2009年11月17日火曜日

*Speak Out First to open Your Mind

最前線の子育て論byはやし浩司(091116)

【記憶の時効】

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記憶にも時効がある。
と言っても、忘れるまでの時間をいうのではない。
私が言う「記憶の時効」というのは、何かの経験をして、
それを自己開示できるまでの時間をいう。

たとえばあなたにも、いろいろな過去がある。
その過去の中でも、(人に話せる話)と、(人には話したくない話)がある。
そのうちの(人に話したくない話)を、人に話せるようになるまでには、
ある程度の時間が必要である。
(もちろん相手にもよるが……。)
その(ある程度の時間)のことを、「記憶の時効」(はやし浩司)という。

……これだけではよくわからないという人も、いるかもしれない。
もう少し具体的に説明するから、どうか短気を起こさないでほしい。

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●私の過去

 私は若いころ、こう考えていた。
「実家の恥になるような話や、親の悪口などといったものは、人に言うべきものではない。
ましてや文にして書くべきものではない」と。
ワイフにすら、そう思っていた。
だから結婚してからも、私は実家の話や、親の話は、ほとんどしなかった。
話せば、どうしても悪口になってしまう。

 その私が実家の話や、親の悪口(?)を書くようになったのは、私が45歳を
過ぎてからのことではなかったか。
それまでは、それを口にすることさえなかった。
とくに他人に対しては、そうだった。
が、45歳も過ぎるころから、心境に変化が生じ始めた。

 たとえば私は父を恨んでいた。
私が子どものころは、数日おきに酒を飲み、家の中で暴れた。
私の父親というのは、そういう父だった。

 が、45歳を過ぎるころから、父が感じていたであろう、孤独感や苦しみが
理解できるようになった。
それが少しずつ私の心を、溶かし始めた。
そして同じように少しずつだが、私は父について書くようになった。
といっても、それにはかなりの勇気が必要だった。
崖から下へ飛び込むような勇気だった。
昔の人は、「清水の舞台から飛びおりる」と言った。

 けっして大げさなことを書いているのではない。
ほとんどの人は、自分のことですら、匿名で書いている。
ひょっとしたら、この文を読んでいるあなただって、そうかもしれない。
BLOGにせよ、HPにせよ、実名を名乗って書いている人は、少ない。
いわんや、(家の恥)、(家族の恥)となるような話となると、大きな抵抗感を
覚える。

 が、書き始めると、意外と楽に書けることを知った。
心の中にあるモヤモヤが、少しずつ晴れていくように感じた。
それからは、自由に、私は、実家や家族のことを書くようになった。

 つまり、これが私の言う、「記憶の時効」である。

●崖から飛び降りる

 (話したくない話)でも、ある程度時間がたつと、(話してもいい話)になる。
それまでは、(話したくない話)は、ずっと心の中にとどまったまま。
が、ある程度時間がたつと、(話したくない)という気持ちが薄れてくる。
つまり(話したくない話)が、(話してもいい話)に変化するまでに時間が、
「記憶の時効」ということになる。

 「この話は、もう時効になったから、他人に話してもいい」と。

 そこでこんな実験をしてみる。

 実は、この話は、まだ時効になっていない。
ごく最近というか、まだ1年ほどしか、たっていない。
それにこの話は、私にとっては、たいへん恥ずかしい。
が、思い切って、ここに書いてみる。
「崖」とは言わないが、二階屋根から飛び降りるような心境である。

●腸内ガス

 センナという薬草がある。
便秘薬として、使われている。
私は便秘症ではないが、腸がはれぼったいと、気になってしかたない。
そこでときどき、強制的に、腸内を空にする。
そのとき、センナという薬草を、煎じてのむ。

 そのセンナをのむと、半日もすると、独特のにおいの腸内ガスが出る。
どう独特かというと、つまり独特。
それに強烈。
センナをのんだことがある人なら、みな、知っている。
しかも腸内ガスが、排便が近づくと、ブーッ、ブーッと気持ちよく出る。

 で、ある日のこと。
生徒たちが来るのを待って、私はコタツの中に座っていた。
寒い冬の日だった。
私はコタツの中で、それをしてしまった。
「まだ時間がある」と思っていた。
が、そこへ親たちが、子どもを連れてやってきた。
ドヤドヤと、階下から階段をのぼってくる足音が聞こえてきた。

