2010年4月10日土曜日

*Active Education

【教育のダイナミズム】

●教育の自由化論byはやし浩司

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読売新聞の調査結果が、韓国の東亜B報に
掲載された。

(日本)→(韓国)→(日本)と迂回した
ことになる。
興味深い調査結果だったので、ここに
収録させてもらう。

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●居眠りする高校生

++++++++++++++以下、東亜N報より++++++++++++++

「韓国人生徒は居眠りし、日本人生徒はぼうっと座っていて、米国人生徒は食べたり、私語がやまない…」
日本の文部科学省傘下の教育機関が、韓国や米国、中国、日本の4カ国の高校生を対象に、授業に臨む態度について調査した結果、国ごとにこのような傾向を見せたと、読売新聞が8日付で報じた。今回の調査は、4ヵ国の高校生6200人を対象に、昨年夏から秋にかけて実施された。
この調査の結果によると、韓国人生徒らの32.3%が授業時間に居眠りするのを、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」だと答え、日本(45.1%)に次き2位だった。一方、米国や中国人生徒らはそれぞれ20.8%と4.7%に止まった。韓国人生徒らはまた、「授業内容をノートにこまめに書いている」と回答した比率は68.1%と、日本(93.1%)や中国(90.1%)、米国(89.1%)より低かった。「授業時間に積極的に発表する」という回答も、韓国人生徒らは16.3%に止まり、米国(51.5%)や中国(46.2%)より一段と低かった。
一方、日本人生徒らは、「(授業時間に)ぼうっと座っている」という回答が45.8%と、米国(59.4%)と同様高い割合を示した。また、米国人生徒らは、「隣の友人と私語をする」や、「授業中におやつを食べる」という回答もそれぞれ64.2%と46.9%と、4カ国の生徒のうちもっとも高かった。また、「メールを送ったり、授業内容とは関係のない本を読む」という生徒も、38.9%ともっとも多かった。
一方、中国人生徒らは、授業への参加度が高く、授業態度も全般的に良好であり、韓米日の生徒らとは対照的な姿を見せた。

++++++++++++++以上、東亜N報より++++++++++++++

●データの整理

(授業中、居眠りをしている)

居眠りについて、「普通の行動」、または「たびたびおこなっている行動」

    日本人    45.1%    
    韓国人    32.3%
    アメリカ   20.8%
    中国      4.7%

(授業内容をノートにこまめに書いている)

    日本人    93.1% 
    中国     90.1%
    アメリカ   89.1%
    韓国人    68.1%

(授業時間に積極的に発表する)

    アメリカ   51.5%
    中国     46.2%
    韓国     16.3%

(授業時間に、ぼうっと座っている)

    アメリカ   59.4%
    日本     45.8%
    
 結論として、「中国人生徒らは、授業への参加度が高く、授業態度も全般的に良好であり、韓米日の生徒らとは対照的な姿を見せた」とのこと。

●「必須科目」という幻想

 この数字を見ただけで、日本の子どもたちが今、学校でどのような様子なのか、よくわかる。
参観日に見せる様子を、(すべて)と思ってはいけない。
あれはあくまでも、「ショー」。
ショーということは、あなた自身が、いちばんよく知っているはず。

 では、どうすればよいのか?

 私はいまだに「必須科目」という科目の意味がよくわからない。
たとえば私は毎年暮れに発売になる、「IMIDAS」という総合用語辞典がある。
私は毎年、その本を買っている。
で、一度、「必須科目」と言われる科目に相当する部分が、どの程度の分野なのか、こまめに調べたことがある。
そのとき、私は、「学校で習う分野(内容ではなく、分野)は、20分の1から、30分の1であることを知った。

(たったの20分の1だぞ!)

 その20分の1のことのために、それを「人格形成に必要不可欠な知識、教養」と思いこまされ、日夜学校でしごかれている子どもが、あわれ。

 ちなみにオーストラリアでは、「キャンピング」という科目が、必須科目(コンパルサリィ)になっている。
理由を聞くと、「荒れ地で独りになっても、生きていかれるように」と。
また語学にしても、フランス語、ドイツ語に並んで、中国語、日本語、インドネシア語から選択できる(中1レベル)。
インドネシア語が選択できるのは、「隣国だから」と。

以前書いたエッセーを、ここに紹介する。
日付は、2007年の9月になっている。

++++++以下、2007年9月、発表のエッセーより++++++++

●実用的なことを教える

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この日本では、実用的なことを
教えるのは、邪道であるというふうに
考えている教師は多い。

