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彡彡人ミミ 彡彡彡彡彡
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 10年 4月 2日号
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4月 2日……1341号
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★★★★★★★★★★HTML版★★★★★★★★★★★
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●負け戦
++++++++++++++++
負け戦ということは、よくわかっている。
英語で言えば、「loser(負け犬)」。
その私が精一杯、虚勢を張って生きている。
虚勢だ。
ありもしない名声を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。
ありもしない名誉を、あたかもあるかの
ように見せかけ、それにしがみついて
生きている。
できれば、何かの肩書きがほしい。
しかしそんなものは、どこにもない。
どこをさがしても、ない。
加えて自分の人生を振り返っても、
充実感などどこにもない。
やったことと言えば、自分の名誉と
財産づくりのため。
それだけ。
そのために、人を利用しただけ。
そういう私を知っている人は、私のような
人間など、相手にしない。
むしろ陰でこう言っている。
「あの林(=私)は、偉そうなことを
書いているが、中身は何もない」と。
弟子もいない。
恩師のTK先生にしても、そうだ。
私のほうで勝手に、「恩師」「恩師」と
言っているが、肝心のTK先生のほうは、
私のことなど、何とも思っていない。
「弟子」の中にも入っていない。
TK先生の文章のどこを読んでも、
「はやし浩司」の名前など、どこにも
出てこない。
出てくるはずもない。
ひがんでいるのではない。
私は、つまりは、その程度の人間でしかない。
「私は偉い」「私は立派だ」「私はすばらしい」と、
いくら人に訴えても、だれも見向きもして
くれない。
返ってくるのは、寒々とした孤独感だけ。
孤立感だけ。
そう言えば、昔、こんなバカがいた。
いつも私の家(=実家)にやってきて、
金儲けの自慢話ばかりしていた。
「今月は、いくら儲けた」
「来月は、いくら儲ける」と。
何でもだれかと、現金で1億円づくりを
競ったそうだ。
で、その競争に勝ったとか。
賞金の100万円を手にしたとか。
そんな話も聞かされた。
本人は、それで楽しいかもしれない。
おもしろいかもしれない。
しかしそれを聞かされるほうは、
たまったものではない。
当時、私の家は、貧しかった。
貧乏のどん底を這うような生活をしていた。
母は、その男が帰るたびに、玄関に
塩をまいていた。
よほど悔しかったのだろう。
が、そのバカのしたことと同じことを、
今、私がしている。
何のことはない。
この私が、だ。
私が同じことをしている。
いっぱしの教育者づらをして、いっぱしの
ことを書いて、威張っている。
ときに哲学者らしい文章を書くこともある。
しかしそれがどうしたというのだ。
何になるというのだ。
その答を聞くのが恐ろしいから、
あえて目をそむけ、生きているだけ。
今さら引き返そうにも、引き返すことも
できない。
人生をやり直そうにも、やり直すことも
できない。
「まちがっていた」と敗北を認めることも
できない。
認めたとたん、そこは自己否定の世界。
無間地獄。
だからまたまた虚勢を張って、生きる。
虚勢にしがみついて、生きる。
そこに何もないことを知っている。
明日に、何もないことも、知っている。
しかしここで虚勢を棄てることもできない。
ひょっとしたら、何かあるかもしれない。
明日になれば、何か変わるかもしれない。
そんな思いに希望を託して、今日も
がんばる。
がんばるしかない。
裸の体に、赤や青の鳥の羽をつけて、
それらしく体裁を整えて生きていく。
「講演会の感想が届きました」
「HPやBLOGへのアクセス数が、
月間30万件を超えました」と。
だからといって、それがどうしたというのか。
だからといって、だれが私を、それで認めて
くれるというのか。
それで周囲の人たちの心が、少しは
変わるとでもいうのか。
答はわかっている。
わかっているが、そこまで。
あえて自分の耳をふさぐ。
ふさいで、知らぬ顔をする。
今日も始まった。
今日も虚勢を張って生きる。
虚勢を張って生きる。
虚勢にしがみついて生きるしかない。
それしかない。
+++++++++++++++++
●モーフィング
