだことあるが、奈良は最高! 京都も近いし。ああいうところの、奥深い文化に接したことがない連中ばかり。

 子どものことで、見栄やメンツを張るなんて、つまらない。私は、自由人。そういう目で見ると、みんな????。本当に、いやになってしまう。先生、こういう地域を、どう思う?」
(たいへん過激な文章だったので、林の方で、要約)

●子どもが親を育てる

 親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。……私が、このことを知ったのは、こうした親どうしの、ドロドロのウズに巻き込まれたとき。

 それは想像を絶するほど、低次元な世界だった。

 しかしTさん、そういう親でも、二年、三年と、子育てで苦労すると、やがて人間的な丸みや深みができてくる。つまり、親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。

 だから大切なことは、(今の母親たち)を見て、それがすべてとは思ってはいけないということ。大切なことは、そういう母親たちが、少しでも、前に向って、伸びることを、手助けすること。どの母親も、そういう意味では、すばらしい母親になる可能性をもっている。

 私も、幼児教育をして、40年になるが、当初より、「幼児教育は、母親教育」ということを、見抜いていた。
(ここが、私のすごいところ。エヘン!)

 だから今、あなたがなすべきことは、そういう母親たちを、つまりは反面教師として、自分の姿を見ていくこと。すでにあなたは、そういう視点をもっている。つまりあなたは、そういう意味で、ほかの母親たちを、一歩、リードしている。

 もしあなたがリードしていなければ、あなたは今、ほかの母親たちと同じことをしていたかもしれない。あなたは子どもを育てながら、実は、その向こうにある、(人間)を見ている。そしてその反射的効果として、(自分)を見ている。

 今のあなたのまわりの(現状)を否定するのではなく、まず(現状)とは、そういうものであることを知る。すべては、そこから始まる。わかりやすく言えば、「今の若い母親たちは、ダメだ」と、言うのではなく、あなたの立場で言うなら、そういう母親たちの中に、自分の愚かな姿を見て、それをバネとして、前に進むこと。

 私は、もう、そういう修羅場を、ゴマンと見てきた。恐らく、一歩離れたところにいる、学校や園の先生たちは、そういう世界を知らないだろう。どの母親も、先生の前では、別人のように振る舞ってみせる。

 しかし、ね、Tさん。それが人間のドラマのおもしろさということになる。私たちは、不完全で、どうしようもない人間。その人間が、懸命に、無数のドラマを展開している。そこでどうだろう。

 「同じ人間」と思うのではなく、こちらのほうが一歩上に出て、あたかも自然動物園の中の動物を観察するような目をもってみたら。そうすれば、母親どうしの醜い狂騒も、これまた、ほほえましく見えてくるもの。

 より高い視点に立ってみると、それまでの世界が、小さく、つまらないものに見えてくる。「自分を伸ばす」ということは、そういうことをいう。

 およばずながら、私は、あなたのような人のために、こうした文章を書いている。どうか、どうか、これからも私のマガジンを読んでほしい。私はいつか、必ず、この荒野の先に何があるか、それを見てやる。そしてみなさんに、報告してやる。

 さあ、あなたも、魂の自由人として、心の中の荒野を歩いてみたら……。その世界は、スリリングで、楽しい。実に、楽しい。いっしょに、前に向って、歩いていこう。

So take my hands (さあ、私の手を取りなさい。)
To walk this land with me.(この土地を、私といっしょに歩こう。)
To walk this golden land with me.(この黄金の土地を、私といっしょに、歩こう。)
(ポールニューマン主演、パットブーンが歌った、「栄光への脱出」より)


【第1章】

モンスタママの子育て狂騒


子育て失敗危険度
あなたは、だいじょうぶ?


                     はやし浩司



「狂騒する子どもの世界」

狂った親たちの世界をえぐりだしながら、新しい教育観を提言。このままでは本当に日本はだ
めになる。そういう切実な危機感からこの本を書いた。

Sec.1……常識からはずれる親たち
Sec.2……子どもをダメにする親たち
Sec.3……親バカにならないために


 この原稿は、2000年ごろ、つまり今から年前に12年前に書いたものです。
ある出版社からの依頼があり、それで書き始めたものです。
が、当時、この原稿を世に発表する勇気がなく(?)、今日に至ってしまいました。
「ここまで書いたら、殺される」と。

 もう一度、(現在)という視点で、書きなおしながら、子育ては今、どうあるべきかを考えなおしてみたいと願っています。
なおこの種の原稿の常として、登場する人物、話の内容は、すべてフィクションです。
……というふうに、一応、断っておきます。

 他人から聞いた話を、自分のエピソードに仕上げたり、反対に自分のエピソードを、他人から聞いた話に仕上げたりしています。
あるいは2つの話を1つにまとめたり、1つの話を2つに分けたりした部分もあります。
親類の話を他人の話にしたり、その逆のこともあります。

 そんなわけで、もし読者の方の中に、「これは私の話だ」と思う人がいても、どうか、それは誤解であることを、ご理解ください。
私はいかなるばあいも、現在、関わりのある人や、交際している人の話を書くということはしません。

                     はやし浩司


第一章……常識からはずれる親たち

 子育てはまさに迷いの連続。迷いのない子育てはないし、迷って当たり前。しかし迷っているうち、ふと袋小路に入ってしまうことがある。問題はそのとき。

 迷いながらも、どこかに指針があれば、その方向に出口を見出すことができる。しかしその指針がないと、迷うまま、まっ暗な世界に入ってしまう。そしていつの間にか、とんでもない非常識なことをしながら、それが非常識だとさえわからなくなってしまう。そんな失敗例を集めたのが、第一章、「常識からはずれる親たち」。

 私はそれを皆さんに伝えながらも、こうした非常識な親を笑っているのではない。楽しんでいるのでもない。こうした失敗は(失敗という言葉は好きではないが……)、だれにでもあるもの。まただれにでも起こりえるもの。決して他人のことではない。第一章は、そんなあなたの指針となることを願って書いた。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

第二章……子どもをダメにする親たち

 放任がよいわけではないが、子どもというのは、親が子どもに向かって何かをすればするほど、別の方向に行く。そこで親は、また子どもに向かって何かをする。あとはこの悪循環。気がついたときには、親も子どももにっちもさっちもいかない状態になる。

 が、問題は、この悪循環ではない。問題は、その途中でそれに気がつく親はまずいないということ。たいていの親は、「まだ何とかなる」「こんなはずはない」「うちの子にかぎって」と無理に無理を重ねる。これが子どもをますます悪い方向においやる。そんな失敗例を集めたのが、第二章、「子どもをダメにする親たち」。

