2010年4月30日金曜日

*Idle Mind

●怠けた心

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今夜は、仕事が終わるのが9時半ごろ。
それはそれとして、今夜は、ワイフが、
仕事を手伝いに来てくれる。
そのため、家に帰るには、2つの方法が
ある。

(1) いつものように自転車で帰る。
(2) ワイフの車で、ワイフといっしょに
帰る。

4月もあと少しというのに、外はまだ肌寒い。
風は弱まったとはいえ、向かい風。
ワイフと自動車に乗って帰れば、楽。
しかし健康のためには、自転車のほうがよい。
こういうとき、私はどう判断したらよいのか。
どう行動したらよいのか。

++++++++++++++++++

●怠け者

 人間は、基本的には、怠け者。
できるだけ体を動かさずに、楽にしたい。
心のどこかで、いつもそう願っている。
もし私の肉体が、肉体自身の健康を考えるなら、肉体は何らかの形で、
脳に、「運動したい」という信号を伝えるはず。
このところやや(1~2キロ)、体重もオーバーぎみ。
が、どういうわけか脳のほうは、「自動車に乗って帰ろう」という方向に、
私を導きつつある。
肉体の側からの働きかけは、まったくない。
考えてみれば、これはおかしなことだ。

●無駄な運動?

 もし人間が基本的に怠け者なら、ヒト(人類)は、とっくの昔に絶滅していたはず。
が、今にいたるまで、20数万年を生き延びてきたということは、それなりの健康
管理を自分でしてきたということになる。
運動もそのひとつだが、原始のヒトたちは、生きるために体を動かしていた。
運動のための運動ということは、しなかった。
そのことは、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればわかる。
彼らの動きは、すべて、(生きること)と直結している。
無駄な(?)運動はしない。

 が、人間の生活は便利になった。
私などは、一日の大半を、座って過ごす。
私の仕事は、そういうもの。
となると、(運動不足)→(不健康)の悪循環に陥りやすい。
が、それを判断するのは、肉体のほうではなく、脳のほうである。
肉体のほうは、むしろ「休め」「休め」と、私に命令している。

●肉体

 が、これはおかしい。
冒頭の話に戻るが、肉体にしてみれば、自身の健康を考えるなら、自転車で
帰るほうがよいに決まっている。
よいに決まっているが、それについては沈黙を守っている。

 たとえばエネルギーが不足してくれば、血糖値がさがり、それを視床下部にある
センサーが感知して、空腹感を引き起こす。
睡眠不足のときも、そうだ。
病気になったときも、そうだ。
しかしこと運動不足については、そういうセンサーが働かない。
エネルギー不足のときは、「腹が減った!」という意思を、脳に伝える。
が、運動不足については、それがない。
「運動したい!」という意思は、生まれてこない。
むしろ、「楽をしたい」と。

●矛盾

 つまり(肉体の状態)と(脳の反応)が、矛盾している。
本来なら運動不足を感知した肉体が、「運動したい」という意思を、脳に
伝えてもよいはず。
あるいは運動することによる快感を、引き起こさせてもよいはず。
が、そういう反応は、どこからも起きてこない。
で、ここでもし私が肉体の誘惑に負けたとしたら、明日は、もっと太ってしまうはず。
体の調子も悪くなるはず。

 一方、今夜家に帰るとき、ひと汗かけば、明日の朝は、爽快な気分で迎えられるはず。
もっともそれを知っているのは、肉体のほうではなく、脳のほう。

●命令

 そこで私の脳は、肉体に、あえて(「あえて」だ)、命令をくだす。
「今夜は自転車で帰れ!」と。
が、肉体のほうは、それにすなおに従うわけではない。
どこか躊躇している。
「できれば、車に乗って帰りたい」と。
これはどうしたことか?

 基本的には、やや疲れぎみということもある。
今日も、けっこう、忙しかった。
それに年齢的にも、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
つまり(怠け心)の正体は、実は、「寿命」と関係があるのではないかということになる。
話が少し飛躍したので、わかりにくいかもしれない。
つまり肉体は、すでに死に向かいつつある。
そのため、「怠けろ」「怠けろ」と、私に命令している。
またそういった意識が、DNAそのものの中に、組み込まれているのかもしれない。

 「怠けろ」「不健康になれ」「死ね」と。
しかしそう考えると、先にあげた「矛盾」が、説明できる。

●健康論

 私は決定した。
今夜はどんなことがあっても、自転車に乗って帰る。
このまま怠けた心の言いなりになっていたら、私はそのまま「死」に向かって
まっしぐら。
・ ・・というほど、大げさな問題ではないかもしれないが、日々の積み重ねが、
その人の健康を決める。
寿命を決める。

 が、ひとつだけ、誤解しないでほしい。

 運動というのは、それを始めるときには、いつも(つらさ)が伴う。
しかしひとたび始めてしまうと、私のばあい自転車にまたがったとたん、言いようのない
解放感を覚える。

 帰り道の途中には、ゆるい上り坂があって、その坂を上りきると、今度は、長い
下り坂になる。
その峠の部分までは苦しいが、下り坂を下っていくときの爽快感は、何とも言えない。
私はスキーをしたことはないが、スキーで、白銀の世界を突っ切っていくときは、
こんなものだろうなと、よく想像する。

 また汗をかき、家に帰って扇風機の前に立ったときもそうだ。
つまり肉体自身は怠け者だが、そうした爽快感を、肉体はよく知っている。
だから強くは抵抗しない。
「怠け心」というのは、そういうもの。
「がんばれるものなら、がんばってみな」と。

●センサー

 やがて人間もさらに進化すれば、脳の中に、こんなセンサーができるように
なるかもしれない。

「運動不足だから、運動せよ」と。
もっとも(命令)では、人間の肉体は動かない。
そこでエネルギー不足のときと同じように、空腹感に似たものを引き起こす。
それに応じて、脳のほうは、つぎの行動を決定する。
「自転車に乗って、運動せよ」と。
さらに進化すれば、「脚力をつけろ」「背筋力をつけろ」と、そうなるかもしれない。

 が、今はまだそういうセンサーはない。
ないから、どうしても脳のほうからの命令がないと、肉体は動かない。
動こうとしない。
つまりは、これも脳の自己管理能力の問題ということになる。

 私のばあい、まだその自己管理能力が、健在ということか。
この能力が衰退したら、私は楽なことばかりを願うようになる。
不健康になる。
「死」に向かう。
そのとき寿命が尽きる。


Hiroshi Hayashi++++++May.2010++++++はやし浩司

●4月29日(昭和の日)(改)

●歩き方

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毎朝、起きると同時に、ウォーキングマシンで、
運動をする。
それが1日の始まり。
が、今朝は、とりあえず、10分だけ。
気分があまりよくない。

そのウォーキングマシンを使うようになってから、
1年あまり。
「人の歩行」に興味をもつようになった。

若い人はともかくも、50代、60代の人に
ついては、歩き方を見ると、その人の
健康度を、おおよそ知ることができる。

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●ウォーキングマシン

 歩き方にも、いろいろある。
いろいろあることを、ウォーキングマシンを使うようになってから、知った。
専門用語は知らないので、自分流の(用語)を使う。

 まず、私のようにO脚ぎみの人は、足の裏の外側(小指からかかとにかけての外側)
から地面に足をつける。
そのため、歩くとき、ペッタン、ペッタン・・・というような音がする。

 そこで歩き方を変える。
足の裏の内側(親指からかかとにかけての内側)から地面に足をつける。
とたんにスタスタ・・・という感じになる。

 つぎに大切なのは、大またで歩くこと。
大またで歩こうとすると、ウォーキングマシンの性質として、さらに足を後方へ、
ぐいぐいと引っ張ってくれる。
床が電動で回転している。
それが相乗効果となって、ますます大またで歩くようになる。

 で、こうして自分の歩き方を矯正しながら、20分も歩いていると、
背中の下部から上部にかけて、ジワーッと、血が上ってくるのがわかる。
東洋医学では「気」という。
それが首筋あたりまで、上ってくるのがわかる。
同時に、ぼんやりとした頭がすっきりしてくる。

 最後は軽くジョギング風に早足で歩いて、すます。
が、このときも、つま先で走るようにする。
ひざをできるだけ高くもちあげて走るようにする。
これを1~2分するだけで、とたんにウォーキングが、有酸素運動に変わる。
ハーハーとあえぐようになる。
少し暖かい日だと、汗が上半身ににじみ出てくる。

●老人の歩き方

 で、私はこの半年ほど、通りで歩いている人を見かけると、その人を観察するように
なった。

 まず若くて健康な人だが、そういう人は、つま先を使って、ひざを高くあげて
歩いているのが、わかる。
反対に老人になればなるほど、足のかかとのほうを使って、足を引きずるように
して歩いているのが、わかる。
ひざもあがらない。

 さらに何らかの脳の病気をかかえている人は、それぞれ独特の歩き方をする。
たとえばP病の人は、足がもつれるような歩き方をする。
前かがみになって、小またで歩く。
脳梗塞の人は、片方の足を、腰の回転をうまく使って、前へ差し出すようにして歩く、
などなど。
腰痛もちの人は、腰痛をかばうような歩き方をするし、骨に異常のある人は、腰を
曲げて歩く。
またひざに故障がある人は、脚そのものが、外側に大きく歪曲する。
ヨタヨタした歩き方になる。

 だから……というわけでもないが、私はひとつの健康法を編み出した。
その第一。
大またで、足をまっすぐ前に差し出して歩く。
足をまっすぐ伸ばして歩くことも、大切。
あとはつま先をよく使い、軽くかかとをあげながら、歩く。
(つま先で歩いていると、アキレス腱の上部のふくらはぎがあとで痛むこともあるが、
それはよい徴候とみる。)
さらにひざを高くあげながら、歩く。
また私のようにO脚気味の人は、足の内側から地面につけるようにし、左右のひざを
できるだけ近づけて歩くとよい。

 ……以上のことを、日常的に心がける。
それがウォーキングマシンを使って学んだ、歩き方の健康法ということになる。
なお、近く、乗馬マシンというのも買うつもり。
ときどき近くのショッピングセンターで試乗させてもらっている。
あれはたしかに腰の運動になる。
それを昨日、自分なりに確認した。

 老化は、腰とひざからやってくる。
腰やひざが痛くなってからでは、遅い。
まだ健康なうちから、予防に心がる。

●不気味な足音

 昨日、ギリシアの国家経済が破綻した。
つづいてポルトガル、アイスランドもあぶない。
EU全体も、大きくぐらついている。
しかし忘れてならないのは、この日本もあぶないということ。
「2011年度の予算は成り立たなくなるのでは?」と危惧されている。
この日本は、国家税収(40兆円前後)の大半(38兆円前後)を、公務員の人件費に
投入している。
そのほかの必要経費は、すべて借金。
「国債」という借金で、まかなっている。
こんなメチャメチャな財政運営をしている国は、そうはない。

 が、もし国債が売れなくなったら……つまりお金を貸してくれる人がいなく
なったら、日本は、そのとたん、破産。
予算そのものが、成り立たなくなる。

 それを避けるためには、内需を拡大して、日本経済を活性化させる。
簡単に言えば、みながもっているタンス預金を引き出して、それを市中へ流す。
が、あらゆる指標が、悪いほうへ、悪いほうへと向っている。
日本の国際的格付けも、そのつど、下方修正されている。

 中国のバブル経済もひどいが、韓国のバブル経済も、ひどい。
日本も今、ミニバブルから中型バブルへと向っている。
つまり世界中の国々が、お金をバラまいている。
が、こんなことをつづけていたら、それこそ、世界は、おしまい。
いつか……といっても、その時期はすぐそこまで迫ってきているが、世界経済は、
まとめて破綻する。
世界中の札束が、紙くずと化す。

 どうしたらよいのだろう……?

要するに、個人資産は、私たち個人が守るしかない。
方法については、ここには書けないが、大衆に迎合し、いっしょになって
ザザーッ、ザザーッと動いていたら、そのまま奈落の底に。
08年末のリーマンショックで、金融資産を、100分の1程度にしてしまった
人さえいる。
その人は、1億円の金融資産を、100万円にしてしまった!

 こわいぞ!
今度の嵐は!
中国のバブル経済がはじけたら、ドバイショックの1000倍の威力があるとか
(某経済誌)。
「1000倍」と言われてもピンとこないが、そのあと世界は、未曾有の大恐慌へ
と突入する。
(2010・4・29記)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

*Moral Education in Japan

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●もしあのとき……(子どもの道徳教育について)

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子どもに道徳を教えることはできるのか。
現在、教育の世界では、「子どもに論語を」という
声が高まりつつある。
しかしどうして今、論語なのか。
またそれでもって、そうして道徳教育なのか。

論語についてはたびたび書いてきたので、
ここでは「道徳とは何か」について、
その基本的な部分を書いてみたい。
ひとつの例として、たまたま今夜、ワイフと
あの阪神・淡路大震災が話題になったので、
そのあたりから、書き出してみる。
少し回りくどいエッセーになると思うが、
許してほしい。

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●阪神・淡路大震災

1995年1月17日、午前5時46分、
あの「阪神・淡路大地震」が起きた。
死者6400人あまり。
負傷者4万4000人弱の、大惨事となった。

一説によると、自衛隊がもっと早く出動
していれば、これほどの大惨事にはならなかった
とも言われている。
というより、実際には、法整備の不備もあり、
自衛隊は、出動できなかった。

(一部の、近くの自衛隊は、「近傍派遣」という
ことで、地震直後に、活動を開始している。
他の部隊は、知事の要請を待ちながら、待機
状態にあったという。
現在は、知事レベルだけではなく、市町村長または、
警察署長などからも要請が行えるようになっている。)

加えていくつかの連絡ミスが重なった。
当時の兵庫県知事のK氏は、「情報が正しく伝えられ
てこなかった」というようなことを、あとになって
述べている。

結局、自衛隊の派遣要請は、4時間後になされた。
それも偶然電話がつながった、兵庫県消防交通安全課
課長補佐(当時)の機転によるものだったという。
(以上参考、ウィキペディア百科事典)

●道徳論

 ここであの大地震について書くつもりはない。
しかしもし、あのとき、私が所轄地域の自衛隊司令官だったら、どうしただろうか。
私でなく、あなたでもよい。
当時は、知事の要請がなければ、自衛隊は、救援活動に出動できなかった(自衛隊法第8
3条1項)。

【想定】
(1)あなたは、自衛隊の司令官である。
(2)ある地域で大地震が起き、かなりの被害が出ているという内部報告を受けた。
(3)ただちに出動したいが、知事とは連絡が取れない。
(4)首相と連絡を取ろうとしたが、それも取れない。
(5)ジリジリと時間だけが過ぎていく。
(6)被害の模様は刻一刻と、テレビなどで報道されている。

 こういうとき、あなただったら、どうするだろうか。

●エスの人vs超自我の人(フロイト)

 ここでいくつかの意見に分かれる。
まず頭に浮かんだのが、フロイト。
フロイトの「パーソナリティ論」。

(1)法律は法律だから、いくら大惨事であっても、司令官は法を守るべき。
(2)国家的な大惨事だから、自衛隊は独自の判断で行動すべき。
ほかにもいろいろな意見が考えられる。

 以前、「エスの人vs超自我の人」というタイトルで、こんな原稿を書いたことがある。
人間の「パーソナリティ」を考える、ひとつの見方について書いてみた。
少し話が脱線するが、許してほしい。

+++++++++++++++++

●ショッピングセンターのカート

 たとえばショッピングセンター。1人の女性が、カートに荷物を載せて自分の車のとこ
ろにやってきた。そして荷物を、車に載せ終わると、カートを、駐車場の壁に押しつける
ようにして、そこに残した。残したまま、自分の車で、立ち去った。

 本来なら、カートは、カート置き場に戻さなければならない。またそんなところにカー
トを置いたら、つぎに駐車した人が困るはず。

 そういう情景を見たりすると、私は、ふと、こう思う。「こういう女性なら、チャンスが
あれば、浮気でも不倫でも、何でもするだろうな」と。
理由がある。

 人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。『一事が万事』と考えてよい。
AならAという場面では、小ズルく振る舞い、BならBという場面では、誠実に振る舞う
ということはできない。小ズルイ人は、万事に小ズルく、誠実な人は、万事に誠実である。

 つまりショッピングセンターのカートを、そのように平気で、そのあたりに置くことが
できる人というのは、そのレベルの人と考えてよい。フロイトという学者は、そのレベル
に応じて、「自我の人」「超自我の人」「エスの人」と、人を分けて考えたが、超自我の人は、
どこまでいっても超自我の人であり、エスの人は、どこまでいっても、エスの人である。

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の
人、(3)エスの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あな
たとのセックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっ
ては、セックスは、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう
割り切って、その場を楽しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の
人生をけがすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちも
ないわけではない。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、
何度か浮気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするの
が男」と考えて、その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

●一事が万事

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に、ある程度のハバをもって、同居する。
完全に超自我の人はいない。いつもいつもエスの人もいない。しかしそのハバが、ちがう。
超自我の人でも、ハメをはずことはあっても、その範囲で、ハメをはずす。しかしエスの
人は、いくらがんばっても、超自我の状態を長くつづけることはできない。

 だから「超自我の人」「エスの人」と断定的に区別するのではなく、「超自我の強い人」「エ
スの強い人」と区別するのが正しい。

 それはともかくも、これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけ
て食べてしまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲
んでしまいました」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していい
ことと悪いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝
動的。その場だけを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイ
ト人生を送っているという。

●原因は幼児期

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの人」
ということになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我
の確立が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。
もう少し専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、
かかっている。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールす
るしかない。外の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人
にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの
人を、「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大
切なのは、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談
も言いあう。しかし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、
Fさんの相談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれ
ないが、私には、どうしてよいか、わからない。

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1) 横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2) 駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3) 電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4) ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5) サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)~(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトが
いうところの「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れ
ている人とみる。つまりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あ
なたの夫か、妻なら、そもそも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もし
それがあなたなら、あなたがこれから進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

++++++++++++++++++++

話を戻す。
「県知事の派遣要請があるまで待つ」のがよいのか、それとも、
「県知事の派遣要請を無視して、出動する」のがよいのか。
あなたなら、どうするだろうか。

が、フロイトのパーソナリティ論だけでは、判断できない。
「派遣要請がないから待つ」というのは、どこかカタブツ的。
だからといって、超自我の人、つまり人格が高邁とは、言えない。

反対に「派遣要請がなくても出動する」からといって、その人がエスの人、つまり欲望に
支配された人とは私は思わない。
この問題を考えるときは、もうひとつ別の尺度が必要ではないか。

そこでコールバーグ。

++++++++++++++++++++

●コールバーグの道徳論

 コールバーグもフロイトの影響を強く受けた人と考えてよい。
(心理学者で、影響を受けなかった人はいないが……。)
で、話を戻す。
こうした問題、つまり「人間としての選択」の問題を考えるときに、まっさきに思い浮か
ぶのが、コールバーグということになる。
彼の「道徳論」については、たびたび取り上げてきた。

 選択の仕方によって、コールバーグは、

(1)結果主義者(賞罰によって、判断する。)
(2)相対主義者(そのつど相手の立場で考える。)
(3)動機主義者(動機のよしあしで決める。)
(4)社会秩序派(社会秩序を重んじる。)
(5)超法律主義者(法よりも、正義を重んじる。)
(6)普遍的価値派(普遍的な価値を基準にしてものを考える。)
の6段階に分けた。
(参考:無藤隆著、「心理学とは何だろうか」)

