●さあ、今日も始まった!(4月9日)
●畑作
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1週間ほど前、畑に苗を植え足した。
キュウリやシシトウの苗など。
そのうちの数本が、枯れ始めた。
トマトも寝ころんだまま。
「風のせいだろう……」と思っていた。
しかし葉先から枯れ始めているところをみると、
肥料の与えすぎ(?)。
昔からこう言う。
『肥料のやりすぎは、根を枯らす』と。
教育の世界でも、よく使われる格言である。
で、昨日、近くのショッピングセンターで、
新たに10本あまりを、買い足してきた。
ところが、である。
店で見たときは、生き生きとしていた苗だが、
もって帰って家で見ると、みな、横に倒れて
しまっていた。
店で並んでいるときは、密集した状態。
おまけに屋根の下。
つまり「温室」。
苗がみな、ヒョロヒョロになっていた。
気がつかなかった。
で、分けたとたん、自分では体を
支えきれなくなってしまった。
『温室育ち、外の世界で、すぐ風邪をひく』
という。
これも教育の世界で、よく使われる格言である。
昨日買ってきた苗は、まさにそれ。
「大きく育っているから、安いな」と思った。
背丈は、15~20センチくらいになっていた。
しかたないので、ビニールで囲った上、細い
棒で茎を支えてやった。
ワイフは「たぶん、だめね」と言う。
私もそう思うが、しかしだからといって、
見捨てるわけにはいかない。
あとは、その苗のもつ生命力に期待するしかない。
育つものは、育つ。
育たないものは、育たない。
ところで、教訓。
あの苗というのは、「大きいから安い」と
考えてはいけない。
小さくても、茎が太くて、しっかりしたものを買う。
こんなことはこの世界では常識で、私もよく知っていた。
畑作をするようになって、もう25年以上になる。
が、今回、失敗した。
なぜだろう?
「ショッピングセンターで売っている苗だから、
だいじょうぶだろう」と思ったのが、まちがいだった。
そそくさと、あわてて買ったのもいけなかった。
これから先、こういうミスが多くなりそう。
気をつけよう。
つまり油断というより、注意力が散漫になる。
それが失敗につながる。
なにごとも慎重に!
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●作曲(リズム音)ソフト
オーストラリアの友人が、おもしろいソフトを届けてくれた。
「aM Laboratory」というのが、それ。
称して、「作曲ソフト」。
正確には、「リズム作成ソフト」と書くべきか。
日本ではまだ紹介されていない。(……と思う。)
製品版では、YAMAHAが似たようなものを出している。
しかしこの「作曲ソフト」は、無料。
昨夜、私も一通り遊んでみた。
結構、楽しかった。
おもしろかった。
方法は簡単。
ブロックになったマスが現われるので、適当にあちこちを左クリック
する。
たとえば漢字の「林」となるように、クリックしてみるなど。
それで自動的に音楽(リズム)が始まる。
消去するときは、(スペース・バー)を押せばよい。
興味のある人は、(↓)から。
http://lab.andre-michelle.com/tonematrix
リズムに合わせて、何か適当な歌を口ずさんでみるとよい。
説明書きによれば、i-phoneの着メロとして、張りつけることが
できるとか。
(残念ながら、私は、i-phoneを使っていない。)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【貪欲とは】
●自分を「縛(しば)る」もの
私たちの体は、無数の「糸」によって、縛られている。
社会の糸、家族の糸、過去の糸、生い立ちの糸、能力の糸、年齢の糸、健康の糸
……などなど。
そうした「糸」が、ときとして私たちの進むべき道を決めてしまう。
それを「運命」というなら、人間には、「運命」がある。
ただ誤解してはいけないのは、私はスピリチュアル(霊的)な、運命というものは
認めない。
ここでいう「運命」というのは、無数の「糸(ファクター)」が集合したもの。
「結果として、そうなる」というだけ。
もちろんそうした「糸」と、闘うことはできる。
進むべき道は決まっているとは言いながら、糸は糸。
進むべき道を、自分の力で変えることもできる。
だから運命というのは、それを通り過ぎたとき、はじめてそこにあったことを知る。
先に、「私たちの進むべき道を決めてしまう」と書いたが、それは決定的なものではない。
またそう考えてはいけない。
運命を感じたとしても、それに身を任せてはいけない。
で、もちろんその「糸」には、強弱がある。
強い「糸」もあれば、弱い「糸」もある。
●強い「糸」
強い「糸」は、当然のことながら、私たちの体を縛りつけてくる。
たとえば親の介護がある。
現在、私の友人のNG氏は、その介護をしている。
数日前に届いたメールには、こうあった。
「母は目が見えないため、2時間おきに介護しなければなりません」と。
介護がいかにたいへんなものであるかは、私にもよくわかる。
1日とて、……というより、1時間とて、気が休まるときがない。
私の母のばあいも、1年目は、私の家にいて、2年目は、特養に入居した。
特養に入居したからといって、それで気が楽になったわけではない。
電話のベルが鳴るたびに、「もしや……」と思った。
何かのことで外泊するときもそうだった。
まず特養へ電話を入れて、様子を聞く。
外泊先からも、電話を入れて、様子を聞く。
心の壁に、何か、重い鉛が張りついたような感じになる。
私がいう「糸」というのは、それをいう。
●あきらめて、受け入れる
こうした「糸」を考えるときには、ひとつのコツがある。
(自分の力では、どうしようもない糸)と(自分の力で、何とかなる糸)。
まず、この2つを分ける。
(自分の力では、どうしようもない糸)については、あきらめて、受け入れるしかない。
親の介護も、そのひとつということになる。
いくら「いやだ」と思っていても、あきらめて、受け入れるしかない。
へたにあがいたり、もがいたりすれば、運命はキバをむいて、私たちに襲いかかってくる。
が、ひとたびあきらめ、受け入れてしまうと、運命は、向こうからシッポを巻いて、
逃げていく。
私のばあいがそうだった。
それまで姉から、さんざん苦情を聞かされていたから、母の介護をすることについて、
少なからず、私はおびえていた。
しかしひとたびそれが始まってみると、私は、こう思った。
「子どもの世話より、はるかに楽」と。
「少なくとも、孫の世話より、はるかに楽」と。
私の家に来た直後……というより、車で浜松へ来る途中から、母は下痢を繰り返した。
いろいろあった。
母との間には、いろいろあった。
しかし母の汚れた体を拭いてやったその瞬間、それまでのわだかまりが、ウソのように
消えた。
たいへんは、たいへんだったが、その直後から、母の介護を日課のひとつとして、
こなすことができるようになった。
●貪欲な人
同じ「糸」でも、今度は(外面的な糸)と(内面的な糸)に分けることができる。
ここに書いた母の介護は、言うなれば(外面的な糸)ということになる。
これに対して、(内面的な糸)がある。
(心の糸)と言い替えてもよい。
仏教的に表現すれば、「貪欲の糸」「執着の糸」「ねたみの糸」などが、それに含まれる。
本当に恐ろしいのは、こうした(内面的な糸)ということになる。
「私」自身が、操り人形のように、その「糸」に操られてしまう。
操られながら、操られていることにすら、気づかない。
私が私でなくなってしまう。
それこそ運命の中に、埋没してしまう。
だから、恐ろしい!
