2009年7月16日木曜日

*Essays on House Education (July 16th)

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(420)

(1)思考力そのものが散漫なタイプ

思考力そのものが、散漫なタイプの子どもを理解するためには、たとえばあなたが一日の仕事を終えて、疲労困ぱいしてソファに寝そべっているようなときを想像してみればよい。そういうときというのは、考えるのもおっくうなものだ。ひょっとしたら、不注意で、そのあたりにあるコーヒーカップを、手で倒してしまうかもしれない。だれからか電話がかかってきても、話の内容は上の空。「アウー」とか答えるだけで精一杯。あれこれ集中的に指示されても、そのすべてがどうでもよくなってしまう。明日の予定など、とても立てられない……。

もしあなたがそういう状態になったら、あなたはどうするだろうか。一時的には、コーヒーを口にしたり、ガムをかんだりして、頭の回転をはやくしようとするかもしれない。効果がないわけではない。が、だからといって、体の疲れがとれるわけではない。そういうときあなたの夫(あるいは妻)に、「何をしているの! さっさと勉強しなさい」と、言われたとする。あなたはあなたで、「しなければならない」という気持ちがあっても、ひょっとしたら、あなたはどうすることもできない。漢字や数字をみただけで、眠気が襲ってくる。ほんの少し油断すると、目がかすんできてしまう。横で夫(あるいは妻)が、横でガミガミとうるさく言えば言うほど、やる気も消える。

思考力が弱い子どもは、まさにそういう状態にあると思えばよい。本人の力だけでは、どうしようもない。またそういう前提で、子どもを理解する。「どうすればよいか」という問題については、あなたならどうしてもらえばよいかと考えればわかる。疲労困ぱいして、ソファに寝そべっているようなとき、あなたなら、どうすればやる気が出てくるだろうか。

そういう視点で考えればよい。そういうときでも、あなたにとって興味がもてること、関心があること、さらに好きなことなら、あなたは身を起こしてそれに取り組むかもしれない。まさにこのタイプの子どもは、そういう指導法が効果的である。これを「動機づけ」というが、その動機づけをどうするかが、このタイプの子どもの対処法ということになる。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(421)

(2) 思考するとき、すぐループ状態(思考が堂々巡りする)になるタイプ

何かの事件がいくつか同時に起きて、頭の中がパニック状態になって、何から手をつけてよいかわからなくなることがある。実家から電話がかかってきて、親が倒れた。そこでその支度(したく)をしていると、今度は学校から電話がかかってきて、子どもが鉄棒から落ちてけがをした。さらにそこへ来客。キッチンでは、先ほどからなべが湯をふいている……!

一度こういう状態になると、考えが堂々巡りするだけで、まったく先へ進まなくなる。あなたも学生時代、テストで、こんな経験をしたことがないだろうか。まだ解けない問題が数問ある。しかし刻々と時間がせまる。計算しても空回りして、まちがいばかりする。あせればあせるほど、自分でも何をしているかわからなくなる。

このタイプの子どもは、時間をおいて、同じことを繰りかえすので、それがわかる。たとえば「時計の長い針は、15分で90度回ります。1分では何度回りますか」という問題のとき、しばらくは分度器を見て、何やら考えているフリをする。そして同じように何やら式を書いて計算するフリをする。

私が「あと少しで解けるのかな」と思って待っていると、また分度器を見て、同じような行為を繰りかえす。式らしきものも書くが、先ほど書いた式とくらべると、まったく同じ。あとはその繰り返し……。

一度こういう状態になったら、ひとつずつ片づけていくのがよい。が、このタイプの子どもはいくつものことを同時に考えてしまうため、それもできない。ためしに立たせて意見を発表させたりすると、おどおどするだけで何をどう言ったらよいかわからないといった様子を見せる。そこであなた自身のことだが、もしあなたがこういうふうにパニック状態になったら、どうするだろうか。またどうすることが最善と思うだろうか。

 ひとつの方法として、軽いヒントを少しずつ出して、そのパニック状態から子どもを引き出すという方法がある。「時計の絵をかいてごらん」「1分たつと、長い針はどこからどこまで進みますか」「5分では、どこまで進みますか」「15分では、どこかな」と。これを「誘導」というが、どの段階で、子どもが理解するようになるかは、あくまでも子ども次第。絵をかいたところで、「わかった」と言って理解する子どももいるが、最後の最後まで理解しない子どももいる。そういうときはそれこそ、からんだ糸をほぐすような根気が必要となる。

しかもこのタイプの子どもは、仮に「1分で長い針は6度進む」とわかっても、今度は「短い針は1時間で何度進むか」という問題ができるようになるとはかぎらない。少し問題の質が変わったりすると、再びパニック状態になってしまう。パニックなることそのものが、クセになっているようなところがある。あるいはヒントを出すということが、かえってそれが「思考の過保護」となり、マイナスに作用することもある。

 方法としては、思い切ってレベルをさげ、その子どもがパニックにならない段階で指導するしかないが、これも日本の教育の現状ではむずかしい。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(422)

(3)得た知識を論理的に整理できず、混乱状態になるタイプ

パソコン教室などで、聞いたこともないような横文字の言葉を、いくつも並べられると、何がなんだかさっぱりわからなくなるときがある。「メニューから各機種のフォルダを開き、Readme.txtを参照。各データは解凍してあるが、してないものはラプラスを使って解凍。そのあとで直接インストールのこと」と。

このタイプの子どもは、頭の中に、自分がどこへ向かっているかという地図をえがくことができない。教える側はそのため、「これから角度の勉強をします」と宣言するのだが、「角」という意味そのものがわかっていない。あるいはその必要性そのものがわかっていない。「角とは何か」「なぜ角を学ぶのか」「学ばねばならないのか」と。

そのため、頭の中が混乱してしまう。「角の大きさ」と言っても、何がどう大きいのかさえわからない。それはちょうどここに書いたように、パソコン教室で、先生にいきなり、「左インデントを使って、段落全体の位置を、下へさげてください」と言われるようなものだ。こちら側に「段落をさげたい」という意欲がどこかにあれば、まだそれがヒントにもなるが、「左インデントとは何か」「段落とは何か」「どうして段落をさげなければならないのか」と考えているうちに、何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまう。このタイプの子どもも、まさにそれと同じような状態になっていると思えばよい。

そこでこのタイプの子どもを指導するときは、頭の中におおまかな地図を先につくらせる。学習の目的を先に示す。たとえば私は先のとがった三角形をいくつか見せ、「このツクンツクンしたところで、一番、痛そうなところはどこですか?」と問いかける。先がとがっていればいるほど、手のひらに刺したときに、痛い。すると子どもは一番先がとがっている三角形をさして、「ここが一番、痛い」などと言う。
そこで「どうして痛いの」とか、「とがっているところを調べる方法はないの」とか言いながら、学習へと誘導していく。

 このタイプの子どもは、もともとあまり理屈っぽくない子どもとみる。ものの考え方が、どこか夢想的なところがある。気分や、そのときの感覚で、ものごとを判断するタイプと考えてよい。占いや運勢判断、まじないにこるのは、たいていこのタイプ。(合理的な判断力がないから、そういうものにこるのか、あるいは反対に、そういうものにこるから、合理的な判断力が育たないのかは、よくわからないが……。)

