2009年7月23日木曜日

*Essays on House Education (July 23rd)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(521)

●買ったものはダメ!

 オーストラリアの友人の家を訪れてみると、日本にはない習慣があるのを知る。そのひとつ、「プレゼントは、買ったものはダメ」。

クリスマスや家族の誕生日はもちろんのこと、遠方からやってきた客のみやげまで、「買ったものはダメ」と決めている家庭も多い。アメリカというと、映画などで、豪華なプレゼントを交換しているシーンをよく見かけるが、質素な家庭のほうが多いのでは。そういう家庭では、「買ったものはダメ」と決めているところが多い。

私もときどきプレゼント(みやげ)をもらうが、「プレゼントは豪華なものほどよい」という習慣になれた私には、正直言って、「あれっ」と思うようなものがある。

オーストラリアのM君の家に行ったときは、粘土で子どもたちが作ってくれたトカゲの置きもの。
同じくB君の家に行ったときは、乾燥させた花で作った絵。
同じくR君の家に行ったときは、石をきれいにペインティングしたもの。
同じくD君の家に行ったときは、D君が描いたガラス絵。

ときどき、本やぬいぐるみをもらうこともあるが、豪華といっても、せいぜいその程度。また向こうには、スプーン(スーバニア・スプーンという)を交換するという習慣があって、スプーンをあげたり、もらったりすることはある。

しかしよくよく考えてみると、「買ったものはダメ」というルールは、すばらしいルールではないか。プレゼントを渡すという、もともとの意味にも合致している。つまり「心のこもったプレゼントほどよい」という考え方にたつなら(当然だが)、その人の真心(まごころ)が感じられるもののほうがよい。お金を出してデパートのようなところで買ったものは、(日本人なら、「お金を稼ぐのに苦労をしたから」と考えがちだが)、一見価値があるようで、その実、ない。まったく、ない。

 ……と考えて、では、盆暮れのつけ届けは何かということになってしまう。しかし考えてみれば、これほど日本の悪しき、無意味な習慣はない? 上下関係のある人の間で、下のものが上の人につけ届けをするということは、ワイロということにもなりかねない。いや、ワイロ、そのもの。日本は戦後の高度成長期の中で、日本独特の拝金主義をうみ、それが日本人の心まで毒してしまった? その一例が、盆や暮れのつけ届けということになる。

 なるほど! 私はここまで書いて、決心した。今年からは、盆や暮れのつけ届けは断ることにした。同時に、私は今年からつけ届けは全面的にやめることにした。ああ、私自身がいつの間にか、日本の悪しき習慣にどっぷりとつかっていた!
 ……と、まだ少し迷いはあるが、この問題は、これから掘りさげて考えてみたい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(522)

●日本の拝金主義

 豪華なプレゼントであればあるほど、喜ぶ人。真心がこもっていると考える人。もらったプレゼントを値踏みし、その価値(値段)で、相手の自分に対する思いを判断する人。反対に、安いプレゼントであれば、憤慨し、「バカにするな」と怒る人。ていねいな礼状を書きながら、心の奥で、つぎのプレゼントを期待する人。

 一方、豪華なプレゼントであればあるほど、相手は喜び、感謝しているはずと誤解する人。相手の心をつかんだと誤解する人。盆や暮れのつけ届けの季節になると、相手をランク分けし、そのランクに応じて、プレゼントの価格を決めている人。「A、B、Cさんは、一万円のもの。D、E、Fさんは、五〇〇〇円のもの。G、H、Iさんは、三〇〇〇円のものでいい」と。

 日本人よ、いつから私たちは、かくも心さみしい拝金主義者になってしまったのか? もしあなたが「下」の立場で、「上」の立場のものに、プレゼントを渡せば、それは立派なワイロだ。そういう愚劣な習慣が、めぐりめぐって、政治家へのワイロになる。そういうあなたが、どうしてあの悪徳政治家たちを責めることができるのか。

 中には、「お金を稼ぐのに苦労をする。その稼いだお金で、プレゼントを買うのだから、結果的に、自分の苦労で感謝の念を表現していることになる」と言う人がいる。いや、実際、そう考えていたのは私だ。しかしこの論法はおかしい。

では、その苦労しているとき、本当にその相手のことを思いながら苦労したのかということになる。稼ぐときは、ただがむしゃらに稼いで、あとでそのお金を分配しているにすぎない。感謝の気持ちなど、どこにもない。むしろその分配するとき、相手の価値を金銭的な尺度でランク分けすることによって、自分自身の心をドロで汚している!

 もちろんビジネスの世界には、独特の慣習がある。盆や暮れのつけ届けが、ビジネスの世界の人間関係をスムーズにするという人もいる。しかしそのルーツをさぐれば、結局は「上」のものへのワイロにすぎない。盆や暮れのつけ届けが、すばらしい習慣だといえる根拠はどこにもない。あるいはあなたは外国の人に、「これが日本の文化です」と、堂々とそれを胸を張って自慢できるとでもいうのか。

 この不況下。年々、盆や暮れのつけ届けの売りあげが減っているという。(一方、ミニバブルで、高級品ほど売れているという話もあるが……。)小売業の人には痛手かもしれないが、これを機会に、盆や暮れのつけ届けについて考えてみることもよいことだ。私たちは戦後の高度成長期に、デパートやスーパーにする、巧みな商戦に踊らされていただけかもしれない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(523)

●「高級海苔(のり)」というプレゼント

 まず宣言! 私は今年から、盆や暮れのつけ届けを受け取るのを、全面的に、断ることにした。今までは、一応断ってきたが、どこかあいまいな言い方をしてきた。相手に対する思いやりからだった。あまりあからさまに断ると、かえって相手が気分を悪くするのではないかということを考えた。

しかし今年からは、それもやめる。礼状を書くとき、明確にその旨を記(しる)すことにする。(送り返すということも考えたが、それは現実的ではない。)

 そして私の心の中に潜む邪悪な心……たとえば、もらったプレゼントを値踏みして、その価値(値段)で喜んだり、憤慨する、そういう邪悪な心を、徹底的に、たたきつぶす。たいていそういうプレゼントは、どこかのデパートから配送されてきたもので、包装箱の横に、「XX・三〇」とか、「YY・五〇」とか書いてある。それで値段がわかるしくみになっている。私はついついそういう数字を見てしまう。そういうクセがついてしまった。ああ、そういう自分の見苦しさ。ああ、いやだ!

