2009年7月3日金曜日

*Roop of Thoughts

●思考のループ【輪形彷徨】

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思考のループほど、恐ろしいものはない。
ループ状態に入ったとたん、思考は停止し、
その分だけ、時間を無駄にする。

私たちにとって重要なことは、歩きつづけること。
先へ行けば行くほど、さらにその先に、「先」が
現れてくる。
だからますます先に進みたくなる。
が、ループ状態に入ると、「進んでいる」と
錯覚したまま、そこで停滞してしまう。
それは思想的には、「死」を意味する。
「魂の死」と言い換えてもよい。

何も肉体の「死」だけが死ではない。

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●輪形彷徨(りんけいほうこう)

 思想がループ状態に入ることを、「輪形彷徨」という。
ちょうど輪のように、同じところをグルグルと回るところから、そう言う。

もちろんその半径は、それぞれの人によって、みな、ちがう。
ある人は、1日単位で、ループ状態を繰り返す。
またある人は、1年単位で、ループ状態を繰り返す。
繰り返しながら、自分では、それがわからない。
自分では、前に向かって進んでいると錯覚する。
が、実のところ、一歩も前に進んでいない。

 このことは、あなたの周辺から、何人かの人を選んで、
その人を観察してみれば、わかる。
中には、10年1律のごとく、同じことしか言わない人がいる。
(さらにひどくなると、月単位、週単位で、同じことしか言わない人がいる。)

が、その一方で、そのつど新しい視点で、新しいことを言う人もいる。
話題も豊富で、そのつど話の内容が深く、濃くなっている。

10年1律のごとく、同じことしか言わない人は、その程度の人と見てよい。
思想的には、死んだも同然。
いくら派手な言動を繰り返しても、死んだも同然。
そういう人を、「思想的死者」と呼ぶ。

●思想的死者

 輪形彷徨がこわいのは、それを繰り返しているうちに、思想がどんどんと
浅くなっていくこと。
視野もせまくなる。
それしか目に入らなくなる。

 このことは、私の母の晩年の日記を読んでいて気がついた。
私の母は、毎日その日の終わりに日記をつけていた。
が、晩年になればなるほど、毎日書いていることが同じになっている。

 「今日は雨(晴れ、うす曇り、曇り)で始まり、「~~さんが来た」「~~さんと
会った」「~~さんと話をした」という話につながる。
そしてしめくくりはいつも、「明日は晴れますように(涼しくなりますように)」と。

 私なりに母の気持ちをくみ取りたいと思ったが、日記を読む範囲では、それが
できなかった。
当時年齢も90歳に近かったから、それもしかたのないことかもしれない。
が、母にかぎらず、人は、一度、この輪形彷徨に入ると、そのワクから抜け出られなく
なる。
そしてあとはその悪循環の中で、自分の住む世界を、どんどんと小さくしてしまう。

●では、どうすればよいか

 私たちも、ふと油断すると、そのつど思考がループ状態になるのを知る。
そこで私のばあい、努めて、毎回、ちがったことを書くことにしている。
子どもたちを教えるときも、そうで、同じ年長児のクラスでも、切り口を変えるよう
にしている。
内容そのものも、変えることがある。
こうして自分の思考が、ループ状態に入るのを防ぐ。

 が、このところ、ときどき恐ろしい経験をする。
「このテーマは初めて……」と思って書いている原稿でも、検索してみると、
同じようなことを、数年前に書いたのを知るときがある。
しかも数年前に書いた原稿のほうが、内容が深い!

 たとえば「思考のループ」にしても、実は、それについて書くのは、今回が
初めてではない。

(ここで、ヤフーの検索機能をつかって、検索してみた。)

「はやし浩司 思考のループ」で検索してみたら、ナント、204件もヒットした。
それも、だ。
最新の原稿は、08年11月付けとなっている!
私は6か月前に、同じことを考えていたことになる。
以下、かなりの長文になるが、それをそのまま、ここに掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●思考のループ

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うつ状態になると、ものごとに対する
(こだわり)が強くなる。

