2009年11月5日木曜日

*After one year

●1年目の冬

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 母が死んで、ちょうど丸1年になる。
……と、書いたところで、キーボードを叩く指が止まってしまった。
いろいろな思いが、さらさらと、音もなく頭の中を流れる。
流れては消える。
それが文という形になって、頭の中でまとまらない。

 さみしさはない。
やり残したこともない。
それよりもうれしかったのは、実家から解放されたこと。
長い60年だった。
悶々として、1日とて、気の晴れる日はなかった。
だから母の葬儀が終わってしばらくしてからのこと。
私は、こう思った。

「あと一歩」と。
「あと一歩で、実家から解放される」と。

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●安易な『ダカラ論』

 こう書くと、「何と親不孝な!」と思う人も多いかと思う。
しかし私は何も、母が死んだことを喜んでいるのではない。
母というより、「実家」が重荷だったと言っている。
結婚前から、収入の約半分は、実家に送金していた。
経済的な負担感というより、社会的な負担感。
それに苦しんだ。
それから解放されたかった。

が、この日本では、「息子だから……」という理由だけで、何もかも押しつけてくる。
こういうのを『ダカラ論』と言うが、それがいまだに大手を振って、まかり通っている。
「親だから……」「子だから……」と。
論理でない論理を、そのまま相手に押しつけてくる。
「浩司君、どんなことがあっても、親は親だからな」と言った親類もいた。
つまり親がどんな悪人でも、子は、それに従うべき、と。
とくに、この日本では、そうだ。

またそういう日本だからこそ、私と母のような関係ができあがってしまった。
欧米のように、それぞれの人がもう少し独立した心をもっていたら、母は母のように
ならなかっただろう。
私は私で、もっと別の考え方ができただろう。

●母の実家

 母は、岐阜県の山奥に生まれ育ち、江戸時代をそのまま引きずっていた。
庄屋ではなかったが、その部落では庄屋的な存在だった。
農家といっても、山農家と畑農家がある。

山をたくさんもっている農家。
林業中心の農家。
それが山農家。
畑をたくさんもっている農家。
小作人に農地を貸して、年貢を納めさせる。
それが畑農家。

母の実家は、畑農家だった。
その部落の畑は、ほとんどが母の実家のものだった。
それが没落の理由となった。
戦後のあの農地解放で、畑のほとんどが没収され、小作人と呼ばれる
人たちに分配されてしまった。

●江戸時代の見本

 母は、13人兄弟の中で、長女として生まれた。
妹が1人いたが、残りの11人は、男だった。
そういうこともあって、母は、「お姫さま」と呼ばれ、大切に育てられたという。
農家に生まれ育ちながら、土に手を触れることは、ほとんどなかったという。
そういう環境の中で、母は独特の考え方をするようになった。

 自身が女性でありながら、徹底した男尊女卑思想を身につけていた。
そのことと関係があるのかどうかは知らないが、「女は働くものではない」
と強く思っていた。

 事実、母は自転車店を営む父と結婚したが、生涯にわたって、ドライバー1本、
握ったことすらない。
恐らくドライバーの回し方も知らなかったのではないか。
また姉が農家に嫁ぎ、畑仕事をしていると知ったときも、そうだ。
「M(=姉の名)を、そんなことをさせるために、嫁にやったのではない」と。
本気でそれを怒っていた。

 お姫様でありながらも、愛情の薄い家庭だったかもしれない。
もうひとつ母の考え方で特筆すべき点は、母は、自分の子どもたちを、
「財産」と考えていたこと。
子どもたちというのは、私や、兄や、姉をいう。

 今で言う人権意識など、元からなかった。
すべてを親が決め、私たち子どもは、それに従うしかなかった。
へたに反抗すれば、即座にあの言葉が返ってきた。
「親に逆らうようなやつは、地獄へ落ちる!」と。

私はいつしか母を通して、その向こうに江戸時代を見るようになった。
そういう点では、母は江戸時代の見本のような存在だった。
純粋培養されたというか、外部の影響を受けることなく、娘時代までを、
あの部落で過ごしている。

●人は環境の動物

 母を責めているわけではない。
母は母として、過去を引きずりながら、懸命に生きた。
人間は環境の動物である。
もし私やあなたが、同じような環境で、同じように育てられたら、母と
同じような人間になっていただろう。
事実、母には1人、妹がいるが、その妹、つまり私の伯母にしても、
また実家を継いでいる弟、つまり私の伯父にしても、みな、一卵性双生児と
揶揄(やゆ)されるほど、ものの考え方が似ている。

