【特集】学習指導困難児
【自己管理能力】
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湖西市の、恩師、NG先生から、講演の依頼が
届いた。
『……小生達子ども教室スタッフが直面しているのは
集団活動が苦手であったり、与えられた活動に取り組めず他の児童に迷惑をかけたりする場合、どう対応したらいいかということです。ことに障害の存在を感じるような子どもの場合、自分の子育て以外の教育にはかかわって来なかったスタッフには大きな課題となっています。
実際、高所に登ってしまうような危険な行動をとる子や多動で追いかけるのに苦労するような子、思うようにならない(その活動が自分ではできない)といじけてしまい、どう声掛けをしても気分が戻らない子、乱暴になって他児に迷惑をかける子などが見られます。
このような子どもにはスタッフが付き添って他児の活動への影響を最小限に食い止めるよう努力していますが、そうした場合の声の掛け方や高揚した気持ちの鎮め方にも苦慮しています。
少し状況に変化がありまして、我々スタッフのほかに、よい機会だから先生のお話を是非伺いたいという市内小学校の家庭教育学級の学級生(各学校数人ずつ)も参加させていただくことになりました。この学級生にとっての関心事はわが子の子育てでしょうから、子ども教室スタッフの思いとは少し異なります。
このようにわがままな事を申し上げて恐縮なのですが、御講演の演題を先生のお考えで決めてお知らせいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
御講演をご承諾いただいたことを市教委に伝えました。講演料なしでお越しいただけるということも伝えたところ、それではあまりにも申し訳ないと検討を始め、わずかですが旅費程度をお支払いできるようになったということです。いずれ、御講演の依頼や口座振替にかかる書類などが届くと思います。よろしく御取り計らいください。
会場は湖西市民会館です。お分かりになるでしょうか。お迎えが必要なようならおっしゃってください。
御講演後、時間が許すのであれば昼食をごいっしょしたいと思います。どうしてももう少し先生とお話したいという人もいますので、ご迷惑でなければ同席させていただければ幸いです。
では演題の件、お手間をとらせてしまいますがよろしくお願いします』。
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●学習指導困難児
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学習指導が困難な子どもというのは、いる。
AD・HD児、自閉症児、粗放児(この言葉は、
筆者がつけたもの。家庭崩壊などにより、精神的に
凶暴性をもった子どもをいう)など。
さらにLD児、かん黙児などなど。
恩師のNG先生は、こうした子どもの指導員を
指導している。
「で、どう考え、どう対処したらいいか?」と。
それが今回の講演のテーマということになる。
ポイントは、3つある。
(1)子どもの自己管理能力(メタ認知能力)の育成
(2)「現在の症状を、こじらせない」
(3)薬物療法は、慎重に。
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【自己管理能力】
●人格の完成
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人格の完成度は、どこをどう見て、
判断すべきなのか。
そのヒントとなるのが、「人格論」
である。
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人格の完成度は、(1)共鳴性、(2)自己管理能力、(3)社会性の三つをみる(EQ論)。
これは常識だが、これら3つには、同時進行性がある。
共鳴性、つまりいかに利己から脱して、利他になるか。自己管理能力、つまりいかに欲
望と戦い、それをコントロールするか。さらに社会性、つまり、いかに他者と、良好な人
間関係を築くか。
これら3つが、できる人は、自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。
自己中心的な人は、それだけ自己管理能力が弱く、他者と、良好な人間関係を、築くこ
とができない。あるいは自己管理能力の弱い人は、長い時間をかけて、ものの考え方が自
己中心的になり、そのため、他人から、孤立しやすい。さらに社会性が欠落してくると、
自分勝手でわがままになる、など。
これら3つは、相互に、からんでいる。そして全体として、その人の人格の完成度を、
決定する。
が、やはり、キーワードは、「自己中心性」である。
その人の人格の完成度を知りたかったら、その人の自己中心性をみればわかる。もしそ
の人が、自分のことしかしない。自分だけよければ、それでよいと考えているなら、その
人の人格の完成度は、きわめて低いとみてよい。
これには、老若男女は関係ない。地位や名誉、職業には、関係ない。まったく、関係な
い。
つぎに自己管理能力。わかりやすく言えば、ここにも書いたように、それには、欲望の
管理が含まれる。性欲、食欲、所有欲など。
こうした欲望に溺れても、よいことは何もない。もちろん心の病気が原因で、溺れる人
もいる。セックス依存症の人にしても、節食障害の人にしても、それぞれ、やむにやまれ
ぬ精神的事情が、その背景にあって、そうなる。
だから肥満の人が、即、自己管理能力のない人ということにはならない。(一般社会では、
そう見る向きもあるが……。)
3つ目に、社会性。
人間は、他者とのかかわりをもってはじめて、その人らしさを、つくる。その(その人
らしさ)が、良好であること。それが人格の完成度の、3つ目の要件ということになる。
いくら高邁でも、他者とのかかわりを否定して生きているようでは、そもそも、人格の
完成度は、問題にならない。
たとえば小さな部屋にひきこもり、毎日絵ばかり描いている画家がいたとする。すばら
しい才能をもち、すばらしい絵を描いている。が、個展を開いて、それを発表することも
ない。同業の人との、交流もない。
で、そういう人を、人格の完成度の高い人かというと、そうではない。EQ論では、そ
ういう人を、評価しない。(もちろんその人の芸術性の評価は、別問題である。)
言いかえると、私たちは日々の生活の中で、これら3つを、いかにして鍛錬していくか
ということが、重要だということ。
いかにすれば、自分の中の自己中心性と戦い、欲望をコントロールし、そして他者と、
良好な人間関係を築いていくか。つまりは、そこに、私たちが、日々に務めるべき、努力
目標がある。
がんばりましょう! がんばるしかない!
