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彡彡人ミミ 彡彡彡彡彡
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 4月 5日号
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●公開BW教室(2010年3月5日)
いよいよ私の人生も、秒読み段階。
……というのは、少し大げさに
聞こえるかもしれない。
しかし時間の長い、短いなどというものほど、
あてにならないものはない。
何をもって、「長い」といい、何をもって、
「短い」というのか。
一方、私の教室に対する、偏見も、根強い。
「幼児向けの受験塾」というのが、おおかたの
見方である。
しかし私は、自分の指導の中で、「受験」を
意識したことは、一度もない。
「くだらない」とさえ、思っている。
「受験に合わせて、子どもを作る」という
ことが、「くだらない」と。
で、長い間、私は、口コミだけで、教室を
経営してきた。
ほとんどの生徒は、口コミでだけで、私の
教室へやってきた。
それで何とか、40年近く、生き延びて
きた。
が、先にも書いたように、いよいよ「秒読み
段階」。
仮にあと5年、つづけられるとしても、
私には、たったの5年。
そのことは、自分の過去を振り返ってみれば、
わかる。
現在、私は、62歳。
5年前というと、57歳。
この間の5年間は、あっという間の5年間
だった。
だらかこの先、5年間も、あっという間に
過ぎ去っていくだろう。
「秒読み段階」と書いても、けっして
おおげさな感じがしない。
そのこともあって、つまりこれが私の
本音だが、こうして私の教室の一部を、
こうして公開することにした。
もともとは、アメリカに住む孫たちのため
と考えて、ビデオに収めた。
しかし肝心の孫たちは、ほとんど見ていない(?)。
「見ている」という連絡は、まったく聞いて
いない。
(残念!)
ということで、いつの間にか、「公開教室」と
いうことになってしまった。
役にたつかどうかは知らないが、親たちが
自分の子育てで利用してくれれば、うれしい。
たぶん、それを見る子どもたちも、
喜んでくれるだろう。
そして同時に、あの誤解も、解けるはず。
「受験塾」という誤解である。
私は受験に合わせて、生徒を指導して
いるのではない。
自分の指導の中で、子どもたちに向かって、
「受験」という言葉を使ったことは、
この40年間で、一度もない。
またそういう指導ではない。
……とまあ、かっこづけは、これくらいにして、
昨日のレッスンを、そのまま紹介する。
さらに興味をもってくださる方は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
より、(BW公開教室)へと進んでほしい。
この1年間をかけて、幼児教室のほうを、
ほとんどすべてを収録した。
(あるいは検索エンジンを使って、
「はやし浩司」を検索してほしい。
たいていのページの最上段に、「TOPへ」と
いうナビゲーション・ボタンが用意してある。
そこから私のメイン・HPへ、来てもらえる。)
で、数日前、YZさんという方から、
小学1年以上のクラスも公開してほしいと
いう、メールをもらった。
しかし小学1年生以上は、むずかしい。
「学習性」が強く、(でき・ふでき)が、
そのままわかってしまう。
つまりプライバシーの問題がからんでくる。
だから一部しか、公開できない。
(ごめんなさい、YZさん!)