今、あなたの子どもが幼児なら、これから先、失敗しないため。今、何か問題があるなら、これ以上その問題を悪くしないため。そそして今、その問題の最中にあるなら、その問題を解決するため。第二章は、それをあなたに知ってほしくて書いた。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

第三章……親バカにならないために

 ほとんどの親にとっては、子育てははじめて。しかも一人だけ。多くても、二人、あるいは三人。ある母親はこう言った。「やっと親らしくなれたと思ったときには、子育てはもう終わっていた」と。

 そこで私が登場……、というと、何とも手前ミソのような感じがしないでもない。しかし私ほど、子育ての最前線で数を踏んだ人間もいない。私の頭の中には、無数の成功例と、同じ数だけの失敗例が入っている。そういう経験から得た知識をまとめたのが、第三章、「親バカにならないために」。

 本来ならこうした子育て論こそ、私が書きたいところ。私の子育て論というより、私の前を通りすぎた無数の親や子どもの経験といたほうがよいかもしれない。そこには無数の汗と涙が凝縮している。第三章はそれをあなたに伝えたくて書いた。
 
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

給食もレストラン感覚で!
非常識が常識(失敗危険度★★★)

●「足の裏をみるのですかア」

 「最近の母親たちはバッグを平気でベッドの上に置く」と、ある小児科の医師が怒っていた。が、それだけではない。「子どもをベッドに寝させてください」と言うと、今度はスリッパをはかせたままベッドの上に……! そこで看護婦が、「スリッパをぬがせてください」と言うと、その母親は、「足の裏をみるのですかア」と。

●最近の親たち

 こういう非常識な母親はいくらでもいる。幼稚園へ入園するについても、最近の母親で、「入れていただけますか?」と聞く親はまずいない。当然入園できるという前提で、幼稚園へやってくる。中には幼稚園へやってきて、見学だの、体験学習だの、さらには給食の試食までしていく親がいる。帰りぎわに主任の教師が、恐る恐る、「入園はどうしますか?」と聞くと、「もう二、三か所、あちこちの幼稚園を回って決めるワ」と。私にもこんな経験がある。

●「一回休みましたから」

 そのころ園長の指示で、希望者だけを集めて特別講座を開いていた。わずかだったが、別に講座費(月額3000円)をとっていた。が、それがよくなかった。5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)のクラスだけが、月3回になってしまった。それについて、その母親から、「補講してほしい」と。しかしたまたま月3回になったのは、私の責任ではない。そこで「補講はしません」というと、今度はその父親が電話に出てきて、こう言った。「月4回ということで、講座費を払っている。3回しかしないというのは、サギだ。ついては、お前をサギ罪で訴える」と。市内で歯科医師をしている父親からの電話だった。

 あるいは同じころ、たまたま月1回を病気か何かで休んだ子ども(年長男児)がいた。よくあることだが、あとでみると、講座費がちょうど4分の3の、2250円になっていた。いや、そのときはそれに気づかず、「お金が足りませんが……」と言うと、その母親は平然とこう言った。
「一回休みましたから」と。

●給食もレストラン感覚で

 もっともこの程度の非常識はこの世界では常識。先日も神奈川県のU幼稚園で講演をさせてもらったのだが、その園長がこっそりとこう教えてくれた。「今では、昼の給食もレストラン感覚で出してやらないと親は納得しないのですよ」と。「子どもに給仕をさせないのですか?」と聞くと、「とんでもない! スープでヤケドでもしようものなら、親が怒鳴り込んできます」と。

 今、子育ての世界では、非常識が常識になってしまっている。しかも何が常識で、何が非常識なのか、それさえわからなくなってきている。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

何をお高くとまってんの!
神経質になる母親たち(失敗危険度★★★★)

●「あなたの教育方針は何か」

 ある日一人の母親が四歳になる息子をつれて音楽教室の見学にやってきた。音楽教室の先生は、三〇歳そこそこの若い先生だった。音大を出たあと、一年間ドイツの音楽学校に留学していたこともある。音楽教室の中では、そこそこに評価の高い先生だった。しかしその母親は、その先生にこう食いさがった。「あなたの教育方針は何か」「子どもの未来像をどう考えているか」「あなたの教育理念をしっかりと話してほしい」と。

●幼児と教育論?

 「たかが……」と言うと叱られるが、「たかが週一回の音楽教室ではないか」と、その音楽教室の先生は思ったという。が、こうした質問にていねいに答えるのも仕事のうち、と考えて、あれこれ説明した。が、最後にその母親はこう言って、その教室をあとにしたという。「これから家に帰って、ゆっくり息子と話しあってきます」と。まさか四歳の息子と教育論?

●「失礼」を知らない母親たち

 私のところにも、こんなことを相談してきた親がいた。「うちの子は今度、E英会話教室に通うことにしましたが、先生がアイルランド人だというではありませんか。ヘンなアクセントが身につくのではないかと心配です」と。さらに中には電話で、私に向かって、「あなたの教室と、K式算数教室とでは、どちらがいいでしょうか?」と聞いてきた母親さえいた。

さらに「うちの子はBW(私の教室の名前)に入れたくないのですが、どうしても入りたいと言うのでよろしく」と言ってきた母親もいた。こういう母親には、「失礼」とか「失敬」という言葉は通じない。で、私は私で、そういう失敬さを感じたときは、入会そのものを断るようにしている。が、それすら口で言うほど簡単なことではない。

●「フン、何をお高くとまってんの!」

 こうした母親に入会を断ろうものなら、デパートで販売拒否にでもあったかのように怒りだす。「どうしてうちの子は入れてもらえないのですか!」と。「紹介? あんたんどこは紹介がないと入れないの? フン、何をお高くとまってんの! そんな偉そうなこと言える教室じゃないでしょ」と悪態をついて電話を切った母親すらいた。つい先日もこんなことがあった。

●初対面のときとは別人

 父親と母親につれられて中学一年生になったばかりの男子がやってきた。見るからにハキのなさそうな子どもだった。いやいや両親につれられてやってきたということがよくわかった。会うと父親は、「どうしてもA高校へ入れてほしい」と言った。ていねいな言い方だったが、どこかインギン無礼な言い方だった。で、一通り話は聞いたが、私は「返事はあとで」とその場は逃げた。親の希望が高すぎるときは、安易に引きうけるわけにはいかない。