統計的な数字があるわけではないが、
そういう風潮は、たしかにある。

このことは、アメリカの中学校で
使う教科書と比較してみると、
よくわかる。

アメリカの中学校では、「中古車の
買い方」(代数)というテーマから
数学の学習に入る(プレンティス版、
「代数」)。

金利計算(=小数の計算)、さらには
小切手の切り方などまで、その(流れ)
の中で教えている。

どうして教育が実用的であっては
いけないのか。アカデミックな部分も
必要かもしれないが、みながみな、
その道の学者になるわけではない。

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 「勉強は役に立たない」と考えている子どもは、多い。このほどベネッセが発表した「学習基本調査」によると、「役に立つ」と答えた小学生の割合は、東京、ソウル、北京、ロンドン、ワシントンDC、ヘルシンキの中で、最低だったという。

 希望の進学段階も、北京の小学生の65・2%が、「大学院まで」と答えているが、東京の小学生は、「高校まで」という回答が、相対的に多かったという。

 さらに学習時間数についても、東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間半以上が、18・1%いるそうだ。

 全体の平均も、

 東京 ……101・1分
 ソウル……145・8分
 北京 ……131・6分、とか。
(以上、「学習基本調査の国際比較」、ベネッセ、東京、ソウル、北京、ロンドン、ワシントン、ヘルシンキの、小学5年生(10~11歳、公立校)で調査。06年6月~07年1月、産経新聞より)
 
 私が住むこのあたりでも、「高校は部活動を一生懸命やって、推薦で高校へ入る」という中学生が多い。北区にある、ある中学校の校長は、「そういう子どもが、全体の60%はいる」と話してくれたのを覚えている。

 最近の子どもたちは、勉強をしなくなった。……というより、勉強する子どもと、しない子どもの二極化が、ますます進んでいる。その一方で、進学を目的とした受験競争は、はげしくなっている。それが「東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間半以上が、18・1%」という数字になって、表れている。

 なぜ学校の勉強はおもしろくないか? それについては、今まで繰りかえし書いてきた。

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【日本の教育が遅れるとき】 

●英語教育はムダ?

 D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。

しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論をする前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校では、公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている(※1)。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること(※2)」(長野県経営者協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教える必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそうだ。

たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばかりにこだわっているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入学時には、ほとんどの子どもが「英語、好き」と答える。が、1年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものなのか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものなのか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「なぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子どもたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけないのかと思う」と、疑問に感じているというではないか(ベネッセコーポレーション・「第三回学習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こういう議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教えたい親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから学びたくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要はないという人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。それでほとんどの問題は解決する。

※1……州政府は学習内容を六つの領域に分け、一応のガイダンスを各学校に提示しているが、「それはたいへんゆるやかなもの」(同小学校、オクーイン校長)とのこと。各学校はそのガイダンスの範囲内で、自由にカリキュラムを編成することができる。

※2……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在日イギリス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている。「イギリスでは、一九九〇年代半ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結果、国家の誇りが失われた認識があった。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」「さらに、現代社会はIT(情報技術)革命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社会的価値の変化に直面しているが、これも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。つまり子どもたちが急激に変化する世界で生活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対応できる教育制度が必要と考えたからである」(長野県経営者協会会合の席で)と。そして「当初は教師や教職員組合の抵抗にあったが、国民からの支持を得て、少しずつ理解を得ることができた」とも。イギリスでの教育改革は、サッチャー首相の時代から、もう丸4年になろうとしている(2001年11月)。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【実用的な教育】

● すべての国民は、国の教育機関で、平等な教育を受ける権利がある。……ということで、学校教育は発達した。しかしそれが達成されたあとは、「教育」そのものに対する考え方は変わってくる。変わって当然である。それはちょうど、食事に似ている。貧しい時代には、腹がふくれれば、それでよかった。しかし人々の意識が、ある一定のレベルを超えると、それは必要なことかもしれないが、それでは足りない。料理が発達し、人々が食生活に楽しみを求めるようになったのと同じように、親や子どもたちは、教育に、「中身」を求めるようになった。

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●何のための歴史教育

 生きた歴史教育は、「今」という時点で考えて、はじめて可能である。それはたとえて言うなら、料理の教育に似ている。料理にしても、自分で作ってみて、はじめてそれがわかる。

 昨夜も高校受験をひかえた中学生と話しあってみた。彼はこのあたりでも一番と呼ばれる進学校を受験することになっている。たまたまアヘン戦争の話をしたが、こう言った。

「道光帝が、林則徐を広州に派遣した。で、アヘンを没収し、イギリス貿易を中止したんだ。それで一八四〇年に、イギリス議会が、清に対して宣戦を布告した……」と。

 そんな彼でも、私が「では、どうして今の北朝鮮が日本を目の仇(かたき)にしているのか」と聞いても、「知らない」「わからない」と言う。「あんな国は、あっという間にやっつけてやる」とも言う。「しかし向こうは、100万人の兵隊をもっているよ。日本は20万人だよ」と、私が言うと、「アメリカが、核兵器で始末してくれるさ」と。

●実用的でないのが教育?