「しまった!」と思ったが、遅かった。

 そこであたりをみると、香水の入った瓶と殺虫剤が目に入った。
私はこたつのふとんの中めがけて、香水を吹きかけた。
同時に、殺虫剤をまいた。

 数分もたたないうちに、子どもたちが入ってきた。
親たちも入ってきた。
親といっても、若くて美しい母親たちである。
その母親たちがいつものように、まっすぐ、コタツのほうに向かっていった。

 あああ……。

 私はそ知らぬ顔をして、教室の反対側に立った。
そのときのこと。
母親たちが、(正確には3人いたが)、たがいに「何のにおい?」「何かしら?」と、
話している声が聞こえた。
ひとりはこたつのふとんの中に、クンクンと、顔までつっこんでいた。
私は生きた心地がしなかった。

●恥ずかしい話

 この話は、実は、ワイフにすらしていない。
まだ「記憶の時効」になっていない。
こうして書くこと自体、本当のところ、時期尚早。
あと数年は、隠しておきたかった。

 というのも、現在の今も、その母親と子どもは、私の教室に通っている。
もしこのエッセーを読んだら、……それを想像することすら、恐ろしい!
つまりこれが「記憶の時効」ということになる。

 人は、自己開示をすることによって、自分を見つめなおすことができる。
そういう点では、(さらけ出し)は、悪くない。
フロイトが説いた、「肛門期」というのが、それ。
何かの秘密(?)をもつと、それを外へ吐き出したくなる。
そういう衝動にかられることは多い。
しかしそれには、「記憶の時効」が働く。

 たとえば私は、自分たちの性生活については、ほとんど書いたことがない。
私がそれについて書けば、「老人の性」というタイトルがつくだろう。
若い人たちも、それについて興味をもっているかもしれない。
私と同じ世代の人たちも、興味をもっているかもしれない。
しかし私は、書けない。
書かない。

 恥ずかしいというより、(確かに恥ずかしいが……)、息子たちの前で、
それについて語るのは、昔からタブーにしてきた。
それにそれは私が専門とする分野ではない。
言い換えると、まだ「記憶の時効」になっていない。
今、それについて書くとなったら、私は、それこそ「清水の舞台から……」となる。

●私というより、1人の人間

 (書きたい)と思っていることと、(書いてもいい)と思っていることの間には、
距離がある。
時間的距離である。

 が、その時間的距離は、時間がたてばたつほど、短くなっていく。
それには、理由がある。

 「私」という人間は、私であって私でない。
「私といっても、広く、人間の1人である」と思うようになる。
そういう「私」が、加齢とともに、よくわかってくるようになる。
あるいは「私の経験していることは、だれでも経験していること」と思うようになる。

 たとえば私が、性的な夢想にふけったとしよう。
若い女性と、性的行為を楽しむような夢想でよい。
しかしそうした夢想というのは、だれしも経験するものである。
またそれは私であって私でない部分が、勝手に私にそうさせるもの。
平たく言えば、本能。
その本能に応じて、ホルモンが分泌され、それに応じて脳が勝手に反応する。
これには、教師も、聖職者も、僧侶もない。
校長だって、副校長だって、同じ。
そういうことが、自分でもわかってくる。

 となると、私が性的な夢想をするのは、ごく自然な行為ということになる。
恥ずかしく思わなければならないようなことではない。
隠さなければならないようなことでもない。

 だったら、それをすなおに書けばよい。
私のこととしてではなく、人間のこととして書けばよい。
……ということがわかってくるようになる。
それがわかってくれば、それについて書くことについては、時効が成立した
ということになる。

●自己開示

 話はそれるが、自己開示についても一言、触れておきたい。

 もともと自己開示というのは、相手との親密性を知るバロメータとして
利用される。
浅い身の上話から、深い身の上話まで、いろいろある。
深い身の上話までできるということは、あなたはその人と、親密度が高いという
ことになる。

 結婚当初、私はワイフにすら、実家の話や、親の悪口などは話さなかった。
つまり自己開示できなかった。
わかりやすく言えば、私はワイフにすら、心を閉じていた。

 が、やがて、私はワイフに実家のことや、親のことを話すようになった。
私の心には、無数の傷がついていた。
それについては前にも書いたので、ここでは省略するが、それを話すようになったのも、
結婚してから数年後のことである。

●傷(トラウマ)