 大震災を前にしたあなたの判断を、この6段階に当てはめてみる。

(1)結果主義者(あとで罰せられるから、出動しない。)
(2)相対主義者(直接的な自分への被害でないから、様子を見て判断する。)
(3)動機主義者(自衛隊は、国防のためのもの。災害救助は、消防庁がすべき。)
(4)社会秩序派(知事もしくは首相の判断に任せる。)
(5)超法律主義者(知事からの要請がなくても、出動する。)
(6)普遍的価値派(人を救うという観点から出動する。責任はすべて自分で取る。)

 かなり荒っぽく当てはめてみたから、細部では無理があるかもしれない。
しかしコールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で、その人の道徳的な完成度を計る目安にしている。
それによれば、少なくとも(1)よりは、(6)のように判断した人のほうが、道徳的な完
成度が高いということになる。

●私なら……

 さてあなたの判断は、どうだっただろうか。
「ケースバイケースで考える」という人もいるかもしれない。
あるいは「あのときは、あれでしかたなかった」と考える人もいるかもしれない。
「連絡不通」という、いくつかの不運が重なった。

 で、私はこう考える。

 ……といっても、それをここに書いても意味はない。
(あなたは(あなた)。
(私)は(私)。

 ただ今でもときどきワイフと、この問題が会話のテーマになることがある。
今夜もそうだった。
「お前ならどうする?」「あなたならどうする?」と。

 私のばあいは、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をしてきた。
そのため、法を守ることは重要と考えるが、必要であれば、法を破ることも、これまた許
されると考える。
また破ったところで、ほとんど罪悪感はない。
それで責任を取らされて、司令官をクビになったところで、一向にかまわない。
地位や肩書きには、ほとんど興味がない。
ないから、一向にかまわない。
が、ここにも書いたように、これは私が、かなりふつうの人とは、ちがった生き方をして
きたことによる。
つまりこうした問題には、その人の生き様が集約される。

 たぶん自衛隊員として長年、そういう職業をしてきた人なら、私とはちがった考え方を
するだろう。
またしたところで、その司令官を責めることはできない。
「知事からの出動要請がないから、待機する」と、がんばるかもしれない。

++++++++++++++++++

どうもよくわからない。
今夜は、思考がうまくまとまらない。
道徳とは何か?
頭の中で同じテーマがクルクルと回ってしまう。

そこで「善と悪」。
それについて書いてみたいが、しかいこのテーマも、
それこそ腐るほど、書いてきた。

その中の1つを、再掲載してみる。

++++++++++++++++++

善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。
善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないと
いうことらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いて
いるのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反
キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるもの
すべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。
それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの
努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをす
るのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということに
なる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、
たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさ
い」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。
人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして
自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりに
はだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういう
とき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそ
が道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのよう
に自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思
い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そうい
ったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所
に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守
る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、
そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないよう
な問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。
ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、
結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時
間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無
限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニー
チェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、
それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くな
ったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるの
か。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、そ
の謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。こ
こに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子
どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の
子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで
私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「い
いです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が
食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのも
のだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がか
たいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判
断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれない
が、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思な
らわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかった
はずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自
ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』とい
う言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人
にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪い
ことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじ
めて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理とい
うことになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間にな
る方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どち
らを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問
題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていく
と、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく
行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも
収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、
その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える
力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。

++++++++++++++++++

フ~~ン、まだよくわからない。
道徳、つまりそれぞれの人がもつ倫理規範とは、
何なのか。
またそれは教育になじむものなのか。

++++++++++++++++++

●道徳論

 こうして考えてみると、「道徳」というのも、つまるところその人の日々の生活の中で、
作られていくものということがわかる。
つまり明らかに個性をもっている。
それぞれによって、基準も異なる。
(絶対的に正しい)とか、(絶対的にまちがっている)とか、そういうふうに決めつけて考
えることはできない。
またそういうものではない。

 で、コールバーグは、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるかに
よって、道徳の完成度をみるが、それとて相対的な見方にすぎない。
だから子どもに道徳を教えるとしても、「正解・不正解」という判断は、基本的な部分で、おか
しいということになる。
それぞれがそれぞれの道徳観をもち、それぞれの考え方をする。

 もし(教える)ということになれば、より、公正な見方、より普遍的な見方を、子どもに示し
ていくことでしかない。
教えて教えられるものではない。
いわんや(きれいごと)だけを並べる子どもを育てるためでもない。
もちろん「善」を教えたからといって、その子どもが善人になるわけではない。

●道徳教育

 これが私の結論ということではないが、こと教育ということになれば、私は道徳教育は不要と
いうことになる。
道徳教育によって(教えられる部分)よりも、道徳教育によって(人間性が統制される部分)の
ほうが大きいばあいには、なおさらである。
たとえば戦前には、「修身」という科目があった。
明鏡国語辞典には、こうある。

「(1)身をおさめて正しい行いをするように努めること。
(2)旧学制下の小・中学校で、教育勅語をよりどころに道徳教育を授けた教科名。
◇昭和20(1945)年廃止。現在の「道徳」に当たる」と。

 そういう危険な側面もある。

 と、同時に、「道徳」というのは、先にも書いたように、「個性」がある。
一元的な道徳を押しつけることによって、その個性をつぶしてしまうことにもなりかねない。

 どうもうまく原稿をまとめられない。
このつづきは、また明日にでも考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 道徳 道徳教育 コールバーグ エスの人 超自我の人 道徳の完成論 
道徳完成度 はやし浩司 道徳の完成度 修身 教育勅語 倫理規範)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

【心の部屋論】(道徳完成論)2009年6月の原稿より

++++++++++++++++++

人間の心には、いくつかの部屋がある。
言うなれば、どこかの大学のようなもの。
事務室もあれば、講義室もある。
講義室にしても、大講堂もあれば、研究室もある。
研究室といっても、ひとつではない。
哲学を研究する研究室もあれば、化学を研究する
化学室もある。
もちろん教会もあれば、博物館もある。
サッカー場もあれば、パチンコ店もある。
それぞれが有機的につながりながら、独自の
活動をしている。

たとえば今、私は、私の心の中の心理学の
研究室にいる。
「脳みそ」を大学に例えるなら、その総合的な
機能を研究するのが、心理学の研究室である。
この研究室からは、大学全体を見渡せる。
近くには政治学部があり、その向こうには
美術学部がある。

こうした大学は、人によって大きさも、構成の
しかたも、みなちがう。
中には、コンピュータ研究室が特異に大きな
大学に住んでいる人もいるだろう。
あるいは音楽学部が特異に大きな大学に住んでいる
人もいるだろう。
私はそれぞれの学部や研究室で、ときに教授に
なりながら、またときに、学生になりながら、
そのときどきを過ごす。

が、こわいのは、つまり私たちがもっとも警戒
しなければならないのは、心の闇の部分に相当
する、地下室である。
外からは見えないが、そこには、ありとあらゆる
ゴミがたまっている。
ゴミといっても、邪悪なゴミだ。
ウソ、インチキ、ごまかし、嫉妬、怒り、不満、
ウラミ、などなど。

私たちは日常的にゴミを出しながら、それを
捨てた段階で、そのゴミのことを忘れる。
(……意図的に忘れる。)
しかしゴミは確実にたまり、やがて大学の運営
そのものに、影響を与えるようになる。

あのユングという学者は、それを「シャドウ」と
いう言葉を使って説明した。

大切なことは、ゴミを作るとしても、最小限に!
できればゴミを出さない。
日々に、明るく、朗らかに、かつさわやかに……、
ということになる。
さあ、今日も一日、始まった。
今朝はたっぷり熟睡して、今は、午前7時35分。
今の私は大学の学長だ。
まずいくつかの学部を訪れてみる。
とりあえずすぐ隣の心理学部では、「心の広さ」に
ついて研究しているようだ。
そこをのぞいてみる。
みなさん、おはようございます!
5月21日、木曜日!

+++++++++++++++++++++

●心の広さ

「心の広さ」を知るときは、反対に心の狭い人をみればよい。
俗にいう、「心に余裕のない人」である。
私はこのことを、母の介護をしているときに、知った。
同じ親の介護をしながら、明るく、ほがらかに、かつさわやかに
介護している人もいれば、反対に、暗く、つらそうに、かつ
グチばかり並べてしている人もいる。

「老人臭がする」
「町内会に出られなくなった」
「内職の仕事ができなくなった」
「コンロの火がつけっぱなしだった」
「廊下で、母が便をした」などなど。

このタイプの人のグチには、「では、どうればいいのか?」という部分がない。
ないまま、いつまでも同じグチを繰り返す。
ネチネチとグチを繰り返す。
私なら、……実際、そうしてきたが、老人臭が気になれば、換気扇をつければよい。
町内会など、出なければならないものではない。
みな、事情を話せば、わかってくれる。
内職の仕事にしても(やりくり)の問題。

老人が家にいるからといって、できなくなるということはない。
コンロの火が心配なら、自動消火装置つきのコンロにすればよい。
廊下で便など、子どもの便と思えばよい。
私の息子たちはみな、こたつの中で便をしていたぞ!
要は、心の広さの問題ということになる。

●道徳の完成度

心の広さを、お金(マネー)にたとえるのも、少し気が引ける。
しかし似ている。
たとえばふところに、10万円もあれば、どこのレストランへ行っても、安心して
料理を楽しむことができる。
が、それが1000円とか2000円だったりすると、とたんに不安になる。
では、心の広さのばあいは、どうか。
どうすれば、心の余裕を作ることができるか。
心を広くすることができるか。

ひとつのヒントとして、コールバーグが説いた「道徳の完成度」というのがある。
つまり、道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたもの
であるか、その2点で判断される、と。

(1)いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分が
その立場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動
できるかどうかで、その人の道徳的完成度は決まる。
(2)いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点と
するなら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、
その人の道徳的完成度は決まる。

心が広い人イコール、道徳の完成度の高い人ということにはならない。
しかし道徳の完成度の高い人イコール、心の広い人と考えてよいのでは?
異論、反論もあろうかと思うが、その分だけ、そのときどきの(縁)に翻弄(ほんろう)
されるというこが少なくなる。

心理学的には、自己管理能力の高い人ということになる。
大脳生理学的には、前頭連合野の活動が、すぐれている人ということになる。
そういうものが総合されて、その人の心の広さを決定する。
が、何よりも大切なことは、運命を受け入れて生きるということ。

●運命論

どんな人にも、まただれにも、無数の糸がからんでいる。
生い立ちの糸、家族の糸、社会の糸、能力の糸、人間関係の糸、健康の糸、
性質の糸、、性格の糸、環境の糸などなど……。
そういった糸が無数にからんできて、ときとして私やあなたは、自分の意図する
のとは別の方向に、足を踏み入れてしまうことがある。
いや、そのときはそれに気がつかない。
あとで振り返り、そのうしろの足跡を見て、それに気づく。
運命というのがあるとすれば、運命というのは、そういうもの。
その運命を心のどこかで感じ、そしてそれが抵抗しても意味のないものと
知ったら、運命は受け入れる。
すなおに受け入れる。
そのわかりやすさが、私やあなたの心を広くする。
私も母の介護をするようになって、はじめてその運命のもつ力というか、
ものすごさを知った。

ふつうの母と子の関係なら、それほど苦しまなかったかもしれない。
しかし私のばあい、そうではなかった。
だからこそ、苦しんだ。
が、母が、私の家にやってきたとき、それは一変した。
下痢で汚れた母の尻を拭いてやっているとき、それまでのわだかまりや、こだわりが、
ウソのように消えた。
そこに立っているのは、どこまでもか弱い、そしてどこまでもあわれな、1人の
老婆にすぎなかった。
体の大きさも、小学生ほどになっていた。
それを知った、その瞬間、私は運命を受け入れた。
そう、運命というのは、そういうもの。
それに逆らえば、運命は、キバをむいて、私やあなたに襲いかかってくる。
しかし一度それを受け入れてしまえば、運命は、シッポを巻いて、向こうから逃げていく。

●生きる醍醐味

「生きる醍醐味は何か?」と問われれば、この心の部屋論にたどりつく。
大豪邸に住み、ぜいたくな生活をするのが、醍醐味ということではない。
(もちろんそういう人の心は、狭いということではない。誤解のないように!)
しかしいくらボロ家に住んで、つつましやかな生活をしていても、
心の部屋まで狭くしてしまってはいけない。
こんな例が参考になるかどうかは、わからないが、最近も、こんなことがあった。

私たち夫婦は、今年、H社のハイブリッド・カーを購入するつもりでいた。
何度もショールームに足を運んだ。
T社のハイブリッド・カーも魅力的だった。
何でも燃費が、リッターあたり、38キロ!
驚異的な数字である。
迷ったが、地元の会社であるT車のハイブリッド・カーに決めた。……決めていた。
で、その時期をねらっていたら、三男が結婚して、車がほしいと言い出した。
給料はかなり安いらしい。
しかも電車を乗り継いで通勤できるようなところではないらしい。
そこで私たちは、ギブアップ。
そのお金を三男に回した。

今しばらく、T社のビッツに乗りつづけることにした。
T社の車の中では、最安値の車である。
が、ビッツに乗っていても、卑下感は、まったくない。
大型高級車を見たりすると、ホ~~ッとため息をつくことはあるが、そこまで。
けっして負け惜しみではない。

私たち夫婦は、いつもこう言っている。
「車はビッツでも、肉体はベンツ」と。
そういうこともあって、このところ毎日、2人で、10キロは歩くようにしている。
プラス、ワイフは、週2回のテニスクラブ。
私は週4~5単位のサイクリング。
(1単位=40分の運動量をいう。)
つまりこれが心の余裕ということになる。

さて、ここで究極の選択。
「肉体はビッツで車はベンツ、あるいは肉体はベンツで車はビッツ。
あなたはどちらを選ぶか?」

あるいは、
「豪華な生活をしながら心は4畳半、あるいは4畳半に住みながら、心は
大豪邸。あなたはどちらを選ぶか?」でもよい。

もっとも私のばあい、本音を言えば、大豪邸に住んで、心も大豪邸。
できれば超大型のベンツにも乗りたい。
そういう人も、知人の中には、いないわけではない。
まっ、がんばろう。
ここはがんばるしかない。
隣の心理学部を出て……。
その横には銭湯がある。
これから朝風呂を浴びてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
コールバーグ 道徳の完成度 道徳完成度 はやし浩司 道徳の完成度 完成論 
はやし浩司 心の部屋論 運命論 無数の糸)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司※ 


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「Nothing(無)」論

++++++++++++++++++

今朝、パソコンを開くと、TK先生から
メールが届いていた。
先生について書いたときには、かならず、
その原稿を、先生に届けるようにしている。
これは暗黙の、つまり紳士協定のような
もの。
で、TK先生からの、その返事。

++++++++++++++++++++++++++++

林様: 大変に長い文書をよく書けますね。何か分かったような分からないような
nothing の問題について。それだけでも感心しています。

毎日英国のケンブリッジのSir John Thomas さんが書いてくれるという私の話はと
ても楽しみになっている一方で、Berlin の Haber Institute の創立百年祭が来年に
大きくあるというのでH子も一緒に行こうよと言ってくれていますが。亡父が創立時
の研究職員に抜擢されているだけに、向こうでも今更ながら私を大事に注目していま
すので、思いがけない親孝行でした。当時新設でも世界一の研究所でしたから。アイ
ンシュタインの他ノーベル賞が幾人もいましたし。昔の輝かしい歴史を大幅に宣伝す
るらしいです。「空気からパンを作って」人類の危機を救ったハーバーの偉業に亡父
が大変に貢献したというので。 私のホームページにあるハ―バーの話を書いてくれ
という依頼も国内できています。もう消えていい時期なのですが。長生きしていると
思いがけないことがあります。貴方も貴重な人生ですからくれぐれもご自愛の上お
元気に過ごして下さい。素晴らしい奥さんによろしく。

TK

++++++++++++++++++++++++++++++

●科学vs哲学

 科学は「命」を救い、哲学は「魂」を救う。
科学と哲学のちがいを一言で言えば、そういうことになる。
が、どちらが優位性をもつかと言えば、当然、哲学ということになる。
(たぶん、TK先生は、猛反発するだろうが……。)

 人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしで、数億年という長い年月を生き延びてきた。
哲学という「形」があったわけではないが、(生きるための常識)が、生命を支えた。
鳥は水にもぐらない。
魚は陸にあがらない。
そんなことをすれば、死んでしまうことを、知っていたからだ。

哲学は、その(生きるための常識)が、昇華したもの。
言い替えると、人間は、そしてあらゆる動物は、科学なしでも生きていかれる。
しかし哲学なしでは、生きていかれない。
が、相互に補完関係がないわけではない。

 哲学のない科学は、ときに人間の生存に脅威をもたらす。
原子爆弾や化学兵器にその例をみる。
一方、科学性のない哲学は、ときとして、人間を誤った方向に導く。
狂信的なカルト教団にその例をみる。

●「だからどうなの?」

 私たちは、常に、「だからどうなの?」を問いかけながら、生きる。
それが哲学ということになる。

 一方、科学は、「なぜ?」を繰り返す。
あのアインシュタインも、「問いつづけることが重要」と書き残している。
が、そこに落とし穴がある。
TK先生もいつか言っていたが、そのためどうしても視野が狭くなる。
「中には、こんな研究をして、何になるのかと思われるようなのもある」と。
ひとつの例として、中国南部の民族楽器の研究をあげてくれた。
ときとして科学者は、細分の、そのまた細分化された世界で、自分の立場を権威づけよう
とする。

 つまり視野が狭くなる分だけ、外の世界が見えなくなる。
先生が書いた、ハーバー博士にしても、空中窒素固定法で、「空気からパン」を作った。
が、その一方で、第一次大戦中は、毒ガスの研究にも手を染め、毒ガス戦の一線に立って
しまった。
もしそのときハーバーが、「だからどうなの?」と一言でも、自分に問いかけていたら、毒
ガスの研究には、手を染めなかっただろう。

 やがてハーバーは、ユダヤ人であることにより、ドイツを追われる。
しかしアウシュビッツで使用されたチクロンBは、そのハーバーによって開発されたもの
である。

●「Nothing」論

 仏教でも、「一切皆空」(後述)を、その根本理念としている。
それから約2000年を経て、実存主義を私たちに教えた、あのサルトルも、最後は「無
の概念」という言葉を使って、「無」を説いた。

 TK先生が言う、「Nothing」というのは、「ナンセンス」という意味である。
つまり私を痛烈に批判している。
一読すると、私をほめているようにも見えるが、本当は、心底、私をバカにしている。
が、ちょっと待ってほしい。
私には、そういうTK先生が、ありがたい。
今の私に、そこまで面と向かってものを言ってくれる人は、いない。
言われた私は、何も怒っていない。
こういう言い方を、たがいにしあいながら、すでに40年になる。
(40年だぞ!)

