2009年7月27日月曜日

*July 29th Magazine

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(13)

●自分を知る

 多動児(AD・HD児)と呼ばれる子どもがいる。診断基準のひな形が、2001年の
春にできたばかりである。現在の今も、その指導法については、思考錯誤の段階と考えて
よい。それはともかくも、実際には、このタイプの子どもは、20名のうち約1人の割で
いる。が、問題はこのことではない。

 D君(中2)の男の子がいた。私はその子を、幼稚園の年中児のときから、中学3年ま
で教えた。多動児だった。そのため、本当に苦労した。親も苦労した。学校の先生も苦労
した。どう苦労したかは、教えたものでないとわからないだろう。

が、その子も、小学高学年になるころには落ち着きはじめ、中学生になるころには、騒々
しさは残ったものの、まあ、ふつうの子どもという感じになった。そのD君にこう話しか
けたときのこと。私がそれとなく、「君は、小学生のころ、腕白で、みんなに迷惑をかけた
のだが、それを覚えているか」と聞くと、D君は、こう言った。「いいや、ぼくは何もして
ない。みんな、ぼくのことを目の敵にして、ぼくばかり叱った」と。そこであれこれ遠ま
わしな言い方で、D君自身に問題がなかったのかを聞いてみたが、D君は「なかった。ぼ
くはふつうだった」と。

 私はD君を前にして、考え込んでしまった。D君はまるで自分のことがわかっていなか
った。おそらく彼が教職の道を選んで、教師になって、多動児について学んでも、「自分が
そうだった」とは決して思わないだろう。いや、私が考え込んだのは、実のところD君の
ことではない。自分のことだ。私は私のことは一番よく知っていると思っている。しかし
そう思っているのは、自分だけ。実のところ、自分のことはまったくわかっていないので
は……、と。

 自分を知るということは、本当にむずかしい。方法がないわけではないが、それについ
てはまた別の機会に書く。ともかくも、私はD君を前にして、本当に考え込んでしまった。
「人間というのは、そういうものか」と。D君はそれを私に教えてくれた。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(14)

●音読と黙読は違う

 小学3年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。たとえば算数の
文章題。読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、など。あちこち
の数字を集めて、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問題を
よく読まないのでしょう」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡
単なことではない。

 話は少しそれるが、音読と、黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、
一度自分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳がそれをつ
かさどる。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して文の内容を理
解する。

つまり右脳がそれをつかさどる。音読ができるから黙読ができるとは限らない。ちなみに
文字を覚えたての幼児は、黙読では文を読むことができない。そんなわけで子どもが文字
をある程度読むことができるようになったら、黙読の練習をさせるとよい。方法は、「口を
とじて本を読んでごらん」と指示する。

ある研究団体の調査によれば、黙読にすると、小学校の低学年児で、約30%程度、読解
力が落ちることが」わかっている(国立国語研究所)。

 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、
あえて音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と
言って、問題を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかっ
た!」と言って、問題を解くことができる。

が、それでも効果があまりないときは、こうする。問題そのものを、別の紙に書き写させ
る。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによって、文字の内容を「音」ではなく、
「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が苦手な子どもには、もっ
とも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもち
ろんのこと、算数や理科、社会の成績があがったということはよくある。決して軽くみて
はいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(15)

●計算力は早数えで

 計算力は、早数えで決まる。たとえば子ども(幼児)の前で手をパンパンと叩いてみせ
てほしい。早く数えることができる子どもは、5秒前後の間に、20回前後の音を数える
ことができる。そうでない子どもは、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えるため、どう
しても遅くなる。

 そこで子どもが1~30前後まで数えられるようになったら、早数えの練習をするとよ
い。最初は、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」でも、少し練習すると、「イチ、ニ、サン…
…」になり、さらに「イ、ニ、サ……」となる。さらに練習すると、ものを「ピッ、ピッ、
ピッ……」と、信号にかえて数えることができるようになる。これを数の信号化という。

こうなると、5秒足らずの間に、20個くらいのものを、瞬時に数えることができるよう
になる。そしてこの力が、やがて、計算力の基礎となる。たとえば、「3+2」というとき、
頭の中で、「ピッ、ピッ、ピッ、と、ピッ、ピッで、5」と計算するなど。

 要するに計算力は、訓練でいくらでも早くなるということ。言いかえると、もし「うち
の子は計算が遅い」と感じたら、計算ドリルをさせるよりも先に、一度、早数えの練習を
してみるとよい。ただし一言。

 計算力と算数の力は別物である。よく誤解されるが、計算力があるからといって、算数
の力があるということにはならない。たとえば小学1年生でも、神業にように早く、難し
い足し算や引き算をする子どもがいる。親は「うちの子は頭がいい」と喜ぶが、(喜んで悪
いというのではない)、それは少し待ってほしい。

計算力は訓練で伸びるが、算数の力を伸ばすのはそんな簡単なことではない。子どもとい
うのは、「取った、取られた」「ふえた、減った」「多い、少ない」「得をした、損をした」
という日常的な経験を通して、算数の力を養う。またそういう刺激が、子どもをして、算
数ができる子どもにする。そういう日常的な経験も忘れないように!


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(16)

●はだし教育を大切に

 以前、動きがたいへんすばやい子ども(年長男児)がいた。ドッチボールをしても、い
つも最後まで残っていた。そこで母親に秘訣を聞くと、こう話してくれた。「乳幼児期は、
ほとんど、はだしで過ごしました。雨の日でもはだしだったので、近所の人に白い目で見
られたこともあります」と。その子どもは2歳になるときには、うしろ向きにスキップし
て走ることができたそうだ。

 子どもの敏捷(びんしょう)さを養うには、はだしがよい。子どもというのは足の裏か
らの刺激を受けて、その敏捷性を養う。反対に分厚い底の靴に、分厚い靴下をはいて、ど
うして敏捷性を養うことができるというのか。

一つの目安として、階段をおりる様子を観察してみればよい。敏捷な子どもは、スタスタ
とリズミカルに階段をおりることができる。そうでない子どもは、手すりにつかまって1
段ずつ、恐る恐るおりる。階段をリズムカルにおりられない子どもは、年中児で10人に
1人はいる。あるいは傾いた土地や、川原の石ころの間を歩かせてみればよい。

