2009年7月9日木曜日

*Non-Religious Funeral




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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   10日号
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(324)

●伸ばす子育て

 子育てにも、伸ばす子育てと、つぶす子育てがある。伸ばそうとして伸ばすのであれば、
問題はない。つぶす子育ては論外である。問題は、伸ばそうとして、かえって子どもをつ
ぶしてしまう子育て。これが意外に多い。子育てにまつわる問題は、すべてこの一点に集
中する。

 その人の子育てをみていると、「かえってこの人は子育てをしないほうがいいのでは」と
思うケースがある。たとえば過関心や過干渉など。親が懸命になればなるほど、その鋭い
視線が子どもを萎縮させるというケースがある。しかもそういう状態に子どもを追いやり
ながらも、「どうしてうちの子は、ハキがないのでしょう」と相談してくる。

あるいは親の過剰期待や、子どもへの過負担から、子どもが無気力状態になるケースもあ
る。小学校の低学年で一度そういった症状を示すと、その後、回復するのはほとんど不可
能とさえ言ってよい。しかしそういう状態になってもまだ、親は、「何とかなる」「そんな
はずはない」と無理をする。

で、私が学習に何とか興味をもたせ、何とか方向性をつくったとしても、今度は、「もっと」
とか「さらに」とか言って無理をする。元の木阿弥というのであれば、まだよいほうだ。
さらに大きな悪循環の中で、やがて子どもはにっちもさっちもいかなくなる。神経症が悪
化して、情緒障害や精神障害に進む子どももいる。もうこうなると、打つ手はかぎられて
くる。(実際には、打つ手はほとんどない。)

 が、この段階でも、親というのは身勝手なものだ。私が「三か月は何も言わないで、私
に任せてほしい」と言っても、「うちの子のことは私が一番よく知っている」と言わんばか
りに、またまた無理をする。このタイプの親には、一か月どころか、一週間ですら、長い。
がまんできない。「このままではますます遅れる」「うちの子はダメになる」と、あれこれ
してしまう。そしてそれが最後の「糸」を切ってしまう。

 問題は、どうして親が、かえって子どもをつぶすようなことを、自らがしてしまうかと
いうこと。そして結局は行きつくところまで行かないと、それに気がつかないかないのか。
これは子育てにまつわる宿命のようなものだが、私がしていることは、まさにその宿命と
の戦いであるといってもよい。言いかえると、今、日本の子育てはそこまで狂っている。
おかしい。そう、その狂いやおかしさに親がいつ気がつくか、だ。それに早く気づく親が、
賢い親ということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(325)

●ずる休みの勧め

 「学校は行かねばならないところ」と考えるのは、まちがい。私たち日本人は明治以後、
徹底してそう教育を受けているから、「学校」という言葉に独特の響きを感ずる。先日もテ
レビを見ていたら、戦場の跡地でうろうろしている子ども(10歳くらい)に向かって、「学
校はどうしているの?」と聞いていたレポーターがいた(アフガニスタンで、02年4月)。

その少し前も、そのシーズンになると、海がめの卵を食用に採取している子どもたちが紹
介されていた。南米のある地域の子どもたちだった。その子どもたちに向かっても、レポ
ーターが「学校は行かなくてもいいの?」(NHKテレビ)と。

 日本人は子どもを見れば、すぐ「学校」「学校」と言う。うるさいほど、そう言う。しか
しそういう国民性が、一方で、子どもをもつ親たちをがんじがらめにしている。先日も子
どもの不登校で悩んでいる親が相談にやってきた。そこで私が「学校なんか、行きたくな
ければ行かなくてもいいのに」と言うと、その親は目を白黒させて驚いていた。「そんなこ
とをすれば休みグセがつきませんか」とか、「学校の勉強に遅れてしまいます」とか。しか
し心配はご無用。

 学校へ行くから学力や知力がつくということにもならないし、行かないから学力や知力
がつかないということもない。さらにその子どもの人間性ということになると、学校はま
ったく関係ない。むしろ幼稚園児のほうが、規則やルールをよく守る。正義感も強い。そ
れが中学生や高校生なると、どこかおかしくなってくる。「スリッパを並べてくれ!」など
と頼もうものなら、即座に、「どうしてぼくがしなければいかんのか!」という声がはね返
ってくる。人間性そのものがおかしくなる子どもは、いくらでもいる。

 そこでずる休みの勧め。ときどき学校はサボって、家族で旅行すればよい。私たち家族
もよくした。平日にでかけると、たいていどこの遊園地も行楽地もガラあきで、のんびり
と旅行することができた。またそういうときこそ、「子どもを教育しているのだ」という充
実感を味わうことができた。よく「そんなことをすれば、サボりぐせがつきませんか?」
と心配する人がいた。が、それも心配ご無用。たいていその翌日、子どもたちはすがすが
しい表情で学校へでかけていった。ウソだと思うなら、あなたも一度、試してみるとよい。

こういう話を読んで、目を白黒させている人ほど、一度、勇気をだしてサボってみるとよ
い。あなたも明治以後体をがんじがらめにしている束縛の鎖を、少しは解き放つことがで
きるかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(326)
 
●コンピュータウィルス

 このところ(02年5月)、毎日のようにコンピュータウィルスの攻撃を受けている。一
応、二重、三重のガードをしているから、このガードが破られることはまずない。そのウ
ィルス攻撃を受けながら、いろいろなことを考える。

 よく雑誌などを読むと、いかにも頭だけはキレそうな若者が、したり顔で、ウィルス対
策を論じていたりする。しかし私には、そういう男と、どこかの暗い一室でコソコソとウ
ィルスをばらまいて楽しんでいる男(多分?)が区別できない。雑誌に出てくる男に、そ
れほど強い正義感があるとも思えないし、同時にウィルスをばらまいている男が、その男
と、そんなに違うとも思えない。どちらの男も、ほんの少し環境が変わったら、別々の男
になっていたかもしれない。人間のもつ正義感などというものは、そういうものだ。

