ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(371)
●知識と思考は別
パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。『思考が人間の偉大さをなす』とも。よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別のことである。たとえばこんな会話。
A「昼に何を食べる?」、B「スパゲティはどう?」、A「いいね。どこの店にする?」、B「今度できた、角の店はどう?」、A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。
この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。
考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人はこう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。
人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなことがあった。ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしているの?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。
その子どもは、石は土の中から生まれるものだと思っていた。おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そうしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。
多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせることが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にしてしまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。
もっと言えば、賢い子どもというのは、自分で考える力のある子どもをいう。いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪しも関係ない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のことを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがんでくる。私はそれを心配する。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(372)
●日本の教育の欠陥
日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教育」が基本になっている。
さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本の教育は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。
戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。
ロンドン大学の森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる人間を育てなければ、2050年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・98年)と警告している(田丸先生指摘)。
夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっているのがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出しているにすぎない。一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。
思考というのは、本文にも書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもある。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラしたり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。
ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残すという方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。
モンテーニュ(フランスの哲学者、1533~92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、考えたことはない」(随想録)と書いている。ものを書くということには、そういう意味も含まれる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(373)
●攻撃的に生きる人、防衛的に生きる人
ほぼ30年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、A氏から、その30年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。会話そのものがかみあわない。話が表面的な部分で流れていくといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。
毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。「パチンコでは半日で五万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が積み重なって、今のS氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)
こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う子どもがいる。フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間の方向性を決めるのだ、と。たとえば……。
自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、ものの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動できる。
反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。
