【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●心の傷(トラウマ・Trauma)
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よく親から、「心の傷は消えるものでしょうか」
という質問を受ける。
親自身の傷のこともあるし、子どもの傷のことも
ある。
そういうとき私は、率直に、こう答えるように
している。
「顔についた切り傷のようなもので、消えません。
一生、それこそ死ぬまで残ります。
だから消そうと思わないこと。
仲よくつきあうことだけを考えてください」と。
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●程度と内容
心の傷といっても、程度の問題がある。
内容の問題もある。
それに年齢的な問題もある。
当然のことながら、程度が大きければ大きいほど、また内容が深ければ深いほど、心の傷
は大きくなる。
また乳幼児期ほど、心の傷は大きくなる。
原因としては、家庭騒動、育児拒否、冷淡、無視、暴力、虐待、離婚騒動、夫婦げんか
など。
大きな事件が、原因となることもある。
10年ほど前のことだが、近くの佐鳴湖で、水死体があがった。
女性だったというが、それがどうその小学校の子どもたちに伝わったかは知らない。
しかししばらくの間、その小学校の子どもたちはパニック状態になってしまったという。
佐鳴湖の話をしただけで震えたり、学校へ行けなくなってしまったりした。
ほかに、地震や災害など。
戦争もそのひとつ。
両親が目の前で殺されるのを見たあと、失語症になってしまった女性の話も聞いたことが
ある。
殺されるのを見たのは、10歳前後のこと。
その女性(20歳くらい)は、固く口を閉ざしたまま、一言もしゃべらなくなってしまっ
たという(NHKテレビの報道番組の中で)。
●症状
心の傷による症状は、千差万別。
しかもその直後に出ることもあれば、思春期以後、おとなになってから出ることもある。
直接的な因果関係がわからないケースも多い。
ある女性(30歳くらい)は、体の震えに悩まされていた。
毎晩、寝る前になると、それが出た。
原因はよくわからないが、幼児期の離婚騒動が原因ではないかと、何かのBLOGに書い
ていた。
私にも似たような症状があった。
私のばあいも、長い間、原因はわからなかったが、ある夜のこと。
そのとき私はふとんの中で、ワイフに私の子どものころの話をしていた。
私の父は酒癖が悪く、2、3日に一度の割で、酒を飲んで、家の中で暴れた。
その中でも、父がとくに暴れた夜があった。
私が6歳くらいのときのことだった。
その夜の話をしていたときのこと、同じ症状が私に現れた。
言いようのない不安感に襲われ、体がガタガタと震えだした。
「こわいよう」「こわいよう」と言って、私はワイフに抱きついていった。
それで原因がわかった。
子どものばあい、症状は、まさに千差万別。
神経症、不安神経症、拒否症、恐怖症、夜尿症、夜驚症などなど。
原因を特定するのは、たいへんむずかしい。
深刻なケースとなると、多重人格性をもつこともある。
ある女の子(2歳児)は、母親に強く叱られたあと、1人2役の、独り言を言うように
なってしまった(ある母親からの相談より)。
あるいは祖父にはげしく叱られたのが原因で、その直後から、ニヤニヤと意味のわからな
い笑いを繰り返すようになってしまった子ども(5歳男児)もいる。
●仲よくつきあう
だれしも心の傷のひとつやふたつはもっている。
心の傷のない人はいない。
そういう前提で、この問題は考える。
「消そう」と考えて、消えるものではない。
過去をうらんだところで、これまたしかたない。
だからあとは、うまくつきあう。
まずいのは、そういう心の傷があることに気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
心の傷に振り回されること。
ただ重篤なばあいは、心の病気となることもある。
最近の研究によれば、うつ病の「種」も、そのほとんどが、幼児期の不適切な家庭環境の
中で作られるということまでわかってきた(九州大学)。
そこで大切なことは、まず「私」を知ること。
どういう環境で、どのように育てられたかを知る。
直接的にわからなければ、親類や兄弟の話を聞くのもよい。
あるいは自分の生活習慣やクセから、類推するのもよい。
私のばあい、小学生のころ、学校からまっすぐ家に帰ったことがなかった。
そういうことから、私は自分が、帰宅拒否児であったことを知った。
そういうふうにして、自分を探っていく。
心の傷というのは、正体がわかれば、あとは時間が解決してくれる。
10年とか20年とか、時間はかかるが、時間が解決してくれる。
あとはできるだけその問題には触れないようにし、忘れる。
遠ざかる。
●付記