 もう一つは、こういうウィルスをつくる能力のある人間は、それなりに頭のよい男なの
だろうが、どうしてそういう能力を、もっと別のことに使わないかという疑問。もっとも
この私でも、簡単なウィルスくらいなら自分でつくることができる。ファイルに自動立ち
あげのプログラムを組み込めばよい。あとはランダムに番地を選んで、適当に自己増殖の
プログラムを書き込めばよい。言語はC言語でもベーシックでもマクロでもよい。私の二
男にしても、高校生のとき、すでに自分でワクチンプログラムを作って、ウィルスを退治
していた。だからたいしたことないと言えばたいしたことはないが、それにしても「もっ
たいない」と思う。能力もさることながら、時間が、だ。

 つぎに今は、プロバイダーのほうでウィルスチェックをしてくれているので、ウィルス
が入ったメールなどは、その段階で削除される。で、そのあと、私のほうに、その旨の連
絡が入る。問題はそのときだ。プロバイダーからの報告には、つぎのようにある。「○○@
××からのメール、件名△△にはウィルスが混入していました……」と。

そこで私は、その相手に対して、その内容を通知すべきかどうか迷う。いや、最初はその
つど、親切心もあって、「貴殿のパソコンはウィルスに汚染されている可能性があります」
などと、返信を打っていた。しかしこのところそれが多くなり、そういう親切がわずらわ
しくなってきた。

で、最近はプレビュー画面に開く前に、プロバイダーからの報告そのものを削除するよう
にしている。で、ハタと考える。「私もクールになったものだ」と。いや、こうしたクール
さは、コンピュータの世界では常識で、へたな温情(スケベ心)をもつと、命取りにすら
なりかねない。(事実、過去において、何度かそういう経験があるが……。)だから、あや
しげなメールは、容赦なく削除する。しなければならない。そしてそれがどこかで、私が
本来もっている、やさしい人間性(?)を削ってしまうように感ずるのだ。あああ……。

 このところインターネットをしながら、いろいろと考えさせられる。これもその一つ。

(注:あやしげなメールには、ぜったいに返信をかけてはいけない。
無視して削除すること。
これはこの世界では、常識。
この原稿を書いた時には、まだそれがよくわかっていなかった。)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●幻惑

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「幻惑」に苦しんでいる人は多い。
「家族だから」「親だから」「長男だから」と。
意味のない『ダカラ論』で、体中が、がんじがらめになっている。
ふつうの(苦しみ)ではない。
悶々と、いつ晴れるともわからない苦しみ。
その苦しみが、ときとして、その人を押しつぶす。

「幻惑」……「家族」という独特の世界で生まれる、
精神的呪縛感をいう。

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●呪縛感からの解放

 本来なら、親のほうが気を使って、子どもが家族のことで、苦しまないようにする。
それが親の(やさしさ)ということになる。
親の(努め)ということになる。
親は、また、そうでなければならない。

 が、世の中には、いろいろな親がいる。
「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せるだけではなく、そのつど、
真綿で口を塞ぐようにして、子どもを、苦しめる。
そんな親もまだ多い。
実のところ、私の母もそうだった。
わざと私の聞こえるところで、他人と、こんな会話をする。

「○○さんところのA君は、立派なものじゃ。今度、両親を、温泉へ連れていって
やったそうだ」とか、など。
 あるいはその一方で、こんな話もする。
「△△さんところの嫁は、ひどい嫁じゃ。親には、親子どんぶりを食べさせ、自分は、
うな丼を食べていたそうだ」とか、など。
 あるいは、「親の葬式だけは、家屋敷を売ってでも、立派にやれ」とも言った。

 私はこうした話を、子どものころから、耳にタコができるほど聞かされた。
もっとも子どものころは、まわりの人たちがみな、同じようなことを言っていたことも
あり、それほど疑問には思わなかった。
私が疑問に思い始めたのは、やはり高校生になってからだと思う。
だからある日、私は突然、叫んだ。
「いつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。

●勇気 

おかしなことだが、こうした呪縛感は、親が死んだあとも、残る。
派手な葬儀に、派手な法事。
それが転じて、仏教不信へともつながっている。
が、ここで終わるわけではない。
今年は一周忌。
来年は三周忌……、とつづく。

 「勇気」というとおおげさに聞こえるかもしれないが、こうした「幻惑」と闘う
ためには、勇気が必要である。
体中に巻きついた呪縛感を、取り除く……。
が、それには、親族たちの白い目、決別を意味する。
それ以上に、私自身の内部で、既存の宗教を乗り越える宗教観をもたねばならない。
さらに言えば、家族への依存性とも決別しなければならない。

 「私が死んだときも、葬儀は不要」「一周忌も三周忌も不要」と言えるように
なるまでには、相当の覚悟が必要である。
その覚悟をもつには、それ相当の勇気が必要。
その勇気なくして、その覚悟をもつことはできない。

 もっともだからといって、死者を軽く扱うということではない。

●儀式

 近くに、冠婚葬祭だけはしっかりと済ます人がいる。
3人の子どもがいたが、それぞれの結婚式には、町内の自治会長、副会長まで
呼んだ。
その数、300~400人。

 しかしおかしなことに、かけた教育費は、ゼロ(?)。
いろいろあったのだろうが、3人とも、学歴は中卒で終わっている。
(だからといって、中卒がどうこう言うのではない。誤解のないように!)
いつだったか、その母親のほうが、こう言ったのを覚えている。
「へたに学歴をつけると、遠くへ行ってしまうから、損」と。

 この話を聞いたとき、私の生きざまとは正反対であることに驚いた。
私は、こと教育費にかけては、一度とて惜しんだことはない。
息子たちが言うがまま、一円も削ることなく、お金を出してきた。

