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子育て最前線の育児論byはやし浩司 8月 7日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(321)
●ああ、悲しき子どもの心
虐待されても虐待されても、子どもは「親のそばがいい」と言う。その親しか知らない
からだ。中には親の虐待で明らかに精神そのものが虐待で萎縮してしまっている子どもも
いる。しかしそういう子どもでも、「お父さんやお母さんのそばにいたい」と言う。ある児
童相談所の相談員は、こう言った。「子どもの心は悲しいですね」と。
J氏という今年50歳になる男性がいる。いつも母親の前ではオドオドし、ハキがない。
従順で静かだが、自分の意思すら母親の、異常なまでの過干渉と過関心でつぶされてしま
っている。何かあるたびに、「お母ちゃんが怒るから……」と言う。母親の意図に反したこ
とは何も言わない。何もできない。
その一方で、母親の指示がないと、何もしない。何もできない。そういうJ氏でありなが
ら、「お母ちゃん、お母ちゃん……」と、今年75歳になる母親のあとばかり追いかけてい
る。先日も通りで見かけると、J氏は、店先の窓ガラスをぞうきんで拭いていた。聞くと
ころによると、その母親は、自分ではまったく掃除すらしないという。手が汚れる仕事は
すべて、J氏の仕事。小さな店だが、店番はすべてJ氏に任せ、夫をなくしたあと、母親
は少なくともこの20年間は、遊んでばかりいる。
そういうJ氏について、母親は、「あの子は生まれながらに自閉症です」と言う。「先天
的なもので、私の責任ではない」とか、「私はふつうだったが、Jをああいう子どもにした
のは父親だった」とか言う。しかし本当の原因は、その母親自身にあった。それはともか
く、母親自身が、自分の「非」に気づいていないこともさることながら、J氏自身も、そ
ういう母親しか知らないのは、まさに悲劇としか言いようがない。
J氏の弟は今、名古屋市に住んでいるが、J氏と母親を切り離そうと何度も試みた。それ
については母親が猛烈に反対したが、肝心のJ氏自身がそれに応じなかった。いつものよ
うに、「お母ちゃんが怒るから……」と。
親だから子どもを愛しているはずと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。さらに「親
という関係だけで、その人間関係を決めてかかるのも、危険なことである。親子とい
えども、基本的には人間どうしの人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだ
から……」と、相手をしばるのは、まちがっている。親の立場でいうなら、「親だから
……」という立場に甘えて、子どもに何をしてもよいというわけではない。
子どもの心は、親が考えるよりはるかに「悲しい」。虐待されても虐待されても、子どもは
親を慕う。親は子どもを選べるが、子どもは親を選べないとはよく言われる。そういう子
どもの心に甘えて、好き勝手なことをする親というのは、もう親ではない。ケダモノだ。
いや、ケダモノでもそこまではしない。
今日も、あちこちから虐待のレポートが届く。しかしそのたびに子どもの「悲しさ」が
私に伝わってくる。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(322)
●人格の分離
日本人の子育て法で、最大の問題点は、親は親でひとかたまりの世界をつくり、子ども
の世界を、親の世界から切り離してしまうところにある。つまり子どもは子どもとして位
置づけてしまい、その返す刀で、子どもの人格を否定してしまう。
もっと言えば、子どもを、ちょうど動物のペットを育てるかのような育て方をする。その
結果、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコールよい子と位置づける。そうで
ない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。
(例1) ある女性(70歳くらい)は、孫(6歳くらい)に向かってこう言っていた。「オ