(うつ)と(こだわり)は、紙でいえば、
表と裏のような関係と考えてよいのでは?
そのことだけを、悶々と悩むようになる。
そこで最近、こんなことに気がついた。
若いときは、うつ状態になっても、脳の
中の情報は、割とそのまま維持される。
しかし加齢とともに、うつ状態になると、
脳の中の情報が、こぼれ落ちるように、
消えていく。

特定のことにこだわるあまり、ほかの
情報が入ってこなくなる。
つまりうつ状態が長くつづくと、脳みそ
全体が、ボケていく。
だから一般的には、こう言われている。
「ボケからうつ病になることもあるし、
うつ病からボケになることもある。
その見分けは、むずかしい」と。
つまり今度は、(うつ)と(ボケ)が、
紙で言えば、表と裏の関係と考えて
よいのでは?、ということになる。

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●60代

自分が60代になってみて、恐ろしいと感じたことが、ひとつある。
それは急速に、過去の知識や経験が、脳みそから消えていくということ。
記憶にしても、記銘力、維持力、想起力が、同時に弱くなった。
つまり私たちは、それに気がつかないまま、どんどんとバカになっているということ。
そこで大切なことは、歳をとればとるほど、脳みそをさまざまな角度から、
刺激していかねばならない。
肉体の健康にたとえるまでもない。

が、ここで思わぬ伏兵が現れてきた。
たとえば心がうつ状態になったとする。
(うつ)の第一の特徴は、(こだわり)である。
ある特定のことがらに、悶々と悩んだりする。
それが短期間なものであれば、問題はない。
しかしそれが長期間つづくと、その間に、ほかの部分にあった知識や経験が、
どんどんと脳みそから消え、結果として、頭がボケていく。
そのため総合的な判断が、できにくくなる。

ただ本人自身は、ここにも書いたように、自分でそれに気づくことはない。
そういう状態になりながらも、「私は、まとも」と思う。
このズレが、いろいろな場面で、トラブルの原因となることもある。
先日も、私がその女性(65歳くらい)に、「私は、そんなバカではないと
思います」と言ったときのこと、その女性は何を勘違いしたのか、こう言って
叫んだ。

「私だって、そんなバカではありません!」と。
私はその女性に、認知症の初期症状をいくつか感じ取っていた。
自分勝手でわがまま。
繊細な会話ができない。
話す内容も一方的で、その繰り返し。
が、それはそのまま私自身の問題でもある。

私もよく(うつ状態)になる。
何かのことでそれにこだわると、それについて、悶々と悩んだりする。
毎日、そのことばかりを考えるようになる。
考えるといっても、堂々めぐり。
思考そのものが、ループ状態になる。
とたん、ほかの情報が脳みその中に、入ってこなくなる。
肉体の健康にたとえるなら、これは腕の運動ばかりしていて、体全体の運動を
忘れるようなもの。

うつ状態が長期になればなるほど、そのため、頭はボケていく。
だから……、といっても、もう結論は出ているが、うつ状態は、ボケの敵。
50歳を過ぎたら、とくに注意したほうがよい。

(付記)
認知症から(うつ状態)になる人もいれば、(うつ状態)から認知症になる人も
いる。
その見分けは、専門家でもたいへんむずかしいという。
が、こう考えてはどうだろうか。
どちらであるにせよ、脳の一部しか機能しなくなるために、そうなる、と。
とくに50代以上になると、それまでの知識や経験が、穴のあいたバケツから
水がこぼれ出るように、外へと漏れ出ていく。
そうでなくても補充しなければいけないときに、特定のことにこだわり、
それについて悶々と悩むのは、それだけでバカになっていく。
それが認知症につながっていくということも、じゅうぶん考えられる。
少し前まで、「損得論」についていろいろ考えてきたが、損か得かという
ことになれば、脳みその機能が悪くなることほど、損なことはない。
まさに「私」の一部を、失うことになる。

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思考のループについて、
以前書いた原稿を、添付します。
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●無限ループの世界

 思考するということには、ある種の苦痛がともなう。それはちょうど難解な数学の問題を解くようなものだ。できれば思考などしなくてすましたい。それがおおかたの人の「思い」ではないか。

 が、思考するからこそ、人間である。パスカルも「パンセ」の中で、「思考が人間の偉大さをなす」と書いている。しかし今、思考と知識、さらには情報が混同して使われている。知識や情報の多い人を、賢い人と誤解している人さえいる。