【メタ認知能力】
●メタ認知能力(Metacognitive Ability)とは、何か
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メタ認知能力とは何か。
川島真一郎氏(高知工科大学大学院)の修士学位論文より、
一部を抜粋引用させてもらう。
(出典:メタ認知能力の向上を指向した
高校数学における問題解決方略の体系化
Systematization of Problem Solving Strategy in High
School Mathematics for Improving Metacognitive
Ability(平成19年))
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●メタ認知
メタ認知(metacognition)とは、認知活動についての認知のことである。メタ認知概念
は、ブラウン(A。 Brown)やフラベル(J。 H。 Flavell)によって1970 年代に提唱された。
メタ認知は、まずメタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)とメタ認知的活動(metacognitiveactivity)に分かれ、それぞれがさらに細かく分かれる。メタ認知的知識とは、メタ認知の中の知識成分を指す。メタ認知的知識は、人間の認知特性についての知識、課題についての知識、課題解決の方略についての知識の3 つに分けて考えることができる。メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、メタ認知的モニタリング、メタ認知的コントロールの2 つに分かれる。メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである、認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)などが含まれる。
困難な場面に遭遇したとき、タ認知はその事態を打開すべく、関係のありそうな経験や
知識を想起する。似たような困難を克服した経験があれば、それは大きな手掛かりとなる。
過去の経験がそのままでは使えないときでも、見方を変えたりすることで使えることもあ
る、直面している問題が極めて困難なときは、条件の一部を解き易い形にした問題をまず解いてみることが手掛かりになることがある。また、問題の解決に使えそうな法則なども思い出し、解決に向けた道筋を描く。解決に向けた一番確かそうな方針が決まれば、実行してみる。間違いを犯しそうな場面では注意深く実行し、時々方針が間違っていないか検討を加える。このようにして、メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考えられる。
そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられ
る。訓練するための問題は、メタ認知が働かなくても解決できるような平易過ぎる問題は役に立たない。適度な難易度の問題を解決することが必要である。従って、パターン暗記に終始するような学習では、メタ認知能力は向上しないと考えられる。その意味で、生徒が試行錯誤しながら自力で問題の解決を図る問題解決学習は、その狙いが実現できれば、メタ認知能力の育成に大いに効果を発揮すると考えられる。
(以上、川島真一郎氏の論文より)
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●メタ認知能力(Metacognitive Ability)
私は「メタ認知能力」なるものについては、すでに10年ほど前から、原稿を書いて
きた。
が、ここ数年、この言葉をあちこちで聞くようになった。
しかし本当のところ、メタ認知能力とは何か、私もよくわかっていない。
そこでまず私がとった手段は、メタ認知能力、つまりMetacognitive Abilityについて、
できるだけ原文に近い文献をさがすことだった。
最初は、直接アメリカの文献(英文)から調べようとしたが、先に、ひとつの文献を
さがしだすことに成功した。
ここに紹介した川島真一郎氏の修士学位論文が、それである。
わかりやすく書いてあるので、そのまま引用させてもらった。
つまり私は、(メタ認知能力)とは何か知るために、つまりその壁を打開するため、
今までの経験を総動員して、(おおげさかな?)、あちこちを調べた。
その結果が、先にあげた論文の一部ということになる。
●メタ認知能力
が、これだけをさっと読んだだけでは、意味がよくわからない。
内容を、もう少し整理してみる。
メタ認知
(1) メタ認知的知識(meta-cognitive knowledge)
メタ認知の中の知識成分を指す。
(1) 人間の認知特性についての知識、
(2) 課題についての知識、
(3) 課題解決の方略についての知識の、33つに分けて考えることができる。
(2) メタ認知的活動(metacognitive activity)
メタ認知的活動とは、メタ認知の中の活動成分を指す。メタ認知的活動は、
(1) メタ認知的モニタリング、
(2) メタ認知的コントロールの2つに分かれる。
これでだいぶ頭の中がすっきりしてきた。
さらに、
(1) メタ認知的モニタリングとは、認知状態をモニタすることである。
認知についての気づき(awareness)、認知についての感覚(feeling)、認知についての予想(prediction)、認知の点検(checking)などが含まれる。
(2) メタ認知的コントロールとは、認知状態をコントロールすることである。
認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の修正(revision)などが含まれる、と。
●実益
先にメタ認知能力の実益について、引用させてもらう。
川島真一郎氏は、こう書いている。
『メタ認知はルーティンワークでない困難な問題を解決するときに、力を発揮すると考えられる。そして、メタ認知能力は使うことで訓練をしなければ、その能力は向上しないと考えられる』と。
日常的な行動を同じように繰り返すようなときには、メタ認知能力は、力を発揮しない。
つまり難解で、より高度な知識と経験を必要とするような問題に直面したとき、メタ認知
能力は力を発揮する、と。
そしてそのメタ認知能力は、訓練しなければ、向上しない、ともある。
●因数分解
川島真一郎氏は、因数分解を例にあげて、メタ認知能力がどういうものであるかを
説明している。
そのまま印象させてもらう。
++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++
7。 <題>求めるもの(答え)と、与えられた条件の関係を発見せよ。[関係は直接的に見
えるときもあれば、仲介物を通して初めて見えて来るときもある。例えば、中間的な目標を設定せよ。(例)(a + b + c)(bc + ca + ab) − abc を因数分解せよ。]
8。 <眼><針>関係の有りそうな公式は何か。
9。 <経><予>似た問題を思い出せ。
10。 <経><眼><針>似た問題の方法や結論を利用できないか。[(例)x、 y の対称式
はx + y とxy で表せる。]
11。 <眼><針>求めるもの(答え)の形を考え、それを具体的に(例えば式に)できな
いか。[また、その形のどの部分を求めればよいか。それを求めるのに、条件をどのように
使えるか。]
12。 <眼><針>与えられた条件や式を、解答で使い易いように変形できないか。[場合
によっては、結論の式から解答を進めて、後で比較するのが有効なときも有る。]
13。 <助><検>(方針の選択や解答の進め方について)解法の大筋を捉える。[大まか