イチイネ(おいしいね)、オイチイネ(おいしいね)、このイチゴ、オイチイネ
(おいしいね)」と。子どもを完全に子ども扱いしていた。一見、ほほえましい
光景に見えるかもしれないが、もしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。「子
ども、子どもと、バカにするな」と叫ぶかもしれない。
(例2) ある女性(70歳くらい)は、孫(10歳くらい)に電話をかけて、こう言っ
た。「おばあちゃんの家に遊びにおいでよ。お小遣いあげるよ。ほしいものを買
ってあげるよ」と。最近は、その孫がその女性にところに遊びにこなくなった
らしい。それでその女性は、モノやお金で子どもを釣ろうとした。が、しかし
もしあなたがその孫なら、何と言うだろうか。やはり「子ども、子どもと、バ
カにするな」と叫ぶかもしれない。
こういう子どもの人格を無視した子育て法が、この日本では、いまだに堂々とまかりと
おっている。そしてそれ以上に悲劇的なことに、こうした子育て法が当たり前の子育て法
として、だれも問題にしないでいる。とたえ幼児といっても、人権はある。人格もある。
未熟で未経験かもしれないが、それをのぞけばあなたとどこも違いはしない。そういう視
点が、日本人の子育て観にはない。
子どもを子ども扱いするということは、一見、子どもを大切にしているかのように見え
るが、その実、子どもの人格や人権をふみにじっている。そしてその結果、全体として、
日本独特の子育て法をつくりあげている。その一つが、「依存心に無頓着な子育て法」とい
うことになるが、これについては別のところで考える。
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(323)
●伸びる子ども
あなたの子どもは、つぎのどのようだろうか。
( )何か新しいことができるようになるたびに、うれしそうにあなたに報告にくる。
( )平気であなたに言いたいことを言ったり、したりしている。態度も大きい。
( )あなたのいる前で平気で体を休めたり、心を休めたりしている。
( )したいこと、したくないことがはっきりしていて、それを口にしている。
( )喜怒哀楽の情がはっきりしていて、うれしいときには、全身でそれを表現する。
( )笑うときには、大声で笑い、はしゃぐときにも、大声ではしゃいだりしている。
( )やさしくしてあげたりすると、そのやさしさがスーッと心に入っていくのがわかる。
( )ひがんだり、いじけたり、つっぱったり、ひねくれたりすることがない。
( )叱っても、なごやかな雰囲気になる。そのときだけで終わり、あとへ尾を引かない。
( )甘え方が自然で、ときどきそれとなくスキンシップを求めてくる。
( )家族と一緒にいることを好み、何かにつけて親の仕事を手伝いたがる。
( )成長することを楽しみにし、「大きくなったら……」という話をよくする。
( )園や学校、友だちや先生の話を、いつも楽しそうに親に報告する。
( )園や学校からいつも、意気揚々と、何かをやりとげたという様子で帰ってくる。
( )ぬいぐるみを見せたりすると、さもいとおしいといった様子でそれを抱いたりする。
( )ものごとに挑戦的で、「やりたい!」と、おとなのすることを何でも自分でしたがる。
( )言いつけをよく守り、してはいけないことに、ブレーキをかけることができる。
( )ひとりにさせても、あなたの愛情を疑うことなく、平気で遊ぶことができる。
( )あなたから見て、子どもの心の中の状態がつかみやすく、わかりやすい。
( )あなたから見て、あなたは自分の子どもはすばらしく見えるし、自信をもっている。
以上、20問のうち、20問とも(○)であるのが、理想的な親子関係ということにな
る。もし○の数が少ないというのであれば、家庭のあり方をかなり反省したほうがよい。
あるいはもしあなたの子どもがまだ、0~2歳であれば、ここに書いたようなことを、3
~4歳にはできるように、子育ての目標にするとよい。5~6歳になったとき、全問(○)
というのであれば、あなたの子どもはその後、まちがいなく伸びる。すばらしい子どもに
なる。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●思考のループ【輪形彷徨】
