2010年4月30日金曜日

*Moral Education in Japan

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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   30日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●もしあのとき……(子どもの道徳教育について)

++++++++++++++++++++

子どもに道徳を教えることはできるのか。
現在、教育の世界では、「子どもに論語を」という
声が高まりつつある。
しかしどうして今、論語なのか。
またそれでもって、そうして道徳教育なのか。

論語についてはたびたび書いてきたので、
ここでは「道徳とは何か」について、
その基本的な部分を書いてみたい。
ひとつの例として、たまたま今夜、ワイフと
あの阪神・淡路大震災が話題になったので、
そのあたりから、書き出してみる。
少し回りくどいエッセーになると思うが、
許してほしい。

++++++++++++++++++++

●阪神・淡路大震災

1995年1月17日、午前5時46分、
あの「阪神・淡路大地震」が起きた。
死者6400人あまり。
負傷者4万4000人弱の、大惨事となった。

一説によると、自衛隊がもっと早く出動
していれば、これほどの大惨事にはならなかった
とも言われている。
というより、実際には、法整備の不備もあり、
自衛隊は、出動できなかった。

(一部の、近くの自衛隊は、「近傍派遣」という
ことで、地震直後に、活動を開始している。
他の部隊は、知事の要請を待ちながら、待機
状態にあったという。
現在は、知事レベルだけではなく、市町村長または、
警察署長などからも要請が行えるようになっている。)

加えていくつかの連絡ミスが重なった。
当時の兵庫県知事のK氏は、「情報が正しく伝えられ
てこなかった」というようなことを、あとになって
述べている。

結局、自衛隊の派遣要請は、4時間後になされた。
それも偶然電話がつながった、兵庫県消防交通安全課
課長補佐(当時)の機転によるものだったという。
(以上参考、ウィキペディア百科事典)

●道徳論

 ここであの大地震について書くつもりはない。
しかしもし、あのとき、私が所轄地域の自衛隊司令官だったら、どうしただろうか。
私でなく、あなたでもよい。
当時は、知事の要請がなければ、自衛隊は、救援活動に出動できなかった(自衛隊法第8
3条1項)。

【想定】
(1)あなたは、自衛隊の司令官である。
(2)ある地域で大地震が起き、かなりの被害が出ているという内部報告を受けた。
(3)ただちに出動したいが、知事とは連絡が取れない。
(4)首相と連絡を取ろうとしたが、それも取れない。
(5)ジリジリと時間だけが過ぎていく。
(6)被害の模様は刻一刻と、テレビなどで報道されている。

 こういうとき、あなただったら、どうするだろうか。

●エスの人vs超自我の人(フロイト)

 ここでいくつかの意見に分かれる。
まず頭に浮かんだのが、フロイト。
フロイトの「パーソナリティ論」。

(1)法律は法律だから、いくら大惨事であっても、司令官は法を守るべき。
(2)国家的な大惨事だから、自衛隊は独自の判断で行動すべき。
ほかにもいろいろな意見が考えられる。

 以前、「エスの人vs超自我の人」というタイトルで、こんな原稿を書いたことがある。
人間の「パーソナリティ」を考える、ひとつの見方について書いてみた。
少し話が脱線するが、許してほしい。

+++++++++++++++++

●ショッピングセンターのカート

 たとえばショッピングセンター。1人の女性が、カートに荷物を載せて自分の車のとこ
ろにやってきた。そして荷物を、車に載せ終わると、カートを、駐車場の壁に押しつける
ようにして、そこに残した。残したまま、自分の車で、立ち去った。

 本来なら、カートは、カート置き場に戻さなければならない。またそんなところにカー
トを置いたら、つぎに駐車した人が困るはず。

 そういう情景を見たりすると、私は、ふと、こう思う。「こういう女性なら、チャンスが
あれば、浮気でも不倫でも、何でもするだろうな」と。
理由がある。

 人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。『一事が万事』と考えてよい。
AならAという場面では、小ズルく振る舞い、BならBという場面では、誠実に振る舞う
ということはできない。小ズルイ人は、万事に小ズルく、誠実な人は、万事に誠実である。