な見通しを持つことが、解答への着手を促し、右往左往したり、袋小路に入ったりするのを防ぐ。(例)増減表を書けば解けそう。判別式を利用できそう。等々]
14。 <経><眼><針>前に使った方法が直接使えないとき、補助的な工夫を加えること
で使えるようにならないか。[(例)角度の問題で、補助線を引く事で三角形の問題と捉
える。]
15。 <眼><針>求める結果が得られたと仮定して、逆向きに解けないか。[求める結果
を明確にイメージすることで、必要となる道筋が見えてくることが有る。]
16。 <眼><針>定義に帰ることで、手掛かりが得られることが有る。[2 次関数関連の
問題と判別式の関係。微分係数の定義。等々]
17。 <困><眼><針>問題を言い換えることで、容易になったり、既習の解法が使えた
りしないか。(そのとき、与えられた条件はどう変わるか。)[問題を違った視点から見る。
(例)sin θ+ cos θ の最大値を求めるのに、単位円周上の点P(x、 y) を利用する。]
18。 <困><眼><針>問題を一般化することで、容易になることがある。[(例)具体的
な数値の問題を、一般的な文字に置き換えることで見通しが良くなることが有る。]
19。 <困><眼><針>問題を特殊化することで、解決の糸口がつかめるときがある。
[(例)直方体の対角線の長さを求める問題で、高さが0 の場合を解いてみる。]
20。 <困><分><眼><針>条件の一部からどんなことが分かるか。[条件を幾つかの
部分に分けられないか。全体の解答とどう関係するか。]
21。 <困><眼><針>解き易い類題を考えることが、元の問題の手掛かりになることが
ある。[問題の一部は解けるか。どういう条件が付加されていれば解き易いか。等々]
22。 <補><検><助>条件の使い忘れはないか。
(CP)
23。 <題><検>方針に従い解答を進め、適当な段階で検討を加え、必要に応じて方針を
見直す。
24。 <補>自信の持てるる解き方から試みよ。[大抵の問題は、何通りか解き方がある。
(例)基本的な公式だけを使う。図形を利用する。微分を利用する。等々]
(LB)
25。 <題>結果の検討。[少しの検討が、長い目で見ると大きな効果をもたらす。]
26。 <検><眼>別の解法はないか。得られた答えが別の簡単な解法や、答えの意味を示
しているときが有る。
4。4 体系化された問題解決方略の適用
27。 <検><眼>使った方法や結果を総括する。他の問題に応用できないか。
++++++++++以下、川島真一郎氏の論文より+++++++++++++
●因数分解(例)
高校生たちに因数分解を教えるとき、私自身は、半ばルーティンワーク的に解いて
みせている。
(因数分解そのものは、解法公式はほぼ確立していて、簡単な問題に属する。)
しかしこのように内容を秩序だてて分析されると、「なるほど、そうだったのか」と、
改めて、驚かされる。
私はそれほど意識せず、メタ認知能力を、応用かつ利用していたことになる。
率直に言えば、「メタ認知能力というのは、こういうものだったのか」と納得する
と同時に、「奥が深いぞ」と驚く部分が、頭の中で交錯する。
ちなみに、先の(a + b + c)(bc + ca + ab) – abcを、別の紙で、因数分解してみた。
因数分解の問題としては、見慣れない問題である。
(1)見ただけでは、瞬間、頭の中で公式が浮かんでこない。
(2)直感的に、「いつものやり方ではできない」ということがわかる。
が、こういうときの鉄則は、(3)「ひとつの文字に着目しろ」である。
この問題では、(a)なら(a)に着目し、(a)について式をまとめる。
しかしこの場合、一度、式をバラバラにしなければならない。
結構、めんどうな作業である。
が、ここで「こんなめんどうな問題を出題者が出すはずがないぞ」というブレーキが働く。
「時間さえかければ、だれでもできる」というような問題は、数学本来の問題ではない。
ただの作業問題ということになる。
そこで私は、(4)もっと簡単な方法はないかをさがす。
(bc + ca + ab)という部分に着目する。
(a)でくくれば、(b+c)という因数を導くことができる。
(b+c)を、(B)と一度置き換えてから、因数分解できないかを考える。
しかしもう一つの項、(abc)が残る。
つぎの瞬間、「この方法ではだめだ」と直感する……。
……というように、認知の目標設定(goal setting)、認知の計画(planning)、認知の
修正(revision)を繰り返す。
●高度な知的活動
小学1年生が訓練するような、足し算の練習のような問題は、ただの訓練。
メタ認知能力など、必要としない。
そこで昨日(8月21日)、メタ認知能力を確かめるため、私は小学2、3年生クラス
で、ツルカメ算の問題を出してみた。
あらかじめ、「ツルが2羽、カメが4匹で、足は合計で何本?」というような練習
問題を5~6問、練習させる。
そのとき「できるだけ掛け算を使って、答を出すように」と指示する。
それが一通りすんだところで、「ツルとカメが、合わせて、10匹います。
足の数は、全部で、28本です。
ツルとカメは、それぞれ何匹ずついますか?」という問題を出す。
で、このとき子どもたちを観察してみると、いろいろな反応を示すのがわかる。
(私の教室の子供たちは、幼児期から訓練を受けている子どもたちだから、こうした
問題を出すと、みな「やってやる!」「やりたい!」と言って、食いついてくる。)
絵を描き始める子ども。
足を描き始める子ども。
意味のわからない記号を書き始める子ども。
2+2+2……と、式を書き始める子どもなどなど。
こうした指導で大切なことは、(解き方)を教えることではない。
(子ども自身に考えさせること)である。
だから私は、待つ。
ただひたすら、静かに待つ。
が、やがて1人、表を書き始める子どもが出てきた。
私はすかさず、「ほう、表で解くのか。それはすばらしい」と声をかける。
するとみな、いっせいに、表を描き始める。
表の形などは、みな、ちがう。
しかしそれは構わない……。
(こうした様子は、YOUTUBEのほうに動画として、収録済み。)
●メタ認知能力の応用
こうして書いたことからもわかるように、メタ認知能力というのは、もともとは、
数学の問題を解法技法のひとつとして、発見された能力ということになる。
しかしその奥は、先にも書いたように、「深い」。
日常的な思考の、あらゆる分野にそのまま応用できる。
ひとつの例で考えてみよう。
●パソコンショップの店員
こういう書き方ができるようになったのは、私もその年齢に達したから、ということ
になる。
パソコンショップの店員には、たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、そういう
店員を見ていると、ときどき、こう考える。
「だから、どうなの?」
「この人たちは、自分の老後をどう考えているんだろ?」
「もったいないな」と。
つまりパソコンショップの店員の目的は、パソコンを客に売ること。
しかしそんな仕事を、仮に10年つづけていても、身につくものは何もない。
店が大きくなり、支店がふえれば、支店長ぐらいにはなれるが、そこまで。
だから「だから、どうなの?」となる。
つぎにパソコンショップの店員たちは、よく勉強している。
その道のプロである。
しかしプロといっても、一般ユーザーの目から見てのプロに過ぎない。
パソコンを自由に操ることはできるが、その先、たとえばプログラミングの仕事とか、
さらには、スーパーコンピュータの操作となると、それはできない。
そこで私はこう考える。
「こうした知識と経験を使って、別の仕事をしたら、すばらしいのに」と。
たとえばデザインのような、クリエイティブな仕事でもよい。
それが「もったにないな」という気持ちに変わる。
そこでメタ認知能力の登場!