 ……考えてみれば、盆や暮れのプレゼントで、それをもらってうれしかったことは、あまりない。たとえば「高級海苔」というプレゼントがある。名刺よりやや大きく切った海苔を、乾燥剤ともに、袋に入れ、さらにその袋をいくつか集めて、豪華な缶に入れる。さらにその缶を、これまた豪華な化粧箱に入れる。それをさらにまた、きれいな包装紙で包んで、高級品に仕立てる。

しかしこれこそ、まさに盆や暮れのプレゼントの象徴といってもよい。中身(心)がまるでない。ないばかりか、もらったほうだって困る。食べ終わったあとには、食べた分の何一〇倍ものゴミが、山のように残る。重さで計算すれば、正味食べる分は、一〇〇分の一もないのではないか。

 菓子類や酒類も、似たようなものだ。見た目の包装だけは、やたらと豪華。それに私は甘い食べ物は食べない。酒も一滴も飲めない。肉類もほとんど食べない。そういう私の習慣を無視して、一方的にそういうものを送られても、困るだけ。

 ……と考えて、私も、だれかに盆や暮れのつけ届けをすることを、今年から全面的に廃止することにした。たまたま収入も激減したから、私の家の実情にもあっている。大不況下の日本だから、相手の人も許してくれるだろう。

いや、そういうことではなく、ひとつの哲学として、廃止する。もうこういう愚劣な慣習は、つぎの世代に残してはいけない。そのためにも、まず「先生」と呼ばれる人が、それを廃止しなければならない。多少、仕事に影響が出るかもしれない。私を不愉快に思う人がいるかもしれない。しかしそういう人は、もともとその程度の人だ。……と思うことにする。気にすることはない。

(しかしこれはあくまでも、建前?
あまりギスギスするのも、よくない。
角が立つ。
このあたりは、融通性をもって、適当にすますところはすます。
それも、この世界では、必要なことではないか?)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(525)

●子どもの非行

 スペインに住む、K氏より、こんなメールが届いた。私はこのメールを読んで、「うむう」と、考え込んでしまった。そのひとつ。

子どもの非行に、夜間外出がある。もう三〇年ほど前だが、このS県でも、子どもの夜間外出を減らすため、子どもたちは部活などで、夜、七時ごろまで学校に拘束されることになった(中学生)。当時はそれなりに説得力はあったが、聞くところによると、それは「塾つぶし」のためでもあったという。つまり帰校時刻を遅くすることによって、学校側は子どもたちが塾へ行く時間をなくした、と。

 それはさておき、このメールを読むと、非行とは何か、そこまで考えさせられる。日本の基準で考えると、スペインの子どもは、みな、非行少年、少女ということになってしまうのだが……?

「今は日が長く、夏休みに入ったので、外では子どもたち夜の一〇時位まで遊んでいます。アパートの子供たちが平気で夜八時ごろ、U子を遊びに誘いにきます。スペインは日本より二時間~三時間位、食事時間が遅いのです。昼は二時位からスタートですし、レストランですと食事が長いので、午後四時半位まで食事をしています。夜は九時半から一〇時から食事するのが普通です。

住み始めたとき、あまりに遅くまで小学生が遊んでいるので、「君たち、何時にご飯食べるの」と聞いて、「一〇時」と言われ、あぜんとしたことがあります。今では家族全員、スペイン時間で行動しています」(K氏のメールより)

 このメールの中には、「昼は二時位からスタートですし、レストランですと食事が長いので、午後四時半位まで食事をしています」とある。この話は私も知っていた。反対に外国の友人たちに、「ヒロシたちは、どうしてそんなに食事の時間が短いのか」と聞かれたことがよくある。また彼らの夏休みは長く、たいていは一か月以上、どこかのバンガローなどに住んで、バカンスを過ごす。ものの考え方が、日本人とは基本的な部分で、違う。

かくして私も、今、食事はどうあるべきか。また、この夏休みをどう過ごすべきか、真剣に考え始めている。「うむう」とうなりながら……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(526)

●拝金主義

 子どものころ、母の実家へ行くのが、何よりの楽しみだった。実家は、岐阜県の板取村というところにあった。が、それから三〇年。私が三〇数歳になったときのことだが、その実家が、大きく変わっていたのに気づいた。

 子どものころ、よく母と伯父は、縁側でこんな話をしていた。「今年のワサビは生育がいい。アユも今年はたくさんとれそうだ」と。しかし三〇年たって再び実家へ行くと、会話はすっかり変わっていた。すべてがお金にまつわる話ばかりだった。

「あそこの土地は二〇〇万円で売れた。川向こうのAさんは、山を売って、一億円儲けた。あの岩を、三〇〇万円でほしいと言った、名古屋の業者がいた」など。私はいくらそういう時代とはいえ、こんな田舎までお金に毒されていることを知って、驚いた。

 が、最大の悲劇は、何といっても、人間関係まで、金銭的な尺度でおしはかろうという風潮が生まれたことだ。よい例が、盆や暮れのつけ届け。いくらかのお金をもって、デパートへでかける。そしてそこで、プレゼントを値踏みする。

しかし実際には、プレゼントを値踏みしているのではない。送る相手の価値を値踏みしている。「Aさんは一万円、Bさんは五〇〇〇円、Cさんは三〇〇〇円」と。一方、それを受け取るほうは、箱の横に書かれた数字を見ながら、自分の価値を知る。「あの人は私を五〇〇〇円に見てくれる。この人は、三〇〇〇円」と。

こういう醜いことをしながら、それを醜いとも思わない。こういうおかしなことをしながら、それをおかしいとも思わない。日本人の心は、そこまで商業主義に毒されている。見苦しくなっている!