 つまりショッピングセンターのカートを、そのように平気で、そのあたりに置くことが
できる人というのは、そのレベルの人と考えてよい。フロイトという学者は、そのレベル
に応じて、「自我の人」「超自我の人」「エスの人」と、人を分けて考えたが、超自我の人は、
どこまでいっても超自我の人であり、エスの人は、どこまでいっても、エスの人である。

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の
人、(3)エスの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あな
たとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっ
ては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう
割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の
人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちも
ないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、
何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするの
が男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

●一事が万事

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に、ある程度のハバをもって、同居する。
完全に超自我の人はいない。いつもいつもエスの人もいない。しかしそのハバが、ちがう。
超自我の人でも、ハメをはずことはあっても、その範囲で、ハメをはずす。しかしエスの
人は、いくらがんばっても、超自我の状態を長くつづけることはできない。

 だから「超自我の人」「エスの人」と断定的に区別するのではなく、「超自我の強い人」「エ
スの強い人」と区別するのが正しい。

 それはともかくも、これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけ
て食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲
んでしまいました」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していい
ことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝
動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイ
ト人生を送っているという。

●原因は幼児期

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの人」
ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我
の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。
もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、
かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールす
るしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人
にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの
人を、「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大
切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談
も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、
Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれ
ないが、私には、どうしてよいか、わからない。

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1) 横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2) 駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3) 電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4) ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5) サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)~(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトが
いうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れ
ている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あ
なたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もし
それがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

++++++++++++++++++++

話を戻す。
「県知事の派遣要請があるまで待つ」のがよいのか、それとも、
「県知事の派遣要請を無視して、出動する」のがよいのか。
あなたなら、どうするだろうか。

が、フロイトのパーソナリティ論だけでは、判断できない。
「派遣要請がないから待つ」というのは、どこかカタブツ的。
だからといって、超自我の人、つまり人格が高邁とは、言えない。

反対に「派遣要請がなくても出動する」からといって、その人がエスの人、つまり欲望に
支配された人とは私は思わない。
この問題を考えるときは、もうひとつ別の尺度が必要ではないか。

そこでコールバーグ。

++++++++++++++++++++

●コールバーグの道徳論

 コールバーグもフロイトの影響を強く受けた人と考えてよい。
(心理学者で、影響を受けなかった人はいないが……。)
で、話を戻す。
こうした問題、つまり「人間としての選択」の問題を考えるときに、まっさきに思い浮か
ぶのが、コールバーグということになる。
彼の「道徳論」については、たびたび取り上げてきた。

 選択の仕方によって、コールバーグは、

(1)結果主義者(賞罰によって、判断する。)
(2)相対主義者(そのつど相手の立場で考える。)
(3)動機主義者(動機のよしあしで決める。)
(4)社会秩序派(社会秩序を重んじる。)
(5)超法律主義者(法よりも、正義を重んじる。)
(6)普遍的価値派(普遍的な価値を基準にしてものを考える。)
の6段階に分けた。
(参考:無藤隆著、「心理学とは何だろうか」)

 大震災を前にしたあなたの判断を、この6段階に当てはめてみる。

(1)結果主義者(あとで罰せられるから、出動しない。)
(2)相対主義者(直接的な自分への被害でないから、様子を見て判断する。)
(3)動機主義者(自衛隊は、国防のためのもの。災害救助は、消防庁がすべき。)
(4)社会秩序派(知事もしくは首相の判断に任せる。)
(5)超法律主義者(知事からの要請がなくても、出動する。)
(6)普遍的価値派(人を救うという観点から出動する。責任はすべて自分で取る。)

 かなり荒っぽく当てはめてみたから、細部では無理があるかもしれない。
しかしコールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で、その人の道徳的な完成度を計る目安にしている。
それによれば、少なくとも(1)よりは、(6)のように判断した人のほうが、道徳的な完
成度が高いということになる。

●私なら……

 さてあなたの判断は、どうだっただろうか。
「ケースバイケースで考える」という人もいるかもしれない。
あるいは「あのときは、あれでしかたなかった」と考える人もいるかもしれない。
「連絡不通」という、いくつかの不運が重なった。