 反対にTK先生の周囲には、私のように、TK先生を批判する人はいない。
……できない。
だからこのところ、TK先生を、いつも怒らせてばかりいる。

 話を戻す。

 この「Nothing」という言葉だが、むしろそこに、真理のすべてが凝縮されてい
る。
「だからどうしたの?」と問いつづけると、そのいきつくところが、「Nothing」と
いうことになる。
私が言っているのではない。
あの老荘思想に始まり、西田幾多郎へとつづく。
西田幾多郎は、東洋的な無の概念から、「絶対無」という言葉を使って、「無」を論理化、
体系化させている。

●死の克服

 人は裸で生まれて、裸で生きて、そして裸で死ぬ。
その間のプロセスは、「無」。
いかに無であるかによって、魂の解放が完成される。
あのサルトルも、「死は不条理なり」という言葉を、一度は、使った。
「自由刑」という言葉も使った。
そして「いくらがんばっても、死がある以上、人間には真の自由はない」と、一度は、説
いた。
(このあたりは、学生時代に学んだ記憶なので、不正確。)

 しかし最後は、「無の概念」という言葉を使って、サルトルは、死を克服する。
私には、それが何であるか、今のところまだよくわからない。
あえて言えば、仏教的な「空」の概念に通ずるものではないか。
「一切皆空」……「色即是空(しきそくぜくう)」ともいう。
仏教では、すべてのもの、それは自己、他者、万物を問わず、すべてのものは、実体のな
い空であると説く。

 私たちがなぜ「死」を恐れるかと言えば、そこに「私」があるからである。
私の財産、私の家族、私の名誉、私の地位などなど。
しかしその「私」から、「私」を取り去ってしまう。
残るのは、「裸の私」ということになる。
が、こうなってしまうと、もうこわいものはない。
失うものがないのだから、何も恐れる必要はない。
あとはただひたすら、自分を燃焼させて生きていく。
(その日)が来たら、「ああそうですか」と言って、この世を去っていけばよい。
それが結局は、「真の自由」ということになる。

 久々に、「Nothing」について考えてみた。
このつづきは、またの機会にしたい。
今朝は、昼からの仕事の説明会の準備をしなければならない。
私とTK先生の、おおきなちがいは、ここにある。

 ともかくも、私は死ぬまで、金銭を稼がねばならない。
年金など、まったくアテにしていない。……ならない。
がんばろう!
がんばります!

2010年3月27日

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 無 無の概念 一切皆苦 色即是空 西田幾多郎 絶対無 はやし浩
司 Nothing)


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2010年4月29日木曜日

*H to walk *World Panic

●4月29日(緑の日)

+++++++++++++++++++++

毎朝、ウォーキングマシンで、運動をする。
それが1日の始まり。
今朝は、とりあえず、10分だけ。
気分があまりよくない。

そのウォーキングマシンを使うようになってから、
1年あまり。
「人の歩行」に興味をもつようになった。

若い人はともかくも、50代、60代の人に
ついては、歩き方を見ると、その人の
健康度を、おおよそ知ることができる。

+++++++++++++++++++++

●歩行

 歩き方にも、いろいろある。
いろいろあることを、ウォーキングマシンを使うようになってから、知った。
専門用語は知らないので、自分流の(用語)を使う。

 まず、私のようにO脚ぎみの人は、足の裏の外側(小指からかかとにかけての外側)
から地面に足をつける。
そのため、歩くとき、ペッタン、ペッタン……というような音がする。

 そこで歩き方を変える。
足の裏の内側(親指からかかとにかけての内側)から地面に足をつける。
すると、とたんにスタスタという感じになる。

 つぎに大切なのは、大またで歩くこと。
大またで歩こうとすると、ウォーキングマシンの性質として、足を後方へ、ぐいぐい
と引っ張ってくれる。
床が電動で回転している。
そのとき、ふとももが、引きつられるような感じになる。
それが相乗効果となって、ますます大またで歩くようになる。

 で、こうして自分の歩き方を矯正しながら、10分~20分も歩いていると、
背中の下部から上部にかけて、ジワーッと、血が上ってくるのがわかる。
東洋医学では「気」という。
それが自分でもよくわかる。
そしてそれが首に到達するころ、ぼんやりとした頭がすっきりしてくる。

 最後は軽くジョギング風に走って、すます。
が、このときも、つま先で走るようにする。
ひざをできるだけ高くもちあげて走るようにする。
これを1~2分するだけで、とたんにウォーキングが、有酸素運動に変わる。
ハーハーとあえぐようになる。
少し暖かい日だと、汗が上半身ににじみ出てくる。

●老人の歩き方

 で、私はこの半年、通りで歩いている人を見かけると、その人を観察するように
なった。

 まず若くて健康な人だが、そういう人は、つま先を主に使って、ひざを高くあげて
歩いているのが、わかる。
反対に老人になればなるほど、足のかかとのほうを主に使って、足を引きずるように
して歩くようになる。

 さらに何らかの脳の病気をかかえている人は、それぞれ独特の歩き方をすることも
わかった。
パーキンソン病の人は、足がもつれるような歩き方をする。
前かがみに、小またで歩く。
脳梗塞の人は、片方の足を、腰の回転をうまく使って、前へ差し出すようにして歩く、
などなど。
腰痛もちの人は、腰痛をかばうような歩き方をするし、骨に異常のある人は、腰を
曲げて歩く。
またひざに故障がある人は、脚そのものが、外側に大きく歪曲する。
ヨタヨタした歩き方になる。

 だから……というわけでもないが、私はひとつの健康法を編み出した。
そのひとつは、大またで、足をまっすぐ前に差し出して歩くこと。
足をまっすぐ伸ばすことも大切。
そしてつま先をよく使い、かかとをあげながら、歩く。
(つま先で歩いていると、アキレス腱の上部の筋肉が痛むようになるが、それは
よい徴候とみる。)
さらにひざを高くあげながら、歩く。
また私のようにO脚気味の人は、足の内側から地面につけるようにし、左右のひざを
できるだけ近づけて歩くのがよい。

 ……以上のことを、日常的に心がける。
それがウォーキングマシンを使って学んだ、歩き方の健康法ということになる。
なお、近く、乗馬マシンというのを買うつもり。
ときどき近くのショッピングセンターで試乗させてもらっているが、あれはたしかに
腰の運動になる。
それを昨日、自分なりに確認した。

 老化は、腰とひざからやってくる。
今のうちから、予防に心がけよう。


●不気味な足音

 昨日、ギリシアの国家経済が破綻した。
つづいてポルトガル、アイスランドもあぶなくなってきた。
しかし忘れてならないのは、この日本もあぶないということ。
「2011年度の予算は成り立たなくなるのでは?」とも心配されている。
この日本は、国家税収(40兆円前後)の大半(38兆円前後)を、公務員の人件費に
投入している。
そのほかの必要経費は、すべて借金。
「国債」という借金で、まかなっている。

 が、もし国債が売れなくなってしまったら……つまりお金を貸してくれる人がいなく
なってしまったら、日本は、そのとたん、破産。
予算そのものが、成り立たなくなってしまう。

 それを避けるためには、内需を拡大して、日本経済を活性化させる。
が、あらゆるものが、悪いほうへ、悪いほうへと向っている。
日本の国際的格付けも、そのつど、下方修正されている。

 中国のバブル経済もひどいが、韓国のバブル経済も、ひどい。
日本も今、ミニバブルから中型バブルへと向っている。
つまり世界中の国々が、お金をバラまいている。
が、こんなことをつづけていたら、それこそ、世界は、おしまい。
いつか……といっても、その時期はすぐそこまで迫ってきているが、世界経済は、
まとめて破綻する。
世界中の札束が、紙くずと化す。

 どうしたらよいのだろう……?

要するに、個人資産は、私たち個人が守るしかない。
方法については、ここには書けないが、大衆に迎合し、いっしょになって
ザザーッ、ザザーッと動いていたら、火傷(やけど)する。
08年末のリーマンショックで、金融資産を、100分の1程度にしてしまった
人さえいる。
(1億円を、100万円にだぞ!)

 こわいぞ!
今度の嵐は!
(2010・4・29記)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

2010年4月28日水曜日

*The ability to know myself

●自己評価と現実検証能力(見舞い論)

+++++++++++++++++

「自分」を客観的に評価するのはむずかしい。
「自分」と「他者」との関係を、客観的に
評価するのは、むずかしい。
さらに「自分」が置かれた立場を、客観的に
評価するのは、むずかしい。

+++++++++++++++++

●自己評価力

 「自分」をどう見るか。
どう判断するか。
それが「自己評価」ということになる。
「私はすぐれた人間」と思うのも、また反対に、「私はつまらない人間」と思うのも、
自己評価のなせるワザということになる。

 子どもの世界では、自己評価の高い子どもほど、よく伸びる。
わかりやすく言えば、ややうぬぼれ気味の子どものほうが、よく伸びる。
「私はできる!」という自信が、子どもを前向きに引っ張っていく。
(あまりうぬぼれすぎるのも、よくないが……。)

 この自己評価の基本となるのが、現実検証能力。
まず現実の「自分」を知る。
それが自分を評価する、第一歩ということになる。

●現実検証能力

 一方、「自分」というものを、客観的に検証する能力を、「現実検証能力」という。
これには、

(1)自分を客観的に検証する。
(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する、の3つが含まれる。

(3)の「立場」には、現在の立場と未来の立場がある。
「今、自分はどういう立場に置かれているか」
「将来、自分はどのような立場に置かれるか」
……それを客観的に検証する。
(「過去の立場」もあるが、すんだことを、とやかく悩んだところで、しかたない。)

 「あの人は、自分のことが、まるでわかっていない」というときの、「あの人」は、
それだけ現実検証能力の劣っている人ということになる。
たとえば現在(2010・4・28)の、民主党の小沢幹事長。

 検察審議会が「起訴相当」と判断したにもかかわらず、「職務をまっとうする」などと、
トンチンカンなことを平然と述べている。
いわく、「私といたしましては、意外な結果で驚いておるところでございます。私自身、何もやましいこともありませんので、与えられた職務を淡々と全力でこなしていくということに尽きると」(TBS、iニュース)と。

●程度の問題

 とは言っても、「自分」を知ることはむずかしい。
程度の問題ということになるが、「自分」を知れば知るほど、自分がわからなくなる。
ひとつの例として、すばらしい肩書きをもった、1人の男性を想定してみる。

彼は、大会社の部長という肩書きを背負っていた。
彼は部下からも、また取引先の人たちからも、一目、置かれていた。
盆暮れには、山のようなつけ届けが届き、年に数回は、家族と海外旅行を楽しんでいた。

 そこでその男性は、「私はすばらしい人間」と思うようになった。
「すばらしい人間だから、それにふさわしい生活をしているだけ」と。

 が、それから10数年後。
その男性は退職する。
現在は年金生活。
企業年金も含めて、50万円弱の年金がある。
生活には困らない。
しかし今、その男性は、だれからも相手にされない。

 こういうケースのばあい、その男性に、現実検証能力を期待することはできるだろうか。
が、私が知るかぎり、それはたいへんむずかしい。
ある女性(60歳)は、こう言った。
「私の兄がそうですが、いまだに威張っています。
自分を軽んじる人がいたりすると、ものすごく怒ります」と。

 みながその人に頭をさげたのは、その人がそれだけすばらしかったからではない。
その人の「肩書き」に頭をさげた。
現実検証能力のある人には、それがわかる。
しかしそれがない人には、それがわからない。

●謙虚になる

 要するに「程度の問題」ということになる。
「自分のことは、私がいちばんよく知っている」と言う人ほど、意外と自分のこと
を知らない。
反対に「自分がよくわからない」と思っている人ほど、意外と自分のことを、
よく知っている。

 わかりやすく言えば、「謙虚になる」ということ。
『謙虚さこそ、自分を知る最大の武器』ということになる。
たとえばMさん(65歳、女性)は、ことあるごとに、「私はだまされた」と
言いつづけている。
「私は兄に、親の財産をすべて奪われました」と。

 しかしそういうMさんだが、自分の小ずるさには、気がついていない。
それまで、さんざん、小ずるいことを重ねてきた。
小ずるく生きることが、Mさんの処世術にもなっていた。
親の葬儀のときも、なんだかんだと理由にもならない理由を並べて、1円も、葬儀費用を
負担しなかった。
実際には、親がタンス預金としてもっていた現金を、すべて自分のものにしている。
そういうことを棚にあげて、「私はだまされた」は、ない。

●では、どうするか

 「自分」を知るためには、まわりにいる「相手」が、自分をどう思っているか、
それを冷静に想像してみる。
配偶者でもよい。
子どもでもよい。
親でもよい。
友人でも、親類でもよい。
そういう人たちを、1人1人、頭の中で思い浮かべながら、「自分」をどう見ているか、と。
相手の視点の中に、自分を置くという方法もある。
相手の目を通して、自分を見る。

 その結果として、「自分」が、そこに浮かんでくる。
かなりの空想力と想像力が必要となるが、裏を返していうと、自己中心的な人というのは、
その空想力と想像力のとぼしい人ということになる。
他者から見た自分が想像できないから、自分勝手なことを繰り返す。

たとえば「見舞い」。
病気の人を見舞うときは、相手の気持ち、相手の気持ちがわからないときは、介護する
家族の気持ちを確かめてからする。
それが、常識。
いきなり押しかけて行って、「見舞いに来ました」は、ない。
相手によっては、見舞いに来られた人は、それを苦痛にすら思うことがある。

●今日の目標

 今日は4月28日。
今日の目標ができた。
私はそのつど、相手の視点の中に自分を置いてみる。
そしてその人から、自分がどう見えるかを想像しながら、自分を見つめてみる。
これから朝食だから、とりあえず、私のワイフの中に、自分を置いてみる。
どう見えるだろうか?
どんな姿に見えるだろうか?

 少し楽しみ?
少しこわい?
この結果は、また明日にでも、報告の形で、書いてみたい。

 最後に一言。

民主党の小沢さん、もうやめなさい!
今となっては手遅れかもしれないが、もうこれ以上、民主党をどん底から、さらに
どん底へ落とす必要はないでしょ。
あなたは権力の座に溺れるあまり、現実検証能力、つまり自分を見失ってしまった。
その姿は、醜いというより、醜悪。
ぞっとするほど、醜悪。
一度でよいから、私たちの目の中に自分を置いて、自分の姿を見てみてみたらいい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分 現実検証能力 自己評価力 私探し 自分探し 自分を知る 己を知る 民主党 小沢幹事長 小沢一郎 小沢一郎幹事長)

【補記】

●自分が見えない人たち

 私の知人の中には、退職してもう10年以上もなるのに、いまだに退職前の
肩書きを背負って生きている人がいる。
一見すると腰が低く、ヘラヘラしているが、しかしそれは演技。
人に軽く扱われたりすると、とたんに不機嫌になったりする。
つまり、まるで自分のことがわかっていない。

 その知人だが、親類に入院者が出たりすると、足軽く見舞いに行ったりする。
「自分が行けば、相手は喜ぶはず」と考えて、(あるいは何も考えないで)、
そうする。
が、来られたほうこそ、えらい迷惑。
中には、自分の無様な姿を、人に見せたくない人もいる。
あの故・山城新吾について書いた原稿を思い出した。
まだ母が生きていたころに書いた原稿である。

それを先に、紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●見舞い

+++++++++++++++++

週刊B春の中で、映画俳優のYS(山城新伍)は、こう語っている。

記者が、「友人の方々が心配しているようです」と語りかけたことに対して、
「そんなもん、会いたくないやろ。それで連絡もとっていない。このまま
消えてしまいたいぐらいや」(「週刊B春・08・9・4日号」と。

YS(69歳)は、現在、特別養護老人ホームに入居している。
持病の糖尿病が悪化、今は介護なしでは、生活できないような状態らしい。
週刊B春のほうは、「消えてしまいたい」という言葉を、新聞広告の
見出しに並べていたが、私はその前の言葉のほうが、気になった。

YSは、こう言っている。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。

同じような言葉を、以前、ある末期がんの人が言っていたのを思い出した。
「だれにも会いたくない」「本当に心が安まる人だけと、静かに時間を過ごしたい」と。
それを心配するまわりの人たちは、(本気で心配しているかどうかという問題もあるが)、
「会いたい」と思うかもしれない。
「相手は、私に会いたがっているはず」と思うかもしれない。
しかし当の本人にとっては、ありがた迷惑。
私も母の介護をしていて、それを感じたことがある。

ときどき親類の人たちや、元近所の人たちから、「見舞いに行きたい」などというような
連絡を受ける。
しかし私はそういう申し出を、たいてい、ていねいに断るようにしている。
私の立場というよりは、母の立場で、断わるようにしている。
仮に私が母なら、だれにも会いたくない。
「だれも見舞いに来なければ、さみしいだろう」と、その人は思うかもしれない。
が、それこそ、いらぬお節介。

母にしても、本当に会い人などというのは、そうはいない。
家族とか親友、その範囲の数人と考えてよい。
母にしても、自分の無様(ぶざま)な姿など、見せたくもないだろう。
が、無神経な人は、それほど親しくもないのに、「喜んでくれるはず」と、
勝手にそう決めて、やってくる。
さらに無神経な人は、興味本位で電話をかけてくる。
「お母さんの、具合はいかがですか?」と。
母は元気なころ、陰で、その人の悪口ばかり言っていた。
そういう母の気持ちを私はよく知っている。
だから、断る。

YSは、そういう心情を、率直に表現した。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
週刊B春によれば、こうある。

「実は今年の春先、山城の友人や知人の間で、山城の所在を
めぐり、ちょっとした騒動が持ちあがっていたのである。
『S伍の携帯に何度かけても、つながらないんだ。こっちが
いやがっても電話をしてくるような男なのに、何かあったんじゃ
ないだろうか」
「どこかの病院に入院したと聞いたんだが、S吾が、『面会に
来ないでくれ』と言っているそうだ」と。
治る見込みのある病気ならまだしも、そうでない病気なら、
そうかもしれない。
私自身は、まだそういう大病を経験していないので、本当の
ところ、YSの心情を理解できるというわけではない。
しかし私がYSの立場なら、おそらくYSと同じように考えるに
ちがいない。

希薄な人間関係など、いくら重ねても、自分の心の隙間を
埋めることはできない。
かえって騒々しいだけ。
わずらわしいだけ。

それがわからなければ、都会の雑踏の中をひとりで歩いてみることだ。
相手がそういう状態なら、そっとしておいてやることこそ、思いやり。
相手から「会いたい」という連絡でもあれば、話は別だが、
そうでないなら、そっとしておいてやる。
これは人生の末期にいる人たちへの、たいへん重要なマナーのひとつと
考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「形」だけの人間社会

++++++++++++++++++++

形だけの言葉、形だけのあいさつ、形だけの心配、
形だけの喜び、形だけの行為、形だけの悲しみ……。
ふと気がついてみると、私のまわりには、「形」だけ……
ということは多い。
私も他人に対してそうだし、他人も、私に対してそうである。
身内にも、それがある。
親子にも、それがある。
夫婦にも、それがある。

++++++++++++++++++++

総じてみれば、この世は「形」だけ。
そう言い切るのは、少し乱暴すぎるかもしれないが、
否定するのは、もっとむずかしい。
つまりまず形をつくって、自分への責任を回避しようとする。
それだけ人間関係が希薄になったとも考えられる。
あるいは人間関係が広がりすぎ、その分だけ複雑になったとも考えられる。
そのつどいちいち心を入れていたら、それこそ身がもたない。
よい例が、冠婚葬祭
とくに葬儀。

葬儀は、「形」の集合。
私は兄の葬儀のときに、そう感じた。
何からなにまで「形」が決まっていて、まるで流れ作業のよう。
形、形、形……また、形。

線香の立て方から、焼香のしかた、さらには僧侶への礼の仕方まで。
「形」から踏み出すことを、みな、恐れているかのようですらあった。喪主ということで、
葬儀社の人から、ことこまかく、指示を受けた。
それぞれが自分のやり方をしたら、かえって葬儀が混乱してしまう。
参列する人にしても、そうだろう。
しかし、葬儀といえども、どうして個性的であってはいけないのか。
自分で考えた葬儀では、どうしていけないのか。
「形」を決めておけば、楽は楽。
しかしそうした葬儀のあり方には、疑問ばかりが残る。