 中元や歳暮の贈りものの縁起について、百科事典はつぎのように書いている。もともとは「中元」というのは、「三元の一つ。陰暦七月一五日の称。元来、中国の道教の説による習俗であったが、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)と混同され、この日、半年生存の無事を祝うとともに、仏に物を供え、死者の霊の冥幅を祈る。

その時期の贈り物(を、中元という)」(小学館「国語大辞典」)と。しかしこんな縁起など、どうでもよい。仮にそれが日本の文化であるとしても、世界にとても誇れるような文化ではない。それともあなたは、世界の人に向かって、それをまねしなさいと、自信をもって言えるだろうか。

 ものごとはあまりギズギス考えてはいけないという意見もある。私のワイフもそう言っている。「あまりむずかしいことは考えないで、あげたい人にはあげ、くれる人からはもらっておけばいいのでは」と。実のところ、私もこう書きながら、「適当にすませばいいのでは」という思いもないわけではない。しかしこうした愚かで、意味のない習慣は、つぎの世代に残してはいけない。ムダかムダでないかと言われれば、これほどムダな慣習はない。

あくまでもひとつの参考意見として、このエッセイを考えてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(526)

●金権主義

 私が子どものころには、まだ「盆暮れ払い」というのが、残っていた。物々交換というのも、それほど珍しくなかった。私の実家は、小さな自転車屋だったが、よく父は、自転車の修理にやってきた客と、将棋をさしていたことがある。たった半世紀前のことだが、まだこの日本には、そういう牧歌的なぬくもりが残っていた。

 が、その町にも、スーパーができるようになった。「主婦の店」という店だった。私が小学五年生ごろのことではなかったか。私はその店の中を歩き、その店の巨大さに驚いた。が、それはほんの「始まり」にすぎなかった。

 私が中学生になるころには、さらに巨大な店が、町から少し離れたところにできた。「J」という店だった。しかしその店のやり方は、もうめちゃめちゃだった。

 当時、私の町には、テリトリーというものがあった。だれが決めたわけでもないのだが、私の父は、それを守っていた。「ヒロシ、ここから先は、○○自転車屋さんの縄張りだからな」と言ったのを、今でもよく覚えている。自転車を売るにしても、自分のテリトリーだけにしていた。仮に、そのテリトリーの外で自転車が売れたときには、相手の自転車屋の人に見つからないように、夜中に、こっそりと自転車を届けていた。

 が、Jという店のやり方は、そうした慣習を、こなごなに破壊した。テリトリーなど、どこにもなかった。しかも私の家の仕入れ値より安い価格で自転車を売った。おかげで私の自転車屋は致命的な打撃を受けた。かろうじて店じまいしなかったのは、家族経営であったこと。それまでの蓄(たくわ)えが、少しあったからにほかならない。父はますます酒に溺れ、それと同時に、ますます客足は遠のいていった。

 戦後の日本では、「社長」とか、「金持ち」とかいうだけで、一目、おかれた。お金をもつことは善であり、正義であると、徹底的に教え込まれた。これもだれが教えたわけではないが、大きな流れの中で、そう教えられた。そしてつぎつぎと商業は巨大化し、その一方で私の父のような人間は、「負け犬」として、社会のスミに追いやられた。が、それは同時に、日本人がもっていた、「あの牧歌的なぬくもり」の終わりでもあった。

 お金を儲けることが悪いと言っているのではない。ただここで私が言いたいのは、私の父は決して負け犬ではないということ。そしてそれとは反対に、大きな商売をして、全国に店を構えるような人は、決して勝ち組ではないということ。日本人はどうしても、無批判なまま、秀吉や信長をたたえてしまう。そうした心情が、今、こうした成功者(?)を無批判にたたえてしまう。そうした無批判な社会観は、危険ですらある。私はそれを言いたかった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(527)

●禁煙指導

 子どもに向かって、「タバコはやめなさい」と言うのは簡単。しかしそういう教師が、一方で、親からのつけ届けを受け取っている。一応、それなりの断わりの手紙を書く人もいるが、どこかはっきりしない。

そういう教師が、「盆や暮れのつけ届けを受け取るのをやめなさい」と、だれかに言われたとする。そのときその教師は、「はい、やめます」と言うだろうか。ごく最近も、T私立大学の医学部が、合格発表の前に親たちから寄付金を受け取っていたという事件が発覚した(二〇〇二年六月)。

ハンパな額ではない。一人あたり、三〇〇〇~五〇〇〇万円。学生(=親の職業)によっては、もっと高額だったという。教育の頂点に立つような大学ですら、そのザマだから、あとは推してはかるべし。

 私も昨年までは、盆や暮れのつけ届けを受け取っていた。偉そうなことは言えない。で、そのつど、礼状と断りの手紙を書いていた。しかしはっきりと断っていたわけではない。どこかあいまいな断り方だった。……と思う。自分の意識がそうだった。しかし今年からは、はっきりと断ることにした。そしてつけ届けをくれた人には、その旨手紙で(ハガキではなく、手紙で)、断ることにした。……断っている。

 が、ここで自分の心に大きな変化が生ずるのを感じた。一通、一通、手紙を書くたびに、「もらえるものはもらっておけばいい」という、邪悪な気持ち。それが消えた。と同時に、すがすがしい風が、心の中を吹きぬけた。それは実に心地よい風だった。

それはちょうど、ススで汚れた窓ガラスを、タオルでふいたような気分といってもよい。不思議と、「損をした」という気持ちは起きなかった。いや、実のところ、断りの手紙を書き、ポストに入れるまで、心のどこかに迷いのようなものがあった。最後の最後まで、「お前は、正直バカだ」という邪悪な心が、それに抵抗した。が、私はポストに入れた!

 自分の中に潜む、悪習を消すのは容易なことではない。私たちは子どもに向かって、「タバコをやめなさい」とは言う。しかしその私たち自身が、別のところで、別の邪悪な慣習を引きずっている。そしてそれを改めようともしない。それこそ、本当に、何を偉そうに、ということになるのではないのか。

 子どもの禁煙指導と、中元の贈り物は、そのどこかでつながっている。そんなつながりを感じながら、このエッセイを書いた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(528)

●山荘に客を迎える

 そのシーズンになると、ときどき、友人が山荘を訪れてくれる。もっとも山荘を建てた七年前は、うれしくて毎週のようにパーティを開いた。しかしここ数年は、その数は、ぐんと減った。理由の第一は、疲れること。

 私はもともとあまり社交的ではない。他人からみると、社交的に見えるかもしれないが、本当の私は、そうでない。外の世界では、どうしても私は自分をかざる。ごまかす。そのかざって、ごまかした分だけ、疲れる。

 で、あるときから、客の迎え方を変えた。「迎える」のではなく、「任す」ことにした。たとえば食事にしても、材料は用意するが、料理はできるだけ客に任すことにした。「こういう材料がありますが、どうしますか」と。するとたいてい皆、喜んで料理してくれる。最初は、どこか申し訳ない気持ちもあったが、そのうち、そのほうが、客も喜んでくれることを知った。とくに人数が多いときは、そうだ。

 実は、家庭教育も、これに似たところがある。子どもを育てるということは、いかに手を抜くかということ。任すところは任せて、あとは手を抜く。しかも子どもというのは皮肉なもので、手を抜けば抜くほど、たくましく自立していく。子ども自身も、そのほうが楽しい。生き生きする。要は、いかに手を抜くか、だ。その抜き方がじょうずな親を、子育てじょうずな親という。