私たち日本人は、いまだに(子ども)を、(モノ)ととらえる傾向が強い。
未熟で未完成な人間である、と。
そのため子どもの心を安易に考える人が多い。
中には、「子どもの心など、どうにでもなる」、つまり「おとなになってから、いくらでも
作り替えられる」などと、乱暴な考え方をする人もいる。
しかしこうした考え方は、明らかにまちがっている。
つまりそういう原点から、もう一度、この問題を考えなおしてみる。
結論を言えば、乳幼児期の子育ては、それほどまでに慎重でなければならないということ。
心の傷など、なければないで、ないほうがよいに決まっている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 心の傷 トラウマ 子どもの心の傷 子供の心の傷 トラウマ論)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●マターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母性愛欠乏)
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乳幼児期の母子関係の不全。
それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
とくに母子関係の欠如を、「マターナル・デプリベイション」
という。
子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8~10%いる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。
その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。
さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。
もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デプリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。
++++++++++++++++++
●心の葛藤
母子関係に悩み、葛藤している人は多い。
「親子だから……」「母親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないものはな
い。
またそういう前提で、この問題を考えてはいけない。
現在、人知れず、母親との関係に苦しんでいる人は多い。
++++++以下、2チャンネル投稿記事より転載+++++++
●症状(1)
【主訴、症状】自分が無価値、無意味だと思う。
漠然と怖い。
超泣く。所構わず突発的に。
睡眠障害(眠剤入れても3時間で目覚める)
母親が死ぬほど怖いし憎い(毒親で現在距離置き中)
【その他質問、追加事項】
抑うつ(っぽいと言われましたが病名はまだ)、過食嘔吐です。
大学に入るまでずっと抑圧された優等生でいざるをえなくて、それでも母親に否定され続
けた。
反抗期も持てなく、完璧でないと思っている。
結婚したいヒトがいると言ったら、「これ以上親を不幸にするな」と言われ、
そこらへんくらいから将来を考えると不安になる(ネガティブな未来ばかりを想像して)
ようになり 年末に仕事を失敗してから、仕事を拠り所にしていたことだろうことから(カ
ウンセラーの言葉)自分の存在が0になったと思い全く身動きが取れなくなりました。
●症状(2)
【主訴、症状】引き篭もり。対人恐怖症。大声や物音に敏感で、緊張・恐怖・混乱・不安
等を感じます。電話に出たり一人で外出できません。
母親からのモラハラと肉体的暴力、学校での虐め、母親の再婚先での連れ子虐待等から立
ち直れません。フラッシュバックがよく起きます。
常に焦燥感があります。落ち着きや集中力や記憶力がなく頻繁に苛々しやすい。無心で喋
り続ける妙な癖のようなものがある。
「死にたい」というよりも、寧ろ母親が憎くて殺したいと思っています。母親が死ねば解
放されると信じていたりして自分でもマズイと思ってます。
普通の悪夢もありますが、憎い人間を殺す夢を見ることが多いです。
中学生の頃より酷くはないですが、フラッシュバックで気持ちが悪くなり、泣き喚いたり
ヒスっぽい奇声を発することもあります。これはごく稀です。
++++++以上、2チャンネル投稿記事より転載(原文のまま)+++++++
●母子関係の重要性
乳幼児期における母子関係の重要性については、何度も書いてきた。
その子どもの基本は、この時期に構築される。
基本的信頼関係もそのひとつ。
基本的信頼関係は、その後の、その人の人間関係に大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係がしっかりと構築できた子ども(人)は、他人に対