 私は若いころから、そして今に至るまで、実家の問題がからんでくると、精神状態
がたいへん不安定になる。
心が緊張し、ささいなことで、カッとキレやすくなる。
おまけにいじけやすく、ひねくれたものの考え方をするようになる。
子どもじみた行動に出ることもある。
家を出て、そのあたりを徘徊したりする。

 が、ありのままをワイフの語ることによって、そうした症状は、かなり軽くなった。
つまり自己開示するということには、そういう意味も含まれる。

●暴露

 こうした記憶の時効は、そのつど、いつも感ずる。
(この話は書くべきでない)と思うことは、しばしばある。
あるいは迷う。
「まだ時効になっていないぞ」と。
しかしそのとき、別の心が働く。
「今しか、書くときがないぞ」と。
そして同時に、こうも思う。
「お前は、お前であって、お前ではない部分がある。
どうしてそれを書くのに、ためらうのか」と。

 さらに言えば、自己開示をすればするほど、その先に、自分の姿が、より
鮮明に見えてくることがある。
が、抵抗がないわけではない。

 先日も1人、こう言った人がいた。
「自分のことをそこまで暴露して、抵抗はありませんか?」と。
私の立場で言うなら、「そこまで暴露して、何になるのか?」ということになる。
中には興味本位で読んでいる人もいるだろう。
また私の内情を探るために読んでいる人もいるだろう。
それにみながみな、私に対して、好意的とはかぎらない。
私の文章を読みながら、「このヤロー!」と怒っている人もいるはず。

 私が書いたことで、実際、「どうして私のことを書いたか!」と抗議してきた人も
いる。
(それはその人のまったくの誤解だったが……。)
怒ってくる人はまだよいほう。
そのまま私から黙って去っていく人もいる。

 どんどんと自己開示してくと、どうしてもそこに私の近親者たちが登場する。
いろいろな技法を用いるが、読む人によっては、その人のこととわかってしまう。
それが壁となって、私の前に立ちはだかる。

 が、自己開示を重ねるたびに、私はその(上)に出るような気分も、これまた
否定しがたい。
それはちょうど山登りに似ている。
下から見ると低いと思われるような山でも、登ってみると、意外と視野が広い。
遠くまで見える。

 その歓びが、私をして、またつぎの自己開示へと結びつけていく。

●記憶の時効

 刑法の世界には、時効というのがある。
正式には、公訴時効という。
刑期の長さによって、時効の期間が異なる。
死刑にあたるような罪では、25年。
無期懲役または禁錮にあたるような罪では、15年。
軽い、拘留または科料にあたるような罪では、1年などなど。

 記憶にも、同じような時効がある。
(人に話したくない話)でも、そのときが来れば、自然と話せるようになる。
そしてその時効は、加齢とともに、ますます短くなっていく。
今の私がそうだ。
本来の時効など待っていたら、それこそその前に、私の人生が終わってしまう。
私は私。
私はありのままの「私」を書く。
理由は、簡単。
私は私であって、私ではない。
1人の人間。
「私」のことをありのままさらけ出すということは、「人間」をさらけ出すこと。

そういう私をまちがっているというのなら、それを言う人のほうが、まちがっている。
仮にまちがっているとしても、それは「私」ではない。
「人間」がまちがっているということになる。

 それともあなたは、思わぬところで腸内ガスを出し、あたふたしたという経験が
ないとでも言うのだろうか。

 ……ということで、「記憶の時効」について書いてみた。
とくに私のように、どこか心の開けないような人は、思い切って何でも人に
話してみるとよい。
書いてみるとよい。
それによって心をがんじがらめにしているクサリを解き放つことができる。
そういう効果もある。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 自己開示 記憶の時効)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●崩れた人格

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私はS氏(当時70歳くらい)を、「詐欺師」と呼んでいた。
預かった香典をネコババする程度のことは当たり前。
自分の土地を、二重売り、三重売りするなどということも朝飯前。
二束三文の骨董品を、「江戸時代のもの」と言って、人に平気で売りつける。
しかもそれを、甥や姪に売りつける。
お金がなくなると、妻の老齢年金手帳を担保に、借金をする。
ウソにウソを重ねるというより、ウソを言いながら、
それをウソとも思っていない。
そのうち愛人との間にできた子どもまで、出てきた!