 実は、今度の日曜日も、東京から二人の客がくる。そこで昨日、近くの漁港まででかけていって、材料を仕入れてきた。ザザエにクルマえび、それにイカにハマグリなど。漁港で買うと、市価の半額以下で買える。私はバーベキューにしたらおいしいと思うが、それは客次第だ。一人は、刺身もつくれる人だから、きっとおいしい料理を作ってくれるに違いない。

……とまあ、ホストの私がそういうことを期待していてはいけないのかもしれないが、そう思っている。……とまあ、考えて客を迎えると疲れない。子育ても疲れない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(529)

●タイムトラベル

 突然、一人の少女からメールが入った。オーストラリア人のソフィという少女だった。「小学校で日本語の勉強をしているから、日本のことを教えてほしい」と。その少女は、友人の妹の子どもだった。私はそのメールの返事を書いているとき、なつかしさで涙がこぼれた。

 私は留学時代、休暇になると友人の牧場で過ごした。アデレードから北へ一〇〇キロほどのところにある、ナンタワラというところだった。そこでの生活は、私にとっては、まさに夢のような生活だった。昼は一日中、あの牧場を歩き回った。夜は夜で、寝るのもおしんで、ディンゴー(野生化した犬)の、遠吠えを聞いた。その友人の妹が、イーボンという女の子だった。当時、小学四年生くらいだった。

 そのあたりでは、子どもたちは無線で勉強していた。週に一、二度、スクーリングといって、近くの学校で授業を受けていたが、集団教育はそれだけ。何といっても隣の家まで、数キロという土地がらである。(たまたま隣の家が接近していたので、数キロだが、実際には友人の牧場だけでも、一〇キロ四方はあった。)たいていは親に学校まで、車で送り迎えしてもらっていたが、馬で行くこともあった。馬のほうが牧場を横切っていくので、時間的には早く学校に着くということだった。

 その妹、つまりイーボンの娘が、ソフィという少女だった。私はそのソフィに返事を書いているとき、ソフィとイーボンが区別つかなくなってしまった。名前こそ違うが、しかし現在から過去に向かってメールを書いている。……そんな思いが、頭から離れなかった。いや、もう少し親密に交際していれば、そういう錯覚もないのだろう。が、一〇年単位で時間が途切れると、その一〇年ずつが、どこかでくっついてしまう。今という「時」が、そのまま三〇年前とくっついてしまう。

 友人の父親は数年前になくなった。あのナンタワラも砂漠化が進み、友人一家も、もう二〇年前に、今の土地に移り住んだ。もうあの時代は、さがしても、どこにもない。が、その時代から、一人の少女が生まれ、その少女に、私はメールを書いている。それはまさしく、私にとっては、タイムトラベルそのもの。私はあのときという過去に向かって、あのときの未来から、イーボンにメールを書いている。それは本当に不思議な経験だった。

 「あなたのお母さんのイーボンは、本当に心のやさしい、すてきな女の子でした。いつもナンタワラでは親切にしてもらいました。いつか日本へ来るようなことがあれば、ぜひ、私の家に来るように伝えてください。いつでも大歓迎します。心から大歓迎します。ヒロシより」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(530)

●因果な商売

 まだ掛け算もあやしい子ども(小四)がいた。この学年で、掛け算があやしいというのは、致命的といってもよい。小学三年で二桁掛ける二桁の掛け算、小学四年で割り算へと進む(旧教科書)。掛け算があやしいということは、すべてにそれが影響してくる。

 このタイプの子どもは、当然のことながら、学校でも自信をなくしていることが多い。まず自信をもたせることが、指導の中心になる。その子どももそういう方針で教えることにした。一番よい方法は、一学年レベルをさげること。が、親は、それに猛烈に抵抗した。「学年をさげれば、本人がキズつきます。プライドも許さないでしょう。何とか、四年生のクラスで教えてほしい」と。

 で、私は四年生のクラスへ、その子どもを入れた。が、何かにつけて、その子どもが、クラス全体の足を引っ張った。そしてそういう状態が、数か月から半年とつづくと、クラス全体の雰囲気がこわれてしまう。しかしその子どもにとっては、居心地のよい世界だった。やがて何とか、その学年の授業にはついていけるようになった。が、とたん、「BW(私の教室を)やめます」と。

 この世界。できる子どもほど、やめ方がドライ。しかしできない子どもは、もっとドライ。少しでもできるようになると、「もっと……」とか「さらに……」と考えて、大きな進学塾へと移っていく。そういう気持ちはわからないでもないが、しかし結局はキズつくのは、私だけ。「こんなことなら、はじめっから、引きうけなければよかった」と思うことさえある。

 もっともこんなことは日常茶飯事で、それでキズついていたら、この仕事は務まらない。「君は、よくがんばったね。どこへ行っても、もうだいじょうぶだよ」と言い終わると同時に、その子どものことは忘れる。私はやるべきことはした。悔いはない。あとはその子どもの問題。親の問題。私の問題ではない。

 ただこういうことは言える。こういう仕事を、三〇年もしていると、子どもの将来が手に取るようにわかるときがある。その子どものときも、そうだ。「ここ数か月はだいじょうぶだとしても、半年後には、またもとの状態にもどるだろうな」と思った。私の教室は、教室といっても、一クラス、五~八人程度。月謝も、合計しても、学生の家庭教師代より安い。そういう子どもが、一クラス、二〇~三〇人もいる進学塾へ入れば、どうなるか? ……この先は書きたくない。親自身が、自分で失敗して、それを知るしかない。

 ごく最近、私の友人(四五歳)が、二〇年務めた進学塾の講師をやめて、パソコンのソフト会社を起こした。その友人はこう言っている。「二度と、あんな仕事はしたくない。もうコリゴリ」と。「あんな仕事」というのは、進学指導をいう。その気持ちは、よくわかる。痛いほど、よくわかる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(531)

●おかしな計算

 先日も小学生たちが騒いでいたので、「静かにしなさい。今、先生(私)は、四五センチメートル、怒っている」と言ったら、子どもたちは「何、それ?」と。「つまりこれくらい怒っている」と、両手でそのハバを示してみたのだが、「それはおかしい。怒っているのを、センチで言うなんて、おかしい」と。たしかにおかしい。しかしそれと同じようなおかしなことを、おとなたちが今、平気でしている?