 で、その数日後、私がファックスで入会を断ると、父親がものすごい剣幕で電話をかけてきた。「貴様は、うちの息子は教えられないというのか。A高校が無理なら無理と、はっきりといったらどうだ!」と。初対面のときとはうって変わった声だった。私が「息子さん能力とは関係ありません」と言うと、さらにボルテージをあげて、「今に見ろ。ちゃんとうちの子をA高校に入れてみせる!」と怒鳴った。もっともこの父親は、それから半年あまりあとに、脳内出血でなくなってしまった。私と女房は、妙にその事実に納得した。「うむ……」と。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

私の考えが絶対に正しい!
自分の世界で子育てをする母親たち(失敗危険度★★)

●「林先生は、ちゃんと指導していない」

 年中児になると、子どもというのは、とくに教えなくても文字を書けるようになる。もちろん我流だが、それはそれとしてこの時期はおお目に見る。で、ある日私が子ども(年中男児)の書いた文字に大きな花丸をつけて返したときのこと。その日の夕方、母親から抗議の電話がかかってきた。「あんなメチャメチャな字に、花丸などつけないでください!」と。そしてその電話のあと園長にまで電話をかけ、「林先生は、ちゃんと指導していない。どうしてくれるのか」と迫った。

●祖父が教師へ飛び込んできた

 これに宗教がからむと、さらにやっかいなことになる。ある日赤ペンで、その子ども(年中女児)の名前を書いたときのこと。あとからその子どもの祖母から抗議の電話があった。いわく、「赤字で名前を書くとはどういうことですか。もし万が一、うちの孫に何かあったら、あなたのせいですからね!」と。何でも赤字で名前を書くのは、不吉なことなのだそうだ。またこんなことも。

 ある日、私が肩が痛いと言うと、「なおしてあげる」と申しでてきた子ども(小五男児)がいた。「ありがたい」と思って頼むと、その子どもは私の肩に手をかざして、何やらを念じ始めた。で、私が「そんなのならいい。どうせなおらないから」と言うと、その子どもは笑いながら手を離した。私も笑った。

が、その翌日、まず祖父が教室へ飛び込んできた。「貴様は、うちの孫に何てことを教えるのだ!」と。つづいて母親までやってきて、「うちの宗教を批判しないでください!」と。その家族はある宗教団体の熱心な信者だった。さらに……。

●「あなたはせっかくのチャンスをムダにした」

 クラスの生徒の家庭に不幸があるたびに、「私なら何とかできます」と申し出てきた女性(四一歳)がいた。私の知人の姉にあたる人だった。話を聞くと、「私なら救うことができます」と。そのときもそうだった。子ども(小二)が、重い小児ガンになっていた。私も何とかしたいと思っていたので、つい気を許して、「お願いします」と言ったが、それからがたいへんだった。

その女性はまず箱いっぱいの書籍をもってきた。みるとその教団の教祖が書いた本だった。
が、それで終わらなかった。ついで、そのガンの子どもの家を紹介してほしいと迫ってきた。しかし、それはまずい。相手の人は、相手の人で、毎日壮絶な苦しみと戦っている。そういう家族に、本当に救えるのならまだしも、宗教をすすめるのは、まずい。しかしその女性にはそれがわからない。私はていねい断ったのだが、こう言った。「あの子は私の力で治せる。あなたはせっかくのチャンスをムダにした」と。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

うちの子はやればできるはず!
身のほど知らず(失敗危険度★★★★★)

●それを言ったら、おしまい

 子どもを信ずるのは大切なことだが、それにも限度がある。その能力のない子どもの親から、「何とかしてほしい」と言われることぐらい、つらいことはない。思わず「遺伝子の問題もありますから」と言いそうになるときもある。が、それを言ったら、おしまい。

●三割削減

 学習内容が全体で三割程度削減されることになったときのこと。それについて、「このあたりには私立の小学校がないが、どうしたらよいか」と相談してきた親がいた。私立の小学校では、今までどおりの授業をすると思っているらしい。が、それはそれとして、その子ども(年長男児)は私がみたところでも、学校の授業についていくだけでもたいへんだろうな思われる子どもだった。そういう子どもの親が三割削減の心配をする? むしろ三割削減を喜ぶべきではないのか。

そう言えば、名古屋市で学習塾を開いているY氏も同じようなことを言っていた。「クラス
でも中位以下の子どもの親から、(最上位の)S高校へ入れてくれと言われるくらい、困ることはないよ」と。

●親の過剰期待

 が、この期待が子どもに向かうと、過剰期待になる。何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど子どもを苦しめるものはない。たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。事実そのとおりだが、やる、やらないも力のうち。「やればできる」と思ったら、「やってここまで」とあきらめる。が、これがむずかしい。

 誤解、その一……むずかしいワークをやればやるほど、勉強ができるようになるという誤解。しかし事実はまったく逆。無理をすればそのときは多少の力はつくかもしれないが、しかしそういう無理は長続きしない。(勉強から逃げる)→(親がますます無理をする)の悪循環の中で、子どもはますますできなくなる。

 誤解、その二……勉強の量(勉強時間)をふやせばふやすほど、勉強ができるようになるという誤解。しかしダビンチもこう言っている。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない』と。意欲をともなわない勉強は、身につかないということだが、実際には逆効果。子どもは時間ツブシや、フリ勉がうまくなるだけ。しかも小学校の低学年で一度、勉強から逃げ腰になると、以後、それをなおすのは不可能といえるほど、なおすのがむずかしくなる。

 誤解、その三……訓練すればするほど、勉強ができるようになるという誤解。たしかに計算や漢字の学習は、訓練すればするほど、それに見合った効果が期待できるときもある。しかし計算力があるからといって、算数の力があることにはならない。漢字をよく知っているからといって、国語(作文)の力があることにはならない。もう少しわかりやすい例では、年中児ともなると、ペラペラと本を読む子どもが出てくる。しかしだからといって、その子どもは国語の力があるということにはならない。たいていは文字を音に変えているだけ。

●一人の母親がやってきた

 しかし母親にはそれがわからない。夏休みになる少し前、一人の母親が私をたずねてきた。私の本の読者だというので、私もその気になっていたが、会うとこう言った。「うちの子は言葉も遅れた。二年生になるとき、特別学級(養護学級)をすすめられているが、今のところ何とか断ることができた。何とか学校の勉強についていきたいので、先生(私)のところで夏休みのあいだだけでもいいから、めんどうをみてくれないか」と。

●ワークブックがぎっしり!