 で、私はこう考える。

 ……といっても、それをここに書いても意味はない。
(あなたは(あなた)。
(私)は(私)。

 ただ今でもときどきワイフと、この問題が会話のテーマになることがある。
今夜もそうだった。
「お前ならどうする?」「あなたならどうする?」と。

 私のばあいは、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をしてきた。
そのため、法を守ることは重要と考えるが、必要であれば、法を破ることも、これまた許
されると考える。
また破ったところで、ほとんど罪悪感はない。
それで責任を取らされて、司令官をクビになったところで、一向にかまわない。
地位や肩書きには、ほとんど興味がない。
ないから、一向にかまわない。
が、ここにも書いたように、これは私が、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をして
きたことによる。
つまりこうした問題には、その人の生き様が集約される。

 たぶん自衛隊員として長年、そういう職業をしてきた人なら、私とはちがった考え方を
するだろう。
またしたところで、その司令官を責めることはできない。
「知事からの出動要請がないから、待機する」と、がんばるかもしれない。

++++++++++++++++++

どうもよくわからない。
今夜は、思考がうまくまとまらない。
道徳とは何か?
頭の中で同じテーマがクルクルと回ってしまう。

そこで「善と悪」。
それについて書いてみたいが、しかいこのテーマも、
それこそ腐るほど、書いてきた。

その中の1つを、再掲載してみる。

++++++++++++++++++

善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。
善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないと
いうことらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの
努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをす
るのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということに
なる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、
たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思
い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そうい
ったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所
に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守
る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、
そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないよう
な問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時
間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無
限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理とい
うことになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間にな
る方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どち
らを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問
題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていく
と、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

++++++++++++++++++

フ~~ン、まだよくわからない。
道徳、つまりそれぞれの人がもつ倫理規範とは、
何なのか。
またそれは教育になじむものなのか。

++++++++++++++++++

●道徳論

 こうして考えてみると、「道徳」というのも、つまるところその人の日々の生活の中で、
作られていくものということがわかる。
つまり明らかに個性をもっている。
それぞれによって、基準も異なる。
(絶対的に正しい)とか、(絶対的にまちがっている)とか、そういうふうに決めつけて考
えることはできない。
またそういうものではない。

 で、コールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるかに
よって、道徳の完成度をみるが、それとて相対的な見方にすぎない。
だから子どもに道徳を教えるとしても、「正解・不正解」という判断は、基本的な部分で、おか
しいということになる。
それぞれがそれぞれの道徳観をもち、それぞれの考え方をする。

 もし(教える)ということになれば、より、公正な見方、より普遍的な見方を、子どもに示し
ていくことでしかない。
教えて教えられるものではない。
いわんや(きれいごと)だけを並べる子どもを育てるためでもない。
もちろん「善」を教えたからといって、その子どもが善人になるわけではない。

●道徳教育

 これが私の結論ということではないが、こと教育ということになれば、私は道徳教育は不要と
いうことになる。
道徳教育によって(教えられる部分)よりも、道徳教育によって(人間性が統制される部分)の
ほうが大きいばあいには、なおさらである。
たとえば戦前には、「修身」という科目があった。
明鏡国語辞典には、こうある。

「(1)身をおさめて正しい行いをするように努めること。
(2)旧学制下の小・中学校で、教育勅語をよりどころに道徳教育を授けた教科名。
◇昭和20(1945)年廃止。現在の「道徳」に当たる」と。

 そういう危険な側面もある。

 と、同時に、「道徳」というのは、先にも書いたように、「個性」がある。
一元的な道徳を押しつけることによって、その個性をつぶしてしまうことにもなりかねない。

 どうもうまく原稿をまとめられない。
このつづきは、また明日にでも考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 道徳 道徳教育 コールバーグ エスの人 超自我の人 道徳の完成論 
道徳完成度 はやし浩司 道徳の完成度 修身 教育勅語 倫理規範)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【心の部屋論】(道徳完成論)2009年6月の原稿より