 今は、そういうシーズン。いくらかのお金をもってデパートへ行く。そして「AさんとBさんは、七〇〇〇円。CさんとDさんは、五〇〇〇円。EさんとFさんは三〇〇〇円でいい」と。人間関係を、お金という尺度ではかっている。しかし考えてみれば、これほどおかしなことはない。 

 プレゼントをもらうほうもそうだ。最近では少なくなったが、たいていは箱の横に数字が書いてある。三〇とか、五〇とか。そういう数字をみて、「Aさんは三〇〇〇円、Bさんは五〇〇〇円」とかいう。相手の心を、お金という尺度ではかろうとする。しかし考えてみれば、これほどおかしなことはない。

 もっともこうした関係がビジネスの世界でのことならよいが、これが家庭に入ると、親子関係そのものまでおかしくなる。

今、成人男女で、将来、どうしても親のめんどうをみると答えている若者は、一九%(総理府、平成九年)しかいない。あの合理主義のかたまりであるかのようなアメリカの若者でさえ、六三%。東南アジアの国々の若者では、何と七〇~八〇%。日本の若者のほとんどは、「生活力に応じて、みる」(六六%・平成六年)と答えている。これを裏から読むと、「余裕がなければみない」ということになるのだが……。つまり親の恩も金次第。親のめんどうも遺産しだいということになる。

 考えてみれば、これもおかしなことだ。親の恩も金次第ということがおかしいと言っているのではない。今の若者たちは、世界でも類のないほど、飽食とぜいたくを経験した子どもである。もっとも恵まれた環境で育った子どもである。その子どもたちが、「生活力に余裕があれば、みる」と。戦後の私たちは、高度成長という未曾有の経済的発展をなしとげたが、その一方でなくしたものも多い。そのひとつが、人間らしい心ということになる。

 ……とまあ、否定的なことばかり言ってもしかたないので、ひとつの提案。オーストラリアの友人の家では、「プレゼントは買ったものではだめ」という習慣がある。それが徹底しているため、客でいく私のようなものにさえ、みやげに手作りのものをくれる。日本人の私たちからみると、「あれっ」と思うようなものだが、それが彼らの常識ということになる。えてして日本人は、豪かなプレゼントであればあるほど、相手の心をつかんだはずと考える。親子であれば、きずなが太くなったと考える。しかしこれは誤解。あるいはかえって逆効果。が、「買ったものではだめ」という習慣が徹底すると、ものの考え方が一八〇度変わる。一度、試してみる価値はある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(532)

●心理テスト

 こんな心理テストを考えてみた。以前、何かの本で読んだテストだが、それを参考に、子ども用(小学生用)に、つくりなおしてみた。

「一人の女の子が、夜遅くまで、ネコさんと公園で遊んでいました。お母さんは『早く帰っておいで』と言ったのですが、ネコさんが、『もっと遊ぼう』と言って、女の子を帰してくれませんでした。が、あたりがまっ暗になったので、ネコさんと別れて、家に帰ることにしました。女の子が家に向かって歩いていると、橋の上に、オオカミがいました。そこで女の子は、橋の近くに仲のよい犬さんが住んでいたのを思い出し、犬さんの家に行き、一緒に行ってほしいと頼みました。犬さんは、『夜はこわいからイヤだ』と言って、それを断りました。しかたないので、女の子は、橋を走って渡ることにしました。が、女の子は、オオカミにつかまり、食べられてしまいました」

 この文を子どもの前で、ゆっくりと二度読み、「このお話の中で、一番悪いのはだれかな」と聞いてみる。子どもが、「悪い」と言った相手によって、子どもの心理を知ることができる。

ネコ……ものの考え方が受動的。依存心、依頼心が強い。行動も追従的かつ服従的。
犬……正義感が強く、ものの考え方が積極的。クラスでもリーダー的な存在。
オオカミ……単純。ものごとを深く考えない。短絡的なものの考え方をする。
女の子……善悪の倫理観が強く、自分を律する力が強い。責任感も強い。

 低学年児ほど、ネコ、オオカミが悪いと答え、高学年になればなるほど、犬、女の子が悪いと答えるようになる。※

 なお子どもの善悪の判断力は、年中から年長児にかけて、急速に発達する。こんなテストをしてみると、それがわかる。

 「男の子が歩いていると、お金を拾いました。その男の子は、そのお金でアイスを買って、公園でみんなに分けてあげました。みんなは、『ありがとう』と言って、喜んで食べました。この男の子は、いい子ですか、悪い子ですか」と。

 このテストをすると、年中児のほとんどは、「いい子」と答える。年長児でも、三~四割の子どもは、「いい子」と答える。しかしその段階で、「お金を拾ったら、そのお金はどうしますか?」「拾ったお金をつかってもいいのかな?」「アイスを、子どもが勝手に食べてもいいのかな?」「お母さんが、食べてもいいと言っていないものを、食べてもいいのかな?」などと問いかけると、ほとんどの子どもは、「やっぱり悪い子だ」と言う。もっともこうした道理がわからない子どもも、年長児で一~二割はいる。日常的に、静かに考える習慣のない子どもとみる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(533)

●心理テスト(2)

先のテストで、小四~中学生、二〇人の子どもの意見を聞いてみた。

「犬が悪い。いっしょに女の子についていってあげなかったから。女の子が困っているのだから、ついていってあげるべきだった」(小四女子)
「ネコが悪い。夜遅くまで遊んでいた。女の子をもっと早く、家に帰してあげるべき」(小四女子)
「女の子が悪い。ネコさんの挑発にのったのが悪い。ネコさんにもっとはっきりと断るべきだった。ネコというのは、オオカミとグルかもしれない」(小四男子)
「ネコが悪い。自分勝手だと思う。女の子としつこくいっしょに遊ぼうとした。だからオオカミに食べられてしまった」(小四女子)
「ネコが悪い。夜遅くまで遊んでいたから」(小四女子)
「オオカミが悪い。女の子を食べたから」(小四男子)
 最後の男の子が、「オオカミが悪い」と発言したら、いっしょにいた小四の子どもたち全員(五人)が、「タンジュ~ン(単純)!」と声をあげた。これもひとつの意見と考えてよい。
「女の子が悪い。帰ろうと思えば帰れたのに、帰らなかったのは女の子の責任」(小五男子)
「ネコが悪い。女の子が帰りたいと言ったのに帰してあげなかったので、ネコが悪い。女の子の責任ではない」(中一女子)
「女の子が悪い。自分の意思で帰らなかった女の子が悪い。オオカミに食べられたのは、自業自得。しかたのないこと」(中三男子)
「オオカミが悪い。女の子を食べたのはオオカミ。何といってもオオカミが悪い」(中三女子)

