2009年7月21日火曜日

*House Education(2)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(481)

●家庭での学習指導のコツ

 子どもの学習を指導するときには、コツがある。まさに奥義(おうぎ)の公開……というのは、大げさだが、そのコツにはつぎのようなものがある。

(1) 子どものリズムをつかむ……それぞれの子どもには、それぞれの子どものリズムがある。このリズムをつかむ。たとえば五分も勉強すると、もう気が散ってしまい、ザワザワする子どももいれば、三〇~六〇分くらいなら、平気で学習に集中できる子どももいる。要は無理をしないということ。集中力が長くつづかないようなら、六〇分、いっしょにすわって、五~一〇分、勉強らしきことをすれば、よしとする。「勉強というのは、黙々とすべきもの」という先入観があれば、それは改める。

(2) イライラしたら手を引く……子ども横に座っていて、イライラするようなら、手を引く。親のイライラほど、子どもに悪影響を与えるものはない。一回や二回ならともかくも、そういう状態が、半年とか、数年もつづくようなら、あなたには子どもを指導する資格はないと思うこと。子どもを勉強好きにする最大のコツは、子どもを楽しませること。英語の格言にも、「楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ」というのがある。

(3) レベルをさげる……家庭での学習は、思いきってレベルをさげる。親はどうしても、「より高度なことを」と思うかもしれないが、そのちょっとした無理が、子どもの勉強ぐせをそいでしまう。できるようするのではなく、やりとげたという達成感を大切にする。そしてここが大切だが、いつも終わるときは、ほめて仕上げる。「この前より、できるようになった」「ずいぶんと進歩した」などと言う。

(4) こまかいミスは、無視する……全体として、ほぼできれば、それでよしとする。こまかいミスなどは、無視する。一見、いいかげんな指導に見えるかもしれないが、もともと勉強というのは、そういうもの。ワークにしても、半分はお絵描きになってもよいと考える。「適当にやる」という姿勢は、決して悪いことではない。子どもはその「適当さ」の中で、息を抜く。自分を伸ばす。

(5) 好きな勉強をさせる……家での学習は、好きな学習をさせる。一科目でも、得意科目ができると、その科目があとの科目を引きあげるということは、よく見られる現象。嫌いな科目や、苦手な科目を伸ばそうと考えたら、まず好きな科目を、伸ばす。オールマイティな人間をめざすと、たいてい失敗する。「やりたい勉強をすればいいのよ」というような言い方で、子どもを指導する。

(6) 依存心をつけない……子どもが親に頼る傾向がみられたら、親は親で、好き勝手なことをすればよい。ときにはバカな親のフリをして、子どもの自立を促すのもよい。依存心がつけば、ある段階から伸び悩むので注意する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(482)

●肩書き社会

 この日本では、肩書きで、ものが動く。人の価値、さらにはその中身まで、肩書きで判断する。これはいわば世界の常識で、長くつづいた身分制度という封建意識が、その底流にある。が、それだけでは終わらない。

 長い間、その肩書き社会にどっぷりとつかっていると、自分の姿を見失う。ある役人(官僚)は、こう言った。「私ももうすぐ定年でね。定年退職をしたら、長野のイナカへ帰って、村長でもやろうかな、ははは」と。「村長でも」と、「でも」と言うところが恐ろしい。

 一般論として、肩書き社会を生きる人は、それだけ上下意識が強く、上下意識が強いということは、それだけ権威主義的なものの考え方をするということ。このタイプの人は、独特の考え方をするから、それがわかる。

 まず無意識のうちにも、人の上下を判断する。応対のし方が、相手によって変わる。自分より目上の人には、ペコペコする反面、自分の支配下にある、目下の人には、尊大ぶったり、いばったりする。電話のかけ方を見れば、それがわかる。「ハイハイ、かしこまりました。仰せのとおりにいたします」と言ったあと、私のような肩書きのないものに対しては、「君イ~ネ~、そうは言ってもネ~」と。

 家庭でも、ものの考え方が権威主義的だから、「親に向かって何だ!」というような言い方が多くなる。「親が上」「夫が上」と。そういう上下関係の中に自分を置かないと、落ち着かない。が、その分だけ、親として、夫として、よい家庭づくりに失敗しやすい。

 が、さらに悲劇はつづく。自分自身の価値すらも、その肩書きで決めるから、その肩書きから、自分を解き放つことができない。定年退職をしたあとも、その肩書きを引きずって生きる人は少なくない。私のいとこの義父がそうだった。退職したときは、国の出先機関の「長」まで勤めた人だが、死ぬまで、本当に死ぬまで、その肩書きにこだわっていた。私が「幼稚園で働いています」と言ったときのこと。その人は私にこう言った。「どうせ、学生運動か何かをしていて、ロクな仕事につけなかったんだろう」と。幼稚園の教師の仕事は、「ロクな仕事ではない」と。

 肩書きを引きずって生きるのは、その人の勝手。しかしその分だけ、結局は自分でさみしい思いをするだけ。つい先日、ここに書いたいとこの義父が八〇歳の年齢でなくなった。が、葬式に出た母はこう言った。「あんなさみしい葬式はなかった」と。実際、この私も、「ロクな仕事」と言われてから、その義父の家には、一度も行かなかった。会いたいという気すら、まったく起きなかった。「死んだ」と聞いたときも、「ああ、そう」ですんでしまった。心の通わない人の死というのは、そういうものかもしれない。権威主義的なものの考え方をする人は、自ら人の心を閉ざす。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(483)

