2009年7月18日土曜日

*Essays on House Education (july 18th)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(451)

●ワールドカップに思う

 ワールドカップは、いわば世界的な祭(まつり)。その祭には、「熱狂」はつきものだが、しかしその熱狂ぶりは、ふつうの祭とは、かなり違う。つまり「熱狂」そのものが、演出されたものであるということ。そのことは、選手をかいま見ただけで、涙を流して喜ぶサポーターたちの姿を見ればわかる。彼らはアイドルという虚像に涙を流しているにすぎない。

 たとえば今、窓の外に一本の栗の木がある。秋になると色があせ、一枚ずつ、葉を落とす。そのときその葉が落ちることには、だれも関心を払わない。が、この段階で、一枚一枚の葉にそれぞれの国名をつけ、最後まで残った「葉」が勝ちということにしたとする。つまりこの段階でゲーム性が生まれる。

が、これではまだ「熱狂」は生まれない。そこでこうする。最後まで勝ち残った葉(国)には、栄誉を与えるとする。そしてマスメディアを使って、世界中に報道する。この段階で、その道の解説者たちが、もっともらしいコメントを語れば、ゲームはさらにおもしろくなる。「A国の葉は、根元が太いですね。ただ色が少しあせているので、風に弱いでしょう。しかしB国の葉は、面積がやや小さい。風には有利に働くでしょう」とか。

 が、ここでひとつ、重要な要素を忘れてはいけない。ゲームである以上、人間が介在しなければならない。そこで「選手」の登場ということになる。このゲームでは、名前を「栗の葉落とし」とするが、この栗の葉ゲームでは、たとえば栗の木の下から、息を吹きかける選手を考えたらどうか。各国から肺活量の大きい選手にきてもらい、下から息を吹きかける。そして相手の国の葉を、その息で落とす……。

 一枚ずつ葉が落ちるごとに、世界中がまさに一喜一憂する。自分の応援する国の葉が先に落ちれば、ため息と落胆の嘆き。相手の応援する国の葉が先に落ちれば、笑いと歓喜の叫び。こうして「熱狂」は少しずつ、増幅され、やがて最終局面を迎える。最後の二枚だけ、葉が残ったとする。一枚は「X国」と書かれた葉。もう一枚は「Y国」と書かれた葉。下から息を吹きかける選手は、ますます真剣になる。一息吹きかけるごとに、そして葉がゆれるごとに、轟音のようなエールとブー音が入りまざる。

 が、問題は、なぜ実際には、ワールドカップというゲームには世界中が熱狂し、栗の葉ゲームには、世界中が熱狂しないかということ。この違いはどこからくるのか。つまりその「違い」をつくるのが、演出ということになる。ワールドカップは、そういう意味では、巧みな演出によってつくられたゲームということになる。が、問題はこのことではない。

 この時点で、「私」自身が、その演出によって、踊らされるということ。いつの間にか、自分自身もその熱狂の「輪」にハマってしまい、自分が自分でなくなってしまう。ゲームだからよいようなものの、それがもし別のものであったら……。

考えるだけでも、どこかソラ恐ろしい感じがする。感じがするが、ああああ、今日もそのワールドカップが気になってしかたない。六月一四日。今日で予選リーグが終了する。日本、よくやっている!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(452)

●教師は聖職者か?

 知性(大脳新新皮質)と、生命維持(間脳の視床下部ほか)とは、つねに対立する。いざとなったら、どちらが優位にたつのか。また優位なのか。わかりやすい例で言えば、性欲がある。

 この性欲をコントロールすることは、不可能? よく聖職者や出家者は、禁欲生活をするというが、禁欲などできるものではないし、またそれをしたところで、あまり意味はない。知性(大脳新新皮質)の活動が、すばらしくなるということはない。

もともと脳の中でも、機能する部分が違う。(性行動そのものは、ホルモン、つまり男性はアンドロゲンで、女性はエストロゲンとプロゲステロンによって、コントロールされている。)あるいはホルモンをコントロールすれば、性行動そのものもコントロールできることになるが、それは可能なのか。いや、可能かどうかを論ずるよりも、コントロールなどする必要はない。性欲があるから、聖職者や出家者として失格だとか、性欲がないから失格でないと考えるほうが、おかしい。

 私はよく生徒たちに、「先生はスケベか?」と聞かれる。そういうとき私は、「君たちのお父さんと同じだよ。お父さんに聞いてみな」と言うようにしている。同性愛者でないことは事実だが、性欲はたぶんふつうの人程度にはあると思う。

が、大切なことは、ここから先。その性欲を、日常生活の中でうまくコントロールできるかどうかということ。これについては、まさに「知性」がからんでくる。もっと言えば、「性的衝動」と、「行動」の間には、一定の距離がある。この距離こそが、知性ということになる。

 ひとつの例だが、夏場になると、あらわな服装で教室へやってくる女子高校生がいる。(最近は高校生をほとんど教えていないが、以前は教えていた。)そういう女生徒が、これまた無頓着に、胸元を広げて見せたり、あるいは目の前で大きくかがんだりする。そういうとき目のやり場に困る。で、ある日、そのとき私より三〇歳くらい年上の教師にそれを相談すると、その教師はこう言った。「いやあ、そういうのは見ておけばいいのですよ」と。

 一見、クソまじめに見える私ですらそうなのだから、いわんや……。この先は書けないが、ともかくも、私は過去において、性欲は自分なりにコントロールしてきた。だからといって知性があるということにはならないが、しかしこんなことはある。

 私は二〇代のころは、幼稚園という職場で母親恐怖症になってしまった。また職場はもちろんのこと、講演にしても九九%近くは女性ばかりである。そういう環境で三〇年以上も仕事をしてきたため、多分、今の私なら、平気で混浴風呂でも入れると思う。

つまり平常心で、風呂の中で世間話ができると思う。(実際にはしたことがないが……。)とくに相手を、「母親」と意識したとき、その人から「女」が消える。これは自分でも、おもしろい現象だと思う。長い前置きになったが、よく「教師は聖職者か」ということが話題になるが、私はこうした議論そのものが、ナンセンスだと思う。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(453)

●古い世代との対立
 講演をしていると、いろいろな人から抗議を受ける。(たいていは質問という形だが、「私はそうは思わない」「林の意見にはついていけない」というのが多い。そういうのも含めて、ここでは「抗議」と呼んでいる。)
 しかしそのほとんどは、五〇代、六〇代の男性からのもの。私の意見は、世の男性たちには、支持されないようだ。この数か月だけでも、こんな抗議があった。

● 「『母さんの歌』(窪田聡作詞、作曲)の歌はすばらしい歌だ」(私は何も、その歌を否定しているのではない。)

● 「父親は家で、威厳があることこそ重要だ」(威厳というのは、互いの間に尊敬の念があってはじめて生まれる。親の権威を一方的に子どもに押しつけるのはどうか。)

● 「子どもの人生は子どものものとはいうが、実際には、子どもに老後のめんどうをみてもらわねばならない」(親孝行を否定しているのではない。強要してはいけないと言っている。)

● 「妻たちに、ヘンな知恵をつけてほしくない。そうでなくても、妻と両親(祖父母)との関係がむずかしい」(言語道断!)