++++++++++++++++++++
思考のループほど、恐ろしいものはない。
ループ状態に入ったとたん、思考は停止し、
その分だけ、時間を無駄にする。
私たちにとって重要なことは、歩きつづけること。
先へ行けば行くほど、さらにその先に、「先」が
現れてくる。
だからますます先に進みたくなる。
が、ループ状態に入ると、「進んでいる」と
錯覚したまま、そこで停滞してしまう。
それは思想的には、「死」を意味する。
「魂の死」と言い換えてもよい。
何も肉体の「死」だけが死ではない。
++++++++++++++++++++
●輪形彷徨(りんけいほうこう)
思想がループ状態に入ることを、「輪形彷徨」という。
ちょうど輪のように、同じところをグルグルと回るところから、そう言う。
もちろんその半径は、それぞれの人によって、みな、ちがう。
ある人は、1日単位で、ループ状態を繰り返す。
またある人は、1年単位で、ループ状態を繰り返す。
繰り返しながら、自分では、それがわからない。
自分では、前に向かって進んでいると錯覚する。
が、実のところ、一歩も前に進んでいない。
このことは、あなたの周辺から、何人かの人を選んで、
その人を観察してみれば、わかる。
中には、10年1律のごとく、同じことしか言わない人がいる。
(さらにひどくなると、月単位、週単位で、同じことしか言わない人がいる。)
が、その一方で、そのつど新しい視点で、新しいことを言う人もいる。
話題も豊富で、そのつど話の内容が深く、濃くなっている。
10年1律のごとく、同じことしか言わない人は、その程度の人と見てよい。
思想的には、死んだも同然。
いくら派手な言動を繰り返しても、死んだも同然。
そういう人を、「思想的死者」と呼ぶ。
●思想的死者
輪形彷徨がこわいのは、それを繰り返しているうちに、思想がどんどんと
浅くなっていくこと。
視野もせまくなる。
それしか目に入らなくなる。
このことは、私の母の晩年の日記を読んでいて気がついた。
私の母は、毎日その日の終わりに日記をつけていた。
が、晩年になればなるほど、毎日書いていることが同じになっている。
「今日は雨(晴れ、うす曇り、曇り)で始まり、「~~さんが来た」「~~さんと
会った」「~~さんと話をした」という話につながる。
そしてしめくくりはいつも、「明日は晴れますように(涼しくなりますように)」と。
私なりに母の気持ちをくみ取りたいと思ったが、日記を読む範囲では、それが
できなかった。
当時年齢も90歳に近かったから、それもしかたのないことかもしれない。
が、母にかぎらず、人は、一度、この輪形彷徨に入ると、そのワクから抜け出られなく
なる。
そしてあとはその悪循環の中で、自分の住む世界を、どんどんと小さくしてしまう。
●では、どうすればよいか
私たちも、ふと油断すると、そのつど思考がループ状態になるのを知る。
そこで私のばあい、努めて、毎回、ちがったことを書くことにしている。
子どもたちを教えるときも、そうで、同じ年長児のクラスでも、切り口を変えるよう
にしている。
内容そのものも、変えることがある。
こうして自分の思考が、ループ状態に入るのを防ぐ。
が、このところ、ときどき恐ろしい経験をする。
「このテーマは初めて……」と思って書いている原稿でも、検索してみると、
同じようなことを、数年前に書いたのを知るときがある。
しかも数年前に書いた原稿のほうが、内容が深い!
たとえば「思考のループ」にしても、実は、それについて書くのは、今回が
初めてではない。
(ここで、ヤフーの検索機能をつかって、検索してみた。)
「はやし浩司 思考のループ」で検索してみたら、ナント、204件もヒットした。
それも、だ。
最新の原稿は、08年11月付けとなっている!
私は6か月前に、同じことを考えていたことになる。
以下、かなりの長文になるが、それをそのまま、ここに掲載する。
Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司
●思考のループ
++++++++++++++++++
うつ状態になると、ものごとに対する
(こだわり)が強くなる。
(うつ)と(こだわり)は、紙でいえば、
表と裏のような関係と考えてよいのでは?