して、心が開くことができる。
そうでない子ども(人)は、心が開けなくなる。
(詳しくは、「はやし浩司 基本的信頼関係」で検索。)
が、それだけではない。この時期をのがすと、人間性そのものが欠落した子どもになる。
インドで見つかった、タマラ、アマラの2人のオオカミ少女を、例にあげるまでもない。
これについても、何度も書いてきた。
(詳しくは、「はやし浩司 野生児」で検索。)
さらに最近の研究によれば、人間にも鳥類に似た、刷り込みがあることがわかってきた。
卵からふ化したあと、すぐ二足歩行する鳥類は、最初に見たもの、耳にしたものを、親と
思いこむ習性がある。
それを刷り込み(インプリンティング)という。
人間にも、同じような刷り込みがあるという。
0歳から生後7か月くらいまでの間の期間をいう。
この期間を、発達心理学の世界では、「敏感期」と呼んでいる。
が、不幸にして不幸な家庭に育った子どもは、こうした一連の母子関係の構築に失敗す
る。
●ホスピタリズム(施設病)
生後直後から、何らかの理由で母親の手元を離れ、施設などで育てられた子どもには、
独特の症状が現れることは、よく知られている。
こうした一連の症候群をまとめて、「ホスピタリズム(施設病)」という。
(ただしこの言葉は、私が幼児教育の世界に入った、40年前にはすでにあった。
施設、たとえば保育園などに入ったからといって、みながみな、施設病になるわけではな
い。
当時と現在とでは、保育に対する考え方も大きく変わり、また乳児への接し方も、変わっ
てきた。
ホスピタリズムについても、そういうことがないよう、細心の注意が払われるようになっ
ている。)
ホスピタリズムの具体的な症状としては、「感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育
の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつきやすい」(長畑正道氏)など。
ほかにも、動作がのろい(緩慢行動)、感情表出が不安定、表情が乏しいなどの症状を示す。
これについては、以前、どこかの学校でもたれたシンポジウム用に書いた原稿があるので、
それを末尾に添付しておく。
マターナル・デプリベイションでも、似たような症状を示す。
が、もっとも警戒すべき症状としては、人間性の喪失。
冒頭にも書いたように、他者との共鳴性の欠落が第一にあげられる。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物
を、虐待したりするようになる。
さらに最近の研究によれば、こうした人間性の獲得にも、「臨界期」があることがわかっ
てきた。
先のオオカミ少女にしても、その後インド政府によって、手厚く保護され、教育をほどこ
されたが、最後まで、人間らしい心を取り戻すことはなかったという
つまり臨界期を過ぎてしまうと、それ以後、(取り返し)が、たいへん難しいということ。
このことからも乳幼児期における母子関係が、いかに重要なものであるかがわかる。
●いじめの問題
このマターナル・デプリベイションとは、直接関係ないかもしれないが、(いじめ)につ
いて、少し書いてみる。
先に、「年齢を重ねるについれて、他人をいじめたり、自分より弱い立場にある人や動物
を、虐待したりするようになる」と書いた。
このことは、たとえば年中児~年長児(4~6歳児)に、ぬいぐるみを見せてみるとわか
る。
心の温もりがじゅうぶん育っている子どもは、そうしたぬいぐるみを見せると、どこかう
っとりとした表情を示す。
全体の7~8割が、そうである。
が、その一方で、ぬいぐるみを見せても反応しないか、反対にキックを入れたりする子ど
ももいる。
(キックするからといって、心の冷たい子どもということには、ならない。誤解のないよ
うに!)
しかしこの時期までに、基本的な母性愛、父性愛の基本形は決まると考えてよい。
この時期に、おだやかでやさしい心をもった子どもは、その後も、そうした温もりを維持
することができる。
もちろんこれだけで、(いじめの問題)がすべて説明できるわけではない。
またこの問題を解決すれば、(いじめの問題)がなくなるわけではない。
しかし(いじめの問題)を考えるときには、こうした問題もあるということを、頭に入れ
ておく必要がある。
その子どもにすべての責任をかぶせるのは、かえって危険なことでもある。
反対に、たとえば極端なケースかもしれないが、溺愛児とか過保護児と呼ばれている子
どもがいる。
このタイプの子どもは、よい意味において、母親の愛情をたっぷりと受けているから、い
つも満足げでおっとりした様子を示す。
人格の核(コア)形成が遅れるというマイナス面はあるが、こと(いじめ)ということに
関していえば、いじめの対象になることはあっても、いじめる側に回ることはまず、ない。
●「私」はどうか?
