2010年4月19日月曜日

*Freedom of Expression

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   19日号
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●父子関係(Father-Children Relationship)

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たとえば今、「父親を尊敬していない」と
考えている中高校生は55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている
中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)。

少し古い調査だが、それ以後改善したという
話は聞いていない。
現在、この数値は、さらに高くなっていると思われる。

++++++++++++++++++++++

●幻想

 こういう調査結果を見ても、「うちはだいじょうぶ」とか、「私と子どもの関係はぜった
い」とか思う父親は、多い。
しかし残念ながら、そういう父親ほど、あぶない。
それにはちゃんとした理由がある。

 つまり「うちはあぶない」と思っている父親ほど、家族や子どもに対して謙虚。
家族や子どもの心に耳を傾ける。
「だいじょうぶ」と思っている父親ほど、権威主義的。
その分だけ、家族の心がバラバラになりやすい。
しかも「79%」という数字は、「ほとんど」という数字。
が、なぜほとんどなのか。

●価値観の相違

 一世代ちがうと、価値観、ものの考え方、見方が大きく変わる。
音楽にしても、私たちの世代は、「舟木和夫」。
それがつぎの世代には、「尾崎豊」になり、さらにつぎの世代には、「アリス・ナイン」と
なる。
遊び方もちがう。

言い替えると、こと父と子の関係について言えば、断絶して当然。
またそういう前提で考える。
つまり幻想は、もたない。
さらに言い替えると、父親は、父親としてできるだけ早い時期に、子離れをすます。
自分で自分の生き様を確立する。
いつまでも子どもにベタベタしている父親のほうが、おかしい。
さらに言えば、子どもというのは、父親を踏み台にしておとなになっていく。
踏み台にされることを、恐れてはいけない。

 私も多くの子どもたちを教えさせてもらっている。
が、子どもというのは、小学3~4年生を境に、急速に(先生離れ)を始める。
へたに「教えてやろうか」と助け船を出すと、「いらない!」とか、「うるさい!」とか言
って、それを拒絶する。

 一見、生意気に見えるが、子どもの成長(=独立)ということを考えるなら、そのほう
が望ましい。
また子ども自身がそうできるように、うまく、しむける。
 
●父親像

 不幸にして不幸な家庭に育った父親ほど、しっかりとした父親像が脳にインプットされ
ていない。
そのため、どうしても気負い先行型の子育てになりやすい。
いつも「これでいいのか」という迷いをもちやすい。
あるいは権威主義的になり、子どもの反抗を許さない。
こうした(気負い)が、子離れの時期を見失わせる。

 まずいのは、「私はぜったい正しい」と、カラにこもること。
子育てで何がこわいかといって、風通しの悪い子育てほど、こわいものはない。
独善と独断。
これがつづくと、親子関係どころか、家族関係もおかしくなる。

 だからもしあなたが、不幸にして不幸な家庭に育ったとするなら、風通しのよい子育て
に心がける。
近隣の人や、親戚の人などの意見に、すなおに耳を傾ける。
いろいろな親子と交流を繰り返す。
こうして自分の父親像を修正していく。

 要するに、父親というのは、子どもに嫌われて当然。
嫌われたからといって、カリカリしないこと。
ガタガタしないこと。
あなたはあなたで、勝手に、前に向かって進んでいけばよい。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【表現の自由とは】

++++++++++++++++++++

一度、子どもたちが隠れて回し読みしている
コミック雑誌に目を通してみるとよい。
そこには、かなりの人でもドキッとするような
絵が、ズラズラと並んでいる。
「かなりの人」というのは、かなりそういう世界を
よく知っている人でも、という意味。

私が先日見たのは、10歳前後と思われる女の子が、
裸で椅子にしばられているというものだった。
その女の子の背後と両側から、悪魔(?)の黒い影が、
ニョキニョキとのびてていた。

女の子は恐怖と恥ずかしさで、泣き叫ぶ……。

こうした行きすぎた「表現」には、規制は当然としても、
しかし今さら、それをしたところで、どうにもならない。
つまり手遅れ!