ほかに、一五人(小六~中一、計二五人)の集計を加えると、結果はつぎようになった。
  女の子……10人(40%)
              ネコ …… 8人(32%)
              オオカミ… 5人(20%)
              イヌ …… 2人( 8%)、ということになった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(534)

●名前と自尊心

 自分を大切にする。それが子どもの自尊心につながり、この自尊心が、子どもの道徳や倫理の基礎となる。その第一歩が、「名前を大切にする」。

 子どもの名前は、大切にする。子どもの名前が書いてあるものは、粗末にあつかわない。新聞や雑誌に、子どもの名前が出たら、その新聞や雑誌は、ていねいにあつかう。切り抜いて壁に張ったり、アルバムにしまったりする。そして日ごろから、「あなたの名前はいい名前ね」「あなたの名前を大切にしようね」と教える。

子どもは自分の名前を大切にすることから、自分を大切にすることを学ぶ。まちがっても、子どもの名前を茶化したり、からかってはいけない。名前は、その子どもの人格そのものと考える。

 実のところ、この私も、自分の名前(はやし浩司)だけは大切にしている。人格的にも、道徳的にもボロボロの人間だが、名前を大切にすることによって、かろうじて自分を支えている。「名前を汚したくない」という思いが、いろいろな場面で、心のブレーキとして働くことが多い。それは他人の目に届くとか、届かないとかいうことではない。

たとえばこうして文を書いているが、いまだかって(当然だが)、他人の文章を盗用したことは一度もない。だれにも読んでもらえない文とわかっていても、それはしない。できない。もしそれをしたら、そのとき、「はやし浩司」という「私」は終わる。

 一方、こんな子どもがいた、その家は、女の子ばかりの三人姉妹。上から、麗菜、晴美、みどり。その「みどり」という子ども(小四)にある日、「名前を漢字で書いてごらん」と指示すると、その女の子はさみしそうにこう言った。「だって私には漢字がないもん」と。女の子が三人もつづくと、親もそういう気持ちになるらしい。しかしこういうことは、本来、あってはならない。

 そう言えば以前、自分の子どもに、「魔王」とかそんなような名前をつけた、親がいた。とんでもない名前である。ときどきこうした私の常識では理解できない親が現れる。あまりにも私の常識からはずれているため、論ずることもできない。ただ、今ごろあの子どもはどうしているかと、ときどき考える。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(535)

●親の気負い、子どもの気負い

 不幸にして不幸に育った人ほど、「いい親でなければならない」「いい家庭をつくらねばならない」という気負いが強い。その気負いが親子関係をぎくしゃくさせる。そして結果として、よい家庭づくりに失敗しやすい。

 親ばかりではない。子ども自身が、「いい子でいなければならない」という気負いをもつことがある。たいていはこうした気負いはプラスに作用するが、しかしその気負いが強すぎると、子ども自身が疲れてしまう。疲れるならまだしも、あるとき突然、プッツンということにもなりかねない。これがこわい。

 子どもにかぎらず、人は、無意識のうちにも、自分の周囲に居心地のよい世界をつくろうとする。もっとも手っ取り早い方法は、「いい人ぶること」。弱者のフリをする。庶民の味方のフリをする。善人のフリをする。遠慮深く、控え目な人間のフリをする。正義や道徳をことさらおおげさに説き、返す刀で悪人を批判しながら、自分はよい人間であるということを強調する。

 実のところこうした「フリ」は、ものを書く人間が一番おちいりやすいワナでもある。そういう自分をよく知っているから、私は他人の、そうしたフリを見抜くことができる。だれとはここに書けないが、そのタイプの人はいくらでもいる。

いやいや、私自身がそうかもしれない。私はいつもこうして偉そうな(?)文章を書いているが、本当の私を知ったら、皆さんは驚くかもしれない。情緒は不安定だし、精神力も弱い。私はひょっとしたら、懸命に教育者のフリをして生きているだけかもしれない。しかしこういう自分は長くはつづかない。やがてボロが出る。私が今、一番恐れているのは、そういうボロが、いつ、どのような形で出てくるか、だ。

 話は脱線したが、子どもを見るときは、そのフリを見抜かねばならない。「この子どもは、本当の自分の姿をさらけ出しているか。それとも自分をごまかしているか」と。本当の自分をさらけ出しているなら、それでよし。そうでなければ、心の開放をまず第一に考えて指導する。もっとも効果的な方法は、大声で笑わせること。大声で笑うと、同時に、心が開放される。そして互いに心を開くことができる。気負いがとれる。

 結論を言えば、「気負い」などというのは、できるだけないほうがよい。とくに家族の中では、ないほうがよい。家族はあるがまま。たがいにあるがままをさらけ出し、あるがままを受け入れる。気負うことはない。その気楽さが、家族の風通しをよくする。「親だからとか、子どもだから」という「だから」論。「親だから~~のはず、子どもだから~~のはず」という「はず」論。「親は~~すべき、子どもは~~すべき」という、「べき」論は、それがあればあるほど、結局は、親子関係をぎくしゃくさせる。

 そこで私のこと。私もこうしてものを書いているが、気負うのはもうやめる。気負えば気負うほど、疲れる。これからは、さらに(?)、あるがままの自分を書くことにする。それでだめなら、それはそれでしかたのないことだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(536)

●エセ文化人
 
週刊誌だが、T氏という文化人のコラムを読んで驚いた。ことあるごとに、日本を代表する文化人として表彰されている人物である。

 そのコラムは、ワールドカップの前に書かれたものだが、要するにめちゃくちゃ。「予選リーグを勝ち抜くためには、ロシアにボールを配れ。ベルギーには経済援助をちらつかせよ。チュニジアには……」と。

(もっと内容はひどいものだったが、正確に記憶して書かねばならないような記事ではない。)こうした意見でも冗談ですむところが、あの人物の人徳(?)といえば人徳だが、しかし日本の若者たちは、こういう人物の言うことのほうを真に受けてしまう。ものごとを、まじめに考えなくなってしまう。

 実際、この日本。まじめに考えるよりも、ギャグのほうが若者に受ける。反対にまじめな意見ほど、「ダサイ」と、はねのけられてしまう。ためしに大学生や高校生に、政治の話をもちかけてみたらよい。「一〇年後の日本をどう思う?」というような話でもよい。少し前だが、私が女子高校生のグループに、「日本がかかえる借金をどう思う?」と聞いたときのこと。その高校生たちは口々にこう言った。「私ら、そんな借金、関係ないもんネ~」と。
 決してそのタイプの高校生ではない。私が図書館で会った高校生である。たまたまテスト週間で、図書館へ来ていた高校生である。