(1) 自分の置かれた職場環境の把握
(2) その職業を長くつづけたときの、メリット、デメリットの計算
(3) 老後が近づいたときの、将来設計
(4) 収入の具体的な使い道などなど。
そうしたことを順に考え、自分の生活の場で、位置づけていく。
中には、「お金を稼いで、高級車を買う」という人もいるかもしれない。
しかしそれについても、メタ認知能力が関係してくる。
「だから、それがどうしたの?」と。
高級車を乗り回したからといって、一時的な享楽的幸福感を味わうことは
できる。
が、できても、そこまで。
4~5年もすれば、車は中古化して、当初の喜びも、半減する。
……つまりこうしてパソコンショップの店員は、メタ認知能力が少しでもあれば、
「もったいないな」を自覚するようになる。
また自覚すれば、生きざまも変わってくる。
同じ店員をしながらも、ただの店員で終わるか、あるいはつぎのステップに進むか、
そのちがいとなって、現れてくる。
が、このことは、家庭に主婦(母親)として入った女性についても、言える。
●生きざまの問題に直結
日常的な作業(=ルーティンワーク)だけをし、またそれだけで終わっていたら、
その女性の知的能力は、(高度)とは、ほど遠いものになってしまう。
電車やバスの中で、たわいもない愚痴話に花を咲かせているオバチャンや、オジチャン
たちを見れば、それがわかる。
そこで重要なことは、あくまでもメタ認知能力の訓練のためということになるが、
つねに問題意識をもち、(問題)そのものを、身の回りから見つけていくということ。
問題あっての、メタ認知能力である。
社会問題、政治問題、経済問題、さらには教育問題などなど。
あえてその中に、首をつっこんでいく。
ワーワーと声をあげて、自分で騒いでみる。
私はそのとき、そのつど文章を書くことを提唱するが、これはあまりにも手前みそ過ぎる。
が、(書く)ということは、そのまま(考える)ことに直結する。
ほかによい方法を私は知らないので、やはり書くことを提唱する。
で、こうして書くことによって、たとえば今、「メタ認知能力」についての理解を
深め、問題点を知ることができる。
同時に、応用分野についても、知ることができる。
こうして自分がもつ知的能力を高めることができる。
そしてそれがその人の生きざまへと直結していく……。
簡単に言えば、「自分の意識を意識化すること」。
それがメタ認知能力ということになる。
オックスフォード英英辞典によれば、「Meta」は、「higher(より高度の)」「beyond
(超えた)」という意味である。
「より高度の認知能力」とも解釈できるし、「認知能力を超えた認知能力」とも解釈
できる。
私はこのメタ認知能力の先に、(ヒト)と(動物)を分ける、重大なヒントが隠されて
いるように感ずるが、それは私の思いすごしだろうか?
つまりメタ認知能力をもつことによって、ヒトは、自らをより高いステージへと、自分を
もちあげることができる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 メタ メタ認知能力 metacognitive ability 高度な知的活動)
Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司
【メタ認知能力】(追記)(Metacognitive Ability)
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この数日間、「メタ認知能力」という
言葉に、たいへん興味をもっている。
以前にも何度か、それについて書いた
ことがある。
が、そのときは、それほど
重要視していなかった。
しかしその後、知れば知るほど、
なるほどと思う場面に遭遇した。
「メタ認知能力」……まさに人間だけが
もちうる、最高度の認知能力という
ことになる。
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●食欲とメタ認知能力
食欲中枢は、脳の中でも視床下部というところにあることがわかっている。
そこにあるセンサーが、血糖値の変動を感知して、食欲を増進させたり、反対に
食欲を減退させたりする。
しかしこれら2つの働き、つまり(食欲増進)を促す中枢部と、(食欲抑制)を
促す中枢部が、最近の研究によれば、別々のものというところまでわかってきている。
これら2つの中枢部がたがいに連携をとりながら、もう少し具体的には、絶妙なバランス
をとりながら、私たちの(食欲)を、コントロールしている。
●意識を意識する
もちろん私たちは、こうした知識を、本という(文字)を通して知るしかない。
頭を開いて、その中を見て知るわけではない。
が、想像することはできる。
たとえば空腹感を覚えたようなとき、「血糖値がさがってきたぞ」とか、など。
血糖値がさがると、胃や腸が収縮し始める。
空腹になると、おなかがグーグーと鳴るのはそのためだが、そうした変化に合わせて、
空腹感がどういうものであるかを知る。
このとき、「ああ、腹が減ったなあ」だけでは、メタ認知能力はないということに
なる。
が、このとき、自分の脳みその中の変化を、想像してみる。
「ああ、今、食欲増進中枢部が働いているぞ」
「今度は、食欲抑制中枢部が働いているぞ」と。
こうして自分の意識を、別の意識で客観的に評価する。
それをする能力が「メタ認知能力」ということになる。
●2つの働き
これもひとつのメタ認知能力ということになるのか。
たとえば講演などをしているとき、自分の脳の中で、2つの働きが同時に起きている
のがわかる。
ひとつは、講演の話の内容そのものを考えること。
「この話には、異説があるので、注意しよう」とか、「この話は、もう少し噛み砕いて
話そう」とか、考える。
もうひとつは、話しながらも、「残り時間があと20分しかないから、少し結論を
急ごう」とか、「つぎにつづく話は、途中で端折ろう」とか、時間を意識すること。
この両者が、交互というよりは、同時進行の形で働く。
つまり講演している私を、別の意識が客観的にそれをみて、私にあれこれと命令を
くだす。
●知的能力
教育の世界の話になると、ぐんと具体性を帯びてくる。
たとえば今、掛け算の九九練習している子ども(小2)を、頭の中で想像してみてほしい。
その子どもは懸命に、「二二が4、二三が6……」と暗記している。
そのとき子どもは、「なぜそれを学習しているのか」「なぜそれを学習しなければならな
いのか」「学習したら、それがどう、どのように役立っていくのか」ということについては、
知る由もない。
「掛け算は覚えなければならない」という意識もない。
ないから、先生や親に言われるまま、暗記する……。
これは子どもの世界での話だが、似たような話は、おとなの世界にも、いくらでもある。
またその程度の(差)となると、個人によってみなちがう。
言い換えると、メタ認知能力の(差)こそが、その人の知的能力の(差)ということにな
る。
●自己管理能力とメタ認知能力
たとえば若い男性の前に、裸の女性が立ったとする。
かなり魅力的な、美しい女性である。
そのとき若い男性が、それを見てどのように反応し、つぎにどのような行動に出るかは、
容易に察しがつく。
が、そのときその若い男性が、自分の中で起きつつある意識を、客観的にながめる
能力をもっていたとしたら、どうだろうか。
「今、視床下部にある性欲本能が、攻撃的な反応を示し始めた」
「ムラムラと湧き起きてくる反応は、食欲増進反応と同じだ」
「今、ここでその女性と関係をもてば、妻への背信行為となる」など。
いろいろに考えるだろう。
こうしてメタ認知能力をもつことによって、結果的に、大脳の前頭連合野が分担する、
自己管理能力を、より強固なものにすることができる。
●スーパーバイザー
「意識を意識する」。
それがメタ認知能力ということになるが、もう少し正確には、「意識を意識化する」という
ことになる。
もちろんその日、その日を、ただぼんやりと過ごしている人には、(意識)そのものが
ない。
「おなかがすいたら、飯を食べる」
「眠くなったら、横になって寝る」
「性欲を覚えたら、女房を引き寄せる」と。
が、そうした意識を、一歩退いた視点から、客観的に意識化する。