● 「林は親孝行を否定するが、親孝行は日本人の美徳である」(献身的、犠牲的な孝行を、子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。あくまでも「心」の問題。心を通いあわせることこそ、真の孝行ではないのか。)

● 「夫は仕事で疲れて帰ってくる。その上、家事を分担せよというのは、現実的ではない」(最初から何もしなくてよいという意識と、分担しなければならないが、それができないという意識では、おのずと違いがでてくる。夫は、家事、育児のたいへんさをもっと理解すべきと私は言っている。)

● 「産んでいただきましたと子どもが親に感謝するのは、当然だ」(恩着せがましい子育ては、親子の間にキレツを入れることになるから注意したいと私は言っている。それでもかまわないというのなら、私もかまわない。)

● 「親子のきずなは切れない。親子の縁など、切れない」(しかしそういう日本的な常識(?)の中で苦しんでいる子どもも多い。こうした常識を子どもに押しつけてはいけない。)

● 「母性は本能だ。どんな親でも、子どもを愛しているはず」(もしそうなら、虐待などないはずだが……。)

● 「子どもにもっときびしくし、子どもをきたえるべきだ」(きびしくすれば、それでよいという考えでは、これからの子どもを指導することはできない。)

●「子どもの世界が乱れているのは、甘やかしが原因。親が子どもの友になるなんて、とんでもない」(ひとりの人間として、認めようと、私は言っている。)ほか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(454)

●スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびしい兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりにも短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない。)その欠陥のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。

こうした日本の特異性は、外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンドやオーストラリアでは、子どもたちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を手伝うのが日課になっている。こういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、何かにつけて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その分、子どものできる仕事が減った。

私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言った。「何をさせればいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レンジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれます」と。こういうスキをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう形でドラ息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘になった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたいへんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。

が、乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あなたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子どもにすべき教育ではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(455)

●人生の後悔

 ときどき自分の過去を振りかえり、「しまった!」と思うことがある。このところ、それがふえてきた。

 「後悔」という言葉がある。私にとっての後悔は、K社という放送会社で、犬のようにペコペコとシッポを振って仕事をしていたこと。たいした才能(タレント性)があったわけではないのに、「何かある」という見返りだけをいつも期待しながら、結局は、五年以上、あの会社で働いてしまった。

会社に問題があるというよりは、K社の人たちである。まさに受験競争を勝ち抜いてきただけという人ばかりで、しかも目が上ばかり向いていた。その上、中央意識が強く、権威主義で、どの人もいばっていた。多少の収入は得たが、総合すれば、働いた時間掛けるパートタイムの時間給より、少なかったのでは? 皮肉なことに、儲けたといえば、そのK社の株で儲けたお金のほうが多かったように思う。情報だけは、あれこれ入ったし、私は社員ではなかったから、株を買うことができた。

 時間をムダにした……。今でも、あの時代を思い出すと、そんな思いが、ぐっと胸をしめつける。私にはもっとほかにすべきことがあった。できることがあった。もっともそれはK社の責任ではない。私が愚かだった。無知だった。それに今、こうして後悔するのは、自分自身の残りの人生が、「少なくなった」と思えるほどまでに、押し迫ってきたからだ。いや、それだけではない。

私はときどき、「忙しいですか?」と人に聞かれる。そういうとき私は、「忙しくはないですが、時間がありません」と答える。そこに遠い道があるのを知れば知るほど、その時間がないのを知る。その時間を、あまりにもムダにしすぎた。

 が、本当に私を「しまった!」と思わせるのは、そのことではない。ここに書いたように、「シッポを振ってしまった」ということ。関係の社員には、盆暮れのつけ届けを欠かしたことがない。一方、彼らはまた、弱い立場の私を見越して、さんざん私を利用した。延べにすれば、一〇〇人以上もの社員が、飲み食いをするだけのために、この浜松へやってきた。

もちろんこちらが望んで接待したこともあるが、ほとんどは一方的なものだった。そういう人たちを接待しながら、「犬」のように振る舞った自分を、今、ただただ後悔する。

 考えてみれば、彼らとて、K社という看板を背負っただけの、ただの「人」。私はそれにもっと早く気づくべきだった。戦後の高度成長期に、私たち日本人は、「大企業」についてある種の幻想をいだいた。その社員にも、同じような幻想をいだいた。つまり考えてみれば何のことはない。私自身も、その幻想にとりつかれていた。いや、大企業はともかくも、そこで働く社員たちが、それだけ高次元な人たちかということになれば、そういうことはまったくない。あるはずもない。

 この文を最後に、私はK社のOBの人も含めて、K社の人たちすべてと、絶縁する。二度とあのK社の玄関をくぐることはない。さようなら!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(456)

●薬物の使用は個人の自由?

 文部科学省の調査によれば、覚せい剤などの薬物使用について、「他人に迷惑をかけていないので、個人の自由」とする割合は、つぎのようであったという(平成一二年、小学校の高学年、中高校生生、計七三〇〇〇人について、一一月調査)。

 高校一年生……一〇・七%
 高校二年生……一一・五%
 高校三年生……一三・〇%、と。

 学年があがるごとに、割合が高くなるが、同様の傾向は、高校生女子のほか、小中学生でもみられる。つまり、学年があがるにつれて、「心のタガ」がよりはずれるということ? 同じ調査によれば、「薬物を使ったり、もったりすることを『悪いことだ』と答えた高校生はつぎのようであった。

 高校一年生……五九・九%
 高校二年生……五七・二%
 高校三年生……五五・六%、と。

 反対に、学年があがるごとに、割合が低くなっている。

 よく「日本はアメリカとくらべて、薬物を使用する子どもが少ない。自由主義のアメリカのほうが、かえって善悪の判断のできない子どもにする」と言われる。しかしこの日本で、たまたま薬物の使用が少ないのは、子どもたちの善悪の判断によるものというよりは、取り締まりのきびしさによるところが大きい。もし仮に、アメリカ並に、薬物が一般社会に蔓延(まんえん)するようになったら、日本の若者たちは、はるかに急速に薬物に浸透していくと思われる。ひとつの例として、援助交際と呼ばれる「売春」がある。

 問題は、学年が高くなるにつれて、なぜこうした「善悪」の判断にうとくなり、また自分にブレーキをかけることができなくなるか、である。神戸大学のK教授は、「さまざまな悩みをかかえる高校生が、薬物使用に共感できる部分があるいからだろう」(日本教育新聞))とコメントを寄せているが、私はもっと問題の「根」は深いと思う。これについては、また別の機会に考えてみることにする。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(457)

●善玉依存心、悪玉依存心

 人間は、何かに依存しなければ生きていかれない、か弱き存在なのか。もちろんその程度は、人さまざま。何かにどっぷりと依存しながら生きている人もいれば、そうでない人もいる。しかし本当の問題は、何に依存するか、だ。

 その依存心には、善玉依存心と悪玉依存心がある。悪玉のほうが話しやすいので、悪玉依存心について先に書く。

モノ、金、地位、名誉、財産など、自分を離れたものに依存するのを、悪玉依存心という。家柄、宗教に依存するもの、これに含めてよい。このタイプの依存は、その対象物がゆらいだとき、自分自身もゆらぐという心配がある。これは極端な例だが、熱心な信仰者が、その信仰に疑問をもったとき、精神的な混乱(狂乱)状態になることはよく知られている。

 しかし自分自身に依存するのには、そういう心配はない。そういう意味で、自分自身に依存することを、善玉依存心という。こんなことがある。

 私はときどき講演している最中に、多くの聴衆を前にして、ふとこんなことを思う。「どうして私がこんなところに立っているのだろう」と。私には私を背後から支える、名誉も地位も肩書きもない。何もない。そういう私が、なぜ立っているか、と。

そういうときかろうじて私を支えているのは、「私ほど、子育ての現場を踏んだ人間はいない」という思いと、「私は今朝も朝、五時から原稿を書いたではないか。そんなことをしている人間がほかにいない」というなぐさめである。そのつど、心のどこかで自分を励ましながら、自分を立てなおす。

自分に依存するというのは、だれにも「私の中から私を奪えない」ということ。そういう意味では、強い。悪玉依存心と違って、なくすことを心配する必要はない。裏切られることもない。だから……と書くと、手前味噌のようになってしまうが、同じ依存心をもつなら、善玉依存心のほうがよいに決まっている。

 で、問題は、夫(あるいは妻)や、子どもに依存するのはどうかという問題。私たちは依存したくなくても、いつの間にか依存することになるかもしれないが、原則としては依存しないほうがよいのでは……? 家族については、どうなのかという問題については、まだ私にもよくわからないので、また別の機会に考えることにする。
 




ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(458)

●短絡的な子育て法

大阪にある、とあるリトルリーグでの光景。子どもたちが広いグランドで、野球をしている。掛け声だけは一人前? 独特のホーホーという声を空になびかせて、練習に励んでいる。しかし……。

 監督やコーチへの接待、食事の用意はもちろんのこと、準備もあと始末も、すべて同行している母親たちの役目。子どもたちがグランドへ入るころには、ベースも並べられ、ボールも用意されている。試合が終われば終わったで、それを片づけるのも、母親たちの役目。そういう姿を見て、大阪市で幼稚園を経営しているS氏は、こう言った。「何かがおかしいですね」「高校の野球部で監督をしている友人がね、『リトルリーグで育った部員は、扱いにくい』と言ってましたよ」と話してくれた。

S氏によれば、そういう「甘い環境」で育った子どもは、野球はうまいかもしれないが、「何もできない」のだそうだ。

 「もっと子どもにきびしくせよ」という意見が、今、あちこちからわきあがっている。武士道や、スパルタ方式の教育法を説く人もいる。わがままで自分勝手な子どもがふえてきたことが、その理由である。しかし頭からこういうことを、子どもに押しつけても、意味はない。もっとはっきり言えば、あまりにも短絡的。

 子どもがわがままで、自分勝手になったのには、もっと別の理由や原因がある。そういう理由や原因を考えないで、現象面だけをみて、いきなり「きびしくせよ」というのは、どうか? たとえばこの日本では、「あと片づけ」にはうるさいが、「あと始末」には、甘い。

たとえば子どもが食事をしたあと、その食器を洗わせる、フキンでふかせる、食器棚にしまわせる親は少ない。風呂から出るときも、タオルを洗わせる、アワを流させる、タブにフタをさせる親は少ない。起きたときも、ベッドをなおさせる、パジャマをたたませる親は少ない。こうした家庭教育は、日本以外の世界では常識なのだが、この日本ではしない。とくに男性や子どもが、ひどい。

今でも「男は仕事だけしていればいい」とか、「子どもは勉強だけをしていればいい」と考えている人は、母親も含めて多い。これだけが理由ではないが、こうしたスキをついて、子どもは、ドラ息子化、ドラ娘化する。

 短絡的なものの考え方は、一見、威勢がよく、わかりやすい。が、えてしてものの本質を見誤らせる。中には、大声で怒鳴り散らし、親や子どもを罵倒しながら、子どもの不登校をなおす人もいるそうだ。しかしその陰で、どれほど子どもは心をゆがめることか。一五年ほど前にも、Tヨットスクールというのがあった。海に中へ子どもを突き落として、子どもの心を「なおす」(?)というスクールだった。そのため何人かの死者も出たのだが、ときどきこういう「とんでもない教育法」(?)が、世に現れては消える。

 みなさんも、どうか、こうした教育法には、くれぐれも注意してほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(459)

●バーチャルリアリィティの世界(ショートストーリィ)

 講演会場へ入ったら、たまたまどこかの劇団がリハーサルをしていた。予定の時刻まで、まだ時間があった。私はそのリハーサルを、うしろのほうの席で見ることにした。神様をテーマにした、風刺劇のようだった。中央に身をかがめた神様らしき人を、多くの若者が取り囲んで、何やら大声で叫びあっていた。

 ふと人の気配を感じてうしろを見ると、一人の同年齢の男がそこにすわっていた。瞬間、目と目があった。少し座席の位置が高かったこともある。私を見おろすようにして、「あなたは?」とその男は私に聞いた。私も劇団の関係者だと思ったらしい。そこで私が、「いえ、夕方ここで講演することになっているものです」と言うと、その男は返事もしないで、そのまま黙ってしまった。

 舞台では、ひっきりなしに会話が飛び交っていた。いわゆる「劇団演技」といわれるもので、どこかわざとらしく、どこか不自然な演技だった。一人の男がこう叫んだ。「神は幻想だ」「神こそ、我々の発明品だ」と。

 どれくらい時間が流れただろうか。三時からは、私たちがその会場を使うことになっている。時計を見ると、その三時になるところだった。また人の気配を感じてうしろを見ると、先ほどの男が席を立つところだった。また視線があったので、軽く会釈すると、再びその男が私に話しかけてきた。

 「あなたは神か?」と。この質問には驚いたが、私は「あなたがそう思うのなら、それに近い」と言ってしまった。言うべき言葉ではなかった。するとその男は、またあの笑みを浮かべて、こう言った。

 「あんたのような頭のおかしい人間がいるから、世の中がおかしくなる。だいたい神などというものは、存在しない。この見えるもの、感ずるもの、聞こえるものが、すべて。それを現実という。あなたのような神ぶったインテリこそ、人間の敵だ」

 能弁な男だった。私が「それがこの劇のテーマですか」と聞くと、「そうだ」と。そして席を立ちながら、こう言った。まさに神すらも恐れない、ふてぶてしい言い方だった。「あんたは本物のバカだよ。ここで講演の講師をするらしいが、あんたのようなバカがする講演に、どれだけの意味があるというのか」と。そこで私が、「あなたの見ている世界が、すべて幻想だったら、あなたはどうしますか」と聞くと、「バカな……ありえない」と。

 そこで私はぐっと息を吸い込んだ。ときどき、夢を見ながら、それが夢だと気づくときがある。そのときがそうだった。そして目をゆっくりと開いた。白い光が視界全体に広がった。先ほどの男の動きが止まったと思うと同時に、その顔が光に包まれた。私はさらに大きく目を開いた。朝だった。時計の時刻は七時半を示していた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(460)

●見えない過去

 あなたの、ごく日常的な生活を、できれば他人の目で観察してみてほしい。「私は私」と決めてかかる前に、謙虚な気持ちで、観察してみてほしい。そのとき、あなたはそれでも、「私は私」と言いきることができるだろうか。

 私たちは無数の過去をもっている。もっているだけならまだしも、その過去に引きずりまわされている。つまり日常的な生活というのは、あくまでもその結果でしかない。たとえば……。

 NHKに『ひるどき、日本』という番組があった。司会者とタレントが、地方を訪れ、その地方の名物や名物料理を楽しむという番組であった。私はあの番組が、どうしても好きになれなかった。しばらく見ていると、やがて不愉快になった。が、長い間、その理由がわからなかった。が、ある日、その理由に気づいた。

 私は若いころ、あるテレビ放送局で下請けの仕事を手伝ったことがある。そのときのこと。私は「いつか、大きな仕事をさせてもらえるのではないか」「テレビの表舞台に立たせてもらえるのではないか」という期待をもっていた。そのため、犬のようにシッポを振った。いや、まさに犬そのものだった。

 一方、テレビ局の人たちは、そういう私の「下心」を見抜いていた。そして何だかんだと理由をつけては、この浜松へやってきた。いわゆる「たかり」である。私は内心ではそれと知りつつも、飲み食いの接待はもちろんのこと、さらには宿泊のめんどうまでみた。短い期間だったが、延べにすれば、一〇〇人以上もの人を接待しただろうか。が、結局は利用されただけ。

 あの『昼どき、日本』を見ているとき、私は無意識のうちにも、あの当時の「東京人」のずうずうしさを思い出していたのかもしれない。慣れた口調で、ぺラぺラと調子のよいことを言って、地方の人間をおだてる。「おしいですね」「こんなところに住んでみたいですね」「空気は新鮮で、うらやましい」と。地方の人間は地方の人間で、その言葉に乗せられるまま、相手がNHKの人間というだけで、手厚くもてなす。……それはまさに、自分自身の姿でもあった。