敏捷性のある子どもは、ピョンピョンと平気で飛び跳ねるようにして歩くことができる。
そうでない子どもはそうでない。もしあなたの子どもの敏捷性が心配なら、今日からでも
遅くないから、はだしにするとよい。あるいはよくころぶ(※)とか、動作がどこか遅い
というようなときも、はだしにするとよい。(分厚い靴や分厚い靴下をはきなれた子どもは、
はだしをいやがるが、そうであるならなおさら、はだしにしてみる。)

 この敏捷性はあらゆる運動の基本になる。言い換えると、もともと敏捷さがあまりない
子どもに、あれこれ運動をさせてもあまり上達は望めない。

(※……ころびやすい子どものばあい、敏捷性だけでは説明がつかないときもある。そう
いうときは歩く様子をまうしろから観察してみる。X脚になって足が互いにからむようで
あれば、一度小児科のドクターに相談してみるとよい。)
 

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

「私」って、何だろう?】(2)

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今、私はここにいる。
ここにいて、頭蓋骨の中から、外の世界を
ながめている。
下のほうには、自分の鼻先が見える。
メガネのワクも、焦点が合っているわけではないが、
見える。
その向こうにはパソコンの画面。
周囲の雑多な電子機器の数々……。

この頭蓋骨の中にいる私が、「私」ということになる。

++++++++++++++++++

●精子と卵子

 若い男性のばあい、1回の射精で、約1億個の精子が放出される。
約1億個、である。
 一方、女性のほうは、毎月新しい卵子を排出する。
毎月、である。
 その精子と卵子が結合して、1人の人間が誕生する。
確率論的に言えば、1人の人間が「私」になるためには、男性側が毎月10回、射精した
としても、10年の間では、1200億個。
それに女性の卵子の数、120回(10年分)をかけると、約14兆分の1の確率という
ことになる。

 約14兆分の1、である。
もしそのとき、卵子に到達する精子が、ほんの1つ、ずれていたとしても、また結合する
時期が、1か月ずれていたとしても、「私」は、この世の中に、いなかったことになる。

●必然的な結果

 一方、外から見たらどうだろうか。
そこに一組の夫婦がいる。
その夫婦が、セックスをして、子どもをもうけたとする。
その夫婦からすれば、子どもが生まれるのは、必然的な結果ということになる。

 話をわかりやすくするために、川原に向かって小石を投げたばあいを考えてみよう。
投げた石は、重力の法則にしたがって、やがて下に落ちる。
どれかの石に当たる。
必ず、当たる。

 しかし当てられたほうの石からみると、それは何百万分の1の確率で、「当たった」
ということになる。
(川原の広さにもよるが……。)
つまり石を投げれば、必ず、どれかの石に当たる。
しかし川原の石から見れば、「私」という自分の石に当たるのは、偶然の、そのまた
偶然ということになる。

●もし……

 そこでさらにこう考えてみる。
仮に、卵子に結合した精子が、「私」の精子ではなく、その横を泳いでいた別の精子だった
ら、「私」はどうなっていただろう。
それでも卵子と精子は結合し、そこで子どもは誕生する。
で、ここでの最大の問題は、そのときそこで誕生する子どもは、「私」であるか、「私」
ではないかということ。

 もちろん「私」ではない。
「私」の兄弟あるいは姉妹かもしれないが、「私」ではない。
このことは、もしあなたに兄弟姉妹がいれば、何でもない疑問ということになる。
あなたの兄弟姉妹が「私」ではないのと同じように、そうして生まれた私は、「私」では
ないということになる。
 つまりほんのわずかだけ、タイミングと時期がずれただけで、私という「私」は
生まれず、別の人間が生まれていたことになる。

 が、親や、その周囲の人たちからみれば、そこにいるのは、(あなた)ということに
なる。
精子のひとつやふたつズレたところで、親や、その周囲の人たちからみれば、それは
ごく微小な誤差でしかない。

 ここが重要な点だから、もう一度、考え直してみる。

●9999万9999人の兄弟・姉妹

 仮に1人の男が、1億個の精子を放出したとする。
その中で卵子にたどりつき、生き残るのは、たった1個。
残りの、9999万9999個の精子は、そのまま死滅することになる。
が、仮に、「それはかわいそうだ」ということで、全世界の女性たちから、
9999万9999個の卵子を集めてきて、人工授精したとする。
そしてそれらの女性の体を使って、9999万9999人の子どもを作ったとする。

 しかしその9999万9999人の子どもは、あなたの兄弟や姉妹かもしれないが、
けっしてあなたではない。
「私」ではない。

●生の人間

 言うなれば生まれた直後の子どもは、(妊娠した直後の子どもでもよいが)、言うなれば、
(生の人間)ということになる。
 性質や気質など、親から引き継ぐものも多いが、一応(生の人間)と考える。
この(生の人間)は、その後の環境によって、(あなた)に作りあげられていく。

 日本で生まれ育てば、日本人らしくなる。
浜松で生まれ育てば、浜松の言葉を話すようになる。
私の家庭のような環境で育てば、まちがいなく、ドラ息子、ドラ娘になる。

 つまりあなたの親を含めて、外の世界から見た(あなた)は、あなた。
卵子と精子が結合するタイミングと時期が、多少程度ずれていたとしても、あなたは
あなた。
 しかしこれだけは、絶対、たしか。
その(あなた)は、けっして「私」ではない。
私という「私」は、私になれないまま、他の9999万9999個の精子とともに、
闇から抜け出ることもなく、そのまま死滅する。
もちろんそれらの精子が、「私」を自覚することはない。

●「私」は奇跡中の奇跡

 こうして考えてみると、「私」というのが今、ここにいるのは、まさに奇跡中の奇跡、
ということになる。
「約14兆分の1の確率で生まれた」と言っても過言ではない。
もしほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、「私」はいない。
だれかほかの人は生まれたかもしれないが、しかしそれは「私」ではない。
今の私とまったく同じ顔をし、同じことをしているかもしれないが、「私」ではない。

 もしタイミングがほんの1つでもタイミングがずれていたとしたら、私は「私」になる
前に、そのまま永遠の闇の中に、葬られていた。
永遠ということは、永遠。

●意識

 というふうに考えていくと、「私」というのは、この頭蓋骨の中から外をながめている、
「意識」ということになる。
頭蓋骨から離れたとたん、それは「私」ではなくなってしまう。
こんな例で考えてみれば、それがわかる。