言うなれば、「私」の上に、スーパーバイザー(監督)としての「私」を、もう1人、置く。
置くことによって、自分をより客観的に判断する。
たとえば……。
「今日は寒いから、ジョギングに行くのをやめよう」と思う。
そのときそれを上から見ている「私」が、「ジョギングをさぼってはだめだ」
「このところ運動不足で、体重がふえてきている」「ジョギングは必要」と判断する。
そこでジョギングをいやがっている「私」に対して、「行け」という命令をくだす。
言うなれば、会社の部長が、なまけている社員に向かって、はっぱをかけるようなもの。
部長は、社員の心理状態を知り尽くしている。
●うつを知る
メタ認知能力は、訓練によって、伸ばすことができる。
私なりに、いくつかの訓練法を考えてみた。
(1) そのつど、心(意識)の動きをさぐる。
(2) それが脳の中のどういう反応によるものなのかを知る。
(3) つぎにその反応が、どのように他の部分の影響しているかを想像する。
(4) 心(意識)の動きを、客観的に評価する。
この方法は、たとえば(うつ病の人)、もしくは(うつ病的な人)には、とくに
効果的と思われる。
(私自身も、その、「うつ病的な人」である。)
というのも、私のようなタイプの人間は、ひとつのことにこだわり始めると、そのこと
ばかりをずっと考えるようになる。
それが引き金となって、悶々とした気分を引き起こす。
そのときメタ認知能力が役に立つ。
「ああ、これは本来の私の意識ではないぞ」
「こういうときは結論を出してはいけない」
「気分転換をしよう」と。
すると不思議なことに、それまで悶々としていた気分が、その瞬間、とてもつまらない
ものに思えてくる。
と、同時に、心をふさいでいた重い気分が、霧散する。
●メタ認知能力
メタ認知能力を養うことは、要するに「自分で自分を知る」ことにつながる。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている。
が、実のところ、そう思い込んでいるだけで、自分のことを知っている人は、ほとんど
いない。
(私が断言しているのではない。
あのソクラテスがそう言っている。)
が、メタ認知能力を養うことによって、より自分のことを客観的に知ることができる。
「私は私」と思っていた大部分が、実は「私」ではなく、別の「私」に操られていた
ことを知る。
それこそが、まさに『無知の知』ということにもつながる。
もちろん有益性も高い。
その(有益性が高い)という点で、たいへん関心がある。
応用の仕方によっては、今までの私の考え方に、大変革をもたらすかもしれない。
またその可能性は高い。
しばらくはこの問題に取り組んでみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 メタ認知能力 Metacognitive Ability)
Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司
【自己管理能力】
●前頭連合野
+++++++++++++++++++++++++++++++
前頭連合野は、言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
その働きを知るためには、ひとつには、「夢」の内容を知るという方法
がある。
夢を見ているときには、前頭連合野は、働いていない。
そのため、人は、支離滅裂な、前後に脈絡のない夢を見る。
言い換えると、もし前頭連合野の働きが弱くなれば、私たちの思考は、
ちょうど夢を見ているような状態になる。
もしそうなれば、自分でも、何をどう考えているか、さっぱりわからなく
なるだろう。
もちろん自分の考えをまとめることさえできない。
電車に乗り遅れる夢を見るように、ただあわてふためくだけで、それで
終わってしまう。
いつもの私の夢が、そうだ。
+++++++++++++++++++++++++++++++
●前頭連合野
人間の脳みその、約3分の1は、前頭連合野と呼ばれる部分だそうだ。
人間は、とくにこの部分が発達している。
そのため、猿やチンパンジー、古代人の骨格と比べても、人間の額は大きく、広い。
言うなれば、知性と理性のコントロール・センター。
それがこの前頭連合野ということになる。
が、もしこの前頭連合野の働きが鈍くなったら・・・。
私たちの思考は、ちょうど夢を見ているときのような状態になると考えられる。
というのも、人間が眠っている間というのは、前頭連合野も、眠った状態になっている。
反対に、そのことから、前頭連合野の働きを、私たちは知ることができる。
●今朝の夢
実のところ、今朝の夢というのは、よく覚えていない。
夢というのは不思議なもので、半日もたつと、それが今朝の夢だったのか、それとも何日
も前に見た夢だったのか、わからなくなる。
が、今朝見た夢は、こんなものだった。
山の中の、どこかの駅に向かっている。
新幹線の中のようだが、窓がなく、貨物室のようになっている。
それが川沿いを走ったり、山の中を走ったりしている。
ところどころ線路が切れているが、新幹線は、そのまま走り続けている。
が、やがて、森のようなところをぐるりと回ったところで、新幹線は止まる。
中央にプラットフォームがあって、その向こうには、別の電車が待っている。
ローカル線である。
切符を買うために、駅舎へ向かうが、料金がわからない。
長野を通って、仙台へ行く・・・というようなことを、私は話している。
途中、高い山を電車は越えるらしい。
山の途中には、ひなびた温泉街がいくつも並んでいる・・・。
●小鳥の思考
理屈で考えれば、矛盾だらけの夢である。
夢の内容に連続性がない。
それに非合理。
そこで私は、ふとこう考えた。
前頭連合野がまだ未発達だったころの人間は、こうした思考方法を、日常的にしていたの
ではないか、と。
もちろん目の前に見える(現実)に対しては、現実的な行動をする。
餌となる食べ物があれば、それを口にするまでの行動を開始する。
危険が迫れば、それを回避するための行動を開始する。
しかしこと(思考)ということになると、それをまとめあげ、合理的に判断し、前後を論
理的につなげる能力はない。
恐らく、目を閉じたとたん、私たち人間が夢を見ているときのような状態になるのではな
いか。
ミミズが地面をはっている。
その横に、大きな木の枝がある。
木の枝の中には、おいしそうな種がいっぱいつまっている。
それを高い空を飛びながら、上から見ている、と。
小鳥なら、きっとそんな光景を思い浮かべるかもしれない。
もちろん言葉もないから、それを的確に、別の鳥に知らせることもできない。
●理性の源泉
が、人間のばあいは、目を閉じても、それで前頭連合野の活動がそこで停止するわけで
はない。
目を閉じていても、言葉を使って、ものごとを論理的に考え、理性的な判断をくだすこと
ができる。
それがしっかりとできる人のことを、理性的な人といい、そうでない人を、そうでない人
という。
程度の差は、当然、ある。
言うなれば、神に近いほど、理性的な人もいれば、反対に、動物に近いほど、そうでない
人もいる。
その(ちがい)は何によって生まれるかといえば、結局は行きつくところ、(日々の鍛錬)
ということになる。
このことは幼児期前期の子どもたちを見れば、よくわかる。
エリクソンが、「自律期」と名づけた時期である。
●自律期
年齢的には、満2歳から4歳前後ということになっている。
実際には、乳幼児期を脱し、少年少女期へ移行する、その前の時期までということになる。
この時期の子どもは、親や先生に言われたことを忠実に守ろうとする。
この時期をとらえて、うまく指導すると、いわゆる(しつけ)がたいへんしやすい。
が、この時期に、(いいかげんなこと)をしてしまうと、子どもはやがて、ドラ息子、ドラ
娘化する。
ものの考え方が享楽的になり、自己が発する欲望に対して、歯止めがきかなくなる。
わがままで、自分勝手。
感情のコントロールさえ、ままならなくなる。
つまりこの時期に、前頭連合野の働きが活発になり、ある程度の形がその前後に形成さ
れると考えてよい。
もちろんそれ以後も、前頭連合野の形成は進むだろうが、原型は、その前後に形成される
と考えてよい。
●夢と前頭連合野