●形・箱
今週(2010年、3月の1週目)は、
形と箱というテーマで学習をした。
現在、年少児から年長児までを、
指導させてもらっている。
基本的には、同じ教材を使ったが、
できるだけ毎回、子どもたちの様子、
能力に合わせて、切り口を変えている。
お子さんの年齢、能力に合わせて、
YOUTUBEを選んで、見てほしい。
とくにこの3月期は、この1年間、
私の教室で学んできた子どもたちである。
その「成果?」を、見てほしい。
当初は、引っ込み思案で、モジモジ
していた子どもでも、1年後には、
しっかりと自己主張できるようになる。
またそういう子どもにするのが、
私の目的でもある。
まず言いたいことを言い、したいことを
する。
それが子どもの基本。
その子どもの中から、子どもの方向性を
導いていく。
それが私の教え方。
「教育」ということを考えるなら、ほんの
一部かもしれないが、方向性を作ることで、
子どもの将来に、大きな影響を与える。
何度も繰り返すが、(できる・できない)
ではない。
(楽しんだか・どうか)である。
英語の格言にも、
「Happy Learners learn Best」というのがある。
「楽しく学ぶ子は、よく学ぶ」と訳している。
それが大切。
重要。
あとは子ども自身がもつ力で、伸びてくれる。
++++++++++++++++++
●3月1週目(年長児・満6歳児)のレッスン風景より。
小学校への入学が近いため、たぶんにそれを意識した
レッスンになっています。
(1~5に分けてあります。)
【1】
【2】
【3】
【4】
【5】
【1~5・HP版】
http://www.youtube.com/watch?v=-zJYNzf2q8o
http://www.youtube.com/watch?v=27lqqHHv1N8
http://www.youtube.com/watch?v=akCxGJ3836E
http://www.youtube.com/watch?v=eP2-G43tKDM
http://www.youtube.com/watch?v=VL3UiOmvnoM
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●信仰のもつ愚鈍性(Blindness of Religion)
++++++++++++++++++
1人の韓国系アメリカ人が、神への
信仰を信じ(?)、単独で豆満江(中国と
K国の国境を流れる川)を渡った。
「話せばわかるはず」式の手紙をもって、
である。
そのアメリカ人が、43日目に解放された。
で、解放直後には、「北朝鮮は人権を守った。
信仰の自由が保障された」などと発言していた。
K国の朝鮮中央通信の報道なので、そのまま
信ずるわけにはいかない。
……と考えていたら、韓国の朝鮮N報が、
こんな記事を配信した。
それをそのまま紹介させてもらう。
この記事を読んで、いろいろ考えさせられた。
*************以下、朝鮮N報より***************
北朝鮮による43日間の抑留から解放された韓国系米国人の人権運動家、ロバート・パク
さん(韓国名パク・ドンフン)が、北朝鮮で受けた拷問の後遺症で精神病院に入院した。
パクさんが師としているジョン・ベンソン牧師は4日、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)
放送のインタビューに対し、「(パクさんは)恐怖に直面したような不安症状を見せており、
会話時にも呼吸が乱れるほど落ち着かない状況だ。両親や知人が先月27日にカリフォル
ニア州内の病院に入院させた」と語った。
韓国でパクさんと共に北朝鮮の人権運動を繰り広げてきた市民団体「パックス・コリア
ナ」のチョ・ソンレ代表も入院の事実を認めた上で、「平壌に護送された後、口に出せない
ような性的な拷問を受けた。パクさんは北朝鮮について、ナチスドイツよりも悪らつな政
権だと話している」と語った。
パクさんは昨年12月25日、金正日(キム・ジョンイル)総書記に人権問題の改善を
求めるために、中朝国境の豆満江を渡り逮捕され、先月6日に解放された。
パクさんは釈放直前、北朝鮮の朝鮮中央通信とのインタビューで、「北朝鮮は人権を守っ
た。信仰の自由が保障された」と答えている。北朝鮮消息筋は「パクさんは北朝鮮入りし
た後、北朝鮮の警備兵に『半殺し』状態にされたと聞いている」と語った。
ベンソン牧師はVOA放送に対し、パクさんは心的外傷後ストレス障害(PTSD)によ
る不安症状で意思疎通が容易にできない状況だ説明した。(朝鮮N報・3月6日)
*************以上、朝鮮N報より***************
●「?」
当初、いさましいいでたちで、豆満江を渡るパク氏の姿を、写真で見たとき、
そこにどこか狂信的なものすら、私は感じた。
パク氏は、金xxと直談判で、人権問題を話し合うというようなことを口に
していた。
だから私は、「?」マークを、何十個も並べたあと、「そんな甘い政権では
ないのだがなあ」と思った。
アメリカから見るK国と、日本のように、近くの国から見るK国は、かなり
ちがう。
その(ちがい)は、豆満江を渡る前のパク氏と、解放されてからのパク氏を
見ればわかる。
豆満江を渡る前のパク氏は、やる気満々の、はつらつとして好青年といった
感じだった。
が、解放されたニュースサイトに載ったパク氏は、どれも目を閉じたまま。
明らかに心が壊れているといった感じだった。
●神の教え
おそらくパク氏は、「話せばわかる」式の希望をもっていたにちがいない。
ホワイトハウスへ、手紙をもって乗り込むような心境ではなかったか。
それにどこかのサイトに書いてあったが、パク氏は、「私は神に守られている
からだいじょうぶ」というようなことまで言っていた。
「だから、心配ない」と。
しかし結果は、朝鮮N報が報道しているとおり。
「平壌に護送された後、口に出せないような性的な拷問を受けた。パクさんは北朝鮮につ
いて、ナチスドイツよりも悪らつな政権だと話している」と。
それがどういう拷問であったかは、私にはわからない。
しかし1人の青年が、たった43日間で、まったく別人になってしまったのだから、
相当な拷問だったらしい。
しかしそうした拷問は、あの国を考えるときには、常識。
言い替えると、そういう常識もないまま、パク氏は、K国に渡ったということになる。
私は、この朝鮮N報の記事を読みながら、アメリカの国務次官補のC・ヒル氏や、
現在、対北特使を務めているボズワース氏を、即座に思い浮かべた。
彼らもまた、「話せばわかる式」の幻想にしがみついていた。
が、K国は、そういう国ではない。
そういう甘い国ではない。
そんなことは、ほんの少しでもカルトをかじった人なら、わかるはず。
心理学でもよい。
●勇気ある行動?