 こうした例は、英語にも、国語にもある。恩師のT教授も、理科もそうだという。(私には理科教育はよくわからないが……。)日本の教育は、伝統的に、どこかおかしい? 本当におかしい? 教えるべきことを教えないで、教えなくてもよいようなことばかり、教えている? 何かしら役にたたないようなことを教えるのが教育と、誤解しているような面すらある。反対に、実用的なことは教えてはいけないというような風潮すら、ある。

 アメリカでは、中学校での上級数学(Advance Math)では、中古車の買い方から教え始め、小切手の切り方まで教える。高校で車の運転のし方を教えるところも多い。もちろん免許も学校で取れる(地方の高校など)。

●学者になるには、すぐれた体系
 
が、この日本では、その道のエラーイ先生がたが、教科書をつくる。だから日本の教科書は、将来、数学者や歴史学者、英語の文法学者になるには、きわめてすぐれた体系をもっている。しかしみながみな、数学者や歴史学者、さらには、英語の文法学者になるわけではない。そういう道に進むのは、全体の1%もいないのでは? 

 歴史教育にしても、なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去を学び、未来にその経験や失敗を生かすためである。頭でっかちのモノ知りを育てるためではない。少し前だが、こんなことを暗記している中学3年生がいた。

 「富山のチューリップ、長野の高原野菜、浜名湖のウナギ……」と。

そこで私が、「高原野菜って何?」と聞くと、「知らない……」と。さらに「浜名湖でウナギの養殖なんか、もうしてないよ。みんな台湾や中国から輸入しているよ」と言うと、「いいの、そんなことは!」と。こういう教育の現実を、いったい、どれほどの人が知っているだろうか。

英語にしても、学校で習う英語は、まったく役にたたない。そんなことは、40年も前から言われつづけてきた。50年かもしれない。しかしやっと重い腰をあげたのは、ほんの数年前。その成果が出てくるのは、これから先、さらに20年後?

●教育の自由化を

 みなさん、もっと教育を自由化しよう。もっと教育を自由に考えよう。もっと教育を自由の流れの中に置こう。ドイツやイタリアのように。カナダやオーストラリアのように。今の日本の教育は、いまだに戦前のあの軍国主義時代の亡霊を引きずっている。学校万能主義。第一主義。絶対主義などなど。私たちは、あの北朝鮮の教育体制を見て笑うが、どこがどう違うのか。私には、その「違い」がわからない。

 たとえばドイツでは、子どもたち(中学生)は、たいてい午前中で授業を終え、そのあと、好きなクラブに通っている。いろいろなクラブがある。月謝は1000円程度。費用はチャイルドマネーによって、国によって補助されている。イタリアもそうだ。

大学についても、ヨーロッパは、全体として、すでに完全に共通化された。こういう時代が、もう世界の常識だというのに、いまだに、学歴社会だのなんのと、バカみたい。いい学校だの、いい大学だのと、バカみたい。学生たちは、その道のプロになるために大学へ行く。大学院へ行く。しかも、だ。欧米では、奨学金を手にした学生たちは、自由に大学間を渡りあるいている。

●人間選別の弊害

 今ごろ教育改革しても、遅い。遅過ぎる。この日本では、せっかくすぐれた才能をもっていても、進学という関門を通りすぎるたびに、ふるい落されていく。つい先日も、O君というマレにみる、優秀な子ども(小学生)がいた。小学3年生のときには、中学3年生でもできないような難解な数学を、自分で考えた方法で解いていた。

しかしこういう子どもを伸ばす機関が、日本にはない。理解もない。そこで東京の私立中学を受験したが、残念ながら、どこも不合格。「社会ができなかったから……」と、O君は言った。

 こういうO君のような例は、本当に多い。が、これからは、もうそういう時代ではない。貧しい時代の学校教育から、豊かな時代の学校教育へと変身しなければならない。その豊かな時代とは何かといえば、それぞれの人が、自分の個性を光らせて生きる時代をいう。