 が、そういうことがわかるようなったのは、私が50歳も過ぎてからのこと。
それまではわからなかった。

 で、私はある時期、心底、母をうらんだ。
嫌うというよりは、うらんだ。
私がもっていた土地を、私に無断で転売してしまったときのこと。
「権利書を見せてほしい」と言うから、母に渡した。
その土地を、母はそのまま転売してしまった。
私が泣いて抗議すると、母は、ひるむことなく、こう言い放った。
「親が先祖を守るため、息子の金を使って、何が悪い!」と。

私と母の関係は、そのまま壊れた。
その関係を壊したことを、うらんだ。
それが私と実家を遠ざけるきっかけになってしまった。
ついで親類縁者と遠ざけるきっかけになってしまった。
が、結果的にみると、それも運命というか、それでよかったのかもしれない。

 それから10か月あまり、私は夜、床に就くたびに、熱でうなされた。
毎晩、ワイフが看病してくれた。
マザコンというのは、カルト。
そのカルトを抜くのは容易なことではない。
が、その10か月が過ぎたとき、私の心から、「母」が消えていた。

●マザコン 

たまたま今朝も、ワイフとこんな会話をした。
「昔のままの母が死んでいたら、ぼくは、今ごろ、毎晩夜空をながめながら、
母を偲(しの)んで、涙をこぼしていただろうね」と。
「昔のまま」というのは、私が子どものころもっていた母親像のまま、という
意味である。

私は、マザコンだった。
兄もそうだった。
姉もそうだった。
私の家族のみならず、とくに母方の家系は、みな、マザコン家族と断言してもよい。

母の実家もそうだった。
だから伯父、伯母もそうだった。
その下の従兄弟(いとこ)たちも、そうだった。

母系家族というか、「母親」を中心に、家族がまとまっていた。
それぞれの家族には、父親もいたのだが、父親の存在感は、薄かった。
父親自身が、マザコンなのだから、あとは推して量るべし。
そんな家庭環境の中で、自分がマザコン化しているのを知るのは、たいへん
むずかしい。

●母親の神格化

 しかし一歩、その世界から出てみると、それがよくわかる。
私は高校を卒業すると同時に、故郷のあの世界から、離れた。
離れたから、マザコンに気がついたというのではない。
ここに書いたように、それを気づかせてくれたのは、私のワイフということになる。
ある日、ワイフは、私にこう言った。
「あなたは、マザコンよ」と。

幸いなことに、私は自分の仕事を通して、さまざまな家族を外からながめることが
できた。
マザコン、つまり「マザーコンプレックス」の問題を、教育的な立場で、考える
ことができた。

 いろいろな特徴がある。
その中でも、つぎの2つが、とくに重要である。

(1) 母親の絶対視化。(母親を絶対視すること。)
(2) 母親の無謬性(=一点のまちがいもない)の追求。(母親の中に、まちがいを認めな
いこと。)

 私も、若いころは、私の母の悪口を言う人を許さなかった。
さらに子どものころは、悪口を言った人に、食ってかかっていった。
私にとっては、母というのは、神以上の存在であった。
そういう意味では、マザコンというよりは、「母親絶対教」の信者と、言い替えてもよい。

 そういう私を、母は横で喜んで見ていたのかもしれない。
母は私を前に、いつもこう言っていた。
「わっち(=私)は、ええ(=いい)、孝行息子をもって、しやわせ(=幸せ)や」と。
それが母の口癖でもあったが、一方で、そういう言い方をしながら、言外で、
私に、向かって、「そういう、息子になれ」と言っていた。

●男尊女卑

 マザコンであっても、それでその家族がうまく機能していれば、問題はない。
私は私。
人は人。
人、それぞれ。

 しかし一般論として、夫がマザコンだと、離婚率はぐんと高くなる。
(反対に、妻がファザコンのばあいも、同じような結果が出る。)
妻に理想の女性を求めすぎるあまり、妻のほうが、それに耐えられなくなる。
それが長い時間をかけて、夫婦の間に、亀裂を入れる。