一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみどころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分からない子どもといった感じになる。
その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だってできる。しかし20年、30年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようになる。それが「結果」として表れてくるからだ。
先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからないかもしれないが)、今のS氏は、この30年間の生きざまの結果でしかない。攻撃的に生きる人と、防衛的に生きる人とでは、自ずと結果はちがってくる。
帰り際、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてください」と言ったが、私は「はあ」と言っただけで、何も答えることができなかった。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(374)
●思考のメカニズム
古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る漢方診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。
意……「何かをしたい」という意欲
志……その意欲に方向性をもたせる力
思……思考作用、考える力
慮……深く考え、あれこれと配慮する力
智……考えをまとめ、思想にする力
最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな部分がそれぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成しているというのだ(伊藤正男氏)。たとえば……。
大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
帯状回……思考の動機づけをつかさどる
海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する
これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別される古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の思考作用をコントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すのは危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけると、つぎのようになる。
大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、情報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。これは漢方でいう、「思」「慮」にあたる。
で、この「思」「慮」と並行しながら、それを満足に思ったり、不満足に思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃体ということになる。
もちろんいくら頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決めるのが、帯状回ということになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い人」というときは、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のことをいう。
が、考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切である。それぞれが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっていくというわけである。
どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活動の一部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動(漢方では「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(375)
●考えることを放棄する子どもたち
「考える力」は、能力ではなく、習慣である。もちろん「考える深さ」は、その人の能力によるところが大きい。が、しかし能力があるから考える力があるとか、能力がないから考える力がないということにはならない。もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはいる。おとなでも考える力のないおとなはいる。
こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と聞いたときのこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもってきて、「ええと、三個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、私をじっとにらんでこう言った。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中に、まさに「考える力」を見た。
一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これまた軽薄なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。一見考えてものをしゃべっているかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていない。脳の、きわめて表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して、それを口にしているだけ。まれに気のきいたことを言うこともあるが、それはたまたま暗記しているだけ。
あるいは他人の言ったことを受け売りしているだけ。そういうときその人が考えているかどうかは、目つきをみればわかる。目つきそのものが、興奮状態になって、どこかフワフワした感じになる。(だからといって、そういうタレントたちが軽薄だというのではない。そういう番組がつまらないと言っているのでもない。)
そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもなおざりにされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 日本では伝統的に、「できるようにすること」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進める。(アメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)親は親で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(アメリカでは、「先生によく質問するのですよ」と言う。)
その結果、もの知りで、先生が教えたことを教えたとおりにできる子どもを、「よくできる子」と評価する。そしてそういう子どもほど、受験体制の中をスイスイと泳いでいく。しかしこんなのは教育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇は、こうした指導を教育と思い込んでしまったところにある。
大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考える子ども」を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教育ということになる。またそうでなければならない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(376)
●子どもを一人の人間としてみる
子どもを一人の人間としてみるかどうか。その違いは、子育てのし方そのものの違いとなってあらわれる。
子どもを半人前の、つまり未熟で未完成な人間とみる人……子どもに対する親意識が強くなり、命令口調が多くなる。反対に、子どもを甘やかす、子どもに楽をさせることが、親の愛と誤解する。子どもの人格を無視する。ある女性(六五歳)は孫(五歳)にこう言っていた。
「おばあちゃんが、このお菓子を買ってあげたとわかると、パパやママに叱られるから、パパやママには内緒だよ」と。あるいは最近遊びにこなくなった孫(小四女児)に、こう電話していた女性もいた。「遊びにおいでよ。お小遣いもあげるし、ほしいものを買ってあげるから」と。
子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間、もっといえば一人の人格者と認めること。たしかに子どもは未熟で未完成だが、それを除けば、おとなとどこも違はない。そういう視点で、子どもをみる。育てる。
こうした見方の違いは、あらゆる面に影響を与える。ここでいう命令は、そのまま命令と服従の関係になる。命令が多くなればなるほど、子どもは服従的になり、その服従的になった分だけ、子どもの自立は遅れる。また甘やかしはそのまま、子どもをスポイルする。日本的に言えば、子どもをドラ息子、ドラ娘にする。が、それだけではない。
子どもを子どもあつかいすればするほど、その分、人格の核形成が遅れる。「この子はこういう子だ」というつかみどろころのことを、「核」というが、そのつかみどころ.がわかりにくくなる。教える側からすると、「何を考えているかわからない子」という感じになる。そして全体として幼児性が持続し、いつまでもどこか幼稚ぽくなる。わかりやすく言えば、おとなになりきれないまま、おとなになる。
このことはたとえば同年齢の高校生をくらべてみるとわかる。たとえばフランス人の高校生と、日本人の高校生は、まるでおとなと子どもほどの違いがある。
昔から日本では、「女、子ども」という言い方をして、女性と子どもは別格にあつかってきた。「別格」と言えば、聞こえはよいが実際には、人格を否定してきた。女性は戦後、その地位を確立したが、子どもだけはそのまま取り残された。が、問題はここで終わるわけではない。こうして子どもあつかいを受けた子どもも、やがておとなになり、親になる。そして今度は自分が受けた子育てと同じことを、つぎの世代で繰り返す。こうしていつまでも世代連鎖はつづく……。
この連鎖を断ち切るかどうかは、つまるところそれぞれの親の問題ということになる。もっと言えば、切るかどうかはあなたの問題。今のままでよいと思うなら、それはそれでよいし、そうであってはいけないと思うなら、切ればよい。しかしこれだけは言える。日本型の子育て観は、決して世界の標準ではないということ。少なくとも、子どもを自立させるという意味では、いろいろと問題がある。それがわかってほしかった。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(377)
●親像
子育てが、どこかぎこちない。どこか不自然。子どもに甘い。子どもにきびしい。子どもに冷淡。子どもが好きになれない。子育てがわずらわしい。子育てがわからない……。
このタイプの親は、不幸にして不幸な家庭に育ち、いわゆる親像がじゅうぶんに入っていない人とみる。
つまりその親像がないため、「自然な形での子育て」ができない。「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」という気負いが強く、そのため親も疲れるが、子どもも疲れる。そしてその結果、子育てで失敗しやすい。
しかし問題は、不幸にして不幸な家庭に育ったことではない。満足な家庭で育った人のほうが少ない。問題は、そういう過去に気づかず、その過去にひきずられるまま、同じ失敗を繰り返すこと。たとえば暴力がある。子どもに暴力をふるう人というのは、自分自身も親から暴力を受けたケースが多い。これを世代連鎖とか世代伝播(でんぱ)という。そういう意味で、子育てというのは、親から子どもへと代々、繰り返される。
そこで大切なことは、こうした自分の子育てのどこかに何か問題を感じたら、その原因を自分の中にさがしてみること。何かあるはずである。ある母親は、自分が中学生になるころから、自分の母親を否定しつづけてきた。父親も「いやらしい」とか、「汚い」とか言って遠ざけてきた。
また別の母親は、まだ三歳のときに母親と死別し、父親だけの手で育てられてきた。そういう過去が、その母親をして、今の母親をつくった。このタイプの母親は決まってこう言う。「子育てのし方がわかりません」と。
が、自分の過去に気づくと、その段階で、失敗が止まる。自分自身を客観的に見つめることがでるようになるからだ。実は私自身も、不幸にして不幸な家庭に生まれ育った。気負いが強いか弱いかと言われれば、ここに書いたように、気負いばかりが強く、子育てをしながらも、いつも心のどこかに戸惑いを感じていた。しかしいつか自分自身の過去を知ることにより、自分をコントロールできるようになった。「ああ、今、私は子どもに心を許していないぞ」「ああ、今の自分は子どもを受け入れていないぞ」と。
「簡単になおる」という問題ではないが、あとは時間が解決してくれる。繰り返すが、まずいのは、そういう自分自身の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされることである。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(378)
●家庭は心いやす場所
