ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(541)
●不況時代の、子育て論
本格的な大不況が、近づいてきた。昨夜(〇二年七月四日)、書店で三冊の週刊誌を買ってきた。アメリカにいる二男に送るためである。週刊新潮、週刊文春、週刊朝日の三誌である。その三誌が、まるで呼吸を合わせたかのように、日本経済の破綻(はたん)を予告している。あの堺屋氏(経済企画庁元長官)まで、悲観的なことを書いている(文春)。大不況がやってくるのは、もう確実で、しかも秒読み段階に入ったとみてよい。
が、経済がどうなるかを考えるのは、このコラムの目的ではない。問題は、そういう大不況になったら、子育てをどう考えたらよいか、だ。と、言っても、私たちの世代は、すでに暗くて、貧しい時代をすでに経験している。私は昭和二二年生まれ。堺屋氏がいうところの、まさに「団塊の世代」。
子どものころ記憶にあるのは、毎日、空腹だったこと。みながみな、そうだった。だから私や私の家族が貧乏だったという思いは、どこにもない。そういう自分を思い出しながら、大不況下の子育てはどうあるべきかを考えてみる。
(1) 子どもは親が気にするほど、貧乏を気にしない…貧乏を気にするのは、親であって、子どもではない。子どもはそういう意味で、環境をあるがまま受け入れ、適応する能力をもっている。貧乏であることを、子どもに恥じることはない。恥じてはいけない。
(2) 親は卑屈にならない……いくら貧乏になっても、親は卑屈になってはいけない。親が卑屈になると、子どもの心は「貧しく」※なる。一杯のかけそばを、分けあって食べるような、そういう卑屈なことをしてはいけない。親は親で、前向きに気高く生きる。
(3) 貧乏を楽しむ……貧乏なら貧乏で過ごし方がある。見え、体裁、メンツを捨てる。世間体など、気にしてはいけない。「私は私」という生きザマを大切にする。日本がこの不況から抜け出る日はやってくる。そのとき同じスタートラインに立ったとき、あなたの生きザマは、子どもを伸ばす大きな原動力となる。
(4) 金銭的価値観とは決別する……「プレゼントは買ったものはダメ」「買う前にリサイクル」「不便であるのが当たり前」などを、ハウス・ルールにする。今までの金銭的価値観からものの考え方を転換する。家の中はスッキリ、ムダなくをモットーとする。
(5) 家族の意義をたてなおす……家族は励ましあい、助けあい、教えあい、いたわりあい、支えあう。そういう家族をものの考え方の中心におく。「家族がいちばん大切」ということを、日常的に子どもに言う。貧乏だからといって、このきずなは壊れない。むしろ貧乏であればあるほど、そしてその貧乏を楽しめば楽しむほど、家族のきずはな深まる。
(6)質素であることを誇りにする……質素であることを恥じることはない。むしろ誇るべきことである。自動車には乗らず、自転車に乗る。バリバリのブランド品で身を包むのではなく、ヨレヨレの雑貨品を使う。それこそが人間の気高さの象徴である。
※貧乏と、心の貧しさは別。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(542)
●不況時代の、子育て論(2)
貧乏でこわいのは、見え、メンツ、世間体。この三つに毒されると、愛すべき貧乏が、憎むべき貧乏に変身する。そればかりではない。自分で自分を見失ってしまう。他人の目の中で生きる人生ほど、はたから見ても、見苦しいものはない。そのためにもできるだけ早い時期に、「私は私」という、自分の生きザマを確立する。自分が自分であるかぎり、貧乏など、何でもない。
むしろ貧乏であるほうが、他人の心がよくわかる。そしてそのわかった分だけ、心のつながりができる。悲しみや苦しみを、互いに共有するからだ。見苦しいといえば、少し前までテレビによく出ていた、元野球監督の妻のSがいた。脱税で逮捕されるまで、まさにしたい放題、言いたい放題のことをしていた。顔中に、人間がもつあらゆる醜悪さを、塗りたくったような女性だった。
私たちが今すべきことは、ああいう人間の醜さを、しっかりと記憶にとどめておくことだ。またああいう人間を評価しないこと。その女性は億単位のお金を右から左へ動かしていたという。超の上に超がつく金持ちだったかもしれないが、軽蔑すべき人間というのは、まさにああいう人間をいう。
貧乏であることは、何ら恥ずべきことではない。むしろ誇るべきことかもしれない。質素につつましく生きることは、それ自体が美徳であり、すばらしいこと。ただし、貧乏と、心の貧しさは違う。いくらベンツの大型車に乗っていても、タバコの吸殻を窓から外へ捨てる人は、心の貧しい人という。いくら豪かな家に住んでいても、自分より弱い立場の人をさげすみ、罵倒する人は、心の貧しい人という。いくら貧乏になっても、その心の貧しい人になってはいけない。
私とて、お金は嫌いではない。いつも心のどこかで、いつかはお金持ちになりたいと願っている。本を出版するときも、「売れればいい」と、いつも願うのは、自分の考えがより多くの人に理解されることを願うというよりは、印税が少しでも多く入ることを願うからだ。しかしこんなことは守っている。月によって、いつもの月よりも多くの収入が入ることがある。そういうときでも、いつものように、最低限の生活を守るようにしている。車だって、動けばよい。服だって、着られればよい。食べものだって、食べられればよい。ときにぜいたくをすることはあるが、それはあくまでも「ときには」という話である。
私には退職金はない。天下り先もない。年金もない。息子たちの世話にはならない。すべてが「ないないづくし」だから、いつか必ず、私は貧乏になる。長生きすればするほど、貧乏になる。それがわかっているから、今からその貧乏になるための準備をしている。が、それは同時に、やがてやってくる大不況の準備のためでもある。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(543)
●霊の存在
霊は存在するか、それともしないか。
この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じた」とか言う。これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなければならない。数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難のワザである。
ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。非公式の調査でも、約七〇~八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。
で、それはそれとして、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はいくらでもいる。またこの出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万件ものアクセスがあるという(二〇〇一年秋)。