さらに受身の学習態度が日常化していて、「勉強というのは、与えられてするもの」と思い込んでいる。もしそうなら、家庭での指導そのものを反省する。子どもが望む前に、「ほら、英語教室」「ほら、算数教室」「ほら、水泳教室」とやっていると、子どもは、受身になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(423)

(4) 知識が吸収されず、また吸収しても、すぐ忘れてしまうタイプ

 大脳生理学の分野でも、記憶のメカニズムが説明されるようになってきている。それについてはすでにあちこちで書いたので、ここではその先について書く。

 思考するとき人は、自分の思考回路にそってものごとを思考する。これを思考のパターン化という。パターン化があるのが悪いのではない。そのパターンがあるから、日常的な生活はスムーズに流れる。たとえば私はものを書くのが好きだから、何か問題が起きると、すぐものを書くことで対処しようとする。(これに対して、暴力団の構成員は、何か問題が起きると、すぐ暴力を使って解決しようとする?)問題は、そのパターンの中でも、好ましくないパターンである。

 子どもの中には、記憶力が悪い子どもというのは、確かにいる。小学六年生でも、英語のアルファベットを、三~六か月かけても、書けない子どもがいる。決して少数派ではない。そういう子どもが全体の二〇%前後はいる。

そういう子どもを観察してみると、記憶力が悪いとか、覚える気力が弱いということではないことがわかる。結構、その場では真剣に、かつ懸命に覚えようとしている。しかしそれが記憶の中にとどまっていかない。そこでさらに観察してみると、こんなことがわかる。

「覚える」と同時に、「消す」という行為を同時にしているのである。それは自分につごうの悪いことをすぐ忘れてしまうという行為に似ている。もう少し正確にいうと、記憶というのは、脳の中で反復されてはじめて脳の中に記憶される。その「反復」をしない。(記憶は覚えている時間の長さによって、短期記憶と長期記憶に分類される。

また記憶される情報のタイプで、認知記憶と手続記憶に分類される。学習で学んだアルファベットなどは、認知記憶として、一時的に「海馬」という組織に、短期記憶の形で記憶されるが、それを長期記憶にするためには、大脳連合野に格納されねばならない。その大脳連合野に格納するとき、反復作業が必要となる。その反復作業をしない。)

つまり反復しないという行為そのものが、パターン化していて、結果的に記憶されないという状態になる。無意識下における、拒否反応と考えることもできる。

 原因のひとつに、幼児期の指導の失敗が考えられる。たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と指示すると、体をこわばらせてしまう子どもが、約二〇%はいる。文字に対してある種の恐怖心をもっているためと考えるとわかりやすい。このタイプの子どもは、文字嫌いになるだけではなく、その後、文字を記憶することそのものを拒否するようになる。結果的に、教えても、覚えないのはそのためと考えることができる。つまり頭の中に、そういう思考回路ができてしまっている。

 記憶のメカニズムを考えるとき、「記憶するのが弱いのは、記憶力そのものがないから」と、ほとんどの人は考えがちだが、そんな単純な問題ではない。問題の「根」は、もっと別のところにある。




 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(424)

●西暦二一〇〇年の世界

 とても悲しいことだが、二一〇〇年には、人類は滅亡している。よく気象学者は、二一〇〇年までに地球の気温は、三~四度上昇すると言うが、そんな程度ではすまないことは、常識。

気温が一、二度あがると、不測の事態がまた別の不測の事態を生み、気温は二次関数的に上昇する。たとえばシベリアのツンドラ地帯の凍土が溶け出す、海流が変化する、など。その結果、地球の気温は金星並に、四〇〇度近くまでになるという説もある。もちろんそうなれば、人類どころか、あらゆる生物が死滅する。いや、ごく一部の生物だけが生き残る可能性はある。火山地帯のマグマの周辺でも生きている微生物がいるということだから、そういう生物にとっては、四〇〇度なんてものは、どうということはない?

 問題は、人類が滅亡することではない。仮に人類が滅亡しても、ある種の生物が生き残り、そして人類がそうであったように進化をしつづけ、数億年後には別の知的生物になっている可能性がある。

そういう知的生物が、たとえばゴキブリが進化したゴキブリ人でもよいが、今の人類の化石を掘り返して、「おおきいな」「すごいね」「この化石は何の化石?」「昔しいた、バカナヒト・ザウルスの化石だよ」というような会話をすればよい。人類はあまりにも勝手なことをしすぎた。その結果、人類が滅んだとしても、それこそ自業自得というもの。

 問題はそのことではなく、気温上昇とともに、食料不足、水不足、それにともなく経済的混乱、戦争が各地で勃発すること。エイズのような病気がまんえんすることも考えられる。そうなればなったで、この地球上は、まさに地獄と化する。人類は静かに滅亡する、あるいは滅亡できるような生き物ではない。わずかな食料を求めて、隣人と殺しあうような地獄絵図が、それこそ日常茶飯事に起こるようになるかもしれない。

 ……というようなことを考えると、身のまわりの、ありとあらゆる問題が小さく見えてくるから不思議である。もちろんここに書いたのは、ウソとまでは言えないが、そのまま信じてもらっては困る。人類には、「知恵」という武器がある。地球の温暖化をおさえるために、地球に亜硫酸ガスの傘(かさ)をかぶせるという方法もある。食料不足にしても、遺伝子工学のレベルで、人工タンパクが合成されるようになるかもしれない。

地球温暖化は大きな問題だが、しかし人類がもつ知恵を信ずることも忘れてはならない。たとえばたった一〇〇年前には不可能と思われていたようなことが、今ではつぎつぎと可能になっている。あのドラえもんの時代にさえ不可能と思われていた「どこでも電話」が、今では携帯電話となって、それをもっていない人のほうが少ないくらいになった。

同じように今は不可能と思われているようなことが、一〇〇年後には、これまたつぎつぎと可能になることだって考えられる。だから「今のレベル」を基準にして、一〇〇年後を考えてはいけない。が、しかし油断してもいけない。地球温暖化は、もう深刻な問題になりつつある。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(425)

●UFO

 私と女房は、巨大なUFOを目撃している。このことは、新聞のコラム(中日新聞東海版)に書いたので、興味がある人は、それを読んでほしい。で、そのあと、つまり新聞のコラムに書いたあと、「同じものを見た」という人物が、二人も名乗り出てきた。

見た場所と時間は違っていたが、地図でそのUFOが飛んだ方向を調べたら、私が見たのは、正確に真西から真東に、そして彼らの見たのは、正確に真東から真西に飛んでいることがわかった。それはともかくも、「見たものは見た」(コラム)。

 しかし、だ。それほどまでに衝撃的な事件であったにもかかわらず、私にとっては、それほど衝撃的ではなかった。(同じものを見たと名乗り出てきた人には、衝撃的だったようだ。二人とも、それで人生観が変わってしまったと言っていた。一人は、そのあとインドへ仏教の研究に出かけている。)私にとっては、子どものころ、飛行機を見たときの衝撃のほうが、ずっと強かったように思う。だから今、あの夜のことを思い出しても、「まあ、確かに見たなあ」という程度の印象しかない。「見た、見た」と騒がなければならないほど、重大なできごとでもないと思っている。

 しかし改めて考えてみると、やはりこれは重大なことだ。私が見たUFOは、ハバだけでも、一~二キロメートルはあった。正確な大きさはわからないが、そこらのジャンボジェットの大きさではない。しかもその消え方が、ふつうではなかった。(これについては、先の二人も同じように証言している。)まるで空の中に、溶け込むかのようにして消えた。私といっしょに目撃した女房も、「飛行機のようにだんだん遠ざかって消えたのではない」と言っている。……となると、あのUFOはいったい、何だったのか?

