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子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 7月 17日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●負い目(コンプレックス)
++++++++++++++++++
だれにも負い目というのがある。
あなたにもある。
私にもある。
そのひとつが、私は車の運転免許証をもっていないこと。
同窓会などに出ると、「免許証をもっていないのは、林(=私)
だけだなア」などと、からかわれたりする。
その私だが、オーストラリアから帰ってくると、仮免許証までは取った。
が、そのあと就職とつづいて、そのままになってしまった。
バイクの免許はもっていたが、今は、50ccまでの
ソフトバイクに乗れるだけ。
免許証の更新をするのを忘れてしまった。
あのままもっていたら、今は750ccのバイクだって、
乗ることができるのに!
+++++++++++++++++++
そういう私だから、何度も免許証を取ろうとした。
が、若いころは忙しくて、それができなかった。
やっと時間ができたころには、息子たちがつぎつぎと免許証を
ほしがった。
当時ですら、20~30万円の費用が必要だった。
それで何となく、つまり「息子たちが取れば、車を運転してくれるだろう」
というふうに考えて、あきらめてしまった。
(実際には、運転手として、息子たちが車を運転してくれるようなことは、
めったになかったが……。)
で、もっぱら、ワイフの運転する車に乗ることになった。
が、そのつど、気が引ける。
負い目を感ずる。
コンプレックス(劣等感)というのは、そういうのを言う。
心の壁にぺッタリと張りついて、はがれるということがない。
だから、何かの拍子に、ワイフに、「バスで行ってよ!」とか、
「タクシーで行ったら!」と言われることくらい、つらいことはない。
ワイフはそれほど深く考えて言っているのではない。
それはわかっているが、そういう言葉は、グイと胸を突き刺す。
心をえぐる。
さらに、具体的にバスの乗り方を指示されることくらい、つらいことは
ない。
「駅までバスで行って、そこから電車に乗れば!」と。
そういうとき、実に自分が情けなくなる。
免許証をもっていない負い目が、何百倍にも拡大する。
反対にもし、ワイフが、「お金、ちょうだい」と言ったとき、
私が「自分で仕事をしたら」「ハローワークで仕事をさがしてきたら」と
言ったら、どうなるだろう。
ワイフは傷つくだろうと思う。
そういう悲しい思いをさせたくないから、私は結婚当初から、
給料はすべてワイフに渡している。
が、悲しいかな、そういう私の気持ちは、ワイフには通じない。
(付記)
子どもの劣等感には注意したほうがよい。
私のようなおとななら、自分でそれを何とか処理できる。
(処理できないときもあるが……。)
子どもは、それができない。
容姿、名前、家族など
とくに容姿について、あれこれ言うのは、タブー中のタブー。
わかりきったことだが……。
(補記)
だから反対にこういうことも言える。
たとえば夫が稼ぎ柱のとき、妻に対して、恩着せがましいことを
言うのは、たいへん危険ということ。
「オレが働いているから、お前ら、食っていかれるのだ!」とか、
「お前ら、だれのおかげで生活できると思っているのだ!」とか、など。
権威主義の強い夫ほど、そういう言葉を口にする。
こういう言葉は、夫婦の間に決定的な溝(みぞ)を作る。
夫のほうはそれで自分の立場を主張するつもりかもしれないが、そんな
ことはいちいち言われなくても、わかること。
妻は日常的に、それを負い目として生きている。
それをあえて口にされると、私のようにグイと胸をえぐられる。
そういうことばかり言っていると、いつか「離婚!」ということに
なるかも。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【金権教】
●ぜいたくな悩み
+++++++++++++++++++++
悩みといっても、本来、悩むような問題ではないかもしれない。
ぜいたくな悩みということは、よくわかっている。
この地球上では、約3分の1の人たちが、飢餓状態に
あると言われている。
食べるのもなくて、困っている。
が、そういう中、私は今、ときどきこんな選択に迫られる。
「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。
+++++++++++++++++++++
●レストランで……
昨日、ワイフの誕生日祝いということで、郊外のホテルで昼食をとった。
フルコースの半分の、ハーフコースというのを注文した。
肉料理を省略したコースをいう。
そのコースのあと、最後にデザートが出た。
最近はやりの、バイキング・デザートというのである。
10種類くらいのケーキから、好きなのを選んで、いくらでも食べられる。
私はイチゴ系のケーキ、ワイフはオレンジ系のケーキを選んだ。
1個というよりは、ひとかけらと言ったほうがよい。
小さなケーキだった。
で、それを食べ終わるころ、ボーイが、「ほかに、どれになさいますか?」と
聞いてきた。
そのときのこと。
またあの選択が頭の中を横切った。
「食べたら損なのか?」「食べなければ損なのか?」と。
私は現在、ダイエット中。
昨日の朝、体重計に乗ってみたら、目標にしていた63キロ台!