私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできない。だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。
私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、ものの考え方を一八〇度変えなければならない。これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじのようなものだ。宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。「当たるかもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。もちろん当たれば、もうけもの。そのときはそのときで考えればよい。
同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。見たことも、感じたこともないのだから、これはしかたない。で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけもの。それから霊の存在を信じても遅くはない。何と言っても、霊の世界は無限(?) 時間的にも、空間的にも、無限(?) そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足りない小さなもの(?)
私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。だからこの世界を、まず大切にしたい。神様や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。ただ言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。人間として懸命に生きる。そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様のほうこそ、まちがっている。
……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼りたくない。私は私。どこまでいっても、私は私。
今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(544)
●宗教について(1)
小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。
かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。
ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。
「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。
一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは!
あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……?
人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(545)
●宗教について(2)
ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。
これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。
しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれでもまだよくわからない。
そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。
(宗教について(3)へつづく)
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(546)
●宗教について(3)
ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。
が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。
私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。
だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。
そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。人間全体についても同じ。
スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。
そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(547)
●宗教について(4)
教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私はこう言った。「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。
また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。
さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(548)
●宗教について(5)
人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるものではない。
今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。
子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊についても、そうだ。
ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。
私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(549)
●孤独
孤独であることは、まさに地獄。無間地獄。だれにも心を許さない。だれからも心を許されない。だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。だれも愛さない。だれからも愛されない。……あなたは、そんな孤独を知っているか?
もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自分の心に、耳を傾けてみよう。あなたは何をしたいか。どうしてもらいたいか。それがわかれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。
人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。あなたの中のあなた自身を信ずればよい。あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇万年を生きてきた、常識が備わっている。その常識を知り、その常識に従えばよい。
ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。ほかの人に親切にすれば、心地よい響きがする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、どこまでも誠実に生きる。ウソをつかない。飾らない。虚勢をはらない。あるがままを外に出してみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。
ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響きがする。すでにあなたはそれを知っている。もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこまでも誠実に生きてみる。人を助けてみる。人にものを与えてみる。聞かれたら正直に言ってみる。あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。
生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。が、もし、あなたが進んで心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周囲の人を温かく、心豊かにする。一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たくし、邪悪にする。だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。言いたいと思うことを言えばよい。ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、逃れることができる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(550)
●常識をみがく
おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。たったこれだけのことで、あなたはあなたの常識をみがくことができる。大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさないこと。
手始めに、空を見てみよう。あたりの木々を見てみよう。行きかう人々を見てみよう。そして今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよう。つっぱることはない。いじけることはない。すねたり、ひがんだりすることはない。すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心に従えばよい。
私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。そのときは、「今夜は家には戻らない」と、そう思った。しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけてみた。「お前は、ひとりで寝たいのか? ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。すると本当の私がこう答えた。「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝たい」と。
そこで家に帰った。帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだった。自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。しかし私がそうして心を開いたとき、ワイフも心を開いた。と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。
仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。あなたの心に、がまんすることはない。ごまかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。あなたが心を開かないで、どうして相手があなたに心を開くことができるのか。
本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。みなは、それができないから、苦しんだり、悩んだりする。本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認め、自分が弱いことを認める人をいう。みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をはったりする。
おかしいものは、おかしいと思う。おかしいものは、おかしいと言う。一見、何でもないことのように見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無間地獄から抜け出る、最初の一歩となる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(551)
●耐性のない子どもたち
一人の生徒(小四)が、レッスンの途中でトイレに行った。が、すぐ帰ってきてしまった。理由を聞くと、「ゴキブリがいたから」と。
あるいは別の日。私の家に遊びに来ていた中学生(中二女子)が、突然タクシーを呼んでくれと言った。理由を聞いても言わない。しかたないので、タクシーを呼んだ。で、それからしばらくしてから母親に理由を聞くと、こう話してくれた。「あの子は、便座型のトイレだと、よそのトイレが使えないのです」と。
私が小学生のころは、ボットン便所が当たり前だった。トイレットペーパーすらなかった。学校のトイレでは、新聞紙をノート大に切った紙がヒモでぶらさげてあって、それを使った。もっとも、そのままでは使えない。使う前に、一度、手でもんで、ほぐさなければならない。だからトイレでは、その新聞紙をクシャクシャとほぐす音が、いつも聞こえていた。