 で、その子どもに会うと、カバンの中に難しいワークブックがぎっしりと詰まっていた。ふつう、J社、G研、O社のワークブックは買ってはいけない。J社のワークブックは、難解な上に、問題がひねってある。G研やO社のワークブックは、問題の「落差」が大き過ぎる。

 たとえば同じ見開きのページの中でも、左上の一番の問題は、眠っていてもできるような簡単な問題。が、右下の最後の問題は、「こんな問題、できる子どもがいるのだろうか?」と思うほどむずかしい問題であったりする。つまり落差が大き過ぎる。

こうしたワークをかかえたら最後、子どもの学習はそこでストップしてしまう。その子どものワークブックはそのJ社のものばかりだった。しかも、問題量が多いというか、こまかい字のものばかり! 親としては、問題量が多いということは、それだけ「割安」と考えるのかもしれないが、それも誤解。ワークブックはスーパーで買う食品と同じに考えてはいけない。

●ワークブックが足かせに

 ついでながら、子どものワークブックを選ぶときは、(1)動機づけ、(2)達成感の二つを大切にする。動機づけというのは、子どもをその気にさせること。達成感というのは、いわば満足感のことだ。この二つをクルクルまわりながら、子どもは勉強好きになる。

 私が「ワークブックはすべて捨てなさい」と言うと、その母親は目を白黒させて驚いた。さらに私が、「子どもには内緒で、幼児用のワークブックを使わせます」と言うと、さらに白黒させて驚いた。そして「では、指導していただかなくて結構です」と言って、そのまま去っていった。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

勉強だけできればいいの!
ガツガツママのモチ拾い(失敗危険度★★★★)

●基礎教養

 「教育」をどうとらえるかは、人それぞれ。そのハバもその深みも、その人によって違う。ある母親は娘(小二)を育てながら、一方で本の読み聞かせ会を指導し、乳幼児の医療問題研究会を組織し、議会運動までしていた。母親教室にも通っていたし、学校のPTAの役員もし、クラス対抗のお母さんバレーも指導していた。そういうのを「基礎教養」と私は呼んでいるが、その母親のまわりには、その基礎教育があった。が、一方、その基礎教養がまったくない親がいる。ないまま、受験教育だけが「教育」と信じ、それだけに狂奔する。Rさん(三五歳)がそうだ。

●なりふりかまわない子育て

 Rさんは、夫の実家が裕福なことをよいことに、家計にはほとんど関心をもたなかった。夫はある運送会社で荷物の仕分け作業の仕事をしていた。が、Rさんは、子ども(小二男児)の教育には惜しみなく、お金を注いだ。おけいこ塾も四つをかけもちした。空手道場、ピアノ教室、英語教室、それに水泳教室、と。水泳教室にかよわせたのは、子どもに喘息があったからだが、当然のことながら家計はパンク状態。そのつど夫の実家から援助を受けていた。が、それだけではない。夫の一か月の給料でも買えないような学習教材を一式買ったこともある。最近では子どもの学習用にと、中古だがコピー機まで購入している。

●モチまきのモチ?

 Rさんのような母親を見ていると、教育とは何か、そこまで考えてしまう。不快感すら覚える。それはちょうど、バイキング料理で、「食べなければ損」とばかり、つぎからつぎへと、料理をたいらげている女性のようでもある。あるいは、モチ投げのとき、なりふり構わずモチを拾っている女性のようでもある。「教育」と言いながら、その人を包み込むような高い理念がどこにもない。いや、そういう人にしてみれば教育とは、まさにモチまきのモチでしかないのかもしれない。

●私はハタと困った

 私はそのRさんのことをよく知っていた。が、あろうことか、ひょんなところから、そのRさんから子どもの教育の相談を受けるハメになってしまった。最近、子ども(小二男児)が、Rさんの言うことを聞かなくなったというのだ。そこで一度、面接してみると、その子どもには、いわゆるツッパリ症状が出ていた。すさんだ目つき、乱暴な言葉、キレやすい性格など。動作そのものまで、どこか野獣的なところがあった。ほうっておけば、まちがいなく非行化する。

●私は超能力者?

私のばあい、数分も子どもと接すると、その子どもの将来が手に取るようにわかる。今、どういう問題をかかえ、これからどういう問題を起こすようになるかまでわかる。よく「超能力者のようだ」と言われるが、三〇年も毎日子どもたちと接していると、それがわかるようになる。方法は簡単。

 まず今までに教えた子どもの中から、その子どもに似た子どもをさがす。そしてその子どもがその後どうなっていったかを知る。さらに私のばあい、幼稚園の年中児から高校三年生まで、教えている。しかも問題のあった子どもほど、印象に強く残っている。あとはそれを思い出しながら、親に話せばよい。そういう意味では、この世界では経験がモノを言う。が、この段階で、私はハタと困ってしまった。「それを親に言うべきか、どうか」と。

●間の距離が遠すぎる

 ここで出てくるのが、「基礎教養」である。もしRさんに豊かな教養があれば、私は迷わず、その子どもの問題点を話すであろう。話すことができる。しかしその教養のない親には、話してもムダなばかりか、かえって大きな反発を買うことになる。それだけの教養がないから、説明のしようがない。それはちょうどバイキング料理をむさぼり食べている女性に、栄養学の話をするようなものだ。もっと言えば、掛け算もまだわからない子どもに、分数の割り算の話をするようなものだ。間に感ずる距離が、あまりにもある!

 Rさんはさかんに、それも一方的に、「はやし先生にみてもらえるようになって、うれしいです。よかったです」と言っていたが、私は私で、「少し待ってください」とそれを制止するだけで、精一杯だった。私の話すら、ロクに聞こうとしない。それだけではない。このタイプの親というのは、もともと一本スジの通った哲学がないから、成績がさがったらさがったで、今度は私の責任をおおげさに追及する。それがわかっているから、その子どもの指導を引き受けることができない。で、案の定というか、私が数日後、電話で、力にはなれないと告げると、私の説明を半分も聞かないうちに、携帯電話をプツンと切ってしまった。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

昔は子殺しというのも、あったからねえ!
女性の三悪(失敗危険度★★★★)

●人間そのものを狂わす

 嫉妬、虚栄心、母性本能を、女性の三悪という。ここで母性本能を悪と決めつけるのは正しくないかもしれないが、性欲や食欲と同じように考えてよい。この本脳があるからこそ、親は子を育てるが、使い方をまちがえると、人間そのものを狂わす。そういう意味で、三悪のひとつに加えた。