一方、私たち自身は、結婚式なるものをしていない。
お金がなかった。
が、それ以上に、冠婚葬祭の意味すら、認めていなかった。
それなりの(式)をするのは、当然だとしても、しかしそこまで。
それ以上は、まさにムダ金。

 同じように、葬儀にしても、大切なのは、(心)。
(心)を中心に考える。
儀式はあくまでも、あとからついてくるもの。
儀式をしたから、死者が浮かばれるとか、反対に、儀式をしなかったから、
死者が浮かばれないとか、そういうふうに考えること自体、バカげている。

●新しい死生観

 現在、都会地域では、約30%の人が、直葬方式で、葬儀を行っている
という(中日新聞・東京)。
「直葬」というのは、病院から直接火葬場へ向かい、遺骨となって自宅へ戻る
ことをいう。
そのあとは「家族葬」といって、家族だけで、内々で葬儀をすます。

 恩師のT先生も、それを望んでいる。
数か月前、鎌倉の自宅で会ったとき、そう言っていた。
私が「先生のような方のばあい、周囲がそうさせませんよ」と言うと、先生は、
「私はそうしてもらいます」と、きっぱりと言った。
T先生は、天皇陛下のテニス仲間でもある。

 が、私のばあいは、少しちがう。

 もしワイフが先に死んだら、私は、しばらくワイフの遺体といっしょに寝る。
たぶん私が先に死んだら、ワイフもそうしてくれるだろうから、私はワイフのそばを
離れない。

 いつもどおりの生活をして、しばらくそうしていっしょに、過ごす。
うるさい葬儀はしない。
参列者も家の中には、入れない。
息子たちやその家族たちだけが、来られる日に、それぞれが来ればよい。
来なくても、構わない。

 気持ちが安らいだところで、火葬にしてもらう。
遺骨は、私が死ぬまで、私のそばで預かる。
そのあとのことは、息子たちに任す。
海へ捨てるのもよし。
どこかの山の中に捨てるのもよし。

 あの墓の中に入るのだけは、ぜったいにごめん。
私のワイフも、そう言っている。
それだけは、どんなことがあっても、ぜったいにしてほしくない。

 ……という死生観をもつためには、それなりの努力が必要である。
勇気も必要である。
体にしみついた呪縛感を抜き去るのは、容易なことではない。
ときに身をひきちぎるような苦痛を伴うこともある。

 だから……。
私は3人に息子たちには、私が味わったような苦しみを、味あわせたくない。
だから3人とも、親絶対教の信者たちに言わせれば、この上ないほどの
親不孝者ばかりである。(ホント!)

 しかし私はそういう息子たちをあえて弁護する。

 私は3人の息子たちを通して、じゅうぶん、人生を楽しんだ。
息子たちは私に生きる喜びや、生きがいそのものを与えてくれた。
今、それ以上に、私は息子たちに、何を望むことができるのか。
感謝しこそすれ、親不孝者とののしる気持ちなど、みじんも、ない!
息子たちは息子たちで、自分たちの家族を楽しめばよい。

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昨年(08年)の9月に書いた原稿を、そのまま
再送信します。

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●自然葬(Natural Funeral)

自然葬を望む人が、団塊の世代を中心にふえているという(中日新聞報道)。
そういう活動を指導的に行う、NPO法人(特定非営利活動法人)も
立ち上がっている。

「葬送の自由をすすめる会」(東京)というのも、そのひとつ。
同会のばあいは、1991年に発足し、会員は全国で1万2000人、
3年前とくらべて、2倍にふえたという。

少し前、「直葬(ちょくそう)」という葬儀の仕方について書いた。
都会地域では、30%前後の人たちが、現在、直葬を選択しているという。

自然葬にせよ、直葬にせよ、日本の伝統的な死生観にそぐわないため、
抵抗を感ずる人も多い。
とくに農村部ではそうだろう。
しかし同時に、今、冠婚葬祭のし方が、この日本でも大きく変わろうとしている。
「従来のままではおかしい」と考え始めている人が、ふえ始めている。

実際、おかしい。
儀式化するのはしかたないとしても、肝心の「心」が、どこかへ置き去りに
なってしまっている。
誤解しないでほしいのは、直葬にせよ、自然葬にせよ、それをするからといって、
死者を軽んじているということではない。

もちろん中には経済的な理由で、そうする人もいるだろう。
都会地域では、葬儀費用は、平均して300万円前後もかかるという(同)。
この浜松市でも、140~50万円が、その相場ということになっている。

しかし実際には、それまでの介護費用、あるいは介護で、疲れきって
いる家庭も多い。
その上での葬儀である。
(私も先日、実兄を見送ったが、葬儀費用は、しめて165万円。
香典などでの収入は、43万円前後だったので、約120万円の赤字(?)という
ことになる。)

葬儀の費用のうち何割かが、僧侶への布施。
布施の額は、戒名によって異なる。
寺の格式(?)によっても、異なる。
G県の小さな田舎町での葬儀だったが、下は30万~80万円。
上にはキリがないそうだ。

ちなみに、自然葬のばあい、合同葬なら、約5万円。
個人葬でも、約10万円だそうだ(上記、同会)。

日本人の多くは、葬儀といえば、僧侶による読経を当然と考える。
その読経の仕方も、布施の額によって異なる。
たとえば、寺に頼んでも、僧侶が1人で来るということはない。
たいてい仲間を誘う。(たがいに誘い合う?)
こうして別途に、1人、10~20万円前後が請求される。
(これでも安いほうだそうだ。)
5人、助っ人を頼めば、プラス100万円~となる。
(ある宗教団体では、僧侶を呼ばず、「友人葬」と称して、仲間同士で
葬儀をする。)