 これはほんの一例だが、私たちはそのつど、過去のわだかまりにこだわりながら生きている。ひょっとしたら、「私」という部分のほうが少ないのかもしれない。趣味や好みはもちろんのこと、不安になったり、悩んだり、苦しんだりすることも、すべて、どこかで過去のこだわりにつながっている。そこでもあなたが、心のどこかに「自分でない私」を見つけたら、それが自分の過去とどこかで結びついていないかをさぐってみるとよい。何か、あるはずである。私はそれを「見えない過去」と呼んでいる。その過去に気づくことは、自分を知る、第一歩でもある。それはある意味で、こわいことかもしれないが、勇気を出して、自分を見つめてみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(461)

●子を思う、親心

 遠くに離れて暮らす息子や娘に、(1)「帰ってきてくれ」とそのつど懇願する親もいれば、(2)「親や家のことは心配しなくてもいいから、帰ってくるな」と言い放つ親もいる。あなたというより、あなたの親は、どちらのタイプだろうか。

 少し乱暴な結論かもしれないが、それを先に言えば、子離れできず、依存心の強い親は、(1)のタイプということになる。旧来型の日本人は、たいていこのタイプとみてよい。一方、独立心が旺盛で、前向きに生きている親は、(2)のタイプということになる。

【依存型の親】自分でもだれかに依存したいという、潜在的な願望が、無意識にも、子どもの依存性を容認するようになる。このタイプの親は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。そしてそのつど、これまた無意識のうちにも、子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」と、恩を着せる。(子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と言うようになり、さらに「親のめんどうをみるのは子の役目」などと公言したりする。自分自身が、マザコンになっているケースも多い。)

【非依存型の親】子育てをしながらも、じょうずに子離れをする。「私の人生は私のもの」という考え方が強く、その一方で、子どもには、「あなたの人生はあなたのもの」という考え方をする。外国で活躍している息子に対して、「私が死ぬまで、日本に帰ってくるな」と言いつけた親もいた。このタイプの親は、自分の子どもが自分のために犠牲的になるのを、望まない。そういう犠牲的な姿をみると、かえってそれをつらく思ったりする。

 あなたや、あなたの親がどちらのタイプであるにせよ、これは意識の中でも、脳のCPU(中央演算部)にかかわる問題。だからたがいに、たがいが理解できない。(1)のタイプの親からみれば、遠くで生活する子どもを、「親不孝な子ども」ととらえる。一方、(2)のタイプの親からみれば、(1)の親の心が理解できない。どちらも「親心」が基本にはなっているとはいうものの、依存性があるかないかで、子どもへの対処のし方が、一八〇度違う。

 さてさて、あなたというより、あなたの親は、どちらのタイプだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(462)

●自然教育について

 「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」という意見を聞くたびに、私は「日本人は、どうしてこうまでオメデタイのだろう」「どうしてこうまで井の中の蛙(かわず)で、世間(=世界)知らずなのだろう」と思ってしまう。

 外国を歩いてみると、彼らの自然観は、日本人と一八〇度違うのがわかる。日本以外のほとんどの国では、自然は人間に害を与える、戦うべき相手なのだ。ブラジルでもそうだ。彼らはあのジャングルを「愛すべき自然」とはとらえていない。

彼らにすれば、自然は、「脅威」であり、「敵」なのだ。このことはアラブの砂漠の国へ行くと、もっとはっきりする。そういう国で、「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」などと言おうものなら、「お前、アホか?」と笑われる。

 日本という国の中では、自然はいつも恵みを与えてくれる存在でしかない。そういう意味で、たしかに恵まれた国だと言ってもよい。しかしそういう価値観を、世界の人に押しつけてはいけない。そこで発想を変える。

 オーストラリアの学校には、「環境保護」という科目がある。もう少しグローバルな視点から、地球の環境を考えようという科目である。そして一方、「キャンピング」という科目もある。私がある中学校(メルボルン市ウェズリー中学校)に、「その科目は必須(コンパルサリー)科目ですか」と電話で問いあわせると、「そうです」という返事がかえってきた。このキャンピングという科目を通して、オーストラリアの子どもは、原野の中で生き抜く術(すべ)を学ぶ。ここでも、「自然は戦うべき相手」という発想が、その原点にある。

 もちろんだからといって、私は「自然を大切にしなくてもいい」と言っているのではない。しかしこういうことは言える。だいたい「自然保護」を声高に言う人というのは、都会の人だということ。自分たちでさんざん自然を破壊しておいて、他人に向かっては、「大切にしましょう」と。

破壊しないまでも、破壊した状態の中で、便利な生活(?)をさんざん楽しんでいる。こういう身勝手さは、田舎に住んで、田舎人の視点から見るとわかる。ときどき郊外で、家庭菜園をしたり、植樹のまねごとをする程度で、「自然を守っています」などとは言ってほしくない。そういう言い方は、本当に、田舎の人を怒らせる。

そうそう本当に自然を大切にしたいのなら、多少の洪水があったくらいで、川の護岸工事などしないことだ。自然を守るということは、自然をあるがまま受け入れること。それをしないで、「何が、自然を守る」だ!

 自然を大切にするということは、人間自身も、自然の一部であることを認識することだ。このことについては、書くと長くなるので、ここまでにしておくが、自然を守るということは、もっと別の視点から考えるべきことなのである。






ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(463)

●自然教育について(2)

 世界の中でも、たまたま日本が、緑豊かな国なのは、日本人がそれだけ自然を愛しているからではない。日本人がそれを守ったからでもない。浜松市の駅前に、Aタワーと呼ばれる高層ビルがある。ためしにあのビルに、のぼってみるとよい。四〇数階の展望台から見ると、眼下に浜松市が一望できる。

が、皮肉なことに、そこから見る浜松市は、まるでゴミの山。あそこから浜松市を見て、浜松市が美しい町だと思う人は、まずいない。

 このことは、東京、大阪、名古屋についても言える。ほうっておいても緑だけは育つという国であるために、かろうじて緑があるだけ。「緑の破壊力」ということだけを考えるなら、日本人がもつ破壊力は、恐らく世界一ではないのか。今では山の中の山道ですら、コンクリートで舗装し、ブロックで、カベを塗り固めている。そういう現実を一方で放置しておいて、「何が、自然教育だ」ということになる。

 私たちの自然教育が自然教育であるためには、一方で、日本がかかえる構造的な問題、さらには日本人の思考回路そのものと戦わねばならない。構造的な問題というのは、市の土木予算が、二〇~三〇%(浜松市の土木建設費)もあるということ。日本人の思考回路というのは、コンクリートで塗り固めることが、「発展」と思い込んでいる誤解をいう。

たとえばアメリカのミズリー川は、何年かに一度は、大洪水を起こして周辺の家屋を押し流している。二〇〇〇年※の夏にも大洪水を起こした。しかし当の住人たちは、護岸工事に反対している。理由の第一は、「自然の景観を破壊する」である。そして行政当局も、護岸工事にお金をかけるよりも、そのつど被害を受けた家に補償したほうが安いと計算して、工事をしないでいる。今、日本人に求められているのは、そういう発想である。

 もし自然教育を望むなら、あなたも明日から、車に乗ることをやめ、自転車に乗ることだ。クーラーをとめ、扇風機で体を冷やすことだ。そして土日は、山の中をゴミを拾って歩くことだ。少なくとも「教育」で、子どもだけを作り変えようという発想は、あまりにもおとなたちの身勝手というもの。そういう発想では、もう子どもたちを指導することはできない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(464)

●自然教育について(3)

 五月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの季節。そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。

 浜松市内と引佐町T村での二重生活をするようになって、もう六年になる。週日は市内で仕事をして、週末はT村ですごす。距離にして車で四〇分足らずのところだが、この二つの生活はまるで違う。市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は不便であることが、当たり前。大雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナリが落ちるたびに停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路舗装も浄化槽の清掃も、自分でする。

こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかもしれない。しかし実際には、T村での生活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きている」という実感がともなう。庭に出したベンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶホトトギスを見ていると、生きている喜びさえ覚える。