 その思考。人間もある年齢に達すると、その思考を停止し、無限のループ状態に入る。「その年齢」というのは、個人差があって、一概に何歳とは言えない。二〇歳でループに入る人もいれば、五〇歳や六〇歳になっても入らない人もいる。「ループ状態」というのは、そこで進歩を止め、同じ思考を繰り返すことをいう。こういう状態になると、思考力はさらに低下する。私はこのことを講演活動をつづけていて発見した。

 講演というのは、ある意味で楽な仕事だ。会場や聴衆は毎回変わるから、同じ話をすればよい。しかし私は会場ごとに、できるだけ違った話をするようにしている。これは私が子どもたちに接するときもそうだ。

毎年、それぞれの年齢の子どもに接するが、「同じ授業はしない」というのを、モットーにしている。(そう言いながら、結構、同じ授業をしているが……。)で、ある日のこと。たしか過保護児の話をしていたときのこと。私はふとその話を、講演の途中で、それをさかのぼること二〇年程前にどこかでしたのを思い出した。とたん、何とも言えない敗北感を感じた。「私はこの二〇年間、何をしてきたのだろう」と。

 そこであなたはどうだろうか。最近話す話は、一〇年前より進歩しただろうか。二〇年前より進歩しただろうか。あるいは違った話をしているだろうか。それを心のどこかで考えてみてほしい。さらにあなたはこの一〇年間で何か新しい発見をしただろうか。それともしなかっただろうか。

こわいのは、思考のループに入ってしまい、一〇年一律のごとく、同じ話を繰り返すことだ。もうこうなると、進歩など、望むべくもない。それがわからなければ、犬を見ればよい(失礼!)。犬は犬なりに知識や経験もあり、ひょっとしたら人間より賢い部分をもっている。しかし犬が犬なのは、思考力はあっても、いつも思考の無限ループの中に入ってしまうことだ。だから犬は犬のまま、その思考を進歩させることができない。

 もしあなたが、いつかどこかで話したのと同じ話を、今日もだれかとしたというのなら、あなたはすでにその思考の無限ループの中に入っているとみてよい。もしそうなら、今日からでも遅くないから、そのループから抜け出してみる。方法は簡単だ。何かテーマを決めて、そのテーマについて考え、自分なりの結論を出す。そしてそれをどんどん繰り返していく。どんどん繰り返して、それを積み重ねていく。それで脱出できる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ノーブレイン

 英語に「ノーブレイン(脳がない)」という言い方がある。「愚か」という意味ではない。ふつう「考える力のない人」という意味で使う。「賢い(ワイズ)」の反対の位置にある言葉だと思えばよい。「ヒー・ハズ・ノー・ブレイン(彼は脳がない)」というような使い方をする。

 そのノーブレインだが、このところ日本人全体が、そのノーブレインになりつつあるのではないか。たとえばテレビ番組に、バラエィ番組というのがある。チャラチャラしたタレントたちが、これまたチャラチャラとした会話を繰り返している。どのタレントも思いついたままを口にしているだけ。一見、考えてしゃべっているように見えるが、その実、何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して口にしているだけ。

考える力というのは、みながみな、もっているわけではない。仮にもっていたとしても、考えることにはいつも、ある種の苦痛がともなう。それは難しい数学の方程式を解くような苦痛に似ている。しかも考えて解ければそれでよし。「解いた」という喜びが快感になる。しかしたいていは答そのものがない。考えたところで、どうにもならないことが多い。そのためほとんどの人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。

言いかえると、「考える人」は、少ない。「考える習慣のある人」と言いかえたほうが正しいかもしれない。その習慣のある人は少ない。私が何か問いかけても、「そんなめんどうなこと考えたくない」とか、反対に、「もうそんなめんどうなこと、考えるのをやめろ」とか言う人さえいる。

人間は考えるから人間であって、もし考えることをやめてしまったら、人間は人間でなくなってしまう。少なくとも、人間と、他の動物を分けるカベがなくなってしまう。「考える」ということには、そういう意味が含まれる。ただここで注意しなければならないのは、考えるといっても、(1)その方法と、(2)内容である。