しかしこうした常識そのものが、おかしい。
で、私はこれについて、一度、地元のある寺の住職にこんな質問を
したことがある。

「戒名は、どうして必要なのか」
「読経は必要なのか」と。

それに対して、その住職は、こう教えてくれた。

「俗名には、世間のしがらみが、いっぱいくっついています。
清廉潔白な気持ちで浄土へ行くためには、戒名は必要です」
「読経するのは、仏(=死者)を、成仏させるためです」と。

私にはこれ以上のことはわからない。
わからないが、こんな方法では、残された遺族の悲しみやさみしさは、
癒されない。
むしろ、こうした形式的な儀式によって、死者や遺族の意志を、もて
あそぶことになりやしないか。

私の近い知人(元)高校教師(男性)が、先日、亡くなった。
しかしだれも、その知人の葬儀の日すら、知らなかった。
葬儀は、僧侶なし、家族だけの密葬で行われた。
が、だからといって、いいかげんな葬儀だったと考えないほうがよい。
それから1~2週間、妻は、床に伏せたままだったという。
それを心配した息子や娘は、妻(=母親)のそばにずっといて、
妻(=母親)の介護をしたという。

故人というより、葬儀にしても、もっと遺族の心を大切にすべき。
と、同時に私たちも、意味のない迷信にとらわれることなく、
(こうあるべき)という葬儀の仕方を、もっと前向きに考えた
ほうがよい。

今のように(形)が先にあって、その(形)だけをすれば、それでよい
と考えるほうが、おかしい。
むしろ現実は逆で、心の中では、「バンザーイ!」と叫びながら、葬儀の席では、
うちひしがれた遺族を演ずる家族も少なくない。
その隠れ蓑として、「形」が利用される(?)。

で、もう少し先を言えば、「戒名」などという言葉は、釈迦の時代には、
「カ」の字もなかった。
「成仏」という言葉にしても、だれでも修行すれば仏になれると説いたのは、
北伝仏教。
さらに「死ねばみな、仏」という考え方をするのは、私が知るかぎり、この
日本人だけである。

(釈迦の教えが直接伝わっている南伝仏教では、ある一定の位以上の僧のみが、
仏になると教える。)

僧侶に読経してもらった程度のことで、成仏できるというのなら、ではこの
現世での努力は、何かということになってしまう。
懸命に生きた人も、そうでない人も、同じ仏という考え方そのものが、不平等。

いろいろ考えてみるが、私には、「成仏」という概念が、どうしても理解できない。
理解できないから、葬儀のあり方そのものに、どうしても納得できない。

……ということで、自然葬、おおいに結構。
私に遺産があるとかないとか、そういうことには関係なく、息子たちには、
無駄なお金を使わせたくない。
私は自分の遺灰が、どこかに捨てられても、いっこうにかまわない。
遺骨などに、私の魂は、ない。
あるはずもない。

私がワイフより先に死んだら、遺骨はワイフが死ぬまで、ワイフが預かる。
再婚したければ、すればよい。
ワイフが死んだら、私とワイフの遺骨の始末は、息子たちに任せる。
自由に決めてよい。

ワイフが私より先に死んだら、その反対。私が死ぬまで、ワイフの遺骨は
私が預かる。
私が死んだら、あとの始末は、息子たちに任せる。

なお散骨について、法務省刑事局総務課は、つぎのような見解を示して
いるという(同紙)。

「節度をもってすれば、刑法の遺骨遺棄罪には当たらず、問題はない」とのこと。
よかった!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 直葬 自然葬 はやし浩司 遺言 葬儀 死生観)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

はやし浩司+++July 09+++Hiroshi Hayashi

●古いパソコン

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現在、この文章を、パナソニック社製の「Let’s Note」(CF-L1)
を使って書いている。
「Let’s Note」の中でも、初代機。
当時の値段で、24万円もした。
が、購入直後から、故障つづき。
当時は、修理といっても、地元のパナソニックの代理店までもって行かねば
ならなかった。
最初の6か月のうち、3~4か月は、会社のほうにあった。
が、私は、このパソコンが、たいへん気に入っている。
キーボードの感触が、たまらない。
で、購入日を見ると、「2000年9月」となっている。
が、これはおかしい?
「2000年9月まで保証期間」という意味かもしれない。
2000年には、すでにこのパソコンを使っていたはず。
それに、あれからたった10年とは、とても信じられない。
私には、遠い遠い昔のように思われる。
言い換えると、この10年は、ほんとうに長かった。

SDカードも使えない。
インターネットもできない。
キーを叩いたとき、反応も鈍い。
データの保存は、フロッピーディスクだけ。
(着脱式のCDドライブは、とっくの昔に壊れ、今は、端子をビニールで
端子を塞いで使っている。)
が、私は、このパソコンが好き。
このパソコンで文章を書いていると、叩いているだけで、気持ちよくなる。
何と言うか、長年苦楽を共にしてきた、古い友人のようでもある。

 このパソコンだけは、死ぬまで、大切にしたい。
(大げさかな?)

++++++++++++++++++++

●静岡県知事選挙

++++++++++++++

私は「浮動票の王様」。
支持政党はない。
が、そのつど私が投票する候補者は、
かならずといってよいほど、当選する。
今回も、そうだった。

が、それについて、中央のJ党は、
「僅差で敗れたのだから、政権には
影響はない」と言っている。
しかしこれは、ウソ。
「僅差」ではない!

J党は、SK氏(前副知事)を推した。
M党は、KK氏(前大学学長)を推した。
しかし実際には、M党からは、候補者が2人出ていた。
もう1人のUN氏は、元M党参議院議員。
つまりM党支持者は、2つに割れた。
割れた上で、J党が推したSK氏が敗れた。
もしUN氏が立候補していなければ、KK氏の圧勝で終わっていたはず。
具体的には、J党:M党=1:2で、終わっていたはず。

それを「僅差」とは?