 私も女房も丸い窓のようなものを見ている。で、それが本当に窓だとすると、あのUFOの中には、それなりの知的生物がいたということになる。しかもその知的生物は、人間よりはるかに知的であるはずだ。私が見たUFOは、音もなく、途中からは猛スピードで飛び去っていった。人間が常識とする乗り物とは、まるで違っていた。いやいや、回りくどい言い方はやめよう。

 宇宙人は、確実に、いる。それも地球からきわめて近い距離に、いる。そして私たち人間を、どういう形でかはわからないが、観察している。ただ私にはわからないのは、どうしてもっと堂々と出てこないかということ。人間が混乱するのを避けるためと言う研究家もいるが、もうここまで正体がバレているのだから、出てきてもよいのではないか。あるいはほかに、出てこられない理由があるのかもしれない。それは私にはわからないが、しかしコソコソと隠れるようにして地球へくる必要はない。

……いや、これとて私の勝手な解釈なのかもしれない。が、少なくとも私は、以来、「宇宙人はいる」という前提で、ものを考えるようになった。この話は、あくまでも余談。教育論とは関係ない。ははは。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(426) 

●見たものは、見た

見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、それを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとしたら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「まちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並んで飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。

そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現われたからだ。私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたからだ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はその人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくないし、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されている。

そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書いてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(427)

●学習内容の三割削減

 学習内容の三割削減が始まった(二〇〇二年春)。具体的には、たとえば小学六年生の算数では、今までは(1)分数の掛け算、割り算をしていたのが、分数の足し算、引き算になった。(2)円すいや角すいなどの立体の体積の計算をしていたのが、立方体や直方体の体積になった。

教える側の実感としても、ガクンと楽になった。三割という数字だけをみると、六年掛ける〇・三で、一・八年、つまり約二年分の学習内容が削減されたことになる。単純に計算すれば、今までの小学六年生は、小学四年生のレベルになったことになる。削減のし方にもいろいろあるが、これはもう大削減というにふさわしい。

 で、教える側もそうだが、学ぶ子どもたちも驚いた。それぞれの学年の子どもたちが、「簡単になった」と喜んでいた。が、喜んでいたのは、四月、五月だけ。六月に入ると、もう様子が変わってきた。学習内容が簡単になったはずなのに、「簡単だ」と言う子どもが減り、前と同じように、「わからない」「できない」という子どもがふえ始めた。つまり削減されたものの、今度はそのレベルで、またもとの状態に戻ってしまった。私はこの現象に、改めて驚いた。で、私は、こんなことを考えた。

 サングラスをかけると、かけたとたんというのは、サングラスの色に周囲が見える。しかししばらくかけたままにしていると、やがてサングラスをかけていること自体を忘れる。と、同時に、周囲の色は、それなりにもとの色のように見えてくる。仮に青いサングラスをかけていても、赤い花は赤く、ピンクの花はピンクに見えてくる。もちろん青い空も青い空に見えてくる。

 生活もそうで、忙しい人も、そうでない人も、それぞれの生活をしばらくつづけていると、それなりにヒマに感じたり、忙しく感じたりする。仕事量がへったとか、あるいは労働時間がへったからといって、楽になるとは限らない。しばらくそういう状態がつづくと、新しい環境にそれなりに体もなれてしまう。子どもの世界も、同じ。

 話を戻すが、「ゆとり教育」の名のもとに、今回の三割削減は実施された。しかし本当にそれが「ゆとり」になったかどうかと問われれば、私は、なっていないと思う。もう少し時間が経過しなければ結果ははっきりしないが、しかしこの六月の段階をみても、それは言える。

つまり今回の三割削減は、結局はその一方で、さらに根本的な問題を先送りしただけではないのか。少なくとも肝心の子どもたちは、楽になったとは思っていない。与えられた環境になれるにつれて、その環境の中からその「ゆとり」は消える。そしてやがて、もとの状態にもどる……。

 が、ここで考えなければなら
ないのは、こうした削減を繰り返すうちに、日本の子どもたちの学力はますます低下し、教育水準も低下するということ。日本に追いつけ、日本を追い越せとがんばっている国にとっては、まことにつごうがよい三割削減だが、それは同時に日本が衰退することを意味する。日本よ、日本人よ、本当に、それでよいのか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(428)

●教育の実情

 K県(静岡県ではない)に住む、I氏(私立幼稚園理事長)が、こんな話をしてくれた。何でもI氏がある小学校の校庭の横に車をとめて、校庭の様子を見ていたときのこと。チャイムの音ともに、校庭で体育の授業(小五?)が始まったという。

見ていると、チャイムの音が鳴り終わってから、教師と数人の生徒が、とび箱とマットを外へ運びだし始めた。その間、一〇分前後。教師が生徒を並べて、とび箱のとび方を実演してみせたのは、さらにそのあと一〇分くらいしてから。生徒たちはそれぞれが勝手に動き回り、とても教師の話を聞いているようでもなかったという。

で、指導(?)は、同じく一〇分ほどで終わり、そのあとしばらくすると、今度は片づけが始まった。で、チャイムが鳴るころには、運動場はきれいに片づいていた……。I氏はこう言った。「子どもたちがとび箱をとんだのは、正味一〇分もなかったのでは」と。

 ここまで書いて終わると、その教師の指導ぶりを批判する人がいるかもしれない。「何て、だらしない授業だ!」と。しかし実際のところ、こうした光景は、今、日本のどこでも見られる。多かれ少なかれ、ごく標準的な「風景」と言ってもよい。しかし教師だけを責めるわけにはいかない。こんな事実もある。

この私ですら、活発盛りの小学生を相手に授業をすると、ものの一時間でヘトヘトに疲れてしまう。彼らがもつエネルギーは、一人ずつだけをみても、おとなの数倍はある。そういう子どもを、三〇~三五人も相手にして指導するというのは、まさに重労働。いかに重労働であるかは、たった一人の子どもをもてあましているあなた自身が、一番よく知っているはずである。

が、そういう重労働を、学校の教師はそれこそ毎時間している。それも朝八時から、夕方六時まで。が、それで終わるわけではない。生活指導、家庭教育指導、成績管理などなど。しかも上からの管理、また管理。ある女性教師(小学校)はこう言った。「毎日、携帯電話に入るメールの返事を書くだけでも、夕食後一時間はかかります」と。

また別の女性教師(小学校)は、「子どもが生きるの死ぬのという家庭問題をかかえて、授業どころではありません」と言った。「授業中だけが、息を抜ける時間です」と言った男性教師(小学校)もいた。

要するに、日本の教育の問題は、日本自体がかかえる構造的な問題であるということ。現象面だけをみて、それを問題にしても意味はないということ。その構造的な問題が基本にあって、ここにあげたK県でのような授業が蔓延(まんえん)化している。言いかえると、その構造的な問題を解決しないかぎり、日本の教育はよくならなし、改革もない。さらに言えば、日本の未来に明日はない。なぜならその明日をつくるのは、まさに今の子どもたちだからである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(429)

●若い女性は「こやし」?