こうした問題を考えていると、いつも「では、私はどうなのか?」という問題がついて
回る。
「マターナル・デプリベイションという問題があるのは、わかった。では、私はどうな
のか?」と。
この文章を読んでいる人の中にも、心の温かい人もいる。
一方、心の冷たい人もいる。
が、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分でそれを自覚するのは
難しい。
心のやさしい人は、みなもそうだと思いやすい。
反対に心の冷たい人は、みなもそうだと思いやすい。
人は、いつも(自分の心)を基準として、他人をみる。
言い換えると、とくに心の冷たい人は、自分の心の冷たさに気づくことはない。
うすうす感ずることはあっても、いつもどこかでブレーキが働いてしまう。
あるいは上辺だけは、心の温かい人を演ずることもある。
だれかの不幸話を聞いたようなとき、さも同情したかのようなフリをしてみせる。
しかしそれ以上に、相手の心の中に踏み込んでいくことができない……。
そこで「私」を知る。
つまり「私自身は、どうなのか?」と。
私という人間は、心の温かい人間なのか。
それとも心の冷たい人間なのか、と。
そのひとつの基準が、(いじめ)ということになる。
今、善人ぶっているあなただって、ひょっとしたら学生時代、いじめを繰り返していたか
もしれない。
そこにいじめられている人がいても、見て見ぬフリをして、通り過ぎてきたかもしれない。
あるいは、あなたが自身が先頭に立って、いじめを繰り返していたかもしれない。
そういうあなたは、じつはあなたの意思というよりは、あなたの育てられ方に原因があ
って、そうしていただけにすぎないということになる。
……と、短絡的に結びつけて考えることはできないが、その可能性も高いという意味で、
この「マターナル・デプリベイション」の問題を考えてみたらよい。
そこでもう一度、あなた自身に問いただしてみる。
「あなたという人間は、子どものころいつも、(いじめ)とは無縁の世界にいただろうか」、
それとも「いつも(いじめ)の中心にいただろうか」と。
もし(いじめ)の中心にいたとするなら、あなたはかなり心の冷たい人間である可能性
が高い。
さらに言えば、乳幼児期に、不幸にして不幸な家庭環境に育った可能性が高い。
で、その(冷たさ)ゆえに、失っているものも多いはず。
孤独で、みじめで、さみしい毎日を送っているはず。
損か得かということになれば、損に決まっている。
●では、どうするか
心の冷たい人が、温かい人になるということは、ありえるのだろうか。
乳幼児期にできあがった(心)を、おとなになってから、作り替えることは可能なのだろ
うか。
私は、それはたいへんむずかしいと思う。
人格の核(コア)というのは、そういうもの。
本能に近い部分にまで刻み込まれるため、それを訂正したり、修正したりするのは、容易
なことではない。
そうした変化を自分のものにする前に、人生そのものが先に終わってしまってしまうとい
うこともある。
自分を作り変えるとしても、時間がかかる。
10年単位、20年単位の時間がかかる。
が、何よりも難しいのは、そうした自分に気がつくこと。
この問題は、先にも書いたように、脳のCPUの問題がからんでいる。
さらに加齢とともに、(心)は、あなた自身の性格や性質として、定着してしまう。
これを「性格の固定化」と、私は呼んでいる。
そうなると、自分を変えるのは、ますます難しくなる。
では、どうすればよいか。
ひとつの方法として、これは前にも書いたが、「感動する」という方法がある。
「感動する」ことによって、「他者との共鳴性」を育てる。
わかりやすく言えば、相手の心と波長を合わせる。
絵画、音楽、文学、演劇、映画、ドラマ・・・。
何でもよい。
そこに感動するものがあれば、それに感動する。
そういう場を自ら、求めていく。
つまり感動しながら、自分の心のワクを広げていく。
さらに最近の大脳生理学によれば、脳の中の辺縁系にある扁桃核(扁桃体)が、心の温
もりに関しているという説もある。
心のやさしい人は、大脳皮質部からの信号を受けると、扁桃核が、モルヒネ様のホルモン
(エンドロフィン、エンケファリン系)の分泌を促す。
それが心地よい陶酔感を引き起こす。
心の冷たい人は、そういう脳内のメカニズムそのものが、機能しないのかもしれない。
(これは私の推察。)
●まず「私」を知る
が、それとて、まずその前に「私」を知らなければならない。
「私は冷たい人間」ということを、自覚しなければならない。
繰り返すが、この問題は脳のCPUの問題だから、自分でそれに気づくだけでもたいへん。
特別な経験をしないかぎり、不可能とさえ言える。
そのひとつの基準として、先に、(いじめ)を取り上げてみた。
ほかにも、いろいろある。
たとえばホームレスの人が路上で寝ていたする。
冷たい冬の風が、吹き荒れている。
そういう人を見て、心を痛める人がいる。
反対に街のゴミのように思う人もいる。
たとえば近親の中で、事業に失敗した人がいたとする。
そういうとき、何とか援助する方法はないものかと、あれこれ気をもむ人もいる。
反対に、「ザマーミロ」と笑ってすます人もいる。
いろいろな場面を通して、「私」を評価してみたらよい。
「私という人間は、どういう人間なのか」と。
それが好ましい人間性であれば、それでよし。
もしそうでなければ、つぎに「どうしてそういう私になったか」を、考えてみればよい。
「マターナル・デプリベイション」というと、子どもの問題と考えがちである。
しかしこの問題は、その子どもがおとなになってからも、つづく。
つまり(あなた)自身の問題ということになる。
(あなた)も、かつてはその(子ども)だった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
日付は、2008年7月となっています。
古い原稿ですが、そのまま掲載します。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(参考原稿)【自立と自律】(分科会、レジュメ)
●自立と依存
++++++++++++++++
自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。
一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、
相互作用がある。
一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。
たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。
++++++++++++++++
たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。
「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしてい
ます。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。
ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。
M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。
が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えて
はいけない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがち
だが……。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。
これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。
親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依
存性が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。
「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、マ
マ」と自分に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。
あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。
ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い
物など、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。
一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってく
ださい」という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。
だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければなら
ない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はな
い。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。
そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、
親自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。
さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜
文化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。
ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもな
いようだ。
オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。
「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由
のひとつになっている」と。
●自立と自律
自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、
セルフ・コントロールの問題ということになる。
さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつ
の大切なバロメーターにもなっている。
自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。
その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわ
かってきた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができな
くなると言われている。)
さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。
++++++++++++++++
それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。
2002年11月に書いた原稿です。
++++++++++++++++
●教育を通して自分を知る
教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、
私の家には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらって
きた。これをA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か
月くらいしてからもらってきた。これをB犬とする。
まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、
一二年にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛
想はいいが、決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、
すぐ遊びに行ってしまう。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならな
い。見知らぬ人が庭の中に入ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。
一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、
そのまま寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。
おかげで植木鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその
割には、人間には忠実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入っ
てこようものなら、けたたましく吠える。
●人間も犬も同じ
……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言
ったらよいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤
解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ
以後、なかなか変わらないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、
親の冷淡を経験した犬。心に大きなキズを負っている。
一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許
すことを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つ
まり人間を信頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬
は幸福な犬だ。人間の子どもにも同じようなことが言える。
●施設で育てられた子ども
たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子ど
もをいう。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られてい
る。感情の動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりな
どのクセがつきやすい(長畑正道氏)など。
が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合
わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快
活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい
人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。
●施設児的な私
実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、
どうもそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自
分をごまかす。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れ
てしまう。
つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだっ
たと言えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時
代だった。……と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していく
と、自分の姿が見えてくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、
それがわかってくる。私が私であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えている
とき、それはそのまま私自身の問題であることに気づいた。
●まず自分に気づく
読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家
庭不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが
問題ではない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかな
いことだ。たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回さ
れてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたか
ら、あなたの子どもへと伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世
代へと伝播しやすい。
が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆ
がんだ自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることが
できるようになった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」
「仮面をかぶっているぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つま
り子どもを指導しながら、結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。
あなたも一度自分の心の中を旅してみるとよい。
(02-11-7)
● いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、
自分の過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるという
ことではなく、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることであ
る。またこの問題は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは
時間の問題。
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心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。
心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いという
ことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マターナルデプリベイション マターナル・デプリ
ベイション 母子関係 母性愛の欠落 ホスピタリズム 長畑 施設病 人間性の欠落
臨界期 敏感期 刷り込み 保護と依存 子どもの依存性 幼児期前期 自律期 幼児期
後期 自立期Maternal Deprivation 母性欠落 母性欠損)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●バカになる日本人(?)
