2010年4月28日水曜日

*The ability to know myself

●自己評価と現実検証能力(見舞い論)

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「自分」を客観的に評価するのはむずかしい。
「自分」と「他者」との関係を、客観的に
評価するのは、むずかしい。
さらに「自分」が置かれた立場を、客観的に
評価するのは、むずかしい。

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●自己評価力

 「自分」をどう見るか。
どう判断するか。
それが「自己評価」ということになる。
「私はすぐれた人間」と思うのも、また反対に、「私はつまらない人間」と思うのも、
自己評価のなせるワザということになる。

 子どもの世界では、自己評価の高い子どもほど、よく伸びる。
わかりやすく言えば、ややうぬぼれ気味の子どものほうが、よく伸びる。
「私はできる!」という自信が、子どもを前向きに引っ張っていく。
(あまりうぬぼれすぎるのも、よくないが……。)

 この自己評価の基本となるのが、現実検証能力。
まず現実の「自分」を知る。
それが自分を評価する、第一歩ということになる。

●現実検証能力

 一方、「自分」というものを、客観的に検証する能力を、「現実検証能力」という。
これには、

(1)自分を客観的に検証する。
(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する、の3つが含まれる。

(3)の「立場」には、現在の立場と未来の立場がある。
「今、自分はどういう立場に置かれているか」
「将来、自分はどのような立場に置かれるか」
……それを客観的に検証する。
(「過去の立場」もあるが、すんだことを、とやかく悩んだところで、しかたない。)

 「あの人は、自分のことが、まるでわかっていない」というときの、「あの人」は、
それだけ現実検証能力の劣っている人ということになる。
たとえば現在(2010・4・28)の、民主党の小沢幹事長。

 検察審議会が「起訴相当」と判断したにもかかわらず、「職務をまっとうする」などと、
トンチンカンなことを平然と述べている。
いわく、「私といたしましては、意外な結果で驚いておるところでございます。私自身、何もやましいこともありませんので、与えられた職務を淡々と全力でこなしていくということに尽きると」(TBS、iニュース)と。

●程度の問題

 とは言っても、「自分」を知ることはむずかしい。
程度の問題ということになるが、「自分」を知れば知るほど、自分がわからなくなる。
ひとつの例として、すばらしい肩書きをもった、1人の男性を想定してみる。

彼は、大会社の部長という肩書きを背負っていた。
彼は部下からも、また取引先の人たちからも、一目、置かれていた。
盆暮れには、山のようなつけ届けが届き、年に数回は、家族と海外旅行を楽しんでいた。

 そこでその男性は、「私はすばらしい人間」と思うようになった。
「すばらしい人間だから、それにふさわしい生活をしているだけ」と。

 が、それから10数年後。
その男性は退職する。
現在は年金生活。
企業年金も含めて、50万円弱の年金がある。
生活には困らない。
しかし今、その男性は、だれからも相手にされない。

 こういうケースのばあい、その男性に、現実検証能力を期待することはできるだろうか。
が、私が知るかぎり、それはたいへんむずかしい。
ある女性(60歳)は、こう言った。
「私の兄がそうですが、いまだに威張っています。
自分を軽んじる人がいたりすると、ものすごく怒ります」と。

 みながその人に頭をさげたのは、その人がそれだけすばらしかったからではない。
その人の「肩書き」に頭をさげた。
現実検証能力のある人には、それがわかる。
しかしそれがない人には、それがわからない。

●謙虚になる

 要するに「程度の問題」ということになる。
「自分のことは、私がいちばんよく知っている」と言う人ほど、意外と自分のこと
を知らない。
反対に「自分がよくわからない」と思っている人ほど、意外と自分のことを、
よく知っている。

 わかりやすく言えば、「謙虚になる」ということ。
『謙虚さこそ、自分を知る最大の武器』ということになる。
たとえばMさん(65歳、女性)は、ことあるごとに、「私はだまされた」と
言いつづけている。
「私は兄に、親の財産をすべて奪われました」と。