 歌舞伎役者のG氏(七〇歳、人間国宝)が、五一歳年下の若い女性と、不倫関係(?)にあるという。写真週刊誌にフォーカスされ、それで今(〇二年六月)、世間で騒がれている。昼のワイドショーでも取りあげられた。見ると、G氏は悪びれるようすでもなく、ヘラヘラと笑いながら、「若い女性にもてないようでは、芸もできない」などというようなことを言っていた。

おとなの交際していたのは事実だろう。別れ際、ホテルのドアのところで、G氏はその女性に、チンチンを出して見せていた(写真週刊誌「F」)。

 が、私が驚いたことはそのことではない。そのワイドショーは街の人の声と称して、一〇人近い男性にインタビューしていたが、だれひとりとて、そのG氏を責める男がいなかったことだ。責めるどころか、「うらやましい」「自分もしてみたい」「敬服する」「尊敬する」「芸のこやしになるのでは」と。

司会の男まで、「男のカガミ」とまで言い切った。モラルの崩壊というよりも、その前提となる倫理観も道徳心もない。思考能力さえ、ない。どの人も通俗的な情報を、そのまま受け売りしているだけ。またそういうことを軽く言うのが、「人生の経験者」とでも思っているようなフシすらある。

 不倫するなら、命がけで、しかも哲学をもってすればよい。しかも「この女性しかいない」と、世界で最高の女性とすればよい。妻が許すとか許さないとかいうことではなく、自分の人間性をかけてすればよい。もしそれがまちがっているというのなら、人間であることがまちがっている……、そこまで言い切れるような、そんな不倫をすればよい。

が、七〇歳の老人が、顔中コラーゲンを打ち込んだような(多分?)テカテカな顔をして、しかも人間国宝の看板をぶらさげて、何というぶざまなことよ。相手の女性は、孫よりも年齢が下? 不倫が発覚しても、一言の哲学めいた思想を口にすることもできない。日本人も、この程度かと、ただただあきれる。彼は人間国宝という立場で、いったい何を人に教えてきたというのか。

彼の妻は、今、日本国の大臣までしている。夫婦そろって、一着数一〇万円もする(多分?)ような服や着物を着て、好き勝手なことをしている。そういうリーダーや政治家に、庶民の、その生活のいったい何がわかるというのか。

 私はあえて言う。G氏は男のカガミでも何でもない。いや、彼が自分の名誉と地位と財力にものを言わせて何をしようと、それは彼の勝手。しかし一般庶民のあなたよ、ああいう人物を評価してはいけない。あなたがああいう人物にシッポを振れば振るほど、それはあなたの敗北を意味する。それこそああいう人物の思うツボ。彼らはあなたのような、名誉も地位も財力もない人たちを食いものにして生きているだけ。

もし私がここでいうことがまちがっていると思うなら、あなたが男性なら、あなたの妻や娘に聞いてみることだ。「女性は男のトイレか?」と。あなたが女性なら、……もう言うまでもないだろう。その怒りを、もっと外に向かって表現してほしい。

 そうそうアメリカでは、一八歳未満の女性とセックスをすれば、理由のいかんを問わず、即逮捕、即投獄である。G氏の愛人は、ギリギリの一九歳だった。念のため。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(430)

●親の自己中心性

 「自己中心」という言葉がある。自分を中心にものを考えることをいう。その自己中心性には、二つの方向性がある。(1)社会的自己中心性と、(2)時間的自己中心性の二つである。

何ともカタイ話になりそうだが、要するに、自分のまわりのことだけしかものを考えないのが、社会的自己中心性。自分の時代を中心にしかものを考えないのが、時間的自己中心性という。この(2)の時間的自己中心性というのは、私が考えた。親を見ているときに気づいた。こんな人がいた。

 「子どもを育てるのは、自分の老後のため」と、その女性(五〇歳)は言った。もう少し別の言い方をしたが、結論をまとめると、そういうことになる。つまり「自分の老後のめんどうをみてくれるような子どもを育てるのが、子育てだ」と。たいへん親意識の強い人だった。「子どもが親のめんどうをみるのは当たり前」という前提で、すべてを考えていた。だから他人の子どもを評価するときも、親のそばにいて、親孝行する子どもを、「できのいい子」。そうでない子どもを、「できの悪い子」とした。

つまりその女性は、自分の時代を中心にしかものを考えていない。これが私がいう、時間的自己中心性である。ほかにもこんな例がある。

 ある女性(六〇歳)は、病弱な息子(三〇歳)と二人暮しをしていた。たしかに病弱は病弱だったが、そのためその女性はお決まりの溺愛と過干渉。息子は超マザコンタイプの、ハキのない男性になった。その男性について、その女性はいつもこう言っている。「私が死ぬときは、息子も一緒に死にます」と。

つまりそれくらい親子のきずなが太く、その女性は親として息子をあとに残しては死ねない、と。そこで私がその女性に、「息子さんには息子さんの人生というものがあるでしょう。それはどうするのですか」と聞くと、その女性はこう言った。「息子の心は、私が一番よく知っています」「私が死ねば、息子は不幸になるだけです」と。

 この女性もまた、自分の時代を中心にしかものを考えていないのがわかる。つぎの世代に、よりよき時代を残す、あるいは伝えていくという姿勢がどこにもない。一見、息子の将来を心配しているようにみえるが、その実、子どもの将来など、まるで考えていない。自分が死んだら、あとは野となれ、山となれというわけである。

もし本当に息子の将来を心配するなら、息子を自立させるために、親としてもっとほかにすることがあるはずである。それもしないで、つまり手厚い親の庇護(ひご)のもとだけに子どもを置き、その子どもを溺愛するのは、まさにここでいう自己中心性ということになる。

 こうして自己中心性をふたつに分けて考えると、親が子育てで見せる自己中心性を、もう少し詳しく理解することができる。あなたも一度、身のまわりの人で、この見方を利用してみてはどうだろうか。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(431)

●親の思い込み

 「残り勉強」というのがある。たとえば勉強がじゅうぶん消化できなかった子どもを、放課後残して、勉強させるのが、それ。教師はその残り勉強を、子どものためと思ってするかもしれない。が、子ども自身は、そうは思わない。バツととらえる。だから教師が子どもを残り勉強させればさせるほど、やり方をまちがえると、かえって子どもをマイナス方向に追いやってしまう。