昨日は、数時間、ひまがあったので、モーフィングに挑戦してみた。
以前からやってみたかったが、きっかけがなかった。
だから昨日、やってみた。
モーフィングというのは、ひとつの顔から、別の顔に変身させる技術をいう。
よくSF映画などに、それが出てくる。
映画『ターミネーター』の中にも、出てきた。
で、処女作は、まあまあのでき。
2作目は、うまくできた。
「ここが最前線の子育て論」の中に、収録しておいた。
6歳の時の顔から、60歳のときの顔にモーフィングさせてみた。
で、夜になって、ワイフが、「映画に行かない?」と、私を誘った。
時計を見ると、8時を回っていた。
で、映画を観に行ってきた。
映画は、『パーシー・ジャクソンと、オリンポスの神々』。
日本語吹き替え版。
ちょうどよい時間帯のものは、それしかなかった。
映画そのものは、星2つ前後の、★★(マイナス)。
10日もすれば、題名すら忘れてしまうような映画だった。
ただ地獄のシーンは、圧巻だった。
その映画を観ながら、あちこちで、モーフィング技術が使われているのを知った。
「あちこち」というより、「いたるところ」。
「映画は、こんなふうにして作るのだ」と、感心しながら映画を観た。
あとは、時間の問題。
つまり時間さえかけれれば、私にだって、同じような映画ができる。
映画が終わって家に帰ってみると、深夜0時を回っていた。
が、寝る前に、もう1作、モーフィングを使って、映像を作ってみた。
コアラが私の顔に変身するものだった。
しかしこれは失敗。
時間こそ、10分足らずでできたが、コアラと私では、あまりにも違いすぎた。
それを見て、ワイフとゲラゲラ笑った。
我ら、不良老人!
ついでに、先週は、『恋するベイカリー』(メリル・ストリープ主演)という映画と、『イ
ンビクタス』(モーガン・フリーマン主演)の2本の映画を観てきた。
メリル・ストリープの映画は、『マジソン郡の橋』以来、すべて、観ている。
評価は、星は2つか3つの、★★。
『インビクタス』は、星3つか4つの、★★★★(-)。
印象に残る映画だった。
週末から、新しい映画が、つぎつぎと封切りになる。
楽しみ。
全部、観る!
●手続き記憶
パソコンを使って、映像を加工する。
いろいろな方法がある。
いろいろな映像に、加工できる。
今はモーフィングだが、少し前、こんな経験をした。
似たような技術に、「FLASH」というのがある。
ホームページなどを開くと、パッパツと映像が、勝手に変わっていくのがある。
あれが「FLASH」である。
数年前は、それを自由に使いこなすことができた。
で、先月、再び、それを使ってみた。
が、使い始めて、がっかり。
何度やっても、うまくいかない。
「そんなはずはない」と思ってやってみたが、うまくいかない。
方法はビデオ編集と似ている。
要領はわかっているはず。
……ということで、またまた「脳みその底の穴」を、経験した。
たった数年だが、その間に、脳みその底の穴から、知識や記憶が、流れ落ちてしまった。
老後の恐ろしいところは、ここにある。
若いときには、こんなことはなかった。
しかし今は、ちがう。
新しい技術を覚えても、しばらく使わないでいると、どんどんと忘れてしまう。
で、今は、モーフィング。
簡単な技術だから、忘れることはないかもしれない。
しかしその可能性は、ないとも言えない。
心のどこかで、そんなことを心配しながら、モーフィングを楽しんだ。
要するに大切なことは、忘れることを恐れないこと。
その分だけ、新しいことを、どんどんと覚えていけばよい。
たとえて言うなら、川の流れのようなもの。
水を涸(か)らさないようにすること。
水の流れを止めないようにすること。
●中国の大干ばつ
中国の南部で、大干ばつが起きているらしい。
1500万人近くの人たちが、水不足で、苦しんでいるという。
つい先週には、「数百万人……」と報道していたから、干ばつが深刻化している(?)。
CRI-online(3月2日)は、つぎのように伝えている。
『…… 中国国家洪水干ばつ対策総指揮部の最新統計によりますと、3月2日現在、全国
で干ばつの被害を受けた農作物の面積は430万ヘクタール余りに達し、1501万人の
飲用水が不足しています。
そのうち、雲南と貴州、広西、重慶、四川の5つの地域が総被災面積の8割を占め、被
害状況も極めて深刻です。3月に入ってからも、降雨量は例年を下回り、干ばつによる被害
は、引き続き広がると見られています。
これを受けて、中国国家洪水干ばつ対策総指揮部は2日、緊急対策会議を開き、住民の
飲用水を優先した上で、工業用水と農業用水を確保し、現地の状況に応じた措置を講じる
よう各地方政府に求めました』と。
中国というところは、なにごとにつけ、スケールが日本より1桁、大きい。
「430万ヘクタール」「1501万人」!