 で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。いや、都会生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、頭が痛くなる。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。いろいろあるが、ともかくも肌に合わない。田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。

女房は「あなたも歳よ…」というが、どうもそれだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にもどりつつあるように思う。私は子どものころ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚をとった。そういう自分に、だ。

 で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間にある合宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を嫌う子どもすら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を養わねばならない。数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんびりと暮らす。好き勝手なことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んではじめて、原点となる。

 ……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るのも惜しくなる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(465)

●ゆがんだ自然観

 もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよう」と。この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。

小さな虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかった。が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには一七四〇年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼玉県では、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。

もっと言えば、人間も自然の一部でしかないという事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしましょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(466)

●日本の常識、世界の非常識

● 「子はかすがい」論……たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。

● 「親のうしろ姿」論……生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。

● 「親の威厳」論……「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。

● 「育自」論……よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育てにかこつける必要はない。

● 「親孝行」論……安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。あくまでも「尊敬する」「尊敬される」という関係をめざす。

● 「産んでいただきました」論……よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わさせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(467)

●日本の常識、世界の非常識(2)

● 「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ一九歳の舞妓を、「仕事のこやし」と称して、手玉にして遊ぶこともできる。

● 「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

● 「森進一のおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。

●「かあさんの歌」論……窪田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくるよ」だ。

● 「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二三%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」という考えに反対した人が、二三・三%もいることがわかった。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(468)

●「♪おくふろさん」論

 森進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日本人独特の子育て法と言ってもよい。

あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子どもに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろんのこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻ってきたりする。あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできない。できないというより、じっと待っているだけ。

多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭では、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだが、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾けたあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させること」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなたの子どもはどうだろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、それである。

たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア~(だから何とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア~(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依存心が強くなると、こういう言い方をする。私「この問題をやりなおしなさい」子「ケシで消してからするのですか」私「そうだ」子「きれいに消すのですか」私「そうだ」子「全部消すのですか」私「自分で考えなさい」子「どこを消すのですか」と。実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さて森進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(469)

●夫婦の別称制度

 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世論調査結果を発表した(二〇〇一年)。

それによると、同制度導入のための法律改正に賛成するという回答は四二・一%で、反対した人(二九・九%)を上回った。前回調査(九六年)では反対派が多数だったが、賛成派が逆転。さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用する法改正について容認する人も含めれば、肯定派は計六五・一%(前回五五・〇%)にあがったというのだ。

調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が六八・一%と男性(六一・八%)より多く、世代別では、三〇代女性の八六・六%が最高。別姓問題に直面する可能性が高い二〇代、三〇代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。「姓が違うと家族の一体感に影響が出るか」の質問では、過半数の五二・〇%が「影響がない」と答え、「一体感が弱まる」(四一・六%)との差は前回調査より広がった。

ただ、夫婦別姓が子供に与える影響については、「好ましくない影響がある」が六六・〇%で、「影響はない」の二六・八%を大きく上回った。調査は二〇〇一年五月、全国の二〇歳以上の五〇〇〇人を対象に実施され、回収率は六九・四%だった。なお夫婦別姓制度導入のための法改正に賛成する人に対し、実現したばあいに結婚前の姓を名乗ることを希望するかどうか尋ねたところ、希望者は一八・二%にとどまったという。

わかりやすく言えば、若い人ほど夫婦別姓に賛成だということだが、夫婦別姓が問題になること自体、私たちの世代では考えられないことであった。「結婚した女性は、その家に入るもの」という考え方が、常識でもあった。言いかえると、今、私たちが経験しつつある変化は、まさに革命的とも言えるものである。それこそ一〇〇〇年単位でつづいた日本の常識が、ここでひっくり返ろうとしている。そうした目で、この問題を考える必要がある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(470)

●マザコン型人間

 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛である。このうち本能的な愛と代償的愛に溺れた状態を、溺愛という。そしてその溺愛がつづくと、いわゆる溺愛児と呼ばれる子どもが生まれる。

 その溺愛児は、たいていつぎのような経過をたどる。ひとつはそのまま溺愛児のままおとなになるタイプ。もうひとつは、その途中で、急変するタイプ。ふつうの急変ではない。たいていはげしい家庭内暴力をともなう。

 で、そのまま進むと、いわゆるマザーコンプレックス(マザコン)タイプのおとなになる。おとなになっても、何かにつけて、「ママ、ママ」とか、「お母さん、お母さん」と言うようになる。このマザコンタイプの人の特徴は、(1)マザコン的であることを、理想の息子と思い込むこと。(圧倒的に母と息子の関係が多いので、ここでは母と息子の関係で考える。)それはちょうど溺愛ママが、溺愛を、「親の深い愛」と誤解するのに似ている。そして献身的かつ犠牲的に、母親に尽くすことを美徳とし、それを他人に誇る。これも溺愛ママが、自分の溺愛ぶりを他人に誇示するのに似ている。

 つぎに(2)自分のマザコンぶりを正当化するため、このタイプの男性は、親を徹底的に美化しようとする。「そういうすばらしい親だから、自分が親に尽くすのは、正しいことだ」と。そういう前提を自分の中につくる。そのために、親のささいな言動をとらえて、それをおおげさに評価することが多い。これを「誇大視化」という。「巨大視化」という言葉を使う人もいる。「私の母は、○○のとき、こう言って、私を導いてくれました」とかなど。カルト教団の信者たちが、よく自分たちの指導者を誇大視することがあるが、それに似ている。「親孝行こそ最大の美徳」と説く人は、たいていこのタイプの男性とみてよい。G氏(五四歳男性)もそうだ。

何かにつけて、一〇年ほど前に死んだ自分の母親を自慢する。だれかが批判めいたことを言おうものなら、猛烈にそれに反発する。あるいは自分を悪者にしたてても、死んだ母親をかばおうとする。

 マザコンタイプの人は、自分では結構ハッピーなのだろうが、問題は、そのため、たいていは夫婦関係がおかしくなる。妻が、夫のマザコンぶりに耐えられないというケースが多い。しかし悲劇はそれで終わらない。マザコンタイプの夫は、自分でそれに気づくことは、まずない。「親をとるか、妻をとるか」と迫られたりすると、「親をとる」とか、「当然、親」と答えたりする。

反対に妻に、「親のめんどうをしっかりみてくれなければ、離婚する」などと言うこともある。そもそも結婚するとき、婚約者に「(私と結婚するなら)親のめんどうをみること」というような条件を出すことが多い。親は親で、そういう息子を、できのよい息子と喜ぶ。あとはこの繰り返し。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(471)

●マザコン・テスト

 つぎの一二の質問項目のうち、六つ以上、当てはまれば、かなりのマザコン人間とみてよい。(権威主義的なものの考え方が混在しているタイプのマザコン人間)

( )いつも生活の中心に親がいる。親がいないと何も始まらないという感じ。重要なことは、何でも親に相談したり、報告したりする。
( )「親は絶対」という意識が強く、親に反抗したり、親を粗末にするということは、考えられない。献身的かつ犠牲的な親孝行をするのが、子どもの務めと考えている。
( )「親を選ぶか、妻を選ぶか」という択一に迫られたようなとき、「親!」と当然のように考える。そういう意味では、妻は、親の前では家政婦のような存在でしかない。
( )親の悪口を言ったりする人を許さない。あるいは徹底的に反論し、それを「息子のカガミ」と、かえって他人に誇示することが多い。
( )常日ごろから、「産んでいただきました」「育てていただきました」と、親に感謝することを美徳とする。また自分の息子や娘にも、同じように思うように求める。
( )親を喜ばすことを、最大の目標とし、一方親は親で、そういう息子を、「親孝行で、できのいい息子」と評価することが多い。
( )家庭や家族の中での上下意識が強く、自分の親には服従的である一方、自分の子どもが反抗したりすると、「親に向かって何だ!」というような言い方をする。
( )妻や家族といるよりも親といるほうが、なごやかな雰囲気になり、安心しているような様子や表情を見せる。
( )自分の妻よりも、母親のほうに、より広く心を開くことができる。悲しいことやつらいことがあると、妻に相談するよりも先に、母親に相談することが多い。
( )森進一の「おふくろさん」を聞いたりすると、涙を流さんばかりに感動したり、それを「すばらしい歌」と評価する。
( )親の間では、まさに「子ども」といった感じになる。親は親で、まるで子ども扱いをし、またそう扱われることを当然と納得している。
( )親を必要以上に美化することが多い。親のささいな部分をとらえて、親のすばらしさ、あるいは自分の親のすばらしさを強調する。