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書店で「S」という月刊雑誌を立ち読みした。
以前は毎月のように買っていたが、どこか右翼的。
で、今は、立ち読みONLY。
その雑誌が「バカになる日本人」(仮称)という
大見出しで、特集を組んでいた。
小学6年生で、「4+2x5の計算ができないのが、
60%もいる」とか。
(数字は記憶によるものなので、不正確。)
「そんなものだろうな」と思ってみたり、
「実際には、もっとひどいのでは?」と思ってみたり……。
「大学生でも、英検4級が合格できない」という
記事も目にとまった。
しかしこうした現象は、何も今、始まったわけで
はない。
すでに20年以上も前から始まっていた。
「中学1年生で、かけ算の九九ができない子どもが
20%いる」というのが、当時、すでに常識だった。
(九九を暗記していても、九九ができるという
ことにはならない。
「七・三(シチ・サン)?」と、ランダムに聞かれて、
即座に「21」と言えることを、「九九ができる」という。)
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●考えない日本人
日本人は、考えなくなった。
たしかに考えなくなった。
直感的にものをパッパッと言うのは得意。
しかし論理的に、筋道を立てて考えるのが苦手。
きちんとした話し方すらできない日本人も多い。
子どもたちとて、例外ではない。
10年単位で、子どもたちの「質」が、どんどんと変化している。
それが私にも、よくわかる。
いわゆる思考力の低下である。
誤解していけない。
(1)知識があるから、思考力があるということにはならない。
(2)専門知識があるから、思考力があるということにもならない。
ほとんどの親は、「知識が豊富な子ども」イコール、「賢い子ども」と思っている。
……思いこんでいる。
が、これは誤解。
知識は経験や暗記で身につく。
が、(賢さ)は、(考える習慣)で身につく。
その習慣が、子どもたちの生活の中から消えつつある。
雑誌の中には、世界の子どもたちの比較データが載っていた。
それによれば日本の子どもたちは、テレビを見る時間が長く、家で学習する時間が
短いそうだ。
100か国中、下から7、8番目くらい。
(記憶によるものなので、不正確。)
●考える習慣
考えるためには、前提として、(1)静かな環境と、(2)自由な時間が必要である。
そういう環境と時間の中で、ものごとを分析し、つぎに論理として、それを組み立てて
いく。
そのためのひとつの手段として、「書く」という方法がある。
書くことによって、頭の中を整理する。
矛盾に気づいたり、さらに新しい事実に気がついたりする。
書かないで考えるという方法もあるが、私のばあい、すぐ堂々巡りをしてしまう。
同じことを何度も考えるというのは、それ自体が、時間の無駄。
その無駄を省くために、書きながら、ひとつずつに結論をくだしていく。
一度結論をくだしたことについては、2度目は考えない。
つまりこうして前へ、前へと進んでいく。
これには2つの意味が含まれる。
(1)未開の分野に足を踏み入れるという意味。
(2)もう一つは、思索を深くするという意味。
だれもそれまで考えたことのない世界へ、足を踏み入れるというのは、スリリングな
ことでもある。
めったにないことだが、その先にキラリと光る石のようなものを見つけることがある。
私はそれを「宝石」と呼んでいる。
それがあるから、書くことがやめられない。
また当然のことながら、考えれば考えるほど、思索が深くなる。
深いからどうということはないが、深ければ深いほど、視野が広くなる。
といっても、それを自分で実感できるわけではない。
思索の浅い人を見たとき、相対的に、それがよくわかる。
ときには、相手が、サルかそれに近い動物に見えることもある。
それは優越感というよりは、高い山に登ったような爽快感に似ている。
視野が広いから、相手の考えていることが、手に取るようによくわかる。
が、それだけではない。
●思索
思索を深くすることによって、同時に、人生の密度を濃くすることができる。
与えられた時間は同じでも、使い方によって、それを2倍、3倍にすることができる。
もちろん、反対に、使い方によっては、2分の1、3分の1にしてしまうこともある。
仮に私の寿命が、あと16年(平均寿命まで16年!)であるとしても、その
16年を、2倍の32年にすることも、3倍の48年にすることもできる。
たった一度しかない(命)なら、できるだけ長く生きた方が得!