というのも、兄は、生前において人間関係が、きわめて希薄だった。
弟という私に対しても、一度だって、何かの祝いをしてくれたことはない。
結婚したときも、子どもが生まれたときも……。
そういう意味では、生まれながらにして、きわめて依存心の強い人だった。
生活能力も、ほとんどなかった。
そういう兄を、母は、よく「生まれつき」と言ったが、
生まれつきそうであるかどうか、そんなことがわかる親はいない。
病院の医師だってそうだろう。
母の異常なまでの溺愛と過関心、過干渉が、兄をして、兄のような
人間にした。

だから葬儀に来た人の中でも、兄と個人的な思い出、あるいは
つながりのある人は、ほとんどいなかった。
この私ですら、9歳、齢が離れていることもあったが、
一度とて、兄といっしょに遊んだ記憶そのものがない。
むしろそういう兄であったがために、私に対する社会的重圧感には、
相当なものがあった。

経済的重圧感というより、社会的重圧感である。
とくにあのG県の郷里では、それを許してくれなかった。
「家意識」も色濃く残っている。

それこそ「借金をしてでも、実家を守れ」と言う人さえいる。
「兄のめんどうは、弟のお前がみるべき」と。
だから参列に来てくれた人たちが、それなりにしおらしい顔をして、
「ご愁傷様です」などと言ってくれても、私にはピンとこなかった。
私のほうも、それらしい顔をして、「ありがとうございます」と答える。
形だけの心配、形だけのあいさつ、形だけの言葉。
晩年の兄が感じていただろう(孤独)にしても、それを孤独として
本当に理解していた人は、何人いただろう。
仮に理解していたとしても、だれにも、何もできなかった。
だからといって、いいかげんな葬儀でよかったと言っているのではない。
むしろ、その逆。

そういう兄だったからこそ、私は人並み以上の葬儀に……と思った。
広い会場だったこともあり、参列者はガラガラだった。
空いている椅子は、参列者の数倍は、あった。
で、結局、何ごともなかったかのように、葬儀は終わった。
だれも、兄が背負ったであろう孤独感や絶望感について話題にしなかった。
(もちろん私も、しなかった。)

死んだ人は、仏……ということか。
あるいは「終わった人は、終わり」ということか。
食べて、飲んで、雑談をして、おしまい。
それも「形」なのかもしれない。

が、だとするなら
葬儀というよりは、「人の死」とは何かということになる。
さらに言えば、「命」とは何かということになる。
こうして1人の人間が、あたかも何ごともなかったかのように、
この世から消えた。

その人間にしてみれば、この宇宙もろともに、である。
葬儀……もっと心を大切にすべきではないか。
故人の心を、である。
でないと、それこそ兄の死は、本当に無駄死で終わってしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 山城新伍 山城S伍 形だけの人間関係)

+++++++++++++以上、08年8月記+++++++++++++

●「そんなもん、会いたくないやろ」

 山城新伍は、こう言ったという。
「そんなもん、会いたくないやろ」と。
 この一言だけで、山城新伍を判断するわけではないが、しかしこの
一言だけでも、山城新伍は、ものすごい人ということがわかる。
大物というか、自分に正直。

だれしも山城新伍のような生き方をしたいと思いつつ、それができないでいる。
見栄や体裁に振り回される。

 こんなことがあった。

 私の母が死んでちょうど1年になる。
その当時を思い出しながら、ある女性(66歳)がこう言った。
「もっと、あなたのお母さんを見舞ってやればよかった」と。

 私はその言葉を聞いて、その女性の自己中心性に驚いた。
まるで自分のことがわかっていない。
生前、母は、その女性のことをたいへん嫌っていた。
私が知るかぎり、死ぬ間際まで、嫌っていた。
母にしてみれば、見舞いに来てほしくない第一の女性だった。
そんな女性が、自分だけの判断で、「もっと見舞ってやればよかった」とは!

 またこんな話もある。

 ワイフの友人(55歳・女性)が、子宮筋腫の手術で、1週間ほど
病院に入院した。
それについて、ワイフの友人は、そのことをだれにも話さなかった。
自分の夫にすら、「だれにも言わないでほしい」と念を押していたという。

 さらにこんな話もある。
このことは以前にも書いたが、Yさんという友人の夫(43歳)が、交通事故
で入院した。
それについて夫の友人の1人が、その日のうちにあちこちへ電話をかけ、みなに
知らせてしまった。
親切心からそうしたのだろうが、Yさんの気持ちを、先に確かめるべきだった。
Yさんは、こう言った。

「入院したその日に、ドヤドヤと、いろいろな人が見舞いに来て、その応対だけで
疲れてしまいました」と。

 見舞いといっても、みながみな、それを望んでいるわけではない。
また来てほしい人というのは、かぎられている。
で、それなりの立場でないなら、安易に見舞うというのは、やめたほうがよい。
かえってありがた迷惑になるだけ。

Yさんのケースにしても、そっとしておいてやることこそ、大切。
 もう一例、こんな話もある。

 2年前に、私の友人が亡くなった。
で、その初盆が昨年の7月にあった。
私はすっかりその日を忘れてしまっていた。
(私の生まれ故郷では、8月に盆供養をする習わしになっている。)

 それでそれをわびるために出向くと、奥さんは、こう言った。
「正直に言いますとね、初盆のほうが、葬式よりたいへんでした。
そのあと体の調子を崩してしまい、1週間ほど、寝込んでしまいました」と。

 周囲の人にしても、そうだ。
「親だから・・・」「子だから・・・」という理由だけで、それを前提として
ものを考えてはいけない。
親といってもさまざま。
子どもといってもさまざま。
親子関係となると、さらにざまざま。
「親の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
「子の顔を見るだけで、ゾッとする」という人もいる。
それがわからないのは、あなただけ。

 いろいろなケースがある。

しかしこと病気の見舞いとなると、それを望まない人のほうが多いのでは?
(あるいは私の意見が、否定的すぎるかな?)
そこで大切なことは、一度家族の人の意見を聞いてみるということ。
その上で、見舞いに行くかどうかを決めればよい。

「私が見舞いに行けば、相手は喜ぶはず」という、「ハズ論」だけでものを
考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 見舞い 病気見舞い エチケット)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●一貫性

 現実検証能力のない人は、悪い意味で、一貫性がある。
自分のことがわからないと同時に、他人の心も、わからない。
自分の置かれた立場もわからない。
先に書いた、3つの分野で、共通して、現実検証能力が乏しい。

(1)自分を客観的に検証する。(2)自分と他者との関係を客観的に検証する。
(3)自分の置かれた立場を客観的に検証する。

つまり、ノー天気。
そうそうその知人だが、そのときの気分に応じて、盆や正月時でも、平気で
親類を訪ねて、寝泊まりしているそうだ。
「自分は尊敬されているはず」「歓迎されているはず」という、強い思いこみが
あって、そうしている。
本当は、みな、迷惑しているのだが、そういうことすらわからない?

 私は「あの男は、ボケているんじゃない?」と言っている。
ワイフは、「ああいう人を、おバカと言うのね」と言っている。
どうであるにせよ、現実検証能力の欠ける人というのは、そういう人をいう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分のわからない人 迷惑な人 現実検証能力 自己評価 自己評価力 はやし浩司 無神経な人 病気の見舞い)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

*Magazine April 28th (What is the Time?)

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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
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凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      4月   28日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「私」さがし

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だれでも、「私のことは、私がいちばんよく
知っている」と思っている。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
しかし、「私」を知ることは、むずかしい。
本当にむずかしい。
あのソクラテスも、そう言っている。
「私は私のことを、何も知らなかった」と。
『無知の知』というあのよく知られた言葉も、
そこから生まれた。

++++++++++++++++++++++

 「私」をさがす。
それはつまりところ、「自分の乳幼児期」を見ること。
「私」という人間の「核(コア)」は、そのほとんどが、乳幼児期に作られる。

 たとえばあなたが、さみしがり屋で、心の開けない人だったとしよう。
たとえばあなたが、冷たく、嫉妬深い人だったとしよう。
あるいはたとえばあなたが、ものごとにこだわりやすく、うつ的であったとしよう。
しかしそれは(あなた)の責任ではない。
あなたが求めて、そういう(あなた)になったのではない。
(あなた)という人は、乳幼児期の環境の中で、そういう(あなた)になっていった。

(1) たとえば発達心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
わかりやすく言えば、「心を開いて、相手を信じること」をいう。
その基本的信頼関係は、豊かな母子関係の中で、はぐくまれる。
(絶対的なさらけ出し)と(絶対的な受け入れ)。
「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。
その上に、基本的信頼関係が築かれる。
が、たとえば親の育児拒否、家庭内騒動、無視、冷淡、虐待などがあると、子どもはその
基本的信頼関係を築けなくなる。
そのため他人に対して、心を開けなくなる。
「基底不安」もそこから生まれる。
「いつ、どこで、何をしていても、不安」と。

(2) また子どもの発育には段階があることがわかっている。
そしてその段階ごとに「臨界期」があることもわかっている。
その臨界期をのがすと、脳細胞そのものが発達を停止してしまう。
こうして人間性そのものも、乳幼児期に決まる。
「決まる」と断言してよい。
そのよい例が、1920年代にインドで見つかった野生児。
「オオカミ姉妹」ともいう。
発見されたあと、2人の姉妹は、インド政府によって手厚く保護され、教育
を受けたが、最後まで人間性を取り戻すことはなかったという。
その人間性についても、最近では、「マターナル・デプリベイション(母性欠落)」という
言葉を使って、説明される。
乳幼児期に心豊かな母子関係に恵まれた人は、大きくなったときも、心の温かい、やさし
い人になる。
そうでなければ、そうでない。
他人との共鳴性を失い、心の冷たい人になる。
仲間をいじめても、心が痛まなくなる。

(3)さらに最近の研究によれば、うつ病の「種」も、乳幼児期にできることがわかって
きた。

++++++++++++++++++++++

●うつ病の原因

引きこもりも含めて、うつ病の原因は、その子どもの乳幼児期にあると考える学者がふえ
ている。

たとえば九州大学の吉田敬子氏は、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子ど
もは、「母親から保護される価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子
保健情報54・06年11月)を形成すると説く。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になるこ
ともあるという。それが成人してから、うつ病につながっていく、と。

++++++++++++++++++++++

 こうして(あなた)という人は、できあがった。
その結果が(今のあなた)ということになる。
つまり「私」をさがすということは、自分の過去、かなんずく、自分の乳幼児期の環境を
知るということになる。
あなたは、乳幼児期に、心豊かで、両親の暖かい愛情に恵まれ、穏やかな環境の中で
育っただろうか。
もしそうなら、それでよし。
が、もしそうでないなら、まず、それに気づくこと。

 というのも、恵まれた環境の中で、何一つ問題なく育った人など、ほとんどいない。
多かれ少なかれ、みな、何かの問題をもった家庭に生まれ育っている。
言い換えると、心に問題をもっていない人は、いない。
心に傷をもった人だって多い。
ただまずいのは、そういう過去があることに気づかず、私の中の「私」に振り間ウェアさ
れること。
同じ失敗を繰り返すこと。
さらにこの種の問題は、親から子へと、世代連鎖しやすい。
もしあなたの過去に問題があったとしても、またその結果、現在の(あなた)に問題が
あったとしても、それをつぎの世代に伝えてはいけない。
あなたの代で、それを断ち切る。
そのための努力はしなければいけない。
そのためにも、まず「私」を知る。

 あとは、時間が解決してくれる。
10年とか20年はかかるかもしれない。
しかし時間が解決してくれる。
それもまた人生。
(あなた)の人生。
そう思って、そういう(あなた)自身と、仲よくつきあう。

 つまるところ、生きるということは、最後の最後まで、「自分探し」ということに
なる。
それくらい「私」を知ることは、むずかしい。
私はなぜ「私」なのか。
私がなぜ「私」なのか。
それを知ることは、本当にむずかしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 私探し 私さがし 私とは 私の中の私 自分探し 自分さがし 乳
幼児期 うつ病の原因 九州大学 吉田 母子保健情報)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【時間とは何か?】

+++++++++++++++

「時間」のとらえ方は、物理学と哲学
の世界では、まるでちがう。
ちがうが、そこには相互性がある。
それについて、考えてみたい。

2002年に書いた原稿(フェムト秒について)と、
2009年に書いた原稿(クロック周波数について)の
2作を、まずここに再掲載する。

+++++++++++++++

●今朝・あれこれ(4月13日)

●「無」の世界(The World of “Nothing”)
This universe was born from nothing, or the smallest dot or line. Whatever it is, if so,
our exisitance stands on this “Nothing”. Then we ask ourselves, what we are. Some
people say, there is another world beyond this world. But from that another world, this
world where we live is another world itself. Is there another world beyond this world?

+++++++++++++++++

昨夜、こんなことを書いた。

「ひょっとしたら、あの世というのは、
あるのかもしれない」と。

私にとっては、生まれてはじめて書いた
言葉である。

理由がある。

私たちは今、大宇宙と呼ばれる、この宇宙の
中で生きている。
空の星々を見れば、それがわかる。

しかしこの大宇宙は、一説によると、
ビッグバンと呼ばれる、大爆発によって
生まれたものだという。

この説を疑う学者はいないが、問題は、
それ以前の宇宙は、どうであったかということ。

これについては、いろいろな説がある。
あるが、共通している点は、最初は、
「無」もしくは、それに近い状態であったということ。
それが爆発して、現在のような大宇宙になった?

何とも不可思議な世界だが、言いかえると、
私たちの存在そのものも、その不可思議な世界を基盤と
しているということになる。

逆に、こんなふうに考えてみてもよい。

よく「宇宙には果てがない」という。
しかし宇宙の向こうに、別の宇宙があるというわけでも
ないらしい。
ホーキング博士によれば、私たちが住んでいるような
大宇宙は、ここにも、そこにも、どこにでもあるという。
しかも、それが無数にあって、まるで泡(バブル)の
ようになっているという。

そこに見えないからといって、簡単に否定してはいけない。

そもそもこの宇宙では、時間も、空間も、アテにならない。
「時間」といっても、それは人間にとっての時間であって、
絶対的な時間ではない。

人間がいう「1秒」の間に、誕生から死まで繰りかえす
生物だっているかもしれない。
もし人間が、フェムト秒単位で生きることができるとするなら、
私たちは、その「1秒」を使って、3100万年分も
生きることができる※。

(3100・万・年だぞ!)

空間にいたっては、さらにアテにならない。

私たちが見ている、この世界にしても、
「見ている」と思っているだけで、
実は、何も見ていないのかもしれない。
わかりやすく言えば、「見ている」と思っているのは、
脳の後頭部にある視覚野に映し出された
電気的信号を、大脳が知覚しているにすぎない。

「見えないから何もない」と言うのは、
幼児のたわごとにも、ならない。

が、ホーキング博士が言う、別の宇宙を、
私たちは、知ることも、見ることもできない。
私たちの宇宙から見れば、そこは「無」の
世界ということなる。

(この宇宙にしても、もともと「無」であった
ものが、2つに分かれて、今の大宇宙を作った
という説もある。)

が、このことを反対に言えば、向こうの宇宙から見れば、
私たちの宇宙のほうが、無の世界という
ことになるのでは?

どちらが「無」なのかと論じても、意味はない。
それはたとえて言うなら、日本人とアルゼンチン人の、
どちらが逆さまに立っているかを論じるようなもの。

日本人から見れば、アルゼンチン人は、逆さまに
立っていることになる。
アルゼンチン人から見れば、日本人のほうが、
逆さまに立っていることになる。

もう少しわかりやすく言えば、こうだ。

日本からアルゼンチンを見れば、アルゼンチンは
外国(=あの世)ということになる。

しかしアルゼンチンから見れば、日本は外国(=あの世)
ということになる。

しかし、現実には、私はここにいる。
あなたは、そこにいる。
この世であろうが、あの世であろうが、
私は、ここにいる。
あなたは、そこにいる。

……と考えていくと、何がなんだか、わけが
わからなくなってくる。

もっと言えば、私たちの存在すらも、わけの
わからないものになってくる。

私たちが住むこの宇宙が無であるとするなら、
私という存在も、無ということになってしまう。

が、現実に、私は、この世に住んでいる。
「無」ではない。
だとするなら、私があの世にいても、何も、おかしくない。

(ゾーッ!)

つまりあの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

もっとはっきり言えば、この世があるなら、
あの世があっても、何もおかしくないということになる。

ただ誤解しないでほしいのは、ここでいう(あの世)
といっても、どこかのカルト教団の人たちが
好んで使う(あの世)ではないということ。
天国とか、極楽とかいう概念とも、ちがう。

さらに仮に死んだあと、あの世へ行くにしても、
今、私たちがもっている意識が、そのまま
連続性をもって、つながっていくとはかぎらない。

「意識」といっても、脳の中をかけめぐる
電気的信号に過ぎない。
死ねば同時に、こうした信号は、光となって空中に霧散する。
その時点で、「私」という意識は、消滅する。

私がここでいう「あの世」というのは、
そこにある「無」の世界の中の、別の大宇宙ということ。

するとまた、謎が振り出しに戻ってしまう。

あの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

今住んでいる、この世界が、すでにあの世かも
しれない。
となると、私たちは、かつてこの世に住んでいたことになる?

????????????????

わけがわからなくなってきたので、この話は、ここまで。

アインシュタインは、「問いつづけることこそが
大切」と言った。

私も、この先、この問題については、問いつづけて
みたい。

この世はあの世なのか。
あの世はこの世なのか、と。

+++++++++++

※「フェムト秒」という言葉を
最初に教えてくれたのは、
田丸謙二先生です。

それについて書いた原稿です。

+++++++++++

●フェムト秒

 ある科学の研究者(田丸謙二先生のこと)から、こんなメールが届いた(02年9月)。
いわく……

「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独
のジョイントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受
けたノーベル賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 今
は固体表面に吸着した分子一個一個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起
こさせたり、フェムト秒単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)でその挙
動を追っかけたり、大変な技術が発達してきました」と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フ
ェムト秒単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚い
た。

ただ、(1)の分子を見ることについては、もう二〇年前から技術的に可能という話は、そ
の研究者から聞いていたので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト秒単
位の観察」というのには驚いた。

わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍して、
やっと1秒になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒ということにな
る。さらにかみくだいて言えば、1000兆秒というのは、この地球上の3100万年分
に相当する。計算するだけでも、わけがわからなくなるが、1フェムト秒というのは、そ
ういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が
観察できる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題
を、考えざるをえなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生きるこ
とができたら、そのたった1秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

 昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だっ
た。

 ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中
がガチガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけで
も、地球の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から
数百万年もかかる。

しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たちがゆ
っくりと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自
然に動いていると思っている。

 ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとして
も、あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間
に、地球上の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅している
かもしれない!