そのことだけを、悶々と悩むようになる。
そこで最近、こんなことに気がついた。
若いときは、うつ状態になっても、脳の
中の情報は、割とそのまま維持される。
しかし加齢とともに、うつ状態になると、
脳の中の情報が、こぼれ落ちるように、
消えていく。
特定のことにこだわるあまり、ほかの
情報が入ってこなくなる。
つまりうつ状態が長くつづくと、脳みそ
全体が、ボケていく。
だから一般的には、こう言われている。
「ボケからうつ病になることもあるし、
うつ病からボケになることもある。
その見分けは、むずかしい」と。
つまり今度は、(うつ)と(ボケ)が、
紙で言えば、表と裏の関係と考えて
よいのでは?、ということになる。
+++++++++++++++++
●60代
自分が60代になってみて、恐ろしいと感じたことが、ひとつある。
それは急速に、過去の知識や経験が、脳みそから消えていくということ。
記憶にしても、記銘力、維持力、想起力が、同時に弱くなった。
つまり私たちは、それに気がつかないまま、どんどんとバカになっているということ。
そこで大切なことは、歳をとればとるほど、脳みそをさまざまな角度から、
刺激していかねばならない。
肉体の健康にたとえるまでもない。
が、ここで思わぬ伏兵が現れてきた。
たとえば心がうつ状態になったとする。
(うつ)の第一の特徴は、(こだわり)である。
ある特定のことがらに、悶々と悩んだりする。
それが短期間なものであれば、問題はない。
しかしそれが長期間つづくと、その間に、ほかの部分にあった知識や経験が、
どんどんと脳みそから消え、結果として、頭がボケていく。
そのため総合的な判断が、できにくくなる。
ただ本人自身は、ここにも書いたように、自分でそれに気づくことはない。
そういう状態になりながらも、「私は、まとも」と思う。
このズレが、いろいろな場面で、トラブルの原因となることもある。
先日も、私がその女性(65歳くらい)に、「私は、そんなバカではないと
思います」と言ったときのこと、その女性は何を勘違いしたのか、こう言って
叫んだ。
「私だって、そんなバカではありません!」と。
私はその女性に、認知症の初期症状をいくつか感じ取っていた。
自分勝手でわがまま。
繊細な会話ができない。
話す内容も一方的で、その繰り返し。
が、それはそのまま私自身の問題でもある。
私もよく(うつ状態)になる。
何かのことでそれにこだわると、それについて、悶々と悩んだりする。
毎日、そのことばかりを考えるようになる。
考えるといっても、堂々めぐり。
思考そのものが、ループ状態になる。
とたん、ほかの情報が脳みその中に、入ってこなくなる。
肉体の健康にたとえるなら、これは腕の運動ばかりしていて、体全体の運動を
忘れるようなもの。
うつ状態が長期になればなるほど、そのため、頭はボケていく。
だから……、といっても、もう結論は出ているが、うつ状態は、ボケの敵。
50歳を過ぎたら、とくに注意したほうがよい。
(付記)
認知症から(うつ状態)になる人もいれば、(うつ状態)から認知症になる人も
いる。
その見分けは、専門家でもたいへんむずかしいという。
が、こう考えてはどうだろうか。
どちらであるにせよ、脳の一部しか機能しなくなるために、そうなる、と。
とくに50代以上になると、それまでの知識や経験が、穴のあいたバケツから
水がこぼれ出るように、外へと漏れ出ていく。
そうでなくても補充しなければいけないときに、特定のことにこだわり、
それについて悶々と悩むのは、それだけでバカになっていく。
それが認知症につながっていくということも、じゅうぶん考えられる。
少し前まで、「損得論」についていろいろ考えてきたが、損か得かという
ことになれば、脳みその機能が悪くなることほど、損なことはない。
まさに「私」の一部を、失うことになる。
++++++++++++++++
思考のループについて、
以前書いた原稿を、添付します。
++++++++++++++++
●無限ループの世界
思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題
を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思
い」ではないか。
が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大
さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。
知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。
その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「そ
の年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る
人もいれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そ
こで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさら
に低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。
講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすれ
ばよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が
子どもたちに接するときもそうだ。
毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーに
している。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。た
しか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさか
のぼること二〇年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を
感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。
そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年
前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考
えてみてほしい。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それと
もしなかっただろうか。
こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すこと
だ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよ
い(失礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもって
いる。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってし
まうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。
もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、
あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日
からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決
めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返し
ていく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ノーブレイン
英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。
ふつう「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言
葉だと思えばよい。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方
をする。
そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるの
ではないか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタ
レントたちが、これまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思い
ついたままを口にしているだけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、
何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしてい
るだけ。
考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、
考えることにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くよう
な苦痛に似ている。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。
しかしたいていは答そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そ
のためほとんどの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。
言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正し
いかもしれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうな
こと考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか
言う人さえいる。
人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなく
なってしまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」
ということには、そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考
えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。
これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態
(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一
度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしま
う。
それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小
さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうで
もよいような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、
そういうさまざまな問題が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから人間」であ
る。それは人間が人間であることの大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であ
ることは、つまりその人間であることの放棄といってもよい。
人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●考えない子ども
「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小4レベル)。その前
の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。
そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。
この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることがで
きる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できな
い子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考え
ることそのものから逃げてしまうタイプである。
懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいてい
その途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプ
の子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はど
こまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとす
ると、1分では何度かな?」と。
そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。
どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先
生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。
決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い
子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで
遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だ
し、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。
ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察す
ると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないとい
った様子を見せる。
そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たい
へん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。
待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。
結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、
以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。
やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる
……。あとはこの繰り返し。
そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで
考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身
に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。
勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
思考のループ ループ性 ループ状態)
【子どもの思考力】
●考える子どもvs考えない子ども
勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んで
いる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、
活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。
しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれ
てこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準を
つくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生
まれてこない。つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもな
く、子どもの教育で重要なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どう
すれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。
そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。