(1)まず嫉妬……こういう話は、プライバシーの問題がからむため、ふつうは正確には書かない。しかしそれにも限度がある。あまりにもふつうでない話のため、あえて事実を正確に書かねばならないときもある。こんな話だ。

●ライバルの子どもを足蹴り

 H市の郊外にU幼稚園という小さな幼稚園がある。あたりは高級団地で、そのレベルの家の子どもたちがその幼稚園に通っていた。そこでのこと。その母親は自分がPTAの会長であることをよいことに、いつもその幼稚園に出入りしていた。そして自分のライバルの子ども(年中女児)を見つけると、執拗ないじめを繰り返していた。手口はこうだ。まずその女の子の横をそれとなく通り過ぎながら、足でその女の子を蹴飛ばす。その勢いで倒れた女の子を、「どうしたの?」と言いながら抱くフリをしながら、またカベに投げつける……。年中児なら、かなり詳しくそのときの状況を話すことができる。

 その女の子は、その母親の姿を見ただけで、まっさおになっておびえるようになったという。当然だ。そこでその女の子の母親が「どうしたらいいか」と相談してきた。いや、その前に、その母親は相手の母親に、それとなく抗議したというが、相手の母親は、とぼけるだけで、話にならなかったという。しかも相手の母親の夫というのは、ある総合病院の外科部長。自分の夫は、同じ病院でもヒラの外科医。夫の上司の妻ということで、強く言うこともできなかったという。

●珍しい話ではない

 こういう話は、この世界では珍しくない。嫉妬がからむと、人間はとんでもないことをする。脳のCPU(中央演算装置)そのものが、狂うときがある。これも実話だが、ある母親は同じ団地に住む別の母親の子ども(四歳児)を、エレベータの中で見つけると、いつも足蹴りにしていじめていた。そのためその子どもは、エレベータを見るだけでおびえるようになったという。

問題は、なぜ、そこまで母親というのは狂うかということ。先にあげた母親は、幼稚園でもPTAの会長をしていた。多分会合の席なのでは、それらしい人物として振舞っていたのだろう。考えるだけでもぞっとするが、しかし人には、その人でない部分がある。この話を叔母にすると、叔母はこう言った。「昔は子殺しというのもあったからねえ」と。母親も嫉妬に狂うと、相手の子どもを殺すことまでする……?

 つぎに(2)虚栄心。「世間」という言葉を日常的に使う人ほど、虚栄心の強い人とみる。いつも他人の目の中で、自分を判断する。価値観というのが、いつも相対的なもので、他人より財産があれば、豊かと感じ、そうでなければ貧しいと考える。子どもにしても、このタイプの母親には、「飾り」でしかない。もともと自己中心性が強いため、親意識も強い。「私は親だ」と。そしてその返す刀で、子どもに向っては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せる。

●他人の不幸を喜ぶ親

 このタイプの母親には、他人の不幸ほど、楽しい話はない。ここに書いたように価値観が相対的であるため、他人が不幸であればあるほど、自分がより幸福ということになる。Tさん(三五歳女性)がそうだった。幼稚園へはいつも、ものすごい着物でやってきた。そして若い先生に会ったりすると、その場できどった言い方で、こう言った。「アーラ、先生、お元気そうザーますね。まあ、すてきな香り、よいご趣味ザーますわね」と。私はてっきりすごい家柄の母親だとばかり思っていた。そしてこんなこともあった。

 幼稚園で遠足に行くことになったときのこと。母親たちの間で、昼の弁当はどうするかという話がもちあがった。二、三人の親が、サンドイッチはどうかしらと提案したそのとき、Tさんはあたりをおさえるようにして、こう言った。「ア~ら、(幼稚園生活で)最後の遠足ザーますから、皆さんで仕出し弁当か何かを頼んだら、いかがザーますかしら」と。

 で、どういうわけだかそのときは反対する人もなく、その仕出し弁当になってしまった。何でもTさんの知人がそのお弁当を作ってくれるという。値段は「割安」とは言ったものの、当時の平均的な弁当の二倍以上の値段だった。私はそのとき三〇歳少し前。年上の母親には何も言えなかった。

●豪華な着物

 そのTさんだが、子どもへの執念にも、ものすごいものがあった。たとえば誕生会は、市内のレストランで開いていた。しかも招待するのは、そのレベルの人たちばかり。私にも招待の声がかかったが、何を着ていこうかと迷ったほどである。そしてさらに秋の遊戯会でのこと。そのクラスで、浦島太郎をすることになった。

が、Tさんは、「どうしてもうちの息子に、乙姫様をやらせたい」と申し出てきた。男の子が乙姫様というのもおかしいという声もあったが、結局Tさんに押し切られてしまった。が、驚いたのは最後のリハーサルの日のこと。Tさんがもちこんだ着物は、日本舞踊で使うような、これまた豪華な着物だった。これには担任の若い先生も驚いて、「そこまではしない」ということになったが、Tさんは悪びれる様子もなく、こう言った。「うちには
昔からのこういった着物がありますザーますの。皆さんにもお貸ししましょうかしら、ホホホ」と。Tさんは、ただ着物をみせびらかしたかっただけだった。

●私はわが目を疑った!

 私は少なからずTさんに興味をもった。大会社の社長の夫人か。それとも大病院の院長の夫人かと思った。が、ある日のことだった。それは偶然だった。私が何かの用事で、ふらりとある大型スーパーの、そのまたある売り場へ行ったときのこと。そこで私はわが目を疑った。(こう書くからといって、そういう人がザーます言葉を使ってはだめだと言っているのではない。誤解がないように!)何とそのTさんが、頭にタオルを巻いて、その店で裏方の仕事をしていたのだ。髪の毛も、幼稚園へくるときとは、まったく違っていた。それに目がねまでかけていた。それを見て、私は声をかけることもできなかった。何か悪いものをみたように感じ、その場をそそくさと離れた。

 そして(3)母性本能……前にも書いたが、母性本能があるから悪いといっているのではない。この本脳というのは、扱い方が本当にむずかしい。母親自身もそうなのだろうが、まわりのものにとっても、である。この母性本能が狂い始めると、親と子が一体化する。これがこわい。

●子どもは芸術品

 母親にとっては、子どもは芸術品。それはわかる。だから子どもを批評したり、けなしたりすると、子ども以上に、母親はそれを不愉快に思う。それもわかる。が、それにも限度がある。こんなことがあった。