もう一度、『金xx総書記に人権問題の改善を求めるために、中朝国境の豆満江を渡り逮
捕され、先月6日に解放された』という部分を読んでみてほしい。
結果が最悪だったから、こういう書き方は、パク氏の親族の人たちには、失礼な言い方
になるかもしれない。
しかしこの現実認識の甘さは、いったいどこから生まれるのか。
もっと端的に言えば、「思い上がりも、はなはだしい」。
熱心な信仰者であることは、私も認める。
しかしそれでもって、つまり自分が神か何かになったつもりで、こうした軽率な行動
に出ること自体、ふつうではない。
ふつうでない部分に、パク氏の勇気ある行動をたたえる前に、そこに狂信性を覚えて
しまう。
ときとして、人は、狂信に走るあまり、ロジカル(論理的)な思考を放棄してしまう。
それが恐ろしい。
たとえば私の家にも、毎月のようにどこかの宗教団体の信者が布教にやってくる。
断っても断っても、やってくる。
そしてたいてい、こう言う。
「私たちはぜったい、正しい」と。
この言葉を裏から読むと、「あなたがたは、まちがっている」となる。
しかしこれほど、失敬な言葉はそうはない。
その失敬さに、彼らは気づいていない。
パク氏にしても、しかり。
●問題はつづく
ともかくもこの事件を通して、改めて、K国という国が、どういう国かがわかった。
ふつうの国ではない。
人心そのものが、すでに破壊されている。
そして一度破壊された「心」というのは、簡単には、もとにはもどらない。
仮に6か国協議が成功し、K国が核兵器を放棄したとする。
そのあと、天文学的数字の援助が、K国になだれこんだとする。
で、それで問題が解決するわけではない。
日本という国にしても、そのあと、そういうK国を相手に、外交を進めなければ
ならない。
しかしそれは想像するだけでも、ぞっとする。
その一端は、現在進行中の、もろもろの南北会議の内容をみてもわかる。
議論そのものが、かみ合わない。
価値観の相違というよりは、その価値観を支える、常識そものが、ちがう。
そしてその常識は、私たち日本人が想像もつかないほど、かけ離れている。
日本は、そういう国を相手に、これから先、どうやってつきあっていけばよいのか。
想像すればするほど、ぞっとする。
●パク氏
パク氏もさることながら、パク氏を送り込んだ、市民団体「パックス・コリアナ」
にも、責任がないとは言わせない。
さらにパク氏が師とあおぐ、ジョン・ベンソン牧師にしてもそうだ。
詳しい関係はわからないので、それ以上のことは書けないが、みな、認識が甘すぎる。
いつだったか、アメリカの政府高官が、K国を評して、「狂った犬」と言ったが、
狂った犬を相手に、人権を説いても、意味はない。
しかもたった、1人で!