●いびつな行動

 こんな興味深い実験がある。日本体育大学名誉教授の正木健雄氏(教育生理学)らがした実験だが、つぎのようなものだ。

 子どもにゴム球をもたせ、ランプの色により、握ったり放させたりさせ、指示どおりにできるかどうかを調べた実験である。

 で、指示どおり、切り替えが正確にできるタイプを、「活発型」、握ってよいときに握らないのを、「抑制型」、反対に握ってはいけないときに握るのを、「興奮型」とした。

 その結果、一九六九年に調べたところ、(1)幼児段階では、興奮も抑制も弱く、(2)小学校低学年では興奮が強くなり、その後、(3)気持ちを抑える力がつくことがわかったという(読売新聞、〇二年六月)。

 ところが、である。四年前に同じ調査をしてみたところ、六九年には見られなかった抑制型が、小学一年生について、二〇%も現れたというのだ(長野県内、幼児~中学生、四五〇人を対象にした調査)。

 わかりやすく言うと、六九年にはいなかったが、四年前(一九九八年)には、「握ってよいときに握らない子どもが」、小学一年生で、二〇%も現れたということになる※。そしてその結果、「ふだんはおとなしいが、ささいなきっかけで、抑えがとれると、興奮する。通常の発達過程をたどらず、いびつな行動となって現れる」(同新聞)子どもがふえている、と。

原因としては、「食生活、生活リズムなどさまざまな理由が考えられるが、外での遊び、ふれあう機会が減っているためではないか」(信州大・寺沢宏次氏)とも。つまり運動や遊びなどで、仲間と体を動かすことで、前頭葉が発達するが、それがないため、「いびつな行動」となる、と。

 実際、今、すなおな感情表現ができない子ども(幼稚園児)は、約二〇%はいる。皆がどっと笑うようなときでも、笑わない子どもも、約二〇%はいる。この実験で、「二〇%」という数字が出てきたのは、たいへん興味深い。これらの現象は、どこかで連動しているのかもしれない。

※ ……小学生で、興奮型の子どもが多い学年……1969年、二年生
                       1998年、六年生
         興奮型の割合(六年   ……1969年、25%
                       1998年、55%

 「興奮型が低学年から高学年に移り、割合がふえた。興奮する力が育ったあと、抑える力がつくパターンが、崩れているようだ」(前述、正木健雄氏)とのこと。




        
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(484)

●自閉文化

 以前、こまかい丸だけをつなげて、黙々と絵を描いている女の子(年中児)がいた。担任の先生に、「あの子はどういう子ですか?」と聞くと、その先生は、「根気のあるいい子でねえ」と言った。しかしそういうのは「根気」とは言わない。「自閉」という。自閉症の初期によくみられる症状のひとつである。

 ところで石川県の金沢市には、いくつかの伝統工芸がある。蒔絵(まきえ)にはじまり、金銀細工、九谷焼など。全体の特徴としては、精緻(せいち)の一語に尽きる。しかし「精緻」と言えば聞こえはよいが、その実体は、「自閉文化」? 強権と圧制による恐怖政治の中で、民衆の心は限りなく自閉した。

NHKの大河ドラマなどを見ていると、前田の藩主たちは結構、ものわかりのよい人物に描かれているが、ああいうものに、だまされてはいけない。たとえば金沢市には、尾張町とか近江町とかいう地名が残っている。昔、それぞれの地方から、強制的に移住させられた人たちがつくった町である。つまり当時の人たちは、それくらい過酷な生活を強いられた。

 一方、アメリアのテキサス州へ行ってみるとよい。ホテルに泊まってみるとよい。見た目には結構、美しいものをつくるが、どれもこれも、実におおざっぱ。ホテルの家具にしても、裏から見ると、「これが家具?」と、自分の目を疑いたくなるほど、おおざっぱ。金沢の文化を、自閉文化というなら、テキサス州の文化は、開放文化ということになる。人間の心が外へ、外へと向かっている。

 ……だからといって、日本の文化を否定しているのではない。しかしそれを「すばらしい」と評価する前に、「どうしてそういう文化が生まれたのか」ということを疑ってみる必要はある。たとえば歌舞伎にしても、封建時代には、きわめて限定された世界で、きわめて限定された範囲の演劇しか許されなかった。演ずる人ですら、きわめて限定されていた。

今でも、家元制度というのだけが残り、それが伝統文化(?)として、代々と受け継がれている。私たちはそういう文化だけをみて、「すばらしい」と評価しがちだが、その陰で、どれだけ多くの民衆の、そしてその数に等しい創造的な文化が抑圧されたかを忘れてはならない。

 子どもの世界を見ていると、日本の文化そのものが見えてくることがある。私はあの女の子のことを思い出すたびに、そこに金沢の文化をダブらせてしまう。金沢で学生生活を送ったということもある。「はたして金沢の伝統工芸は、幸せな民衆が生み出した文化であったか」と。

むしろ私は、そこに行き場をなくした、民衆の「怒り」を感ずる……と言うのは、少し考えすぎかもしれないが、しかし少なくとも、外に向かった伸びやかさは、ない。あなたも今度金沢へ行ったら、そういう目で、あの工芸品を見てほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(485)

●消息

 インターネットで、ときどき、昔の知人を検索する。ヤフーの検索をつかえば、瞬時に、消息が検索できる。本当に、瞬時だ。で、消息の消えた人。あるいは活躍している人など。消息が消えたというのは、おおげさだが、要するに検索で見つからない人のこと。「どうしたのかな?」と、考えてしまう。