しかしそう書くからといって、何もS氏を個人攻撃する
つもりはない。
個人的には、S氏に興味はなかったし、関係も浅いものだった。
話題にするのも、不愉快。

が、心理学的には、たいへん興味がある。
S氏ほど、まともで、その一方で、人格的に崩れた人は、
そうはいない。

一例をあげる。

S氏には、愛人がいた。
その愛人をある日自宅へ連れてきた。
そして自分の妻に、こう言い放った。
「今日から、この女も、この家に住む。
めんどうみてやってくれ!」と。
S氏が、40歳を少し過ぎたころのことだった。

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●非常識

 一事が万事というか、S氏には、S氏なりの一貫性がある。
けっして悪人ではない。
悪人ではないが、結果としてみると、詐欺まがいのことばかりしている。
が、その意識がない。
人をだましたという意識そのものが、ない。

 自宅へ愛人を連れてきたときも、そうだ。
S氏にすれば、友人(?)のめんどうをみるくらいの軽い気持ちだったかもしれない。
もともと家父長意識の強い人で、妻について言えば、自分の奴隷のようにしか
思っていなかった。

 だからS氏にすれば、親しい(?)友人が困っているのを助けるということになる。
そして妻は、そういう夫を手伝って、当然ということになる。
しかし全体としてみると、そういった行為そのものが、常識をはずれている。
つまり非常識。

 あとは推して量るべし。
ほかにもいろいろあるが、ここではそれについて書くのが目的ではない。
こうした非常識、もしくは非常識性は、どうして生まれるか。
ここでは、それについて、考えてみたい。

●人格の完成度 

 「人格の完成度」については、たびたび書いてきた。
EQ(Emotional Intelligence Quotient)論ともいう。
直訳すれば、「情動の知能指数」ということになる。

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説くEQ論では、
主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 一般的には、(1)自己管理能力が低く、(2)他者との良好な人間関係が築けず、(3)
他者との共感性が低い人のことを、「自己中心的な人」という。

 わかりやすく言えば、より自己中心的な人を、人格の完成度の低い人という。
反対に、より利他的な人を、人格の完成度の高い人という。
自己中心性が肥大化した人のことを、「自己愛者」という。

 しかしS氏のようなケースは、特殊。
あまり例がない。
かといって、見た目には、どこにでもいるような、ごくふつうの男性である。
痴呆性を感ずることもない。
反応もそれなりに、早い。
口も達者。
しかしどこかちがう。
おかしい。

●思慮深さ

 最大の特徴は、思慮深さがないということ。
ものの考え方が、短絡的で、演歌風。
(「演歌風」というのは、演歌の歌詞をそのまま口にすることが多いということ。)
そのためものの言い方も、唐突でぶっきらぼう。
もちろん繊細な会話はできない。
またそういうセンスは、もとから持ち合わせていない。

 それについては、血栓性の脳梗塞を起こしたためと説明する人もいる。
しかしS氏について言えば、30代、40代のころから、そうだった。
愛人を家に連れ込んできたときも、S氏は、40歳を少し過ぎたときのことだった。

 ではなぜ、S氏はS氏のようになったか。

 私はいくつかの点で、気になっていたことがある。
ひとつは、S氏の周辺には、文化性を思わせるものが何もないということ。
本や雑誌など、読んだことさえないのでは?
家人の話では、テレビのドラマさえ見たことがないということだった。
が、最大の特徴と言えば、思慮深さそのものの欠落ということになる。

 自己中心的で、わがまま。
常識といっても、一昔前の常識。
会話の中にも、「お前は男だろが……」とか、「女のくせに……」という言葉が
よく出てくる。
が、何と言っても常識そのものが、狂っている。

 預かった香典をネコババしたときも、そうだ。
同居している息子がそれをとがめると、こう言ったという。
「親が、先祖を守るために、甥の金を使って何が悪い!」と。

 まるで罪の意識がない。
ないというより、独特の論理の世界で生きている。

●非常識性

 こんな話を読んだことがある。

 今でもK国から脱出してくる人は、後を絶たない。
「脱北者」と呼んでいる。
そういう人たちが韓国へ逃れてくると、一時的に、そういった人たちを収容し、教育する
施設に入れられる。
そこでのこと。
脱北者たちは、散歩に出ると、近くの畑から、野菜や果物を平気で盗んできてしまう
という。
「盗む」といっても、その意識はないのかもしれない。
K国の中では、そうした食物は、国民みなのものという考え方をするらしい。