この記事を読んだとき、K国の問題もさることながら、一方で、信仰のもつ愚鈍性も
問題とされるべき。
そこらの個人が、熱心に祈ったくらいで、世界が変わるわけがない。
また変わってもらっても、困る。
病気すら、治すことはできないだろう。
こんな話を思い出した。
ポケモンブームが全盛期のころのこと。
1999年ごろのことだった。
1人の中学生が、窓から外に向かって、あやしげな呪文を唱えて祈っていた。
で、私が「何をしているのだ?」と聞くと、その中学生は、こう言った。
「超能力で、あのビルを破壊してみたい」と。
そこで私はこう言った。
「破壊してみたいと思うのは君の勝手だが、破壊されるほうの人たちは、困るよ。
死人だって出るかもしれない」と。
ここでいう「信仰のもつ愚鈍性」というのは、それをいう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 信仰 信仰のもつ愚鈍性 信仰と盲信性 妄信性)
++++++++++++++++
10年近く前に書いた原稿ですが、
そのまま再掲載します。
++++++++++++++++
●寛大と寛容
先日、「愛と寛大」というテーマで、エッセーを書いた。それについて、「林君、それは
寛大ではなく、寛容だよ。寛容という言葉のほうが、適切だよ」と言ってくれた人がいた。
感謝!
なるほど、そのとおり。寛容の結果として、その人は、寛大になる。寛大になるかどう
かは、あくまでもその結果でしかない。
ところで昔、私が子どものこと、私の父は、M会という、ある倫理研究団体に属してい
た。どこか宗教的な倫理団体で、父は、床の間に「天照大神」という掛け軸をかけ、いつ
も何やら、祈っていた。
その掛け軸の横に、もう一つ、やや小ぶりな掛け軸があり、それに、「慈悲寛大」という
言葉が書いてあった。
そのときは、意味がわからなかったが、それで私は、「寛大」という言葉を覚えた。しか
し今から思い出してみると、なかなか的(まと)をついた言葉のように思う。
慈悲と寛大は、たしかにペアになっている。私がいう、「愛と寛容」と、どこもちがわな
い。慈悲は、他者に対する同調性をいう。寛大というのは、他者を自分の中に受けいれる
ことをいう。まさに精神の柱として、何ら、遜色のない言葉である。
……ということは、私は、意識こそしなかったが、父が信じていた言葉を、心のどこか
に残していたということになる。その可能性が、ないとは言えない。私自身は、M会のメ
ンバーになったことはない。会合といっても、私がときどき行ったのは、小学生のころで
ある。ただついて行ったというだけである。
が、心のどこかに残っていた!
「寛容かあ……」と思ったとき、ふと、子どものころ毎日見ていた掛け軸を思い出した。
それでこの原稿を書いた。
慈悲にせよ、愛にせよ、寛大であるにせよ、寛容であるにせよ、すばらしい言葉である
ことには、ちがいない。
もう一つ、その人は、「寛容も、愛の中に含まれるのではないか。分けて考える必要はな
いのではないか」と言った。
私も、実は、そう思う。愛と寛容を並べて考えるか。あるいは寛容も愛に含めて考える
かは、ただ単なる、言葉の遊びのようなもの。ただ、愛と寛容を分けて考えると、より、
その意味がわかりやすくなるということ。そういう意味では、この二つを、分けて考える
ことは、ムダではないように思う。
●信ずることのむずかしさ
「信ずる」という言葉は、相手を疑っているから、口から出てくる言葉。本当に相手を
信じていたら、「信ずる」という言葉など、出てこない。
よい例が、若い恋人どうしの会話。
男「オレを、信じろ」
女「あなたを、信じているわ」と。
たがいに疑っているから、そういう言葉が出てくる。
同じように、今度は、「裏切る」という言葉がある。「信じていたのに、裏切られる」と
いうふうに使う。
しかし本当に信じていたら、裏切るということもないし、裏切られるということもない。
「信じていない」からこそ、裏切られる。もう少しわかりやすい例で、説明してみよう。
たとえばあなたが、夫を信じていたとしよう。あなたは、「私は夫を信じている」と言う。
しかしそのとき、あなたは、本当に、あなたの夫を信じているだろうか。そのとき、あ
なたに多少の迷いや不安があるようなら、あなたは、あなたの夫を信じていないというこ
とになる。
信ずるというこは、そもそもそういう迷いや疑いをもつことなく、全幅に、相手に自分
の心をゆだねることをいう。心の一体性をいう。見かえりを求めない、無償の一体性をい
う。
たとえばあなたの夫の帰宅時刻が、不自然に遅かったとする。このところ何かにつけて、