みなの知らない世界を見たり知ったりすることができる。
それは実に楽しいことでもある。
楽しいことではあるが、同時に、恐ろしいこともでもある。
ときに、眼前に無限につづく荒野を見たようなとき、思わず身震いすることもある。
当然のことながら、この世界は、私の知っていることより、知らないことのほうが、
はるかに多い。
話は少しちがうかもしれないが、いつだったか、恩師のTK先生が、こう話してくれたの
を覚えている。
「自然界では、何十万という分子量をもった物質が、いとも簡単に、複製、合成されて
います。
どうしてそういうことができるか、不思議でなりません」と。
光合成の話になったときのことである。
TK先生はTK先生の立場で、身震いするような場面を、多く経験したにちがいない。
ここでいう「恐ろしいこと」というのは、それをいう。
知れば知るほど、自分が無力であることを、思い知らされる。
●考える人間に……
基本的には、日本の教育は、システムとして、考える子どもを育てるようにはなって
いない。
冒頭にも書いたように、直感的にものを言う子どもは多い。
知識の豊富な子どもも多い。
もの知りで、ペラペラとよくしゃべる。
しかし中身が、ない。
薄っぺらい。
私はよく冗談まじりに、「今の学校は、Y本興業の、タレント養成学校のよう」と言う。
お笑いタレントを専門に育てる、あの学校である。
もちろん冗談だが、できあがってくる子どもたちを見ると、そんな感じがする。
またそういう子どもほど、この日本では、(よくできる子)と評される。
そこでたとえば欧米では、「ライブラリー」の時間を、たいへん重要視している。
ほかの教科は、学士号をもっていれば、教壇に立てる。
しかしライブラリーの授業だけは、修士号をもっていないと、立てない。
週1回の指導だが、教師がその子どもに合った本を選び、読ませ、レポートを書かせる。
私の息子の嫁の母親が、その仕事をしている。
社会科の授業にしても、教師がテーマだけを与え、それぞれの子どもに、ちがった
研究をさせる。
「あなたは1年をかけて、トラファルガーの戦いについて調べなさい」と。
こうした教育のちがいというか、土壌のちがいが、そののち、ちがった人間を作る。
日本の教育も、このあたりで本腰を入れて考えなおさないと、それこそほんとうに
大変なことになる。
日本は、ほんとうにこのままダメなってしまう。
TK先生も、いつもそう言っている。
(補記)
「まなぶ」は、「まねぶ」が転じた意味で、「まねる」の意味からきている。
また「学ぶ」は、「學」という文字からきていて、(かんむり)の部分は、両手で
音符を包んでいることを示す。
そのことからもわかるように、「しぐさをまねる」ことを、「学ぶ」という
(以上、参考「心理学とはなんだろうか」(新曜社))。
日本の教育は、総本山における小僧教育にルーツを置く。
その「まねる」から脱却する。
自分で考える子どもを育てる。
それがこれからの日本の教育の目指す方向とういうことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 日本の教育 バカになる子どもたち 考える子ども 思索 知識と思
考)
Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司
●「あと1年」vs「1年もある!」
+++++++++++++++++
昨夜、『愛のそよ風(Breeze)』という
DVDを見た。
クリント・イーストウッドが監督した、
第一作目の映画ということだった。
が、私は最初の20分程度で、ギブアップ。
そのまま書斎へ。
星は、1つの★。
が、ワイフは、最後まで見た。
内容は、70歳近い男性と、10代後半の
若い女性の恋愛映画。
あとでワイフがそう話してくれた。
その中で、男のほうがこう言った。
「(結婚生活といっても)、1年くらいしか、
もたない」と。
それに答えて、若い女性は、「1年も!」と。
そう言って、驚く。
同じ「1年」を、老人のほうは、「1年しかない」と
考える。
若い女性は、「1年も」と考える。
ワイフから聞いた話なので、こまかい点では
まちがっているかもしれない。
しかしその話を聞いて、私はドキッとした。
私はいつも、こう言っている。
「平均寿命まで、あと16年しかない」と。
しかしこの発想そのものが、うしろ向き。
ジジ臭い。
それに気づいた!