++++++++++++++++++++

●性暴力

薄汚い商業主義をカモフラージュするために、「表現の自由」が利用されている。
しかしそれは表現の自由ではない。
表現の自由の濫用という。
またどうしてそれが、「守られなければならない権利」なのか。

 かいま見る最近の雑誌には、ものすごいものがある。
先に書いたような例は、まだ序の口。
まだあどけなさを残す少女が、あらゆる体位で、性行為を繰り返す。
輪姦、強姦、緊縛、乱交パーティ……なんでもござれ。
生殖器そのものは描かれていないが、そんなものは鉛筆一本で、描き足せる。
わざとそうなっている。
 
 そういう雑誌を、これまた小学生や中学生が読む。
隠れて読む。
判断力のまだ未成熟な子どもに与える悪影響となると、計り知れない。

 一方、欧米では、性描写と暴力描写については、きびしい規制がかけられている。
雑誌だけではない。
私の記憶に残っているのが、『風林火山』という映画があった。
1970年のことだった。
(40年も前の話だぞ!)

●暴力シーン

 メルボルンの日本領事主催の映画会が開かれた。
在住の日本人や、親日的な団体の人たちが招待された。
上映されたのは『風林火山』。
で、その映画の中で、ひとりの侍が、目に矢を受けるシーンがあった。
とたん劇場内にはギャーという叫び声。
子どもと一緒に来ていた親たちは、いっせいに、子どもの顔を手でおおった。

 が、日本では、あの映画は、まったく問題にならなかった。
当時も、またその後も、テレビでそのまま放映されている。

世界を歩いてみて、こんなバカげた「表現の自由」が野放しになっているのは、
この日本だけ。
その延長線上に、援助交際という「少女売春」がある。
飛躍した考え方に思う人もいるかもしれないが、世界の人は、そう見ている。

●ゆがむ性意識

 何も大脳生理学をもちだすまでもなく、思春期前夜、思春期にゆがんだ性意識をもつ
ことは好ましくない。
それがそのままその子ども(人)の性意識の基本になる。
線条体に受容体ができると、そのまま条件反射になってしまう危険性すらある。
女性の下着を見ただけで、興奮状態になる、など。
反対にそれがないと、性的満足感を得られなくなることもある。
マゾ、サド、小児性愛などを例にあげるまでもない。

 大学の教授職という立場にありながら、手鏡をもって歩いていた人もいた。
手鏡で、女性のスカートの下をのぞくことによって、快感を覚えていたらしい。
「ゆがんだ性意識」というのは、そういうことをいう。
 
 が、ゆがんだ性意識をもっている人には、それがわからない。
脳のCPU(中央演算装置)がゆがんでいるから、自分がゆがんでいることさえ
わからない。
わからないばかりか、自分の基準でもって、「他人もそうである」と誤解しやすい。
さらにそれを他人に押しつける人もいる。
彼らが説くところの「表現の自由」という言葉の裏には、そういう傲慢性すら、
見え隠れする。 

 仮にゆがんでいるとしても、何も子どもたちをまでその世界に引き込むことはない。

●非実在青少年

時事通信(2010ー3ー18)は、つぎのように伝える。

『……漫画などでの子供に関する性表現を規制対象とする東京都の青少年健全育成条例改
正案について、都議会最大会派の民主党は18日までに、継続審査の動議を提案する方針
を固めた。共産党、生活者ネットワーク・みらいも同調する方向。これにより、同改正案
は開会中の今都議会では成立せず、継続審査の見通しとなった。

 改正案は、漫画やアニメの中の18歳未満と類推される人物を「非実在青少年」と規定。
非実在青少年への性暴力などを肯定的に描く図書類を、青少年への販売・閲覧規制の対象
に加える内容だが、漫画家有志や出版業界が「表現の自由を奪う」などと反対している』(以
上、時事通信)と。

●自由と濫用

 「自由」という言葉には、甘美な響きがある。
「表現の自由」と言えば、さらにそうである。
しかし「自由」と「自由の濫用」は、ちがう。 
「自由」に名を借りた「濫用」には、警戒したらよい。

 先にも書いたように、最近の雑誌には、(ものすごいもの)がある。
道徳も哲学もない。
文化もない。
歯止めもない。
子どもたちの読む雑誌の中には、そのものズバリの描写シーンが載っている。

そういうのを総合して、「表現の自由」とは、言わない。
言うまでもなく、「自由」には、「責任」がともなう。
言うなれば、自転車の前輪と後輪。
「責任」がともなわない「自由」は、自由とは言わない。
無責任という。
もっと言えば、商業主義に踊らされた、権利の濫用。
さらに言えば、「権利」とは、常に弱者から強者に向けられるもの。
弱者の権利を保護するために、「権利」という言葉がある。

 子どもの世界を自由に操ることができる強者が、子どもという弱者を操るために、
「権利」を利用するのは、許されない。

●実際には、「非実在的少女」

 繰り返す。
明らかに小学生ぽい女の子(=非実在青少年)が、裸で四つんばいになる。
そういう女の子に対して、性的行為を繰り返す。
強要する。
そういう描写が、「表現の自由」なのか。
もしそれが「表現の自由」なら、(もし、娘がいればの話だが……)、同じことを
自分の娘にさせてみたらよい。
裸の写真を、雑誌で公表したらよい。
「責任」というのは、それをいう。