とくに恩師の消息を検索するときは、ある種の緊張感が走る。「もう亡くなってしまったのでは……」という心配が、いつもつきまとう。

 もちろん活躍している人もいる。都市の総合大学で、教授になったり、学部長になった人もいる。ビジネスの世界で、大輪の花を咲かせた人もいる。マスコミの世界で活躍している人もいる。そういう人がいることは、本当にうれしい。見つけるたびに、女房に、「あの人はねえ……」と、その人のエピソードを話す。

 一方、本当に亡くなってしまった人もいる。心配なときは、関係機関や、その所属先に電話を入れて、たしかめている。若いころ世話になった、当時の年配の人は、大半がもうこの世の人ではない。「いつかお礼に行こう」と思ってはいたが、自分の時間以上に早く、こうした人たちの時間は、過ぎていった。三〇代、四〇代のころは、自分の人生を生きるだけで精一杯。過去を振り返る余裕すらなかった。いや、時間が過ぎているという実感すらなかった。いつまでも、いつでも、「その人」は、そこにいるものとばかり思っていた。が、「その人」は、もういない……。

 が、例外(?)もある。郷里の美濃市に住む、M氏だ。私が中学生のときであった、塾の先生だが、当時すでに五〇歳前後の人だった。たいへんな気骨の持ち主で、一方で市議会議員をしたりしていた。市長選には何度も出馬した。年賀状ですら、元旦に自分で配達していた。夏になると、毎日、川で泳いでいたし、正月には山の上から凧をあげていた。ふつうの人ではなかった。

 その恩師から、久しぶりに小冊子が届いた。見ると、「満八八歳の喜寿のときに書いた冊子」という。その人の健康法、人生論などがつづられていた。若々しい文章だった。私はそれを読んでうれしくなった。こう書いてあったからだ。「ものを書く力は、年齢とともに、かえって鋭くなった」と。私は、ものを書く力(力というより、「鋭さ」)が消えるのが、何よりもこわい。「その力は、年齢とともに、鋭くなった」と。

 ……と、その人の消息を知るたびに、人生の悲哀を、しみじみと感ずる。昔、ジャン・ダルジー(フランスの詩人)が、「人、来たりて、また去る」と歌ったが、その意味がよくわかるようになった。インターネットには、そういう「力」もあるようだ。


 


ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(486)

●リストラ

 ある日突然、解雇を言い渡される……。

 それから受ける衝撃は、たいへんなものだ。実のところ、私も、そういう辛酸(しんさん)を何度かなめさせられたことがある。(今は詳しくは書けないが、いつか時期がきたら、書くつもり。)

それは、何というか、全人格、全人生を否定されたかのような衝撃だ。よくリストラされた人の自殺が新聞で報道されるが、その衝撃は、そういった類(たぐい)のものと言ってよい。生はんかなものではない。歳をとってからのほうほどそうで、怒りを通り越して、絶望感すら覚える。しかし私のばあい、いつもそれをバネにしてきた。生来の負けず嫌いの性格もある。よく「林は、ころんでもタダでは起きないな」と言われたが、そういうガッツ精神も、背景にある。

この世界には、「復讐」という言葉がある。私が使う「復讐」というのは、少し意味が違うが、そういうときはいつも、私は復讐を誓ってきた。

 復讐にも、二種類ある。他人に対する復讐と自分に向かう復讐。私のばあい、その相手を徹底的に無視する。これが他人に対する復讐。解雇されたからといって、ジタバタしない。表面的には、冷静さを保つ。ジタバタすれば、それは相手に対して負けを認めることになる。理由も聞かない。もちろん異議も唱えない。「どうぞ、ご勝手に」という態度をつらぬく。……つらぬいた。いくら解雇されても、自尊心までは捨てない。

 で、つぎに大切なことは、自分に対する復讐だ。自分の力なさ、思慮のなさ、さらに油断をのろう。のろって、のろって、のろいまくる。その復讐は、「どうしてお前はそういうことをされたのだ」という思いから、始まる。そしてつぎに、徹底的に相手を分析する。女房は「無視しなさいよ」とよく言ったが、私は分析した。相手の性格、知力、能力など。そして結論として、その相手に負けている部分があれば、それ以上の自分になることで、自分の中の敗北感を消した。

で、ここで大切なのは、あくまでも相手の中身だ。肩書きや地位ではない。そういうものには勝ち目がないし、そんなものを問題にしても意味はない。あくまでも中身だ。自分の中に、相手を克服したと思えるほどまでに、自分自身を昇華する。(これは多分に、うぬぼれと思いあがりによるものかもしれないが、それはそれで構わない。)そうすることで、悲しみや、怒りや、そして屈辱感を乗り越える……。

 今、いろいろと苦しい思いやつらい思いをしている人も多いと思うが、どうか負けないでほしい。私はほんの一時期を除いて、人生の底辺を、それこそいつもバカにされて生きてきた。そういうものには、そういうものの、哲学がある。一般世間の哲学とは違ったものかもしれないが、ここに書いた生きざまは、そういう哲学から生まれた。参考になればうれしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(487)

●自分を知るバロメーター

人間というのは、相手と同等のときは、その相手に腹もたつ。しかし自分が相手を超えたという実感のあるときは、腹もたたない。言いかえると、これをうまく利用すると、あなたのレベルを、それで知ることができる。

たとえば今、あなたに不愉快に思っている相手がいたとする。「いやなヤツだ」とか、「顔を見ただけで、けんかをしそうになる」とか。もしそうなら、あなたも、その相手と同等の人物にすぎないということ。あなたから見て、あなたよりはるかに「下」にいる人は、あなたは相手にしないはず。あなたと同等だから、あなたは相手にする……。このことは、子どもの世界を観察してみると、よくわかる。