あなたの夫の行動には、どこかおかしなところがある。
そのとき、心の一体性があれば、あなたは、そもそも、何も疑わない。しかしそこに迷
いや不安が入りこむと、その一体性は、崩れる。そして一気に、「裏切る」という言葉が、
口から出てくる。
しかし無償の一体性があると、そもそも疑うということはない。迷いや不安が入りこむ
ということもない。ひょっとしたら、「浮気をしたければすればいいじゃない。どうせ、熱
病よ。公衆トイレで、小便をするようなものよ」と、夫をのみこむことができるかもしれ
ない。
「信ずる」ということは、そういうことをいう。
またそういう状態では、「裏切る」という言葉など、口から出てこない。
仮に事実として裏切られても、相手を責める前に、自分を責める。
そういう意味でも、「信ずる」ということは、むずかしい。本当にむずかしい。
……という説明でもわからなければ、もっと、わかりやすい例で、説明してみよう。
ある人は、熱心なクリスチャンだった。本当に熱心なクリスチャンだった。日曜日には、
必ず教会へでかけ、そこで礼拝していた。あるいは仏教徒でもよい。法事という法事は、
かかさずすべて、ていねいに実行していた。
が、その人の子どもが、病気になった。そこでその人は、毎日、熱心に神や仏に、祈っ
た。が、その祈りもむなしく、その子どもは、死んでしまった。
本来なら、その人は、その宗教をやめてもよいはず。神や仏に裏切られたということに
なる。しかしその人は、それからもずっと、熱心なクリスチャンのままだった。熱心な、
仏教徒のままだった。
もともと疑っていないから、つまり、信ずることによって、見かえりを求めていなかっ
たから、たとえ子どもが死んでも、(凡人の常識で考えれば、裏切られたということになる
のだが……)、その人は裏切られたとは思わない。つまり、「信ずる」ということは、そう
いうことをいう。
これで「信ずる」ことのむずかしさを、わかってもらえただろうか。「親ずる」ことのも
つ、深い意味を、わかってもらえただろうか。
さて、あなたは夫(妻)を信じているか。あなたの子どもを信じているか。もう一度、
自問してみてほしい。
「信ずる」と、口では簡単に言うことはできる。しかし、その中身は、かぎりなく濃く、
かぎりなく深い。
●何を「信ずる」か?
信ずるといっても、イワシの頭では、困る。
信ずるといっても、その中身が、大切。中身のないものを信じろと言われても、それは
できない。
人間関係も、同じ。
あなたが、妻(夫)に向って、「私を、信じなさい」と言ったとする。しかし言うのは簡
単。が、言われたほうは、困る。いったい、あなたの何を信じればよいのかということに
なる。
信ずるにしても、信じられるにしても、中身がなければならない。人間について言うな
ら、信じるに足りる、人間的な中身がなければならない。その中身のないものどうしが、「信
じて」「信じているよ」と言いあうのは、マンガでしかない。
そこで問題は、あなたには、その中身があるかということ。私には、その中身があるか
ということ。
さらに、どうすれば、その中身ができるかということ。どうすれば、その中身を作るこ
とができるかということ。
実は、これたいへんな作業である。気が遠くなるほど、たいへんな作業である。だから、
ますます、口が重くなる。「信ずる」という言葉が、口から出てこなくなる。
信ずるというのは、その相手との、見かえりを求めない、無償の一体性をいう。もとも
と見かえりを求めていないから、裏切られても、裏切られたという意識すら、生まれない。
「自分がバカだった」で、すますことができる。
しかしそこまで相手を信ずるのは、むずかしい。反対に、そこまで相手に信じられるよ
うになるのも、これまたむずかしい。
だいたいにおいて、あなたは、あなた自身を信じているか。私自身を、信じているか。
自分すらも、信じられないあなたが、「私を信じなさい」と言うのは、おかしい。
友人のR氏(60歳)の話。
30歳くらいのとき、R氏は、当時の価格でも、50万円にも満たないような山林を、
500万円で買わされた。貯金を、すべて、はたいた。
長野県にある美林ということだった。長年、世話になった男ということもあった。間に、
親類の一人が入ったということもある。それでR氏は、その男から、山林を買った。
その山林だが、30年近くたった今も、(木そのものも、30年分、成長したが……)、
売っても、150万円にもならないという。当時の500万円といえば、家が、一軒、建
てられるほどの金額である。