 しかしそういうMさんだが、自分の小ずるさには、気がついていない。
それまで、さんざん、小ずるいことを重ねてきた。
小ずるく生きることが、Mさんの処世術にもなっていた。
親の葬儀のときも、なんだかんだと理由にもならない理由を並べて、1円も、葬儀費用を
負担しなかった。
実際には、親がタンス預金としてもっていた現金を、すべて自分のものにしている。
そういうことを棚にあげて、「私はだまされた」は、ない。

●では、どうするか

 「自分」を知るためには、まわりにいる「相手」が、自分をどう思っているか、
それを冷静に想像してみる。
配偶者でもよい。
子どもでもよい。
親でもよい。
友人でも、親類でもよい。
そういう人たちを、1人1人、頭の中で思い浮かべながら、「自分」をどう見ているか、と。
相手の視点の中に、自分を置くという方法もある。
相手の目を通して、自分を見る。

 その結果として、「自分」が、そこに浮かんでくる。
かなりの空想力と想像力が必要となるが、裏を返していうと、自己中心的な人というのは、
その空想力と想像力のとぼしい人ということになる。
他者から見た自分が想像できないから、自分勝手なことを繰り返す。

たとえば「見舞い」。
病気の人を見舞うときは、相手の気持ち、相手の気持ちがわからないときは、介護する
家族の気持ちを確かめてからする。
それが、常識。
いきなり押しかけて行って、「見舞いに来ました」は、ない。
相手によっては、見舞いに来られた人は、それを苦痛にすら思うことがある。

●今日の目標

 今日は4月28日。
今日の目標ができた。
私はそのつど、相手の視点の中に自分を置いてみる。
そしてその人から、自分がどう見えるかを想像しながら、自分を見つめてみる。
これから朝食だから、とりあえず、私のワイフの中に、自分を置いてみる。
どう見えるだろうか?
どんな姿に見えるだろうか?

 少し楽しみ?
少しこわい?
この結果は、また明日にでも、報告の形で、書いてみたい。

 最後に一言。

民主党の小沢さん、もうやめなさい!
今となっては手遅れかもしれないが、もうこれ以上、民主党をどん底から、さらに
どん底へ落とす必要はないでしょ。
あなたは権力の座に溺れるあまり、現実検証能力、つまり自分を見失ってしまった。
その姿は、醜いというより、醜悪。
ぞっとするほど、醜悪。
一度でよいから、私たちの目の中に自分を置いて、自分の姿を見てみてみたらいい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分 現実検証能力 自己評価力 私探し 自分探し 自分を知る 己を知る 民主党 小沢幹事長 小沢一郎 小沢一郎幹事長)

【補記】

●自分が見えない人たち

 私の知人の中には、退職してもう10年以上もなるのに、いまだに退職前の
肩書きを背負って生きている人がいる。
一見すると腰が低く、ヘラヘラしているが、しかしそれは演技。
人に軽く扱われたりすると、とたんに不機嫌になったりする。
つまり、まるで自分のことがわかっていない。

 その知人だが、親類に入院者が出たりすると、足軽く見舞いに行ったりする。
「自分が行けば、相手は喜ぶはず」と考えて、(あるいは何も考えないで)、
そうする。
が、来られたほうこそ、えらい迷惑。
中には、自分の無様な姿を、人に見せたくない人もいる。
あの故・山城新吾について書いた原稿を思い出した。
まだ母が生きていたころに書いた原稿である。

それを先に、紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●見舞い

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週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。
週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。
それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。
私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。

母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。
母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。
さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。
母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。
治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。

それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。
相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。
これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

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形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。
ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……
ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。
身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

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総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がりすぎ、その分だけ複雑になったとも考えられる。
そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。

葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。
何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。

線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。
それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。
「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。
そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。
母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。
むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。

経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。

それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。
だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と答える。
形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。
だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。

そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。
で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)

死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。
それも「形」なのかもしれない。

が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。
こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。

その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。
葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 山城新伍 山城S伍 形だけの人間関係)

+++++++++++++以上、08年8月記+++++++++++++

●「そんなもん、会いたくないやろ」

 山城新伍は、こう言ったという。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
 この一言だけで、山城新伍を判断するわけではないが、しかしこの
一言だけでも、山城新伍は、ものすごい人ということがわかる。
大物というか、自分に正直。