 コンピュータの技術が進歩して、あなたの脳をそっくりそのままコピーできるように
なったとしよう。
そっくりそのまま、だ。
が、そのままではその脳は、見ることも、聞くことも、話すこともできない。
そこでそのコピーされた脳に、カメラやイヤホン、それにスピーカーを取りつける。
その脳は、あなたの脳とまったく同じだから、他人から見れば、(あなた)かもしれない。
しかしその脳は、けっして、あなたではない。

 あなたがその脳に向かって、名前を聞けば、その脳は、ちゃんとあなたの名前を
言うだろう。
しかし、けっして、あなたではない。
何からなにまで、そっくりあなたと同じであったとしても、あなたではない。
あなたが「私」と言えるのは、そこにあなたの意識があるからだ。

●死後の世界

 こう考えていくと、「死後の世界」という「世界」を考えることすら、無意味に
思えてくる。
死んだら、「世界」はない。
少なくとも「私」という意識は、そこで完全に途絶える。
あなたの肉体や脳を作っている無数の分子は、バラバラに解体され、その一部は、
また別の肉体や脳を作るために、再利用される。
が、だからといって、そこであなたの意識が再生されるというわけではない。
肉体や脳のほとんどは、土となり、植物となり、もろもろの生物に生まれ変わる。

 念のため、申し添えるなら、死んだとたん、意識をもつあなたの脳は、バラバラに
なる。
たとえはよくないかもしれないが、日々に排泄するあの便と同じ。
つまり意識は消える。
中に、スピリチュアル(霊)とか何とか、わかったようなことを言う人もいるが、
その意識だけが肉体から離れて、別の世界に浮遊するなどということは、ありえない。

●思考の限界を超えて……

 このあたりが、人間の思考の限界ということになるのか。
私にしても、この先が、わからない。
だから人間は、その手前で、右往左往する。
「あの世はあるのか」という命題にしても、結論を出すこともできず、今の今も、
迷っている。
またそれを乗り越えて、その先へ進むこともできない。
「その先」というのは、既存の宗教観を乗りこえた、その先という意味である。
宗教を否定しながら、宗教に頼り、宗教に頼りながら、宗教を否定する。
毎日が、その繰り返し。
その先へ、進むことができない。

 実際、宗教の先に見えるのは、広大な、それこそ果てしなくつづく広大な原野。
それを知っただけで、人々は、みな、おびえてしまう。
だからこう考える。
「そんな広大な原野にひとり取り残されるよりは、妥協して安易な道を選んだ
ほうがいい」と。

 いくら冒険好きといっても、できることと、できないことがある。
大宇宙へ、たったひとりで、宇宙船に乗って出かけるようなもの。
想像するだけで、ぞっとする。

 こうしてまたもとの世界に戻ってしまう。
それが「右往左往」ということになる。

●真の勇者

 いつか真の勇者が現れるかもしれない。
「私」という意識を乗り越えて、さらに言えば、あらゆる宗教観を乗り越えて、
広大な原野に道を切り開いてくれる人が、現れるかもしれない。

 が、それは、庭に遊ぶ犬のハナに、コンピュータの原理を理解しろというくらい、
難しいことかもしれない。
仮にこのまま数万年、進化しつづけたとしても、難しいことかもしれない。
同じように、人間が、そこへ到達するためには、長い長い時間がかかるだろう。
しかしだからといって、あきらめるわけにはいかない。
方法がないわけではない。
あのソクラテス流に言うなら、常に「私とは何か」、それを問いつづけること。
それが重要ということになる。


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW 私論 私とは何か ソクラテス)

(補記)

意識と肉体の分離。
精神と肉体の分離と置き換えてもよい。
常に意識が、肉体を支配し、肉体をコントロールする。
けっして、意識は、肉体にコントロールされてはいけない。

たとえば寒い朝、ジョギングに出かけるときのことを考えてみよう。
あなたは意識の中で、運動の必要性を強く感じている。
が、肉体のほうは、それに抵抗する。
「寒いから、いやだ」「疲れているから、行かない」と。
が、そういう肉体の声に負けてはいけない。
あなたは自分の意思で、ジョギングに出かける。
寒くてつらい思いをするのは、あなたの(意識)のほうではない。
(肉体)のほうである。

もしこのとき意識と肉体の分離がうまくできないと、あなたは肉体のほうの声に
負けてしまうことになる。
そしてこう言うにちがいない。
「そうだ、今日は寒いから、ジョギングにでかけるのをやめよう」と。
しかしそう思って、ジョギングをやめてしまうことは、結局は、
肉体そのものを弱くしてしまうことになる。

基本的に、(肉体)というのは、怠け者。
少しでも疲れたり、痛かったりすると、「休もう」と考える。
そしてあなたの意識を自分の都合のよいように、誘導しようとする。

が、肉体の求める欲望に負けていたら、あなたの意識は、自分の居場所すら、失って
しまうことになる。
肉体あっての意識。
肉体が滅びれば、意識も消える。

これが意識と肉体の関係。
つまり意識と肉体を分離すればするほど、意識は肉体をコントロールしやすくなる。
意識と肉体を分離することの重要さを、これでわかってもらえたことと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●肉体と精神(未完成)

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仏教では、「肉体とは棄(す)去らねばならないもの」
(世親・浄土三部経・観無量寿経)と教える。
精神は善であろうとしても、肉体の内側から湧き起きてくる、
もろもろの欲望、つまり煩悩(ぼんのう)が、
その精神をむしばむ。
仏教では、そう考える。

が、肉体を棄て去るということは、精神が宿る
脳そのものまで棄て去ることを意味する。
東洋医学でも、「肉体と精神は、密接不可分のもの」
(黄帝内経)と教える。
たとえば喜怒哀楽などの感情にしても、五臓六腑
の働きと密接に関連しあっている、と。

世親が説いた「棄て去る」というのは、もちろん、
切り捨てるという意味ではない。
「肉体と精神を分離せよ」という意味である。
仏教学者の人たちが聞いたら、吹き出して笑うかも
しれないが、私はそう解釈している。

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●大脳生理学

 最近の大脳生理学の発達には、ものすごいものがある。
脳の構造のみならず、その働きまで、リアルタイムで追跡、観察する装置まで
開発されている。

 たとえば自分の意志で行動していると思っていることにしても、実はそれ以前に、
脳の別の部分が、すでに「そうしろ」と命令を下しているということまでわかるように
なった。
つまり私たちは、常に脳の別の部分が下した命令に従って、それを自分の意志と
誤解しながら行動しているにすぎない、と。