こういうのを意識のズレという。家庭教育でも、同じような意識のズレが起きるときがある。たとえば親が子どもに向かって、「勉強しなさい!」と言うとき。

 親は子どものため(?)を考えて、「勉強しなさい」と言うかもしれない。しかし一日の学校生活を終えて、やっと家に帰ってきた子どもに、それを言うのは、どうか? 反対の立場で考えてみれば、それがわかる。あなたが外で仕事をして、家に帰ってきたとする。そのときあなたの妻(あるいは夫)が、あなたに向って、「もっと仕事をしなさい」と言ったら、あなたはどう感ずるだろうか。妻(あるいは夫)が、あなたのためにそう言ってくれると、あなたは思うだろうか。

 一般的に、子どもの前ばかりを歩く親は、何でもかんでも、親が先に決めてしまう。「子どものことは私が一番、よく知っている」と。子どもが保育園や幼稚園へ通うようになると、子どもの気持ちや意思を確かめることなく、「ほら、算数教室」「ほら、英語教室」とやりだす。やめるときもそうだ。

親が勝手につぎの教室に申し込み書を出したあと、子どもにはこう言う。「来月からは、今のA教室をやめて、B教室へ行きますからね。B教室の先生のほうが、いい先生だから」と。

 子どもは親の傲慢(ごうまん)さに、引っ張りまわされているだけ。が、本当の悲劇はここから始まる。こういうケースでは、親は、「子どもは自分に感謝しているはず」と思い込む。「子どもの心をつかんでいるはず」と思い込む。そしてそうすることが、子どもにとって最善と思い込む。

しかし思い込みは思い込み。子どもの心はもっと別のところにある。やがて親子はこんな会話をするようになる。親「あんたはだれのおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの。私が高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ。それがわかっているの!」、子「いつ、だれがお前にそんなことをしてくれと、頼んだア!」と。

 もっともこのように反発する子どもは、まだよいほうだ。中には、親の言うままになって、かぎりなく依存心をもつ子どもがいる。そうなればなったで、それこそ家庭教育は大失敗。子どもが依存心をもてばもつほど、子どもの自立は遅れる。要するに親の「思い込み」に注意。「子どものため」と思い込んでいることでも、結局は子どものためになっていないことは、実に多い。どうかご注意!





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(432)

●依存心という魔物

 依存心が強ければ強いほど、当然のことながら、子どもの成績は伸び悩む。理由の第一。このタイプの子どもは、与えられることになれ、また与えられてからすることになれている。万事が受身で、そのため、たとえば自分の頭の中に、自分で「学習の地図」をつくることができない。自分が何のために、またどういう方向性をもって勉強しているかが、わからない。どこにいるかさえわからなくなってしまう子どもすら、いる。こんな小学生(小四男子)がいた。何かの問題を解いていて、それをまちがえたらしい。

子「まちがえたところは、消すのですか」、
私「そうだ」、
子「消しゴムで消すのですか」、
私「そうだ」、
子「きれいに消すのですか」、
私「そうだ」、
子「計算式も消すのですか」、
私「それはいい」と。

 あるいは中学生になると、こんな会話をする。

 子「今日は、どこを勉強するのですか」、私「この前のつづきをしないさい」、子「……」と。そこでどんな勉強を始めるかと待っているのだが、一〇分たっても、二〇分たっても、一向に勉強を始める気配がない。そこで私がしびれを切らせて、「何か、勉強を始めたら?」とうながすと、「どこで終わったか、忘れました」と。

 こうした依存性は、すでに年中児(四歳児)のときにあらわれる。原因のほとんどは、過保護と親の先走り。何でもかんでも、「先へ、先へ」と親が、しすぎるほど用意してしまう。子どもはそれに引っ張りまわされているだけ。が、なおたちの悪いことに、そういう親の姿勢を批判しても、それに気づく親は、まずいない。たいていの親は、「自分は子どものために正しいことをしている」と思い込んでいる。

しかもそうした世話をするのが、親の務めと誤解している。ある母親はこう言った。「あの子は、生まれつきああいう子ですから……」と。子どもに生まれつきも、生まれつきもない。そういう子どもにしたのは、親自身なのだ。それに気づいていない。

 子どもに依存心がつくかどうかは、結局は、子育てのリズムで決まる。そういったリズム(過保護傾向、先走り傾向)があれば、できるだけ早い時期にそれに気づく。そしてそのリズムを変える。勉強ができる、できないは、あくまでもその結果でしかない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(433)

●今どきの子どもたち

 「騒いでる子どもは、チンチンをハサミで切るぞ」と私が言ったときのこと。一人の女の子(小五)が、「私にはないわ」と言った。ふつうはここで会話が終わるはずだったが、そのときはそうではなかった。すかさず別の男の子が、こう叫んだ。「何、言ってるんだ! クリトリスがあるだろ!」と。

 今どきの子どもたちの性知識は、ふつうではない。先日も、一人の男の子がニヤニヤ笑いながら、「先生、フェラって知っている?」と。「何だ、それ!」と言い返すと、「知ってるくせに……」と、笑いつづけた。

 今どき、小学生で、「セックス」を知らない子どもはいない。これはもう一〇年近くも前のことだが、一人の女子中学生が、私にこう聞いた。「先生は純情か?」と。そこで私が「そうだ」と言うと、「そんなハズないでしょう。子どもがいるクセに!」と。直後、私はその意味がわからなかった。が、しばらく考えてやっと理解できた。さらにこんなことも。

 ある日、一人の女子大生が私に会いたいと電話をかけてきた。「どうしても相談したいことがある」と。そこで会って話を聞くと、「先生の知り合いで、私を援助交際してくれる人はいないか?」と。「先生、あなたでもいい。一か月二〇万円ならいい」と。私の教え子だったが、美しい女の子だった。……そう思っていた。そういう私の「プライベートな思い」が、どこかで伝わり、それが誤解されてしまったらしい。

 私はもうこの種の話にはうんざり。私とて「ふつうの男」だから、興味がないわけではない。しかしここまで性が乱れてくると、もう手の施しようがない。それはちょうど、野に放たれた小鳥のようなものだ。つかまえることすら、できない。

 ……あのアダムとイブが、禁断の実を食べたという説話は、こういった状況を言ったものか。しかしここで考え方を一転させて、「性そのものなど、何でもない」という前提に立つと、話が変わる。思いきって、「性」を、単なる排泄行為と考えてはどうか。

毎日小便や大便をするように、人は、セックスをする、と。アダムとイブについて言うなら、禁断の実を禁断の実とするから、話がおかしくなる。小鳥について言うなら、カゴの中に閉じ込めておこうとすことのほうが、おかしい、と。

 この問題については、また別の機会に考える。しかしこんな事実もあることを忘れないでほしい。アメリカの中西部に、アーカンソー州という州がある。その州に、H州立大学がある。そのH州立大学でのこと。フットボールクラブのメンバー六〇人を調べたところ、そのうち一五人(二五%)が、HIV(エイズ)検査で陽性だったという(二〇〇〇年)。たいへんな数だし、きわめて深刻な問題といってもよい。

