2009年11月19日木曜日

*Punishment toward Me

●他罰と自罰

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罰(ばつ、バチ)には、2つある。
他罰と自罰。
私が考えた言葉である。

他人がその人に与える罰のことを、他罰。
自ら墓穴を掘っていく罰のことを、自罰。

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●不幸な人

 世の中には「不幸な人」と呼ばれる人たちがいる。
どう不幸かということは、ここに書けない。
それに「不幸」といっても、それをどうとらえるかは、人それぞれ。
みな、ちがう。
同じような「不幸」をかかえながらも、明るく、さわやかに生きている人はいくらでも
いる。
一方、何でもないような問題をおおげさに考え、ギャーギャーと騒いでいる人もいる。

 「ここに生きている」ということを前提に考えれば、どんな不幸でも、不幸でなくなる。
つまり不幸かそうでないかは、ひとえに、その人の生き方の問題ということになる。

 そうした問題はあるが、現実に、「私は不幸」と、騒ぎたてる人は少なくない。

●ずるい人

 たとえばここに小ずるい人がいたとする。
一事が万事というか、何をするにもずるい。
ウソ、小細工は朝飯前。
言い逃れ、言い訳も、これまた朝飯前。
それが日常的になっているため、本人には、その意識すらない。

 そういう人は、そういう人にふさわしい運命をたどる。
いつの間にか、自分にふさわしい環境を、自分の周りに作る。
気がついたときには、「私は不幸だ」といった状態になる。

 実はこの私も、身近にそういう人がいて、その人に翻弄された。
で、そういう人を見たとき、私はひとつの選択にかられる。
「無視すべきか、闘うべきか」と。

 しかし無視するのが、最善。
「無視」といっても、「暖かい無視」。
その人の不幸を共有しながら、無視する。

本人にはその意識はないし、またそういう人を相手に、時間を無駄にしたくない。
エネルギーも無駄になる。

 それに、もしそこで私が闘えば、それは「他罰」ということになってしまう。
ともすれば他罰というのは、恨み、怒りにつながりやすい。
そういう後ろ向きな感情は、心と肉体の健康のためにも、よくない。

●墓穴

 一方、そういう人はそういう人で、自ら墓穴を掘っていく。
かわいそうとは思うが、私としては、なす術(すべ)もない。
本人は「不幸だ」「不幸だ」と言っているが、私から見れば、要するに(ないものねだり)。
自分の思い通りにいかないからといっては、それを逐一、自分の不幸につなげていく。
が、これではいつまでたっても、充足感は、得られない。

 子育ての世界でも、似たような経験をよくする。

 やっとC中学へ入れそうになると、親は、「B中学に……」と言いだす。
で、何とかB中学に入れそうになると、親は、今度は、「せめてA中学に……」と言いだす。

 あるいは子どもが不登校児になったとする。
1年とか2年とか、親にしてみれば、長くて暗いトンネルに入る。
で、その子どもが、やっと午前中だけでも登校ができるようになると、親は、「給食も……」
と言いだす。
で、何とか給食を食べるようになると、親は、今度は、「せめて終わりの時間まで……」と
言いだす。

 だからといって、C中学へ入ったり、子どもが不登校児になることを、「不幸なこと」と
書いているのではない。
ものの考え方は、視点をほんの少し変えるだけで、一変するということ。
B中学で何が悪い?
午前中だけの登校で、何が悪い?

が、視点を変えなければ、ここに書いたように、いつまでたっても、充足感は得られない。
しかしそれこそまさに、「自罰」ということになる。 

●不幸のとらえ方

 不幸をどう考えるか……そこにその人の人生観が集約される。
そこでひとつの考え方として、「他罰」「自罰」という言葉を考えた。
平たく言えば、賢明な人は、自罰を自罰として意識することができる。
自罰を、無力化することができる。

 自罰というのは、そういうもので、それを意識したとたん、そのまま霧散する。
が、どうすれば、自罰を自罰として、意識できるかということ。

 たとえば先にあげた、小ずるい人を考えてみる。
その人は、家庭問題、親子問題、夫婦問題、近隣問題、実家問題などなど、そのとき
どきに応じて、不平、不満ばかり言っている。
取り越し苦労を重ねては、その一方で、ささいなことでヌカ喜びを繰り返している。
手当たり次第に電話を入れては、ネチネチと愚痴を並べている。