たとえば「子どものいじめ」。いじめる側は、いじめる相手を「下」において、その相手をいじめる。本人は優越感を感じているかもしれないが、実際には、いじめる側のほうがレベルが低い。が、その「いじめられる側」が、運動や学力で、相手を超えると、そのいじめが消える。

子どもどうしでも、相手に一目をおくようになるためである。だからよく子ども自身から、いじめの相談を受けると、私はその子どもにつぎのように言うようにしている。「君が苦しいのは、それは君が、相手と同じレベルの人間だからだよ。だから相手が君に対して一目おくほど、君が彼らを通り越せばいい。それがその苦しみと戦う唯一の方法だ」と。(だからといって、いじめを肯定しているわけではない。)

もちろんいじめといっても、内容は複雑だし、当の本人は深刻な問題だ。ここに書くほど、簡単な問題ではない。しかし私のばあい、いつも、いじめられることで、さらに自分をたくましくしてきた。そして不思議なことだが、いじめられている最中というのは、その相手をうらんだり、憎んだりするが、自分が相手を超えてしまうと、その相手に対して、親近感すらもつようになる。相手を「のむ」というのは、そういうことをいう。

 そこで私はいつもこう考えるようにしている。「今、一番不愉快に思っていることはだれか」と。……いや、もっとも、不愉快に思っている人は、(あくまでも今のところだが……)、近辺にはいない。私が今、不愉快に思っているのは、日本の政治や、日本の社会にはびこるカルト(教団)だ。

「敵は大きければ大きいほどよい」とは、よく言うが、大きな敵をもてばもつほど、身の回りのささいなことが気にならなくなる。(だからといって、私が大物だとは思っていない。これは私の処世術のようなもの。ささいなことが気になったら、その時点で、できるだけ大きな敵について考える。そして結果として、そのささいなことを忘れ、それから遠ざかる。)

 少しかっこうのよいことを書いたが、この方法は、自分のレベルを知るのに、とてもよい方法だと思う。一度、あなたも試してみたらどうだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(488)

●水戸黄門論

 テレビドラマに「水戸黄門」というのがある。葵三つ葉の紋章を見せて、側近のものが、「控えおろう!」と一喝するシーンは、あまりにも有名である。今でも、視聴率が二〇~二五%もあるというから、驚きである。

 で、あの水戸黄門というのは、水戸藩二代藩主の徳川光圀(みつくに)と、家来の中山市正と井上玄洞をモデルとした漫遊記と言われている。隠居した光圀は、水戸の郊外、西山村に移り住み、百姓光右衛門と名乗り、そのとき、先の二人を連れて、関東を漫遊したという。それが芝居、映画、テレビドラマになり、「水戸黄門」が生まれた。(芝居の中では、二人の家来は、佐々木助三郎(通称「助さん」)と、渥美格之進(通称「格さん」)になっている。)

 徳川光圀は実在した人物だが、ただ光圀自身は、関東地域からは一歩も出ていない。それはさておき、水戸黄門は、全国各地を漫遊しながら、悪代官をこらしめたり、仇討ちの助けをしたりして、大活躍をする。日本人にはたいへん痛快な物語だが、ではなぜ「痛快」と思うかというところに、大きな問題が隠されている。

以前、オーストラリアの友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、日本人はどうするのか」と。そこで私が「水戸黄門は悪いことはしないよ」と言うと、「それはおかしい」と。

 考えてみれば、水戸黄門がたまたま善人だったからよいようなものの、もし悪人だったら、その権威と権力を使って、したい放題のことができる。だれか文句を言う人がいたら、それこそ「控えおろう!」と一喝すればすんでしまう。民衆の私たちは、水戸黄門の善行のみをみて、それをたたえるが、権威や権力というのは、ひとつ使われ方がまちがうと、とんでもないことになる。

だいたいにおいて水戸黄門は封建時代の柱である、身分制度という制度をフルに利用している。身分制度を巨悪とするなら、代官の悪行など、かわいいものだ。善行も何も、ない。「頂点にたつ権力者は悪いことをしない」という錯覚は、恐らく日本人だけがもつ幻想ではないのか。長くつづいた封建制度の中で、日本人は骨のズイまで魂を抜かれてしまった。もっと言えば、あの番組を痛快と思う人は、無意識のうちにも、封建時代を是認し、身分制度を是認し、さらに権威主義を是認していることになるのでは……? あるいは権威や権力に、あこがれをいだいている……?

 教育の世界には、まだ権威や権力がはびこっている。こうした権威や権力は、その世界に住んでいる人には居心地のよいものらしいが、その外で、いかに多くの民衆が犠牲になっていることか。

むずかしいことはさておき、あのドラマを見るとき、一度でよいから、水戸黄門の目線ではなく、その前で頭を地面にこすりつける庶民の目線で、あのドラマを見てほしい。あなたもあのドラマを見る目が変わるはずである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(489)

●講演について

 講演をするたびに、あとで後悔する。私はもともと早口なので、「早口でしゃべってしまった」とか、反対に、「あれを言い忘れた、これを言い忘れた」と。しかしそれ以上に心配するのは、「来てくれた人の役にたてただろうか」ということ。中には遠いところからわざわざ来てくれた人もいただろう。仕事のつごうをつけて来てくれた人もいただろう。そんなことばかり考える。

 で、最近は、講演の前に、「一生懸命しよう」とは思わないことにしている。そう思えば思うほど、あとで後悔する。それを発見した。そこで最近は、どんな小さな講演でも、「今日が最後だから、そう思ってしろ」と、自分に言い聞かせている。そう言い聞かせて講演をすると、講演が終わったとき、「無事、終わってよかった」と。何だかその先に、まだ人生があるのを知って、ほっとする。