しかしそれはそのまま日本の、近未来の姿でもある。野放しがよいというわけではない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(434)

●指導方法

 子どもに限らず、人を指導するには、簡単に言えば、ふたつの方法がある。ひとつは、(1)脅(おど)す方法。もう一つは、(2)自分で考えさせる方法。

 ほとんどの宗教は、(1)の「脅す方法」を使う。バチ論や地獄論がそれ。あるいは反対に、「この教えに従ったら、幸福になれる」とか、「天国へ行ける」というのもそれ。(「従わなければ天国へ行けない」イコール、「地獄へ落ちる」というのは、立派な脅しである。)

 カルトになると、さらにそれがはっきりする。「この信仰をやめたら、地獄へ落ちる」と教える宗教教団もある。常識で考えれば、とんでもない教えなのだが、人はそれにハマると、冷静な判断力すらなくす。

 もうひとつの方法は、(2)の「自分で考えさせる方法」。倫理とか道徳、さらには哲学というのが、それにあたる。ものの道理や善悪を教えながら、子どもや人を指導する。この方法こそが、まさに「教育」ということになるが、むずかしいところは、「考える」という習慣をどう養うか、である。

たいていの人は、「考える」という習慣がないまま、自分では考えていると思っている。あるいは、そう思い込んでいる。たとえば夜のバラエティ番組の司会者を見てほしい。実に軽いことを、即興でペラペラとしゃべっている。一見、何かを考えているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らは何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工して言葉にしているだけ。

「考える」ということには、ある種の苦痛がともなう。「苦痛」そのものと言ってもよい。だからたいていの人は、自ら考えることを避けようとする。考えることそのものを放棄している人も、少なくない。子どもや学生とて、同じ。東大の元副総長だった田丸謙二先生も、「日本の教育の欠陥は、考える子どもを育てないこと」と書いている。

 前にも書いたが、「人間は考えるから人間である」。パスカルも『パンセ』の中で、「思考こそが、人間の偉大さをなす」と書いている。私は宗教を否定するものではないが、しかし人間の英知は、その宗教すらも超える力をもっている。まだほんの入り口に立ったばかりだが、しかし自らの足で立つところにこそ、人間が人間であるすばらしさがある。

 問題は何を基準にするかだ。つまり人間は何を基準にして、ものを考えればよいかだ。私は、その基準として「常識」をあげる。いつも自分の心に、その常識を問いかけながら、考えている。「何が、おかしいか」「何が、おかしくないか」と。そしてあとはその常識に従って、自分の方向性を定める。ものを考え、それを文章にする。それを繰り返す。

言うまでもなく、私たちの体には、数一〇万年という長い年月を生きてきたという「常識」がしみついている。その常識に耳を傾ければ、おのずと道が見えてくる。その常識に従えば、人間はやがて真理にたどりつくことができる。少なくとも私は、それを信じている。あくまでもひとつの参考意見にすぎないが……。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(435)

●子どもたちへ

すねたり
いじけたり
つっぱったりしないでさ、
自分の心に静かに
耳を傾けてみようよ
そしてね、
その心にすなおに
したがってみようよ

つまらないよ
自分の心をごまかしてもね
そんなことをすればね
自分をキズつけ
相手をキズつけ
みんなをキズつけるだけ

むずかしいことではないよ
今、何をしたいか、
どうしたいか、
それを静かに
考えればいいのだよ

仲よくしたかったら、
仲よくすればいい
頭をさげて
ごめんねと言うことは
決してまけることでは
ないのだよ
ウソだと思ったら
一度、そうしてみてごらん
今より、ずっとずっと
心が軽くなるよ





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(436)

●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうことだ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あとはその善悪の判断に従って行動すればよい。

人間には生まれながらにして、そういう力がすでに備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かのことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数一〇万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や倫理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たとえば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、みんな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数一〇万もの間、生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きていくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかにして自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそういう常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をごまかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しかもその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもっている。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。



 

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(437)

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかるようになる。無理をすることは、ない。

道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみるのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返すと、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでなくても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わねばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言ってもよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(438)
 
●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(439)

●子どもに善と悪を教えるとき

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。

そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。

するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(440)

●もの書き屋の年輪

 ものを書くことによって、どこかで年輪を重ねていくように感ずることがある。たとえば私。一〇年前に書いた文章、二〇年前に書いた文章、さらに三〇年前に書いた文章がある。自分の書いた文を読みかえすとき大切なことは、文の体裁よりも、そのときどきにおいて、いかに真実であったか、だ。

自分を飾った名文(?)など、意味がない。反対に、いかにヘタでも、そのときの自分を正直に書いた文ほど、意味がある。要するに、中身ということ。私はこれを勝手に、「深み」と呼んでいる。文は、その「深み」で判断するが、これは自分の文に限ったことではない。

 他人の文を読むとき、私は「深み」をさぐろうとする。もちろん文のじょうずへたも大切だが、それよりも大切なのは、「深み」だ。で、そのとき、私はその人の年輪がどこにあるかを知る。たとえば今、三〇歳の人の書いた文を読んだとする。そのときその文と自分が三〇歳のときの文とをくらべる。あるいは自分なら、三〇歳のとき、どう書いただろうかと考える。

その結果、私が三〇歳のときの年輪より、深みのある文を書く人がいたとすると、それはそのまま畏敬の念にかわる。しかし同じ文でも、それが六〇歳の人だと、そうは思わない。もちろん同年齢で、私より深みのある文を書く人はいくらでもいるし、そういう人の文は、読んでいても気持ちよい。楽しい。参考になる。とくに分野の違う人の文は、おもしろい。

 ……と、まあ、いっぱしの作家気取りのようなことを書いてしまったが、一方、こんなこともあった。ミニコミ誌を自分で発行している人がいた。別の仕事で親しくなったので、ある日私が、こう申し出た。「何か、文を書くことで、手伝ってあげましょうか」と。するとその人は、胸を張ってこう言った。「君イ~ネ~、文というのはね、書けるようになるまでに、一〇年はかかるよ。人に読んでもらえるような文を書けるようになるまでに、さらに一〇年はかかるよ」と。つまり私の文では、ダメだ、と。

つまり文というのは、その人の主観で、その評価が決まる。私の文をうまいと思って読んでくれる人もいれば、そうでないと思っている人もいる。だからここが一番大切だが、文を書くときは、他人の目など気にしないこと。私はそうしている。それがよくても悪くても、私自身だからである。



 
 
ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(441)

●神々との対話

 女房とドライブしていたときのこと。あるキリスト教会の前を通った。「人類が滅ぶときに、神の手で救われる」と教える教団の教会である。私がそれを女房に説明すると、女房がこう言った。「ほかの人たちはどうなるの?」と。

 地球温暖化がこれだけ現実のものとなってくると、「地球はあと一〇〇年ももたない」という説が、にわかに信憑(しんぴょう)性をおびてくる。とくにここ数年の気温上昇(たった数年!)は、ふつうではない。この速度で上昇したら、西暦二一〇〇年までには、地球の気温は四〇〇度にまでなってしまう! (これに対して学者たちの予想では、二一〇〇年までに三~四度。最大で六度前後となっている。)まさにそのとき、(あるいはそれ以前に)、「人類が滅ぶとき」がやってくる。