今、150万円というと、駐車場が作れるほどの金額でしかない。R氏は、買って20
年ほどしてから、「だまされた」と知った。
R氏は、当時、つまり山林を買ったとき、その男には、数人の愛人がいることを知って
いた。いつもキンキラキンのローレックス(時計)を腕に巻き、トヨタのC車に乗ってい
たのも、知っていた。
が、どういうわけだか、R氏は、その男を信用してしまった。「Rさん、いつか、この山
の木で、総ヒノキづくりの豪邸を建てなさい」と言われたのを、真に受けてしまった。
しかし自分の妻ですら、平気で裏切るような男である。見栄やメンツだけにこだわるよ
うな男である。一片の哲学もなければ、倫理観もない。今になって思うと、「どうして、あ
んな男を信用したのか」ということになる。
本来なら、R氏は、詐欺罪で訴えてもよいのかもしれないが、山林のばあいは、価格な
ど、あって、ないようなもの。相場を調べないで買った、R氏が、バカだったということ
になる。
R氏は、私にこう言った。
「そう言えば、あの男も、記憶のどこかで、私に、こう言ったことがある。『Rさん、私
を信じて、この山をもっていなさい』と」と。
さて、あなたの夫(妻)は、あなたが信ずるに足りるような人物だろうか。あるいは反
対に、あなたの妻(夫)に信じられるに足りるような人物だろうか。
こうして考えていくと、「信ずる」ということが、ますますむずかしいということがわか
ってくる。
●常識を信ずる
ある宗教を信仰すると、さまざまな特徴が現れてくる。
神秘化、誇大化、妄信化、美化正当化、非現実化、社会逃避性など。さらにカルトとな
ると、組織化、隷属化、上位下達化、信者の愚鈍化、固執化、排他性、閉鎖性などの現象
も現れてくる。
もともとはその人内部の、依存性の問題と考えてよい。しかし本人自身は、決して、そ
うは思っていない。「私は正しい宗教を信仰している」と、思いこんでいる。この思いこみ
こそが、カルトの最大の特徴と考えてよい。
ただ誤解してはいけないのは、宗教があるから、(それがカルトであるにせよ)、信者が
いるのではない。それを求める信者がいるから、宗教があるということ。だからその宗教
がおかしいからといって、その宗教を攻撃しても意味はない。
かえって、それを信じている人たちを、不安にしてしまう。この世界の言葉では、それ
を、「ハシゴをはずす」という。「あなたたちは、まちがっている」と言う以上、そういう
人たちの受け皿を用意しておいてあげねばならない。かわりの思想を、用意しておいてあ
げなければならない。
その受け皿もないまま、「まちがっている」と言うのは、たいへん危険なことでもある。
そういう人たちは、そういう人たちなりに、ハッピーなのである。そっとしておいてあげ
るのも、その外にいる人たちの役目ということになる。
へたにハシゴをはずしてしまうと、その人は、情緒不安から精神不安へと陥ってしまう。
ただその宗教が組織化され、たとえば政治や経済の分野まで影響をおよぼすようなとき
は、話は別である。たとえば政治とからんだ宗教ほど、その宗教が正しいとか正しくない
とかいう判断は別にして、危険なものはない。
それに対しては私たちの良識をフルに働かせて、警戒しなければならない。「政教分離」
という民主政治の大原則も、そこから生まれた。当然のことである。
大切なことは、自分で考える習慣と力を、身につけること。おかしいものは、「おかしい」
と言う勇気をもつこと。そして何よりも大切なことは、自分の常識をみがくこと。きたえ
ること。
ごく自然な人間として、野や山に親しみ、音楽を聞き、絵画を鑑賞しながら、自分の常
識をみがく。ごくふつうの人として、ごくふつうの人とかかわりあいながら、ふつうの生
活をしながら、自分の常識をみがく。
その常識に従って、人間は、過去、数10万年もの間、生きてきた。これからも生きて
いく。それがまちがっていると言うなら、それを言う人がまちがっている。
みんなで、その常識を信じよう。守り、育てよう。
……ということで、少し話が脱線したので、この話はここまで。
【ワイフとの会話】
これについて、ワイフと、こんな会話をした。
私「お前は、ぼくを信じているか?」
ワイフ「考えたことないわ」
私「ぼくなんて、信じちゃ、だめだよ」
ワイフ「それも考えたことはないわ」
私「ぼくが浮気しないと思っているのか?」
ワイフ「あんたと浮気する女性なんて、いないわよ」
私「わからないぞ」
ワイフ「まあ、だれかに相手をしてもらえるなら、してもらいなよ。私は、かまわないわ」
私「やきもちを焼かないのか?」
ワイフ「遊びなら、かまわないわ」
私「本気だったら?」