私が経験したような貧しい時代が、よい時代とは思っていない。しかし今の子どもたちよりは、生活に対して、はるかに耐性があった。が、問題は耐性がなくなったことではない。今のような豊かな生活が維持できれば、それでよし。しかし生活がマイナス方向に進みはじめたとき、果たして今の子どもに、それを乗り切る力があるかということ。仮に明日から、「トイレはボットン便所にします」と宣言したら、子どもたちはパニック状態になってしまうかもしれない。もっともこれは極端なケースだが、しかし便利さに溺れるあまり、自分を見失っている子どもは多い。
もう一〇年も前だが、高校生たちと旅行をしたことがある。が、帰るときになると、みな、手ぶらである。驚いて「荷物はどうしたの?」と聞くと、「宅急便に預けた」と。で、このことを当時、ある雑誌のコラムに書こうとしたら、編集長がこう言った。「林さん、知らなかったのですか。今では、それが常識ですよ」と。
夏になると、青い顔をして、苦しそうにハーハーとあえいでいる子どもは、いくらでもいる。「クーラーがないと、何もできない」のだそうだ。皆さんはご存知ないかもしれないが、今では、小さなハエが一匹教室に入ってきただけで、クラスはパニック状態になる。いわんやゴキブリとなると、大騒動! 私はそういう状態をみるたびに、「これでいいのか」と思ってしまう。いうまでもなく、子どもたちには、山を登る力はある。しかし山をくだる力はない。いかにして山をくだるかを教えていくかも、教育の大切な役目ではないのか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(552)
●山をくだる力
教育というと、山を登ることばかり教える。たとえば少し前まで、「勉強して、いい大学へ入れ」と教える親や先生は、いくらでもいたが、子どもがすべったときの、心のケアまで考える親や教師はいなかった。みながみな、合格することだけを考えて、子どもの尻を叩いた。しかし山の登り方に劣らず大切なことは、山の下り方である。こんな女の子(中学生)がいた。
何でも「ここ一番!」というときになると、自ら手を引いてしまうのである。「私は、どうせダメだもん」と。そこで「どうして」と聞くと、こう話してくれた。「だって、私はA小学校の入試に落ちたモン」と。その子どもは、六年以上も前に、A小学校の入試に失敗したことを、気にしていた。しかしこういうことは本来、あってはならない。
子どもに向かって、「伸びろ!」とハッパをかけるのは、簡単なことだ。しかしその過程で、挫折し、キズつく子どもがいる。そういう子どもはどうすればよいのか。もっと言えば、日本人は、目が上ばかり向いているから、弱者のことは考えない。
ひところ昔までは、たとえば大学入試についても、「落ちたら落ちた生徒が悪い。あとは自分で考えろ」というのが、ごく一般的な考え方だった。成功者をワーワーともてはやす一方、失敗者を容赦なく切り捨てた。……今も、切り捨てている。中には自分が弱者であるにもかかわらず、その弱者であることを忘れてしまっている人がいる。
私の母がそうだった。昔、「おしん」というテレビドラマがあった。貧しい家の少女が、全国チェーンにまで、自分の店を育てるというドラマである。数年前に倒産した、ヤオハンジャパンの社長の、Kさんがモデルと言われている。そのヤオハングループのスーパーが、私の家の近くにでき、そのため私の家は閉店に近い状態に追い込まれた。しかし当時の母は、毎日、涙をこぼしながら、「おしん」を見ていた!
こうした日本人独特の「おめでたさ」というのは、結局は体制側によってつくられたものと考えてよい。なかんずく教育そのものが、そうなっている。山に登ることばかり教えるから、目が上ばかり向くようになる。下を見ない。下がわからない。さらに自分自身が弱者であるにもかかわらず、その弱者であることすら忘れて、強者をたたえてしまう。
山をくだる教育がどういうものかは、それからゆっくり考えることにして、これはまさに、日本の教育がもつ最大の欠陥といってもよい。今でも、「勉強ができないのは、できない子どもが悪い」と平気で言う人は、いくらでもいる。しかしこうした教育観は、基本的な部分で、まちがっている!
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(553)
●織田信長論
先日もテレビを見ていたら、こう言った知事(M県)がいた。「私は信長の生き方に共感を覚えます。今の日本に必要なのは、信長型の政治家です」と。
信長のもとで、いかに多くの善良な庶民が苦しみ、犠牲になったことか。京都の川原では、毎日四〇~五〇人もの人が処刑されたという記録も残っている。少し冷静に歴史を見れば、彼がまともな人間でなかったことは、だれにだってわかるはずだ。
私たちはともすれば、あの時代を、信長の目でしか見ない。が、一度でもよいから、信長にクビを切られる庶民の立場で見てはどうだろうか。県知事という、権力のトップに立ったような人には、信長は理想かもしれないが、しかし私はゴメン。もし今、信長型の政治家が出てきたら、徹底的に私は戦う。
日本以外の多くの国々では、外国の勢力によって、圧制に苦しんだという歴史がある。そういう国々で、そうした外国勢力をたたえるようなドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。あのオーストラリアでさえ、英国総督府時代のイギリスを美化するだけで、袋叩きにあう。
しかし信長やそれにつづく封建領主たちのした圧制は、植民地の統治者でもしなかったような圧政である。ウソだと思うなら、一度、新居町(静岡県浜名湖の西にある町)の関所跡へ行ってみることだ。当時は関所破りをしたというだけで、一族すべてが処刑された。そんな記録が残っている。
圧制は圧制でも、信長は日本人だったから許されるという論理は、それ自体、おかしい。もし仮に信長が、朝鮮の李朝の出身者だったら、今ごろはどう評価されていることやら。ほんの少しだけでもよいから、それを想像してみてほしい。それともあなたは、それでも信長をたたえるだろうか。もしそうなら、鎌倉時代に、日本を襲った、蒙古のチンギスハン(モンゴル帝国の創始者、元の太祖)をたたえたらよい。信長より、ずっとスケールが大きい。
歴史は歴史だから、それなりの評価は大切である。しかしそれ以上に大切なことは、その歴史を冷静に評価することである。あのナポレオンは、「歴史はみなが合意のもとにつくった、作り話である」(ナポレオン「語録」)と書いている。ときには、そういう冷めた目も大切である。で、ないと、「歴史は繰り返す」(ツキュディデス「歴史」)ということになりかねない。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(554)
●孤独(2)
私は子どものころから、愛想のよい人間と言われてきた。しかしそれは仮面。本当の私は、人嫌いで、むずかしがり屋で、わがまま。自分勝手で、傲慢(ごうまん)。だから友だちの数は、少ない。本当に心を開いて、何でも話せる人というのは、ワイフくらいしかいない。あとは郷里にいる姉。そういう意味では、私は、実にさみしい人間。孤独な人間。
そんな私だから、ときどき、こう考える。もしワイフや姉がいなくなったら、私はどうなるか、と。まず第一に、私は生きる力をなくすだろう。第二に、今のような精神状態を保つことはできなくなるだろう。第三に、……?