 こうしたマザコン人間に、それを指摘すると、猛烈に反発するので、注意すること。マザコンであること自体が、その人の人生観の基本になっていることが多い。したがって妻の立場でいうなら、仮に夫がマザコン人間であるなら、それを受け入れるしかない。この問題は対処のし方をまちがえると、たいへんな家庭騒動に発展する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(472)

●いかに子離れするか

 いかに子どもを育てるかという問題と、いかに子離れするかという問題は、本来、同等のもの。しかしこの日本では、後者(子離れ)は、なおざりにされ、むしろ、親は子離れなどすべきではないという考え方が支配的である。「親子の縁は切れるものいではない」という言い方をする人もいる。そしてその返す刀で、子どもが親離れすることを、「悪」と決めてかかる。あるいはそれを許さない。

 こうした風習は、地方の山村地域ほど顕著で、私が生まれ育った岐阜県の地方では、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。そして独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、鬼ッ子として忌(い)み嫌う。こうした傾向は、旧来型の日本の社会ではふつうに見られることで、多かれ少なかれ、ほとんどの日本人に残っている。そしてそれが全体として、日本独特の親子関係をつくる。

 たとえば日本人は子どもを育てるとき、子どもによい思いをさせることが、親子のきずなを太くする方法のひとつと考える。またそうすることで、子どもは親に感謝しているはずと考える。たがいの依存心を何よりも大切にする。(甘え、甘えられる)関係といってもよい。それがあるべき親子の理想の姿と考えている人も多い。

 一般論として、子どもが依存心をもつことに無トンチャンクな親というのは、自分自身も潜在的に、だれかに依存したいという潜在的な願望をもっている。つまりその潜在的な願望が、子どもの依存心に甘くなるというわけである。そしてそれがさらに全体として、日本型の子育て法として、親から子へと、代々と受けつがれていく……。

 が、ここにきて、その「流れ」に大きな変化がみられるようになった。若い世代を中心に、欧米型の個人主義が台頭し、旧来型の親子関係を否定する動きである。尾崎豊の言葉を借りるなら、「しくまれた自由からの卒業」(「卒業」)ということになる。が、それは同時に、そのまま家庭教育に混乱となってはねかえってきた。

結果として「家庭の教育力は低下した」(S県教育委員会)が、しかし実際には、家庭の教育力は低下していない。むしろ教育力は高くなっている。親子のふれあいの時間は、四〇年前、三〇年前とくらべても、飛躍的にふえている。問題は、教育力の低下ではなく、新しい価値観になじめない親たち、新しい価値観を認めない親たちにある。さらにもっと言えば、古い価値観を否定はしたものの、それにかわる価値観を作りだすことができない親たちにある。

 話がそれたが、子どもを育てるということは、いかに子離れしていくかという、その一言に尽きる。いつもこの二つの問題は、常に同時進行の形で、処理されるべき問題なのである。日本人は子離れ、親離れの問題を、あまりにも軽んじてきた。論ずる人も、(私をのぞいて)いない。しかしそれでは、今の日本をおおう、もろもろの問題は解決しない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(473)

●代償的不満

 ある女性がこう言った。「私の夫は、あと片づけをほとんどしません。親から、そういう教育を受けていないからです」と。こういうのを代償的不満という。本来の不満を覆い隠しながら、別の不満にすりかえる不満と考えればよい。で、どこが代償的不満?

 このケースのばあい、(夫があと片づけをしない)という不満が、本来の不満。しかしこの女性は、それを(親からそういう教育を受けていない)という形にすりかえている。が、実のところ、これも代償的不満。

 このケースのばあい、(夫そのものへの不満)、さらには、恐らく(夫の両親への不満)も、その背景にある。つまりそうい不満が、姿を変えて、(教育を受けていない)(あと片づけしない)という不満へとなっていった。

 こうした代償的不満は、子育ての世界では、ごくふつう見られる。よくあるケースが、学校の先生に対する親の不満。「私の子どもの先生は、宿題の出し方が不規則で、気分的で困ります」など。こういうケースでは、その背景に、(自分の子どもをていねいにみてくれないという不満)、さらには、恐らく(自分の子どもの学力が思うように伸びないという不満)も、ある。こうした不満が、姿を変えて、先生への批判へとなっていく。

 また子どももそうだ。たとえば子どもは、塾などへ行きたくなくなると、「行きたくない」とは言わない。そういうときは、塾の先生の悪口を言い始める。「まじめに教えてくれない」「えこひいきをする」「さぼって雑誌を読んでいた」など。つまりそういうことを親に言いながら、親をして、「そんならやめなさい」と言うようにしむける。A君(小五)は、学校の先生に、「今度宿題をやってこなかったら、親に電話する」と脅されたのがきっかけで、その日から毎日、学校の先生の悪口を言うようになった。いわば先手を打ったということになるが、こうしたケースは日常茶飯事。 

 子どもの意見に耳を傾けるのは、大切なことだが、しかし本来の原因(問題)がどこにあるかを判断することも忘れてはいけない。そのひとつのヒントが、ここでいう代償的不満。この言葉を知っているだけでも、子どもの心がよりはっきりと読めるようになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(474)

●臨機応変に行動する

 私の印象に残っている事件に、こういうのがあった。

 ある日、自分の教室へ入ると、A組のA先生のチョーク箱が、起き忘れてあった。そこで園庭で遊んでいた、ひとりの女の子(年長児)をつかまえて、そのチョーク箱を、A組のA先生のところへもっていってくれるように頼んだ。その女の子は、「ハーイ」と元気な声でそれに応じてくれたが、心配だったのでその女の子を見ていると、その女の子は、またチョーク箱をもってかえってきてしまった。

 そこで私が、「どうしてチョーク箱をもって帰ってきたの?」と聞くと、その女の子はこう言った。「だって、A組に先生がいなかったもん」と。当時、園舎はコの字型の廊下になっていて、その女の子が走っていく様子がよくわかった。その廊下で、帰ってくるとき、その女の子は、A先生とすれちがっていた。そこでまた私が、「廊下ですれちがったとき、どうしてA先生に渡してくれなかったの?」と聞くと、その女の子はこう言った。「だって、先生は、教室にいなかったもん」と。

 その女の子は、(A組でA先生に渡す)ということにこだわった。その気持ちはわからないでもないが、チョーク箱を渡すという目的からすれば、その女の子の行動は、どこか的がはずれている。こういう例は、ほかにもある。

 B君が教室に忘れ物をしたときのこと。私は近くにいたC君(年長児)に「これをB君にもっていってあげて」と頼んだ。C君はすぐ追いかけたものの、これまたすぐ戻ってきてしまった。「どうしたの?」と聞くと、C君はこう言った。「もういなかった」と。C君は、うわばきをはいていた。それで「外(庭)へは出られなかった」と。C君は、B君を呼びとめようと思えば、それができたはずである。しかしC君は、それを思いつかなかった?