そこでこう考える。
夢の中でも、前頭連合野を機能させることはできないものか、と。
しかしそれでは、睡眠が妨げられることになる。
ただ、ときどき、ほとんど起きがけのころだが、夢と現実が混濁するときがある。
そういうときというのは、かなり理性的な判断(?)ができる。
「これは夢だぞ」と、自分で、それがわかるときさえある。
あるいはこんなこともあった。
この話は少し前にも書いたが、こんな夢を見たことがある。
歩いていて、その男女の乗った車に、体をぶつけてしまった。
中から男が出てきて、ワーワーと大声を出して、私に怒鳴った。
で、私は目を覚ましたが、そのときのこと。
私はそれが夢だったと知り、もう一度、夢の中に戻りたい衝動にかられた。
夢の中に戻って、その男女の乗った車を、足で蹴飛ばしてやりたかった。
が、このとき、脳のほとんどは覚醒状態にあったが、前頭連合野だけは、まだ半眠の状
態であったと考えられる。
前頭連合野が正常に機能していたら、「蹴飛ばしてやる」ということは考えなかったかもし
れない。
それ以前に、「夢は夢」と、自分から切り離すことができたはず。
・・・などなど。
前頭連合野の働きをわかりやすく説明してみた。
今度の高校生のクラスで、こんな話を、子どもたちにしてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 前頭連合野 前頭前野 理性の府 夢と理性)
【薬物療法】(フィードバック現象)(自己管理能力に関して)
【ある中学校での講演での要旨】
++++++++++++++++
先日、中学校での講演のレジュメを
考えた。
で、その一部を、中学生たちにして
みたら、みな、「つまらない」と。
そこでそのレジュメは、ボツ!
そこで改めて、考えなおしてみる。
(荒削りの未完成レジュメなので、
その点を含みおきの上、お読みくだ
さい。)
++++++++++++++++
●初恋
私は、中学生になるまで、女の子と遊んだ経験がない。当時は、そういう時代だった。女の子といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、みなにからわかわれた。私も、からかった。
その私が、中学2年生のときに、初恋をした。相手は、恵子(けいこ)さんという、すてきな人だった。
毎日、毎晩、考えるのは、その恵子さんのことばかり。家にいても、恵子さんの家のほうばかり見て、ときには、ボーッと何時間もそうしていた。恵子さんの家のあたりの空だけが、いつも、虹色に輝いていた。
で、ある日、私は思い立った。そして恵子さんに電話をすることにした。
私は10円玉をもって、電車の駅まで行った。公衆電話はそこにしか、なかった。家にも電話はあったが、家ですると、親に見つかる。
私は高まる胸の鼓動を懸命におさえながら、駅まで行った。そして電話をした。それはもう、死ぬようない思いだった。
で、電話をすると、恵子さんの母親が出た。私が、「林です。恵子さんはいますか?」と電話をすると、母親が電話口の向こうで、恵子さんを呼ぶ声がした。「恵子、電話よ!」と。
心臓の鼓動はさらに、高まるばかり。ドキドキドキ……と。
そしてその恵子さんが、電話に出た。そしてこう言った。
「何か、用?」と。
そのときはじめて、私は気がついた。私には、何も用がなかった。ただ電話をしたかっただけ。だから、その電話はそれでおしまい。私は何も言えず、電話を切ってしまった。
●フェニルエチルアミン
その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたようになる……。恋をすると、人は、そうなる。
こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるものだということが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦がすような甘い陶酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。
その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、麻薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、それほど長くない。短い。
ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると今度は、それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が分泌されるからこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その物質に慣れてしまったら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなってしまう。
しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌されない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづくことになる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに慣れてしまう。
つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。もって、3年とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはない」というような、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったというような恋愛であれば、半年くらい(?)。
その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋愛をしても、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界も、やがて色あせて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。
●リピドー(性的エネルギー)
このフェニルエチルアミン効果と同時進行の形で考えなければならないのが、リピドー、つまり、「性的エネルギー」である。
それを最初に言い出したのが、あのジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、1856~1939)である。
「リピドー」という言葉は、精神分析の世界では、常識的な言葉である。「心のエネルギー」(日本語大辞典)のことをいう。フロイトは、性的エネルギーのことを言い、ユングは、より広く、生命エネルギーのことを言った。
人間のあらゆる行動は、このリピドーに基本を置くという。
たとえばフロイトの理論に重ねあわせると、喫煙しながらタバコを口の中でなめまわすのは、口愛期の固着。自分の中にたまったモヤモヤした気分を吐き出したいという衝動にかられるのは、肛門期の固着。また自分の力を誇示したり、優位性を示したいと考えるのは、男根期の固着ということになる。(固着というのは、こだわりと考えると、わかりやすい。)
つまり、フロイトは、私たちのあらゆる生きる力は、そこに異性を意識していることから生まれるというのだ。
男が何かに燃えて仕事をするのも、女がファッションを追いかけたり、化粧をするのも、その根底に、性的エネルギーがあるからだ、と。
●性的エネルギー
このことと、直接関係あるかどうかは知らないが、昔、こんな話を何かの本で読んだことがある。
あのコカコーラは、最初、売れ行きがあまりよくなかった。そこでビンの形を、それまでのズン胴から、女体の形に似せたという。胸と尻の丸みを、ビンに表現した。とたん、売れ行きが爆発的に伸び、今のコカコーラになったという。
同じように、ビデオも、インターネットも、そして携帯電話も、当初、その爆発の原動力となったのは、「スケベ心」だったという。そう言えば、携帯電話も、電子マガジンも、出会い系とか何とか、やはりスケベ心が原動力になって、普及した?