++++++++++++++++++

人間の心には、いくつかの部屋がある。
言うなれば、どこかの大学のようなもの。
事務室もあれば、講義室もある。
講義室にしても、大講堂もあれば、研究室もある。
研究室といっても、ひとつではない。
哲学を研究する研究室もあれば、化学を研究する
化学室もある。
もちろん教会もあれば、博物館もある。
サッカー場もあれば、パチンコ店もある。
それぞれが有機的につながりながら、独自の
活動をしている。

たとえば今、私は、私の心の中の心理学の
研究室にいる。
「脳みそ」を大学に例えるなら、その総合的な
機能を研究するのが、心理学の研究室である。
この研究室からは、大学全体を見渡せる。
近くには政治学部があり、その向こうには
美術学部がある。

こうした大学は、人によって大きさも、構成の
しかたも、みなちがう。
中には、コンピュータ研究室が特異に大きな
大学に住んでいる人もいるだろう。
あるいは音楽学部が特異に大きな大学に住んでいる
人もいるだろう。
私はそれぞれの学部や研究室で、ときに教授に
なりながら、またときに、学生になりながら、
そのときどきを過ごす。

が、こわいのは、つまり私たちがもっとも警戒
しなければならないのは、心の闇の部分に相当
する、地下室である。
外からは見えないが、そこには、ありとあらゆる
ゴミがたまっている。
ゴミといっても、邪悪なゴミだ。
ウソ、インチキ、ごまかし、嫉妬、怒り、不満、
ウラミ、などなど。

私たちは日常的にゴミを出しながら、それを
捨てた段階で、そのゴミのことを忘れる。
(……意図的に忘れる。)
しかしゴミは確実にたまり、やがて大学の運営
そのものに、影響を与えるようになる。

あのユングという学者は、それを「シャドウ」と
いう言葉を使って説明した。

大切なことは、ゴミを作るとしても、最小限に!
できればゴミを出さない。
日々に、明るく、朗らかに、かつさわやかに……、
ということになる。
さあ、今日も一日、始まった。
今朝はたっぷり熟睡して、今は、午前7時35分。
今の私は大学の学長だ。
まずいくつかの学部を訪れてみる。
とりあえずすぐ隣の心理学部では、「心の広さ」に
ついて研究しているようだ。
そこをのぞいてみる。
みなさん、おはようございます!
5月21日、木曜日!

+++++++++++++++++++++

●心の広さ

「心の広さ」を知るときは、反対に心の狭い人をみればよい。
俗にいう、「心に余裕のない人」である。
私はこのことを、母の介護をしているときに、知った。
同じ親の介護をしながら、明るく、ほがらかに、かつさわやかに
介護している人もいれば、反対に、暗く、つらそうに、かつ
グチばかり並べてしている人もいる。

「老人臭がする」
「町内会に出られなくなった」
「内職の仕事ができなくなった」
「コンロの火がつけっぱなしだった」
「廊下で、母が便をした」などなど。

このタイプの人のグチには、「では、どうればいいのか?」という部分がない。
ないまま、いつまでも同じグチを繰り返す。
ネチネチとグチを繰り返す。
私なら、……実際、そうしてきたが、老人臭が気になれば、換気扇をつければよい。
町内会など、出なければならないものではない。
みな、事情を話せば、わかってくれる。
内職の仕事にしても(やりくり)の問題。

老人が家にいるからといって、できなくなるということはない。
コンロの火が心配なら、自動消火装置つきのコンロにすればよい。
廊下で便など、子どもの便と思えばよい。
私の息子たちはみな、こたつの中で便をしていたぞ!
要は、心の広さの問題ということになる。

●道徳の完成度

心の広さを、お金(マネー)にたとえるのも、少し気が引ける。
しかし似ている。
たとえばふところに、10万円もあれば、どこのレストランへ行っても、安心して
料理を楽しむことができる。
が、それが1000円とか2000円だったりすると、とたんに不安になる。
では、心の広さのばあいは、どうか。
どうすれば、心の余裕を作ることができるか。
心を広くすることができるか。