私の知人のI氏(五一歳)は、妻を病気でなくしたあと、自(みずから)も精神病院へ入ってしまった。約六か月入院していたが、そのあと、別人のようになってしまった。私との関係は、ここで切れたが、それから数年たって消息を聞くと、I氏はそのあと、全国を旅して回ったという。I氏には暗くて、苦しい六か月だったに違いない。
これに似た話だが、昔、長谷川一夫という俳優がいた。日本人で彼の名前を知らない人はいなかった。そういう俳優だったが、妻が死んだあと、そのあと数か月で、自分も死んでしまった。毎日、毎晩、妻の仏壇の前で、彼女の死を悲しんでいたという。
私たちはひとりでは生きられない。仮にあなたが巨億の富を手にして、あらゆる権力を手にしたとしても、ひとりだったら、孤独に打ち克つことはできない。たいした富もない、権力もない私がこう結論づけるのは、危険なことだが、こんなことは常識。少し頭を働かせば、だれにだってわかる。
そこで改めて、生きる意味を考える。私たちは、どうして生きているか、と。あるいはどうすれば、生きることにまつわる孤独から、自分を解放することができるか、と。あるいはそもそも生きる意味など、考える必要はないのか、と。「あるがままを生きて、死ぬときは、さっさと死ぬ。それでいい」と言う人もいる。「そのときはそのときだから、ジタバタしても、しかたないではないか」と。
実のところ、私もできれば、そうしたいと思っている。今は、今なりに、結構、ハッピーなのだから、それでよいではないか、と。しかしこういう生き方は、あとでドンとツケが回ってくるのではないかと、それがこわい。
こうした恐怖感から逃れるために、ひとつの方法としては、宗教がある。神や仏に身を寄せてしまえば、それはそれなりに楽になれる。実際には、同じ信仰をする仲間どうしが、たがいに慰めあい、いたわりあうことで、楽になれる。しかし今の私には、それもできない。いや、とても残念なことだが、いまだかって、そういう宗教にめぐりあっていない。
ああ、私は神や仏にすら、見放された人間なのか。ああ、私はそこまで孤独な人間なのか。私はこの孤独から、いったいどうすれば逃れることができるのか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(555)
●自己分析
わかっているようで、わからないのが、自分。自分を知ることはむずかしい。「私は私」と思っている人でも、本当のところは、わかっていない。私のばあい、仕事がらいつも子どもを見ているので、子どもを通して、自分を知ることができる。その私のこと。
(帰宅拒否)私は子どものころ、いつも真っ暗になるまで、寺の境内や道路で遊んでいた。あるいは学校から帰ってくるときも、まっすぐ家に帰ったことは、一度もなかった。そういう思い出から、私は帰宅拒否児だったと判断できる。
(かんしゃく発作)私は泣いたあと、よくしゃっくりをしていた。かなりはげしく泣かないと、そのあとしゃっくりが出るということはない。私は興奮性の強い子どもだったようだ。そういうことから、私は家庭教育の失敗による、かんしゃく発作の持ち主だったことがわかる。
(ひねくれ症状)私は中学生のころ、気がある女の子の前へくると、わざと無視したり、意地悪をした記憶がある。小学五年生のときには、一人の女の子のノートに落書きをして、泣かせてしまったことがある。そういう思い出から、私はものの考え方が、かなりひねくれていたことがわかる。
(分離不安)今でも、ときどき夜になると、言いようのない不安感に襲われることがある。ひとり取り残されたかのような不安感だ。人づきあいは、あまりよくない割には、ひとりでいるのが苦手。子どものころ、母親のあとをいつもついて回っていたのを覚えている。そういうことから、私は分離不安だったようだ。
(情緒不安定)私は寝るとき、貝殻でつくったボタンを指でいじるクセがあった。小学三、四年生までそれがつづいた。そのボタンをいじっていると、気持ちよかった。これは固執型の情緒不安定児によく見られる症状である。そういう症状から、私は情緒が不安定な子どもだったようだ。
(愛情飢餓)小学三年生ぐらいのときだった。人形がほしくてほしくてたまらなかったときがある。しかし「男が人形で遊ぶなんて」と言われそうで、なかなかそれを言えなかった。で、伯母に内緒で作ってもらい、その人形を毎晩、抱いて寝た。一方、よく「浩司は愛想がいい」と言われた。相手に合わせて、シッポを振る(相手に取り入る)のがうまかった。そういう思い出から、私はかなり愛情に飢えていたと判断できる。