 ……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私
は今、カチカチカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短
い時間だが、もしフェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチま
での間に、3100万年を過ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチ
までを一秒と、だれが、いつ、どのようにして決めたか。

 アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在するこ
とがわかっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次
元、そしてそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できな
い。)ここでいう時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。

たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。たとえばロ
ケットに乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。

しかしその宇宙の果てに近づけば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケッ
トに乗っている人の動きは、(たとえば地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめ
まぐるしくなる。地球の人間が、一回咳払いする間に、ロケットの中の人間は、数百回も
世代を繰り返す……、あるいは数千回も世代を繰り返す……、つまりいつまでたっても、
ロケットの中の人間は、地球から見れば、ほんのすぐそばまで来ていながら、宇宙の果て
にはたどりつけないということになる。

 こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者から
メールを受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。

私のような素人でもわかることは、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。こ
れを人間にあてはめてみると、よくわかる。たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分
過ごすのと同じくらい、密度の濃い人生にすることができる人がいる。

反対に一〇年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりやすく言うと、
不治の病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その一年を、ほかの人の
三〇年分、四〇年分に生きることも可能だということ。反対に、「平均寿命まで、あと三〇
年。あと三〇年は生きられる」と言われながらも、その三〇年を、ほかの人の数日分にし
か生きられない人もいるということ。どうも時間というのは、そういうものらしい。

いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万年
分の人生を送ることができたらと思う。もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を
長くすることはできる。仮にもしこの1秒を、たったの2倍だけ長く生きることができた
としたら、私は自分の人生を、(平均寿命まであと30年と計算して)、あと60年、生き
ることができることになる。

 ……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。
幼児が過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人
がもつ時間の単位とはちがうということ。

当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる1秒は、私たちの感ず
る1秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、た
った1日でも、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいは
もっとかもしれない。

つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく
理解するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。
(02-9-17)※


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●1秒は、1秒なのか?(One second for mice is equivalent to 100 seconds for men)

●クロック数(クロック周波数)について(2009年6月の原稿より)

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今日の夕刊(4月30日、中日新聞)に、
こんな興味ある記事が、載っていた。
『人とマウス、行動似てる』というタイトルの
ものだった。
『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。
大阪バイオサイエンス研究所(大阪府吹田市)と
東京大学の研究チームによる、研究結果である。
記事には、『生物の行動の背後に、種を超えた基本法則
が存在する可能性を示すもの』(同)ともあった。

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●庭のスズメ

たとえば庭に遊ぶスズメたちを見てみよう。
小枝から小枝へと、小刻みなリズムで、飛び回っている。
少し前、私は、それを見ながら、こんなことを考えた。
「もし人間が、同じ行動をしようとしたら、
スズメの何倍の時間がかかるだろうか?」と。
スズメたちは、数秒単位で、枝から枝へと、
ピョンピョンと飛び回る。

で、同じような枝を、パイプが何かでつくり、
人間に同じ行動をさせたら、どうだろう?
オリンピックに出るような体操選手ですら、
その10倍の時間は、かかるかもしれない。
またつぎにこんなことを考えたこともある。
一匹の蚊を頭の中で、想像してみてほしい。

その蚊が、人間の足の高さから、頭の高さまで
あがるのに、何秒くらいかかるか、と。
正確に計測したことはないのでわからないが、
ブーンと飛べば、3~4秒もかからないのでは
ないか?

そこで蚊の体長を、5ミリとして計算すると、人間の
170センチの身長は、蚊の体長の340倍の高さという
ことになる。

そこで身長が1・7メートルの人間の高さに換算すると、
1・7メートルx340=578で、約580メートル
の高さということになる。

つまり蚊は、人間にしてみれば約580メートルの
山を、3~4秒で登ったり、おりたりすることが
できるということになる。
3~4秒である。
が、これで驚いてはいけない。

●ハエは、音速の3倍以上!

ときどき家の中を、体長1センチ前後の、大きな
ハエが飛び回ることがある。
私たちが「クソバエ」と呼んでいる、黒いハエである。
あのハエは、7~8メートル四方の部屋を、
ビュンビュンと飛び回る。

そのハエについても、正確に計測したことがないので
わからないが、やはりブ~ンと飛べば、7~8メートルの
部屋を横切るのに、1秒もかからないのではないか。
そこでこれらの数字をもとにして、ハエの速度を計算してみると、
秒速7メートルとして、同じように170倍すると、
秒速1190メートルということになる。
さらにこの数字を、60x60=3600倍すると、
時速になる。

その時速は、何と、4284万000メートル。
キロメートルになおすると、4284キロメートル。
つまりあのハエは、人間の大きさで考えると、
時速4000キロ以上のスピードで、部屋の中を飛び回って
いることになる!
時速4000キロだぞ!

この数字を疑う人は、一度、自分で計算してみるとよい。
つまり音速の約3倍!
こうして考えてみると、スズメにせよ、蚊にせよ、
はたまたあのハエにせよ、私たちとはちがった(時間)を
もっているのがわかる。

前にも書いたが、もしハエが今のまま進化し、
時計を作ったとしたら、秒針のほかに、1秒で1周する
もう一本の針を考えるかもしれない。
つまりスズメにせよ、蚊にせよ、はたまたハエにせよ、
私たち人間がいうところの「1秒」を、10秒とか、
100秒で生きていることになる。

●マウスは、人間の100倍!

・・・というようなことを、今回、大阪バイオサイエンス
研究所というところが、はからずも証明した?
もう一度、新聞記事を読みなおしてみよう。
そこには、こうある。

『(人とマウスに関して)、活動時間
や休息時間について、長いものや短いものが、
どんな頻度で現れるかを分析すると、
パターンはまったく同じで、人の動きを100倍
の速さで早回しすれば、マウスと同じになることが
わかった』と。

もう少し専門的に言えば、「体内のリズムをつくる
時計遺伝子の働きは、マウスのばあい、人間の
それより100倍も速い」ということになる。
だから単純に、「マウスは人間の100倍の
速さで生きている」というふうに考えることは
できないとしても、「少なくともマウスは、
人間とはちがった時間の尺度をもっている」ということだけは
確かである。

同じ1秒を、人間は、それを1秒として生きている。
が、マウスにしてみれば、100秒にして生きている
かもしれない。

だからたとえば、マウスの寿命を仮に1年としても、
それを「短い」と思ってはいけない。
マウス自身が感ずる1年は、ひょっとしたら人間の
100年分に相当するかもしれない。

●幼児の世界でも

実は、私は、このことは幼児を指導している
ときにも、よく感ずる。
私の教室では、常にテンポの速いレッスンに心がけて
いる。
そうでもしないと、子どものほうが、飽きてしまう。
レッスンに乗ってこない。

で、そういうとき、私はよくこう思う。
幼児のもつ体内時計は、おとなのもつ体内時計より、
数倍は速い、と。
わかりやすく言えば、幼児にとっての1分は、
おとなに3~4分に相当する。
おとなが3~4分ですることを、幼児は、1分でする、と
言いかえてもよい。

「アウ~、それでエ~、エ~ト・・・」などというような、
どこか間の抜けたようなレッスンをしていたら、
それだけで教室はザワついてしまう。
収拾がつかなくなってしまう。

反対に、老人ホームにいる老人たちを見てみると、
このことがさらによくわかる。
そこにいる老人たちは、1日中、何かをするでもなし、
しないでもなしといった状態で、その日、その日を
過ごしている。

そこにいる老人たちは、明らかに私たちとは、ちがった
体内時計をもっている。
ひょっとしたら、1日を、私たちがいう、1時間、
あるいはそれよりも短く感じながら生きている
かもしれない。

長い前置きになってしまったが、結論を急ぐと、こういう
ことになる。
私たちが感じている1秒、1分、1時間は、
けっして絶対的なものではないということ。
過ごし方によっては、1秒を1時間にして生きることもできる。
反対に、1日を、1分のようにして過ごしてしまう
かもしれない。

つまり(時の長さ)というのは、時計的にはみな、同じでも、
過ごし方によっては、何倍もにして生きることもできる。
反対に、数分の1にして生きることもあるということ。
もっと言えば(時の長さ)には、絶対的な尺度はないということ。
要は、その人の過ごし方、ということになる。
それにしても、『人の動きを100倍の速さで早回しすれば、
マウスと同じになることがわかった』とは!
100倍だぞ!

この「100倍」という数字を読んだとき、私は
改めて、(時間とは何か)、さらには、(生きるとは何か)、
それを考えさせられた。

余計なことかもしれないが、日々を、野球中継だけを見ながら過ごすのも
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
日々を、パチンコだけをしながら過ごすのも、
人生かもしれない。が、それでは、あまりにももったいない。
あるいは日々を、魚釣りだけをしながら過ごすのも、
これまた人生かもしれない。が、それではあまりにももったいない。
・・・というのが、このエッセーの結論ということになる。

●脳みそのクロック数

ついでに……。
宇宙には、私たちがいう「1秒」の間に、人間の世界でいう数100年、
あるいは数1000年分の人生を生きる生物がいるかもしれない。
あるいは反対に、私たちがいう「1万年」が、寿命という生物も
いるかもしれない。

そういう生物(?)は、指を1本、動かすのに、20年とか、
30年もかかる。
岩石のようなものでできた生物を想像してみればよい。
・・・という話は、どこか荒唐無稽な感じがしないでもない。
しかしこんなことは言える。

脳みそにも、コンピュータでいうところの「クロック数」の
ようなものがあるのではないか、ということ。
たとえばワイフは、8年前に買ったパソコンを使っている。
私は、昨年(07年)に買ったパソコンを使っている。
ワープロとして使っている間は、それほどの(差)を
感じない。

が、画像を表示したり、ゲームをしたりするときには、
はっきりとした(差)となって、ちがいが出てくる。
情報を処理するための基本的な速度、つまりクロック数そのものが
ちがう。

俗な言い方をすれば、(頭の回転の速さ)ということになる。
子どもにしても、頭の回転の速い子どもは、速い。
そうでない子どもは、そうでない。
反応も鈍い。
仮に脳みそのクロック数が、2倍ちがうとすると、クロック数が
2倍速い子どもは、そうでない子どもの、2倍長く時間を使う
ことができるということになる。

全体に、クロック数が速いから、当然、計算するのも速い。
文章を書くのも、速い。
思考する力も、速い。
だからクロック数が2倍速い子どもにとっては、同じ「1秒」でも、
そうでない子どもの、「2秒分」の時間に相当する。
同じ「1年」でも、「2年分」の時間に相当する。
ただし誤解しないでほしいのは、クロック数が速いからといって、
時間を有効に使っているということにはならないということ。
(時間を長く使う)ということと、(時間を有効に使う)という
ことは、まったく別のことである。

そのことは、冒頭に書いたスズメの話を思い出してもらえば、わかる。
庭に遊ぶスズメたちは、目まぐるしく、活動している。
しかし、それだけのこと。
わかりやすく言えば、(中身のない人生)を、忙しそうに
繰りかえしているだけ。

恩師の田丸謙二先生は、いつも口癖のように、こう言っている。
「せっかく、いい頭をお持ちなのですから・・・」と。
私に対して、そう言っているのではない。

東大という大学に入ってくる学生たちに、いつもそう言っている。
先生がいう、「・・・なのですから・・・」というのは、
「もっと自分の頭で考えなさい」という意味だが、
先生の言葉をもう少し、自分なりに解釈すると、こうなる。
「せっかく速いクロック数の頭をもっているのだから、
脳みそを有効に使いなさい」と。

●最後に・・・

脳梗塞のようなダメージを受けないかぎり、実際には、
脳みそのクロック数などというものは、みな、それほどちがわない。
ちがっても、2倍とか3倍とかいうものではなく、
1・1倍とか、1・2倍とかいう範囲の、わずかなものかもしれない。
しかもそのクロック数というのは、訓練によって、速くすることができる。
このことも、子どもの世界を見れば、よくわかる。

言いかえると、同じ人生でも、それを長くして生きるか、
それとも、短くして生きるかは、その人、個人の問題ということ。
そのためにも、頭は使って使って、使いまくる。
そうでなくても、脳みそのクロック数は、加齢とともに、落ちてくる。
老人ホームにいる老人たちにしても、ある日、突然、ああなったのではない。
ある時期から、徐々に、そして少しずつ、長い時間をかけて、
ああなった。

今の私やあなたがそうかもしれない。
クロック数というのは、そういうもの。
全体に脳みその機能が低下していくため、その人自身が、それに気づくと
いうことは、まずない。

知らぬ間に、クロック数は低下し、また低下しながらも、低下したこともわからない。
だから歳をとったら、なおさら、頭は使う。
使って使って、使いまくる。

それがとりもなおさず、私たちの人生を、より長くすることになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 クロック数 クロック周波数 人間のクロック数 クロック周波数 
生きる密度)


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●時間とは

 改めて書くまでもなく、時間とは生き方の問題ということになる。
「そこに時間がある」ということではなく、「どう生きるか」。
それが時間ということになる。
もし「時間」という概念があるなら、「その時間を、どう使うか」。
それがここでいう「生き方の問題」ということになる。

 怠惰に過ごすのも1年なら、懸命に生きるのも、これまた1年。
「長さ」は、その「密度」によって決まる。
言い替えると、生き様の追求は、密度の追求ということになる。
いかに無駄を省き、密度を濃くしていくか。
それによって1年を10年にすることもできる。
1年を100年にすることもできる。

 もちろん回り道をすることも、よくない。
私たちも「生命」の一部でしかない。
その「生命」という部分には、限界がある。
ちょうど鉄がさび、やがて朽ちていくように、私たちの細胞も、さび、
やがて朽ちていく。
「急ぐ」という言い方は好きではないが、少なくとも、
無駄にする時間はない。
物理的な時間をいうなら、100年でも足りない。
1000年でも足りない。
真理の探究というのは、それほどまでに深淵で、道は遠い。

 「時間とは何か?」。
それを考えていくと、その先に、どう生きるべきかが見えてくる。
そういう意味で、物理学でいう(時間)と、哲学でいう(時間)には、
相互性がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 時間とは何か)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●The Howie Brothers(ホウイ兄弟)

今朝起きてすぐ、「The Howie Brothers」のことを書いた。
オーストラリアの音楽家である。
大学の同窓生でもある。
1970年のときの写真と、2010年の写真を並べて、BLOGに掲載した。
その2つの写真を見比べなら、こう思った。

 たいていの人は、(私のワイフもそうだが)、現在の写真を見て、「こんな人たちにも、若
いときがあった」と思う。
この見方は、まちがってはいない。
しかし空白の40年を縮めてみると、見方が逆になる。
「こんな青年にも、やがてくる老年期があった」と。

 もちろん青年期には、それはわからない。
老齢期という未来は、まだ存在しない未知の世界。
しかし実際には、どんな青年にも、すでに老齢期はある。
あって、どこかに潜んでいる。

 このことは、幼児たちを見ているとわかる。
年中児(4歳児)から、高校3年生まで。
そういった子どもを毎年繰り返し見ていると、やがて幼児を見ただけで、その子どもがそ
のあとどうなっていくか、おおかたの輪郭がわかるようになる。
幼児の中に、中学生になったときの様子、高校生になったときの様子がわかるようになる。
同じように・・・というわけでもないが、1970年のホウイ兄弟の写真を見ていると、
見た目には青年かもしれないが、その中に、現在のホウイ兄弟を見てしまう。

 どちらが先で、どちらが後ということではない。
その人たちの中で、人生がひとかたまりになっている。
だから私は、1970年の写真を見ながら、こう思う。

「この人たちにも、今のような老齢期があったのだ」と。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●春休み

 私にも春休みがある。
10日間ほどある。
いろいろ計画している。
が、こうした計画というのは、浅瀬にわく、泡のようなもの。
ポッポッと現れては、その一方で、ポッポッと消えていく。
若いころなら、「本を1冊、書いてやる」などと思ったもの。
しかし今の私は、「本を書くこと」には、まったく興味がない。
書いたものを本にしたいという意欲さえ、わいてこない。
今は、インターネットの時代。
これからはインターネットの時代。

 ひとつの例だが、10年ほど前までは、パソコン関連のソフトが、たくさん店に並んで
いた。
ゲームソフトはもちろん、画像編集ソフト、ビデオ編集ソフト、宛名書きソフト、家計簿
ソフトなどなど。
20年前には、もっとたくさんあった。
しかし今は、そのほとんどが、無料ソフトに置き換わった。
画像加工ソフトにしても、無料加工ソフトのほうが、内容が濃い。
使い勝手もよい。

 同じように、(情報)にしても、少し前までは、「安かろう、悪かろう」という思いが、
まだ残っていた。
ニュースにしてもそうだ。
今ではインターネットで配信される(情報)のほうが、はるかに質が高い。
(もちろん低いものもあるが・・・。しかしこれは選択の問題。)
何よりも瞬時、瞬時・・・というところがすごい。
朝に記事を配信すれば、昼を待たずして、反応が入ってくる。
(実際には、BLOGに書き込むと同時に、検索されるようになる。)

 どうしてこういう時代に、「本」なのか?
収入にはならないかもしれないが、私には、そのほうが楽しい。
つまりインターネットを利用して、好き勝手なことを書いているほうが、楽しい。
ということで、新年度からの新しい企画に挑戦したい。
(2009-2010年度は、「BW公開教室」に力を入れた。)


●同性愛

++++++++++++++++++

数日前、浜松市の男性教師が、児童買春で
逮捕された。
東京で、逮捕された。
相手は女の子かと思ったが、男の子だった。
つまりその教師は、同性愛者であった。
別の同性愛者に段取りをつけてもらい、
東京まで出かけていって、売春行為を
していたらしい。

+++++++++++++++++++

●「濃い男」

 「濃い男」「薄い男」という言葉は、私が最初に考えた。
今では広く、あちこちで使われている。
「肉食系」「草食系」と同じような意味で使われているが、私が使い
はじめたときには、すこし違った。
まったく女性にしか興味を示さない男を、「濃い男」という。
同性でもか構わないという男を、「薄い男」という。
私は、その中でも、「たいへん濃い男」。
同性の男に、肌をさわれただけで、ゾッとする。
一方、女性なら、だれでも構わない。
歯医者などに行って、女性の看護士に肌をさわられただけで、うっとりする。

 だから、こういうニュースを聞くたびに、「ヘエ~~?」と思ってしまう。
そんなに同性に興味があるなら、温泉か、大浴場へ行けばよい、と。
(あるいはそういうところは、飽きてしまったのか?)