 たとえばあなたが台所へ行ったとする。
テーブルの上に、オレンジジュースがあったとする。
するとあなたは、それを飲みたいと思い、コップに注ぐ。
そしてそれを口に入れる。
そのときだれかが、あなたにこう聞いたとする。
「あなたは自分の意思で、ジュースを飲んでいますか?」と。
するとあなたはまちがいなく、こう答えるだろう。
「そうです」と。

 が、事実は、少しちがう。
あなたが台所へ行く前から、すでに脳の別の部分が、あなたの脳にこう命令を
下している。
「のどが渇いたから、何か飲み物を口にせよ」「台所へ行け」と。
あなたはそうした命令を意識することもなく、台所へ向かい、ジュースを口にする。

●ウソ発見器

 ウソ発見器という装置がある。
あの装置を使うと、あなたがいくら意識的に
ウソをついても、ウソ発見器は、それを見抜いてしまう。
脳の奥の反応まで、感知してしまうからである。

 つまり自分で意識できる部分で、いくらウソを言っても、脳の奥深くの意識まで、
だますことはできない。
それをウソ発見器は感知し、「ウソ」と判断する。
たとえばいくら口先で、「私は盗んでいません」と言っても、ウソ発見器は、脳の別の部分
の反応をみて、「ウソ」と判断する。
だから、よほどのことがないかぎり、あのウソ発見器をだますことはできない……そうだ。
(何かの薬をのめば、ウソ発見器をだませるというようなことは、あるらしい。)

 つまり私たちの意識というのは、常に無意識下の脳によって、命令され、作られている。
すべてがそうではないかもしれないが、そのほとんどがそうであると考えてよい。
その第一が、肉体の内側から湧き起きてくる、欲望ということになる。
その欲望が、善なる意識に影響を及ぼす。

●落語

 落語にこんな話があった。
学生時代にそれを聞いたときには、私は腹をかかえて笑った。

 ある寺に、有名な高僧がいた。
しかし歳には勝てない。
日に日に体が衰えていくのを感じた。
そこである日、その寺の後継者を決めることにした。
選りすぐった若い弟子たち10人ほどを一堂に集めて、こう言った。

「これから寺の後継ぎを決める」と。

 そこでその高僧は、若い弟子たちを全員、裸にして、チンxxのあの先に鈴を
つけさせた。
そうしてみなに瞑想をさせていると、そこへ素っ裸の若い女性が何人か入ってきた。

 するとあちこちからチリチリと鈴の音が聞こえだした。
チリチリ、チリチリ……、と。
それを聞いて高僧は、こう思った。
「ああ、どいつもこいつも修行が足りん」と。

 が、1人だけ、鈴の音が聞こえない若い僧がいた。
それを知って高僧は、その若い僧のそばにやってきてこう言った。

「お前こそ、この寺の後継ぎにふさわしい」と。
が、それを聞いて、その若い僧は、こう答えた。

「いいえ、○○様、私の鈴は、とっくにどこかへ飛んでいってしまいました」と。

●煩悩の力
 
 この話は(肉体)の反応がいかに強力であるかを示す例として、おもしろい。
が、似たような話は、多い。
たとえばニコチン中毒がある。
アルコール中毒でもよい。
こうした中毒性は、一度身につくと、それを断ち切るのは容易なことではない。
容易でないことは、みな、知っている。

 が、「私は、だいじょうぶ」と思っている人も、ちょっと待ってほしい。
ニコチン中毒やアルコール中毒とは違うかもかもしれないが、私たちの脳は、
何らかの(中毒)で、がんじがらめになっている。

 マネー中毒、時間中毒、権力中毒などなど。
性欲や食欲、物欲の奴隷となっている人となると、いくらでもいる。
ただ中毒になっていながら、自分でそれに気づくことはない。
ほとんどの人は、「私は正常だ」「ノーマルだ」と思っている。
が、実際には、何かの(中毒)で、がんじがらめになっている。
 
 仏教でいう「煩悩(ぼんのう)」というのは、まさにそれをいう。
先にも書いたように、「肉体の内側から湧き起こる欲望」ということになる。
その欲望は、先にも書いたように、かなり強力なもので、自分の意思でコントロール
するのは、並大抵の努力ではできない。

●東洋医学では

 東洋医学では、肉体と精神とは、密接不可分のものと教える。
そして人間の(意)(志)(思)(慮)(智)は、順に(心・しん)の活動の一部として
生まれると教える。

 「徳、つまり自然の生命力と気の二つが合体して、生が発現する。
その生の基本物質が精であり、精は精神活動の源である魂(こん)と、
肉体活動の源である魄(はく)を生ずる。
この魂と魄は、心のコントロールを受けながら、相互に作用しあい、さまざまな
精神活動を展開する」(「霊枢」・本神篇)と。

意……物事を話す働き
志……意から生ずる思い
思……いろいろ考える力
慮……考え抜いた結果、理想を慕うようになること
智……その理想に達するために人はいろいろな方法を選択するが、その力のこと。

 そしてこれらは、五臓六腑と密接に結びついている。

肝は(魂)、心は(神)、脾は(意)、肺は(魄)、腎は(志)を宿す、と(はやし浩
司著、「目で見る漢方診断」)。

 東洋医学の考え方を、そのまま仏教に当てはめることはできない。
が、参考にはなる。

 その東洋医学でも、「智」を最後に置いているところが、興味深い。

●理想

 世親は、さらにこう教える(浄土三部経)。
「仏陀を思念せよ」と。
わかりやすく言えば、「自分の理想とすべき人物を頭の中で、思い描き、その人物
に近づくように、努力せよ」ということになる。

 世親が説く「仏陀」というのは、真理の会得者ということになる。
が、これはたいへん重要なことである。
そのことは、逆の人たちを接してみると、わかる。
わかるというより、気がつく。

 たとえば愚劣な人と交わっていると、自分まで愚劣になっていくのが、よくわかる。
愚劣な話題に、愚劣な会話。
で、気がついてみると、いつの間にか、その人と同じような口調で、同じようなことを
話している!