(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることが
できるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっ
ているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)
の状態。
何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけて
よいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。
パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何が
なんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。
歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのは
その場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。
勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)~(4)の状態が、日常的に起こる
と考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわ
かると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
勉強が苦手 勉強が苦手な子供)
(1) 思考力そのものが散漫なタイプ
思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の
仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。
そういうときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そ
のあたりにあるコーヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がか
かってきても、話の内容は上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に
指示されても、そのすべてがどうでもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てら
れない……。
もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーー
を口にしたり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果
がないわけではない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうと
きあなたの夫(あるいは妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われ
たとする。あなたはあなたで、「しなければならない」という気持ちがあっても、ひょっと
したら、あなたはどうすることもできない。漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。
ほんの少し油断すると、目がかすんできてしまう。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガ
ミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。
思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、ど
うしようもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問
題については、あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、
ソファに寝そべっているようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。
そういう視点で考えればよい。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関
心があること、さらに好きなことなら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれな
い。まさにこのタイプの子どもは、そういう指導法が効果的である。これを「動機づけ」
というが、その動機づけをどうするかが、このタイプの子どもの対処法ということになる。
(2) 思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけて
よいかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでそ
の支度(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から
落ちてけがをした。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている
……!
一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あ
なたも学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が
数問ある。しかし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あ
せればあせるほど、自分でも何をしているかわからなくなる。
このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たと
えば「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題
のとき、しばらくは分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何や
ら式を書いて計算するフリをする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っている
と、また分度器を見て、同じような行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書
いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返し……。
一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子ど
もはいくつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見
を発表させたりすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった
様子を見せる。そこであなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態
になったら、どうするだろうか。またどうすることが最善と思うだろうか。
ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引
き出すという方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからど
こまで進みますか」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これ
を「誘導」というが、どの段階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども
次第。絵をかいたところで、「わかった」と言って理解する子どももいるが、最後の最後ま
で理解しない子どももいる。そういうときはそれこそ、からんだ糸をほぐすような根気が
必要となる。しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかって
も、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらな
い。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなる
ことそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出すというこ
とが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。
方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導
するしかないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。
(3) 得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、
何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、
Readme.txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使
って解凍。そのあとで直接インストールのこと」と。
このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくこと
ができない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」
という意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。
「角とは何か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混
乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはち
ょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、
段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落を
さげたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左インデントと
は何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と考えているうち
に、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプの子どもも、まさ
にそれと同じような状態になっていると思えばよい。
そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。
学習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツ
クンしたところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがって
いればいるほど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている
三角形をさして、「ここが一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「と
がっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学習へと誘導していく。
このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、
どこか夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと
考えてよい。占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断
力がないから、そういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合
理的な判断力が育たないのかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化
していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家
庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」
「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。
(4) 知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それに
ついてはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。
思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパター
ン化という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な
生活はスムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、
すぐものを書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が
起きると、すぐ暴力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ま
しくないパターンである。
子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語
のアルファベットを、三~六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではな
い。そういう子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶
力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真
剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そ
こでさらに観察してみると、こんなことがわかる。
「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごう
の悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶とい
うのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶
は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶される情
報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。
学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、
短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されね
ばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をし
ない。)つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶され
ないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。
原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書い
てごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対
してある種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、
文字嫌いになるだけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようにな
る。結果的に、教えても、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、
そういう思考回路ができてしまっている。
記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」
と、ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと
別のところにある。
Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司
●結びに……
昨年(08年11月)に書いた原稿を読みながら、ふとこう思った。
「去年のほうが、内容が深いのでは……?」と。
つまりこれぞまさしく、「輪形彷徨」。
「輪形彷徨」と言わずして、何という?