●同性愛

 同性愛がどうこう言うのではない。
好ましくないとか、そういうことを言っているのでもない。
そういうことを言うと、今では「偏見」と考えられ、評論すること自体、許されない。
(今まで、一度もしたことはないが・・・。)
しかし「東京まで行って・・・」というところに、私は別の何かを感じてしまう。
当人も何かしらの(うしろめたさ)を感じていたのだろう。

 それについてワイフは、「地元じゃあ、バレるからじゃない」と。
そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
年齢は53歳というから、あちこちの学校で教壇に立っていたはず。
現在の学校に移る前は、市内のN中学校で、教壇に立っていたという。
顔も広く知られている。
「だから東京で・・・」ということになった(?)。

 しかし考えてみれば、不思議な世界と思う。
人間の世界にも、(男)と(女)がいて、さまざまな人間模様を繰り広げている。
ときにそれが(男)と(男)になり、(女)と(女)になったりする。
どうでもよい世界だが、そこに子どもを巻き込む。
それはいけない。

この浜松市でも、毎年教師によるハレンチ事件が、1~2件はある。
親レベル、学校レベルでもみ消される事件まで入れたら、もっと多い。
当人どうしだけの秘密のままですまされるケースを含めると、さらに多い。
つまりこうした事件は、氷山の、そのまた氷山の一角。

 バレたら、教師生命どころか、世俗的な名誉、地位すべてを失う。
それほどまでの危険を感じたら、ふつうの良識のある人は手を引く。
「教職」という立場にあるなら、なおさらである。
そう言えば、どこかの小学校の校長が、校長室で、児童の母親と密会を重ねていたという
事件もあった。
これもつい先日のできごとである。
が、人間のもつ欲望のパワーは、それをはるかにしのふほど、強い。
逮捕された教師も、こう言ったという。
「自分を抑えきれませんでした」と。

 ・・・こういう事件は、モグラ叩きのモグラのようなもの。
人間がそこにいるかぎり、なくなることはない。
これからも頻繁に起こるだろう。
止めようとして、止められるものではない。
が、一言。

 私には、同性愛者の気持ちが、どうしても理解できない。
頭の中を、180度ひっくり返してみるのだが、それでも理解できない。
「どうして男が、男に、性的な関心をもつのだろう」と考えたところで、思考が停止して
しまう。
だからこそ、不思議な世界と思う。
同じ人間であり、同じ男なのに、これだけは、私の理解の範囲を超えている。


Hiroshi Hayashi++++++MARCH.2010++++++はやし浩司

●今日、あれこれ(3月27日)

●経済問題

 ひとつだけはっきりしていること。
このまま進めば、日本経済は、やがてにっちもさっちもいかなくなるということ。
国の借金は、雪だるま式にふえつづける。
その一方で、大量の円を市中にばらまきつづける。
へたをすれば、デフレ状態のまま、ハイパーインフレを迎える。
そうなれば円の大暴落。
札も国債も、紙くずと化す。
(もともと「紙」だから、私は驚かないが・・・。)

●中国の干ばつ
 
 中国南部と、ベトナム北部が、大干ばつに見舞われている。
原因は、地球の温暖化。
が、本当の問題は、これから。
この先、世界各地で、「水戦争」が起きるようになる。
1960年代に始まった、インド・パキスタン紛争(印パ紛争)も、
もとはと言えば、水の奪い合いだった。
そうした「火種」ならぬ、「水種」は、世界各地に散らばっている。
すでに中国とベトナムの関係が、ぎくしゃくし始めている。

農耕地が被害を受ければ、そのまま食料不足につながる。
そうなれば影響は、この日本にも及ぶ。
遠い海の向こうの話では、すまされなくなる。

●民主党政権

 「日本は左傾化し、中国に接近しつつある」と。
私はそうは思っていないが、アメリカ人も、オーストラリア人も、
そう思っている。
今の民主党政権になって、日本は、かなり誤解されているようだ。
前回の衆議院議員選挙では、多くの日本人は、反麻生、反自民に
傾いた。
しかしだれも民主党が、左派政権とは、思っていなかった。
左派政権を求めて、民主党に一票を入れたわけではない。
社民党などと連携がわかってはじめて、「?」と思い始めた。
(これはあとの祭り!)

 が、何よりも失望したのは、小沢一郎幹事長。
小沢一郎幹事長が臭わす醜悪さは、麻生前総理大臣の比ではない。
そればかりか、やがてマスコミ各誌は、民主党をさして、「小沢独裁政権」
と揶揄(やゆ)するようになった。
まさに独裁政権。
派閥政治にもいろいろと問題はあるが、自民党の派閥政治のほうが、民主的(?)。
そんな印象をもってしまった。

 が、小沢一郎幹事長は、この場に及んでも、まだ強気。
夏の参議院議員選挙では、民主党の選挙参謀を務めるとか。
その姿勢は、麻生前総理と、同じ。
まるで自分の姿が見えていない。
「どうぞ、ご勝手に!」。


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2010年4月27日火曜日

*Internet Adiction

●ゲーム脳(ゲーム中毒)

+++++++++++++++++++

この日本では、どうして「ゲーム脳」が
問題にならないのか。
「ゲーム脳」という言葉が悪いなら、
「ゲーム中毒」でもよい。

隣の韓国では、すでに10年以上も前から、
また最近では中国でも、「ゲーム中毒」の
若者たちが、問題になりつつある。
ゲーム中毒の子ども(若者も)を集めた
更正施設や、更正プログラムまで、用意
されている※。

が、この日本では、問題にならない。
「ゲーム脳」という言葉を使って、エッセーを
書いただけで、猛烈な抗議に嵐にさらされる。
ゲームの世界そのものが、カルト化している。
ゲームに日夜夢中になっている子ども(若者)は、
まさにその信者ということになる。

(ためしに、「はやし浩司」で検索してみるとよい。
私を、口汚く中傷しているサイトやBLOGがある。
そのほとんどが、ここでいう「信者」たちである。
私が書いた『ポケモンカルト』(三一書房)などは、
出版してから11年になるが、いまだに叩かれつづ
けている!)

が、日本人だけが特別ということは、ありえない。
日本人の脳みそだけが、韓国人や中国人と、構造が
ちがうということは、ありえない。
今の今も、この日本には、ゲーム中毒の子ども(若者)は、
いる。
日に、何時間も何時間も、ゲームに夢中になっている。
真夜中でも、ゲームに夢中になっている。
が、日本では、そういう子ども(若者)が、どういうわけか、
問題にならない。
考えてみれば、これほどおかしな話はない。

ここでは、別の角度から、「ゲーム脳」について
考えてみたい。

+++++++++++++++++++++++++

●まねる(観察学習)

 発達心理学の世界には、「観察学習」という言葉がある。
子どもは、教えられて学ぶことよりも、まわりを観察しながら、自ら学ぶことの
ほうが多い。
量的に、はるかに多い。
「学習効果」ということを考えるなら、またそのほうがはるかに効果的。

 たとえば以前、何かにつけ、ツッパリ始めた子ども(小5男児)がいた。
言動が粗野になり、独特の目つきで、独特の話し方で話すようになった。
「ウッセー」「コノヤロー」と。
紫の地に、金色の刺繍をほどこしたコートを着てきたこともあった。

 で、その子どもを、高校生の受験クラスに入れてみた。
高校生の間に座らせて、好きな勉強をさせてみた。
最初は、体をかたくしていたが、週を追うごとに、ぐんぐんと変化していった。
あとで聞いたら、高校生の中の1人を、自分の理想像のように思いようになったらしい。
その高校生は、野球部の部員だった。

その子どもは、日曜日など、こっそりとその試合の応援に出かけたりしていた。
家に帰っても、その高校生の話ばかりするようになった。

 これは観察学習というわけではないが、その子どもは、まわりの様子から、
多くのものを学んだことになる。
それは「学ぶ」という行為というよりは、「まねる」に近い。
その「まねる」という行為を、「モデリング」という。

●自己認識能力

 ものごとは常識で考えよう。
まだ判断力や自己管理能力がじゅうぶん育っていない子どもが、ゲームを相手に、
「殺せ!」「やっつけろ!」と叫んで、心によい影響を与えるはずがない。
こんな実験が知られている。

 ある一定時間、暴力映画を見せた子どもは、その直後、行動が暴力的になるという
(バンデュラ、ほか)。
多くの研究者が、同じような実験結果を報告しているので、今さら改めて説明する
までもない。
つまり子どもというのは、そのつど環境の中で、自分を作っていく。
作られていく。
それもそのはず。

 子どもが現実検証能力、つまり自分、あるいは自分と他者との関係、さらには自分の
置かれた立場を、客観的に判断できるようになるのは、小学3年生(9歳)以上。
それ以前の子どもには、その能力はない。
たとえば病院や図書館で騒いでいる幼児がいる。
そういう幼児に向かって、「静かにしなさい!」と叱っても、意味はない。
「騒いでいる」「迷惑をかけている」という意識そのものがない。
そういう行為がどういうものかさえ、わかっていない。
叱られたあと静かになるのは、こわいからそうしているだけ。

 つまり小学3年生(9歳)以前の子どもに、その判断能力はない。
判断能力がないというよりは、思考力が未熟。
だからこの時期の子どもは、理性や知性を使って「学ぶ」ことよりも、周囲を
観察し、それを「まねる」ことによって、自分の思考パターンや行動パターンを
形成していく。
それがモデリングということになる。

●疑わしきは罰する

 法律の世界では、『疑わしきは罰せず』という。
が、教育の世界では、『疑わしきは罰する』という。
なんでもあやしいものは、先手先手で、子どもの世界から遠ざける。
安全性が確認されるまで待っていたら、それこそ手遅れになってしまう。

 ゲームにしても、しかり。
もちろん中には、良質なソフトもある。
そういうものまで、ひとまとめにして、「反対!」と、私は言っているわけではない。
しかし良質なソフトにまぎれて、悪質なソフトがあるのも事実。
そういう悪質なソフトまで野放しにしては、いけない。
有害とは証明できないかもしれない。
しかし少なくとも、安全と証明されたわけでもない。
だったら、遠ざける。
それくらいの配慮というか、子どもの世界に対する思いやりは、あって当然の
ことではないか。

……と私は書いている。

●付記

 あるBLOGには、こうあった。
「(右脳教育を創始者の)SDも、(ゲームを批判する)はやし浩司も、
同じようなもの。
一度、この2人を、バトルさせてみたい」と。

 SD氏(2009年死去)は、ゲームは、右脳の刺激になると説いていた。
そのSD氏と私も、同じ、と。
しかし(右脳教育)と(ゲーム脳)とは、どこでどう結びつくのか。
その右脳教育にしても、安全が確認されたわけではない。
むしろ幼児期においては、左脳教育(論理と分析)こそ、重要。
そうでなくても、映像文化に発達とともに、あえて右脳を刺激しなくても、
子どもたちは、じゅうぶん過ぎるほどの刺激を受けている。
反対に、今、静かにものを考える子どもが少なくなった。

頭に飛来した情報を、ペラペラと口にする。
しかし中身がない。
薄っぺらい。
子どもたちの世界が、バラエティ番組化している。
「これでいいのか!」と叫んだところで、この話はおしまい。

【補記】

 私は、右脳教育には、懐疑的である。
10年以上も前から、そういう趣旨で、原稿を書いてきた。
その気持ちは、いささかもゆらいでいない。
「まちがっている」と言っているのではない。
「あえて必要ない」と言っている。
フォト化とか、直観像とか、いろいろ言われているが、安全が確認された
わけではない。
ある幼児教室の案内書には、こうあった。

「これからは、右脳教育を受けた子どもたちが、ゾロゾロと(東大の)
赤門をくぐることになるでしょう」と。

それから10年。
そろそろその結果が出ているはず。
もしSD氏とバトルするようなことがあれば、(天国なら天国でもよいが)、まず
そのあたりの資料を出してもらうところから始めたい。

(注※)

●ゲーム脳

+++++++++++++++++

「ゲーム脳」というのは、大脳生理学上の
問題ではない。
「現象」の問題である。
「大脳生理学上、ゲーム脳というのはない」と
説く学者もいる。
その世界では神格化され、「つぎつぎと商品企画
が、もちこまれている」(某雑誌)とか。

結構な話だが、こういう学者は、つぎのような
現象を、どう考えるのだろうか。
産経新聞をそのまま転載させてもらう。

+++++++++++++以下、産経新聞より++++++++++++++

【産経新聞・10-02-08】

『・・・世界最大となる3億3800万人のインターネット人口を抱える中国で、2400万人の青少年がオンラインゲームやチャットにのめり込む(ネット中毒)に陥っている。中国青少年インターネット協会が8日までに発表した調査結果で明らかになった。 

 中国のネット人口のうち3分の1は、19歳以下の青少年が占めている。6~29歳の青少年7千人を対象に行われた調査結果によると、ネットに依存している青少年は2007年の9・7%から14%に増加。「ネット中毒」が社会問題化し始めた05年ごろは400万人程度で、4年間で6倍に増えた計算だ。娯楽の少ない発展が遅れている地域に中毒者が多いことも、特徴の一つに挙げられている。

 中毒を誘因している一番の原因はオンラインゲームだ。「ネットを通じて何をしているか?」との問いに対し、47・9%が「ゲーム」と回答。2位の「アニメや映画、音楽のダウンロード」の23・2%、3位の「チャットで友達を作る」の13・2%を大きく引き離した。

 中国では08年11月、人民解放軍北京軍区総医院が策定した「ネット中毒臨床診断基準」を公表し、ネット中毒を「繰り返しネットを使用することで一種の精神障害をきたした状態」と定義付けた。今回の調査でも、ネット中毒になっていない人の66・5%は「他人を殴るのは間違っている」と答えたのに対し、中毒者は48%にとどまった。

 国際情報紙、環球時報(英語版)によると、中国青少年精神保健センターの創設者は「ネット中毒者の40%は、(不注意や衝動的な症状などが出る)注意欠陥・多動性障害といった精神疾患にかかっている」と警鐘を鳴らしている』(以上、産経新聞)。

+++++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ゲーム脳 中国の現状 ゲーム中毒 ネット中毒者 障害 中国のネット中毒者 ゲーム 疑わしきは罰する)


Hiroshi Hayashi++++++April.2010++++++はやし浩司

*Moral *Vanity

●道徳とMoral(モラル)

++++++++++++++++++

私はずっと、「道徳」イコール、「Moral」、
「Moral」イコール、「道徳」と考えていた。
しかし日本語と英語は、必ずしも一致しない。
よい例が、「尊敬」と「respect」である。

日本語で、「尊敬する」というと、「相手を尊く、
敬う」という意味で使われる。
英語で「respect」というと、日本語の
「尊敬」よりは、ずっと意味が軽い。
「一目置く」とか、「敬愛する」とか、そんな
ニュアンスになる。
日常的にもよく使う。

たとえば自分の子どもが発表会の場なので、
堂々と自分の意見を言ったりすると、親は
自分の子どもに向かって、「I respect 
you.」などと言ったりする。
「よくやったね!」という意味に近い。
「尊敬する」という意味では、むしろ、
「I am proud of you.(あなたを
誇りに思う)」のほうが、よく使われる。

そういうちがいを無視して、日米の子どもの意識を
比較調査しても、あまり意味がない。
たとえば「あなたはあなたの父親を尊敬しますか」
という質問項目があったとする。
質問を受けた日本の子どもは、そう聞かれると、身を
構えてしまう。
真顔になってしまう。

一方、英語国の子どもなら、「Do you respect
your father?(あなたの父親を尊敬しますか)」
と聞かれれば、あまり深く考えないで、「Yes!」と答えるだろう。

同じことが、「道徳」についても言える。

「道徳」というと、日本では、「すでに規範として確立された、
守るべき規律」という意味で使われている。
道徳を否定する人はいない。

一方、「Moral」というと、辞書などには、
「規律」という訳語が載っている。
「規律一般」をいう。
大修館ジーニアス英和辞典にも、「原義、風俗習慣」とある。
その中には、「よい規律」もあれば、「悪い規律」も
ある。
日本語でいう「道徳」とは、かなり意味がちがう。
ただ「モラル」というカタカナ言葉は、「道徳」と同じ意味で
使われることが多い。
そのあたりに、誤解の元(もと)がある。

日本語で、「モラル」というと、そのまま「道徳」という
意味で使われる。
たとえば「モラルが低下した」と言えば、道徳心が低下
したという意味になる。
「それはモラルの問題」というような言い方をするときもある。

で、誤解というのは、コールバーグの説いた、「脱道徳論」
である。

コールバーグは、道徳の完成度が高くなればなるほど、
人は、「脱道徳」になると説く。
最終的には、「人間は普遍的価値を求め、命を中心に置いた
ものの考え方をする」(新曜社・「心理学とは何だろうか」)と。

が、ここで首をかしげる。
日本人なら、みな、首をかしげる。
道徳というのは、先にも書いたように、「確立された規範」をいう。
「それから脱するということは、どういうことか?」と。
実際、「このような発達段階が真に存在するだろうか」と
疑問を投げかけている学者もいる(お茶の水大学M教授)。

しかしここに、今まで書いてきたことを当てはめてみると、
謎が解ける。
コールバーグは、「規律などというものは、必要最低限のものである。
自ら考え、行動し、責任を取ることこそ重要」と説いている。
そういう意味で、「脱・規律」という言葉を使った。
そしてそれを誤訳ではないが、「脱道徳」としたから、
日本人には、理解できなくなってしまった。
(注:「心理学とは何だろうか」の中では、「脱慣習的段階」と
なっている。)

本来なら、コールバーグの書いた論文を原書で読んだ
上で、この原稿を書かねばならない。
コールバーグは、本当に「Moral」という言葉を
使ったのだろうか?
そういう疑問がないわけではない。
それもわからず、こういう原稿を書くこと自体、
いいかげん。
私にもそれがよくわかっている。
わかっているが、あえてそれを調べて書く必要もない。
私は私のやり方で、つまり勝手にコールバーグの「脱道徳論」
を、考えなおしてみればよい。

+++++++++++++++++

●脱・規律論

 規律に対しては、3つの段階に分けられる。
(道徳ではなく、あくまでも「規律」。)

(1)前規律段階

 「規律」に盲目的に従い、自立した思考力のない段階。
たとえば「軍規にはこうあるから」などという理由で、批判を加える
ことなく、それに従ったりすること。

(2)規律段階

 「規律」といっても、そのつど取捨選択しながら従うという段階。
たとえば「規則ではそうなっているが、今は、緊急事態だから、別の考え方
をする」というのが、それ。

(3)脱規律段階

 規律の存在は認めながらも、自分で考え、行動し、責任を取る段階。
一般的な規律よりもさらにきびしい規律を、自分に課すことが多い。
たとえば主義主張を守るため、あえて既存の規律に背を向けて、行動するなど。

 当然のことながら、後者ほど、道徳(Moral)の完成度が高い人
ということになる。
が、このことは、フロイトが説いた、(1)エスの人、(2)自我の人、
(3)超自我の人の分類法に、どこか似ている。
フロイトは、欲望のおもむくまま行動するする人を、「エスの人」、
臨機応変にそのつど理性的に判断する人を、「自我の人」、
そしてどんなばあいも、理性に従い、まちがったことをしない人を、
「超自我の人」と呼んだ。

●道徳

 それが人間が守るべき規範として確立された「規律」である
とするなら、守るのが当然。
「規則」とは、ちがう。
「規律」とも、ちがう。
「基準」とも、ちがう。
道徳は、道徳。

しかしここで最大の疑問が生じてくる。
そも道徳なるものは、存在するのかという疑問である。

 わかりやすくするため、「道徳」を、「善悪判断」と
言い換えてもよい。
が、ここでも問題が生ずる。
「善とは何か?」「悪とは何か?」と。
またそれは教育によって、子どもたちに伝えられるものなのだろうか。
NG先生(元小学校校長)は、こう述べている。
「道徳の時間で道徳を教えていると、先生好みの、きれいごとばかり
並べる子どもが出てくる」と。

 つまりこう言ったり、書いたりすれば、先生が喜ぶだろうという意見や
解答を、先回りして子どもが発表したり、書くようになる、と。
また「そういう技術ばかり、先に身につけてしまう」(NG先生)と。
が、それでは道徳教育にならない。

●仮面

 が、さらに不都合なことが起きる。
見てくれの「善」を子どもに押しつけると、やがて子どもは仮面をかぶる
ようになる。
俗に言う、「いい子」ぶるようになる。
親の過干渉や過関心、あるいは過剰期待が強すぎても、子どもは、いい子ぶる
ようになる。

イプセンの『人形の家』の中の。「人形子」(後述、原稿添付)を、思い起こすまでもない。
つまり仮面をかぶることによって、本来の自分、もっと言えば、本来の子ども自身、
さらには本来の人間性まで、心の隅に押し殺してしまう。
それがいかに危険なものであるかは、ユングのシャドウ論を読めばわかる。
(シャドウ論については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)

●結論

 人間が、社会的動物として生きていくためには、「規律」は必要である。
それは当然であるとしても、しかしその規律は、絶対的なものではない。
臨機応変に、変化し、そのつど柔軟さをもっていなければならない。
が、さらに一歩進んで、「規律があるから・・・」という、規律依存型の
考え方から、「規律のあるなしにかかわらず、自らを律する」という、自立型の
考え方に進んでいく。

 それが「脱・規律」ということになる。
コールバーグが説いた、「脱・道徳」とは、ちがうものかもしれない。
本当のことを言えば、「道徳」でも、「モラル」でも、はたまた「Moral」でもよい。
コールバーグにこだわる必要はない。
私たちは私たち自身の頭で考え、行動すればよい。
自分で責任を取ればよい。
コールバーグの決めたことを、「規範」とするなら、それを超えた理論を展開する。
それこそがまさに、「脱・規律」ということになる。
(100426)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 脱規律論 脱道徳論 脱規範 道徳 道徳教育 コールバーグ)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●人形子について

+++++++++++++++

●人形子(にんぎょうし)
08年6月の原稿より。

++++++++++++++++++++

A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。

あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。

そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。

そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。

++++++++++++++++++++

ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1~2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。

できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。

やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。

先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。

学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。

そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)

冒頭で、「10人のうち、1~2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2~3人に
なるかもしれない。

が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。

というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。

つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。

こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。

一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。

親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。

「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。

「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。

自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。

「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。

学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。

しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。

では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。

が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。

何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。

非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。

(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)

たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。

このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。

「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。

しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。

(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)

++++++++++++++++++++++++

【引きこもりvs家庭内暴力】

++++++++++++++++

将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。

それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。

問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。

この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。

思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。

そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。

つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。

が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12~14歳前後か。

ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。

中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。

そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。

が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。

ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。

そこであなたの子どもは、どうか?

あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。

子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。

賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分を演ずる子ども 仮面をかぶる子供 仮面をかぶる子ども)


Hiroshi Hayashi++++++April.2010++++++はやし浩司

【自分のない人たち】
  
●虚栄

+++++++++++++++++++

虚栄の世界に生きる人は多い。
概して、女性に多い。
つまりそれだけ他人の目を気にしている。
が、さらにそのルーツをたどれば、
自我の確立に失敗した人ということになる。
わかりやすく言えば、「自分がない」。

+++++++++++++++++++

●1万円のチップ

 虚栄を張る人は、いくらでもいる。
家計は火の車なのに、冠婚葬祭に金をかける人から、学歴や経歴、
さらには家系を偽る人まで、さまざま。
年金生活をしながら、美容院で、1万円のチップを払っていた女性
もいた。
しかも驚くなかれ、年齢は、80歳!

ふつうの常識のある人なら、他人の目など気にしない。
気にしたところで、どうにもならない。
どうにもならないことを、よく知っている。

●自我の確立

 思春期から青年期にかけての最大のテーマは、自我の確立。
(したいこと=自己概念)と(していること=現実自己)を、一致させる。
「私」は、その上に積み上げられる。

 が、この自我の確立に失敗すると、人生そのものが、混乱する。
糸の切れた凧のようになる。
概して女性にこのタイプの人が多いのは、結婚という(関門)をくぐり抜ける
とき、それまでの(私)を捨てるように強要されることによる。
結婚と同時に、それまでのキャリアをあきらめる女性は多い。
またそれから生まれる欲求不満には、相当なものがある。
それが変形して、子どもの教育に狂奔するようになったり、ここに書いたように、
虚栄で身を飾ったりするようになる。

●限りない自己中心性

 自己中心性が肥大化した状態を、「自己愛」という。
その自己中心性が肥大化すればするほど、その人の住む世界は狭小化する。
つまり小さくなる。
本当はだれも、その人のことを気にかけてはいないのに、自分が世界の中心にいるかの
ように錯覚する。
みなが、自分を注目しているかのように錯覚する。
そのため、世間体を気にする。
見栄やメンツを気にする。
  
●見栄を張る人たち

 見栄を張る人は、どこまでも見栄を張る。
おかしいほど、見栄を張る。
コミカル漫画とまちがえるほど、見栄を張る。
その張り方には、際限がない。
定型もない。
自分のことだけではない。
配偶者のこと。
子どものこと。
さらには孫のこと。
家系や先祖のこと。
学歴や財産のこと。

 わかりやすく言えば、ウソにウソを塗りかためる。
そしてそれを他人に吹聴する。
吹聴してもしかたのない人にまで、吹聴する。

●ふつうの行為

 ……といっても、だれしも、ある程度の見栄は気にする。
無意識のまま、気にする。
こんなことがあった。

 私は講演に招かれるたびに、服装に気をつかう。
私というより、ワイフのほうが、気をつかう。
そんなある日、二男が、ある中学校での講師に招かれた。
そのときのこと。

 二男は、ヨリヨレのシャツに、ジーパン姿で出かけていった。
シャツには、いくつか、穴まであいていた!
(これは本当の話。)

 そこで私が、「人前で話をするなら、それなりのかっこうをしていけ」と忠告した。
が、二男は平気だった。
ギターをかつついで、そのまま出かけていった。

 つまり見栄や体裁を気にしないと言いながら、私は私で、結構、見栄や体裁を
気にしていることを知った。
言い替えると、傍から見るとおかしいほど虚栄を張っている人でも、その人にとっては
それがふつうの行為ということになる。
その人自身は、それに気づいていない(?)。
またそう考えないと、そういう人たちの心理が理解できない。

●例

 いろいろな例がある。

★N氏(農業)は、車検の切れた、古いが、しかし見た目にはそれほど傷んでない
大型高級車を納屋の裏に、カバーをかけて、隠し持っていた。
都会から大切な客が来たときだけ、こっそりとそれを出して使っていた。

★T女は、いつもサイフに札束を入れて、もち歩いていた。
いちばん上と下だけ、1万円札。
間はすべて1000円札。
買い物をするときも、レジの人に、いちいちサイフの中身を見せつけるかのようにして、
お金を払っていた。

★G女は、家の居間に、東京のT女子大学の同窓会名簿を飾って、置いていた。
それとなく、客に、自分の出身校を示すためだったというが、実際には、G女は、
高校しか出ていなかった。

★Y女は老齢年金と、息子からの仕送りだけで生活していた。
しかし近所の人たちには、「祖父の代からの財産で、遊んで暮らしています」と、
死ぬまで言いつづけていた。

★B氏は官庁を退職してからも、過去の役職と肩書きにしがみついていた。
そしてことあるごとに、大物ぶって見せていた。
たとえば大型店がその地方に進出するという計画を耳にすると、その地域に住む
親類に、こう言って電話をかけたりしていた。
(そのため経済情報誌だけは、片時も離さず持ち歩いていた。)
「今度、ぼくの友人が、そちらに大型店を出すことになりましたから、よろしく」と。
もちろんB氏とその大型店は、縁もゆかりもない。
つまりホラ!

●特徴

 こうした虚栄を張る人には、いくつかの特徴がある。

(1)慢性的な欲求不満が根底にある。
(2)異常なまでの自尊心や、過去へのこだわりをもっている。
(3)表面的には、努めて善人ぶり、他人の評価を気にする。
(4)口がうまく、それとなく自分を大物に見せる術にたけている。
(5)自己愛者の特徴として、他人が批判するのを許さない。
(6)自分がない分だけ、ものの考え方が流動的で、コロコロと変わる。
(7)いつも自分がその場の(中心)にいなければ、気が済まない。
(8)他人との良好な人間関係を築きにくい。そのため、孤独。
(9)虚栄を気にする一方、他人を見かけだけで判断しやすい。
(10)幸福観が相対的。「他人より幸福なら、自分は幸福」と考える。
(11)そのため、他人の不幸話を、何よりも楽しむ。

 が、虚栄は虚栄。
わかりやすく言えば、「化けの皮」。
いつかは、はがれる。
そしてそのとき虚栄を張った分だけ、今度は自分が苦しむ。
ある母親は、自分の娘が高校に入学したときのこと。
毎日駅まで娘を車で送り、そこで衣服を制服に着替えさせていた。
娘の通学校を、近所の人に隠すためである。

●私の問題

 しかしこれは他人の問題ではない。
先にも書いたように、虚栄というのは、(もちろん程度の差はあるが……)、
だれしも気にしている。
しかも無意識。
そこで大切なことは、「では、私はどうか?」と自問してみること。
「私は虚栄心はない」と思っている人でも、意外といろいろな場面で、虚栄を
張っていることが多い。

 で、あえて言うなら、こうなる。

 まず、ありのままの自分をさらけ出してみる。
飾らない。
偽らない。
ウソをつかない。
(もちろん言いたくないこともあるだろう。
そういうときは黙っていればよい。)

その結果として、それまでの自分が、虚栄を張っていたことを知る。
自分自身のステージがあがったとき、それまでの自分が、低いステージにいたことを知る。
こうして少しずつ、自分のステージをあげていく。
その結果として、虚栄から脱却することができる。
「私」は、「私」らしく生きることができる。
自分を取り戻すことができる。

●補記

 この問題は、「生き様」の問題ということになる。
先に、「虚栄を張る人は、それだけ自分のない人」と書いた。
言い替えると、虚栄と闘うためには、自分を確立すること。
自分の生き様を確立すること。

 そのためには、考え、自分の生きる哲学をもつ。
そういう意味で、私は、二男には教えられた。
二男は、まったくと言ってよいほど、虚栄を張らない。
ありのままの姿で生きている。
「すばらしい」と思う前に、自分の息子ではないような気がする。
たとえば今、二男は、コンピュータの世界では、(ものすごいこと)をしている。
スイスにあるCERN(世界最大の量子加速器研究所)のコンピュータ技師をしている。
といっても、スイスにいるわけではない。
アメリカのインディアナ大学の研究室に籍を置いている。
全世界の研究者のコンピュータをつなぎ、CERNから出てくるデータを分析している。
(実際には、コンピュータをつなぐプログラムの開発に携わっている。)
が、一度だって、それを自慢したことはない。
(自慢しているのは、この親バカの私のほう。)

 「すごいなあ!」といくら言っても、「何でもないよ」と。
名誉にも、地位にも興味はない。
「東京ではできないのか?」と言っても、「東京には、ぼくのできる仕事はない」と。
そういう二男を見ていると、その反射的効果として、自分の愚かさを知る。
哲学のなさを知る。
そういうこともある。

 さて、今日も始まった。
今日こそ、虚栄と無縁の一日を過ごしてみたい。
(100427)

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Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

*Learning Club for pre-school children

●4月26日の風景(BW子どもクラブbyはやし浩司)


●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司


【幼児の学習】(浜松BW教室)(あいさつ)新年長児(5歳児)byはやし浩司

















http://www.youtube.com/watch?v=pdM65KC33Fg

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http://www.youtube.com/watch?v=VydjKztk2Gw

Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

2010年4月26日月曜日

*What is Myself?

●その人の基本

++++++++++++++++++

その人とは、何か?
その人の基本とは、何か?
それが60歳を過ぎると、「輪郭」として
わかるようになる。
おおざっぱに、わかるようになる。
自分のことでもよい。
配偶者のことでもよい。
親類のことでもよい。

「あの人は、こういう人」と。

その「輪郭」は、実は乳幼児期に作られる。
乳幼児期に作られたまま、それが原型となって、
みな、おとなになっていく。
四角い人は、四角い人のまま、。おとなになっていく。
丸い人は、丸い人のまま、おとなになっていく。

+++++++++++++++++

●オオカミ姉妹

 ここ数日、オオカミ姉妹の話が気になる。
もう一度、昨日書いた原稿を、ここに書き出してみる。

●オオカミに育てられた姉妹

++++++++++++++++++

オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。

この2人の姉妹について、私はあちこちで
書いてきたし、講演会でも、よく話してきた。

が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。

(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤隆・新曜社)より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 この中でとくに注意しなければならないことは、(10)~(12)。
年齢を追って、もう一度、整理してみる。

 姉のカマラは、推定年齢8歳で見つかっている。
その姉は、「6年後」、つまり推定年齢、14歳で、やっと直立して歩行するようになった。
「7年後」、つまり推定年齢、15歳で、45語の言葉を話せるようになった。
もしカマラが、ごくふつうの家庭で生まれ育ったなら、満1歳前後には、直立して歩き、
満2歳前後には、ある程度の会話ができるようになっていただろう。

 しかしカマラのばあい、直立して歩けるようになるまでに、見つかってから6年も
かかっている!
45語の言葉を話せるようになるまでに、7年もかかっている!

 さらに別の記録によれば、カマラにしても、また同じころフランスで見つかった
ビクトールという少年にしても、最後まで、人間らしい感情や心を取り戻すことは
なかったという。

●三つ子の魂

 この野生児の例は、乳幼児期における(親子のふれあい)がいかに重要なもので
あるかを説明するために、よく取り上げられる。
と、同時に、そのころその人の「輪郭」ができるということも、明確に示している。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその実、その「私」は、乳幼児期にその「輪郭」ができあがったとみてよい。
その結果が今であり、今の「私」は、その結果に過ぎない。

 心のやさしい人、心の冷たい人。
穏やかな性質の人、はげしい気性の人。
何ごともやる気満々の人、いつも逃げ腰の人。
ものごとをよく考える人、考えない人。
他人に感動しやすい人、感動しない人などなど。

 わかりやすい例としては、ケチ(ためこみ屋)と呼ばれる人がいる。
発達心理学的に説明すれば、肛門期(フロイト)に、愛情飢餓を経験すると、内へ内へと、
ものをためやすくなる。
それがケチになったり、ためこみ屋になったりする。

 長男、長女のこのタイプの人が多いのは、下の子(弟、妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に陥ったためと考えられている。
まさに『三つ子の魂、百まで』ということになる。

●自己診断法

 そこで「自分探し」ということになる。
が、言い替えると、「自分の輪郭探し」ということになる。
つまり自分で自分の輪郭を知る。
それは可能なのか。
またその方法は、あるのか。

 「私」という人間の輪郭が、乳幼児期に作られたことはわかる。
が、その輪郭といったものは、どういうものなのか。
ひとつの診断法として、こんなものがある。
「私は子どものころから……」という文章につなげて、自分のことを書いてみる。
あまり深く考えないで、思いついたままを書くのがコツ。
あなたも一度、この診断をしてみるとよい。

===============

「私」を知る、自己診断法

===============

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(

===============

以上、20問用意してみた。
その結果を見ながら、自己分析をしていく。

●私のばあい

 私も、してみる。
(ヨーイ、スタート!)

○私は、子どものころから……(何にでも興味をもった。
○私は、子どものころから……(捜し物が、苦手だった。
○私は、子どものころから……(さみしがり屋だった。
○私は、子どものころから……(外ではにぎやかな子どもだった。
○私は、子どものころから……(甘い食べ物が好きだった。

○私は、子どものころから……(負けん気が強かった。
○私は、子どものころから……(個人的に活動することが多かった。
○私は、子どものころから……(集団行動が苦手だった。
○私は、子どものころから……(寒がりだった。
○私は、子どものころから……(ものを作るのが好きだった。

○私は、子どものころから……(他人の心を読むのが苦手だった。
○私は、子どものころから……(女の子が苦手だった。
○私は、子どものころから……(絵を描くのが好きだった。
○私は、子どものころから……(好奇心が旺盛だった。
○私は、子どものころから……(いじけやすく、ささいなことをよく気にした。

○私は、子どものころから……(庭のある家に住みたかった。
○私は、子どものころから……(貧乏がこわかった。
○私は、子どものころから……(酒や酒のにおいが、嫌いだった。
○私は、子どものころから……(行動的だった。
○私は、子どものころから……(正義感が強かった。

=================

●自己分析

 同じようなテストを、私のワイフや、生徒たち(中高校生)にしてもらったことが
ある。
が、不思議なことに、他人のばあいは、「輪郭」がよく見える。
「この子は、こういう子だな」と。
しかし自分のこととなると、「輪郭」がよくわからない。
あのフロイトも、自分の夢判断を、弟子のユングに頼んでいる。
そういう意味でも、自分のことを知るのは、むずかしい(?)。

 それはさておき、そこであなたは、私の回答を読んで、私の「輪郭」をどのように
思っただろうか。
あなたは私を、どのような「輪郭」をもった人間と思っただろうか。
が、ここではその内容は、あまり重要ではない。
また私の自己分析をするのが、目的ではない。

 あなたが私についてどんな印象をもったにせよ、その印象、つまりここでいう「輪郭」
は、私の乳幼児期に作られたものということ。
それが現在の「私」の骨格になっている。
もちろんこのことは、あなた自身についても、当てはまる。

●臨界期仮説(critical period hypotheses)

 「臨界期」という言葉が、ここ数年、急速に注目されるようになってきた。
もともとは、「言葉の発達についての仮説」として生まれた。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

+++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

言語学および第二言語習得における臨界期仮説(英: critical period hypotheses)とは、臨界期とよばれる年齢を過ぎると自然な言語能力の習得が不可能になる、という仮説である。母語の習得および外国語の習得の両方に対して使われる。

臨界期の時期には諸説あるが、だいたい出生から思春期(12歳から15歳ごろ)までであるとされている。第一(L1)・第二言語(L2)両方の習得に関して年齢が重要な要素となっていることは定説となっているが、はたして臨界期なるものが本当に存在するのか、また存在するとしたらそれがいつなのかなどについては長い議論があり、仮説の域を出ていない。

野生児または孤立児と呼ばれる幼児期に人間社会から隔絶されて育った子供は、後に教育を受けても言語能力、特に文法に従った文を作る能力については著しく劣ることが知られている[1]。

また、外国語の学習でも、一家で国外へ移住した移民の親より子供のほうが外国語を早く、また上手に使いこなせるようになることは広く知られている。母語・外国語両方の習得の成否について年齢が大きな影響を与えていることは、日常の経験からも、言語学の研究結果[2]からも納得されることである。

年齢が上がると言語を習得することが困難になる原因についてはさまざまな説が提唱されている。しかし、年齢以外のファクターを除外できていない可能性があるという批判もあり、たとえば脳生理学的な変化や心理的影響を原因とする説などもあるが、21世紀初頭現在でははっきりとは解明されていない。

それに加え、個々の言語能力についての臨界期は異なるという説もある。たとえば発音についてはかなり低い年齢に臨界期が存在するという強い証拠があるが、語順などの統語的規則についての臨界期は遅いという主張もある[3]。また、語彙については明確な臨界期が存在しないとの説もある[4]。

+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

 だからといって、「臨界期仮説」を、言語に限ることはない。
先にあげたオオカミ姉妹についても、「言語」だけが問題になっているわけではない。
「言語」は、もろもろの才能の一部でしかない。
とくに注目すべきは、「人間らしい心」ということになる。
少し拡大解釈すれば、「人間らしい心」にも、臨界期があるということになる。
またそう解釈してよいことは、冒頭に書いたように、それが60歳を過ぎると、「輪郭」
としてわかるようになる。

 たとえば身近にいる、X氏ならX氏に焦点を当ててみる。
Yさんでもよいし、Z氏でもよい。
そういう人たちの人生を、全体としてながめてみる。
するとそこにその人の「輪郭」が浮かびあがってくる。
心の暖かい人は、暖かい。
心の冷たい人は、冷たい。
ウソのつけない人もいる。
一方、ウソばかりついている人もいる。

そしてその「輪郭」というのは、その人が子どものときのそれと、現在のそれと、
それほど違わないことに気づく。
つまりそれぞれの人は、「心」も、いくつかの臨界期を経て、作られていくのがわかる。
言い替えると、そのときどきの適切な時期に、適切な環境の中で、適切な(ふれあい)を
経験することによって、「心」も作られていくということ。

 繰り返しになるが、60歳を過ぎると、それがよくわかるようになる。
そこで結論。

 かつてアインシュタインは、こう言った。
「教育というのは、学校で学んだことをすべて忘れてしまったあとに、残っているもの」
と。
この言葉を拝借すると、こうなる。

「私というのは、私をすべて忘れてしまったあとに、そこにぼんやりと浮かびあがって
くるもの」と。(100426)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 私とは 私論 野生児 カマラ アマラ オオカミ少女 オオカミ姉妹 輪郭論 臨界期)


Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司

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休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●組織vs個人

++++++++++++++++++

私の教室の横に、巨大なビルが建設された。
9階建てというが、1階ごとの天上が高い。
豪華!
目下、内装中ということで、外からでは、
その様子はわからない。
浜松医師会館である。
「なるほどな」と思ってみたり、「そういう
ものかな」と思ってみたりする。

「組織」には、その構成員を超えた力がある。
つまり1+1が、2ではなく、3になったり、
4になったりする。
要するに「金(=マネー)」の力だが、日本の
ばあい、「組織」は、何かにつけて、国からの
恩恵を受ける。
税金の使われ方、そのものが、ちがう。

たとえば地方公共団体から交付される補助金
についても、(個人)に支払われることは、めったに
ない。
(組織)に支払われる。

ひとつの例だが、アメリカでは、子どもを
もつ親に、直接補助金が支払われる。
その補助金を手にして、親は幼稚園や、学校を
選ぶ。
一方、この日本では、幼稚園や学校という
組織に、補助金が支払われる。
その補助金を手にして、幼稚園や学校は、
豪華な園舎や校舎を建てる。

……ということで、私の教室の横に、巨大な
ビルが建った。
その前を通るたびに、「すごいな」と思う。
ビルがすごいというよりは、医師会、さらには
医師たちのもつ力が、すごいと思う。
ある医師は、こう話してくれた。

「そのため毎月、1万円負担している」と。

もちろん1万円だけで、そんなビルは建たない。
国からの、莫大な補助金が、その裏で支払われて
いる。
医師会という(組織)に支払われている。

+++++++++++++++++++++

●個人は損!