地域によっては、今年に入ってから、雨量ゼロのところもあるという。
(しかしどうして、「1500万人」ではなく、「1501万人」なのだろう?)
都会に住んでいると、それがわからないかもしれない。
しかし「水不足」ほど、恐ろしいものはない。
このあたりでも、水田に水を引く時期になると、あちこちで騒動が起きる。
水がじゅうぶんあっても、騒動が起きる。
水不足ともなれば、なおさら。
村の人たちの様子も、殺気だってくる。
私の山荘のほうでも、1~2月の渇水期に、ときどき水が涸れることがある。
「不便」などというものではない。
長くつづけば、山荘を放棄しなければならない。
そんなことも考えなくてはならない。
「水は、生活の命」。
それを忘れてはいけない。
電気やガスは、なくても、何とかなる。
しかし水がなければ、生活そのものができない。
今ごろ、中国のそのあたりでは、私たちの想像もつかないようなドラマが展開されてい
るにちがいない。
どうか、中国のみなさん、心安らかに!
●ビデオカメラ
この1年以上、V社のビデオカメラを、よく使った。
YOUTUBEへの動画だけでも、1500本(1本、10分)近く、それを使って撮っ
た。
使い方が荒っぽいせいか、今では傷だらけ。
あちこちにガタが出てきた。
モニター画面を開くと、自動的に録画スタンバイになるはずなのに、ときどき電源が入ら
なくなる、など。
保証期間は、延長保証をつけてもらったから、4年。
近く修理に出すつもり。
が、修理に出している間、どうするか?
……ということで、数日前、近くの大型店へ足を運んでみた。
新しいビデオカメラを物色してみた。
で、そこへ行ってみて、驚いた。
この1年で、ビデオカメラが、またまた進歩した。
今では、フル・ハイビジョンは、常識。
手ぶれ防止付きも、常識。
S社のビデオカメラなどは、手のひらのすっぽりと収まるほど、小さくなっていた。
さらにビデオカメラをDVDライターに直接つなげて、そのまま動画を保存することもで
きるという。
(従来は、一度、パソコンを経由しなければならなかった。)
「ヘエ~」と驚きながら、カメラをいじらせてもらった。
……ところで、テレビのほうでは、すでに3D放送が始まっている。
特殊なメガネをかけて観る。
この世界は、いったい、どこまで進むのか?