 M君(年中男児)は、かん黙症の子どもだった。かん黙症といっても、全かん黙と、場面かん黙がある。私はこのほか、条件かん黙というのも考えている。ある特定の条件下になると、かん黙してしまうのである。M君もそんなタイプの子どもだった。何かの拍子に、ふとかん黙の世界に入ってしまった。そのときもそうだった。順に何かの発表をさせていたのだが、M君の番になったとたん、M君はだまりこくってしまった。視線をこちらに合わせようともしない。やさしく促せば促すほど、逆効果で、柔和な笑みを一方で浮かべながら、ますますかたくなに口を結んでしまった。

●M君の問題点

 実はそのとき私はM君の母親に、それとなくM君の問題点を見てもらうつもりでいた。教育の世界では、ドクターが患者を診断して診断名をくだすような行為はタブー。こういうケースでも、「あなたの子どもはかん黙児です」などとは、言ってはならない。わかっていても、知らぬフリをする。フリをしながら、それとなく親に悟ってもらうという方法をとる。M君のケースでも、私はそう考えた。で、その少し前、M君の母親に会ったとき、そのことについて話すと、M君の母親はそのまま激怒してこう言った。「うちではふつうです。うちの子は、新しい環境になじまないだけです!」と。それで私はその日は母親に参観に来てもらうことにした。が、その日にかぎって、ほかに三、四人の母親も参観に来ていた。それがまずかった。

 じりじりとした時間が流れていくのが、私にはわかった。ふつうならそこで隣の子にバトンタッチして、その場を逃げるのだが、そういう問題点を母親にも見てほしかった。それでいつもより時間をかけた。私「あなたの番だよ、どうかな?」、M「……」、私「こちらを見てくれないかな?」、M「……」、私「もう一度言うから、よく聞いてね?」、M「……」と。

●激怒したM君の母親

 こういうとき親のほうから、「どうしてでしょう?」という問いかけがあれば、そのときから指導ができる。問いかけがなければそれもできない。少し時間はかかるが、親自身が子どもの問題点に気づくのを待つしかない。私はM君の母親の心の中を思いやりながら、時間が過ぎるのを待った……。が、そのときだった。

 M君の母親がものすごい勢いで子どもたちのほうの席へやってきた。そしていきなりM君の腕をつかむと、M君をそのままひきずるようにして、部屋の外へ出て行ってしまった。本当にあっという間のできごとだった。ただ最後に、M君の母親が、「M! 行くのよ!」と言ったのだけは、よく覚えている。

 が、それですんだわけではない。M君の母親からその夜、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「あなたの指導方法はうちの子にあっていません」と。私は平謝りに謝るしかなかった。M君の母親は、こう言った。「うちの子をあんな子にしたのは、あなたの責任です。ちゃんと話せていたのに、話せなくなってしまった。どうしてくれるんですか! 明日園長に話して、責任をとってもらいます」と。いろいろあって、私にも微妙な時期だったので、私は「それだけは勘弁してください」としか、言いようがなかった。

●自分で行き着くところまで行くしかない

 しかし今でもときどきあのM君を思いだすときがある。そしてこう思う。親というのは、結局自分で行き着くところまで行って、はじめて、自分に気がつくしかない、と。またその途中で、それに気づく親はいない。いても、「まだ何とかなる」「そんなはずはない」と無理をする。「うちの子に限って、問題はない」と思う親もいる。子育てにはそういう面がいつもついて回る。それは子育ての宿命のようなものかもしれない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

あんたはそれでも日本人ですかア!
アルツハイマー病(失敗危険度★)

●アルツハイマー病という病気
 アルツハイマー病(アルツハイマー型痴呆症)という恐ろしい病気がある。近年、急速にその原因が究明されてきて、その治療薬もどんどん進歩している。だから以前ほど深刻に考える人は少ないかもしれない。しかし恐ろしい病気であることには違いない。

 そのアルツハイマー病の初期症状は、記憶力低下、被害妄想、短気、人格の変化などだそうだ(東京慈恵会医科大学・笠原洋勇氏)。が、その初期症状の、そのまた初期症状というのもあるそうだ。たとえばがんこになる、自己中心性が強くなる、繊細さが消えて、ズケズケとものを言うなど。アルツハイマー病になる人はともかくも、(案外、本人はハッピーな気持ちかもしれないが)、その周囲の人が迷惑をする。いや、家族はそれなりに納得してつきあうが、そのまた周囲というか、親しくもないが、他人とも言えない人たちが迷惑をする。たとえば学校の先生。ふつうの迷惑ではない。ズケズケとものを言うのは、本人の勝手だが、言われたほうはキズつく。Jさん(四五歳)という母親がいた。

●飛躍する論理
 ある日Jさん(四〇歳女性)が、血相を変えて私の事務所へやってきた。そしてこう言った。
「私、頭にきたから、三〇年来の友人と今度、絶交した」と。よほどのことがあったのだろうと思って理由を聞くと、こう言った。「Uさんは日本人のくせに、エトロフ島はロシアの領土だと言うのよ。許せない」と。私はとっさに「そんなことで!」と思ったが、つづけてJさんは、「エトロフ島には、アイヌ民族の墓があるのよ。日本人の祖先でしょ」と。

 論理がどんどんと飛躍していって、つかみどころがない。が、私が「まあ、どうでもいい問題ですね」と言うと、今度は私に向かって、「先生、あんたはあちこちで講演なさっているということですが、それでも日本人ですかア!」と食ってかかってきた。私は「人にはそれぞれ違った考え方があるから、それはそれとして尊重してあげればいい」という意味でそう言っただけなのだが…
…。

●発症率は五%

 問題は発症率だが、四〇歳前後で発症し始め、五%前後というのが通説になっている。五%といえば、二〇人に一人ということになる。それに四〇歳前後といえば、ちょうど子どもが中学生くらいになった年齢に相当する。ということは、仮に三〇人クラスで計算すると、親の数は六〇人。何と一クラスに、三人はそういう症状をもった親がいるということになる。

実際、このタイプの親にかかわると、かなりタフな神経をもっている教師でも、かなり痛めつけられる。ある中学教師は、父母懇談会の席で、ある母親に、「あんたのような教師が教師をしていると、日本が滅ぶ」と言われた。あるいは「最近の子どもたちが荒れるのは、先祖を粗末にする教師がふえたからだ。学力がさがったのも、そこに原因がある。あなたにも責任をとってほしい」とも。