ゾーッ!
つまりこうして私も、ボケていく。
バカになっていく。
が、それではいけない。
輪形彷徨を打破しなければならない。
何としても打破しなければならない。
そのためには、今、そこにある輪形方向から、一歩、外へ抜け出なければならない。
新しい世界に興味をもち、その世界へと足を踏み入れる。
今の私にはそれしか思いつかないが、具体的には、こうする。
(1) 書店へ立ち寄っても、立ち止まるところは、いつも同じ。
次回から、それをやめ、別の場所へ行ってみる。
そこで片っ端から立ち読みをしてみる。
(今夜から、さっそく、実行!)
(2) 新しい経験を試みる
今度、近くの温泉街に、静岡県イチという大浴場ができた。
日帰り入浴というのができるそうだから、今週中に一度行ってみる。
つまり今までの行動(生活)パターンを変える。
その結果、私の脳みその中に、何らかの変化が起きればそれでよし。
その変化を感じたら、それを大切にし、拡大させる。
そうそう私には、ひとつ大特典がある。
「子ども」という大特典である。
私が教えている子どもたちは、そのつど、私に大きな変化をもたらしてくれる。
どんな遊びを、どのようにしているかを知るだけでも、よい刺激になる。
そこで、
(3) 子どもたちの世界に、もっと積極的に飛び込んでみる。
どんなゲームをどのようにしているかを、知る。
私もそのゲームを自分でも、買ってみる。
いっしょに、子どもたちとしてみる。
輪形彷徨というのは、いわば思想の渦のようなもの。
渦の中で安穏としていると、そのまま渦の中心部で、押しつぶされてしまう。
自分では気がつかないまま、そうなってしまう。
これからの老後を生きるためにも、それにはじゅうぶん警戒したらよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 思考のループ ループ状態 はやし浩司 輪形彷徨)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●ダイエット
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無理な減食だけでダイエットしても、意味はない。
それはよくわかっている。
体内脂肪が減るよりも先に、筋肉が萎(な)えてしまう。
それに猛烈な食欲。
飢えた脂肪(摂取)細胞が、「食べ物をよこせ!」と騒ぎ出す。
ふつうの食欲ではない。
ここにも書いたように、「猛烈な食欲」。
で、油断すると、あっという間にリバウンド。
しかもやっかいなことに、これを繰り返していると、
内臓脂肪ばかりが、ふえることになる。
今、私はそれを、身をもって、体験しつつある。
+++++++++++++++++++++++++
●私のばあい
今朝、体重計に乗ったら、61・8キロだった。
2か月前には、68・4キロだったから、約7キロの減量ということになる。
約7キロ!
しかしおかしなことに、体脂肪率は、24・5%から23・5%と、それほど変わって
いない。
つぎに体重が約7キロ減ったということは、2リットル入りのペットボトルで、
3本半分ということになる。
が、その実感が、ほとんど、ない。
このことは自転車で、いつもの坂を登ってみると、よくわかる。
約7キロ減ったのだから、その分、坂を登るのが、楽なはず。
が、実際には、そうでない。
先日は、かえって体が重くなったように感じた。
つまり無理なダイエットによって、筋肉のほうが、先に萎えてしまった(?)。
ダイエットは、(1)食事制限と、(2)運動を、並行して行う。
どんな本にもそう書いてある。
そこで今回は、食事制限と並行して、運動の量を、それまでの約2倍以上にふやした。
ほとんど毎日、1万歩前後、散歩した。
加えてサイクリング。
それでもこのザマというか、体力のほうが先に弱ってしまった。
が、ここであきらめるわけにはいかない。
ここでリバウンドさせるわけにはいかない。
ダイエットするにも、年齢制限のようなものがある。
運動量をふやすといっても、それには限界がある。
70歳や80歳になってからだと、運動そのものが、難しくなる。
それがそのまま年齢制限となる。
今、ここでダイエットに失敗したら、私は死ぬまで67~8キロ台。
こわいのは、悪循環。
(運動不足)→(肥満)→(成人病)→……
これを繰り返しているうちに、持病が持病を呼び込み、そのうち体が動かなくなる。
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2009年7月9日木曜日
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