おもしろい……というより、恐ろしい。
「だから、それがどうしたの?」という部分だけが、置き去りになったまま、技術だけ
がどんどんと進歩していく。
だから恐ろしい。
●悪あがき
さて、冒頭に書いた話に戻る。
定年退職したあとも、過去の地位や肩書きにこだわる人は多い。
さらに最後の最後まで、地位や肩書きを、追い求める人も多い。
しかしそんなものにこだわっているかぎり、安穏とした日々は、ぜったいにやってこない。
こないが、そういう人たちは、その(こだわり)を棄てることができない。
棄てたとたん、自己否定の世界に陥ってしまう。
だから、こ・だ・わ・る。
「オレは、偉いんだぞ!」と。
しかしこれだけは言える。
統合性の確立(やるべきことと、現実にしていることの一致)を目指すなら、過去の地
位や肩書きは、早く棄てた方がよい。
忘れたほうがよい。
一度、「無」の状態で、裸になる。
そこから老後の第二の人生を、設計する。
でないと、ますます人に相手にされなくなる。
言い替えると、「悪あがき」だけは、やめたほうがよい。
言うなれば、それは麻薬のようなもの。
それに溺れれば溺れるほど、後遺症は、深くなる。
そこにあるのは、底なしの孤独という、無間地獄。
何が恐ろしいかといって、「孤独」ほど、恐ろしいものはない。
あのイエス・キリストだって、「渇き」、つまり「孤独」に苦しんだ。
今の私がそうだが、「負け犬」を認めることは、たしかにつらい。
しかし人生は、ここから始まる。
始めるしかない。
さあ、今日もがんばろう!
2010年3月4日。
外では、冷たい小雨が降っている。
Hiroshi Hayashi++++++++March.2010+++++++++はやし浩司
●老後の統合性
+++++++++++++++++++
緊張感を失った老後ほど、みじめで
あわれなものはない。
毎日がだらだらと過ぎていくだけ。
明日も今日と同じ。
来年も今年と同じ、と。
+++++++++++++++++++
●自己否定
定年退職をしたあとも、過去の経歴や肩書き、名誉にしがみついて生きている人は、多
い。
その気持ちは、よくわかる。
痛いほど、よくわかる。
そういう人が、まちがっているというのではない。
人それぞれ
それぞれの人は、みな、何かにしがみついて生きている。
もしここでその空しさを認めたら、それはそのまま自己否定につながってしまう。
「私は何だったのか?」と。
何が恐ろしいかといって、自己否定ほど、恐ろしいものはない。
もっとも、若いときは、まだよい。
人生も、やり直しがきく。
しかし定年退職後ともなると、やり直そうにも、やり直しようがない。
「これから一旗あげてやろう……」ということができない。
そこで重要なのが、「統合性の確立」。
わかりやすい言葉で言えば、「第二の人生の設計図づくり」。
(人間としてやるべきこと)を見つけ、(現実にそれをする)。
「統合性」をわかりやすく説明すれば、そういうことになる。
その確立に失敗すると、老後も、みじめで、あわれなものになる。
またそういう老後を送っている人は、ゴマンといる。」
●虚勢
しかしなぜ、人は虚勢を張るのか?
「私はなぜ虚勢を張るのか?」と、言い換えてもよい。
この問題を裏から考えると、こういうことにもなる。
「虚勢を張ることで、何を求めているのか?」
「何が、目的で、虚勢を張るのか?」と。
私ほど、虚勢の塊(かたまり)のような人間は、そうはいない。
インターネットという、(無の世界)を相手にしていると、よけいにそれがよくわかる。
そこにあるのは、大きなモニターだけ。
無数に集まった光の点だけ。
それはちょうど子どものする、電子ゲームのようなもの。
子どもは電子ゲームをしながら、点数が、ふえた、へったと、喜んだり、悲しんだりして
いる。
私も、そうだ。
朝起きると、軽い運動をする。
そのあと書斎へ入って、パソコンを立ち上げる。
そのとき最初にチェックするのは、前日のアクセス数。
HPやBLOGへのアクセス数。
その数字を見て、喜んだり、さみしく思ったりする。
書籍とちがい、そこに読者がいるという実感など、まったくない。
にもかかわらず、虚勢を張る。
いかにも私は大物ですという、フリをする。
●私を意識する
そこでふと、考える。
「私はいったい、だれを意識しているのだろう?」と。
「だれを意識して、虚勢を張っているのだろう?」と。
そこでおもしろいことに気づく。
私のばあい、実のところ、対象となる相手が、いない!