子どもの世界は、(1)家庭を中心とする第一世界、(2)園や学校を中心とする第二世界、そして(3)友人たちとの交友関係を中心とする第三世界に分類される。(このほか、ゲームの世界を中心とする、第四世界もあるが、これについては、今回は考えない。)
第二世界や第三世界が大きくなるにつれて、第一世界は相対的に小さくなり、同時に家庭は、(しつけの場)から、(心をいやすいこいの場)へと変化する。また変化しなければならない。その変化に責任をもつのは親だが、親がそれに対応できないと、子どもは第二世界や第三世界で疲れた心を、いやすことができなくなる。
その結果、子どもは独特の症状を示すようになる。それらを段階的に示すと、つぎのようになる。(あくまでも一つの目安として……。)
(第一段階)親のいないところで体や心を休めようとする。親の姿が見えると、どこかへ身を隠す。会話が減り、親からみて、「何を考えているかわからない」とか、あるいは反対に「グズグズしてはっきりしない」とかいうような様子になる。
(第二段階)帰宅拒否(意識的なものというよりは、無意識に拒否するようになる。たとえば園や学校からの帰り道、回り道をするとか、寄り道をするなど)、外出、徘徊がふえる。心はいつも緊張状態にあって、ささいなことで突発的に激怒したりする。あるいは反対に自分の部屋に引きこもるような様子を見せる。
(第三段階)年齢が小さい子どもは家出(このタイプの子どもの家出は、もてるものをできるだけもって、家から一方向に遠ざかろうとする。これに対して目的のある家出は、その目的にかなったものをもって家出するので、区別できる)、年齢が大きい子どもは無断外泊、など。
最後の段階になると、子どもにいろいろな症状があらわれてくる。いろいろな神経症のほか、子どもによっては何らかの情緒障害など。そして一度そういう状態になると、(親がますます無理になおそうとする)→(子どもの症状がひどくなる)の悪循環の中で、加速度的に症状が重くなる。
要はこうならないように、(1)家庭は心をいやす場であることを大切にし、(2)子ども自身の「逃げ場」を大切にする。ここでい逃げ場というのは、たいへいは自分の部屋ということになるが、その子ども部屋は、神聖不可侵の場と心得る。子どもがその逃げ場へ入ったら、親はその逃げ場へは入ってはいけない。いわんや追いつめて、子どもを叱ったり、説教してはいけない。子どもが心をいやし、子どものほうから出てくるまで親は待つ。そういう姿勢が子どもの心を守る。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(379)
●家族の悪口は言わない
ある母親は娘(小四)に、いつもこう言っていた。「お父さんは、ただの倉庫番よ。お父さんの給料が少ないから、お母さん、苦労しているのよ」と。「お父さんは大学を出てないから、苦労してるのよ。あなたはお父さんのような苦労をしないでね」と言った母親もいた。
母親は、自分の子どもを味方にしたり、自分の夢や希望をかなえてもらいため、そう言っていたのだろうが、そういう言い方をすると、娘は父親の言うことは聞かなくなるばかりか、それ以上に母親の言うことを聞かなくなる。仮にそのとき、娘が同情したり、納得するフリを見せたとしても、それはあくまでもフリ。夫婦が一枚岩でも子育てがむずかしい時代に、こういう状態で、どうして満足な子育てができるというのか。
たとえそうであっても、母親は子どもの前では、父親を立てる。決して封建的なことを言っているのではない。互いに高めあって、つまり高度な次元で尊敬しあってはじめて、「平等」が成り立つ。こういうケースでも、母親は子どもにはこう言う。「お父さんは、私たちのためにがんばっていてくれるのよ」とか、「お母さんはお父さんの考え方が好きよ。会社でもみんなに尊敬されているのよ」と。
同じように、学校の先生についても、悪口を言ってはいけない。子どもが何か、悪口を言っても、相づちを打ってもいけない。「あなたたちが悪いからでしょ」と言って、はねのける。あなたが学校の先生の悪口を言うと、その言葉はどんな形であれ、(あるいは子どもの態度をとおして)、先生に伝わる。教育は人間関係で決まる。そういう話が先生に伝わると、先生は確実にやる気をなくす。そればかりではない。子ども自身が、先生に従わなくなる。そうなればなったとき、教育は崩壊する。
親にせよ、先生にせよ、悪口は、それを言えば言うほど、その人を見苦しくする。子育てについて言えば、マイナスになることはあっても、プラスになることは何もない。とくに子どもの前では、だれの悪口にせよ、言わないことこそ、賢明。子どもの前では、その人のよい面だけを見て、それをほめるようにする。そういう姿勢が、他方で子どもを伸ばす。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(380)
●子育てのコツ(1)
子どもの運動能力は、敏捷(びんしょう)性で決まる。敏捷性があれば、ほぼどのスポーツもできるようになる。反対にその敏捷性がないと、努力の割には、スポーツはうまくならない。で、その敏捷性を育てるには、子どもは、はだしにして育てる。
反対に、靴下に分厚い靴底の靴をはかせて、どうやって敏捷性を育てるというのか。それがわからなければ、分厚い手袋をはめて、パソコンのキーボードやピアノの鍵盤をたたいてみればよい。しかもその時期というのは、〇~二歳までに決まる。ある子ども(男児)は二歳のときには、うしろむきにスキップして走ることができた。お母さんに秘訣を聞くと、「うちの子は雨の日でもはだしで遊んでいます」ということだった。
子どもの国語力は、母親が決める。もっと正確には、母親の会話能力が決める。将来、国語が得意な子どもにしたかったら、「ほら、バス、バス、靴は?」という言い方ではなく、「もうすぐバスがきます。あなたは靴をはいて、外でバスを待ちます」と、正しい言い方で言い切ってあげる。こうした日常的な会話が、子どもの国語力の基礎となる。
その時期も、やはり〇~二歳が重要。この時期、できるだけ赤ちゃん言葉を避け、できるだけ豊かな言葉で話しかける。たとえば夕日を見ても、「きれい、きれい」だけではなく、「すばらしいね。感動的だね。ロマンチックだね」などと、いろいろな言い方で言いかえてみる、など。
心のやさしい子どもにしたかったら、心豊かで、穏やかな家庭環境を大切にする。子どもは絶対的な安心感(つまり子どもの側からみて、疑いをいだかない安心感)の中で、心をはぐくむ。『慈愛は母のひざに始まる』と言ったのは※だが、全幅の信頼感と、全幅の愛情に包まれて育った子どもは、話していても、ほっとするようなぬくもりを覚える。心が開いているから、親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのまま子どもの心にしみこんでいくのがわかる。あとは会話の中で、だれかを喜ばすことを教えていけばよい。
たとえば買い物に行っても、「これがあるとパパは、きっと喜ぶわね」「これを買ってあげるけど、半分はお姉さんに分けてあげようね」と。やさしい子どもというのは、自然な形で、だれかを喜ばすことができる子どものことをいう。
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