●幻惑
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「幻惑」に苦しんでいる人は多い。
「家族だから」「親だから」「長男だから」と。
意味のない『ダカラ論』で、体中が、がんじがらめになっている。
ふつうの(苦しみ)ではない。
悶々と、いつ晴れるともわからない苦しみ。
その苦しみが、ときとして、その人を押しつぶす。
「幻惑」……「家族」という独特の世界で生まれる、
精神的呪縛感をいう。
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●呪縛感からの解放
本来なら、親のほうが気を使って、子どもが家族のことで、苦しまないようにする。
それが親の(やさしさ)ということになる。
親の(努め)ということになる。
親は、また、そうでなければならない。
が、世の中には、いろいろな親がいる。
「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せるだけではなく、そのつど、
真綿で口を塞ぐようにして、子どもを、苦しめる。
そんな親もまだ多い。
実のところ、私の母もそうだった。
わざと私の聞こえるところで、他人と、こんな会話をする。
「○○さんところのA君は、立派なものじゃ。今度、両親を、温泉へ連れていって
やったそうだ」とか、など。
あるいはその一方で、こんな話もする。
「△△さんところの嫁は、ひどい嫁じゃ。親には、親子どんぶりを食べさせ、自分は、
うな丼を食べていたそうだ」とか、など。
あるいは、「親の葬式だけは、家屋敷を売ってでも、立派にやれ」とも言った。
私はこうした話を、子どものころから、耳にタコができるほど聞かされた。
もっとも子どものころは、まわりの人たちがみな、同じようなことを言っていたことも
あり、それほど疑問には思わなかった。
私が疑問に思い始めたのは、やはり高校生になってからだと思う。
だからある日、私は突然、叫んだ。
「いつ、お前に、産んでくれと頼んだア!」と。
●勇気
おかしなことだが、こうした呪縛感は、親が死んだあとも、残る。
派手な葬儀に、派手な法事。
それが転じて、仏教不信へともつながっている。
が、ここで終わるわけではない。
今年は一周忌。
来年は三周忌……、とつづく。
「勇気」というとおおげさに聞こえるかもしれないが、こうした「幻惑」と闘う
ためには、勇気が必要である。
体中に巻きついた呪縛感を、取り除く……。
が、それには、親族たちの白い目、決別を意味する。
それ以上に、私自身の内部で、既存の宗教を乗り越える宗教観をもたねばならない。
さらに言えば、家族への依存性とも決別しなければならない。
「私が死んだときも、葬儀は不要」「一周忌も三周忌も不要」と言えるように
なるまでには、相当の覚悟が必要である。
その覚悟をもつには、それ相当の勇気が必要。
その勇気なくして、その覚悟をもつことはできない。
もっともだからといって、死者を軽く扱うということではない。
●儀式
近くに、冠婚葬祭だけはしっかりと済ます人がいる。
3人の子どもがいたが、それぞれの結婚式には、町内の自治会長、副会長まで
呼んだ。
その数、300~400人。
しかしおかしなことに、かけた教育費は、ゼロ(?)。
いろいろあったのだろうが、3人とも、学歴は中卒で終わっている。
(だからといって、中卒がどうこう言うのではない。誤解のないように!)