同窓生でもないし、仲間でもない。
親類の人たちでもない。
家族でもないし、またそういった仲間でもない。
むしろそういう人たちには、私のHPにせよ、BLOGにせよ、見てほしくない。
私のばあい、私を相手にしている。
私の中の、「私」を強く、意識している。
たいへん奇妙なことだが、私は私に対して、虚勢を張っている。
●緊張感
一方の私は、「生きているという実感がほしい」と、いつも願っている。
そのために、生きている。
そういう「私」のために、同じ「私」が、虚勢を張っている。
今ここで、今していることの空しさを認めたら、そのあとに待っているのは、底なしの敗
北感。
自分を支えようにも、支えようがない。
そこで私は私に虚勢を張る。
「私のしていることは、すばらしいこと」と。
が、実のところ、その先に何があるか、私にもわからない。
わからないまま、虚勢を張る。
言い方を替えると、虚勢を張ることによって、そこにある種の緊張感が生まれる。
その緊張感がなくなったら、それこそ心がだらけてしまう。
●ある夫婦
運動をしながら、体を鍛える。
しかしそれにも、ある種の緊張感が必要。
たとえば私のばあい、大きな講演会をひかえたりすると、その1週間ほど前から、体の調
整に入る。
その緊張感が、私を運動へと引っ張っていく。
同じように、生きていくためには、ある種の緊張感が必要。
夢や希望、目的があれば、さらによい。
その緊張感があるからこそ、明日に向かって生きていくことができる。
が、その緊張感が消えたら……。
今日も、昼食のとき、地下の食堂で、こんな夫婦を見かけた。
ともに、何をするでもなし、しないでもなしといったふうに、テーブルをはさんで、黙っ
て座っていた。
夫のほうは、見るからに血栓性の脳梗塞を起こしているといったふう。
表情もなく、動作ものろかった。
妻のほうは、異様なまでの厚化粧をしていた。
夫は65歳くらい。
妻は50歳くらいだった。
私はその夫婦を見ながら、「この人たちは、何のために生きているのだろう」と思った。
まるで伸びきったゴムのよう。
冷めた、うどんか、そばのよう。
雰囲気そのものが弛緩していて、緊張感が、どこにもなかった。
が、それはそのまま、私自身の姿。
ここ2、3年はだいじょうぶでも、5年は無理。
5年は何とかもちこたえても、10年は、ぜったいに無理。
私も確実に、ああなる。
●結論
虚勢を張ることを、まちがっていると、どうして言えるのか。
それとも、これは居直りなのか。
しかしだれしも、何らかの虚勢を張って生きている。
またそうでもしないと、生きていけない。
……ここまで書いて、思い出すのが、セルバンテスが書いた、『ドン・キホーテ』。
ドン・キホーテについては、何度も書いてきた。
つまり虚勢を張ることが悪いことではなく、大切なのは、虚勢の張り方ということになる。
ときにその虚勢が、私たちに緊張感を添えてくれる。
生きる目的を与え、生きる喜びを与えてくれる。
つまり人間が生きながらも、もともと、たいしたことはできない。
そういう宿命を背負っている。
「たいしたことをしたい」と思いつつ、いつもその限界状況の中で、右往左往している。
それに気がつけば、仮にそれが虚勢であっても、それはそれでよいではないか。
……ということになる。
で、ここまでの結論。
私は私で、虚勢にしがみついて生きていく。
その先に何があるかわからないが、私からその虚勢を奪ったら、私はそれこそ「生きる屍
(しかばね)」になってしまう。
どのみち、たいしたことはできない。
要するに高望みはしない。
ほどほどのところで満足しながら、日々に(やるべきこと)をやる。
そのあとの運命は、(時の流れ)に、任せればよい。
Hiroshi Hayashi+++++++March 2010++++++はやし浩司
【錯覚】
●ただの人
私も短い間だったが、サラリーマンを経験
したことがある。
そのあとも、どこかサラリーマン的な仕事を
したこともある。
しかし不思議なことに、サラリーマンという
職業は、あとに何も残さない。
もともと利潤追求のための、組織的団体に
すぎない。
一方、そういうサラリーマンとつきあう相手の
人にしても、その人個人とつきあうのでは
ない。
その人のもつ、名刺とつきあう。
だから「金の切れ目が、縁の切れ目」となる。
どんな立派な肩書きをもつ人も、まず、それに
気がついたらよい。
「会社を離れれば、ただの人」と。
……というのは、言いすぎということは、
よくわかっている。
今、サラリーマン社会の中で、懸命にがんばって
いる人たちに対して、失礼なことも、よく
知っている。
しかしそういう(現実)を知って、サラリーマン
をつづけるのと、そうでないのとでは、
あとあとの生き様が大きく変わってくる。