この1か月半で、約5キロの減量に成功した。
「何としても、今の体重を維持しよう」と、心に決めていた、その矢先のことである。
私はググーッとわいてくる食欲を懸命に抑えながら、「もう結構です」と答えた。
「食べたら損」のほうを、選択した。
●ムダ肉
脂肪細胞というのは、わかりやすく言えば、エネルギーの貯蔵庫のようなもの。
ノートパソコンにたとえるなら、バッテリーのようなもの。
たとえば数日おきくらいにしか食べ物にありつけないような環境なら、脂肪細胞も
必要。
脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しておく必要がある。
しかし現在の日本のように、1日3食、もしくは2食、食べるのが当たり前になって
いるような国では、脂肪細胞にエネルギーを貯蔵しても、意味はない。
その必要もない。
必要なエネルギーは、そのつど摂(と)ればよい。
それに体は軽ければ軽いほどよい。
運動量もふえるから、筋肉も鍛えられる。
それが良循環となって、肉体は健康になる。
ポテポテとした肉体を引きずっていて、よいことは、何もない。
が、どうしてか、「食べなければ損」という意識が、いつも働く。
どうしてだろう?
つまりこんなところでも、マネーの論理が働く。
「同じ値段なのだから、たくさん食べなければ損」と。
言い換えると、その人の健康観まで、マネーに毒されている(?)。
これは忌々(ゆゆ)しき問題と考えてよい。
●金銭的感覚
が、「損とは何か?」「得とは何か?」、それを考えていくと、
その先が、灰色のモヤに包まれてしまう。
何をもって、人は、得といい、何をもって、人は、損というのか?
いちばんわかりやすい例でいえば、金銭的な損と得がある。
数字が大きくなることを、「儲けた」といい、数字が小さくなることを、
「損した」という。
しかしそれにも限界がある。
金(マネー)に毒されすぎると、何が大切で、何がそうでないか、
わからなくなってしまう。
ときに人の命まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
自分の人生まで、金銭的感覚で、判断してしまう。
●○○鑑定団
私の大嫌いなテレビ番組に、『○○鑑定団』というのがある。
いろいろな人が、いろいろなものをもちよって、その値段を
「鑑定」するという、あの番組である。
しばらくああいう番組を見つづけていると、ものの価値まで、金銭的感覚で、
判断してしまうようになる。
(……なってしまった。)
「この絵は、200万円の価値があるから、すばらしい絵だ」
「あの絵は、10万円の価値しかないから、つまらない絵だ」とか、など。
その絵にしても、有名人(?)の描いたものほど、値段が高い。
が、もし、ものの価値のみならず、美術的価値まで、金銭的感覚で判断する
ようになってしまったら、「美術とはいったい、何か?」ということに
なってしまう。
モノならまだしも、自分の健康となると、そうはいかない。
またそうであってはいけない。
●社会のCPU(中央演算装置)
話は少し脱線する。
世の中には、「カルト」と呼ばれる、宗教団体がある。
正確には、「宗教的団体」と言うべきか。
で、そういう団体に属する信者の人たちと話していて、いつも不思議に思うことがある。
10年前に、世間を騒がせた、あの宗教団体の信者の人たちにしても、そうだ。
会って、個人的に話をしている間は、ごくふつうの、どこにでもいるような人。
そういう狂信的な団体に属しているから、どこかおかしいのでは(?)と思って観察して
みるのだが、そういうことはない。
どこもおかしくない。
冗談も通ずる。
ふつうの常識も、もっている。
が、全体として、つまりその団体を全体としてみると、やはりおかしい(?)。
集団となったとき、反社会的な行為を繰り返す。
団体の教義を批判したり、否定したりすると、彼らは猛烈にそれに対して反発する。
あるいはそのまま私たちを、ワクの外にはじき飛ばしてしまう。
……これは「カルト」と呼ばれるカルト教団の話である。
が、実は、私たちも全体として、同じような宗教を信仰しているのではないか。
「マネー教」というカルト教である。
その信者でいながら、全体がそうであるから、それに気がつかない。
そういうことは、じゅうぶん考えられる。
つまり社会のCPU(中央演算装置)そのものが狂っているから、その(狂い)すら、
自分で気がつくことができない。
●私の子ども時代
このことは、私の子ども時代と比較してみてもわかる。
当時の特徴を2つに分けるとこうなる。
(1)戦時中の軍国主義的な色彩が、まだ残っていた。
(2)その時代につづく金権主義の色彩は、まだ薄かった。
軍国主義的な色彩というのは、たとえば教育の世界にも強く残っていた。
(学校の先生)にしても、戦時中のままの教え方をする人もいた。
反対に民主主義的な(?)教え方をする人もいた。
それがおもしろいほど、両極端に分かれていた。
一方当時は、まだ牧歌的な温もりが残っていた。
私の父にしても、将棋をさしながら、仕事をしていた。
将棋に熱中してくると、客を待たせて将棋をさしていたこともある。
客が、その将棋に加わることもあった。
そういう時代と比べてみると、たしかに(現代)はおかしい。
狂っている。
が、みな狂っているから、それが見えない。
わからない。
●飽食の時代の中で
アメリカ(USA)では、肥満をテーマにしたエッセーを書くのは、タブーだそうだ。
それだけで、「差別」ととらえられるらしい。
しかしご存知のように、アメリカ人の肥満には、ものすごいものがある。
どうすごいかは、見たとおり。
あの国では、肥満でない人をさがすほうが、むずかしい。
で、最近、私は日本もそうなりつつあるのを、感ずる。
アメリカ人型の肥満がふえているように思う。
飽食のせいというよりは、アメリカ型食生活の影響ではないか。
ともかくも、そういった人たちは、よく食べる。
このことは以前にも書いたが、浜松市の郊外に、バイキング料理の店がある。
ランチタイム時は、1人、1200円で、食べ放題。
そういうところで食事をしている人を見ると、まさに「食べなければ損」といった感じ。
デザートのケーキでも、一個を一口で食べている。
パク、パク、パク……の3回で、3個!