ひとつのヒントとして、コールバーグが説いた「道徳の完成度」というのがある。
つまり、道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたもの
であるか、その2点で判断される、と。

(1)いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分が
その立場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動
できるかどうかで、その人の道徳的完成度は決まる。
(2)いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点と
するなら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、
その人の道徳的完成度は決まる。

心が広い人イコール、道徳の完成度の高い人ということにはならない。
しかし道徳の完成度の高い人イコール、心の広い人と考えてよいのでは?
異論、反論もあろうかと思うが、その分だけ、そのときどきの(縁)に翻弄(ほんろう)
されるというこが少なくなる。

心理学的には、自己管理能力の高い人ということになる。
大脳生理学的には、前頭連合野の活動が、すぐれている人ということになる。
そういうものが総合されて、その人の心の広さを決定する。
が、何よりも大切なことは、運命を受け入れて生きるということ。

●運命論

どんな人にも、まただれにも、無数の糸がからんでいる。
生い立ちの糸、家族の糸、社会の糸、能力の糸、人間関係の糸、健康の糸、
性質の糸、、性格の糸、環境の糸などなど……。
そういった糸が無数にからんできて、ときとして私やあなたは、自分の意図する
のとは別の方向に、足を踏み入れてしまうことがある。
いや、そのときはそれに気がつかない。
あとで振り返り、そのうしろの足跡を見て、それに気づく。
運命というのがあるとすれば、運命というのは、そういうもの。
その運命を心のどこかで感じ、そしてそれが抵抗しても意味のないものと
知ったら、運命は受け入れる。
すなおに受け入れる。
そのわかりやすさが、私やあなたの心を広くする。
私も母の介護をするようになって、はじめてその運命のもつ力というか、
ものすごさを知った。

ふつうの母と子の関係なら、それほど苦しまなかったかもしれない。
しかし私のばあい、そうではなかった。
だからこそ、苦しんだ。
が、母が、私の家にやってきたとき、それは一変した。
下痢で汚れた母の尻を拭いてやっているとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、
ウソのように消えた。
そこに立っているのは、どこまでもか弱い、そしてどこまでもあわれな、1人の
老婆にすぎなかった。
体の大きさも、小学生ほどになっていた。
それを知った、その瞬間、私は運命を受け入れた。
そう、運命というのは、そういうもの。
それに逆らえば、運命は、キバをむいて、私やあなたに襲いかかってくる。
しかし一度それを受け入れてしまえば、運命は、シッポを巻いて、向こうから逃げていく。

●生きる醍醐味

「生きる醍醐味は何か?」と問われれば、この心の部屋論にたどりつく。
大豪邸に住み、ぜいたくな生活をするのが、醍醐味ということではない。
(もちろんそういう人の心は、狭いということではない。誤解のないように!)
しかしいくらボロ家に住んで、つつましやかな生活をしていても、
心の部屋まで狭くしてしまってはいけない。
こんな例が参考になるかどうかは、わからないが、最近も、こんなことがあった。

私たち夫婦は、今年、H社のハイブリッド・カーを購入するつもりでいた。
何度もショールームに足を運んだ。
T社のハイブリッド・カーも魅力的だった。
何でも燃費が、リッターあたり、38キロ!
驚異的な数字である。
迷ったが、地元の会社であるT車のハイブリッド・カーに決めた。……決めていた。
で、その時期をねらっていたら、三男が結婚して、車がほしいと言い出した。
給料はかなり安いらしい。
しかも電車を乗り継いで通勤できるようなところではないらしい。
そこで私たちは、ギブアップ。
そのお金を三男に回した。

今しばらく、T社のビッツに乗りつづけることにした。
T社の車の中では、最安値の車である。
が、ビッツに乗っていても、卑下感は、まったくない。
大型高級車を見たりすると、ホ~~ッとため息をつくことはあるが、そこまで。
けっして負け惜しみではない。

