●慣習からの脱却(Beyond the Morals)
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地方の田舎へ行くと、(浜松市内にもあるが)、
慣習の多さに驚かされる。
日々の生活が、慣習によって成り立っているとさえ
言える。
こうした慣習は便利なものだが、(というのも、
そのおかげで、「手続き」として、何も考えなくて
行動できるので)、他方で、人間の自由なる創造性を
阻害する要因ともなる。
そこでコールバーグは、「慣習からの脱却」を、
道徳的完成度の、ひとつの尺度として取り入れた。
(1)前慣習的段階
(2)慣習的段階
(3)脱慣習的段階、と。
(1)前慣習的段階というのは、何も考えず、慣習に
従って行動することをいう。
(2)慣習的段階というのは、臨機応変に、慣習を
自分なりに取捨選択しながら利用することをいう。
(3)脱慣習的段階というのは、慣習にとらわれず、
自分で考えて行動することをいう。
田丸謙二先生が口癖のように言っている、「Independent
Thinker」(独立した思索人)」というのは、そういう人を
いう。
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●冠婚葬祭
慣習が、直接的、かつ顕著に私たちの生活を支配するのが、冠婚葬祭である。
冠婚葬祭、とくに「葬祭」ほど、慣習のかたまりのようなものはない。
「死んだあとのことは、人に任せばいい」という安易な死生観が、こうした慣習を
そのままのさばらせている(?)。
が、どうして自分なりの葬祭を自分で考えてはいけないのか。
自分で行ってはいけないのか。
言うなれば慣習というのは、ベルトコンベヤーのようなもの。
その上に乗っていけば、何ごとも、無事、かつ簡単にすむ。
それほど注意を払う必要のないものについては、そのほうが楽。
近所づきあいにせよ、はたまた村や町の祭りについても、そうだ。
が、問題は、そのあと。
「どうでもいいことは、慣習に従えばいい」と考え、あいた時間を、大切なことに
使うなら、まだよい。
が、中には、慣習漬けになり、自ら思考することを放棄してしまう人もいる。
あるいは思考力そのものを失ってしまう。
それこそ慣習がなければ、何一つ、行動できなくなってしまう。
●喪服
A氏(60歳)夫婦は、先日、父親の納骨のため、新潟県のN町まで行ってきた。
新幹線とローカル線を乗り継いで行ってきた。
そのこともあって、A氏は、喪服ではなく、黒いブレザーと、黒いズボンを、着用
して行った。
A氏の妻も、似たような服装で行った。
また駅から寺までは、タクシーで行った。
そのタクシーは、寺での法要がすむまで、寺の外に待たせた。
寺に同席した参列者は、実の姉夫婦だけ。
読経は20~30分程度ですみ、A氏はタクシーでそのまま墓へ。
が、これが姉夫婦の逆鱗に触れた?
以後、ことあるごとに、A氏の姉は、近所や親戚の人たちに、こう言いふらした。
「A男夫婦は、喪服を着てこなかった」
「A男は読経中、トイレに立った」
「A男は、タクシーで墓へ行った」と。
ほかにもささいなミス(?)をとらえて、A男を責めた。
こういうケースのばあい、A氏の姉は強い。
「慣習」という、強力な「後ろ盾」がある。
が、どうして法事は、喪服でなければならないのか?
いつ、だれが、そういう慣習を決めたのか?
さらに言えば、タクシーで墓へ行っては、どうしていけないのか?
A氏の姉は、「(遺骨をかかえて)、歩いて行くべきだった」と。
●慣習
先にも書いたように、慣習は、あれば便利なもの。
どうでもよいことについては、慣習に従えばよい。
さらに言えば、法の世界には、法としての慣習もある。
たとえば「入会権(いりあいけん)」というのがある。
たとえ他人の山林であっても、その山へ入って、薪(たきぎ)類を取ってくるのは、
慣習として認められている。
さらに進んで、「自動車は左側通行」というのもある。
これは他人の安全を考えての慣習が、法制度化されたものである。
「信号を無視して走ってもいい」ということになったら、それこそ交通がマヒしてしまう。
が、それでも私たちは、常に慣習を疑い、慣習と闘う。
それが人間生活に不都合なものであれば、臨機応変に考えて対処する。
あるいはそれと闘う。
よい例が、封建時代の遺物である。
この日本には、江戸時代という封建時代の遺物が、いたるところに残っている。
「家」制度、家督制度、家父長意識、身分制度、職業意識、男女観などなど。
コールバーグの説いた、前慣習的段階の人には、それがわからないかもしれない。
しかし一歩進んで、慣習的段階の人、さらには脱慣習的段階の人には、それがわかる。
それを「道徳の完成度」と結びつけてよいかどうかについては、異論もあろう。
しかしコールバーグは、それを道徳の完成度と結びつけている。
(「道徳」と「Morals」は、かならず一致するものではない。
英語で「Morals」というと、「行動の基準」をいう。
日本語で「道徳」というと、そこにどうしても儒教的なニュアンスを感じてしまう。)
ともあれ、私たちは常に考え、常に行動する。
自ら考え、自ら行動する。
最後にあのマーク・ツウェィンも、こう書き残している。
『人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき』と。
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2002年10月に書いた原稿を添付します。
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●朝に道を聞かば……
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論語といえば、『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』。
それについて以前書いた原稿を添付します。
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『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』
●密度の濃い人生
時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によっては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。
濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけという人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。
そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。
先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じように三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りかランニング。「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。「静かに考えることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれない。
一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あなたをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こう言った。「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう女性は美しい。輝いている。