なお、J党は、この静岡県を、「地方」「地方」と切り捨てている。

TBS-iビュースは、つぎのように報道している。

『…… 「地方選がこうだから、“総選挙がかくあるべし”ということは理念としては、切り
離して考えるべき」(甘利明 行政改革相)

 「地方選挙によって解散戦略が影響することは、ここはやはり私はないというふうに思
っております」(自民党・菅義偉 選対副委員長)

 「落胆することなく今回の東京都議会議員選挙は、東京都の議会の代表を選ぶ選挙です
から」(自民党・石原伸晃 幹事長代理)

 「我々も国政との関連は切り離して考えてきたわけであります」(河村建夫 官房長官)』
と。

選挙前は、よほど「勝つ」という自信があったのか、静岡県知事選挙をはずみに、
国政選挙(衆議院議員選挙)に打って出る予定だった。
が、敗北したとたん、「地方の選挙にすぎない」と切り捨て、一方で、解散を延期する
動きを見せている。
「今、国政選挙をすれば不利」と、J党は呼んだ。

しかしこの「地方」という言葉に、カチンときたのは、私だけではないと思う。
全国の人たちも、そう感じたはず。

何が地方だ!
何が中央だ!

日本人に、地方も、中央もない!
この中央集権意識こそが、奈良時代からつづいた日本の負の遺産。
今、それが音をたてて崩れ始めている。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●ジョーク

++++++++++++++++

コンビニで、ジョークを集めた
本を買ってきた。
最近、この種の本を買うことが
多くなった。
「この種」というのは、値段が
手ごろで、読みやすいという意味
である。

その中のひとつを、紹介する。
(記憶によるものなので、内容は
かなりちがう。
また、このジョークを、外国の
友人にも送りたいため、まず英語で
書いてみる。)

+++++++++++++++++ 

●殺人事件(A Murder)

One night a man called his wife over the phone when he was on his way back home.
But a young woman instead of his wife, answered the phone.

A Man “Who is it talking with me?”
A Woman “I am a maid that your wife has hired from today, sir.”
A Man “OK, please get this phone to my wife.”
A Woman “Sorry, sir. She can’t answer this phone, for she is in her bed-room with a
young man.”

A Man, angrily, “Is she in her bed-room with a young man?”
A Woman “Yes, sir. She has been in her room for almost two hours now.”
A Man “OK, try to find out the hand-gun in the locker near the table and shoot them
down right now.”
A Woman “…shoot them down to kill them?”
A Man “Yes. Kill them right now then you shall have 50 thousands dollars. Or I will kill
three of you right after this. I am near my home now.”

A Woman “50 thousands dollars? Or you will kill me?”
A Man, “Definitely yes!”

Then the man heard two shots over the phone.
…Bang! Bang!…

A Man “Did you kill my wife and the young man?”
A Woman “Yes, sir. I just did as you told me.”
A Man “Good job. I will give you 50 thousands dollars very soon.”
A Woman “By the way, sir, what shall I do with this hand-gun?”
A Man “Throw it into the swimming pool in front of the dining room.”

A Woman “…A swimming pool? …but there is no swimming pool in this house nor in
front of the dining room…”

A wise man advise you like this:

When you make a phone-call to your wife, make sure if the number is correct or not.
(以上、へたくそな英語で、ごめん!)

++++++++++++++++

 私の英語力を暴露するようで、恐縮だが、
英語も使わないと頭の中でさびる。
しかし何とか友人たちには、通ずるだろう。
・・・ということで、今度は、その日本語訳。

++++++++++++++++

●ある殺人事件

ある男性が家に電話をした。
しかし電話に出たのは若い女性だった。
男「君は誰かね」
女「今日から奥様に雇われた、メイドです」
男「ワイフを電話口に出してくれ」
女「いえ、それができません。奥様は、2時間ほど前から、若い男と寝室にいらっしゃい
ます」

男「・・・何! 若い男と寝室にだと!」
女「そうでございます」
男「横のロッカーに、ピストルがある。それで2人を撃ち殺してこい。撃ち殺したら、5
万ドル、お前にやる。
女「5万ドル!」
男「そうだ、5万ドルだ。もし殺さなかったら、これからすぐ家に帰って、お前も殺して
やる」

女「わ、わかりました・・・」

(バン、バンと2回、銃声が聞こえる)

男「殺したか?」
女「殺しました」
男「よくやった」
女「でも、だんな様、このピストルは、どうしましょうか?」
男「居間の前にプールがあるから、そこへ捨てて来い」
女「・・・だんな様、しかしこの家にはプールはありません。居間の前にもプールはあり
ません」

賢者の言葉:家に電話をかけるときは、電話番号をよく確かめてからすること。


はやし浩司+++July09+++Hiroshi Hayashi

●老年期のダイエット

++++++++++++++++

私は今まで、ダイエットとリバウンドを、
数え切れないほど、経験してきた。
たいていは夏前に太り始め、夏の最中に、
ダイエットを始める・・・。

体重で言えば、68キロ前後になって
太りすぎと知り、そのつど、63キロ前後まで、
落とす。
この繰りかえし。
が、それにも、年齢制限がある。

私の知人を観察してみると、60歳を過ぎてからの
ダイエットには、危険がともなう。
というより、60歳ごろまでにきちんと適正体重に
しておかないと、そのあと体重を落とすのは、
たいへんむずかしい。

70歳になると、さらにむずかしくなる。
80歳になると、さらにさらにむずかしくなる。

+++++++++++++++++++

●太りすぎ

 太りすぎがよくないことは、よくわかる。
しかし最近何かの本で読んだ報告によれば、やせ過ぎもよくないということらしい。
むしろやや太りぎみの人のほうが、長生きをするということもわかってきた。

 しかしもちろん太りすぎもよくない。
体重が、足の関節や腰を痛める。
で、私はこの2か月と少しで、68キロ台から、現在、61キロ台にまで体重を
落とすことができた。
現在、満61歳だから、年齢的には、かなりきびしいダイエットということになる。
その(きびしさ)を、現在、体験しつつある。
順に、それらを書き留めてみる。