 ただこういうことは言える。多分、(私も他人の講演を聞いたとき、そう思ったが)、聞きに来てくれる人は、私が楽にしゃべっているように思うかもしれない。しかし実際には、重労働。脳のマラソンのようなものではないかと思っている。時間にすれば二時間かもしれないが、その前後の調整がたいへん。前日くらいから体調を整え、当日は、講演の前にはほとんど食事をとらないことにしている。

これは私の低血圧によるもので、胃袋にモノが入ると、眠くなってしまうからである。実際、ある講演では、その前に出してもらった昼食をとったため、講演中に瞬間だが、眠ってしまったことがある。

 体調を整えるということは、実のところたいへんなことでもある。これも一度だが、風邪ぎみで、その朝、風邪薬をのんでしまった。おかげで頭がボーッとしてしまい、途中で何を話しているかわからなくなってしまったこともある。全市をあげての大会のような講演会だったので、あのときほど自分の風邪をのろったことはない。

 また講演しているときは、同時に三つの脳が働く。その話題についてしゃべっている脳。全体の地図のように働いている脳。それに聴衆の反応を見る脳である。この三つの脳が同時にうまく働かないと、それこそ講演の内容がめちゃめちゃになってしまう。体や脳のコンディションが悪いと、これがうまく働かなくなる。

 講演もなれの問題。三〇歳のころは、講演というだけで、数日前から不眠症になってしまった。一度、有料の講演会をしたことがあるが、そのときも、数日前から不眠症になってしまった。が、今は、そういうことはない。ただこういうことは言える。話しとしてする講演というのは、書いた文による内容とくらべると、内容が「浅い」ということ。これは話すことにまつわる限界のようなものかもしれない。だから本当のところ、私は、講演よりも、書いたものを読んでもらいたい。そのほうが、私としては安心できる。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(490)

●キレる子ども
 文部科学省が、「キレる子どもの生育歴に関する研究」を発表した(〇二年六月)。それによれば、「突発的に暴力をふるうなど、キレた子どもの八割近くに、過保護や行き過ぎた干渉、放任といった家庭での不適切な対応があったことがわかった」という。

 その研究によれば、こうした子どもたちの性格は、(1)耐性欠如型(ささいなことにがまんできないタイプ)、(2)不満型(おとなしく目立たないが、不満をためこむタイプ)、(3)攻撃型(衝動的で自制心に欠けるタイプ)の三つに分類されたという。そしてその割合は、つぎのようであったという(キレたと思われる子ども、六五四件について調査。うち男子の報告例が、五七四人で全体の88%)。

    耐性欠如型……70%
    不満型……  30%
    攻撃型……  42% 

 で、生育状況を類型化したところ、つぎのようになったという。

 不適切な養育態度(全体の76%)……過度の統制(きびしすぎるしつけ)……19%
                 ……過保護……14%
                 ……放任 ……15%

 さらに六割を超える子どもに、「家庭での緊張感」がみられ、その内訳は、
                 ……両親の離婚……25%
                 ……両親の不仲……13%
                 ……本人と家族の不仲……16%

 また家庭内での暴力、体罰を受けたケースも、全体の24%にのぼり、また全体の四分の一の子どもに、孤立やいじめなどの「友人関係の問題」がみられたという。興味深い点は、「耐性欠如型では、子どもを過度に統制しようとする母親と、育児に無関心な父親という組み合わせが多い」「不満型では、幼少期は『いい子』だが、そののち、不満型になる」という点を指摘していること。

 こうした分類方法は、子どもの世界を「上」からみる人が好んで用いる手法である。(明治時代、動植物学というと、その分類が主体であった。その手法の範囲を一歩も出ていない。)しかし実際には、現場ではまったくといってよいほど、役にたたない。

たとえば「学習面で遅れの目立つ子どもを、愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。この言葉は好きではない)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えるのに似ている(教育小辞典)。だからどうなのかという部分が、まるで浮かびあがってこない。「分類するのは簡単だが、では実際、指導してみたらいかがでしょうか」ということになる。キレる子どもを考えるには、もっと別の手法を使うべきである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(491)

●キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかにクローズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。つまり脳間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令を狂わすという(生化学者、ミラー博士ほか)。

アメリカでは、もう二〇年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言うとこうだ。たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが多量に分泌され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因となるという(岩手大学の大澤名誉教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパスパとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しくない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよくしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。リン酸をとると、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。

一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カルシウムは精神安定剤として使われていた。それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみる。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足してくると、筋肉の緊張感が持続できず、座っていても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさせたりする。

 ここに書いたのはあくまでも一つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が見られたら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子どもに缶ジュースを一本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。体重一五キロの子どもに缶ジュースを一本与えるということは、体重六〇キロのおとなが、同じ缶ジュースを四本飲むのに等しい。おとなでも四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。

もしどうしても「甘い食べもの」ということであれば、精製されていない黒砂糖を勧める。黒砂糖には天然のミネラル分がバランスよく配合されているため、ここでいうような弊害は起きない。ついでに一言。

 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。しかしそういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子どもたちがウソのように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわかった。その地方ではどこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもたちは水代わりに牛乳を飲んでいた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(492)

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

 私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(493) 

●キレる子ども

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まったく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出した。突然というより、激変に近いものだった。ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった机とイスを足でけって、ひっくり返した。瞬間私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、すごんでいた……。

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根允文氏ほか)と位置づけられている。

躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五六~一九二六)だが、一般的には躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによっては、重複して起こることが多い。

それはそれとして、このキレた状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声でわめいたりする。(これに対して若い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りが充満した状態を、「キレる」と言うことが多い。ここでは区別して考える。)