いろいろ問題がある私だが、考えてみれば、それも当然。父親は数晩おきに酒を飲んで暴れた。私にはそれが恐怖だった。母親は母親で、虚栄心のかたまりのような女性で、見栄やメンツばかりを気にしていた。戦後の混乱期のことで、親たちも生きていくだけで精一杯。戦争の後遺症を多かれ少なかれ、どの人も引きずっていた。私はそういう時代に生まれ、そしてここに書いたような子どもになった。
あなたも私がここに書いたことを参考にして、自分の過去をさぐってみてはどうだろうか。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(556)
●自己分析(2)
自分を知るためには、まず(1)過去の思い出を静かにさぐってみる。子どものとき、あなたは自分がどういう行動をしたかなど。あるいは相手の人が、どのように反応したかでもよい。先生があなたのことで何かを言ったことでもよい。あるいはあなたの父親や母親の口グセでもよい。
つぎに(2)そういったことを手がかりに、自分の分析を始める。そのときある程度の知識が必要となる。恐怖症、神経症、情緒不安など。
そしてある程度、自分の症状が類型化できたら、(3)なぜそうなったかを、考えてみる。そのときとくに大切なのか、あなたが生まれ育った、家庭環境である。父母はどういう状態だったか。家庭はどういう状態だったか。あなたと父母の関係はどうだったか。父母に対して、どのような感情をもっていたか、など。
こうした自己分析をする理由は、二つある。ひとつは、「今の自分」を、よりよく知るため。今、あなたは「私は私」と思っているかもしれないが、実のところ、「過去につくられた部分」のほうが大きい。しかし問題は、そういう過去があることではなく、そういう過去があることに気づかないまま、その過去に振りまわされること。そして同じ失敗を繰り返すこと。いじけやすい、ものの考え方がひねくれている、つっぱっている、ひがみやすい、など。しかしもしあなたが自分の過去に気づけば、こうした問題は、そのあと多少の時間はかかるかもしれないが、それで解決する。
もうひとつの理由は、子育ては、親から子どもへと、伝播(でんぱ)しやすい。「世代連鎖」と呼ぶ人もいる。その連鎖が、よいものでればよいが、そうでないものもある。たとえば子どもを愛せない、子どもに暴力を振るなど。もしそうであれば、そういう連鎖は、できるだけあなたの代で、断ち切る。そのためにも、なぜ今、あなたが子どもを愛せないか、なぜ今、あなたが子どもに暴力を振るうかを知る。この問題も、あなたが自分の過去に気づけば、そのあと多少の時間はかかるかもしれないが、それで解決する。
自分を知ることは、おもしろいことでもあるが、同時にこわいことでもある。しかしさらに自分を知ると、人間自身がもつおもしろさに、あなたも気がつくはず。ついで子育ての深遠さに気づき、子育てがどうあるべきかに気づくはず。ぜひあなたも、自分さがしをしてみてほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(557)
●子育て論
このところ、ほぼ二日おきにマガジンを発行している。うるさく思っている人も多いかと思う。もしそうなら、適当に読んでくださるか、フィルタリング※して、ヒマなときにでも読んでくだされば、うれしい。
さあて、本論。こうして毎日子育て論を書いていると、ネタが切れるときがある。頭の中がカラッポになる。で、パソコンに向かっても、何も頭に浮かんでこない。そこで「これでマガジンもしばらく休みだな」と思ったりする。しかし、不思議なものだ。町の中へ行き、そこで教室で子どもたちの顔を見たとたん、頭の中にムラムラと、書きたいことがわいてくる。これは不思議な現象だ。
このことから、私はひとつの教訓を学んだ。子育て論は、現場を離れては書けないということ。また現場を離れた子育て論は、意味がないということ。たとえば昔、Tという日本でも有名な教育家がいた。私も何冊か彼の本を読んだことがあるが、現役時代の彼の本は、たしかにおもしろかった。しかし現役を離れ、引退し、さらに有名人になってからの彼の本は、違った。どれも美辞麗句ばかりで、読むに耐えないものばかりだった。