●私の経験から

 このタイプの母親は(父親もそうだが、私は職業上、圧倒的に母親に接する機会のほうが多いので、父親のケースは、ほとんど知らない。またことアルツハイマー病についていうなら、女性の発症率は男性の三~四倍だそうだ)、どこか心がかよいあわないといった感じになる。こちらが親密な話をしようとしても、うわの空。何か質問をしても、不自然で、ぶっきらぼうな反応しかない。

 私「夏休みには、どこかへ行くのですか?」
母「主人の稼ぎしだいですわ」
私「計画は……?」
母「計画なんてものはね、破るためにつくるものでしょ。あんた先生なのに、そんなこともわからないの!」
私「……」と。

●突然解雇!
 そんなある日、一人の女性教師から電話がかかってきた。何でも突然クビを切られたというのだ。話を聞くと、庭で園児を指導していると、園長が突然やってきて、「あんたは来週から、もうこの園にはこなくていい」と言ったという。その教師は興奮してそのときの状況を話してくれた。よほど悔しかったのだろう。自分のほうから過去の業績をあれこれ話してくれた。

 しかしこういう解雇のし方は、労働基準法に照らすまでもなく不当である。で、私もそのことが気になって、別の幼稚園の園長に電話をかけ、その女性教師の勤める幼稚園の園長の様子を聞くことにした。が、電話をかけると、その園長はこう教えてくれた。「あの、D幼稚園のD園長ね、あの園長、最近少し様子がおかしいですよ。まともに相手にしてはいけません」と。そういうこともある。

●それでもやけどする

 もっともこういう仕事を三〇年以上もしていると、問題のある母親は、直感的にかぎ分けることができる。昔から『さわらぬ神にたたりなし』というが、かかわらないことこそ賢明。ただ淡々と、事務的に会って別れる。へたに首をつっこむと、それこそおおやけどをする。……と言いつつ、そのおおやけどをすることが多い。

●印象に残ったSさん

 私がSさん(四二歳女性)をおかしいと最初に思ったのは、私がトイレから出たときのことだ。Sさんはトイレのドアの外で立って私を待っていた。まだ洗った手から水がポタポタと落ちるような状態だったし、トイレの中の臭いが体にまとわりついているような状態だった。私なら人を待つとしても、そういうところでは待たない。相手が当惑することが、簡単に予想できるからだ。

が、Sさんは、そのトイレのドアのところで私を待っていた。そして「このワークでいいか」と聞いてきた。「子どもに与えるワークは、これでいいか」ということだった。私はSさんをすぐ別の部屋に招いたが、そのとき感じた不快感は、Sさんと別れるまでずっと消えなかった。

●奇怪な行動

 そのSさん。大病院の精神科の医師を夫にもっていたが、それ以後、信じられないような奇異な行動が目だった。あとでこの話を別の友人に話すと、「まさかア」と絶句してしまったが、たとえば……。
(この話を、当時つきあっていた出版社の知人に話すと、その知人は、こう言った。
「そんなことないでしょ」と。しかし事実は事実。)

 事務所でひとりで待たせておいたりすると、インスタントコーヒーなどを盗んでもって帰ってしまうのである。それも封を切ったようなコーヒーをである。あるいは懇談会の席で、「Gさんのダンナさんは、この前飲酒運転をして、警察に逮捕されたんですってね」とか言ったりしたこともある。

 この事件のときは、さすがのGさんも堪忍袋の緒が切れて、裁判ザタになる寸前まで、話がこじれた。が、こういうSさんのような母親が、父母会などに出てくると、それこそ話がめちゃめちゃになってしまう。いろいろなことがあった。

●Sさん語録

そのSさんは無数の「Sさん語録」を私に残してくれた。

○子どもは一人。多くて二人。三人以上はダ作。日本人の平均的給与でカバーできるのは、二人まで。三人以上は、国が預かるようにすればよい。
○コンピュータ教育は人間をダメにする。コンピュータに頼れば頼るほど、人間の思考と記憶は退化する。
○幼児期からしっかり教育すれば、どんな子どもでも東大へ入れる。入れないのは、幼児期の教育がまちがっているから。
○サッカーは、人間をダメにする。ボールと能力はよく似ている。能力を左右に動かしても、人間の能力は向上しない。

また政治問題にも詳しく(?)、こんなことも言った。
○韓国や中国の現在の繁栄は、日本のおかげだ。日本が指導したから、今のように繁栄できるようになった。韓国や中国は日本の占領に感謝すべきだ。
○アメリカは日本を植民地化しようとしている。一方、日本政府は、アメリカの六〇番目の州に立候補している。
○日本は満州を占領したが、もともとあの土地には人は住んでいなかった。だから占領しただけ。だれも文句を言うべきではない。
○太平洋の半分は日本のものだ。アメリカと日本で半分ずつ分けるべきだ。太平洋の中央に境界線を引けばよい、ほか。

●人格障害

ある時期Sさんは、毎日のように私のところへやってきて、とっぴもない議論をふっかけてきた。が、そのうち私のほうが疲れてしまい、逃げ腰になった。が、そういう私の姿勢を敏感に察知して、こなくなったと同時に、今度は私の悪口を言いふらすようになった。Sさんの友人のTさん(三七歳)はこう言った。

 「Sさんに反論すると、Sさんは顔を真っ赤にして怒りだします。だからこわくて反論できません。機嫌をそこねないように、こちらも『そうです、そうです』とだけしか言いようがないです」と。

 それからほぼ一五年。聞くところによると、Sさんは自宅のマンションに閉じこもったまま、一歩も外へ出てこないという。あれこれトラブルを引き起こすので、夫が外へ出したがらないとのこと。どういう病気であるかは断定できないが、しかしおおよその推察はつく。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

やめるということは、クビ切りだ!
去り際の美学(失敗危険度★)

●リセット症候群

 この世の中、人との出会いは、意外と簡単。その気になれば、それこそ掃いて捨てるほど(失礼!)ある。携帯電話やインターネットの普及が、その背景にある。しかし問題は別れるときだ。別れるときに、その人の真価がためされる。

 もっとも今は、その別れ方も電子化している。ちょうどパソコンのスイッチを消すかのように、まったくゼロに戻して別れてしまう。こういった別れ方を「リセット症候群」と呼ぶ人もいる。別れ方そのものが、サバサバしている。たとえば卒業式にしても、昔は皆が泣いた。先生も生徒も、そして親たちも泣いた。しかし今はそれがすっかりさま変わりした。