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。しかしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。

先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」という思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状態のところに、「先生に何かを言われるのではないか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が不安定になった。言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さない。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。一度こういう状態になると、「何を考えているかわからない子ども」といった感じになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(494)

●すなおな子ども論 

 従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子どもという。うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。不愉快なときは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。

しかし心と表情が遊離すると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。中に従順な子どもを、「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。

この時期、よくできた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの子どもは大きなストレスを心の中でため、ためた分だけ、別のところで心をゆがめる。よく知られた例としては、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借りてきたネコの子のようにおとなしい。

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活を何よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、(1)濃厚なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カルシウム、マグネシウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。

リン酸は、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もちろんストレスの原因(ストレッサー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れてはならない。

※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(495)

●育児疲れ

 育児だけならともかくも、つぎからつぎへと雑用が飛び込んでくる。何がなにやらわけがわからなくなる。わずらわしいことも多い。おまけに昨夜は下の子ども(二歳)が夜泣きをして、今日は睡眠不足。夫は仕事だけ。朝早く家を出て、帰りはいつも深夜。しかも最近は、夫との関係もどこかぎくしゃくしている。会話もない。家計もたいへん。今日も、通路へのゴミ出しのことで、隣の人とトラブル。それに息子(小二)の通う学校の先生が、どうも気に入らない。気分的で、つかみどころがない。息子のことで相談しても、ヘラヘラしているだけ。頭の中は情報だらけなのに、どれが大切で、どれがそうでないかもわからない。何をしても、イライラがつのるばかり。ああ、私はどうしたらいいの?

 今、ほとんどの母親たちは疲れている。日本女子社会教育会がした調査でも、七二%の母親が、「子どものことでイライラする」と答えている。うち七%は、「いつもイライラする」と答えている(平成七年)。

 キレる子どもが問題になっているが、キレるのは、子どもだけではない。母親だって、キレる。キレて、何が悪い! だいたい「男は仕事、女は家事」と、だれが決めた! 仕事をしていたほうが、よっぽど気が楽! 世の男どもよ、「仕事、仕事」と、偉そうな顔をするな! ……と、少し熱くなりすぎたが、世の女性たちの本音は、こんなところにある。
 問題は、こうしたイライラを、どう解消するか、だ。子どものできがよければ、まだ多少は救われるが、できが悪いと、さらにイライラは倍加される。

【第一段階】子どもに八つ当たりをする、グチを言う、暴言をはく、子どもに体罰を加える、怒鳴り散らす。感情のコントロールが、不安定になる。

【第二段階】何をするにも無気力になる、元気がなくなる、返事をしても上の空、むなしい、つまらない、やる気が出てこない。感情が抑制される。

 この第二段階になると、いろいろな神経症(頭重、頭痛、肩こり、腹痛など)を併発し、さらに進むと、回避性障害(人と会うのを避ける)、節食障害(過食、拒食など)、行為障害(万引き、ムダ買い)などの、精神障害が現れるようになる。こうなると育児ノイローゼと呼んでもよい。

 そこで解消法。もっとも効果的な解消法は、「汗をかく」こと。無我夢中で汗をかくような方法がよい。東洋医学でも、「気」がうっ積するときは、「発散」という方法で、病気をなおす。湯液(とうえき)を用いる方法もあるが、簡単に発散させる方法としては、「発汗」がある。うっ積した「気」は、汗とともに、体外へ出る。論理的ではないが、現象的には、正しい。

 あなたもイライラしたら、どこかで思いっきり、汗をかいてみるとよい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(496)

●子育て、はじめの一歩

 先日、あるところで講演をしたら、一人の父親からメールが届いた。いわく、「先生(私のこと)は、親は子どもの友になれというが、親子にも上下関係は必要だと思う」と。

 こうした質問や反論は、多い。講演だと、どうしても時間的な制約があって、話のあちこちを端(はし)折ることが多い。それでいつも誤解を招く。で、その人への説明……。

 テレビ番組にも良質のものもあれば、そうでないのもある。そういうのを一緒くたにして、「テレビは是か非か」と論じても意味がない。同じように、「(上下意識のある)親意識は必要か否か」と論じても意味はない。親意識にも、つまり親子の上下関係にも、いろいろなケースがある。私はそれを、善玉親意識と、悪玉親意識に分けている。

善玉親意識というのは、いわば親が、親の責任としてもつ親意識をいう。「親として、しっかりと子どもを育てよう」とか、そういうふうに、自分に向かう親意識と思えばよい。一方、悪玉親意識というのは、子どもに向かって、「私は親だ!」「親に向かって、何だ!」と、親風を吹かすことをいう。

 つまりその中身を分析することなく、全体として親意識を論ずることは危険なことでもある。同じように「上下意識」も、その中身を分析することなく論じてはいけない。当然、子どもを指導し、保護するうえにおいては、上下意識はあるだろうし、またそれがなければ、子どもを指導することも、保護することもできない。

しかし子どもの人格を認めるという点では、この上下意識は禁物である。あればじゃまになる。親子もつきつめれば、一対一の人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから……」と、「だから」論で、たがいをしばるのは、ときとしてたがいの姿を見失う原因となる。日本人は世界的にみても、上下意識が強い民族。親子の間にも、(あるいは夫婦の間ですら)、この上下意識をもちこんでしまう。そして結果として、それがたがいの間にキレツを入れ、さらにはたがいを断絶させる。