これについてはまた別のところで結論を出すが、私のばあい、自分の考えが、ループ状態(堂々巡り)にならないように注意している。またそれだけは避けたいと思っている。一度そのループ状態になると、一見考えているように見えるが、そこで思考が停止してしまう。

それに私のばあい、これは私の思考能力の欠陥と言ってよいのだろうが、大きな問題と小さな問題を同時に考えたりすると、その区別がつかなくなってしまう。ときとしてどうでもよいような問題にかかりきりになり、自分を見失ってしまう。「考える」ということには、そういうさまざまな問題が隠されてはいる。しかしやはり「人間は考えるから人間」である。それは人間が人間であることの大前提といってもよい。つまり「ノーブレイン」であることは、つまりその人間であることの放棄といってもよい。

人間を育てるということは、その「考える子ども」にすることである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えない子ども

 「1分間で、時計の長い針は、何度進むか」という問題がある(旧小4レベル)。その前の段階として、「1時間で360度(1回転)、長い針は回る」ということを理解させる。そのあと、「では1分間で、何度進むか」と問いかける。

 この問題を、スラスラ解く子どもは、本当にあっという間に、「6度」と答えることができる。が、そうでない子どもは、そうでない。で、そのときの様子を観察すると、できない子どもにも、ふたつのタイプがあるのがわかる。懸命に考えようとするタイプと、考えることそのものから逃げてしまうタイプである。

 懸命に考えようとするタイプの子どもは、ヒントを小出しに出してあげると、たいていその途中で、「わかった」と言って、答を出す。しかし考えることから逃げてしまうタイプの子どもは、いくらヒントを出しても、それに食いついてこない。「15分で、長い針はどこまでくるかな?」「15分で、長い針は何度、回るかな?」「15分で、90度回るとすると、1分では何度かな?」と。

そこまでヒントを出しても、まだ理解できない。もともと理解しようという意欲すらない。どうでもよいといった様子で、ただぼんやりしている。さらに考えることをうながすと、「先生、これは掛け算の問題?」と聞いてくる。

決して特別な子どもではない。今、このタイプの、つまり自分で考える力そのものが弱い子どもは、約二五%はいる。四人に一人とみてよい。無気力児とも違う。友だちどうしで遊ぶときは、それなりに活発に遊ぶし、会話もポンポンとはずむ。知識もそれなり豊富だし、ぼんやり型の子ども(愚鈍児)特有の、ぼんやりとした様子も見られない。

ただ「考える」ということだけができない。……できないというより、さらによく観察すると、考えるという習慣そのものがないといったふう。考え方そのものがつかめないといった様子を見せる。

 そこで子どもが考えるまで待つのだが、このタイプの子どもは、考えそのものが、たいへん浅いレベルで、ループ状態に入るのがわかる。つまり待てばよいというものでもない。待てば待ったで、どんどん集中力が薄くなっていくのがわかる……。

 結論から先に言えば、小学四年生くらいの段階で、一度こういう症状があらわれると、以後なおすのは容易ではない。少なくとも、学校の進度に追いつくことがむずかしくなる。やっとできるようになったと思ったときには、学校の勉強のほうがさらに先に進んでいる……。あとはこの繰り返し。

 そこで幼児期の「しつけ」が大切ということになる。それについてはまた別のところで考えるが、もう少し先まで言うと、そのしつけは、親から受け継ぐ部分が大きい。親自身に、考えるという習慣がなく、それがそのまま子どもに伝わっているというケースが多い。勉強ができないというのは、決して子どもだけの問題ではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考のループ ループ性 ループ状態)


【子どもの思考力】

●考える子どもvs考えない子ども

 勉強ができない子どもは、一般的には、たとえば愚鈍型(私は「ぼんやり型」と呼んでいる。この言葉は好きではない。)、発育不良型(知育の発育そのものが遅れているタイプ)、活発型(多動性があり、学習に集中できない)などに分けて考えられている(教育小辞典)。

しかしこの分類方法で子どもを分類しても、「ではどうすればよいか」という対策が生まれてこない。さらに特殊なケースとして、LD児(学習障害児)の問題がある。診断基準をつくり、こうした子どもにラベルを張るのは簡単なことだ。が、やはりその先の対策が生まれてこない。つまりこうした見方は、教育的には、まったく意味がない。言うまでもなく、子どもの教育で重要なのは、診断ではなく、また診断名をつけることでもなく、「どうすれば、子どもが生き生きと学ぶ力を養うことができるか」である。