 このタイプの子どもは、頭がかたいというふうにも考えるが、もうひとつは社会性の不足ということも考えられる。その場、その場で臨機応変にものを考えることができない。もっと言えば、頭の中で大局的にものを考えることができない。言われたことは忠実にするが、「なぜ自分がそうしなければならないか」、また「その目的は何か」ということが考えられない。

威圧的な過干渉、親の先走り、心配先行型の子育てが日常化すると、子どもは自分で考えることができなくなり、ここでいうような症状を示すようになる。

 もしあなたが「うちの子の行動は、いつもどこか的がはずれている」と感ずるなら、子どもの問題というよりは、育てかたの問題と考え、反省する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(475)

●タレントの世界

 ときどき「タレントになりたい」という子どもがいる。そういうとき私は、「よしなさい」と言うことにしている。理由がある。

 私は若いころ、いろいろなテレビ番組の企画を書いていた。そのとき、ときどきモデルが必要なときがあった。そのときのこと。これから先は、事実だけを書く。

 モデルが必要なときは、テレビ局の正面玄関とは別にある、裏玄関の掲示板に、メモを張る。「Aショー、○月○日、水着モデル、一名」と。するとそのメモを、通称「人買いのおばちゃん」という人が読み、あちこちからモデルを集めてくる。たいていは年配の女性がその仕事をしていたので、「おばちゃん」と呼んでいた。で、全国放送ともなると、一回の募集で、二〇~三〇人の若い女性が集まった。

 そういうときは、その場でオーディションを開く。N局のばあい、別棟の二階がそういう部屋にあてられていた。その部屋の一室に、女の子たちを並べる。そしてディレクターが、こう声をかける。「ハーイ、上を脱いで!」と。すると女の子たちが、一斉に服を脱ぎ始める。中にはモジモジしている女の子もいる。するとディレクターがつづいて、そういう女の子に対しては、「あんたとあんたは、もう帰っていい」と。

 で、その中から、もっともスタイルのよい女の子を選ぶ。一度、裸にするのは、「テレビに出たときの度胸を試すため」だ、そうだ。が、ここで終わるわけではない。

 ある夜、その翌日出演予定の、Kというタレントとホテルの一室で打ち合わせをしていたときのこと。突然、連絡なしに、モデルの女の子がそのホテルへたずねてきた。人買いのおばちゃんに連れられてやってきた。一応「あいさつにきた」ということだったが、実は一夜をそのKというタレントと過ごすためである。当時はそうしたあいさつ(?)は、半ば常識だった。つまりモデル志望の女の子は、そういう形で、体を売りながら、マスコミの世界で自分の立場をつくっていた?

 それから二五年になる。今は、状況も違うだろう。システムも変わったかもしれない。モデルとかタレントとかいっても、いろいろなレベルの人がいる。だからみながみな、こうしたオーディションやあいさつ(?)をしているわけではない。しかしその世界は、私たちがテレビ画面から見るのとは大違い。少なくとも二五年前には、その背後ではドス黒い人間の欲望と、策謀が渦巻いていた。きれいか汚いかと言われれば、あれほど汚い世界はなかった。だから私は言う。「よしなさい」と。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(476)

●言葉教育

 私はときどき、英語で原稿を書く。そこで書いたあと、アメリカやオーストラリアの友人に添削を頼む。だが、ここでおもしろい現象に出あう。どの人も、「それで意味がわかるから、このままでいい」と、なおしてくれない。「文法のミスはないか?」と聞くと、「あるが、それでわかるからいい」と。こうしたおおらかさは、日本には、ない。

 最近、あることがあって、アメリカの友人が、冷やし中華のことを書いてきた。日本で食べた、冷やし中華がおいしかったので、そのレシピを教えてほしい、と。そのときのことだが、彼は、「中華」を、「tyuka」と書いてきた。正しくは、「chuka」か?

 ……と考えたところで、私はハタと自分の愚かさに気づいた。そんなのは、どちらでもよいではないか、と。しかもそういうことにこだわるのは、日本人の悪いクセだ。実際、世界広しといえども、日本人ほど「形」や「型」にこだわる民族はいない。いないものは、いないのであって、どうしようもない。

アメリカでも、オーストラリアでも、子どもたちの作文を見ても、あちらの先生は、スペルや文法(ルール)のまちがいには、ほとんど関心を払わない。大切なのは、中身という考え方が徹底している。ウソだと思うなら、ここに私が書いていることを、あなたの周囲にいるアメリカ人やオーストラリア人に確かめてみることだ。「言葉教育」に対して、考え方が基本的な部分で違う。日本の教育は、子どもたちが将来、文法学者になるためには、きわめてすぐれた体系をもっている。しかし将来、文法学者になる子どもは、いったい、何%いるというのか。数学にしても、英語にしても、そうだ。日本の教育は、将来数学者や、英語の文法学者になるのは、きわめてすぐれた体系をもっている。しかし、将来そういう道に進む子どもは、何%いるというのか?

 日本の教育は、もともとどこかのエラーイ大学の先生たちが作った。だからおもしろくない。だから役にたたない。言葉教育(作文、読書)についても、同じ。茶道や華道ではあるまいし、もっとおおらかでいいのではないのか。

大切なのは、いかに考え、いかに的確に表現し、いかに正しく相手に自分の気持ちを伝えるか、あるいはいかに正しく相手の気持ちを知るか、だ。本筋を忘れたとき、教育は基本的な部分でゆがむ。日本の教育は、その本筋を忘れている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(477)

●東京文化

 この浜松では、何でも「東京からきた」というだけで、ありがたがる。その傾向がきわめて強い。悲しき、田舎根性というのである。そしてその返す刀で、同じ地方に住む、仲間の価値を認めない。あるいは軽く見る。タレントの世界には、こんな合言葉がある。「東京で有名になって、地方で稼げ」と。

 しかし皆さん、少し冷静に考えてみてほしい。本当に東京文化は、すぐれているか、と。考えてみれば、あんなゴチャゴチャした、コンクリートの巨大なゴミ箱の中に住んでいるような人たちから、すぐれた文化など生まれるはずはない。そのことは朝のワイドショーを垣間(かいま)見ればわかるはず。彼らがおりなすドラマには、一片の知性も理性もない。犬や猫でも、あそこまではしないという、痴話(ちわ)話ばかり。が、悲劇は、ここで終わらない。

 先日もある出版社へ原稿を持ちこんだら、そこの若い編集者がこう言った。「地方紙ではねえ……」と。私がC新聞でコラムを書いていますと自己紹介したときのことだ。「地方紙でいくらコラムを書いても、意味がない」と。そういうことを、そこらの若い編集者が言うからおかしい。中身をまるで見ない。中身で判断しない。テレビに出ているかとか、知名度はどうかとか、そういうことでしか、人を判断しない。

 この傾向は、実はこの浜松という地方でも、同じ。私は以前、G社という出版社で、幼児教室向けの教材一式をつくった。全部で四八巻である。その教材を使って、近くの幼児教室が教室を始めた。私としてはそれを喜ばねばならないところだが、聞くところによると、その教室では、私の名前を消して、その教材を使っているという。同じ浜松に住む人間が作った教材では、価値がないとでも思っているのだろうか。(あるいはもっと別の理由があるのかもしれない。)

 日本は奈良時代の昔から、中央集権国家。すべてが、中央から地方へと、上位下達方式で流れている。その逆はめったにない。魂そのものまで抜かれてしまっている。だから、それを疑問に思う人すらいない。これをうまく利用すると、日本ではうまく金儲けができる。しかしその陰で、いかに多くの善良な文化が犠牲になっていることか。差し引きすれば、損害のほうがはるかに大きい。

つい先日も、あるタレントが、浜松市内で講演をして帰った。どこかのスポーツジムに属するタレントだそうだが、実に軽薄な感じのする男だった。そういう男が、この浜松で「教育講演」をするから、話がおかしくなる。聞くところによると、一回の講演料が、八〇万円! プラス宿泊費その他である。彼らにしてみれば、地方こそ、よいカモなのだ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(478)