 ……と考えながら、私はときどき、ふとまじめに生きるのがバカらしくなることがある。いや、自分ではそれほどまじめな人間とは思っていないが、しかし懸命に自分を支えながら生きている。酒やタバコはもちろんのこと、夜遊びもしたことがない。商社マン時代のほんの一時期をのぞいて、バーとかキャバレーとか、そういうところへも行ったことはない。借金もつくらなかったし、払うべきお金は、一週間以上先へのばしたことは一度もない。道路へゴミはもちろん、ツバを吐いたこともない。人に迷惑をかけたことはないとは言えないが、記憶の中では、ない。

今でも、電話相談はもちろん、メールによる相談でも、すべて答えている。一度だって断ったことはない。お金を受け取ったこともない。(だからといって、「まじめ」ということにはならないことは、自分でもわかっている。たぶんT氏のような人から見れば、私は「バカ」に見えるのだろうが……。)

 が、T氏という人は、世俗的な人気を背景に、好き勝手なことをし、書いている。原稿料にしても、私たちの想像をはるかに超えたものだろう。が、T氏という人に腹がたつのは、そういうことではない。文化人という顔をしながら、目立たないところで懸命に私たちがつくっているものを、平気で破壊していることだ。

それはちょうど、清掃した海辺に、大きなトラックがやってきて、ゴミをまきちらすようなもの。無力感すら覚える。しかし日本中がこの無力感に襲われたら、それこそ日本はおしまい。そういう日本だけは作ってはいけない。いや、もうこの日本は、そのおしまいに近づきつつあるのでは……と心配する。皆さんも一度でよいから、T氏のような人物が、本当に文化人なのかどうか、冷静に考えてみてほしい。(それとも私がまちがっているのか?) 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(537)

●子どもの発達

 幼児教育と一口でいうが、同じ幼児でも、乳幼児と幼児、就学前の幼児は、まったく違う。違うから、私はたとえば乳幼児について聞かれても、ほとんどわからない。(常識程度にはわかっても、人に話せるほど、わからない。)

 そこで私なりに、この時期の子どもの発達段階を考えてみた。

【乳幼児期】乳児から満四歳前後の子どもをいう。満四歳くらいから、子どもは、少年少女期への移行期に入る。満四・〇歳ごろから、知的好奇心がきわめて活発になり、満四・五歳くらいから、ほうっておいても文字数に大きな興味を示すようになる。まだ乳幼児期の延長期とみる。

【移行期】満四・五歳くらいから、子どもは少年少女期への移行期に入る。何かにつけて生意気になり、自己主張が強くなる。子ども扱いをされたくないという思いと、まだ親の庇護下にいたいという、ふたつの矛盾した願望が混在し、子どもの情緒は不安定になる。怒りっぽくなったり、ぐずりやすくなる。

【少年少女期】満五・五歳児くらいになると、少年少女期へ移行する。この時期になると、子どもの人格の「核」形成がすすみ、「この子はこういう子だ」という形がしっかりと見えてくる。過干渉、溺愛が日常化すると、この核形成が遅れ、いわゆる幼児性がそのまま持続することが多い。

 この中でとくに大切なのは、【移行期】である。この時期に、いかに教育するかが、その子どもの一生を左右する。フロイトのいう自我(SELF)もこの時期に形成されるが、知的能力の急激な発達にあわせて、論理性、分析能力などもこの時期に養われる。

この時期はとくに、静かで穏やかな生活を大切にし、心豊かで温かい愛情を子どもに注ぐことを忘れてはならない。人格の核形成のみならず、子どもの性格、方向性もこの時期に決まる。言い換えると、

(1)この時期までにそうでなくても、この時期をうまく利用すると、子どもを作り変えることができる。

(2)この時期を通りすぎたら、反対にその子どもはそういう子どもと認めたうえで、子どもの性質や性格をいじってはいけない。無理をすればするほど、たとえば子どもは自信をなくし、親が望むのとは別の方向へ進む。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(538)

●私の過去(高町時代)

 浜松市へきたころの私は、お金になることは何でもした。翻訳に通訳、家庭教師に代筆、進学塾で講師をしたり、楽器メーカーの貿易部の顧問もしたりした。午前中は幼稚園に勤め、午後からは、そういう意味では好き勝手なことをした。そんなとき、小さな塾を開いた。

 浜松市内の中心部に、中央図書館がある。その図書館の近くに、高町公民館という公民館があった。今もある。畳敷きの、全体でも二〇畳前後の公民館だった。私は週二回、この公民館を借りて、塾を開いた。生徒は、四人。みんな女子高校生だった。今から思い出しても、あのときの高校生たちよりまじめな(?)高校生は、それ以後、出会ったことがない。みんな時間通りきて、ただひたすら黙々と勉強してくれた。私も、懸命というより、必死だった。何よりも生徒がふえることを願ったが、結局、そのあと一年半の間、生徒は四人のままだった。

 塾を開くのに、私はほとんど抵抗がなかった。「教えるころでお金を受け取る」ということに抵抗を感ずる人も多いが、私はそういう意味では平気だった。学生時代、一番尊敬した人物が、正木猛氏(現在八八歳、岐阜県美濃市で健在)という人だったということもある。塾の教師だった。それにむしろ「自由な教育」ということを考えるなら、塾のほうが自由だった。

当時、よく言われたことに、こんなことがあった。「塾の教師は、生徒を殴(なぐ)ってもよい。しかし学校の教師はいけない」と。殴れば殴ったで、その生徒は、そのつぎからは塾へ来なくなる。そういう逃げ場がある。しかし学校では、その逃げ場がない。「逃げ場がない状態で、生徒を殴るのは、卑怯」と。しかし塾には、もっと大きな違いがある。

 塾は生徒に、一度、頭をさげる。「さげる」という言い方はおかしいが、少なくとも月謝を受け取るときは、頭をさげる。「教えさせていただきます」という姿勢から、教育がスタートする。「生徒は向こうからやってくるものだ」と考える(多分?)学校教育とは、ここが違う。

つまり熱心か熱心でないかということになると、塾教育は、熱心にやらなければ、経営そのものが成りたたない。あるいはそのまま閉鎖。きびしさが違う。が、結果的にみると、それが私のばあいにはよい方向に作用した。学校で言えば、毎日が参観授業のようなものだった。幼稚園での仕事にしても、毎日、教材を用意しないと、授業そのものができなかった。

 今でも、あの高町の公民館のあたりを通り過ぎると、ふとそちらのほうを見る。なつかしいというよりも、そのつど、どっと、重苦しい暗雲のようなものが心をふさぐ。そのときの生徒は四人とも、東京でも一、二を争う女子大学へと進学していった。が、どこかすっきりしない。理由はよくわからないが、そのころの私は、経済的にも、社会的にも、どん底だったことによるのではないか。多分……?