いつだったか、その母親のほうが、こう言ったのを覚えている。
「へたに学歴をつけると、遠くへ行ってしまうから、損」と。
この話を聞いたとき、私の生きざまとは正反対であることに驚いた。
私は、こと教育費にかけては、一度とて惜しんだことはない。
息子たちが言うがまま、一円も削ることなく、お金を出してきた。
一方、私たち自身は、結婚式なるものをしていない。
お金がなかった。
が、それ以上に、冠婚葬祭の意味すら、認めていなかった。
それなりの(式)をするのは、当然だとしても、しかしそこまで。
それ以上は、まさにムダ金。
同じように、葬儀にしても、大切なのは、(心)。
(心)を中心に考える。
儀式はあくまでも、あとからついてくるもの。
儀式をしたから、死者が浮かばれるとか、反対に、儀式をしなかったから、
死者が浮かばれないとか、そういうふうに考えること自体、バカげている。
●新しい死生観
現在、都会地域では、約30%の人が、直葬方式で、葬儀を行っている
という(中日新聞・東京)。
「直葬」というのは、病院から直接火葬場へ向かい、遺骨となって自宅へ戻る
ことをいう。
そのあとは「家族葬」といって、家族だけで、内々で葬儀をすます。
恩師のT先生も、それを望んでいる。
数か月前、鎌倉の自宅で会ったとき、そう言っていた。
私が「先生のような方のばあい、周囲がそうさせませんよ」と言うと、先生は、
「私はそうしてもらいます」と、きっぱりと言った。
T先生は、天皇陛下のテニス仲間でもある。
が、私のばあいは、少しちがう。
もしワイフが先に死んだら、私は、しばらくワイフの遺体といっしょに寝る。
たぶん私が先に死んだら、ワイフもそうしてくれるだろうから、私はワイフのそばを
離れない。
いつもどおりの生活をして、しばらくそうしていっしょに、過ごす。
うるさい葬儀はしない。
参列者も家の中には、入れない。
息子たちやその家族たちだけが、来られる日に、それぞれが来ればよい。
来なくても、構わない。
気持ちが安らいだところで、火葬にしてもらう。
遺骨は、私が死ぬまで、私のそばで預かる。
そのあとのことは、息子たちに任す。
海へ捨てるのもよし。
どこかの山の中に捨てるのもよし。
あの墓の中に入るのだけは、ぜったいにごめん。
私のワイフも、そう言っている。
それだけは、どんなことがあっても、ぜったいにしてほしくない。
……という死生観をもつためには、それなりの努力が必要である。
勇気も必要である。
体にしみついた呪縛感を抜き去るのは、容易なことではない。
ときに身をひきちぎるような苦痛を伴うこともある。
だから……。
私は3人に息子たちには、私が味わったような苦しみを、味あわせたくない。
だから3人とも、親絶対教の信者たちに言わせれば、この上ないほどの
親不孝者ばかりである。(ホント!)
しかし私はそういう息子たちをあえて弁護する。
私は3人の息子たちを通して、じゅうぶん、人生を楽しんだ。
息子たちは私に生きる喜びや、生きがいそのものを与えてくれた。
今、それ以上に、私は息子たちに、何を望むことができるのか。
感謝しこそすれ、親不孝者とののしる気持ちなど、みじんも、ない!
息子たちは息子たちで、自分たちの家族を楽しめばよい。
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昨年(08年)の9月に書いた原稿を、そのまま
再送信します。
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●自然葬(Natural Funeral)
自然葬を望む人が、団塊の世代を中心にふえているという(中日新聞報道)。
そういう活動を指導的に行う、NPO法人(特定非営利活動法人)も
立ち上がっている。
「葬送の自由をすすめる会」(東京)というのも、そのひとつ。
同会のばあいは、1991年に発足し、会員は全国で1万2000人、
3年前とくらべて、2倍にふえたという。
少し前、「直葬(ちょくそう)」という葬儀の仕方について書いた。
都会地域では、30%前後の人たちが、現在、直葬を選択しているという。
自然葬にせよ、直葬にせよ、日本の伝統的な死生観にそぐわないため、
抵抗を感ずる人も多い。
とくに農村部ではそうだろう。
しかし同時に、今、冠婚葬祭のし方が、この日本でも大きく変わろうとしている。
「従来のままではおかしい」と考え始めている人が、ふえ始めている。
実際、おかしい。
儀式化するのはしかたないとしても、肝心の「心」が、どこかへ置き去りに
なってしまっている。
誤解しないでほしいのは、直葬にせよ、自然葬にせよ、それをするからといって、
死者を軽んじているということではない。
もちろん中には経済的な理由で、そうする人もいるだろう。
都会地域では、葬儀費用は、平均して300万円前後もかかるという(同)。
この浜松市でも、140~50万円が、その相場ということになっている。
しかし実際には、それまでの介護費用、あるいは介護で、疲れきって
いる家庭も多い。
その上での葬儀である。
(私も先日、実兄を見送ったが、葬儀費用は、しめて165万円。
香典などでの収入は、43万円前後だったので、約120万円の赤字(?)という
ことになる。)
葬儀の費用のうち何割かが、僧侶への布施。
布施の額は、戒名によって異なる。
寺の格式(?)によっても、異なる。
G県の小さな田舎町での葬儀だったが、下は30万~80万円。
上にはキリがないそうだ。
ちなみに、自然葬のばあい、合同葬なら、約5万円。
個人葬でも、約10万円だそうだ(上記、同会)。
日本人の多くは、葬儀といえば、僧侶による読経を当然と考える。
その読経の仕方も、布施の額によって異なる。
たとえば、寺に頼んでも、僧侶が1人で来るということはない。
たいてい仲間を誘う。(たがいに誘い合う?)