 この問題は、漫画家たちの良識と常識にゆだねるしかない。
が、その良識と常識があやしいから、「規制」という問題が出てくる。
こんなことがあった。

●陰毛ヌード

 ちょうど22年ほど前のこと。
東京に、「Y書房新社」という出版社があった。
「H&N」という雑誌を出していた。
が、月を重ねるごとに赤字。
そこで社長が、かけに打って出た。
ちょうどそのころ、ヌード写真の(陰毛)に対する、警察に取り締まりが緩くなった。
それをその出版社の社長は、いち早く察知した。
社長は、逮捕覚悟で、陰毛ヌード写真を載せた。
「H&N」という雑誌は、その月、爆発的に売れた。

 もちろんその社長に、「表現の自由の追求」などという高邁な精神があったわけではない。
窮地の一策として、陰毛ヌード写真を載せた。
私は当時、その雑誌に、コラムを連載させてもらっていた。
このあたりのいきさつを、私は間近で見聞きしていた。
「表現の自由」と言えば、耳ざわりはよいが、その底流では、薄汚い商業主義が
うごめいている。
出版社にしても、まず「売れる本」を考える。
わかりやすく言えば、金儲けが第一。
本音を言えば、そういうことになる。

●薄汚い商業主義

薄汚い商業主義をカモフラージュするための「表現の自由」。
もしそうなら、どうしてそれが、表現の自由なのか。
またどうしてそれが、「追求しなければならない権利」なのか。
もっと言えば、それによって守られる法益は、何か。
またそれを規制することによって侵害される法益は、何か。

 この問題は、そこまで踏み込んで考えてみる必要がある。
「法益」というのは、「法によって守られる利益」をいうが、同時にそれには、
「法がなければ被(こうむ)る不利益」も含まれる。
子どもに与える不利益を考えるなら、「法」による規制もまた、法益ということになる。

 仮に百歩譲っても、判断力の未成熟な子どもという読者に、これまた未成熟な
子どもを題材にした性描写をする。
どうしてそれが、「表現の自由」なのか。
「表現の自由」と、どうして言えるのか。

●欲望の追求

 この問題は、「もしあなたの娘が・・・」、あるいは「もしあなたの息子が・・・」
という前提で考えてみたらよい。

 今の日本に宗教性がないのは、しかたないとしても、それに代わる倫理観や道徳観、
さらには哲学観がないのは、どうしてか。
またそれでよいのか。
欲望のおもむくまま行動し、欲望の追求ばかりしたら、どうなるか。
それこそこの日本という社会は、バラバラになってしまう。
(すでにバラバラだが・・・。)
それに歯止めをかけるのは、当然のことではないのか。

 交通規制をしたからといって、「行動の自由」を規制することにはならない。
資格や許可を強化したからといって、「職業選択の自由」を侵害したことにはならない。
それと同じように、「表現の自由」に、ある一定のブレーキをかけることは、
表現の自由を侵害することにはならない。
「性表現」と「暴力表現」ということに的をしぼるのも、一案。

 むしろ現実は逆で、「表現の自由」をよいことに、その類(たぐい)の人たちが
好き勝手なことをしている。
写真は、使えない。
実物の子どもは使えない。
だから「絵」を使う?

 もし本気で表現の自由を考えているなら、写真を使えばよい。
実物の子どもを使えばよい。
それほどまでに表現しなければならないことなら、そうしたらよい。

●表現の自由

 最近、話題になったことで、「表現の自由」が問題になるとしたら、K選手
の服装問題がある。
「だらしないかっこうをしていた」という理由で、冬季オリンピックの開会式への
入場が、処分として停止された。
結局、あの問題は、K選手の謝罪という形で決着した。
が、どうしてあの問題は、「表現の自由」として、問題にならなかったのか。
「表現の自由」とやらを説く人たちは、どうして問題にしなかったのか。

 先に書いた、法益という観点からしても、おかしい。
露骨な性描写というのは、私たちが法益として守らなければならない自由なのか。
それを表現したからといって、私たちはどんな利益を受けるのか。
それを規制したからといって、私たちはどんな不利益を受けるのか。

 もっとわかりやすい例に、「立て看板」がある。
外国では、道路やビルのまわりに立てる看板を、規制しているところが多い。
けばけばしい看板は、美観をそこねる。
が、これもやはり、日本では野放し。
その結果が、今。
国道、県道は、どこも看板だらけ。
つぎからつぎへと、目に飛び込んでくる。
そうした看板が、いかに周囲の景観をそこねていることか。
あれも、「表現の自由」なのか?