だれしも山城新伍のような生き方をしたいと思いつつ、それができないでいる。
見栄や体裁に振り回される。

 こんなことがあった。

 私の母が死んでちょうど1年になる。
その当時を思い出しながら、ある女性(66歳)がこう言った。
「もっと、あなたのお母さんを見舞ってやればよかった」と。

 私はその言葉を聞いて、その女性の自己中心性に驚いた。
まるで自分のことがわかっていない。
生前、母は、その女性のことをたいへん嫌っていた。
私が知るかぎり、死ぬ間際まで、嫌っていた。
母にしてみれば、見舞いに来てほしくない第一の女性だった。
そんな女性が、自分だけの判断で、「もっと見舞ってやればよかった」とは!

 またこんな話もある。

 ワイフの友人(55歳・女性)が、子宮筋腫の手術で、1週間ほど
病院に入院した。
それについて、ワイフの友人は、そのことをだれにも話さなかった。
自分の夫にすら、「だれにも言わないでほしい」と念を押していたという。

 さらにこんな話もある。
このことは以前にも書いたが、Yさんという友人の夫(43歳)が、交通事故
で入院した。
それについて夫の友人の1人が、その日のうちにあちこちへ電話をかけ、みなに
知らせてしまった。
親切心からそうしたのだろうが、Yさんの気持ちを、先に確かめるべきだった。
Yさんは、こう言った。

「入院したその日に、ドヤドヤと、いろいろな人が見舞いに来て、その応対だけで
疲れてしまいました」と。

 見舞いといっても、みながみな、それを望んでいるわけではない。
また来てほしい人というのは、かぎられている。
で、それなりの立場でないなら、安易に見舞うというのは、やめたほうがよい。
かえってありがた迷惑になるだけ。

Yさんのケースにしても、そっとしておいてやることこそ、大切。
 もう一例、こんな話もある。

 2年前に、私の友人が亡くなった。
で、その初盆が昨年の7月にあった。
私はすっかりその日を忘れてしまっていた。
(私の生まれ故郷では、8月に盆供養をする習わしになっている。)

 それでそれをわびるために出向くと、奥さんは、こう言った。
「正直に言いますとね、初盆のほうが、葬式よりたいへんでした。
そのあと体の調子を崩してしまい、1週間ほど、寝込んでしまいました」と。

 周囲の人にしても、そうだ。
「親だから・・・」「子だから・・・」という理由だけで、それを前提として
ものを考えてはいけない。
親といってもさまざま。
子どもといってもさまざま。
親子関係となると、さらにざまざま。
「親の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
「子の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
それがわからないのは、あなただけ。

 いろいろなケースがある。

しかしこと病気の見舞いとなると、それを望まない人のほうが多いのでは?
(あるいは私の意見が、否定的すぎるかな?)
そこで大切なことは、一度家族の人の意見を聞いてみるということ。
その上で、見舞いに行くかどうかを決めればよい。

「私が見舞いに行けば、相手は喜ぶはず」という、「ハズ論」だけでものを
考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 見舞い 病気見舞い エチケット)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●一貫性

 現実検証能力のない人は、悪い意味で、一貫性がある。
自分のことがわからないと同時に、他人の心も、わからない。
自分の置かれた立場もわからない。
先に書いた、3つの分野で、共通して、現実検証能力が乏しい。

(1)自分を客観的に検証する。(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する。

つまり、ノー天気。
そうそうその知人だが、そのときの気分に応じて、盆や正月時でも、平気で
親類を訪ねて、寝泊まりしているそうだ。
「自分は尊敬されているはず」「歓迎されているはず」という、強い思いこみが
あって、そうしている。
本当は、みな、迷惑しているのだが、そういうことすらわからない?

 私は「あの男は、ボケているんじゃない?」と言っている。
ワイフは、「ああいう人を、おバカと言うのね」と言っている。
どうであるにせよ、現実検証能力の欠ける人というのは、そういう人をいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分のわからない人 迷惑な人 現実検証能力 自己評価 自己評価力 はやし浩司 無神経な人 病気の見舞い)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

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