(1) 運動量を、簡単にはふやせないということ。
ダイエットと並行して、運動をすることは絶対条件だが、「今まで以上に
運動を・・・」と言われても、それがむずかしい。
生活の習慣そのものを変えなければならない。
それに何ごとも、この年齢になると、新しいことを始めることが、おっくうになる。
今回、それまでの運動量に加えて、ほとんど毎日、8~10キロの道のりを歩いた。
運動にはなっているが、足の裏が痛くなる(私)、足の関節が痛くなる(ワイフ)
という弊害も出てきた。 

(2) 抵抗力が落ちるということ。
私のばあい、ダイエットを始めたとたん、体の抵抗力が落ちる。
具体的には、皮膚病にかかりやすくなる。
今まではそうだったので、今回は、栄養の補給には細心の注意を払った。
今のところ、これといった症状は出ていない。

(3) 脂肪率は、さがらないということ。
今回、ダイエットを始めるにあたって、最新型の体重計を購入した。
体脂肪率はもちろん、基礎代謝量まで測定できる。
が、それによっても、体重は7キロ前後まで減ったのに、体脂肪率は、
24・5%から、24%へと、たった0・5%しか減っていない。
これはどういうことなのか?
体重は10%減ったのだから、それ以上に、体脂肪率も減ってもよいはず。

(4) 虚脱感からキレやすくなる
空腹感はしかたないとしても、体が慢性的にだるくなる。
体重が減ったから、体を軽く感ずるということはない。
自転車をこいでいるようなとき、むしろ、体を重く感ずることがある。
それに空腹感を通り越すと、精神状態が不安定になる。
イライラしやすくなり、ときにカッと、つまらないことで、キレやすくなったりする。
これは血糖値の低下が、多分に関係していると思う。

(5) 便秘になりやすい
ダイエットをしていると、便が出にくくなる。
出ても、硬い。
だから数日置きに、漢方薬のセンナをのみ続ける。
が、その薬の量をまちがえると、今度は下痢状態になる。
その調整がむずかしい。

(6) 慢性的なガス欠状態
当然のことだが、基礎代謝エネルギーそのものが不足するから、体は
慢性的なガス欠状態になる。
そのせいか(?)、いつも眠い。
何をしていても、眠い。
運動をする前も、運動をしたあとも眠い。
「ダイエットというのは、睡魔との闘いである」と言っても、過言ではない。
睡眠時間は、たっぷりととっているはず。
それに毎日、ちゃんと昼寝もしているはず。
それでも眠い。

 以上、問題点だけを、洗い出してみた。
もちろんこれは(私)のケース。
みながみな、そういうふうになるということではない。
運動の仕方も、いろいろある。

 が、それ以上に大切なことは、先にも書いたように、ダイエットには
年齢制限があるということ。
恐らく私の今ぐらいの年齢が、上限ではないか。
この年齢になると、ダイエットすることによるメリットよりも、ダイエット
することによって、さまざまな弊害が現れるようになる。
仮に運動量をふやさないまま、ダイエットだけをすると、体の抵抗力が
落ちてしまう。
持病がひどくなることだって、ありえる。

 だから私は、「今回が最後」と自分に言って聞かせて、ダイエットに臨んだ。
「今回、ダイエットに失敗したら、もう二度とつぎはない」と。
そういう点では、今回のダイエットには、どこか悲壮感が漂っている。

 で、今は、61キロ台。
この状態を、あとはキープ。
そのうち体のほうが、61キロで機能し始めるはず。
それまでまだ、気を緩めることができない。
がんばろう!


はやし浩司+++July09+++Hiroshi Hayashi※

●月に1日勤務で、月額42万円?

++++++++++++++++++++++

全国の都道府県で、これまた前代未聞の月額
報酬を支給していたことがわかった(読売新聞)。

まず、つぎの記事を読んでほしい。
これを読んで、怒らない読者はいないと思う。

++++++++++++++++++++++

『…… 新潟県収用委(定数7)は、3年間で収用手続きが1件もなく、会議が年4回ず
つ開かれただけで、残りの勤務ゼロの月について委員11人に計1840万円を支給した。
その会議も欠席し、25か月勤務実績がないのに、275万円を受け取った委員もいた。
福島の収用、愛媛の選管、栃木の労働の各委員会も同様に、勤務実績がない月の報酬を3
年間で1000万円以上支給していた。また、43府県は月に1日勤務の委員に対し、3
年間に月額報酬約21億5000万円を出していた』(読売新聞・09年7月4日)と。

 つまり、勤務実績がほとんどないにもかかわらず、県は、行政委員に対して、たとえば、
11人に、計1840万円も支払っていた(新潟県)と。

 記事の内容がふじゅうぶんで、正確にはどうなのかよくわからないが、こういうことら
しい。

●会議が年、4回開かれただけ。
●4年間で、委員11人に対して、計1840万円、県が支給した。

 これらの数字をつかって割り算をしてみると、11人の委員は、毎年、42万円、受け
取っていたことになる。
しかも、その会議すら欠席し、25か月、勤務実績がないにもかかわらず、275万円も
受け取っていた委員もいた、と。

 だれが考えても、これはおかしい。
おかしいものは、おかしい。
そこで、全国の都道府県では、こうしたおかしな出費の見直しを始めた。
『北海道や兵庫など8道県は「月に1日も勤務しない場合は報酬を支給しない」と条例な
どで規定しており、勤務ゼロでの支給はなかった』(同)と。 

私はこの記事を読みながら、「静岡県」の名前を懸命にさがした。
が、残念ながら、その記事には、「静岡県」の名前はなかった。
というのも、私は、(うわさ)として、似たような話を耳にしている。
正確な金額は忘れたが、たとえば選挙管理委員として、投票所に顔を出して座っているだ
けで、委員は、~~万円という日当をもらえる、と。
(一桁ではなく、二桁だったように記憶している。)
それを聞いたとき、私はわが耳を疑った。
つまりそれほどまでに高額であった。