ワイフ「あのね、相手にも、男を選ぶ権利というものがあるのよ。いくらあなたが本気で
も、相手が本気にならなければ、浮気はできないのよ。それでおしまいよ。どうして、あ
なたは、それがわからないの? 本気で相手にしてもらえると、思っているの?」
私「どうして、ぼくは本気で、相手にしてもらえないの?」
ワイフ「三枚目だからよ。やること、なすこと、日本のミスター・ビーンみたい」
私「ミスター・ビーンだって、もてるぞ」
ワイフ「あなたには、ぜんせん、そのムードがないわ。本当に、あなたは、おめでたい人
よ」と。
いつもワイフと会話をしていると、そういう話になってしまう。高尚な理念も、ワイフ
の頭の中では、ただの雑談。
それにしても、ミスター・ビーンとは……! せめて、チャップリンくらいに考えてほ
しかった。チャップリンは、女性にもてたという話だ。
【補記】
神秘化……過去の人物にかこつけ、その宗教に神秘性をもたせる
誇大化……その宗教が、すべてと信者に思いこませる。
妄信化……絶対的な善であると、信者に妄信させる。
美化正当化……命をかけるに足りる宗教であると、信じこませる。
非現実化……現実遊離、現実逃避の思想を注入する。
社会逃避性……社会的なもの、人間的なもの、ついでに金銭は無意味と教える。
組織化……信仰が個人というワクをはずれ、組織化する。
隷属化……組織の中では、上下関係を明確にし、下位信者は、上位信者に隷属する。
上位下達化……思想、思想は、常に、上層部から、下層部へと一方的に伝えられる。
信者の愚鈍化……その信仰以外のことは考えさせない。
固執化……その信仰を離れたら、バチが当たるとか、不幸になるとか教える。
排他性……自分たちの信仰以外のものは、まちがっていると排斥する。
閉鎖性……外部との接触を、禁止する。
これらの項目にあてはまれば、その宗教は、カルトと考えてよい。信仰といっても、「教
え」によってするもの。しかしその基盤は、人間が人間としてもっている常識である。ど
んな信仰をするにしても、その常識の目を曇らせてはいけない。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●3月5日
今朝は、偏頭痛で目が覚めた。
時計を見ると、午前5時。
昨夜、遅くまでテレビを見ていたのが、悪かった。
そのときすでに軽い頭痛が始まっていた。
軽い風邪と誤解した。
市販の頭痛薬と葛根湯をのんで、そのまま寝た。
が、偏頭痛だった。
で、偏頭痛の薬をのんで、再び、床の中に。
2度目に目を覚ましたら、午前11時!
偏頭痛は消えていたが、どうも気分がすっきりしない。
軽いが、花粉症も始まったようだ。
目を覚ますと同時に、はげしいくしゃみが、たてつづけに、
5、6回。
このところやや体重オーバー。
朝食はとらなかった。
今日は、自宅から教室まで、約7キロを歩くことにした。
偏頭痛のいやなところは、眠っていても、痛いこと。
(これに対して、風邪の頭痛は、眠っているときは、忘れる。)
何かの夢を見ながら、その一方で、ズキンズキンと痛んだ。
●ボットン便所
昨日、小5、6の子どもたちに、ボットン便所の話をした。
が、9人のうち、「ボットン便所」という名前を知っていたのは、たったの1人だけ。
残りの8人は、「知らない」「聞いたことがない」と。
中に1人、どこかの催し物会場によく設置してある、ボックス便所と誤解していた子ども
がいた。
「あれとはちがう」と、私は話した。
で、ボットン便所を知っていた1人の子どもは、こう言った。
「友だちの家のトイレが、そうだった。臭くて、ぼくは鼻をつまんで、小便をした」と。
が、私たちの世代には、水洗トイレは、夢の利器だった。
小さなアパートだったが、そこへ入ったとき、私は生まれてはじめて、水洗トイレなるも
のを自分のものとして、使うことができた。
うれしかった。
どううれしかったかは忘れたが、とにかく、うれしかった。
私「ボットン便所というのはね、うんちをすると、それが下へ落ちて、ボットンという音
がするんだよ。だからボットン便所って言うんだよ」
子「……」と。
かく言う私も、今では、ボットン便所を使うことができなくなった。
今でも、田舎のほうへ行くと、ときどき、ボットン便所のところがある。
そういうところでは、苦労する。
気分が悪くなることもある。
食欲がなくなることもある。
しかし……。
山登りは、登っていくときも楽しいが、下っていくときも楽しい。
しかし文化というのは、下っていくときが苦しい。
つらい。
仮に明日からボットン便所に……ということにでもなったら……。
ギョッ!