 そういう意味でも、自分を高めることは、むずかしい。
しかし下げるのは、簡単。
山を登るのは苦しいが、山を下るのは簡単。
それに似ている。

 ともかくも、世親は、「仏陀を思念せよ」と。
近くに、それにふさわしい人がいれば、その人を思念するのもよい。
が、いないときは、どうするか?
絵画や音楽など、その世界で、道を究めたような人でも、またその作品でも
よいのではないか。
国宝となっているような仏像などをながめるのもよい。
ながめているだけで、厳粛な気持ちになる。

 要するに私たちは、常に高い理想をもち、その理想に近づくよう、努力するという
こと。
それを怠ったとたん、たちまち私たちは愚劣な俗世間の渦の中に、巻き込まれてしまう。

●現実性
 
 さらに世親のすぐれている点は、現実性を忘れなかったこと。
つねに「衆生(人間を含む、あらゆる生物)を観察し、それからでは、自分はどうあるべ
きかを学べ」(「浄土三部経」)と。

 そういう意味でも、私は仏教というのは、もともとたいへん現実的な宗教であったと
考える。
現在でいうところの実存主義に近い、あるいはそれと同じほど、現実的な哲学をもって
いた。
その仏教が、おかしなオカルトに毒されたのは、そこにインドのヒンズー教が混入した
ためである。
輪廻転生論が、その一例である。
「人は死に、また別の何かに生まれ変わる」という、あれである。
しかし法句経を読むかぎり、釈迦は、あの世とか、前世とか、今で言うスピリチュアルな
世界については、一言も述べていない。

●肉体と精神の分離

 話がどんどんと脱線してしまったが、私たちがそこにある真理に到達するため
には、まず、(肉体)から(意識)を解放させなければならない。
たとえば目の前に、山のようなごちそうが並んでいる。
しかも、いくら食べても、無料。

 そういうときあなたなら、どう判断するだろうか。
もしあなたが肉体、つまり欲望の奴隷なら、「食べなければ損(そん)」と考える。
しかしもしあなたの意識が肉体をコントロールしているなら、こう考えるはず。
「食べたら、体を損(そこ)ねる」と。

 食欲にかぎらない。
肉体が求めるあらゆる欲望も、また同じ。
それに溺れてよいことは何もない。

 たとえば昔、『おしん』というテレビドラマがあった。
当時、一世を風靡(ふうび)した、あるスーパーマーケットの創始者をモデルに
したドラマである。
 あの(おしん)は、当初、生きるために働く。
が、それが成功を収めると、今度は、働くために生きるようになる。
全国に支店を展開し、二代目の社長は、全世界にまで進出する。
サクセス・ストーリーとして、日本ではもてはやされた。
が、そのとたん、つまり、(おしん)が働くために生きるようになったとたん、
人々の心は(おしん)から離れ始めた。

 (おしん)が故郷を離れて行くシーンではみな、涙をこぼした。
が、二代目の社長が多額の借金をかかえて倒産したときに、それに対して涙を
こぼす人はいなかった。
 (おしん)は、あるときから欲望の奴隷になってしまった。
とたん、自ら、真理からはずれてしまった(?)。

●最後に……
 
 「私」と思っている部分について、それをよくよく考えてみると、それが
「私」ではないと気がつくことが多い。
たとえて言うなら、見かけの「私」は、タマネギかニンニクのようなもの。
そのタマネギやニンニクから、欲望をはがしていくと、最後に残るものは、
ほとんどない。
細いヒモのようなものでも残っていれば、まだよいほう。
それが「智」ということになるが、まったく何もなくなってしまう人のほうが、
多い。

 このことは逆に、子どもの発達段階を見ているとよくわかる。
純粋無垢だった子どもでも、世俗にさらされるうちに、どんどんと俗化していく。
俗化されながら、自分が俗化していることに気がつく子どもはいない。
「智」をはぐくむ前に、それを包む欲望だけが、どんどんと肥大化していく。
つまりそういう子どもの延長線上に、私たち、おとながいる。

 肉体と意識の分離。
それが真理到達への第一歩となる。
(私がわかったのは、ここまでだが……。)
そのまた第一歩として、今日からでも、食事のとき、あなたは自分にこう問いかけて
みるとよい。

「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損(そん)なのか」と。
食欲にかぎらない。
肉体の内側から湧き起きてくる欲望に、そのつどブレーキをかける。
たったそれだけのことだが、あなたの人生観は、それで大きく変わるはず。

(以上、未完成の原稿のまま……。後日、書き改めることにする。090624)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 肉体と精神 精神と肉体 浄土三部経 世親 はやし浩司 煩
悩)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【判断】(XX児の問題)

++++++++++++++++++++++

親のためか、それとも子どものためか。
ときとして私は、その板ばさみになって、もがく。
けっして、大げさな言い方ではない。
本当に、もがく。

++++++++++++++++++++++

●1本の電話

 ある日の午後、1本の電話がかかってきた。
受話器を取ると、女性の声で、こう言った。
「うちの子を、何としてもS小学校に入れたいのですが……」と。
そのため、私の教室で、指導してほしい、と。
1999年の春のことである。

 こういうケースのばあい、私は即、こう聞き返すことに
している。
「どなたかの紹介でしょうか?」と。
紹介者がいれば、それなりにていねいに応ずる。

「いえ、紹介ではありません。うわさをお聞きしました」
「はあ、うちは受験塾ではありませんが……」と。

 紹介があれば、その人から私の教室の内容を聞いているはず。
そのため、話もしやすい。
そうでなければ、そうでない。
小学校の受験だけを目的に来る生徒は、その場で断ることにしている。

 で、その母親は、娘(4歳児、年中児)を連れて、見学に来ることになった。

●年中児

 年長児と年中児。
その差はたったの1年だが、この時期の1年は、おとなの10年以上の差がある。
たいへん……というより、消耗するエネルギーの量がちがう。
年長児クラスなら、今でも2クラス、つづけて教えられる。
が、年中児クラスになると、1時間でヘトヘトになる。
猛烈に神経をつかう。

 言い換えると、年長児と年中児の月謝が同じというのは、おかしい。
割が合わない。
年中児のばあい、年長児の2倍の月謝でもよい。
3倍でもよい。
また、それくらいの価値はある。
皮肉なことに、小学生を教えるほうがはるかに楽。
中学生を教えるのは、もっと楽。
高校生ともなると、眠っていても、教えられる。

で、年長児になると、子どもも幼児後期から少年期へと移行する。
ある程度の「核」、つまり(つかみどころ)ができてくる。
が、年中児は、「自立」という意味で、たいへん重要な時期である。
子どもの性格そのものを、いじることができる。
わかりやすく言えば、私が意図した通りの子どもに仕上げることができる。