これに対して、「全教科、まんべんなくできる子どものほうが、望ましい」という意見もある。しかしその「全教科」にしても、本当に全教科なのか。私は以前、毎年、冬に刊行される「時事辞典」※を調べてみたが、学校で習う勉強など、その辞典の20分の1から30分の1にもならない。「全教科」「基礎学力」といいながら、何をもって全教科というのか。何をもって、基礎学力というのか。

 たとえばオーストラリアのグラマースクールでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ語、フランス語、中国語、インドネシア語、日本語から選択できる。芸術にしても、美術、音楽、演劇などが、それぞれ独立している。ほかに宗教もあれば、読書、キャンピング、コンピュータなどもある。全体に広く浅く教えながら、子どもの多様性を認める教育システムになっている。そして学外クラブも発達していて、それ以上に学びたい子どもは、それぞれのクラブに通っている。

●自由度で決まる、国の力

 国家の力は、いかに民衆が自由であるかによって決まる。教育とて例外ではない。すぐれた教育というのは、いかに多くの、将来への選択肢を子どもに与えることができるかで決まる。

 話がぐんぐんと脱線してしまったが、なぜ私たちが子どもを教育するかといえば、子どもたちが将来、多様性のある社会の中で、柔軟(フレキシブル)に、力強く生きていくことができるようにするためである。

とくに歴史教育は、先にも書いたように、過去を学び、未来にその経験や失敗を生かすためである。しかしその歴史教育一つとっても、子どもたちの世界では、まったく役にたっていない。日本よ、日本の親たちよ、本当にこんなことでよいのか?

注※「イミダス」の索引の中から、学校の授業(英数国社理)で扱うような項目と、そうでない項目を分けてみた。その結果、ここでいう20分の1から30分の1という数字を算出した。

++++++以上、2007年9月、発表のエッセーより++++++++

●教育の自由化を!

 今となっては手遅れ。
なぜ日本の教育が、こうまで硬直してしまったのか?
ダイナミズムを失ってしまったのか?
その理由の一つとして、私は「ぬるま湯」論をあげる。

 たとえば幼稚園教育。
幼稚園そのものが、学校法人の名のもと、国から手厚い保護を受けている。
そこそこの指導(教育ではなく、指導)をしていれば、経営は安定する。
そういう中で、「これが幼児教育です」という「形」を作ってしまった。
もちろん「そうであってはいけない」と、がんばっている幼稚園も多い。
が、そういう幼稚園は、少数派。
たいはんの幼稚園が、ぬるま湯につかったまま、そこに安住してしまっている。

 では、どうするか?

 英語の格言に、『空の飛び方は、崖から飛び降りてから考えろ』というのがある。
つまりそれくらいまで追いつめられないと、だめという意味。
人は自分のもつ力を、引き出すことはできない。
そのためには、教育を自由化する。
ひとつの例として、郵便局と宅配会社の関係を、私はあげる。

 当初、宅配会社が全国規模で宅配を開始すると言ったとき、時の郵政省は、それに猛烈に反対した。
無数の理由をこじつけた。
が、結果は、どうか?
今ではネットを使って、宅配物はどこにあるか、何時ころ配達されるか、リアルタイムにそれがわかるようになった。
しかも配達時間まで、指定できる。
これが「自由化」である。
自由化の恩恵である。

 文科省は、サラミ戦術(少しずつ切り出しする方式)で、改革なるもの(?)を進めている。
が、こんな方法では、日本の教育は何も変わらない。
変わらないばかりか、ますます世界の潮流から、取り残されてしまう。

●夢

 私は夢見る。
子どもたちが、毎日の授業を楽しみにし、生き生きと学ぶ姿を!
 私は夢見る。
子どもたちが、自分の目標をもち、その目標に向かって進んでいく姿を!
 私は夢見る。
子どもたちが、自分たちの力で、自分たちの未来を作っていく姿を!

 ……キング牧師の演説風に書いてみた。

 具体的には、何度も書くが、(1)単位制の導入、(2)クラブ制の導入ということになる。
(3)教師の雑務からの解放も重要。
それについては、10年以上も前から、繰り返し書いてきたので、ここではここまで。

 結論として、もう一度、冒頭にあげたデータをながめてみてほしい。
あなた自身の学生時代を思い出してみてほしい。
あなたは、それでよいと思っているのか?
これでよいと思っているのか?

もし「NO!」なら、私がここに書いたようなことを、あなたも一言、口にしてみてほしい。
そういう声が集合されたとき、日本の教育は変わる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 居眠りする子ども 教育の自由化 イミダス はやし浩司 教科書論 実用的な教育 おもしろくない教育)
2010年4月9日記


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

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