パソコンにしても、明日から使えなくなるということにでもなったら、
仕事が手につかなくなるだろう。
代わりの方法をさがせと言われても、おそらく、私には、何もできない。
●宇宙人?
昨日、突然、1人の男が、教室へやってきた。
年齢は30歳くらいか。
「ハヤシ・ヒロシさんですね?」と。
この時期、教室の見学にやってくる人は多い。
私はその1人だと思った。
「どちらさんですか?」と聞くと、いきなり、「あなたは、ロズウェル事件をどう思います
か? その返事を聞いて、うちの子を(この教室に)入れるかどうか、決めたい」と。
ロズウェル事件というのは、1947年にニューメキシコ州で起きた、UFO墜落事件
をいう。
「さあ、知りません」と答えると、その男は、ふたたび、こう言った。
「あなたは、ハヤシ・ヒロシさんですね。あなたは宇宙人ですか?」と。
しかしいきなり、「あなたは宇宙人ですか?」は、ない。
返答に困りながら、私は、「あなたはどちらさんですか?」を繰り返した。
が、私の様子を見て、その男は、「思ったより小さいな(=私のこと)」と言って、その場
を去っていった。
これ以上のことを、ここに書くのは、差し控えたい。
その男は、本当に自分の子どものことを考えて、やってきたのかもしれない。
親には、それぞれの価値観がある。
その価値観に応じて、子どもを育てる。
それについてとやかく言うのは、この世界では、タブー。
●中国の常識(?)
ところでこんな話も聞いた。
中国のどこからか、一組の夫婦がその町にやってきた。
駅前の商店街の一角に、中華料理店を開いた。
開いたというより、閉店状態にあった中華料理店を引き継いだ。
当人たちは、「北京からやってきた」と言ったという。
で、開店までに、いろいろあったらしい。
が、ともかくも、開店した。
しかしそれが近所とのトラブルの始まりだった。
数日もすると、まず隣の洋品店へ、中華料理店の店主が、怒鳴り込んできた。
「お宅は、店のシャッターをおろすことが多いが、ちゃんと開けておいてほしい」と。
そのあたりは、駅前商店街だったが、大半の店は、シャッターをおろしたままになってい
た。
その洋品店も、週に何日しか、店を開かなかった。
中華料理店の店主は、それが気に入らなかったらしい。
さらにその中華料理店の店主は、数軒おいた、理髪店(床屋)にもやってきた。
こう言った。
「お宅へ来る客を、うちの店(=中華料理店)へ回してほしい」と。
閑散とした通りだったが、その理髪店だけは、はやっていた。
これには理髪店の店主も驚いた。
そのとき客も、何人かいた。
それらの人の前で、中華料理店の店主はいきなり土下座したという。
「ここには、たくさんの客が来る。その客をうちの店に回してほしい」と。
中国には中国の常識(?)というものが、あるらしい。
しかしそれは日本の常識ではない。
ときとして、異なった常識が、真正面からぶつかることがある。
私はその話を聞きながら、それを考えた。
●常識
世の中には、いろいろな人がいて、いろいろな常識(?)をもっている。
だからといって、私やあなたがもつ常識が、正しいと考えてはいけない。
私などは、郷里の地元では、非常識な男ということになっている。
親類の四九日の法要や、一周忌に、顔を出さないからだそうだ。
一度は、その中の1人に、こう言われた。
「義理を欠くようなヤツは、人間のクズ」と。
私はその人間のクズということになる。
それが国際的になると、さらに常識の間に、大きな山や谷ができる。
言い換えると、国際的にみると、日本人がもつ常識ほど、あやしげなものはない。
少なくとも、世界の人たちは、そうみている。
これについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。
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