 「信じた人だけが助かるというのは、卑怯(ひきょう)だ」と私。
 「どうして?」と女房。
 「もし、そんなに信じてほしかったら、神様も、今、ここに姿を現せばいい。そうすれば、だれだって神様を信ずるようになる」
 「死んでからでは、遅いということ?」
 「いいや。死んだとき、目の前に神様が現れれば、だれだって神様を信ずるようになる。それから信じても、遅くはない」
 「神様は、信ずるのも、信じないのも、お前たちの勝手と、人間を突き放しているのではないかしら」

 私たちは今、懸命に生きている。野に咲く花や、空を飛ぶ鳥のように。地面をはう虫や海を泳ぐ魚のように。そういう私たちを「まちがっている」と言うのなら、それを言うほうがまちがっている。たしかに人間は未熟で、未完成だが、しかし今、懸命に自分の足で立ちあがろうとしている。

医療にしても社会にしても政治にしても、もし今、ここに神様が現れて、病気を治したり、神の国をつくったらどうなるか。人間は自らの足で立ちあがることをやめてしまう。あのトルストイも『カラマーゾフの兄弟』の中で、同じようなことを書いている。

 しかしその懸命さが、思わぬ方向に進みつつある。それこそ地球温暖化によって、人間どころか、あらゆる生き物まで犠牲になってしまう。だったら今、「突き放している」ほうがおかしい。あるいはすでに神様は、地球そのものまで放棄してしまったというのか。

 この問題は、「私たち人間は助かるべきか、それとも助かるべきではないか」という、究極の命題にまで、行き着く。しかしこれだけは言える。仮に私たちの未来が絶望的なものであっても、最後の最後まで、足をふんばって生きる。そこに「懸命に生きる人間の尊さ」がある。神様に救ってもらおうと考えるのは、まさにその人間の敗北を認めるようなものだ。あとの判断は、それこそ神様に任せればよい。





子育て ONE POINT (442)子どもに生きる意味を教えるとき 

●生きる価値

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。

たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあって、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。

言いかえると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(443)

●頭のよい子

 五〇人に一人とか、それ以上の中に一人という、頭のよい子どもが、いる。よく「能力は平等だ」という人がいるが、こと知的能力についていえば、平等ではない。専門的に言えば、「脳の神経シナプスは、非同時的に発達する」※という。この「非同時性」が、子どもの「差」となって表れる。

 で、その頭のよい子どもの特徴としては、(1)目つきが鋭く、静かに落ち着いている、(2)集中力があって、いったん集中し始めると、他人を寄せつけない気迫を見せる、(3)言葉を頭の中で反すうする(何度もかみくだく)ため、それだけ言葉が重くなる傾向を示す、など。動作もどこか鈍くなることが多い。

 ここでいう(3)「言葉を反すうする」というのは、同時進行の形でいろいろなことを考えることをいう。たとえば「地球が暖かくなることをどう思うか」と問いかけると、知的能力の「深さ」によって、子どもの反応は大きく変化する。

レベル0……「暖かくなる」という意味そのものが理解できない。
レベル1……「暖かくなっていい」などと言って、そのレベルで思考を停止する。
レベル2……「暖かくなって、冬なども過ごしやすくなる」などと言って、自分にとってつごうのよいことだけを考える。
レベル3……「暖かくなると、困ることもある」などと言って、問題点をあれこれさぐる。
レベル4……「どうして暖かくなるのか」とか、「どうして困るのか」などと言って、いろいろな情報を集めて、それを分析しようとする。
レベル5……問題の深刻さが理解でき、「どうすればいいのか」「どんな問題が起きるのか」「どう対処したらいいのか」というレベルまで考えを切りこんでいく。

 こうしたレベルは、作文を書かせてみればわかる。考えの「深い」子どもは、その片りんを文のはしばしで、それを示す。

 中学生について言うなら、ほとんどの子どもが、レベル0~2の範囲に入る。「五〇〇字程度の作文を書いてください」と指示しても、すぐ書き始める子どもは少ない。これは日ごろから、「考える」という習慣そのものがないためと思われる。

※ シナプスの過剰生産と選択は、脳の異なった部分で異なった速度で進む。(Huttenlocher and Dabholkar, 1997) 本来の視覚皮質ではシナプスの密度は比較的速やかにピークに達する。中間の正面の外皮では、明らかにより高度な認識の働きをするところであるが、その過程は更にゆっくりと進み、シナプス生成は誕生より前に始まり、シナプスの密度は五、六歳の年齢まで増え続く。

※  選択過程は、概念的にはパターンの主な組織に相当するものであるが、更にそれに続く四、五年続き、初期の青年期で終わる。このように脳の部分で異なった速度で進むことは、それぞれの皮質のニューロンでも異なったインプットを受けて、異なった速度で進む可能性が高い。(Juraska, 1982, on animal studies 参照)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(444)

●頭のよい子(2)

 実際に中学生(一~三年生、一〇人)に、「地球温暖化について」というテーマで作文を書かせてみた。

 最初の一〇分間で、作文を書き始めた子どもは、ゼロ。一〇分ぐらいたってから、何となく鉛筆を動かし始めた子どもは、二人だけ。あとは黙ったまま。そこで強く促すと、残りの六人が、何かを書き始めた。しかし残った二人は、体をぶらぶらさせるだけ。私が「思っていることを書けばいい」と言うと、「だって、何を書いたらいいのか、わかんないもん」(女子二人)と。

 二〇分後、まだ書いている途中だったが、そこで中断。以下、子どもたちの書いた作文を紹介する。(句読点を含めて、原文のまま)

(M女、中一)「いままで夏は暑いのに地球温暖化がすすんでいったらどうなってしまうのだろう。まだ6月なのにこんなに暑くて、7時ごろまでひがのぼっていて、明るい。今年は桜がさくのもきょ年より何日もはやかったから、何年かたったら、冬ごろでも暑いかもしれない」

(T女、中一)「今、学校でも、総合の時間に地球環境や、温暖化についてやっています。私は地球温暖化の一番いけない理由は、地球が汚れてしまったことだと思います。車や工場から出た有害ガスが、地球の森林をなくしてしまったりしたことだと思います。外国では日本よりもっと早くから行動をおこしている国もあると聞いたので、日本もいろいろなことをして、温暖化が少しでもなくなるようにしたらいいのにと思いました。私も身近な事から環境が悪く……」

(J君、中二)「南極や北極の氷がとけて大洪水になり人間などが住むばしょがなくなる……」

(G君、中三)「ここら5、6年だけでもかなり変化があったので危機感を感じている。『あと、どのぐらいで人間は住めなくなるのだろうか?』『なぜこのようなことになる前に気がつかなかったのだろう?』こんなことを考えると恐ろしくなる」

 上から順に、M女は、温暖化の事例を集めているにすぎない。レベル2~3。
 T女は、温暖化の理由を懸命にさぐろうとしている。レベル3。
 J君は、具体的に原因をとらえ、結果について考えようとしている。レベル3。
 G君は、危機を感覚的にとらえているが、分析性がない。レベル2。