「あとあと」というのは、(人生の結論)を自ら
引き出すときのことをいう。
だれしも、そういうときを必ず迎える。
●同窓会
先日、大学時代の同窓会に出てきた。
有意義なひとときだった。
そういうところで、友人に会うというのは、
何か不思議な雰囲気に包まれる。
みな、一様に年齢を取っているはずなのに、
その(老い)をまったく感じない。
「昔のまま」というほうが、正しい。
大学の卒業を「社会への入り口」とするなら、
今はみな、「出口」に立ったことになる。
ところが、入ったはずの「社会という部屋」が、
どこにもない。
社会という部屋に入ったはずなのに、入った
とたん、出口に出た感じ。
「タイムスリップ」という言葉があるが、
それとはちがう。
人生を「帯」にたとえるなら、その帯の途中を
切り取って、残った最初の部分と、終わりの
部分をつないだよう。
そんな感じ。
そう、若いころ、「60歳の人」というと、
とんでもないほど老人に見えた。
私たちには無縁の、遠い未来のことのように
思えた。
が、人生の出口に立ってみると、その逆の
実感がない。
まったくない。
同じように、若いころは、「遠い過去」の
はずなのに、それがすぐそこに見える。
同時に、みなは、「とんでもない老人」のはず
なのに、その実感がまったくない。
あのときのまま。
まったく、あのときのまま!
私だけではないと思う。
自分のことを「老人」と思っている友人は、
ひとりもいないだろう。
●「社会という部屋」
が、ひとつだけ、大きな変化に気づいた。
つまり、私たちには、過去はあっても、未来は
ないということ。
みな、それぞれに、「社会という部屋」の中では、
それなりの仕事をし、名もあげ、業績も残した。
ほとんどが、「長」の名がつく役職を経験した。
が、それも終わった。
リストラ、退職を経て、子会社へ回ったり、
天下り先へ回ったりしている。
つまりこれから先、もう一度、別の「社会という
部屋」へ入るということはない。
「入ったところで、それがどうした」という
ことになる。
さらにその先に待っているのは、「今と同じ
状態」ということになる。
●私たちの時代
となると、「社会という部屋」は、いったい、
何だったのかということになる。
友人のことを書くわけにはいかない。
私のことを書く。
私たちが大学を卒業するころは、今と、
状況がかなり違っていた。
だれしも就職を考えたし、就職といえば、
大企業を考えた。
公務員になった友人も多いが、私は公務員は
考えなかった。
私は、それが私に与えられた道と考えた。
またそういう道を進むことに、何ら、
疑問を覚えなかった。
私は商社を選んだ。
M物産という会社と、伊藤C商事という会社に
入社が内定したが、私は大きいほうがよいと、
M物産という会社を選んだ。
しかし私はやめた。
やめたあとは、好き勝手なことをした。
しかし先にも書いたように、サラリーマン的な
仕事もしたことがある。
いくつかの会社の社内報を書いたりした。
貿易の手伝いもいた。
そういう仕事を通して、先に書いたようなことを
知った。
「会社を離れれば、ただの人」と。
●当時の世相
が、そのときはわからない。
たまたま日本が高度成長期に入っていた
こともある。
みな、「企業戦士」とか、「モーレツ社員」
とか言って、もてはやされた。
終戦まで、「お国のため」だったのが、
戦後は、「会社のため」となった。
その土壌は、じゅうぶん根付いていた。
このことは、反対にオーストラリア
へ行ってみると、わかる。
オーストラリアでは、大企業を育たない
と言われている。
オーストラリア人というのは、独立精神が
旺盛すぎる。
そのため、企業のもつ「組織」になじめない。
そういうオーストラリア人と比べてみると、
日本人が民族的にもつ(性質)というのが、
よくわかる。
そういう点では、日本人は、「自由」という
ものを、本質的な意味で、理解していない。
……いなかった。
少なくとも私がオーストラリアへ渡って
知った「自由」は、日本人が考えていた
「自由」とは、まったく異質のもの
だった。
(今でも、そうかもしれないが……。)
わかりやすく言えば、私たちは、「仕事」
という名のもとで、それが人生の重要事と
錯覚してしまった。
こうして「一社懸命」型の企業人間が
生まれた。
●お金論
が、お金に(名前)がついているわけではない。
犯罪で稼いだお金は別として、正社員として
稼いだお金にも、アルバイトで稼いだお金にも、
ちがいはない。
同じ。
にもかかわらず、正社員にみながこだわるのは、
意識の問題というよりは、制度の問題。
この日本では、正社員と非正社員とでは、
待遇の面において、天と地ほどの差がある。
つまり非正社員は、ぜったいに、損!