言いかえると、私が一番恐れているのは、この点である。もし私の周囲から子どもたちの声が聞こえなくなったら、多分、私はもう子育て論は書けないだろうと思う。だからときどき私はワイフにこう言う。「死ぬまでぼくは、教える仕事をやめることができない。教えるのをやめたら、そのとき、はやし浩司も終わる」と。……実のところ、毎年、どこか鋭さが消えていくように感ずる。気力も、集中力も弱くなったように感ずる。何か目標をもたなければと思っているが、その目標すらかすんできた。ときどき「時間との勝負」と思うことが多くなった。
今も、「うるさいマガジンと思われているだろうな」と考えつつ、つぎのマガジンを考えている。
※……フィルタリングというのは、受信したメールを自動的により分けて、別のフォルダーに格納することをいう。方法は、(ツール)→(メッセージルール)→(メール)→(メールルール)から、「件名に指定した言葉が含まれるばあい」にチェックを入れる→「指定したフォルダに移動する」にチェックを入れる→「指定した言葉が含まれる」をクリックして、そこに「はやし浩司」と入れる、「指定したフォルダ」のところから、移動先のフォルダを決める。これで私からのうるさいマガジンは、すべて別フォルダに格納される。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(558)
●自分であって自分でない部分
子育てには、「自分であって自分である部分」と、「自分であって自分でない部分」がある。問題は、「自分であって自分でない部分」。それがわからないと、自分で失敗しながら、その失敗に気づかないまま、その失敗を繰り返すことになる。
子育てはそういう意味で、「頭で考えてする部分」と、「条件反射的に、何も考えないでする部分」がある。その「何も考えないでする部分」が、よい部分であればよし。しかしたいていは悪い部分。その悪い部分が、あなたを裏からあやつる。それがこわい。
子育てで失敗する人というのは、その悪い部分に操(あやつ)られている人とみてよい。よい例が、子どもへの暴力、暴行、虐待。子どもに暴力、暴行、虐待を繰り返す人は、自分自身もそれらを親から受けた人が多い。これを「世代伝播(でんぱ)」という。それを防ぐためにも、自分の過去を冷静に見る。それは勇気がいることだが、しかし「何も考えないでする部分」がわからないままだと、この問題は解決しない。
一方、子育てで失敗する人というのは、たいていパターンが決まっている。「子どものことは私が一番よく知っている」とか、「私は私。私の子育てが一番正しい」と言う。それだけ自己中心的ということになる。つまり自己中心的であればあるほど、人は自分を見失う。子どもの姿を見失う。そして結果として失敗する。いろいろな例がある。
その母親には二人の息子がいた。異常とも思えるような家庭学習を強制し、結果、兄のほうは高校へ入学したとたん、バーントアウト。そしてそのまま引きこもり。ふつうなら親も、ここで自分の失敗に気づくものだが、しかしその母親は違っていた。弟にはさらにきびしい学習を強制した。
兄のときは、「勉強しなさい!」「うるさい!」の親子げんかが毎晩のようにつづいたが、弟のときは、そのけんかもなかった。そのため弟は、中学二年のときに心の病気になり、そのまま入院。が、この段階になっても、母親は自分のした行為に気づかなかった。「子どもがそうなのは、生まれつき。私はそれをなおそうとしただけ」と言い張った。
今は、その兄弟は、父親の実家に預けられ、そこから兄は高校へ通っている。弟は、リハビリに通っている。こうした例は、あなたのまわりにも、ひとつやふたつは、あるはず。が、それとて、結局は、つまり母親がそうなのは、母親自身が「自分であって自分でない部分」を、無意識のまま引きずっているだけ。そういう意味では、本当の被害者は、母親自身ということになる。
どうか、どうか、みなさんも、気をつけてほしい。あなたにとって一番大切なのは、子どもの明るい笑顔。それこそが、家族の基本であることを、どうか忘れないでほしい。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(559)
●子どもの心をつかむために
あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、意味を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。
●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い
八問のうち、五~六問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心をしっかりと、つかんでいる。
正解は、つぎ。
○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」
あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。
あなたの子どもは目を白黒させて、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試してみてほしい。女子だったら、「私、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、やっぱりかごちゃんが一番、すてきだと思うわ」と。コツは、さりげなく、サラリと子どもの前で言うこと。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(560)
●はじめの一歩
子どもの方向性は、「はじめの一歩」で決まる。……と言いきるのは、少し問題があるが、しかしほぼまちがいがない。たとえば私の二男は大のサシミ嫌い。恐らく幼児のころ、魚のサシミを食べていやな思いをしたためだろう。生臭いサシミを食べたとかなど。そしてそういう経験が、つぎつぎと重なって、ますますサシミ嫌いになっていった……?
食べ物だけではない。「勉強」もそうだ。何らかの理由で、子どもは一度勉強嫌いになると、それ以後、好きになるということは、まず、ない。あるいは同じ勉強をさせようとしても、そうでない子どもの何倍もの努力が必要となる。
たとえば今、年中児(満五歳児)で、「名前をひらがなで書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせる子どもは、一〇人のうち、一~二人は必ず、いる。中には涙ぐんでしまう子どももいる。文字に対して、何らかの恐怖心をもっているためと考えてよい。そういう子どもが、その先、たとえば小学校などで、国語が好きになるということは、まず、ない。(絶望的とは言わないが、好きになるのは、たいへんむずかしい。)
そういうわけで、子どもに経験させることは、何でも、はじめの一歩を大切にする。このはじめの一歩がうまくいけば、あとが楽。子どもは自分で伸びる。コツは、無理をしないこと。子どものリズムに合わせて、慎重に進める。が、これがむずかしい。先日もある母親が、こう言って相談にきた。
「うちの子(小一男子)は、『39は30と□』という問題ができない。みんなはできるのに、どうしてできないか」と。そしてたまたまそばにいた息子に向かって、「どうしてこんな簡単な問題ができないの!」と。勉強が、子どもを責める道具になっている! しかし一度、この悪循環におちいると、あとは底なしの悪循環。(親が叱る)→(子どもはますます勉強嫌いになる)→(ますます叱る)の悪循環で、ドロ沼に落ちる。
この子どものケースでは、私はその母親にこう聞いた。「あなたは自分の子どもが、どうであれば、満足するのですか?」と。すると母親は、こう言った。「こんな簡単なことができないでは、困る」と。そこでさらに、「どうして、だれが困るのですか?」と聞くと、「勉強ができないと、子どもが困る」と。
で、また私が、「子どもが困っているのですか?」と聞くと、「今に、困るようになるはずだ」と。しかし実際には、その困る原因を、母親自身がつくっている! はじめの一歩のところで、子どものやる気そのものをつぶしてしまっている。母親は、それに気づいていない!
幼児期は、子どもの方向性をつくるための、大切な時期。ものごとは、すべて慎重にすること。この世界では、こう言う。「はじめよければ、すべてよし」と。肝(きも)に銘じてほしい。
2009年7月23日木曜日
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