ある男性は、まさに金(マネー)の亡者だった。
明けても暮れても、考えるのは、金のことばかり。
自分の妻ですら、家政婦、あるいは従業員くらいにしか考えていなかった。
もちろん家族への思いなど、ゼロ。
「仕事のためなら、家族は犠牲になって当然」と考えていた。
もちろんケチ。
法事のお返しに、100円ショップで買った商品を包んだというから、ふつうではない。
すべての価値を、金に置き換えていた。
人間関係も、損得計算をしてから決めていた。
貪欲な人というのは、そういう男性のことをいう。
で、問題は私たち自身。
そういう男性を身近に見ると、だれしも、「私はちがう」と思う。
「私は、あいつとはちがう」と。
しかしその実、それほどちがわない。
程度の差こそあれ、みな、同じ。
というのも、貪欲かどうかは、あくまでも相対的なもの。
マザーテレサのような女性から見れば、この日本には、貪欲でない人はいない。
またどんな貪欲な人でも、どこかの国の、あの独裁者と比べたら、聖人のようなもの。
「執着」「ねたみ」についても、また同じ。
●魂のかいほう
「自由」とは、こうした「糸」からの解放をいう。
とくに(内面的な糸)からの解放をいう。
一言で言えば、「魂の解放」をいう。
好き勝手なことをするのを、「自由」とは言わない。
で、キリスト教というと、「愛の宗教」と考えている人は多い。
しかしキリスト教には、もう一本の柱がある。
それが「自由」。
つまり横軸を「愛」とするなら、縦軸が「自由」ということになる。
これは私の勝手な解釈によるものだが、この両者があいまって、私たちは「渇き」、
つまり「孤独」から解放される。
言うまでもなく、「孤独」ほど、恐ろしい「罪」はない。
仏教でも、「無間地獄」と位置づけている。
簡単に図示してみると、こうなる。
自由
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愛ーーーーーーー+ーーーーーーー愛
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|
自由
「愛」については、何度も書いてきたように、「許して、忘れる」。
英語では「Forgive & Forget」。
「どこまで相手に愛を与えるために許し、どこまで相手から愛を得るために忘れるか」、
その度量の深さで決まる。
「自由」については、ここに書いたように、「魂の解放」をいう。
●さあ、今日も始まった
ともかくも、私たちの体は、無数の糸によって、がんじがらめになっている。
私たちは日々に、その糸の中で、もがき、苦しむ。
「それが人間」と言えば、相手によっては、たいへん失礼な言い方になることは
よく知っている。
しかし私たちがなぜ、ここにいて、なぜ生きているかと聞かれれば、それから生まれる
無数のドラマに価値があるからということになる。
平凡は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。
ヘタをすれば、ただ息(いき)ているだけという状態になる。
これには老いも若きもない。
年老いても、(生きている)人は、いくらでもいる。
若くても、ただ、(息ている)人は、いくらでもいる。
前にも書いたが、「老い」は、肉体という(入れ物)では決まらない。
年齢という(数字)でも決まらない。
中身。
中身で決まる。
今、どう生きているかで、決まる。
また人間が生きる美しさは、運命と闘う、そのドラマの中から生まれる。
またそのドラマに価値がある。
それが真の幸福につながる。
あのトルストイもこう言っている。
『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛
すること。信ずること』(第五編四節)と。
生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。
一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、
最終的には幸福になるピエール。
そのピエールの言葉である。
……ということで、今朝も始まった。
4月9日。
昨日は長男の誕生日だった。
みなで温泉へ行き、レストランでパーティを開いた。
楽しかった。
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(付記)貪欲さについて
●あらゆる動物において、もっともはげしい欲望は、肉欲と飢餓である。(アディソン「スペクテーター」)
●われわれをいちばん強く支配する欲望は、淫欲のそれである。
この種の欲望は、これで足りるということがない。満足させればさせるほど、ますます増長する。(トルストイ「読書の輪」)
●貪欲は、偶像礼拝にほかならず。(新約聖書・コロサイ人への手紙)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自由論 運命論 糸論 貪欲論 生きる意味 愛と自由)
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
2010年4月9日金曜日
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