一方、欧米では、そうした(差)は、
ほとんどない。
年功序列制度もない。
労働者たちは、ユニオンという組織でつながっている。
そのため企業に対する貢献心も、希薄。
日本風に言えば、「朝日新聞社の印刷工も、
町工場の印刷工も、印刷工という立場は同じ」。
「印刷工」という立場で、たがいを守り合っている。
それが「ユニオン」ということになる。
が、日本では、江戸時代からの身分制度も
あって、「よい仕事」と、「よくない仕事」の
色分けをしっかりとする。
私が幼稚園の講師になったときも、すでに
M物産の社員よりも多くのお金を稼いで
いたにもかかわらず、母は、電話口の向こうで
泣き崩れてしまった。
「浩ちゃん(=私)、あんたは、道を誤ったア」と。
どうしてM物産という会社をやめて、
幼稚園の講師になることが、道を誤った
ことになるのか。
しかしそれが当時の常識だった。
一般世間では、私のような生き方は、
理解されなかった。
それが、この国、日本の姿だった。
●錯覚
要するに、私たちは、その時代々々の中で
作られた(常識)に、引きずり回されているだけ。
本来価値のないものを、価値あるものと
思いこまされる。
価値のあるものを、価値のないものと思い
こまされる。
それが60歳という定年退職を過ぎてみると、
よくわかる。
「私たちは、何だったのか」と。
しかしこと友人たちをみていると、だれも、
それを口にしない。
心のどこかで、それを思っているのかもしれないが、
だれも話題にしない。
話したところで、どうにもならない。
私も聞かない。
聞いたところで、どうにもならない。
自由が何であるかを知っていると言う私でも、
それで幸福だったのかどうかということになると、
今でも、よくわからない。
この日本で、自由に生きることは、たいへん。
ほんとうに、たいへん。
何も好き好んで、自由の世界に生きることはない。
むしろサラリーマンの世界で、錯覚しながら
生きた方が、楽。
日本の制度そのものが、そうなっている。
それを知っているから、よけいに口が重くなる。
私も含めて、みな、ただの人。
そうそう同窓会で、1人、私にこう言った
友人がいた。
そのときは気づかなかったが、あとでビデオ
(YOUTUBE )を観たら、入っていた。
「お前は、学生時代から変わっていたが、
今も変わらないなあ」と。
向こうの世界にいる人たちからみれば、
そうみえるらしい。
が、だからといって、やはり、人は人。
みな、錯覚の世界に生きながら、錯覚
しているとも気づかない。
かく言う私とて、錯覚しているだけ。
「私は本物の自由を知っている」と。
だからといって、それがどうしたというのか。
どうであるにせよ、残りの人生は、少ない。
今さら、ああでもない、こうでもないと
論じたところで、意味はない。
「みんな、懸命に生きてきたのだなあ」と
思いつつ、S君という同級生と、歩いて
ホテルまで帰った。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
休みます。
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2010年4月2日金曜日
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