●参観

 その日まで、その子どものことは忘れていた。
ワイフに言って、案内書は送った。
が、名前も忘れていた。

 が、その日、やや遅れて、その子どもが教室へ入ってきた。
名前を、Gさん(年中児)と言った。
レッスンは、すでに始まっていた。
最初の緊張感が和らぎ、子どもたちがそろそろ私のリズムに乗ろうとした、
そのときだった。
私はワイフを促し、Gさんを、席に着かせようとした。

 が、様子がふつうではなかった。
母親のそばを離れなかった。
表情も硬かった。
その瞬間、私は、Gさんが、場面XX児と判断した。

●場面XX児

場面XX児というのは、よく知られた情緒障害児をいう。
家の中や、家族とは、ふつうの会話ができる。
むしろ騒がしいほど、よくしゃべったりする。
が、ひとたび環境(=場面)が変わると、まるで貝殻を閉ざしたかのように、
口を閉じてしまう。

 こうした症状に合わせて、視線を合わせない、体をこわばらせる、視線をはずす、
などの症状が出てくる。
(視線をこちらに向けたまま、動かさない子どももいる。)
が、最大の症状は、心(情意)と、表情が、遊離すること。
怒っているはずなのに、無表情のままか、ニタニタと意味のわからない笑みを
浮かべたりする。

 私はほかの子どもたちを、思いっきり笑わせてみた。
Gさんもつられて笑えばよし。
笑わないまでも、表情を和らげれば、それでよし。
それを目ろんだ。
子どもたちを笑わせるのは、私の得意芸。
「笑えば、子どもは伸びる」が、私の教育の柱にもなっている。

 で、みながゲラゲラと笑っているときも、Gさんは、無表情のままだった。
さらにみながゲラゲラと笑っているときも、表情は変わらなかった。
じっと私を見つめているようだったが、笑わなかった。
が、笑っていないわけではない。
心は笑っていた。
が、それが表情となって、外に出てこなかった。
それがxx児の特徴でもある。

●診断権

 私はドクターではない。
そのため診断権がない。
だから子どもを診断し、診断名を告げることはできない。
しかしXX児かどうかは、数分も観察すれば、わかる。
その瞬間にわかる。
XX児という言葉さえない時代から、私はXX児を指導してきている。
その数、何10例?
あるいはもっと多いかもしれない。
100~200人と言っても、よい。
ある時期(30代のはじめ)は、そういう子どもたちばかりを教えていたことも
ある。

 XX児という言葉がポピュラーになったのは、そのあとのこと。
が、治す方法がないわけではない。
笑わせる。
大声で笑わせる。
その渦の中に、子どもを巻き込んでしまう。
程度の差こそあるが、軽い場合には、そのまま治ってしまう。
「治す」という言葉は、おおっぴらに使えないが、しかし治ってしまう。

●苦闘

 私はGさんを笑わせようと、苦闘した。
まずほかの子どもたちを笑わせ、その笑いをどんどんと大きくしていく。
そしてその笑いの渦の中に、Gさんを巻き込んでいく。

 ときどき横視現象も見られた。
視線をそらすので、そういうときは、布でできたボールを投げ、キャッチボールをする。
この方法は、集中力の欠ける子どもにも、有効である。
ボールが飛んできたとたん、子どもは、はっと我に返る。

 Gさんにも、2度ほど、ボールを投げてみた。
Gさんは、1度は、無表情のまま、ボールを手で取った。
が、もう1度は、横に座っていた母親が受け取って、私に投げ返した。
ほのぼのとした雰囲気だった。

 が、結局、1時間のレッスンの中で、Gさんは、笑わなかった。
一言もしゃべらなかった。
あとは根気との勝負である。

●幼児教育

 私は実のところ、そういう子どもを教えることのほうが、楽しい。
得意。
何も問題のない子どもを教えるよりは、教えがいがある。
「治った」ということになれば、その喜びも、また大きい。
実際、私はこの方法で、今まで、数えたことはないが、無数の子どもたちを治してきた。
(もちろん親たちの前で、「治す」とか「治した」という言葉を使ったことは、
一度もないが……。)

 私はGさんをながめながら、ムラムラと闘志が湧いてくるのを覚えた。
「治してやろう!」と思った。
「この子を治せるのは、私だけ」と思った。

 だからレッスンが終わったとき、母親にこう聞いた。
「Gさんの問題について、お気づきでしょうか?」と。

 そのとき母親の口から、「XX児」という言葉が出てくれば、話は簡単。
わかりやすい。
私はそれを期待した。
が、母親の答は意外なものだった。

「この子は、家の中ではふつうなのですが、幼稚園などでは、まったくしゃべり
ません。
保育園へ通っていたとき、先生が、たいへん神経質な先生で、こうなってしまい
ました」と。
「神経質な先生で、この子を頭から、抑えつけてしまったようです」とも言った。

 私は、「ハア~」と答えただけで、そのあと何も答えられなくなってしまった。
で、そのあと、母親は、私にこう言った。
「実は、私もS小学校の出身なのです。だから娘には、どうしてもあの小学校へ
入ってもらわねばなりません」と。

●障害児

 障害児といっても、それは子どもの責任ではない。
親の責任でもない。
それぞれの障害児は、ある一定の割合で出現する。
だから障害児を見るときは、子どもだけを見てはいけない。
親を見てもいけない。
私たちみなが、社会全体の一員として、子どもをみる。
けっして、子どもや親を孤立させてはいけない。
みなが力を合わせて、そういう子どもを暖かい愛情で包む。

 が、重度のXX児ともなると、ふつう学級での指導は、実際問題として、難しい。
そこでこの浜松市でも、市内に拠点校というのを作って、そうした学校で集中的に
そういう子どもを集めて指導している。
「排除する」という発想ではない。
できるだけふつう学級で、ふつう児として学ばせ、プラス・アルファの教育を、
別教室でする。

●限界

 が、最近は、私は自分の体力の限界を感ずることが多くなった。
このタイプの子どもの指導には、体力が必要。
一瞬たりとも、息が抜けない。
緊張の連続。
先ほど、ヘトヘトになると書いたが、ヘトヘト以上のヘトヘトになる。
レッスンが終わったとたん、ヘナヘナと椅子に座り込んでしまうこともある。
それくらい、エネルギーを消耗する。