+++++++++++++++++++
●同じ「16年」
小学生たちに、「16年」という年数を言うと、たぶん彼らは、「長い」と
感ずるだろう。
そうした感覚を、私は知ることはできないが、自分の過去をさぐることによって、
推察することはできる。
私も20代のころ、50歳とか60歳とかいう人たちが、自分にはありえない、
遠い未来の人間に見えた。
小学生のころは、20代の先生ですら、自分たちとは無縁の(おとな)に見えた。
だからたとえば私が今、小学生たちに、「ぼくの残りの人生は16年」とでも言ったら、
彼らはこう答えるにちがいない。
「16年も!」と。
私には「16年しかない」16年だが、子どもたちには、「16年もある」16年
ということになる。
こうしたものの見方のちがいは、どこから生まれるのか。
●死の影
ひとつには、「死の影」がある。
「平均寿命まで16年」といっても、運がよければという前提条件がつく。
運が悪ければ、明日にでも大病を言い渡されるかもしれない。
言うなれば、これからの16年は、ハラハラしながら過ごす16年ということになる。
一方、子どもたちの16年には、それがない。
「死ぬ」ということとは、無縁の世界で生きている。
子どもたちにとっての「16年」は、丸々「16年」ということになる。
が、もうひとつ、おおきな理由がある。
●クロック数
このことは前にも書いたが、コンピュータの世界には、「クロック数」という
言葉がある。
1秒あたり、何回演算を繰り返すかというのが、クロック数ということになる。
現在私が使っているパソコンは、3GHz前後。
1秒間に、1MHzで、100万回。
その3000倍だから……、30億回……?
(「ギガ」は、もともとはギリシャ語で、「巨人」を表す。
10億倍のことを、「ギガ」とう。)
1秒間に30億回!
改めて驚く。
そのクロック数だが、子どものもつクロック数と、おとなのもつクロック数は、
明らかにちがう。
もちろん子どものほうが、速い。
たとえば年長児(5~6歳児)にしても、私たちおとなより、数倍は、速い。
言い替えると、おとなにとっての1年は、子どもたちにとっては、数年ということになる。
●密度
結局は、「密度」の問題ということになる。
その密度がちがう。
だから同じ1年でも、老人のほうは、「1年しかない」と考える。
若い女性は、「1年も」と考える。
そこで私は考え方を改めることにした。
すぐ改められるかどうかについては、自信がない。
ないが、しかしジジ臭い考え方はやめた。
これからは「16年しかない」という言い方はやめる。
「16年もある」という言い方にする。
前向きに生きるというのは、そういうことをいう。
そう、16年もあれば、かなりのことができる。
私という人間を、一度、20歳前後に置いてみればよい。
あのころの10年は、今よりはるかに長かった。
それを思い出せばよい。
……というようなことを、ワイフの話を聞いて、考えた。
さらに……。
運がよければ、その16年で終わるわけではない。
20年かもしれないし、30年かもしれない。
いや、「運がよければ」という言い方そのものも、ジジ臭い。
うしろ向き。
健康にしても、向こうからやってくるものではない。
自分で作るもの。
人生を長くするかどうかは、努力によって決まる。
「運」で決まるものではない。
ハハハ。
……ということで、今朝は、新しい人生観をひとつ、ゲット!
気分は、よい。
そうそう今朝、恩師のTK先生からメールが入っていた。
奥さんの命日供養のため、となりの磐田市まで来るとか。
午後に、会いにいってくる。
ほぼ1年ぶり。
「これが最後かもしれない」と、先生は言っている。
が、そういう発想そのものが、ジジ臭い。
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