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(539)

●私の過去(ゴーストライター時代)

 私は、当時、いろいろな人のゴーストライターをしていた。その中には、全国的に有名なドクターや、美容研究家がいた。彼らのために月刊誌や週刊誌の記事、単行本などの原稿を書いていた。研究論文まで書いていた。単行本だけでも、五~七冊は書いただろうか。月刊誌や週刊誌ともなると、数知れない。当時一人のドクターは、テレビの全国放送で、いつも二~三本のレギュラー番組をもっていたから、その企画の原稿も書いていた。しかしそれは、お金にはなったが、むなしい稼業だった。

 「娼婦」と呼ばれる女性がいる。体を売って、お金を稼ぐ。しかしゴーストライターは、魂を売って、お金を稼ぐ。そのとき私は、そう感じた。いや、ゴーストライターといっても、いろいろある。本人にまずしゃべってもらい、それをテープレコーダに録音し、それから原稿に起こすというゴーストライタ~がいる。

よくテレビタレントが暴露本などを出すことがあるが、そういう本は、たいていこうしてできた本とみてよい。そういう本であれば、魂を売るということはない。しかしその一線を超えて、よい本を書こうとすると、そうはいかない。自分で取材し、それをまとめ、さらに思想でつつむ。そこまですると、どうしても自分の「心」が入ってしまう。問題はその「心」だ。

 ゴーストライタ~を平気で使う人というのは、もともとそのレベルの人とみてよい。少なくとも文士ではない。そういうレベルの人のために、自分の心を売るというのは、まさに屈辱(くつじょく)でしかない。何という敗北感。何という無力感。何という虚しさ。そういうものが、一文書くたびに、どっと胸をしめつける。

私のばあいも、毎日がそれらとの戦いだった。が、それだけではない。ゴーストライターとして自分の心をその中に織り込むということは、その心は二度と使えないことを意味する。あとで自分の名前で、同じようなことを書けば、そのまま盗作ということになってしまう。言いかえると、もの書きとしての自分の命を、そこで断つことを意味する。

 だから二七歳ぐらいのとき、私はゴーストライターの仕事はやめた。しかし、だ。この世の中、どこがどうおかしいのかわからないが、私がゴーストライターで書いた本は、本当によく売れた。著者(?)の知名度もあって、本当によく売れた。

しかし、だ。一方、私が自分の名前で出した本は、売れなかった。どれもパッとしないまま、たいていは初版で絶版。よくワイフは、「あなたは世間を逆恨みしているのよ」と言うが、本当のところ、逆恨みもしたくなる。中には、出版社へ原稿を売り渡し、その本に、著名なタレントの名前を載せて出した本がある。私が手にしたのは、その原稿料のみ。しかしその本は一〇万部以上も売れた! 結果、そのタレントは、一〇〇〇万円近い印税を手にした。こういうことはこの世界では、珍しくない。

 私は以後、一度も他人のために文を書いたことがない。ときどき頼まれて、「では……」と書き始めることもあるが、どうしても筆が進まない。今もそうだ。いくらお金を積まれても、もう二度とゴーストライターはしたくない。できない。しない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(540)

●心の抵抗

弱者は自分より不幸な人をさがしだして喜び、強者は自分より幸福な人をさがしだしてねたむ。

 この格言は私が以前考えた格言だが、しかしよくよく考えてみれば、これほど日本的な格言はない。幸福観そのものが、相対的でしかない。いつも他人の目を気にして生きていると、こうした幸福観をもつようになる。問題は、なぜ私がこのような格言を考えたか、だ。

 当時、私は、世間体を気にする人を頭におきながら、この格言を考えた。世間体を気にする人は、ものの考え方が相対的で、「他人より給料が多いから、私は能力がある。リッチだ」「他人より給料が少ないから、私は劣っている。貧しい」と考える傾向がある。いつもどこかに「平均(ふつう)」というものの基準があって、それを尺度にして、自分を判断したり、他人を判断したりする。

 で、さらに今、その当時の自分を分析すると、こんなことがわかる。なぜ、私という人間が、こうまで世間体を気にするかということ。さらに世間体に代表される生き方を、こうまで気にするかということ。それにはつぎのような理由がある。

 ひとつは、私が生まれ育った岐阜の地方では、世間体という言葉が、きわめて日常的に使われていたということ。「世間が笑う」「世間が許さない」とか、など。耳にタコができるほど、その言葉を聞かされた。私は子どものときから、その言葉が嫌いで、よく母に、「世間が何だ!」「世間が何をしてくれる!」と反発したのをよく覚えている。が、それだけではない。

 当時、(今もそうだが)、学校での成績は、「順位」で評価された。「他人よりよい点数であれば優秀」「他人より悪い点数であれば劣っている」と。私は中学時代、学年、五五〇人中、成績では二番になったことがなかった、九教科の合計点でも、いつも二番との差が、三〇~八〇点はあった。まさにガリ勉そのもので、先生たちが「一科目でもいいから、林を追い抜け」とほかの生徒にハッパをかけていたのを、よく覚えている。

が、高校へ入ると、一転した。私は岐阜市内の進学高校へ入りたかったが、母がそれを許してくれなかった。そのため地元の、それほどレベルの高くない高校に入ることになった。私には不本意な高校だった。

 そういう高校だったから、一年のころは遊んでいても、成績はいつもトップだった。が、何よりも不愉快だったのは、テストごとに、毎回成績と名前と順位が、カベに張り出されることだった。私はそれを見るたびに、何かしら、いつもだれかに追われているような脅迫感を感じた。

で、ある夜、学校へ忍び込み、その張り紙を破ったことがある。そういう思いが、今でも残っている、残っていて、今でも順位で判断されることに、生理的な嫌悪感を覚える。「私は私、どこまでいっても私」という思いも、そういう経験の中で熟成された。この格言には、そういう私の、心の抵抗が織り込まれている。

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