 が、それを支えてくれるのが、家族ということなる。
Gさんのケースでも、母親が、Gさんの障害について自覚し、その上で私に……、
ということであれば、私も喜んで指導を引き受けただろう。
しかしGさんの母親は、まったくの無知。
無理解。
こういうケースのばあい、指導はたいへん難しい。
理由というより、これにまたその一方で、苦い経験が山のようにある。

●「萎縮させてしまった」

 たいてい数か月もすると、親が子どもの手を引いてやめていく。
「この教室は、効果がなかった!」と。
こんなことがあった。

 A君(年長男児)も、そのXX児だった。
で、何とかA君にしゃべらせようとがんばった。
その日もがんばった。
が、順に当てていっても、A君の番になった。
が、A君はしゃべらなかった。
ジリジリとした瞬間が重なった。
私はあれこれ誘導しながら、何とかA君にしゃべらせようとした。
しかしA君は、意味不明の笑みを浮かべ、口を閉ざしたままだった。

 で、ころあいを見計らって、私はこう言った。
「今日は、調子が悪いんだね」と。
そしてそのまま次の席に座っている子どもに、発言させようとしたその瞬間、
母親のほうがキレた。
「うちの子は、どこも悪くありません!」「A!、帰るのよ!」と、大声で怒鳴って、
そのままA君の手をつかむと、部屋から出て行ってしまった。

 さらにこんなこともあった。
B子さん(年長女児)も、そのXX児だった。
が、B子さんは、口数は少なかったが、それなりに教室の中では楽しそうに
レッスンを受けていた。

 が、ある日突然、父親から電話がかかってきた。
こう言って、怒鳴った。
「お前は、子どもを伸ばすと言いながら、うちの娘を萎縮させてしまった。
どうしてくれる。責任を取ってもらう!」と。

 私は気がつかなかったが、その日は、B子さんの父親が参観に来ていた。
自分の娘がしゃべらないのは、私の指導の仕方が原因と、その父親は考えた……らしい。

●「家で相談してきます」

 だから……。大切なのは、親の理解と協力ということになる。
それがないと、XX児の指導はできない。
またそのために、どこかの専門の機関で、一度、診断名をしっかりとつけてもらう
必要がある。
またそれがどういう障害なのか、しっかりと知ってもらう必要がある。

 その上での指導なら、できる。
が、それがないと、できない。
私は迷った。
「引き受けるべきか、どうか」と。
母親は、「何として、S小学校に」と言っている。
しかしGさんの母親が、私の心を、無残にも叩きつぶしてしまった。
レッスンが終わると、私にこう言った。

「家に帰って、この教室に入会するかどうか、話し合ってきます」と。

 こういう場面で、「この教室へ入れていただけますか?」とか、
「引き受けていただけますか?」と聞く親は、まず、いない。
だからといって、親を責めているのではない。
今は、そういう時代である。
どの親も、「入ってやる」という態度で、私の教室へやってくる。
それはそれでしかたのないことかもしれない。
ここにも書いたように、「今は、そういう時代である」。

●販売拒否?

 が、ここでも問題が起きる。
親のほうは、入会するかどうかは、親の意思だけで決まると思っている。
教育を、自動販売機のように考えている人は多い。
「お金を出してやるから、教えろ」と。

 そうかもしれないが、それをあまり露骨に言われると、教えたいと思う
気持ちは半減する。

 さらにこちらから入会を断わったりすると、デパートで販売拒否にでも
あったかのように、最近の親たちは、怒る。
「どうしてうちの子は入れてもらえないのか」
「理由を言ってほしい」と。

 公立の学校にすら、入学試験というのがある。
私立幼稚園にしても、平均して、年間1億円以上の補助金を受けている(S県)。
が、親たちは、私のような者がそれをするのを許してくれない。

 翌日、私はGさんの家に電話を入れた。
そしてていねいに、こう言った。
「実は、またおいでねとは言いましたが、私の体力的な問題もあり、今回は
お引き受けいたしかねますので、ごめんなさい」と。

 本当はその前に、Gさんの母親が、こう言うのを期待していた。
「娘と相談してみましたが、今回は、入会を見合わせます」と。
しかしGさんの母親は、「娘が喜んでいる」「来週から行きます」と言った。
それで私としては、断わるよりほかになかった。

 で、案の定というか、今まで何度もあったように、Gさんの母親はそのまま
激怒。
声を荒げて、こう怒鳴った。
「理由を言ってください!」「理由を言ってもらわなければ、納得できません!」と。

 私はただ「体力的に自信がありませんから……」を、繰り返すしかなかった。

●方法

 今では、各地域に発達相談センターのようなものがある。
自分の子どもで、(ふつうでない面)を見つけたら、そこで相談するとよい。
子どもの世界では、『無知は罪悪』と考えてよい。
小さな殻(から)にこもってはいけない。

 そしてそこで自分の子どものもつ障害を、冷静に見つること。
先ほども書いたように、だからといって、それは子どもの責任ではない。
親の責任でもない。
社会全体の問題である。
社会全体がともに考え、負担すべき問題である。
けっして、子どもを追いつめてはいけない。
親を追いつめてはいけない。

 ただ無知なままだと、不適切な指導が、かえって子どもを悪い方向に
追いやってしまうことがある。
症状をこじらせてしまう。
だから『無知は罪悪』ということになる。

 Gさんの母親は、電話口の向こうで、電話を切る寸前まで、怒っていた。
一方、私は「すみません」「すみません」だけを繰り返した。
とても残念な事件だったが……。

 その後、Gさんがどうなったかは知らない。
が、似たような事件は、そのあとだけでも、数例あった。

(以上、ここに書いたことは、いくつかの話を混ぜて作った、フィクションです。
ある特定に親子について、書いたものではありません。
また最近、あった事件でもありません。
遠い昔あった事件を思い起こしながら、ひとつのストーリーとして
まとめてみました。
どうか誤解のないように!)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
かん黙児 場面かん黙児 緘黙 緘黙児の指導)

++++++++++++++++++++

2年前(07年)の7月にも同じような
原稿を書いていました。
それをそのまま紹介します。
文章が稚拙ですが、そのまま載せます。

++++++++++++++++++++

●無知、無理解、無学

子育てで、何がこわいかと言って、無知(=親にその知識がない)、無理解(=子どもの
症状について、理解しようとしない)、無学(=親に学ぶ姿勢がない)の3つほど、こわ
いものはない。