 この日本では、(個人)で生きるのは、ぜったいに、損!
よい例が通りに店を並べる、個人の商店。
世間に大風が吹くたびに、あっちへなびき、こっちへなびく。
収入といっても、客の流れしだい。
保障など、何もない。

 郊外に大型店ができれば、それでおしまい。
今は、ネット時代。
個人の商店でものを買う人は、もういない。

 一方、この日本で要領よく生きようと思ったら、
(組織)に属したほうが、ぜったいに、得!
そういうしくみが、できあがっている。
組織の中で、地位や肩書きを得ていく。
階段を上りつめていく。
「金(=マネー)」は、向こうからやってくる。

●フリーター

 フリーターというのは、「不利~ター」のこと。
この日本では、自由に生きることさえできない。
できなくはないが、生きていくのは、むずかしい。
私も今のようにして生きるようになって、すでに
40年になる。
その間、受けた補助金は、ゼロ!
まったくの、ゼロ!
ワイフが子どもを出産したとき、そのつど10万円
前後の、「祝い金」を、市からもらったことはある。
あっても、その程度。

 つまり税金など、一方的に支払うだけ。
少なくとも、私には、そうだった。
だからこの日本では、どんな職種であるにせよ、
組織のしっかりした職種を選んだほうが、得!
いちばんよいのは、公務員。
2~3年くらいなら、病気で休んだからといって、クビに
なることはない。
私の知人の中には、10年近く、ほとんど出勤
していないが、給料だけは、ちゃんともらっている
人がいる。

●個人と野生臭

 もちろんデメリットもある。
つまり日本人から、野生臭が消えた。
公務員も、会社員も、みな、飼い慣らされた家畜のよう。
まじめで、おとなしく、そして静か。
またそうでないと、組織の中では生きていかれない。

 しかし「人間」という立場で考えるなら、
それでよいのか。
それが本来あるべき、人間の姿なのだろうか。
もっと言えば、社会の歯車のひとつになって、
その中で、カタカタと回っているだけ。
回っている当人には、それはわからないかもしれない。
外の世界、つまり私のような人間から見ると、
それがよくわかる。

 ただ誤解していけないのは、だからといって、
私の生き方が正しいとか、そういうことを書いて
いるのではない。

 大切なのは、心の持ち方。
(個人)をしっかりともって(組織)にいるのと、
そうでないのとでは、生き方も大きく違ってくる。

●組織

 だからといって、(組織)を否定しているのではない。
(組織)は必要である。
その頂点に、(国)という概念がある。
(私は無政府主義者ではないぞ!)

 が、この日本では、(組織)を保護しすぎている。
それと並行して、(個人)のもつ(自由)が、
あまりにも犠牲になりすぎている。

 もっと(個人)を認め、(個人)を育てるような
施策があってもよいのではないか。
言うまでもなく(個人)があって、(自由)が生まれる。
それだけではない。
社会の活力も、その(個人)から生まれる。
それぞれの(個人)がもつ活力が集合されて、生まれる。

 よい例が、「祭り」。
この浜松にも、「民衆の祭り」と、「官製の祭り」がある。
民衆の祭りというのは、「凧祭り」(5月3、4、5日)をいう。
官製の祭りというのは、駅前の中心部の振興策の
ひとつとしてなされる祭りである。
いくつかある。
が、どれも年を追うごとに、色あせていく。

●代用

 私たちは組織の1員である前に、個人である。
個人として生きるために、収入を得る。
そのために仕事をする。
組織に属するかどうかは、そのあとの問題。
組織は、あとからついてくる。

 が、この日本では、まず組織あり。
組織に属さなければ、何もできない。
私はそれがおかしいと言っている。
たとえば、退職者を考えてみよう。

私の同級生たちは、定年退職を迎え、ほとんどが
退職した。
が、(組織)、それも巨大な(組織)の中で
仕事をしてきた人ほど、退職後、何も残っていない。
地位や肩書きはあった。
しかし「私は、これをしてきました」というときの、
(これ)がない。
ないばかりか、その人が退職したあとも、(組織)は、
以前のまま。
その人がいなくても、そのまま動いている。
あたかも何ごともなかったかのように動いている。

わかりやすく言えば、(組織)の中では、(あなたという
個人)には、価値はない。
代用となる人は、いくらでもいる。
が、それで本当によいのだろうか。
それでもって、「これが私の人生」と、ほんとうに胸を
張って言えるのだろうか。

●生き様

 いくら(組織)の中の人間になっても、「私」という
(個人)を忘れてはいけない。
(個人)を前提として生きるか、(組織)を前提として
生きるか。
仮に(組織)を前提にして生きるにしても、(個人)を
忘れてはいけない。
「私」は「私」なのだ。
もっと言えば、丸裸にしたとき、そこに残っているものが、
「私」なのだ。

 つまりどんなに小さくてもよい。
いつか老後を迎え、自分の過去を振り返ったとき、
「私はこういう生き方をしてきました」というものが、
あればそれでよい。
「生き様」が残っていればよい。

 それが私がここでいう「個人」ということになる。

+++++++++++++++++

ここまで書いて、映画『生きる』を
思い出した。
「自己の統合性」について書いた
原稿である。

+++++++++++++++++

●自己の統合性(The integration of ourselves)
When we get old, we should integrate ourselves to what we should do.

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キングである。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin
Luther King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マ
ーティン・ルーサー・キング・Jr)

わかりぬくい言い回しだが、キング博士はこう言っている。

「私は何をすべきか、それをつかむのに失敗した人は、生きている価値はない」と。

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。
併せて、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらり
と、毎日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、
何も生まれない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わ
かったか、『釣りバカ日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、
一朝一夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単
位の熟成期間が必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。
花を咲かせるかどうかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいは
んが、そうではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。
「私には、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日
本映画大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、
そのままここに紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、
初めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。
勘治は親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に
最期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、
勘治の心は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)
と出会う。彼女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の
自分の仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町
の悪疫の原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞
している。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを
求める。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」
(「きれい塾hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

●自己否定

 (個人)として生きることの難しさは、映画『生きる』を
みてもわかる。
まさに命がけ。
命をかけなければ、できない。
だから……というわけでもないが、ほとんどの人は、
(若い人は)、就職といえば、(組織)を考える。

 資格をとって、それなりに形を整える。
あとは就職試験。
それが悪いというのではない。
ただ私は、つぎの3つのことに、注意してほしいと思う。

(1)「私」という個人を忘れてはいけない。
(2)(組織)の中に、「私」を埋没させてはいけない。
(3)(組織)の中にいても、(個人)で生きる人を否定してはいけない。

 とくに(3)は、私のために書いた。
(組織)の中にいる人たちは、容赦なく、私を攻撃する。
攻撃するというよりは、価値そのものを否定する。

たとえばこうした同じ原稿でも、「~~大学教授」という肩書きが
あれば、「ハハア」と言って頭をさげて、読む。
「はやし浩司」の原稿だと、読む前に、無視する。
(無視されてもしかたない内容だが……。)

 しかしある女性(C新聞社の記者)は、かつてこう言った。

「はやしさん(=私)の言っていることはよくわかります。
しかしね、はやしさん。
私たちは、あなたのような人に、成功してもらっては
困るのです。
あなたのような人が成功するとね、『では、私たちの
人生は何だったのか?』という、自己否定の世界に
陥ってしまうからです」と。

 ここでその女性がいう「私たちの人生」というのは、
会社人間として、歯車のひとつとして働いている
人たちの人生をいう。

 が、それでもあえて言う。
この日本は、あまりにも(組織)優先型社会になりすぎている!
(個人)が犠牲になりすぎている!

 そのひとつの象徴が、あの「浜松医師会ビル」という
ことになる。
私はあのビルを見ながら、改めて、(組織)のもつ力の
ものすごさに驚いている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 組織vs個人 映画『生きる』 老後の統合性 個人として生きる
はやし浩司 ゴンドラの歌 個人で生きる難しさ フリーター 不利ダー)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●The Howie Brothers(ホウイ・ブラザーズ)


++++++++++++++++


When I started living in the International House,
Melbourne Univ., Australia, I asked some of my
friends to teach me how to sing "Waltzing Matilda",
a second ntional anthem of Australia.
My friends introduced me two twin brothers,
John and Graeme Howie.
They taught me in the music room which is inn the
basement of the house.
I then can sing the song even now as they sing in
Australia.
They are now country bush singers in Austrakia.
John's webiste is:


http://www.musictours.com.au/john_howie_bio.html


Here is his website in which John writes like this:


メルボルン大学で学生になったとき、最初に
覚えたかった歌が、「ウォルチング・マチルダ」。
オーストラリアの第2国歌とも呼ばれていた。


その歌を教えてほしいと何人かの友だちに頼むと、
友だちは、2人の双子の兄弟を紹介してくれた。
それがジョンとグレアムの2人の兄弟だった。
2人は、何時間もかけて、その歌の歌い方を
教えてくれた。


彼らは現在、オーストラリアでも、代表的な
カントリー・ミュージシャンとして活躍
している。
世界中をツアーを組んで、歌を歌って
いる。
ウェブサイトによれば、アルバムも20枚を
超えたという。


【ジョンとグレアムのサイトより】


John Howie is an Australian musician who lives in Melbourne. He and his identical
twin brother, Graeme, perform together as The Howie Brothers, a well-known
country/easy listening vocal harmony recording act.
ジョンと双子の兄弟のグレアムは、「The Howie Brothers」という名前でよく知られた、音
楽家である。


John and Graeme were previously members of country band 1901 which, in the early
‘80s, won three Golden Guitars (including two Group of the Year awards) at the
Australasian Country Music Awards in Tamworth.
2人の兄弟は、数々のゴールデン・ギター賞を受賞している。


The Howie Brothers has released approximately 20 albums. John plays various
instruments, including piano, drums, accordion, guitar, & ukulele. He is also a keen
songwriter, and sometimes writes songs inspired by his Music Tours (e.g., Out in the
Outback, I’d Never Been to Birdsville, and We’re Travellin’ Around New Zealand).
ホウイ・ブラザーズは、20枚近いアルバムを出している。
ジョンは、いくつかの楽器を演奏することができる。


John has a music degree from the University of Melbourne, where he studied classical
music and music education. He taught music in secondary schools for over 20 years,
including Camberwell High School (Melbourne), where he taught Kylie Minogue.
ジョンは、メルボルン大学で、音楽の学位を得ている。
彼はシンガーとして活躍するようになる前、20年間、高校の教師をしていた。


+++++++++++++++++++++++



(左右が、The Howie Brothers、1970年、IHカレッジにて)
width="600" height="480" alt="The Howie Brothers Australia">


●古い写真


 一枚の写真がある。
ホウイ兄弟が、ハウス(メルボルン大学・カレッジ)の大食堂の中で、歌を歌っている写
真である。
左右がホウイ兄弟。
(どちらがJohnで、どちらがGraemeか、わからない。)
中央が、現在、作家兼ジャーナリストとして活躍している、アラン・オースティンである。


食堂は、シニアの学生や教授たちが座る、ハイテーブルと、ジュニア(在校生)が座る、
ローテーブルに分かれていた。
そのハイテーブルに立って、たしか第九の合唱曲を歌ったと思う。
その日は、ルードリッヒ・フォン・ベートベンの誕生日だった。
壁に、ベートーベンの絵が飾られている。


 ちょうど昼食時で、みな、手を休めて、彼らの合唱曲に聴き入った。


 ……それから40年。
今でも私は、あのときホウイ兄弟が教えてくれたように、「ウォルチング・マチルダ」を、
Aussie、つまりオーストラリアのカントリー英語なまりで、歌うことができる。
日本風に言えば、「正調」ということになる。
その写真を見ながら、40年の年月を感ずる。
同時に、それぞれに生きてきたことの重みを感ずる。



(現在の、Jhon Howie、2010年、彼のWebsiteより)
width="660" height="250" alt="The Howie Brothers in 2010, Great Singers in
Australia">


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 John Howie Australian musician Graeme Howie The Howie
Brothers, a well-known country singers in Australia)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


●40年


 当時のIHカレッジには、200人の学生がいた。
約半数は、外国からの留学生。
残りの半数は、オーストラリア人という構成だった。
外国からの留学生は、私1人をのぞいて、各国の皇太子や王子ばかりだった。
その国の大臣の息子もいたし、中にはマフィアの親分の息子もいた。
当時のIHカレッジは、男子専用のカレッジだった。


 私は同じ留学生だったが、そのうち桁外れの(ちがい)を感じ、留学生グループから離
れ、オーストラリア人グループとつきあうようになった。
ジョンとグレアム兄弟も、その中にいた。
今でも古い写真を見ると、スーッとあの時代に、自分が戻っていくのがわかる。
が、同時に、それは過ぎ去りし過去。
ホウイ兄弟にしても、当時は、写真のとおりビートルズのように細く、スマートだった。
が、今は、すっかりオーストラリア人ぽくなった。
しかしどちらが本当のホウイ兄弟なのかというと、私にはよくわからない。
(現在)という、過去から見れば、ありえない空間。
(過去)という、現在から見れば、しっかりと心に残っている空間。
その2つの間を、私の魂は、ゆらゆらと、行ったり来たりする。


 留学生組の活躍ぶりは、ときどきテレビなどにも紹介される。
今はその国の国王になった人も多い。
が、どういうわけか、そういう友人たちよりも、ここにあげたホウイ兄弟のように活躍し
ている友人のほうが、親しみを覚える。
あの時代を起点として、いっしょに歩いてきたという親しみである。
もっとも私は、この40年間、彼らと交信したことはない。
が、これだけは、言える。


 「彼らも、私のことを、しっかりと覚えていてくれるはず」と。
昨夜、ホウイ兄弟のサイトから、メールを送った。
ワイフは、「あなたのことを覚えているかしら?」と、どこか心配そうだった。
が、心配は無用。
「100%、覚えているよ。返事もくれるよ」と。


 私たちは、1年間、寝食を共にした。
その(重み)は、だれにも消せない。
あの時代の(重み)は、だれにも消せない。


Hiroshi Hayashi+教育評論++March.2010++幼児教育+はやし浩司

●映画『NINE』

++++++++++++++++

昨夜遅く、映画『NINE』を劇場で
観てきた。
ほかに観たい映画がなかった。
しかたないので、『NINE』にした。
(失礼!)
もう少し若いころなら、「おとなっぽい映画
だな」と思ったかもしれない。
しかし今は、ちがう。
映画の観方が変わった。
いうなれば、「ドーパミン映画」。
そんな映画だった。

快楽追求行動を調整している神経伝達物質※がある。
それがドーパミン。
視床下部からの指令を受けて、その
ホルモンが分泌される。
そのドーパミン漬けのような映画。
タバコと酒、それに踊りと音楽。
どこか薄汚く、どこか退廃的。
「おとなの映画というのは、こういうもの」
という、監督の意図、見え見え。
それで星は2つの、★★。

若い人なら、監督の隠された意図を
見抜けないかもしれない。
「これぞ、おとなの映画」と賞賛する
かもしれない。
が、私にはできない。
それには、もうひとつ理由がある。

私は50歳を少し過ぎたころ、「男の
更年期?」なるものを経験した。
そのときのこと。
私は性欲からの解放を味わった。
それは実に軽快な気分だった。
と、同時に、それまでの私が、いかに
「性的エネルギー」(フロイト)の奴隷で
あったかを知った。

もろもろの人間の活動は、どこかでその
性的エネルギーの指令を受けている。
男は女を意識し、女は男を意識する。
つまりそういう意識から解放された。

幸か不幸か(?)、そのあとしばらくして、
再び私の中に「男」が戻ってきた。
女性が再び、「女」に見えてきた。
が、それでも、元に戻ったわけではない。
60歳を過ぎた今は、「男」も、ぐんと
薄くなってきた。
それが自分でもよくわかる。

そういう現在の「私」から見ると、ドーパミン
というホルモンが、どういうものか、よくわかる。
それに操られた人間が、どういうものか、
よくわかる。

映画『NINE』は、そういう映画だった。
中身があるようで、まったく、ない。
ウソとインチキとゴマカシ。
人生を知り尽くしたようなセリフ。
「これが人生」と言わんばかりの高飛車なセリフ。
それをあえて、けばけばしい音楽と踊りで飾る。
私はああいう世界が、あるべき(おとなの世界)とは
思わない。
あるべき(おとなの世界)というのは、
どこかに童心を残した、純粋な世界をいう。
またそういう世界を恥じることはない。
パブロ・ピカソの絵画を例にあげるまでもない。

あのピカソも若いころは、精一杯、背伸びした
ような絵を描いていた。
が、晩年のピカソは、幼児の描くような絵に
戻っている。
残念ながら、ピカソの絵画が幼児の描く絵より
すぐれていると言っているのではない。
ピカソの絵画よりすぐれた絵を描く子どもは、
いくらでもいる。
が、そういう子どもでも、やがて俗化し、
薄汚いおとなの世界に、紛れ込んでいく。
子どものころの純粋さを見失っていく。
その結果が、映画『NINE』ということになる。

二度目は、ぜったいに見たくない映画。
いくら「賞」で飾っても、一度でこりごり。
途中で眠くなったほど。

(注※)
ドーパミン……快楽追求行動を調整している神経伝達物質
条件づけ反応……報酬と喜びに関連する脳の刺激に対する反応。これによって
       条件づけ反応が生じ、その環境に身を置いただけで、反応が起こる
       ようになる(以上、日経「サイエンス」07-12、p54) 


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