私たち夫婦は、いつもこう言っている。
「車はビッツでも、肉体はベンツ」と。
そういうこともあって、このところ毎日、2人で、10キロは歩くようにしている。
プラス、ワイフは、週2回のテニスクラブ。
私は週4~5単位のサイクリング。
(1単位=40分の運動量をいう。)
つまりこれが心の余裕ということになる。

さて、ここで究極の選択。
「肉体はビッツで車はベンツ、あるいは肉体はベンツで車はビッツ。
あなたはどちらを選ぶか?」

あるいは、
「豪華な生活をしながら心は4畳半、あるいは4畳半に住みながら、心は
大豪邸。あなたはどちらを選ぶか?」でもよい。

もっとも私のばあい、本音を言えば、大豪邸に住んで、心も大豪邸。
できれば超大型のベンツにも乗りたい。
そういう人も、知人の中には、いないわけではない。
まっ、がんばろう。
ここはがんばるしかない。
隣の心理学部を出て……。
その横には銭湯がある。
これから朝風呂を浴びてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
コールバーグ 道徳の完成度 道徳完成度 はやし浩司 道徳の完成度 完成論 
はやし浩司 心の部屋論 運命論 無数の糸)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※ 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「Nothing(無)」論

++++++++++++++++++

今朝、パソコンを開くと、TK先生から
メールが届いていた。
先生について書いたときには、かならず、
その原稿を、先生に届けるようにしている。
これは暗黙の、つまり紳士協定のような
もの。
で、TK先生からの、その返事。

++++++++++++++++++++++++++++

林様: 大変に長い文書をよく書けますね。何か分かったような分からないような
nothing の問題について。それだけでも感心しています。

毎日英国のケンブリッジのSir John Thomas さんが書いてくれるという私の話はと
ても楽しみになっている一方で、Berlin の Haber Institute の創立百年祭が来年に
大きくあるというのでH子も一緒に行こうよと言ってくれていますが。亡父が創立時
の研究職員に抜擢されているだけに、向こうでも今更ながら私を大事に注目していま
すので、思いがけない親孝行でした。当時新設でも世界一の研究所でしたから。アイ
ンシュタインの他ノーベル賞が幾人もいましたし。昔の輝かしい歴史を大幅に宣伝す
るらしいです。「空気からパンを作って」人類の危機を救ったハーバーの偉業に亡父
が大変に貢献したというので。 私のホームページにあるハ―バーの話を書いてくれ
という依頼も国内できています。もう消えていい時期なのですが。長生きしていると
思いがけないことがあります。貴方も貴重な人生ですからくれぐれもご自愛の上お
元気に過ごして下さい。素晴らしい奥さんによろしく。

TK

++++++++++++++++++++++++++++++

●科学vs哲学

 科学は「命」を救い、哲学は「魂」を救う。
科学と哲学のちがいを一言で言えば、そういうことになる。
が、どちらが優位性をもつかと言えば、当然、哲学ということになる。
(たぶん、TK先生は、猛反発するだろうが……。)

 人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしで、数億年という長い年月を生き延びてきた。
哲学という「形」があったわけではないが、(生きるための常識)が、生命を支えた。
鳥は水にもぐらない。
魚は陸にあがらない。
そんなことをすれば、死んでしまうことを、知っていたからだ。

哲学は、その(生きるための常識)が、昇華したもの。
言い替えると、人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしでも生きていかれる。
しかし哲学なしでは、生きていかれない。
が、相互に補完関係がないわけではない。

 哲学のない科学は、ときに人間の生存に脅威をもたらす。
原子爆弾や化学兵器にその例をみる。
一方、科学性のない哲学は、ときとして、人間を誤った方向に導く。
狂信的なカルト教団にその例をみる。

●「だからどうなの?」

 私たちは、常に、「だからどうなの?」を問いかけながら、生きる。
それが哲学ということになる。

 一方、科学は、「なぜ?」を繰り返す。
あのアインシュタインも、「問いつづけることが重要」と書き残している。
が、そこに落とし穴がある。
TK先生もいつか言っていたが、そのためどうしても視野が狭くなる。
「中には、こんな研究をして、何になるのかと思われるようなのもある」と。
ひとつの例として、中国南部の民族楽器の研究をあげてくれた。
ときとして科学者は、細分の、そのまた細分化された世界で、自分の立場を権威づけよう
とする。