こうして別途に、1人、10~20万円前後が請求される。
(これでも安いほうだそうだ。)
5人、助っ人を頼めば、プラス100万円~となる。
(ある宗教団体では、僧侶を呼ばず、「友人葬」と称して、仲間同士で
葬儀をする。)
しかしこうした常識そのものが、おかしい。
で、私はこれについて、一度、地元のある寺の住職にこんな質問を
したことがある。
「戒名は、どうして必要なのか」
「読経は必要なのか」と。
それに対して、その住職は、こう教えてくれた。
「俗名には、世間のしがらみが、いっぱいくっついています。
清廉潔白な気持ちで浄土へ行くためには、戒名は必要です」
「読経するのは、仏(=死者)を、成仏させるためです」と。
私にはこれ以上のことはわからない。
わからないが、こんな方法では、残された遺族の悲しみやさみしさは、
癒されない。
むしろ、こうした形式的な儀式によって、死者や遺族の意志を、もて
あそぶことになりやしないか。
私の近い知人(元)高校教師(男性)が、先日、亡くなった。
しかしだれも、その知人の葬儀の日すら、知らなかった。
葬儀は、僧侶なし、家族だけの密葬で行われた。
が、だからといって、いいかげんな葬儀だったと考えないほうがよい。
それから1~2週間、妻は、床に伏せたままだったという。
それを心配した息子や娘は、妻(=母親)のそばにずっといて、
妻(=母親)の介護をしたという。
故人というより、葬儀にしても、もっと遺族の心を大切にすべき。
と、同時に私たちも、意味のない迷信にとらわれることなく、
(こうあるべき)という葬儀の仕方を、もっと前向きに考えた
ほうがよい。
今のように(形)が先にあって、その(形)だけをすれば、それでよい
と考えるほうが、おかしい。
むしろ現実は逆で、心の中では、「バンザーイ!」と叫びながら、葬儀の席では、
うちひしがれた遺族を演ずる家族も少なくない。
その隠れ蓑として、「形」が利用される(?)。
で、もう少し先を言えば、「戒名」などという言葉は、釈迦の時代には、
「カ」の字もなかった。
「成仏」という言葉にしても、だれでも修行すれば仏になれると説いたのは、
北伝仏教。
さらに「死ねばみな、仏」という考え方をするのは、私が知るかぎり、この
日本人だけである。
(釈迦の教えが直接伝わっている南伝仏教では、ある一定の位以上の僧のみが、
仏になると教える。)
僧侶に読経してもらった程度のことで、成仏できるというのなら、ではこの
現世での努力は、何かということになってしまう。
懸命に生きた人も、そうでない人も、同じ仏という考え方そのものが、不平等。
いろいろ考えてみるが、私には、「成仏」という概念が、どうしても理解できない。
理解できないから、葬儀のあり方そのものに、どうしても納得できない。
……ということで、自然葬、おおいに結構。
私に遺産があるとかないとか、そういうことには関係なく、息子たちには、
無駄なお金を使わせたくない。
私は自分の遺灰が、どこかに捨てられても、いっこうにかまわない。
遺骨などに、私の魂は、ない。
あるはずもない。
私がワイフより先に死んだら、遺骨はワイフが死ぬまで、ワイフが預かる。
再婚したければ、すればよい。
ワイフが死んだら、私とワイフの遺骨の始末は、息子たちに任せる。
自由に決めてよい。
ワイフが私より先に死んだら、その反対。私が死ぬまで、ワイフの遺骨は
私が預かる。
私が死んだら、あとの始末は、息子たちに任せる。
なお散骨について、法務省刑事局総務課は、つぎのような見解を示して
いるという(同紙)。
「節度をもってすれば、刑法の遺骨遺棄罪には当たらず、問題はない」とのこと。
よかった!
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Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司
2009年7月4日土曜日
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