 私のワイフもあるとき、私にこう言った。
「私がいくらがんばっても、あなたのお母さんには、なれないのよ」と。
それは痛烈な一撃だった。

 が、さらに悲劇はつづく。
嫁姑戦争に巻き込まれると、妻に勝ち目はない。
ただし私の家系には、離婚した夫婦はいない。
その一方で、「離婚」という選択肢は、元からない。
60数人いる従兄弟たちの中で、離婚した夫婦はいない。

 それだけ家族の結束が強いというよりは、自らの男尊女卑思想の中で、妻側が
妥協し、あきらめているにすぎない。
妻自身が、男尊女卑思想を受け入れてしまっている。
私も子どものころ、母に、よくこう言われた。
私が台所で何かの料理をしようとすると、「男が、こんなところに来るもん
じゃネエ(ない)!」と。
つまり「男は、料理なんか、するものではない!」と。

「男が上で、女が下」
「夫が上で、妻が下」
「親が上で、子が下」と。

●母の介護

 ともかくも、こうして1年が過ぎた。
母が死んで、1年が過ぎた。
おかしなことに、私の心はあのときのまま。
あのときというのは、母が私の家に来たときのまま。
私は便で汚れた母の尻を拭きながら、こう言った。
「お前のめんどうは、死ぬまで、ぼくがみるよ」と。

 母は両手でパイプをしっかりと握りながら、こう言った。
「お前に、こんなことをしてもらうようになるとは、思わなんだ」と。
私も負けじと、こう言い返した。
「ぼくも、お前にこんなことをしてやるようになるとは、思わなんだ」と。
そのとたん、それまでの(わだかまり)が、ウソのように消えた。

 2007年になったばかりの、正月の4日のことだった。

●実家の売却

 09年の9月。
母の一周忌の法要のあと、私は実家を売却した。
私にとっては、記念すべき日となった。
価格など、問題ではない。
早く縁を切りたかった。
何もかも、すっきりしたかった。

 最後に家の中をのぞいたとき、油で汚れた作業台だけが、やけに強く印象に残った。
角もこすれて、形すら残っていなかった。
父は毎日、その机に向かって、何かを書いていた。
父の孤独感が、その机にしみこんでいる。
その向こうには、祖父がいて、兄がいた。
さらにその向こうには、町の雑踏があり、客の声があった。

 が、不思議なことに、本当に不思議なことに、母の姿は、そこにはなかった。
母は……ここに嫁いできたときから、そして死ぬまで、その家の住人ではなかった。
母の心は、生まれてから死ぬまで、母の故郷の、あのK村にあった。

 そのとき、私は、そう思った。
1年たった今も、そう思う。
ボケもあったのかもしれない。
特別養護老人ホームに入居してからも、ただの一度も、M町のあの家に帰りたいと
言ったことはなかった。
グループホームに入っていた兄のことを口にすることも、姉のことを口にすることも
なかった。
いつも母が言っていたことは、「K村(=母の実家)に帰りたい」だった。

●過去からの旅

 私にとって、父とは何だったのか。
母とは何だったのか。
さらに家族とは、何だったのか。
その「形」を知ることもなく、私はおとなになっていった。
戦後の混乱期ということもあったのかもしれない。
しかしそれがすべての理由ではない。
私の家族には、「家族」という(まとまり)すら、なかった。
思い出のどこをさがしても、「家族がみなで、力を合わせて何かをした」という
記憶さえない。

 みな、バラバラだった。

 そんなわけで、私はおとなになってからも、いつも、自分の過去を否定しながら、
生きてきた。
だから今でも、自分の子ども時代を思い浮かべると、その部分だけが抜けて
しまっている。
あえて言うなら、列車で、どこかへ旅行するとき、出発地から目的地へ
いきなりやってきたような気分ということになる。
途中の駅が、どこかへ消えてしまっている。
過去から逃れたくて、旅行してきた。

 ただ晩年最後の2年間だけは、母は別人のようになっていた。
穏やかで、やさしく、静かだった。
一度たりとも、不平や不満をこぼしたことはなかった。
だからある日、私は母にこう言った。

「お前ナア、20年早く、……いや10年早く、今のような人間になっていれば、
いい親子関係のままだったのになア」と。

そのあと母が何と言ったのかは、覚えていない。
いないが、あの母のことだから、今の今でもあの世で、こう言って、とぼけている
ことだろう。
「ワッチは、子どものころから、ええ(=よい)人間だった」と。

 まっ、母ちゃん、そのうちぼくも、そっちへ行くから、そのときはよろしく!

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