 が、こうして疑問をもつことは、実は、子育ての「ドア」を開き、子育ての「階段」をのぼる、その「はじめの一歩」でもある。冒頭の父親は、恐らく、「上下関係」というテーマについてそれまで考えたことがなかったのかもしれない。しかし私の講演に疑問をもつことで、その一歩を踏み出した。ここが重要なのである。もし疑問をもたなかったら、その上下意識についてすら、考えることはなかったかもしれない。

もっと言えば、親は、子育てをとおして、自ら賢くなる。「上下意識とは何か」「親意識とは何か」「どうして日本人はその親意識が強いか」「親意識にはどんなものがあるか」などなど。そういうことを考えながら、自ら賢くなる。ここが重要なのである。

 子育ての奥は、本当に深い。私は自分の講演をとおして、これからもそれを訴えていきたい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(497)

●私のストレス発散法

 ストレス(生理的なひずみ、あるいは「気」のうっ積)で苦しんでいる人は、多い。実のところ、私は三〇歳~三五歳のころ、偏頭痛で苦しんだ。年に数回、あるいはもっと多い頻度で、偏頭痛の発作が起きた。それこそ四転八転の苦しみを味わった。「頭を切ってくれ!」と叫んで、ふとんの中でもがいたことも多い。その苦しみは、偏頭痛を味わったものでないとわかるまい。

 もっとも当時は、偏頭痛に対する理解も治療法もなく、(あったかもしれないが、私が相談した医師は、別の診断名をくだしていた。ある大病院では、脳腫瘍と診断し、開頭手術まで予定した)、市販の薬をのんでは、ゲーゲーとそれを吐き出していた。そういう意味では、まさに毎日がストレスとの戦いでもあった。

 そんな中、やがて自分なりの対処法を身につけるようになった。

 まず第一に自分はストレスに弱いことを自覚した。そのため、ストレッサー(ストレスの原因)となりやすいものは、できるだけ避けるようにした。たとえば人と会う約束も、一日一回にするとか、など。あるいはスケジュールには、余裕をもたせるなど。

 つぎに、当然のことながら、治療法をさがした。たまたま東洋医学の研究もしていたので、あらゆる漢方薬を試してみた。しかし結局は、そのうち、たいへんよく効く西洋薬が開発されて、それでなおるようになった。ただその薬は、のむと胃を荒らすので、できるだけのまないようにしている。

 が、最善の治療法は、汗をかくこと。ただし、偏頭痛がひどくなってからでは、汗をかくと、かえって……というより、運動することそのものができない。軽い段階で、思い切って汗をかく。運動がよいことは言うまでもないが、その中でも、私のばあい、エンジン付の草刈り機で、バンバンと草を刈るのが効果的。一汗かくと、偏頭痛そのものが消える。だから「おかしい」と感じたら、あたりかまわず草を刈ることにしている。理由はよくわからないが、下半身は毎日、自転車できたえているため、走ったり、自転車にのっても、あまり汗をかかない。しかし上半身は、ほとんど鍛えていないので、草を刈るとその上半身を使うため、汗をかくのではないか……と、勝手にそう解釈している。

 今でも、少し油断すると、頭重が起きる。しかしそれは同時に、私の健康のバロメーターでもある。持病もうまくつきあうと、それを反対に利用することができる。「少し頭が重くなったから、仕事を減らせ」とか。そういうふうに、利用できる。

 この話は、子育てとは関係ないが、育児疲れや育児ノイローゼで、偏頭痛になる人も多いので、参考のために書いた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(498)

●スキンシップ

 よく「抱きぐせ」が問題になる。しかしその問題も、オーストラリアやアメリカへ行くと、吹っ飛んでしまう。オーストラリアやアメリカ、さらに中南米では、親子と言わず、夫婦でも、いつもベタベタしている。恋人どうしともなると、寸陰を惜しんで(?)、ベタベタしている。あのアメリカのブッシュ大統領ですら、いつも婦人と手をつないで歩いているではないか。

 一方、日本人は、「抱きぐせ」を問題にするほど、スキンシシップを嫌う。避ける。「抱きぐせがつくと、子どもに依存心がつく」という、誤解と偏見も根強い。(依存心については、もっと別の角度から、もっと別の視点から考えるべき問題。「抱きぐせがつくと、依存心がつく」とか、「抱きぐせがないから、自立心が旺盛」とかいうのは、誤解。そういうことを言う人もいるが、まったく根拠がない。)

仮にあなたが、平均的な日本人より、数倍、子どもとベタベタしたとしても、恐らく平均的なオーストラリア人やアメリカ人の、数分の一程度のスキンシップでしかないだろう。この日本で、抱きぐせを問題にすること自体、おかしい。もちろんスキンシップと溺愛は分けて考えなければならない。えてして溺愛は、濃密なスキンシップをともなう。それがスキンシップへの誤解と偏見となることが多い。

 むしろ問題なのは、そのスキンシップが不足したばあい。サイレントベビーの名づけ親である、小児科医の柳沢さとし氏は、つぎのように語っている。「母親たちは、添い寝やおんぶをあまりしなくなった。抱きぐせがつくから、抱っこはよくないという誤解も根強い。(泣かない赤ちゃんの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。
 もう少し専門的な研究としては、つぎのようなものがある。

 アメリカのマイアミ大学のT・フィールド博士らの研究によると、生後一~六か月の乳児を対象に、肌をさするタッチケアをつづけたところ、ストレスが多いと増えるホルモンの量が減ったという。反対にスキンシップが足りないと、ストレスがたまり、赤ちゃんにさまざまな異変が起きることも推察できる、とも。

先の柳沢氏は、「心と体の健やかな成長には、抱っこなどのスキンシップがたっぷり必要だが、まだまだじゅうぶんではないようだ」と語っている。ちなみに「一〇〇人に三人程度の割合で、サイレントベビーが観察される」(聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院・堀内たけし氏)そうだ。