前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じように繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トーウェン(「トム・ソーヤ」の著者、1835~1910)も、こう書いている。「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。
ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進める。
●どうすればよいのか
ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、今、思い返しても、何も残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜まで、仕事をした。しかし何も残っていない。
それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口300万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私1人だけという時代だった。そんなある日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。「ここでの一日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。決してオーバーなことを書いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう時期というのは、今、振り返っても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということになる。
となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論出せないが、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。
(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。
とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いということにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という内面世界の問題。他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆することもないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そういう生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。
ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02-10-5)
(追記)
もしあなたが今の人生の密度を、2倍にすれば、あなたはほかの人より、2倍の人生を生きることができる。10倍にすれば、10倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生と宣告されても、その密度を100倍にすれば、ほかのひとの100年分を生きることができる。極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはないということ。私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。
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ついでに、儒教のことも書きましたので、
2008年10月に書いた原稿を
添付します。
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●孔子の60代(Confucius on 60’s)
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60代といえば、孔子の生き様が参考に
なる。
孔子(前551~前479)は、魯に仕え、
大司寇となったが、権力者と衝突し、56歳
から10年間、魯を去って諸国を歴遊したという
(ブリタニカ国際大百科事典)。
その10年間で、孔子は諸侯に道徳的政治の
実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の
教育と著述に専念したという(同)。
『春秋』や他の儒家の経典はそのとき生まれたが、
『論語』は、孔子と弟子の言行録と言われている(同)。
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計算すると、孔子は、満73歳前後でこの世を
去ったことになる。
それまでの基礎があったのは当然としても、
今、私たちがいうところの「孔子」は、
ブリタニカ国際大百科事典を参考にすれば、
満66歳前後から73歳前後までに「孔子」に
なったことになる。
ただ釈迦にせよ、キリストにせよ、孔子にせよ、
弟子に恵まれたということ。
弟子たちが、「師」の教えを、後世に残し、伝えた。
もし弟子に恵まれなかったら、釈迦も、キリストも、
孔子も、今に名を残すことはなかった。
それはそれとして、孔子が60歳を過ぎてから
(がんばった)というのは、たいへん興味深い。
言いかえると、「50歳だから……」とか、
「60歳だから……」とか言って、あきらめてはいけない。
……ということを、孔子は私たちに教えている。
が、同じ60歳でも、私と孔子は、どうしてこうまでちがうのか。
ひとつの理由として、中国の春秋時代は、今よりはるかに純粋な時代では
なかったということ。
つまりその分だけ、雑音も少なく、回り道もしなくてすんだ。
それにもうひとつ率直に言えば、当時は、情報量そのものが少なかった。
春秋時代に、人が一生かけて得る情報量は、現代の新聞1日分もなかったのでは
ないか。
言いかえると、私たちは、情報の洪水の中で、何が大切で、何がそうでないか、
それすらも区別できなくなってしまっている。
あるいは大切でないものを大切と思いこみ、大切なものを、大切でないと
思いこむ。
もちろんだからといって、孔子の時代が今よりよかったとは思わない。
釈迦やキリストの時代にしても、そうだ。
しかしここにも書いたように、今よりは、純粋であったことだけは、事実。
たとえて言うなら、子どものような純朴さが、そのまま生きるような時代だった。
このことは、私たちの子ども時代と比べてみても、わかる。
私たちが子どものころには、テレビゲームなど、なかった。
携帯電話もなかった。
しかしだからといって、私たちの子ども時代が、今の子どもたちの時代より
貧弱だったかといえば、だれもそうは思わない。
だから、こと(思想)ということになれば、孔子にはかなわないということになる。
このことは、私たちにもうひとつの教訓を与える。
老後になればなるほど、純朴に生きる。
というのも、私たちは、あまりにも情報、とくに金権教的な情報に毒されすぎている。
人間の命さえも、マネーという尺度で判断してしまう。
そういうものからだけでも解放すれば、ものの見方も、かなり変わってくるはず。
ともあれ、あの時代に、60歳を過ぎてから、「諸侯に道徳的政治の
実行を説いた」というところは、すごい!
さらに「晩年は魯で弟子の教育と著述に専念したという」ところは、
もっとすごい!
だからこそ「孔子は孔子」ということになるのだが、それにしても、すごい!
私たちが頭に描くジジ臭さが、どこにもない。
そういう点で孔子の生き様は、本当に参考になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
孔子 春秋時代 Confucius 論語 はやし浩司 論語)
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
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