 私はドクターではないから、診断名をくだすことはできない。しかしその子どもに、ど
んな障害があるかは、会ったその瞬間に、ある程度わかる。が、それを口に出すことはで
きない。わかっていても、知らぬフリをする。そんなときは、そのため、それとなく、親
に、さぐりを入れる。

 が、そういう親にかぎって、無知、無理解、無学。(失礼!)「できるだけ、避けて通り
たい」という親の気持ちも、理解できないわけではない。「たとえその疑いはあっても、信
じたくない」という親の気持ちも、理解できないわけではない。親としても、つらい。悲
しい。それはよくわかる。

たとえば7、8年前になるが、1人の女の子(小2)がいた。Hさんという名前の女の子
だった。場面かん黙児だった。最初、父親に連れられて私の教室にやってきた。が、父
親は、自分の娘のことを、何も気づいていなかった。

 その日は、何とか、やり過ごした。が、つぎのときには、今度は母親に連れられてやっ
てきた。私は、それとなくさぐりを入れた。(さぐり)というのは、親がどの程度まで、自
分の子どもの問題点を理解しているか、それを知ることをいう。が、何を聞いても、即座
に返ってくるのは、反論ばかり。

私「静かなお子さんですね」
母「家では、ふつうにしゃべります」
私「学校では、どうですか?」
母「友だちとなら、会話できます。しかし、おとなが苦手です」
私「学校の教室では、どんな様子ですか?」
母「しゃべりません。とくに先生との相性が悪いようです」

私「幼児期に、どこかへ相談なさったことがありますか」
母「問題は、ありません。生まれつき、外では、静かな子どもです」
私「外で静かだということにお気づきになったのは、いつですか?」
母「言葉の発達が遅れたからです」
私「遅れたというのは……?」
母「今は、問題、ありません」と。

 その女の子には、かん黙児特有の、(遊離)が見られた。顔の表情と、心の状態(情意)
が不一致した状態をいう。いつもニンマリというか、ニコニコというか、意味のわからな
い笑みを浮かべていた。いやがっているはずのときも、怒っているはずのときも、意味の
わからない笑みを浮かべていた。同じかん黙児でも、こうした遊離が見られたら、(程度に
もよるが……)、症状は重いとみる。あるいは、すでに症状がこじれてしまっているとみる。

 もっと早い段階、たとえば3、4歳ごろにそれに気づき、適切な対処をしていれば、あ
る程度、遊離を防げたかもしれない。軽くすますことができたかもしれない。しかしそれ
は(過去)の話。教育の世界では、(今、そこにある現実)を原点に、ものを考える。親の
過去を責めても、意味はない。

 私はさらにさぐりを入れた。入れながら、親の口から、「かん黙」という言葉が出てくる
のを待った。しかし最後まで、その言葉は出てこなかった。ほんとうに無知なのか? そ
れとも隠しているのか? 私には判断できなかった。

 で、このタイプの子どもの指導のむずかしい点は、(1)集団に溶け込まないこと。(2)
心を開かないから、心の交流ができないこと。(3)ストレスを、内へ内へとためやすいた
め、予期せぬ問題が、発生しやすいこと。そのときすでに、その女の子には、家庭内暴力
的な様子が、始まっていた。母親は、こう言った。

 「学校から帰ってくると、私に向かってはげしい暴力を振るうことがあります」と。

 つまり教える側からすると、腫れ物に触れるかのような、細心で、デリケートな指導が
必要となる。何を考えているか、わからない。それがつかめない。そのため教えるといっ
ても、まさに手さぐりの神経戦。ピンと張り詰めたような神経戦。それが一瞬、一秒とい
う単位でつづく。突然、キレて、暴れ出すこともある。若いときなら、神経戦もできるが、
当時すでに私は50歳を超えていた。神経戦は、つらい。

 が、何よりも大きな問題は、そういう問題がありながらも、親自身が、それに気がつい
ていないこと。気がついていれば、話もできる。指導もできる。が、そこにある問題から、
親が目をそらしてしまっているばあい、指導そのものができない。

またこのタイプの親は、やめるのも、早い。少しやってみて効果がないとわかると、(そ
んなに簡単に効果が現れるということはないのだが……)、「この教室はだめだ」という
ような判断をくだして、子どもの手を引っ張って、そのままやめてしまう。

 その女の子のばあいも、私は、こう言った。「簡単には、いきませんよ。1年とか、2年
とか、あるいはもっとかかるかもしれません」と。しかし母親は、こう反論した。「うちの
子は、慣れれば、だれとでも話をします。話をしないのは、慣れていないだけです」と。「と
にかく、教室へ置いてくれれば、それでいい」とも、言った。

 事実、その女の子は、そのあと数か月程度で、私の教室を去っていった。

 かん黙児……。その中でもとくに指導がむずかしいのは、場面かん黙児。親は、「家では
ふつうです」と、がんばる。子ども自身に問題があるとは、思っていない。だから、その
問題点に気づくこともない。

 だから私は、当時、こう書いた。「親の、無知、無理解、無学ほど、こわいものはない」
と。

(付記)

 かん黙児にかぎらず、情緒そのものに障害がある子どもは、けっして、無理をしてはい
けない。「直そう」とか、「治そう」と考えてはいけない。そういう子どもであることを認
めた上で、その子どもに合った指導をするのがよい。(親にそれを認めさせるまでが、たい
へんだが……。)あとは、時期を待つ。子ども自身がもつ自律能力を待つ。

かん黙児にしても、その年齢がくれば、何ごともなかったかのように、終わる。小3~
4年生を境に、症状は急速に改善する。(症状をこじらせれば、その時期は、ぐんと遅れる。
あるいは、別の問題を引き起こす。)

 無知、無理解、無学が原因で、たいていの親は、無理をする。この無理が、こわい。「そ
んなはずはない」「うちの子に限って」と、子どもをはげしく叱ったりする。そのため症状
を、かえってこじらせてしまう。子ども自身が自分で立ちなおるのを、遅らせてしまう。

 そこで学校教育の場では、それとなく親に、学校医もしくは専門医の紹介をしたりする。
「一度、専門医に相談してみてはどうですか?」と。
幼稚園であれば、保健所(センター)などにある、「発達相談センター」を紹介したりする。

 こうした働きかけがあったら、親は、すなおにそれに応ずるのも、大切なことではない
だろうか。


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