東洋では、そしてこの日本では、スケベであることを、恥じる傾向が強い。仮にそうであっても、それを隠そうとする。しかし人間というのは、ほかの動物たちと同じように、基本的には、異性との関係で生きている。つまりスケベだということ。
人間は、この数一〇万年もの間、哲学や道徳のために生きてきたのではない。種族を後世へ伝えるために生きてきた。「生き残りたい」という思いが、つまりは、スケベの原点になっている。だから、基本的には、人間は、すべてスケベである。スケベでない人間はいないし、もしスケベでないなら、その人は、どこかおかしいと考えてよい。
問題は、そのスケベの中身。
●善なるスケベ心
ただ単なる肉欲的なスケベも、スケベなら、高邁な精神性をともなった、スケベもある。昔、産婦人科医をしている友人に、こんなことを聞いたことがある。
「君は、いつも女性の体をみているわけだから、ふつうの男とは、女性に対して違った感情をもっているのではないか。たとえばぼくたちは、女性の白い太ももを見たりすると、ゾクゾクと感じたりするが、君には、そういうことはないだろうな」と。
すると彼は、こう言った。「そうだろうな。そういう意味での、興味はない。ぼくたちが女性に求めるのは、体ではなく、心だ」と。
たぶん、その友人がもつスケベ心は、ここでいう高邁な精神性をともなったスケベかもしれない。
では、私にとっての性的エネルギー(リピドー)は、何かということになる。
私は、それはひょっとしたら、若いころの、不完全燃焼ではないかと思うようになった。私は若いころは、勉強ばかりしていた。大学時代は、同級生は、全員、男。まったく女気のない世界だった。その前の高校時代は、さらに悲惨だった。私は、まさに欲求不満のかたまりのような人間だった。
だから心のどこかで、いつも、チクショーと思っている。その思いは、いまだに消えない。そしてそれが、回りまわって、今の私の原動力になっている? そう言えばあの今東光氏も、昔、私にそう話してくれたことがある。彼もまた、若いころは、修行、修行の連続で、青春時代がなかったと、こぼしていた。
何はともあれ、私たちは、いつも、異性を意識しながら生きている。男がかっこうを気にしたり、女が化粧をしたりするのも、原点は、そこにある。そしてそういう原点から、それぞれが、つぎのステップへと進む。あらゆる文化は、そうして生まれた。哲学にせよ、道徳にせよ、あくまでも、その結果として生まれたに過ぎない。
さあ、世の男性諸君よ。女性諸君よ。それに中学生諸君よ、スケベであることを、恥じることはない。むしろ、誇るべきことである。もし、心も体も、健康なら、あなたは、当然、スケベである。もしあなたがスケベでないなら、心や体が病んでいるか、さもなければ、死んでいるかのどちらかである。
あとはそのスケベ心を、善なるスケベ心として、うまく昇華すればよい!
●自我構造理論
が、それがむずかしい。この性的エネルギーというのは、基本的には、快楽原理の支配下にある。油断をすれば、その快楽原理に溺れてしまう。
一方、その私はどうかというと、私も、ふつうの人間。いつもそうしたモヤモヤとした快楽原理と戦わなくてはならない。しかしそれを感じたとたん、「邪悪な思い」と片づけて、それをまた心のどこかにしまいこんでしまう。
こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うまく説明できる。
私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネルギーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、理性もない。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。
そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」という理性である。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑制する。
●イドと自我の戦い
しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働きが強ければ、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思われる。
同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)でも、説明できる。
今回は、みなさんに、そのEQテストなるものをしてみたい。(後述)
EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程度、(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴールマンは、(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)他人への思いやり、(5)人間関係の5つをあげた。)
つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
●教師という仮面
ところで、教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といってもよい。おおかたの人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であるという前提で、ものを考える。接する。
そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接する。しかしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性がある。こんなことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、まったく分離してしまうということは、危険なことでもある。
ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。
そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演じていると、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、弱い。長く、つづけることはできない。
●自己管理能力
人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)はどこにあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと言えば、自我のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうでない人を、(見かけ上、すばらしい人)という。
さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうために、こんな話を書きたい。
●思春期に肥大化するイド
昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。
私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていった。黒い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。
その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車がいないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。
最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼児ほど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、子どもは、とたんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。
なぜか?
それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。
思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはドロドロとした欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我のもつ管理能力が低下する。
言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当にすばらしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い(?)。
●では……
ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。
最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らなければならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみどころがない。ドロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イドは、私の生きる原動力となっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこから生まれる。
そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を抱きたい」「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。
イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンのようなもの。
そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドルをとりつける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコントロールする部分が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、しかしそう考えると、(私)というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、そうしてできあがった、(車)のようなもの、ということになる。
つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)ということになるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボロで、故障ばかり繰りかえす……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自我
構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)
●エスの人
さらに話を進めたい。
フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エスの人に分けた。
たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。
目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。
これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。
いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。
また(3)エスの人は、つぎのように行動する。
妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。
これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。いつもいつもエスの人もいない。
これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。
Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。
「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいました」と。
その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っているという。
そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強い人」ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。
こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人にとっては、そうだ。
だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、「カタブツ人間」という。
超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。
そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、私には、どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)
●話を戻して……
自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。
(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。
(1)~(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトがいうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あなたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もしそれがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。
反対に、そうでなければ、そうでない。
●オーストラリアでの経験
私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことがある。南オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのことである。私たちは、州境にある境界までやってきた。
境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイッチか何かを食べていた。
B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。
結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この例で言えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったということになる。
で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信頼のおける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方を決めてきた。私は、もともと、小ズルイ人間だった。
●信頼関係は、ささいなことから
私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的なところから始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。
先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくても、信号が青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、空くまで、じっと待つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空き缶などは、決められた場所以外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身を見ないで、交番や、関係者(駅員、店員)に届ける。そういうところから、始まる。
そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そしてそれが熟成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようになる。
先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来ているが、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促すと、B君は、いつも、こう言う。
「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。
さらに横断歩道の停止線の前では、10~20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。「日本では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうして、そうまでロジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。
「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」ということか(?)。
しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようになった。
●友人との信頼関係
友人の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。しかしその(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。
ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうした日々の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼関係となって、熟成される。
もちろんその道は、決して、一本道ではない。
ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけないとか、不倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、仮にそういう関係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。
その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友人の中には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学習を通して、より賢くなっていく。
●超自我の世界
フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう一つの自我、つまり(超自我)があるという。
この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。
たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかしあいにくと、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。
そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人の自分が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れられるぞ」と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。
このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるようだが、ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向くまま、思いつくまま、行動するようになる。
ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。
●シャドウ
もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであれば、それが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、それがよいことだと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。
そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわけではないが、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてしまう。そしてそれが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離れていく。「何だ、お母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。
だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子どもが、かえって、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放化したりすることなどがある。非行に走るケースも珍しくない。
それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、しかしではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。
そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。
子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我を自分のものにしてしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたものであれば問題はない。
子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていのばあい、この超自我には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だけを、子どもが引きついでしまう。
それがシャドウということか。
話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。
つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操っている、もう1人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。
そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用しない。つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。
そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子どもではなく、親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て育つ』というが、それをもじると、こうなる。
『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけないで、どうして子どもをしつけることができるのかということにもなる。
話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えてみたい。
●【EQ】
ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。
(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性
ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。
自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。
●行動面の管理能力
行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせない。
たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その時点で、これまた迷うかもしれない。
精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死にかかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それに含まれるかもしれない。
もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。
そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」という思いと戦わねばならない。
さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめられて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。
こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その人の人格の完成度を知ることができる。
この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。
●精神面の管理能力
私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、飛行機恐怖症など。
精神的な欠陥もある。
私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判できなくなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれない。)
具体的には、パニック状態になってしまう。
こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。
そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコントロールしていくということ。
たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうとき、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面にすわりこんでしまうこともある。
そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わかっているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度は、低いということになる。
●感情面の管理能力
「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人ということになる。
この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないことにより、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。
つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人はいつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠のいてしまう。
しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマをつくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。
私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフは、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒したのを、見たことがない。)
一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。
が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局は、だめだった。
で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいことだと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。
また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。
(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の完成)
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ついでながら、このEQ論を、
子どもの世界にあてはめて、
それを診断テストにしたのが、
つぎである。
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【子どもの心の発達・診断テスト】(以下のテストを会場で実施)
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【子どもの社会適応性・EQ検査】(参考:P・サロヴェイ)
●社会適応性
子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。
(1)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。
○いつも喜んでするようだ。
○ときとばあいによるようだ。
○いやがってしないことが多い。
(2)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……
○雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
○しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
○聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)
(3)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。
○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)
(4)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。
○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)
(5)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。
○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
(6)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……
○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)
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( )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
( )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
( )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
( )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
( )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
( )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
( )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。
これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子どもとみる(「EQ論」)。
(以上のテストは、いくつかの小中学校の協力を得て、表にしてある。集計結果などは、HPのほうに収録。興味のある方は、そちらを見てほしい。当日、会場で、診断テスト実施。)
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●順に考えてみよう。
(1)共感性
人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、「共感性」ということになる。
つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲しみ、悩みを、共感できるかどうかということ。
その反対側に位置するのが、自己中心性である。
乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。
が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世間体意識へと、変質することもある。
(2)自己認知力
ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何をしたいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。
この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわからない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔不断。
反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っていることを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。
(3)自己統制力
すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どものばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。
たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにためて、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。
が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのために使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓子をみな、食べてしまうなど。
感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にしたり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い子どもとみる。
ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に分けて考える。
(4)粘り強さ
短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。
能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある子どもでも、短気な子どもは多い。
集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気になる。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どももいる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。
この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。
(1)楽観性
まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、ものを考えていく。
それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところで、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすることもある。
簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。
ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にもよるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。
たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言えば、楽観的。超・楽観的。
先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア~い」と。そこで「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなかったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。
冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人もいる。
(2)柔軟性
子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。
この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。
一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。
朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。
いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園でも、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。
何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう子どもがいた。
先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、最後までがんばった子どもがいた。
症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。
(はやし浩司 思考 ボケ 認知症 人格の後退 人格論 EQ論 サロベイ)
●終わりに……
私は私と考えている人は多い。しかし本当のところ、その「私」は、ほとんどの部分で、「私であって、私でない部分」によって、動かされている。
その「私であって私でない部分」を、どうやって知り、どうやってコントロールしていくか。それができる人を、自己管理能力の高い人といい、人格の完成度の高い人という。そうでない人をそうでないという。
思春期は、それ自体、すばらしい季節である。しかしその思春期に溺れてしまってはいけない。その思春期の中で、いかに「私」をつくりあげていくか。それも、思春期の大切な柱である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思春期 自我構造理論 中学生)
●おまけ
当日の人格完成度テストで、満点もしくは、それに近い点数を取った子どもには、私の本をプ
レゼントする予定。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自己管理能力 学習指導困難児 フィードバック)
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
2010年4月24日土曜日
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