 つまり常識などといったものは、その時代、その民族、国民によってみなちがう。
決まった常識などというものは、ない。

 愛人を家に連れてきたというS氏だが、そういった話は、明治時代や大正時代には、
あちこちであった。
お金に余裕がある人は、愛人に別宅を与えて、そこに住まわせたりした。

●常識論

 が、今では、それは非常識。
ふつうの常識のある人なら、そういうことはしない。
……と、断言したいが、そうはいかない。
「私は常識的」と思っている人でも、別の場面では、結構非常識なことをしている。
先にも書いたように、「常識」などというものは、その時代、その民族、国民に
よってみなちがう。

では、こうした非常識性と闘うためには、どうするか。
それについて書く前に、もう一歩、話を掘りこんでみる。
というより、人間は、本来、そういう動物であるという前提で考える。

人間が今のような人間になったのは、ここ1000年とか2000年の間ではないか。
それ以前の人間には、道徳も倫理もなかった。
さらに今から5000~6000年前までの新石器時代となると、人間は人間という
より動物に近かった。

 人間は本来的に、S氏のような人間であると考える。
よい例が、戦国武将と呼ばれる人たちである。
NHKの大河ドラマに出てくる武将たちを観ていると、結構、思慮深い人物に描かれて
いる。
が、本当にそうだろうか。
そう考えてよいのだろうか。

 「武将」というためには、同時に平気で人を殺せる人でなければならない。
(人を殺す)という時点で、いくら名君と呼ばれようが、その人の人間性は、
動物と同じと考えてよい。
(動物だって、そんなことはしない!)
よい例が、織田信長ということになる。
徳川家康だって、そうはちがわない。
ただ徳川家康にしても、その後、300年という年月をかけて、徹底的に美化され、
偶像化された。
徳川家康に都合の悪い話は、繰り返し、末梢された。
その結果が今である。

 「盗(と)るか、盗(と)られるか」という時代にあっては、きれいごとなど、
腸から出るガスのようなもの。
きれいごとを並べていたら、その前に自分が殺されてしまう。
S氏の非常識など、戦国武将の前では、何でもない。
ただの冗談ですんだはず。

●では、どうするか

 あなたの周囲にも、S氏のような人はいるかもしれない。
似たような話を耳にしているかもしれない。
そこで大切なことは、そういう人がいたとしても、自分から切り離してしまっては
いけないということ。
「他山の石」もしくは、「反面教師」として、自分の中でそれを消化する。
その第一が、「思慮深くなる」ということ。

 S氏についても、総じてみれば、「思慮深さがない」。
すべては、そこへ行き着く。
もしS氏がもう少し思慮深ければ、S氏はもっと別のS氏になっていたかもしれない。
わかりやすく言えば、人格の完成度にしても、それはあくまでも(結果)。
日ごろから思慮深ければ、人格の完成度は、自ずと高くなる。
そうでなければ、そうでない。

 で、さらにその思慮深さは何で決まるかといえば、(思考を反すうするという習慣)
によって決まる。
それについては、数日前に書いたばかりだから、ここでは簡単にしておきたい。

 つまり自分の考えを、何ども頭の中で反すう(=反芻)するということ。
そしてそれは能力の問題ではなく、習慣の問題ということ。
その習慣を身につける。
それがその人の人格の完成度を、長い時間をかけて決める。

●補記

 同じ命を授かり、同じ時代を生きながら、そこに真理があることにさえ気づかず、
あえてそれに背を向けて生きている……。
私には、S氏という人がそういう人にしか、思えない。
「崩れた人格」というタイトルで、このエッセーを書き始めたが、「かわいそうな人」
というタイトルでもよい。

 さらに興味深いことは、そういうS氏でも、「いい人だ」と評価する人もいるということ。
まったくの悪人かというと、そうでもない。
もともと気が小さい人だから、大きな悪事を働くということはない。
陰に隠れて、コソコソと動き回っているだけ。

 それにどこか「寅さん」的なところがあって、憎めない。
香典をネコババされた人も、「あいつのやりそうなこと」と言って、笑ってすませている。
愛人を連れ込まれた妻にしても、今ではそれを笑い話にしている。
中に偽の骨董品を買わされて怒っている人もいるが、金額はたいしたことない。

 そうそう言い忘れたが、そのS氏は、ごく最近(09年)、他界したという。
久しぶりに知人に電話すると、そう教えてくれた。
享年、80歳。
私には強烈な印象を残して、この世を去っていった。


Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司

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