●表現とは

 となると、「表現」とは何か、それをもう一度、冷静に見つめなおしてみる必要がある。

 端的に言えば、思ったこと、考えたことを、第三者にわかるような形で、外に
向かって表わすことを、「表現」という。
美術、音楽、文学、演劇、服飾、造形などがある。
そこには、内在的に、真・善・美に向かうエネルギーが必要である。
それを外の世界に向かって、表現していく。
それなら私もわかる。
そういうものに規制がかけられるなら、私も反対する。

 それが逆に、不正、悪、醜に向かうものであれば、当然、規制がかけられる。
子どもの目に触れるものなら、なおさらである。
もちろんその判断をどうするかという問題もある。
拡大解釈には、当然、警戒しなければならない。
戦時中の日本が、そうだった。
が、『羮(あつもの)に懲りて、膾(なます)を吹く』というのもどうか。
拡大解釈も悪いが、野放しも、これまた悪い。

●言論の自由

 対比しやすい例として、「言論の自由」がある。
「言論の自由があるから、何を書いてもいい」ということではない。
いくら相手に非があるからといって、「殺してしまえ」式の、悪の誘発に
結びつくようなことは、許されない。
当然、規制される。

 また言論の自由といっても、先にも書いたが、それは弱者が強者に向かうべきもの。
強者が弱者に向かうものは、言論の自由とは言わない。
弱者が強者に規制されたとき、私たちは「言論の自由」という伝家の宝刀を抜く。

 ちなみに言論の自由度では、日本は、欧米先進国の中でも毎年、最下位。
愚劣なことをギャーギャーと騒ぐことは自由だが、そこまで。
それ以上のことは、書けない。

 同じように表現の自由も、弱者が強者に向かって主張するもの。
強大な資本力をもつ出版社が、子どもに向かって表現の自由とは、何か!
能力、知力でまさるおとなたちが、子どもに向かって表現の自由とは、何か!

●ある種の無政府主義
 
 ああした性描写をもって、「表現の自由」を唱える人たちがいる。
またそういうものを規制しようとする動きに対して、ここぞとばかり、反対する人たちが
いる。
そうした人たちは、ある種の無政府主義者と断言してよい。
「ある種」というのは、ニーチェの言葉を借りるなら、「逆ニヒリズム」。
破滅的な破壊主義を、ニヒリズムとするなら、「形ある社会」で、破滅的に
甘えることを、「逆ニヒリズム」という。
(これは私の造語。)

 いうなれば家庭内暴力。
家庭(=民主主義)というワクの中で、無政府主義を唱える。
政府そのものを破壊するほどの度胸はない。
家庭(=民主主義)を破壊するほどの度胸はない。
家(=民主主義)というワクに守られながら、その中で暴れる。
が、考えてみれば、これほど身勝手な論法はない。
つまり「表現の自由」なるものを、利用しているだけ。
アメリカの銃規制問題と比較してみると、それがよくわかる。

●アメリカの銃規制問題

 銃規制に反対している人たちもまた、(表現)と(銃)のちがいはあるが、
同じようなことを言っている。
人間には自己防衛の権利があるとか、ないとか。
つまり(銃をもちたい)ということを、カモフラージュするために、「権利」を
主張している。
もちろんその背後では、同じく薄汚い銃器メーカーが暗躍している。

 が、日本のように銃の保持を徹底的に規制されている国から見ると、
規制する・しないが、どうしてそれほどまでに重要なのか、よくわからない。
言い換えると、どうしてこの日本では、「銃の規制」について、だれも異議を
唱えないのかということにもなる。

 反対に、性描写を徹底的に規制している国もあるはず。
どうしてそういう国に対して、日本は、異議を唱えないのかということにもなる。
手始めに、イスラム教国に対して、自己の正当性を訴えてみればよい。
それほどまでに重要な基本的な権利であるとするなら、国連の人権委員会に
提訴するという方法もある。

 「どうか少女の裸体を、自由に描かせてください」、
少女が輪姦される場面を、描かせてください」と。
つまりこうした漫画家たちは、低劣な自分たちの商業主義を守るために、「表現の自由」
という言葉を利用しているだけ。