 もっともドライといえばドライなのが、ブラジルからやってきた日系人家族だそうだ(K小学校校長談)。ある日突然学校へやってきて子どもを入学させる。そしてある日突然、同じようにいなくなる、と。日本人もドライになったとはいえ、まだそこまでドライではない。ないが、それに近い状態になりつつある。

●「怒りで手が震えたよ」

 私と二〇年来の友人に、学習塾を経営しているF君がいる。ちょうど同じ年齢で、あれこれ情報をもらっている。そのF君は温厚な人物だが、そんなF君でも、しばしば憤まんやるかたなしといったふうに電話をかけてくることがある。いわく、「月末の最後の最後の授業が終わって、さようならとあいさつをしたとたん、生徒から紙切れを渡された。見ると、『今日でやめます』と母親の字でメモ書き。怒りで手が震えたよ」と。

 この世界の外の人にはわからないかもしれないが、「やめる」という話は、塾の教師にとっては、クビ切り以外の何ものでもない。そういう話をメモですまそうとする母親たちの心理が、F君には理解できない。生まじめな男だけに、ショックも大きいのだろう。いや、私にも似たような経験はあるが、しかしこの世界はそういう世界だと割り切ってつきあっている。いちいち目くじらを立てていたら、精神がもたない。F君もそう言っているが、しかしこちら側にもこちら側のやり方がある。そういうふうにやめた生徒は、一切、アフターケアはしない。それはまさに人間関係のリセット。ゼロにする。メールがこようが、電話がかかってこようが、そういったものには一切、答えない。

●皆はどうなのか?

 ……と考えて、ふと今、医院を経営するドクターたちのことが頭を横切った。考えてみればドクターたちも、同じ立場ではないか。患者である私たちは、必要なときに医院へ行き、必要でなければ、たとえ「また来い」と言われていても、行かない。あのドクターたちは、私のような患者のことをどう思っているのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気なのだろうか。もっともドクターと塾の教師は、立場がまったく違う。ドクターは、その身分や収入がしっかりと公的に保証されている。しかし塾の教師はそうでない。

……と考えて、今度は理容店を経営するいとこのことを思い浮かべた。客とはいいながら、その客ほど、浮気な客はいない。毎月定期的に来るともかぎらないし、メモどころか、何も連絡しないまま、別の店に乗りかえていくことだってある。いくらそれまでていねいに散髪していたとしても、だ。そのいとこは、そういう客をどう思うのだろうか。怒っているのだろうか、それとも平気なのだろうか。

●塾は人間関係で決まる

 考えてみれば、塾の教師たちがどう感じようとも、子どもを塾へやるというのは、親たちからすれば、医院や理容店へ足を運ぶようなものかもしれない。「入るのも親の自由。やめるのも親の自由」と。となると、F君のように、怒るほうがおかしいということになる。が、教育は病気や商売とは違う。どこか違う。

 いくら「塾」といっても、そこは教師と生徒の人間関係で成りたつ。この「関係」があるため、医院や理容店とは、違って当然。また「やめる」という感覚が、これまた違って当然。いやいやそういうふうに「違う」と思うこと自体、手前ミソかもしれない。医院のドクターだって怒っているかもしれない。理容店のいとこだって怒っているかもしれない。怒っていても、皆、平静を装っているだけかもしれない。

●非常識な別れ方

 で、非常識な別れ方を列挙してみる。私の経験から……。

 私に、「今度、BW(私の幼児教室)から、K式幼児教室に移ろうと思いますが、先生、あのK式幼児教室をどう思いますか?」と聞いてきた母親がいた。私ははじめ、冗談を言っているのかと思ったが、その母親は本気だった。

 別の教室にすでに入会届けを出したあと、(そういう情報はあらゆるところからすぐ入ってくるが……)、私に「先生、来月からどうしたらよいか、一度相談にのってくださいな」と言ってきた母親がいた。

 「私は息子に、何度もBW(私の教室名)をやめるように言っているのですが、どうしてもいやだと言っています。先生のほうからもやめるように言ってくださいませんか」と電話で言ってきた母親もいた。

 反対にある日突然、道路ですれ違いざま、「今週でBWをやめます」と言っておきながら、その一か月後、また電話がかかってきて、「来週からまた行きますから」と言ってきた母親もいた。

●美しく別れる

 こうした母親たちからは、私は神様に見えるらしい。喜んでいいのか悪いのか……。どんなことをしても、また言っても、私は許すと思っているらしい。しかし私とて、生身の人間。生きる誇りも高い。だからこうした母親たちとは、その後、交友を再開したということはない。(だからこうしてここに書いているのだが……。)またこれから先も、何らかのかかわりをもつということもない。(だからこうしてここに書いているのだが……。)

 何ともきわどい話を書いてしまったが、こと子どもの教育については、いかに美しく分かれるかについて、親はもう少し慎重であってもよいのではないか。塾のみならず、今では教育そのものが自動販売機になりつつある。「お金を入れれば、だれでも買える」と。しかしこうしたドライな見方は、結局は教育そのものまでドライにする。そしてそれは結局は、子ども自身をドライにし、人間関係までドライにする。そうなればなったで、さらに結局は、子ども自身が何か大切なものを失うことになる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

子どもにはナイフを渡せ!
誤解と無知(失敗危険度★★★)

●墓では人骨を見せろ?

 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気を起こす法」(仮称)。

 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょうか」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書いてあった。

●遊園地で子どもを迷子にさせろ?

 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚いた。

●子どもにはナイフをもたせろ?

 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわからない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくしてから、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひっこめざるをえなかったのだろう。彼はナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にある。

(注:この教育評論家はその後、麻薬を常用していたとかで、息子氏とともに、逮捕されている。)

●ゴーストライターの書いた本

 これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家がいた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢は、筆箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理解することも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を知ることができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為をしてよいものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家ではトイレを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、こう教えてくれた。

 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのことだった。もう三〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になったことがある。

●タレント教授の錬金術

 先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そして本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプのゴーストライターをした経験があるので、内情をよく知っている。

 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこんだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」と。もちろん私はそれを断った。

が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになっていた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五~六冊あった。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思われないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあふれていた。

●インチキと断言してもよい

 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになっている。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されているかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうしたインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身にある。

●私の反論

 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せたからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論しておく。

 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子どもと関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。

 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったとき、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまちがえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育ての世界ではまさに邪道!

 また子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととして考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。

 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだしも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといって、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家の意見については、もう書いた。

●批判力をもたない母親たち

 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういうとんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹くたびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

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