 つまり視野が狭くなる分だけ、外の世界が見えなくなる。
先生が書いた、ハーバー博士にしても、空中窒素固定法で、「空気からパン」を作った。
が、その一方で、第一次大戦中は、毒ガスの研究にも手を染め、毒ガス戦の一線に立って
しまった。
もしそのときハーバーが、「だからどうなの?」と一言でも、自分に問いかけていたら、毒
ガスの研究には、手を染めなかっただろう。

 やがてハーバーは、ユダヤ人であることにより、ドイツを追われる。
しかしアウシュビッツで使用されたチクロンBは、そのハーバーによって開発されたもの
である。

●「Nothing」論

 仏教でも、「一切皆空」(後述)を、その根本理念としている。
それから約2000年を経て、実存主義を私たちに教えた、あのサルトルも、最後は「無
の概念」という言葉を使って、「無」を説いた。

 TK先生が言う、「Nothing」というのは、「ナンセンス」という意味である。
つまり私を痛烈に批判している。
一読すると、私をほめているようにも見えるが、本当は、心底、私をバカにしている。
が、ちょっと待ってほしい。
私には、そういうTK先生が、ありがたい。
今の私に、そこまで面と向かってものを言ってくれる人は、いない。
言われた私は、何も怒っていない。
こういう言い方を、たがいにしあいながら、すでに40年になる。
(40年だぞ!)

 反対にTK先生の周囲には、私のように、TK先生を批判する人はいない。
……できない。
だからこのところ、TK先生を、いつも怒らせてばかりいる。

 話を戻す。

 この「Nothing」という言葉だが、むしろそこに、真理のすべてが凝縮されてい
る。
「だからどうしたの?」と問いつづけると、そのいきつくところが、「Nothing」と
いうことになる。
私が言っているのではない。
あの老荘思想に始まり、西田幾多郎へとつづく。
西田幾多郎は、東洋的な無の概念から、「絶対無」という言葉を使って、「無」を論理化、
体系化させている。

●死の克服

 人は裸で生まれて、裸で生きて、そして裸で死ぬ。
その間のプロセスは、「無」。
いかに無であるかによって、魂の解放が完成される。
あのサルトルも、「死は不条理なり」という言葉を、一度は、使った。
「自由刑」という言葉も使った。
そして「いくらがんばっても、死がある以上、人間には真の自由はない」と、一度は、説
いた。
(このあたりは、学生時代に学んだ記憶なので、不正確。)

 しかし最後は、「無の概念」という言葉を使って、サルトルは、死を克服する。
私には、それが何であるか、今のところまだよくわからない。
あえて言えば、仏教的な「空」の概念に通ずるものではないか。
「一切皆空」……「色即是空(しきそくぜくう)」ともいう。
仏教では、すべてのもの、それは自己、他者、万物を問わず、すべてのものは、実体のな
い空であると説く。

 私たちがなぜ「死」を恐れるかと言えば、そこに「私」があるからである。
私の財産、私の家族、私の名誉、私の地位などなど。
しかしその「私」から、「私」を取り去ってしまう。
残るのは、「裸の私」ということになる。
が、こうなってしまうと、もうこわいものはない。
失うものがないのだから、何も恐れる必要はない。
あとはただひたすら、自分を燃焼させて生きていく。
(その日)が来たら、「ああそうですか」と言って、この世を去っていけばよい。
それが結局は、「真の自由」ということになる。

 久々に、「Nothing」について考えてみた。
このつづきは、またの機会にしたい。
今朝は、昼からの仕事の説明会の準備をしなければならない。
私とTK先生の、おおきなちがいは、ここにある。

 ともかくも、私は死ぬまで、金銭を稼がねばならない。
年金など、まったくアテにしていない。……ならない。
がんばろう!
がんばります!

2010年3月27日

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 無 無の概念 一切皆苦 色即是空 西田幾多郎 絶対無 はやし浩
司 Nothing)


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