●結論

 が、実際には、この問題は、規制するとか、しないとか、すでにそのレベルを超えて
しまっている。
つまり手遅れ。
というのも、現実には、雑誌どころか、中学生や高校生は、成人向けのDVDを
回し見している。
「雑誌の規制」という発想そのものが、今では、陳腐。
(国会で、少女向け雑誌が問題になったのは、私が37、8歳のころ。
A出版社から出ていた「P」という少女向け雑誌が、問題になった。
つまり今から25年近くも前の話。)

雑誌だけが、情報媒体ではない。
さらに今では、インターネットもある。
パンドラの箱ではないが、一度、空に解き放った欲望という鳥は、二度とカゴには
戻らない。
つまり規制したところで、(一応の規制は必要だろうが)、意味はないということ。

 要するに私たちおとなが、それだけの良識と常識をわきまえるしかない。
またそういう良識と常識を作り上げていく。
つまるところ、この問題は、そこへ行き着く。

●最後に……

 今回のこの問題は、「表現」とは何か。
「自由」とは何か。
それについて、おおいに考えさせられた。

 ただこういうことは言える。
こうした問題に対する感じ方には、東京という(都会)と、私たちの住む浜松(地方)
との間には、「温度差」があるということ。
東京の人たちが東京という範囲で、何をしようが、それは東京の人の勝手。
しかしそういう低劣文化を、地方のほうまで、垂れ流さないでほしい。
この浜松で、あんな絵を描いて、金儲けにつなげている人はいない。
私が知るかぎり、いない。
それが「東京」というだけで、許されてしまう。
この浜松という地方にまで、流れてきてしまう。

 ついでに一言!

 どこかおかしいぞ、日本の文化!
何が表現の自由だ!
この問題を考えると、どうしてもそこまで考えてしまう。

 以上、一気に殴り書きをしてみた。
文のもつ荒っぽさを、どうか許してほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 言論の自由 表現の自由 非実在青少年 薄汚い商業主義 権利の濫
用 コミックの規制)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

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【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●思想の偏向(Inclines Thoughts)

少し前、「あなたの思想には問題がある」と
言ってきた人がいた。
「教育者」というのは、思想的に、無色、
透明でなければならないのだそうだ。

そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかし思想のない教育者ほど、こわいものは
ない。
進学受験塾の若い講師を頭に思い浮かべてみれば、
それがわかる。

もし点数や成績だけで、子どもという(人間)を
判断するようになったら、どうなる。
どうする。
そういう人を、「教育者」と呼ぶ人は、いない。

もちろん「教育者」にはふさわしくない思想もある。
たとえば、超自然現象を信奉している人。
極端な思想にかぶれている人。
良好な対人関係が結べない人。
一般的な常識から、はずれている人などなど。

恐ろしいといえば、ハリーポッターが学んでいる
いるような魔法の学校。
あれほど、恐ろしい学校はない。
数学の問題を、杖を使って解いたり、
化学の実験で、水から金塊を作ったりするように
なったら、どうなる?
すべての(合理)が、吹き飛んでしまう。
文学も、地理学も、歴史学も不要。
航空力学も不要。
箒(ほうき)があれば、自由に空を飛べる。

ハリーポッターが籍を置くような学校は、学校ではない。
少なくとも「教育の場」ではない。
またその学校にいる教師たちは、教師ではない。
もちろん教育者でもない。
頭の狂った、ただの魔法使い。

もちろん私は、そういう(非合理)とは無縁の
世界にいる。
が、だからといって、何も考えていないわけではない。
毎日、何かを考えている。
その(考えている部分)で、いろいろなことを書く。
それが(思想)ということになる。
が、それがだめというのなら、私は進学塾の講師に
なるしかない。

 ……と書きながらも、実は、こうしたものの
考え方自体が、偏向しているのかもしれない。
そういう心配は、ある。
たとえばアメリカの南部の学校では、いまだに
ダーウィンの進化論を否定しているところがある。
そういうところで、「進化論は正しい」などと
主張しようものなら、私など即、「偏向教師」の
ラベルを張られててしまうだろう。

 つまりこれも相対的な問題ということになる。
偏向している人から見れば、私は偏向している。
が、自分が偏向していたら、自分の偏向に
気づくことはない。

 だから今は、こう思う。
「私の思想には問題があるのかなあ」と。
ここは謙虚にその人の意見に耳を傾けてみる必要がある。
……というより、さらに自分を疑ってみる必要がある。
「私は偏向しているかもしれない」と。

 毎日が、その繰り返し……。
それとの闘い。
偏向すればするほど、真理は私から遠ざかる。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【静かな夜に……】