 読売新聞の記事には、こうある。

++++++++++++++以下、読売新聞++++++++++++++++

『……34府県が2006~08年度、選挙管理(選管)と労働、収用の行政委員会委
員に、勤務がない月も月額報酬を支給していたことが、読売新聞の調べで分かった。

 ゼロ勤務の委員579人への支給総額は3年間で約3億4000万円に上る。

 委員の月平均勤務は3日に満たず、月額支給は違法とする司法判断も出ている。神奈川、
大阪など7道府県では、日当制の導入など実態に見合った支給方法への見直しを始めて
いる。

 47都道府県141委員会(定数計1300)の事務局に報酬や勤務実態を聞いたとこ
ろ、08年4月時点で日当制の富山、福井、山梨、長野の収用委員会を除き、月額支給
だった。このうち34府県89委員会が、勤務がない月にも36万円~5万2000円
の報酬を支給していた。

 月額報酬の平均額は、選管が約19万8000円、労働が約19万4000円、収用が
約14万7000円。06~08年度の委員の月平均の勤務日数は、回答のなかった東
京などを除き、選管1・93日、労働2・38日、収用1・56日だった。最も多い神
奈川県労働委員で5・51日だった。

 新潟県収用委(定数7)は、3年間で収用手続きが1件もなく、会議が年4回ずつ開か
れただけで、残りの勤務ゼロの月について委員11人に計1840万円を支給した。そ
の会議も欠席し、25か月勤務実績がないのに275万円を受け取った委員もいた。福
島の収用、愛媛の選管、栃木の労働の各委員会も同様に、勤務実績がない月の報酬を3
年間で1000万円以上支給していた。また、43府県は月に1日勤務の委員に対し、
3年間に月額報酬約21億5000万円を出していた。

 一方、北海道や兵庫など8道県は「月に1日も勤務しない場合は報酬を支給しない」と
条例などで規定しており、勤務ゼロでの支給はなかった。

 行政委員の報酬を巡っては、大津地裁が1月、滋賀県の選管、労働、収用の3委員につ
いて、「常勤同様の勤務実態がなく、月額での報酬支給は地方自治法違反」と支給差し止
めを命じた。滋賀県が控訴している。

 この判決を契機に、勤務実態に見合う制度への見直しが進んでいる。北海道は今年4月
から収用委員の報酬を日当制に変更、宮城、群馬、神奈川、大阪、鳥取、大分の6府県
も現在、日当制導入に向けて準備中だ』と。

++++++++++++++以上、読売新聞++++++++++++++++

 どうして「静岡県」の名前が、この記事の中にないのか?
この記事だけで断定はできないが、静岡県は、『この判決を契機に、勤務実態に見合う制度
への見直しが進んでいる』県のひとつには、なっていないということか?

 が、この程度の(特権)は、公務員の世界では、まさに氷山の一角。
友人や知人の中には、その公務員をしている人も多い。
だから私としては言いにくいが、しかしこんなことをしていたら、本当に日本は破産して
しまう。
(すでに破産状態だが……。)

 ともかくも、「まあ、いいじゃないか、もらえるものは、もらっておけ」式の支給が、中
央の官僚たちの世界だけではなく、全国、津々浦々の公務員の世界でも、常識化している
ということ。
それがいかに恵まれたものであるかは、ひょっとしたら、すでにあなた自身も知っている
はず。
が、これだけは忘れてはいけない。

そのツケは、回り回って、やがてあなた自身の上にのしかかってくる。
あなたの子ども、さらにはあなたの孫にのしかかってくる。
「私だけ、こっそりと得をすればいい」と、もしあなたが考えているとしたら、私はこう
言いたい。

「あなたが、そう考えるから、あの手この手で、我も我もと、税金のつかみ取りを、み
ながしている」と。
そのひとつが、行政委員会委員への(月額報酬)ということになる。

 しかしね、みなさん、どうしてこんなバカげた条例が、つぎからつぎへと、県、市、町、
村議会で可決されるか、その理由がわかりますか?
つまりね、議会が議会として、じゅうぶん、機能していないということ。
民主主義のとらえ方に、大きな穴があいているということ。
そのあたりからもう一度、洗い直さないと、こうした問題は、解決しないということ。

この記事を読んで、(怒り)を通り越して、(脱力感)を覚えるのは、けっして私だけで
はないと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

● DVD『コッポラの胡蝶の夢』

++++++++++++++++++++++++

ビデオショップで、DVD『胡蝶の夢』を借りてきた。
夜、10時を過ぎてから、ワイフと2人で、それを見た。
字幕の翻訳がよくないのか、内容がよく理解できなかった。
理解できないまま、最後まで見た。

星は、1、2個の、★。
『地獄の黙示録』で、世界的な監督になった、フランシス・
コッポラの監督作品ということで、かなり期待していた。
が、がっかり。
……というのが、私の率直な感想。

++++++++++++++++++++++

その『地獄の黙示録』では、こんな強烈な思い出がある。
ある夫婦なのだが、その映画を、ある日の午後、劇場で見た。
その夜のこと、妻が自宅にガソリンをまいて、焼身自殺。
その火事に巻き込まれて、夫と、1人の息子も焼死。
手伝いで住み込んでいた女性も、焼死。
何とも痛ましい事件だった。

私は縁があって、その夫婦とは、それまでの10年近く、
深く交際させてもらった。
そのこともあって、そこにいたる経緯(いきさつ)を
私はよく知っている。
で、『地獄の黙示録』。

今でもその題名を聞くたびに、「あの映画が関係あった
のではないか」と、思う。
「あの映画を見たので、奥さんは、自殺を決意した」と。
つまり当時としては、それくらい強烈な印象を与えた映画だった。