 何も書かなかった子どもが、レベル0ということにはならないが、外から観察すると、思考がループ状態に入っているのがわかる。言いかえると、思考力のない子どもというのは、きわめて浅いレベルで、思考がループ状態に入る子どもということになる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(445)

●母親が育児ノイローゼになるとき

 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところで、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。

次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあと、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。

そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったのに、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そしてこう言った。

「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょうか」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。
(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなくなる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまったり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケースでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。それではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、そのときの手紙をまとめたものである。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(446)

●母親がアイドリングするとき 

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せのハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。

結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

 昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こんな話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまった。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。

晩年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなたがアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動き始める。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(447)

●保守的な人々

 「日本軍が満州を侵略し、満州兵の抵抗を受けた」というようなことを、原稿に書いたときのこと。その雑誌の編集者が電話をかけてきて、こう言った。「はやしさん、日本軍は満州なんか、侵略していませんよ」と。驚いて、「どうしてですか」と聞くと、その編集者はこう言った。「第一、当時、満州にはだれも住んでいなかった。無人の荒野だった。だから日本がそこへ入り、開拓してやったのです。だから、当然、満州兵などいなかった。あとになって中国は勝手に『満州は中国の領土だ』『日本軍と戦ったのは中国兵だ』と言い出しただけです」と。さらに私が驚いていると、こうも言った。

「中国にせよ、朝鮮にせよ、日本が進駐してやったおかげで、発展することができたのですよ。港もつくってやったし、道路や鉄道もつくってやった」「もし日本が進駐しなければ、ロシアやアメリカに侵略され、中国はもっと悲惨なめにあっていたはずです」と。

 もしこの論理が通るなら、どんな侵略戦争も正当化されてしまう。仮に明日、どこかの国が日本を侵略してきても、だれも文句が言えない。

 で、私がそう反論すると、その編集者はこう言った。「あなたはそれでも日本人か。日本がまちがっていたと言うのは勝手だが、それを言うということは、自ら、日本人であることを否定することと同じですよ」と。

 悲しいかな、こういう保守的な人は、実際にはいる。しかもその編集者と言うのは、年配の人ではない。あとで年齢を聞いたら、三五歳ということだった。あなたはこの編集者の意見をどう思うか。

 そうそうそれ以後、その雑誌社から執筆依頼が途絶えて、ちょうど二年になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(448)

●肩書き社会、日本

 この日本、地位や肩書きが、モノを言う。いや、こう書くからといって、ひがんでいるのではない。それがこの日本では、常識。

 メルボルン大学にいたころのこと。日本の総理府から派遣された使節団が、大学へやってきた。総勢三〇人ほどの団体だったが、みな、おそろいのスーツを着て、胸にはマッチ箱大の国旗を縫い込んでいた。が、会うひとごとに、「私たちは内閣総理大臣に派遣された使節団だ」と、やたらとそればかりを強調していた。つまりそうことを口にすれば、歓迎されると思っていたらしい。

 が、オーストラリアでは、こうした権威主義は通用しない。よい例があのテレビドラマの『水戸黄門』である。今でもあの番組は、平均して二〇~二三%もの視聴率を稼いでいるという。が、その視聴率の高さこそが、日本の権威主義のあらわれと考えてよい。つまりその使節団のしたことは、まさに水戸黄門そのもの。葵の紋章を見せつけながら、「控えおろう」と叫んだのと同じ。あるいはどこがどう違うのか。

が、オーストラリア人にはそれが理解できない。ある日、ひとりの友人がこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをしたら、どうするのか。それでも日本人は頭をさげるのか」と。

 この権威主義は、とくにマスコミの世界に強い。相手の地位や肩書きに応じて、まるで別人のように電話のかけ方を変える人は多い。私がある雑誌社で、仕事を手伝っていたときのこと。相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりいたします」と言ったあと、私のような地位も肩書きもないような人間には、「君イ~ネ~、そうは言ってもネ~」と。

しかもそういうことを、若い、それこそ地位や肩書きとは無縁の社員が、無意識のうちにそうしているから、おかしい。つまりその「無意識」なところが、日本人の特性そのものということになる。

 こうした権威主義は、恐らく日本だけにしか住んだことがない人にはわからないだろう。説明しても、理解できないだろう。そして無意識のうちにも、「家庭」という場で、その権威主義を振りまわす。「親に向かって何だ!」と。子どももその権威主義に納得すればよし。しかし納得しないとき、それは親子の間に大きなキレツを入れることになる。親が権威主義的であればあるほど、子どもは親の前で仮面をかぶる。つまりその仮面をかぶった分だけ、子どもの子は親から離れる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見渡してみてほしい。あなたの叔父や叔母の中には、権威主義の人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。しかし親が権威主義的であればあるほど、その親子関係はぎくしゃくしているはずである。

 ところで日本からの使節団は、オーストラリアでは嫌われていた。英語で話しかけられても、ただニヤニヤ笑っているだけ。そのくせ態度だけは大きく、みな、例外なくいばっていた。このことは「世にも不思議な留学記」※に書いた。それから三〇年あまり。日本も変わったが、基本的には、今もつづいている。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(449)

●夫に不満?

 先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなんか、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわサ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうんだわサ」と。

話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのかた、トイレ掃除はおろか、トイレットペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「ペーパーがないときはどうするのですか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。

 国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ五〇%以上もいるという(二〇〇〇年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳以上の男性について言うなら、何か特別な事情のある人を除いて、そのほとんどが家事をしていないとみてよい。

この年代の男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くもっている。男ばかりではない。私も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじゃない」と叱られた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自らが、こうした偏見に手を貸している。「夫が家事をすることには反対」という女性が、二三%もいるという(同調査)。

 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査では、二〇代、三〇代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という夫が、六五%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。

※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。
 部屋の掃除をまったくしない夫          ……五六・〇%
 洗濯をまったくしない夫             ……六一・二%
 炊事をまったくしない夫             ……五三・五%
 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫   ……三〇・二%
 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三%
 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫   ……三四・〇% 
(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について調査・九八年)
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(450)

●男女平等

 若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でもとくに印象に残っているのが、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベッテルグレン女史はこう言った。

「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリーセックスとは、性にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「とくに女性であるからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっとベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。

 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は……」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことがない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば遊んだで、「女たらし」とバカにされた。

そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験を通して、私がまちがっていたことを思い知らされた。その中でも決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。

つまり人間は男も女も、母親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。このことは何人ものドクターに確かめたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠後三か月くらいまでは胎児は皆、女で、それ以後、Y遺伝子をもった胎児は、Y遺伝子の刺激を受けて、睾丸が形成され、女から分化する形で男になっていく。分化しなければ、胎児はそのまま成長し、女として生まれる」(浜松医科大学O氏)ということらしい。

このことを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八〇度変わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。

 これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いるが、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。男性側の意識改革だけではなく、女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(厚生省の国立問題研究所が発表した「第二回、全国家庭動向調査」・九八年)。こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。

「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイントも低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、五二・五%もいた。

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