●夜行便

 夕食後、ワイフに、「山荘へ行こうか?」と声をかける。
すかさず「いいわ」と。
「9時に行こうか?」と言うと、「早ければ早いほうがいいわ」と。
それで8時半になった。

 一度DVDショップへ寄る。
借りたビデオを返し、新しいビデオを借りる。
ワイフは、山荘ではいつも、DVDを見る。
で、そのまま山荘へ。

 たった今、時刻は10時20分。
あれこれルーティンをこなし、やっと落ち着く。
ワイフは横で、『アザーマン』というDVDを見ている。
私は、半分横目で見ながら、こうしてパソコンのキーボードをたたいている。
妻の不倫の映画らしい。

妻ががんで死亡する。
携帯電話を残していく。
その携帯電話に、別の男(アザーマン)からの伝言が残っている。
夫は、その内容から、妻が不倫を重ねていたことを知る。

●不倫

 非公式な調査によれば、(非公式に決まっているが)、約30%の既婚者に、
不倫の経験があるという。
現在進行中の人も多いはず。
が、私の持論は、ただひとつ。
「不倫をするなら、命がけでせよ。
その覚悟がなければ、不倫などするな」。

 ……とまあ、わかったようなことを書くが、本当のところ、私には何もわかって
いない。
で、その私だが、「不倫したことがあるか?」と聞かれたら、「YES」とも「NO」とも、
何とも答えようがない。
「ないなら、NOと言えばいい」と思う人もいるかもしれない。
しかし「NO」と書いたところで、どうせウソと思われる。
もちろん「YES」とも書けない。

 それに「浮気」ということになれば、毎日のようにしている。
意識の中で、している。
「意識」と「行為」の間に、一線を引くのは難しい。
引いても意味はない。
美しい女性を見たとき、頭の中で不倫を想像する。
意識的な不倫ということになる。

一方、行為的な不倫を重ねながら、ただの「排泄行為」ととらえる人もいる。
このばあいは、不倫ということには、ならないのではないか。

これはワイフの持論。
私のワイフは、いつもこう言っている。
「本気でなければ、いつでも浮気してもいいわよ」と。

 私のワイフは、少しふつうの女性とはちがう。
だから「YES」とも、「NO」とも、私には答えられない。

●A子さんの不登校問題

 ここへ来る前、コンビニに立ち寄った。
何冊かの週刊誌に目を通した。
皇室に関する記事が、目にとまった。
A子さんの不登校問題。
読んだ。
読んだが、ここまで。

 私に立場などあるわけないが、立場上、何も書けない。
非難を恐れているわけではない。
この種の問題は、「too private」。
英語ではそう言う。
「あまりにもプライベート」。

 皇室の問題だから、というわけではない。
私の生徒の問題であっても、その相手とわかるときには、私は何も書かない。
何も書いては、いけない。
そんなことは、この世界では、常識。

ただ言えることは、こうまでプライベートなことを、おおげさにしてよいものか
ということ。
皇室にも、プライバシーというものがある。
子どもはまだ、小学生。
女の子。
そっと静かにしておいてやることこそ、大切。
仮にそうであっても、記事にしてはいけない
どうしてこの日本では、そういう常識が働かないのか。

●『アザーマン』

 この原稿を書きながら、ずっとDVDを見ていた。
実話以上の実話というか、どこまで掘り下げても、矛盾がない。
奥が深い。
ありきたりの想像力では、ついていけない。
「なるほどな」とか、「そういうものだろうな」とか、映画を見ながら、
そういう言葉がつづく。

 最後は、夫は、不倫相手といっしょに、追悼パーティをもつ。
構成は、映画『マジソン郡の橋』に似ている。
妻は、不倫を重ねていた。
しかし本気だった。
だから(?)、がんの治療もこばんだ。
自ら「死」を選んだ。
夫への罪の意識からか。

 妻は、赤い靴を、ある湖に捨ててほしいという遺言を残して死ぬ。
男との思い出の靴。
男との思い出の湖。

久々に、男と女の、深い愛についての映画を見た。
(わかったようなことを書いて、ごめん。)
星は3つの、★★★。
『マジソン郡の橋』を見て感動した人には、お奨め。

●原稿

 今夜は、山荘で10枚以上、原稿を書くつもりだった。
しかし今のところ、たったの3枚。
映画に気をとられてしまった。

 私は意志が弱い。
誘惑に弱い。
ああでもない、こうでもないと言いあいながら、映画を見た。
で、終わったのが、午前0時ごろ。
「映画が終わったら、原稿を書こう」と思っていたが、その前に眠くなってしまった。
だから今夜は、ここまで。