 母親、父親のみなさん。遠慮しないで、もっと、ベタベタしなさい!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(499)

●真昼の怪奇

 Gというレストランに女房と入った。食事がほぼ終わりかけたとき、隣の席に、明らかに大学生と思われる、若い男女が座った。そのときだ。

 やや太り気味の男は、イスにデンと座ったまま。恋人と思われる女が、かいがいしくも、水を運んだり、ジュースを運んだり、スープを運んだりしていた。往復で、三度は行き来しただろうか。私はただただそれを見て、あきれるばかり。その間、男のほうは、メニューをのぞいたり、少し離れたところにあるプラズマテレビの画面をながめたりしているだけ。その女を手伝おうともしない。いや、そんな意識は、毛頭もないといったふうだった。

 私はよほどその男に声をかけようと思った。そしてこう聞きたかった。「あなたはどういうつもりですか?」と。

 日本では見慣れた光景かもしれない。そしてそういう光景を見ても、だれもおかしいとは思わない。「そういう仕事は、女がするものだ」と、男は思っている。そして女自身も、「そういう仕事は女がするものだ」と思っている。が、それこそ、まさに世界の非常識。そういう非常識が、日常的にまかりとおっているところに、日本型の社会の問題がある。

 いや、その男女が、五〇歳代とか六〇歳代とかいうのなら、まだ話はわかる。しかしどうみても大学生。そういう若い男女が、いまだにその程度の意識しかもっていないとは!
 あとで女房とこんな会話をした。「家庭教育が問題だ」と。いや、教育というよりは、その男女にしても、家庭の中で見慣れた光景を、そのレストランで繰り返しているにすぎない。教育というよりは、私たち自身の意識の問題なのだ。

先日も、ある講演先で、「家事を夫も手伝うべきだ」というようなことを言ったら、ある男性から反論のメールが届いた。いわく、「男は仕事で疲れて帰ってくる。その男が家に帰って、家事を手伝うというのは現実的ではない」と。

 しかし言いかえると、世の男たちは、仕事にかこつけて、何もしない。「仕事」はあくまでも、方便。方便であることは、その若い男女を見ればわかる。大学生といえば、たがいに平等のはず。その大学生の段階で、男の側にはすでに家事を手伝うという意識すらない。きっとあのレストランの男も、いつか仕事から帰ってくると、妻にこう言うようになるだろう。「オイ、お茶!」と。妻を奴隷のようにあつかいながら、その意識すらもたない。それは仕事で疲れているとか、いないとかいうこととは関係、ない。

 私はまさに、真昼の怪奇を見せつけられた思いで、そのレストランを出た。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(500)

●意識の違い

 昔、ブラジルのサンパウロへ行ったときのこと。まだ日本人の観光客が珍しい時代で、行く先々で、日系人が声をかけてきた。「あなたはどこから来ましたか。私の父はY県から来ました」と。

 正直言って、私にはそれが耳障りだった。うるさかった。だから心の中で、こう思った。「日系人、日系人というが、ブラジル人ではないのか。どうしてブラジル人としてブラジル社会に溶け込まないのか」と。たとえばブラジルにもドイツ系移民がいた。しかし彼らは移民したつぎの日から、「私たちはブラジル人だ」と言いだす。

 で、その話を帰国してから、当時、六〇歳くらいの男性に話した。私は当然その男性は、私に同意してくれるものとばかり思っていた。が、その男性は、私の話を聞くと、私に急に怒り出した。「君は、ブラジルに移民した日本人の気持ちが理解できないのかね。向こうの人が、日本人の君を見て、なつかしいと思ったのだよ。それをうるさいとは何だ。どの国に移民しても、日本人は日本人だ」と。

 意識の違いというのは恐ろしい。私はその男性の剣幕に押されてしまった。当時の私は二七歳。何かまちがったことを言ってしまったようで、そのまま小さくなった。しかし……。

 カナダのプロ野球選手が、アメリカの球団に移籍してプレーするようになったら、その時点から、その選手はアメリカ人になる。カナダの放送局が、その選手を追いかけ回すようなことはしない。が、日本では、このところ毎日のように、アメリカンリーグで活躍する日本人選手が報道されている。

アメリカという国は、もともと移民国家。その中にはアジア系アメリカ人も何割かはいる。日系人もそのうちの何割かはいる。たまたまプロ野球で活躍しているからといって、「日本人、日本人」と言うのはどうか。アメリカ人の男性と結婚した、ユキコという女性は、私にこう言った。「イチロー、イチローと騒いでいる日系人もいるが、彼らは、アメリカ社会に同化できない日系人ですよ」と。

 どちらが正しいとかまちがっているとかいうことではない。ブラジル社会で、「日系人、日系人」と言っている日系人と、アメリカで活躍する日本人選手を、「日本人、日本人」と言っている日本人は、その底流でつながっている。ともに日本という島国の中でしか、世界を見ていない。ちなみにアメリカでは、選手の人種や国籍を口にするのは、タブー。人種差別につながると彼らは考える。

私はたまたま野茂が完封試合をしたとき、アメリカにいた。が、アナウンサーは最後の最後まで、野茂が日本人だということは口にしなかった(〇一年四月)。ただ試合の最後で、「日本人のファンが喜んでいます」と、間接的な表現で、野茂が日本人ということをにおわせていた。アメリカ人ですら、そこまで気をつかって、野茂を、アメリカ社会に迎え入れようとしている。が、当の日本人は、あえてそれに逆行するようなことをして騒いでいる。皆さんには、このおかしさがわかるだろうか。

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