2010年4月1日木曜日

*Beyond the words "Forgive and forget"

●『許して忘れる』と、その限界
Beyond the words, "Forgive and Forget"
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『許して忘れる』は、生きる原則。
しかしその『許して忘れる』にも、限界がある。
他者に向かう(怒り)は、これは許して、
忘れることができる。
For・give&For・get。
「相手に愛を与えるために許し、相手から愛を
得るために忘れる」。

しかし自分に向かう(怒り)はどうか。
許して忘れることは可能なのか。
いくつかのケースを並べて、考えて
みたい。

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【ケース1】

 何かの失敗をして、自分の人生をメチャメチャにしてしまうということは、よくある。
私のことではない。
マスコミをにぎわす事件として、よくある。
どこかの学者は、手鏡で若い女性のスカートの中をのぞいて、自分の人生をメチャメチャにしてしまった。
地位も名誉も失った。

 仮に私がその学者なら、(怒り)は、まっさきに自分に向かう。
「何というバカなことをしてしまったのだろう」と。
(あるいは「何と運が悪かったのだろう」と思うかもしれないが……。)

 しかしこのばあい、(怒り)そのものも、それほど強くないはず。
その学者は、自分でしたいことをしただけ。
欲望の奴隷となり、欲望を抑えることができなかっただけ。
言うなれば債権投資で、大金を失ったようなもの。
だから逮捕され、職を追われたとしても、「損をした」と後悔することはあるだろう。
しかし(怒り)が、自分に向かうことはない。
だから(自分を許す)ということ自体、ないとは言わないが、その衝撃は小さい。

【ケース2】

 ある宗教教団では、輸血そのものを禁止している。
「禁止」という言葉は使っていないが、私が電話で問い合わせると、こう教えてくれた。
「禁止はしていません。しかし熱心な信者なら、自ら、輸血を拒否するでしょう」と。
実に巧妙な言い方である。

 で、その結果、交通事故にあった、自分の子どもが死んでしまったとする。
私の子どもでもよいし、あなたの子どもでもよい。
輸血を適切にしていれば、助かったかもしれない。
で、それから何年かたった。
その人は、信仰をやめ、その宗教団体から抜けた。
そのとき、その人は、(私やあなたでもよいが)、どう考えるだろうか。
自分の愚かさを恥じ、悩み苦しむだろうか。

 あくまでもこれは私の想像だが、その人は、自分に向かう(怒り)に苦しむことになる。
「何と、バカなことをしてしまったのだろう」と。

 このばあい、果たして、『許して忘れる』ことは、可能だろうか。
「私もだまされていました」と、忘れることはできるだろうか。
もちろん教団に責任を求めることはできない。
教団は、輸血を禁止していたわけではない。

 私がその人なら、生涯にわたって、もがき苦しむことになるだろう。
つまり自分を、許して忘れることはできない。

(実際には、こういうケースのばあい、そういう信者は、ますます信仰にのめり込んでいく。
まちがいを認めることは、そのまま自己否定につながる。
「自分の子どもを殺してしまった」という苦しみに耐えられる親は、いない。)

【ケース3】

 過保護や過干渉、過関心で、子どもをダメに(?)にしていく親は多い。
過負担、過剰期待でもよい。

 ある子どもは猛烈な受験競争の結果、何とか、市内でもいちばんという、進学高校に入学した。
それまで毎晩のように、母親とその子どもの間で、「勉強しなさい」「うるさい」の大げんかがつづいた。
しかし入学したとたん、バーントアウト。
燃え尽きてしまった。
無気力から怠学となり、前期も終わるころには、不登校を繰り返すようになってしまった。
病院で診察を受けると、うつ病と診断された。

 こういうケースのばあい、その母親が、自分に対して(怒り)を覚えることは、まずない。
それ以前の問題として、罪の意識そのものがない。
「私はまちがったことをした」という自覚そのものがない。
むしろこう考える。
「私は子どものために、必要なことをしただけ」と。

 その母親が自責の念にかられるためには、(まちがったことをした)という、客観的な自覚がなければならない。
それを知るためには、母親自身が賢くなり、自分の過ちに気がつかなければならない。
しかしほとんどのばあい、それは期待できない。
へたをすれば、「なぜあなたはそうなってしまったの!」と、子どもを責めつづけるかもしれない。
つまり(怒り)が、自分に向かうということはない。