 みなさん、おやすみなさい。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●親戚づきあい

++++++++++++++++++

親戚づきあいに苦しんでいる人は、多い。
K県に住んでいる、S氏(63歳、男性)も、
その1人。
実家は、群馬県のO市。
大学を卒業すると、そのままY市(大都会)に
就職。
現在は、Y市の建設会社で、設計の仕事をして
いる。

群馬県のO市には、4歳年上の姉がいる。
行き来は、ほとんどない。
たいへん不誠実な人らしく、「本当のことは、
10に1つもない」(S氏)とのこと。

一方、群馬県のO市は、昔から女性が強い
ところとして知られている。
年上ということもあって、S氏は、いつも
姉に怒鳴られてばかりいるという。

「あんたも男だから、父親のめんどうをみろ」とか、
「家を出たんだから、実家を建て直すくらいの
ことは、しろ」とか、など。
S氏が一軒家を購入したときも、「親よりいい家に
住むとは許せない」と言われたこともある。

こうしてS氏は、Y市に住むようになってから
というもの、心の休まる日は、ほとんど
なかった。
このあたりの事情は、私の過去に似ている。
S氏の心情が、痛いほど、よく理解できる。

が、昨年、ずっとひとりで住んでいた父親が、
他界した。
最後の1年あまりは、姉がめんどうをみた。
それもあって、現在、相続問題で、S氏と
S氏の姉は、断絶状態。
遺産といっても、父親が残したのは、30坪
あまりの宅地と、築30年の古家だけ。
今、売っても、500万円にもならない。
S氏は、こう言う。

「葬儀費用だけで、300万円近くもかかり
ました。
全額、私が払いました。
それを無視して、姉は、地元で父のめんどうを
みたのは私だからという理由で、宅地の
所有権を主張しています」と。

が、問題は、これだけではない。
そこへ叔父、叔母がからんできた。
さらに姉の娘婿がからんできた。
「私たちにも、取り分がある」と。

「姉は地元にいるため、ひんぱんに連絡を
取り合いながら、私を悪者にしています。
こういうときは、どうしたらいいでしょうか」と。

++++++++++++++++++

●血縁という幻想

 財産といっても、数百万円。
1年間、何とかがんばれば、取り返せる金額である。
そんな財産を取りあって、兄弟、姉妹、親戚がたがいに騒動を繰り返す。
さらにそこへ本来なら、相続権のない、甥夫婦や姪夫婦がからんでくる。
そういうケースは、多い。

 もっとも、こうした問題には地域性もある。
親戚づきあいが濃密な地域もあれば、希薄な地域もある。
個人差もある。
だから一概には言えないが、「血縁に、幻想をもってはいけない」ということ。
『兄弟は、他人の始まり』ともいう。
関係が近いだけに、一度こじれると、とことんこじれる。

●50歳を過ぎたら・・・

 私も50歳を過ぎるころから、親戚に対する考え方が、少しずつ
変化してきた。
それまでは、親戚づきあいは、ほかの人間関係に優先させてきた。
「何かあったとき、助けてくれるのは、親戚」と。

 しかし世の中には、甥や姪を平気でだます人もいる。
だまして、金を取る。
それを知ってから、私は一歩、退いて親戚をみるようになった。
そしてこう考えるようになった。

 「この人は、本当に親戚の一員と考えていいのだろうか」と。

 ほとんどの人はよい人だが、中には、私の失敗(?)を、
心待ちにしている人もいる。
心のゆがんだ人もいる。
私はそういう人とのつきあいについては、一線を引くようにした。
表面的なつきあいはしても、そこまで。
とくに陰で、私の悪口を言っているというような人とは、たとえ近い親戚でもつきあわな
い。

 そういう人とつきあうのは、疲れる。
誤解を解こうとすると、もっと疲れる。
だから離れる。

●親族関係

 日本人は、儒教文明圏に属するから、血縁関係を重要視する。
江戸時代からの「家制度」もある。
「家制度」というよりは、「墓制度」というべきか。
「墓」を中心とした、親族関係を築く。
だから欧米人と比較しても、日本人は、かなり独特の考え方を
する。 

 その(独特さ)は、わからない人には、わからない。
骨のズイまで、和式の親族関係がしみ込んでいる。
それがその人にとっては、世界の常識ということになる。
またそれ以外の常識が理解できない。

 私のよく知っている人(女性、80歳くらい)に、こんな女性がいた。

 息子(50歳くらい)から預かっていた土地の権利書と印鑑を
勝手に使って、息子名義の土地を、売り渡してしまった。
それについて息子が抗議すると、その女性はこう言ったという。