 そこで私は、現象面から、子どもをつぎのように分けて考えている。

(1)思考力そのものが散漫なタイプ
(2)思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ
(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ
(4)知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ
 
この分類方法の特徴は、そのまま自分自身のこととして、自分にあてはめて考えることができるという点にある。たとえば一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているときというのは、考えるのもおっくうなものだ。そういう状態がここでいう(1)の状態。

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。それが(2)の状態。

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられ、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。それが(3)の状態。

歳をとってから、ドイツ語を学びはじめたとする。単語を覚えるのだが、覚えられるのはその場だけ。つぎの週には、きれいに忘れてしまう。それが(4)の状態。

 勉強が苦手(できない)な子どもは、これら(1)~(4)の状態が、日常的に起こると考えるとわかりやすい。そしてそういう状態が、実は、あなた自身にも起きているとわかると、「ではどうすればよいか」という部分が浮かびあがってくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 勉強が苦手 勉強が苦手な子供)

(1) 思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういうときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコーヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがどうでもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。

もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口にしたり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけではない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるいは妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、「しなければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしまう。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうしようもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題については、あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべっているようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。そういう視点で考えればよい。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心があること、さらに好きなことなら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプの子どもの対処法ということになる。

(2) 思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをした。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!

一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分でも何をしているかわからなくなる。

このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題のとき、しばらくは分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリをする。私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返し……。

一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいくつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたりすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこであなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろうか。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すという方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みますか」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかった」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときはそれこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。

 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するしかないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。

(3) 得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接インストールのこと」と。

このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。そのため、頭の中が混乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。

そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンしたところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが一番、痛い」などと言う。そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学習へと誘導していく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たないのかは、よくわからないが……。)さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。

(4) 知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについてはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はスムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のアルファベットを、三~六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう子どもが全体の二〇%前後はいる。そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。

「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。また記憶される情報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。

学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになるだけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えても、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができてしまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところにある。

Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●結びに……

 昨年(08年11月)に書いた原稿を読みながら、ふとこう思った。
「去年のほうが、内容が深いのでは……?」と。
つまりこれぞまさしく、「輪形彷徨」。
「輪形彷徨」と言わずして、何という?

ゾーッ!

 つまりこうして私も、ボケていく。
バカになっていく。
が、それではいけない。
輪形彷徨を打破しなければならない。
何としても打破しなければならない。
そのためには、今、そこにある輪形方向から、一歩、外へ抜け出なければならない。
新しい世界に興味をもち、その世界へと足を踏み入れる。

 今の私にはそれしか思いつかないが、具体的には、こうする。

(1) 書店へ立ち寄っても、立ち止まるところは、いつも同じ。
次回から、それをやめ、別の場所へ行ってみる。
そこで片っ端から立ち読みをしてみる。
(今夜から、さっそく、実行!)

(2) 新しい経験を試みる
今度、近くの温泉街に、静岡県イチという大浴場ができた。
日帰り入浴というのができるそうだから、今週中に一度行ってみる。
つまり今までの行動(生活)パターンを変える。

 その結果、私の脳みその中に、何らかの変化が起きればそれでよし。
その変化を感じたら、それを大切にし、拡大させる。

 そうそう私には、ひとつ大特典がある。
「子ども」という大特典である。
私が教えている子どもたちは、そのつど、私に大きな変化をもたらしてくれる。
どんな遊びを、どのようにしているかを知るだけでも、よい刺激になる。
そこで、

(3) 子どもたちの世界に、もっと積極的に飛び込んでみる。
どんなゲームをどのようにしているかを、知る。
私もそのゲームを自分でも、買ってみる。
いっしょに、子どもたちとしてみる。

 輪形彷徨というのは、いわば思想の渦のようなもの。
渦の中で安穏としていると、そのまま渦の中心部で、押しつぶされてしまう。
自分では気がつかないまま、そうなってしまう。
これからの老後を生きるためにも、それにはじゅうぶん警戒したらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 思考のループ ループ状態 はやし浩司 輪形彷徨)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

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