+++++++++++++++++++++++++

●人間的な(やさしさ)

 その人のもつ、社会性、大衆性は、その人の人格の完成度を知る、重要な
バロメーターのひとつと考えてよい。
EQ理論(ピーター・サロベイ)でも、「他者との良好な人間関係」でもって、
人格の完成度を量る。
より深い社会性、大衆性があれば、それでよし。
そうでなければ、そうでない。
それだけ人格の完成度は、低いということになる。

 で、『コッポラの胡蝶の夢』。
SF映画のようだが、SF映画でもない。
恋愛映画のようだが、恋愛映画でもない。
過去と現在が、複雑に交錯する。
そのうちわけがわからなくなる。
おまけにコッポラの哲学。
難解なセリフ。
意図はよくわかるが、観客の目で見て、「おもしろくない」の一言。
私はその映画を見ながら、若いころ、主婦と生活社にいた、INという
編集長が教えてくれた話を思い出した。

●「まず相手を楽しませろ」

 INという編集長は、こう言った。
『林君(=私のこと)、原稿を書くときは、まず、相手を楽しませること。
相手をいい気分にさせること。
「あなたはすてきだ」「あなたはすばらしい」と。
それが80~90%。
残りの10~20%を使って、その中に自分の意見を織り込む。
「だけど、私はこう思います」と、ね。
それでじゅうぶん。
いいかね、文章というのは、まず読んでもらわなければならない。
それを忘れてはいけないよ』と。

 また別の出版社の社長は、こう教えてくれた。
東京の神田で、出版社を経営していた人である。
当時『磯野家の謎』という本を出して、大当たりした。
いわく、「どんな本を書くときも、全力で書け。
けっして、出し惜しみしてはいけない」と。

 どういうわけか、これら2人の人たちが話してくれたことが、私の
耳に鮮明に残っている。

 そうそう、もう1人。
学研の幼児局にいた、STという編集長も、私にこう教えてくれた。

『エッセーを書くときは、具体例を3分の1は入れること』と。
さらにこうも言った。
『読者を批判したら、かならず、「ではどうしたらいいか」という意見を
書き添えること。
けっして読者を批判したままで、終わってはいけない』とも。

それらが今でも、こうしてものを書くときの(私の柱)になっている。

(1) まず、読んでもらうこと。
(2) 出し惜しみしないこと。
(3) 具体例を書くこと。
(4)読者を批判したままでは、終わらないこと、と。

●大監督

 映画に限らないが、芸術家というのは、「大」の文字を冠(かんむり)に
かぶるようになると、製作に対する姿勢が大きく変わってくる。
どうしてだろう?
で、その映画だが、たとえば昔、黒沢Aという名前の監督がいた。

 若いころ監督した映画は、たしかにおもしろかった。
私も大ファンだった。
しかし晩年の作品になればなるほど、がっかりすることが多くなった。
それを最初に強く感じたのが、『デルスウラーザ』。
それに『影武者』『乱』とつづく。
(このあたりの順序は、記憶によるものなので、不正確。)

 どれも見るに耐えないというか、駄作(失礼!)ばかり。
「大作」と銘打って、豪華な俳優と、製作費をふんだんに使った映画だった。
が、どこかひとりよがり。
「どうだ、これが映画だ」という傲慢さばかりが、目だった。

 先日見た、『コッポラの胡蝶の夢』も、そうだった。
先にも書いたように、おもしろくなかった。
私は途中で何度か、席を離れた。
(だから余計に内容が、理解できなかったかもしれない。)


● 「初心、忘れるべからず」

結局は、「初心、忘れるべからず」ということになる。
初心を忘れたとたん、作品は、現実から遊離してしまう。
現実から遊離すればするほど、そのまま自分の殻(から)にこもってしまい、
独善と独断の世界に入りこみやすくなる。
が、一度、こうなると、あとは(殻にこもる)→(現実からの遊離)の悪循環。
へたをすれば、人格そのものが、後退するようになる。

 フランシス・コッポラ監督がそうだとは思わない。
が、ここまで(現実)から遊離した映画を製作するようになると、
彼自身の人格を疑われてもしかたないのではないか。
映画を通してみる彼の人格は、偏屈で、がんこ。
人間らしい(やわらかさ)を、見失ってしまった(?)。
だから星は、やはり1つの、★。

 難解な哲学書を読んでも平気な人は、DVD『コッポラの胡蝶の夢』を見たらよい。
もう一度、よく見れば、私にも内容が理解できるようになるかもしれない。
が、私は、一度で、たくさん!

 今度、劇場で、ニコラス・ケイジ主演の、『ノウイング(Knowing)』が封切られる。
楽しみ!
見るぞ!
私には、ああいう映画のほうがあっている。
(まだ見てないが……。)


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●静岡県知事選挙

+++++++++++++++++++

現在、居間でこの原稿を書いている。
時は、7月5日(日曜日)、午後10時25分。
昨日、故障していたミニノート(ASPIRE・1)が、
修理から返ってきた。
その初期設定が、先ほど、終了。
今は試し打ちをしているところ。

テレビ(NHK)では、ウィンブルドンの試合を実況中継している。
ロジャー・フェデラーが新たな記録を作るか……?
その合間に、ときどき今回の静岡県知事選挙の投票結果が、報道される。
開票率17%前後だが、前副知事のSK氏(自民・公明推薦)が、得票数
1位をキープしている。
2位のKK氏とは、2万票の差をつけている。
県知事選挙とはいえ、国政選挙のような雰囲気。

 どうなるのだろう?

たった今、開票率22%の結果が出た(10時40分)。
SK氏とKK氏が、やや間を縮めてきた。

フェデラーの試合も気になる。
選挙結果も気になる。
ウィンブルドンも、静岡県知事選挙も、大接戦。
今夜は、このまま徹夜になりそう。


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