「親が、先祖を守るために、息子の財産を使って、何が悪い!」と。

 こういう話を聞いて、ほとんどの人は、その女性のしたことは
まちがっていると思う。
しかしその一方で、「当然だ」とか、「親は親だから」とか、
さらに「親がまちがったことをしても、子どもには責める権利は
ない」と言う人がいる。
2010年になった、現代でも、いる。

●『2人の人には、いい顔はできない』

 S氏のケースでも、一般論や常識論を、そのまま当てはめる
わけにはいかない。
家族の関係は、外からは計り知ることができないほど、複雑。
親戚関係となると、さらに複雑。
いくら想像力を働かせても、そこには限界がある。

 だからこういうケースのばあい、私自身の経験からしても、
何ともアドバイスのしようが、ない。
あえて言うなら、親戚関係は、「水」のようなもの。
水が高いところから低いところを求めて、自然に流れていくように、
時間がたてば、自然と解決していく。
淡々と事務的に、ことを運べばよい。
多少の波風は立つだろうが、それも時間が解決してくれる。
さらに言えば、「言いたい人には、言わせておけばいい」となる。

 イギリスの格言にも、『2人の人には、いい顔はできない』という
のがある。
つまりそこまで割り切らないと、こうした問題は解決しない。
またそれで兄弟関係、親戚関係がおかしくなったとしても、だ。

 このつづきは、また来週にでも書いてみたい。
久しぶりに、今度の日曜日に、そのS氏が、浜松へやってくる。
その後、どうなったか、じかに会って話を聞いてみたい。

●抑圧

 S氏は、急用ができたとかで、静岡まで来て、そのまま群馬へ
向かってしまった。
そのため予定していた話は、聞けなかった。
私のほうも、聞かなかった。

 S氏から今までに聞いた範囲で、話を進めてみたい。

 で、S氏の姉だが、かなり口のうまい人らしい。
そのため、S氏の悪口を言いふらすのも、うまい。
ときに涙声で、自分の正当性を訴えることもあるという。
地元を離れているため、S氏にしてみれば、反論のしようがない。
ないばかりか、地元へ帰るたびに、親戚中から、冷たい視線で見られるという。
群馬県のO市あたりでは、一度、「親捨て」というレッテルを張られると、
近所づきあいもできなくなるという。

 S氏はいつだったか、こう言った。
「ほら、K国のミサイルが日本上空を飛ぶという事件がありましたね。
あのとき、私はあのミサイルが、O市の上へ落ちればいいと思っていました」と。
抑圧された心理状態が、S氏の心をそこまでゆがめた。

●いい子ぶらない

 私のばあいもそうだったが、こうした問題は、「時の流れに任す」。
ジタバタしてはいけない。
ジタバタすればするほど、深みにはまってしまう。
精神上の健康にも、よくない。

 それにこうした問題は、どこの家庭にもある。
今は平和に見える家庭でも、やがてそのときになると、火山の噴火のように、
噴き出す。

 それに悪口を言われたからといって、気にしてはいけない。
多くのばあい、悪口を言った人のほうが、評判を落とす。
私のばあいも、昨年、実家の旧家を売却した。
それについて、あれこれと騒いだ人がいた。
しかし私にも言い分はある。

 過去30年近く、税金のみならず、生活費を負担してきた。
そのときまで4年間、空き家になっていた。
台風が来るたびに、屋根瓦が落ちたりして、近所に迷惑をかけた。
そういう旧家を維持するというのも、実際問題、不可能。

 要するに、『口を出すなら、金を出せ』と。
言い方は汚いが、そこまで割り切らないと、こうした問題は解決しない。
つまり相手にしない。
それで相手が去っていくなら、去らせておけばよい。
どうせその程度の関係。
言い方はきついが、そこまで言い切らないと、こうした問題は解決しない。
簡単に言えば、「いい子ぶらない」。

 最後に、『時の流れに任す』には、もうひとつ重要な意味が含まれる。
やがてみな、年を取っていく。
人間に寿命があるのと同じように、この種の問題にも、寿命がある。
相手がどうがんばったところで、10年はつづかない。
20年は、ぜったいにつづかない。
それよりも重要なことは、あなたはあなたで、私は私で、残り少ない
人生を、前向きに生きていくということ。

 こうした話は、私たちの世界では、「痴話(ちわ)話」という。
そこらのオジチャン、オバチャンが酒を飲みながら話すような話。
いくら論じても、そこからは何も生まれない。

Hiroshi Hayashi++++++March.2010++++++はやし浩司

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