●誇大視化

 カルト教団の指導法には、いくつかの特徴がある。その一つが「誇大視化」。「巨大視化」と呼ぶ人もいる。ささいな矛盾や、ささいなまちがいをとらえて、ことさらそれを大げさに問題にし、さらにその矛盾やまちがいを理由に、相手を否定するという手法である。

 しかしこうした手法は、何もカルト教団に限らない。教育カルトと呼ばれる団体でも、ごくふつうに見られる現象である。あるいは教育パパ、教育ママと呼ばれる人たちの間でも、ごくふつうに見られる現象である。つい先日も、こんなことがあった。

 私はときどき、席を立ってフラフラ歩いている子どもに、こう言うことがある。「パンツにウンチがついているなら、立っていていい」と。もちろん冗談だし、そういう言い方のほうが、「座っていなさい」「立っていてはだめ」と言うより、ずっと楽しい(?)。そのときもそうだった。

が、ここでハプニングが起きた。そばにいた別の子どもが、その子ども(小二男児)のおしりに顔をうずめて、「クサイ!」と言ってしまったのだ。「先生、コイツのおしり、本当にクサイ!」と。

 で、そのときは皆が、それで笑ってすんだ。が、その夜、彼の父親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。「息子のパンツのウンチのことで、恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。私はただ平謝りに謝るしかなった。が、それで終わったわけではない。それから三か月もたったある日のこと。その子どもが突然、私の教室をやめると言い出した。見ると、父親からの手紙が添えられてあった。いわく、「お前は、教師として失格だ。あちこちで講演をしているというが、今すぐ講演活動をやめろ。それでもお前は日本人か」と。

 ここまで否定されると、私とて黙ってはおれない。すぐ電話をすると、母親が出たが、母親は、「すみません、すみません」と言うだけで、会話にならなかった。で、私のほうも、それですますしかなかったが、それがここでいう、「誇大視化」である。たしかに私は失敗をした。しかしそういう失敗は、こういう世界ではつきもの。その失敗を恐れていたら、教育そのものができない。教育といっても、基本的には人間関係で決まる。で、そういう一部の失敗をことさら大げさにとらえ、それでもって、相手を否定する。ふつうの否定ではない。全人格すら否定する。

 そういえば、あるカルト教団では、相手の顔色をみて、その人の全人格を判断するという。「死に際の様子を見れば、その人の全生涯がわかる」と説く教団もある。それはまさに誇大視化である。皆さんも、じゅうぶん、この誇大視化には、注意されたい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(479)

●子どもの人権

 私は幼児教育をするようになって、三二年になる。三二年もしていると、いつも幼児の視点で、この世界を見る。そういう視点から見ると、あのNHKの『お母さんといっしょ』など、恥ずかしくて見ていられない。

おとなが、動物のぬいぐるみを着て、「♪おなかをゴロゴロ、ポンポンポン……」などと言って、子どもを踊らせている。それを見たりすると、「子どもをバカにするな!」と、思わず叫びそうになる。子どもの意思や気持ちなど、まるで無視。動物の飼育でも、あそこまでしない。こんなことがあった。

 その日はたまたまKさん(年中女児)の、母親が参観にきていた。そのためか、Kさんはいつもよりはりきって、「ハーイ」と元気な声で手をあげて、私の質問に答えた。そこで私は少し大げさにKさんをほめた。ほめて、みなに、手をたたかせた。するとKさんが、スーッと細い涙を流した。私はてっきりうれし泣きだろうと思ったが、それにしても大げさである。

で、授業が終わってからKさんに、「どうして泣いたのかな?」と聞くと、Kさんはこう言った。「私がほめられたから、お母さんが喜んでいると思った。お母さんが喜んでいると思ったら、涙が出てきてしまった」と。Kさんは、自分のために涙を流したのではなく、お母さんの気持ちになって涙を流していたのだ! この事件以来、私は幼児を見る目を変えた。

 幼児はたしかに未熟で未経験だ。しかしそれをのぞけば、私たちおとなとどこも違わない。嫉妬(しっと)もするし、自尊心もある。日本人の子育てで、一番問題なのは、子どもを子どもの世界に閉じ込め、子ども扱いすることで、その人権を無視すること。こんなこともあった。

 ある女性(六〇歳くらい)が、小学四年生くらいの女の子(孫)に、電話をかけてこう言った。「おばあちゃんのところへ、遊びに来てよ。お小遣いをあげるから。ほしいものを買ってあげるから」と。

 一見、ほほえましい光景に見えるかもしれないが、その女性のしていることは、エサで、孫の気持ちを釣っていることに等しい。こういうことが平気でできるところに、またそういうことをするのに、何の疑問ももたないところに、日本型の子育ての問題点が隠されている。

 さてあなたもそういう視点で、あの『お母さんといっしょ』を見てほしい。うむを言わせず、一方的に子どもを踊らせている。子どもに「踊ろうか」と声をかけているふうでもないし、ほめているふうでもない。ただ一方的に、まねをさせているだけ。少なくとも私はこの三二年間、幼児をあのように指導したことは一度もない。幼児にも、人権というものがある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(480)

●私の政治信条

 こういう仕事をしていると、よく政治信条を聞かれる。左翼系であっても、右翼系であってもいけないということだが、それについて、ここでウソ隠しなく、明白にしておく。

 私は自分では「浮動票の王様」と呼んでいる。選挙のたびに支持政党が変わる。しかも私が支持した政党が、そのつど、躍進する。それでいつしか自分をそう呼ぶようになった。 
 ここ一〇年だけでも、選挙で自民党に入れたことも、公明党に入れたこともある。共産党に入れたこともあるし、自由党や民主党に入れたこともある。政治はいつも流動的であるべきだし、またそれが「自由の象徴」と、私は思っている。

よく浮動票層を、「いいかげんな人」と評する人がいるが、浮動票層であることは、何ら恥ずべきことではない。……と、私は勝手に考えている。もっともこうして浮動票層でいられるのは、そのスジの団体とは、一切かかわりをもたないことによる。あちこちの教育委員会から招かれて講演をすることはあるが、だからといって、私はいわゆる「保守層」でもない。

 私が抵抗しているのは、旧型の日本人社会である。封建時代の遺物の清算、全体主義的思考の清算、権威主義社会の清算などなど。私たち日本人の、ものの考え方そのものの変革といってもよい。

しかしこれらは政治とは本来、関係がない。そして私は同時に、男女の平等社会と、家族主義を訴える。その先には、「世界から相手にされる日本」があり、さらにその先には、「日本人のグローバル化」がある。今でも、この日本は、世界から見ると、どこかおかしい。どこか異質。つい先日も、ワールドカップで日本チームを監督したフランス人のフィリップ・トルシエ監督は、日本を去るにあたって、外国の新聞社にこう語っている。「さらば、不可解な国(日本)」(読売新聞、〇二年六月)と。この「不可解さ」があるかぎり、日本はいつまでたっても、世界から受け入れられることはない。

 もちろんそういう私に対して、反論も多い。ときどき、そういった内容の抗議も届く。「あなたはそれでも日本人か!」と、手紙で怒ってきた女性(四〇歳)もいた。「先祖を否定するような者は、教育講演をする資格はない」とも。(私は一度だって、先祖を否定したことはないのだが……。)

 これからも私は、政治活動をするつもりはない。どこかの団体に属するつもりもない。私はいつも自分の身の回りをフリーにすることで、「自由」を守ってきた。だれかに遠慮したり、だれかの利益を守るようなことはしたくない。(「したくない」と言いながら、結構しているが……。それが私の弱点でもある。そういう意味では、ずいぶんといいかげんなところがある。)

 まだまだ書きたいことはあるが、これ以上書いても、堂々巡りになるだけ。教育は宗教、哲学、科学など、あらゆる面に関係するが、同時にあらゆる政党とも関係する。ひとつの政党にこだわらねばならない理由そのものがない。

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