 そういう人を遠くからながめながら、私はこう思う。
「その人がその人の自罰に気がつくことはあるのだろうか」と。
しかしこれは何も、その人の問題ではない。
私自身だって、自罰に気がついていない。
そういうことはある。

●私の自罰

 不幸と言えば、不幸かもしれない。
長男は、まだ未婚。
二男、三男は、会うこともままならないような遠くへ行ってしまった。
友人も少ない。
クリスマスも正月も、この10年、家族だけでささやかに祝っている。

 見る人が見れば、「あの林は、何とさみしい人生を送っていることか」と思うに
ちがいない。

 しかしそういったことは、「不幸」とは、思っていない。
けっして、強がりを言っているのではない。
一抹のさみしさはあるが、その(さみしさ)は、私のエゴと結びついている。
私の思うようにならないから、それを「さみしい」と言っているにすぎない。

たとえば私の母は、私がワイフと結婚したとき、親戚中に電話をかけ、「悔しい」と
言って泣いたという。
「浜松の嫁に、息子を取られたア!」と。

 ずっとあとになってそれを知ったとき、私は母の気持ちを理解できなかった。
母は、私の幸福よりも、自分の充足感を満たすことだけを考えていた(?)。
そういう経験があるから、私は、母のしたことの二の舞だけはしないと心に誓った。
その結果が「今」なのだから、私としては、文句を言えないはず。
「さみしい」などと言っている方が、おかしい。

 で、私は自分の人生を振り返ってみたとき、こう思う。
「もし息子たちがいなければ、私はああまでがんばらなかっただろう」と。
「それに、息子たちは、私に生きがいを与えてくれ、私を楽しませてくれた」と。
私は息子たちのために生きたのではない。
息子たちに生かされた!

●「生きている」

 要するに、不幸というのは、自罰に気がつかないまま、その自罰に振り回されることを
いう。
が、自罰に気がつけば、不幸はそのまま霧散する。
簡単に言えば、受け入れてしまうということ。
「まあ、私の人生はこんなもの」と、割り切ってしまう。
その瞬間、不幸は不幸でなくなってしまう。

 「不幸だ」「不幸だ」と思って、それが逃げようとすればするほど、不幸はますます
大きくなって、あなたに襲いかかってくる。
が、受け入れてしまえば、不幸は、向うからシッポを巻いて逃げて行く。

 それでも不幸がそこにあるようだったら、(生きている)という原点に自分を置いて
考えてみる。
そこに視点を置けば、そのままありとあらゆる問題は解決する。
「今、ここに生きている」という喜びまで押しつぶすほどの不幸は、ありえない。

私は生きている!
それにまさる価値はない。

●他罰

 ついでに他罰について。

 基本的には、私たちには、だれをも責める資格はないということ。
たとえその相手が、どんな人であっても、だ。
その相手というのは、私であり、私は、その相手と考えればよい。
 
それに他人に罰を与えるのは、やめたほうがよい。
考えるのも、やめたほうがよい。
どんなことがあっても、その人の不幸を願ったり、笑ったりしてはいけない。
願ったり、笑ったりすれば、それはそのまま私たちに返ってくる。
「ああ、私でなくてよかった」と思うのもいけない。
その人が、それを不幸だと思っているなら、あなたはあなたで、その人の立場で、
それを共有してやればよい。

 説教したり、自分の考えを押しつけるのも、やめたほうがよい。
その人はその人。
そっと静かにしておいてやる。
もちろん相手から助けを求めてきたときは、別。
そのときは、相談に乗ってやればよい。
それを私は「暖かい無視」と呼んでいる。

(この言葉は、もともとは、ある野生動物保護団体が使っていたものである。
それを拝借させてもらっている。)

●ついでに……

 40歳になると、その人の将来が見えてくる。
50歳になると、その人の結論が見えてくる。
60歳になると、その人の結論が出てくる。
その「結論」を決めるのが、他罰、自罰ということになる。

 私たちは常に、他人に罰せられながら生きている。
同時に、自らを罰しながら生きている。
それが積もり積もって、その人の「結論」となっていく。

 で、ついでに私は私の人生を振り返ってみる。
……といっても、今あるのは、「今」だけ。
過去など、どこにもない。
未来も、ない。
あるのは「今」だけ。
この「今」が、今まで生きてきた私の結論ということになる。

 大切なことは、つぎの「今」に向かって、前向きに生きるということ。
常に、つぎの「今」に向かって、懸命に生きるということ。
そのつど結論は、あとからついてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自罰 他罰 自罰論 他罰論 バチ論)

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