【ケース4】
 
 つまらない結婚、つまらない子育てをし、その結果、自分の人生を棒に振ってしまったと感じたときは、どうだろうか。
数日前も、どこかのBLOGに、こんな書き込みがしてあった。
記憶によるものなので、内容は正確ではないが、こういう内容だった。

 つまりその女性(50歳くらい)は、毎日のように夫に向かって、「人生を返せ!」「青春を返せ!」と、怒鳴り散らしているという。
はげしい文句が並べてあった。

 こういうケースは少なくない。
私も身近の人で、妻が夫にそう言っているという話を聞いたことがある。

こういうケースのばあい、自分に対する(怒り)を、相手である夫にぶつけているというふうに解釈できる。
不本意な結婚した自分を責めるあまり、それを夫のせいにして、夫を責める。

結婚したことを後悔しているというより、気がついてみたら、人生も終わっていた。
鏡に映るのは、すでに老人顔。
息子や娘たちからは、「バーさん」と言われ、相手にされない。
「私の人生は何だったの!」と叫んだとたん、(怒り)がこだまのように、はね返ってくる。
その(怒り)が、そこにいる夫に向かう。

 で、『許して忘れる』ということになる。
が、それは果たして可能なのか。
まただれを許し、だれを忘れればよいのか。

 このばあいでも、(怒り)が自分に向かっている間は、『許して忘れる』は、できないということになる。
夫にしても、手のほどこしようがない。

【ケース5】

 こうして考えてみると、他者を『許して忘れる』ことはできても、(それも難しいことだが)、自分を『許して忘れる』ということは、ほぼ不可能と断言してよい。
私も、数年前、こういうことがあった。

 私は1人の知人にだまされて、ほとんど価値のない山林を買ってしまった。
俗に言う「山師」だった。
で、それから30年以上。
いつまでももっていても仕方ないということで、その山林を売りに出そうとした。
しかし住宅地とちがって、山林には、そうした土地を売買するしくみそのものがない。
そこで私は新聞に、折り込み広告を入れた。
反応がまったくなかったので、私はそれを6回、つづけて出した。

 が、それがその知人の逆鱗に触れた。
「オレに恥をかかせた」ということになったらしい。
で、結局、その山林は、買ったときの値段の10分の1程度で、地元の別の人が買ってくれた。
が、以来、私の方が悪者になってしまった。
(しかし、どうしてこの私が悪者なのか?)

 こういうケースのばあい、(怒り)は、私のばあいは、自分に向かう。
私は完全な、自責型人間。
私をだました知人に、(怒り)が向かうのではなく、「愚かだった」ということで、自分に向かった。
「もっと調べて買うべきだった」とか、「親しいからといって、信用した私がバカだった」と。
 
 で、やはりここでも、『許して忘れる』という問題がたちはだかる。
自分を許し、忘れることはできるのか、と。
が、答は「NO!」。
今でも心のどこかに、悶々とした燃えかすのようなものが、くすぶりつづけている。
それがその答ということになる。

●結論

 『許して忘れる』……、つまり、それによって「愛」の深さが決まる。
その度量の深さが、愛の深さということになる。

 しかしそれにはいくつかの条件がある。

 その第一は、ここにも書いてきたように、「他者」が、そこにいること。
相手が(自分)では、どうしようもない。
とくにそこに自分の愚かさがからむときは、そうである。
ここにも書いたように、いつ晴れるともなく、悶々とした燃えかすのようなものが残る。

 さらに言えば、「他者」といっても、それにふさわしい他者でなければならないということ。
相手が「山師」のような人間では、そもそも「許す」という対象にならない。
「相手にした私が愚かだった」ということになる。

 ……ということで、(ケース1)から(ケース5)まで、いろいろな場面を想定して、『許して忘れる』の限界について、考えてみた。
この言葉を宗教的に解釈する人たちは、たぶん、こう言うだろう。
「それでも、許して忘れなさい。その向こうに愛があり、真理が隠されています」と。

 しかし私には、その度量はない。
ごくふつうの、平凡な男である。
だからその限界を乗り越えることはできない。
それがここでいう「許して忘れるの限界」ということになる。

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