食事を楽しんでいるというよりは、食欲の奴隷。
「食べる」というよりは、「食べさせられている」。
そんな印象すら、もつ。
もちろんそういう人たちは、例外なく、太っている。
歩くのも苦しそう。
しかしそういう人ほど、「食べたら、損」なはず。
食べれば食べるほど、健康を害する。
が、そういう人たちほど、よく食べる。
●散歩の途中で
私たちの日常生活は、マネーにあまりにも毒されすぎている。
それに気づかないまま、毒されすぎている。
芸術も文化も、マネー、マネー、マネー。
ついでに健康までも、マネー、マネー、マネー。
その一例として、「食べなければ損」について考えてみた。
しかしどうして「食べなければ損」なのか。
たまたま今日、ワイフと散歩しながら、途中でラーメン屋に寄った。
今度から「ランチ・メニュー」が始まった。
ラーメン+ギョーザ+ミニ・チャーハンの3点セットで、580円。
安い!
私は、チャーシュー丼を注文した。
ワイフは、ランチセットを注文した。
が、とても2人で食べられるような量ではない。
ランチセットを2人で分けても、まだ量が多すぎる。
しかし1人分の料理を、2人で分けてたべるというのも、気が引ける。
で、2人分、頼んだ。
が、そこでもあの選択。
「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか?
私はチャーシュー丼には、ほとんど口をつけなかった。
そのかわり、ワイフが注文したランチセットを、2人で分けて食べた。
が、それでもラーメンの麺は、40%近く、食べないで、残した。
大切なことは、「ラーメンの味を楽しんだ」という事実。
味を楽しめばじゅうぶん。
目的は達した。
「もったいないから、食べてしまおう」と思ったとたん、マネー教の虜(とりこ)
になってしまう。
●マネー教からの脱出
お金がなければ不幸になる。
しかしお金では、幸福は買えない。
心の満足感も買えない。
お金の力には、限界がある。
が、その一方で、人間の欲望には、際限がない。
その(際限なさ)が、ときとして、心をゆがめる。
ゆがめるだけではない。
大切なものを、大切でないと思い込ませたり、大切でないものを、大切と
思い込ませたりする。
子どもの世界でそれを考えると、よくわかる。
10年ほど前のこと。
1人の女の子(小学生)が、(たまごっち)というゲームで遊んでいた。
私はそれを借りて、あちこちをいじった。
とたん、あの(たまごっち)が死んでしまった。
その女の子は、「たまごっちが死んでしまったア!」と、大声で泣き出した。
私たちはそういう女の子を見ると笑う。
しかし本当のところ、私たちはその女の子と変わらないことを、日常的に
繰り返している。
繰り返しながら、それに気づかないでいる。
●ではどうするか?
私たちはカルト教団の信者を見て、笑う。
「私たちは、あんなバカではない」と。
しかし同じようなバカなことをしながら、そういう自分に気づくことはない。
自分を知るというのは、それくらい難しい。
つまり自分自身を、そうしたカルト教団の信者に置き換えてみればよい。
あなたならそういう信者を、どのようにして説得し、教団から抜けださせることが
できるだろうか。
いきなり頭から「あなたは、まちがっている!」と言ってはいけない。
梯子(はしご)をはずすのは簡単なこと。
大切なことは、同時に、その人に別の救いの道を提示すること。
それをしないで、一方的に、「あなたはまちがっている」と言ってはいけない。
同じように、自分に対して、「私はまちがっている」と思ってはいけない。
大切なことは、自分の中で、別の価値観を創りあげること。
方法は、簡単。
常に、何が大切で、何が大切でないか、それを問い続ければよい。
何があっても、それを問い続ける。
あとは、時間が、あなたを導いてくれる。
やがてその向こうに、その(大切なもの)が、見えてくるようになる。
(見えてくのもの)は、それぞれみなちがうだろう。
しかし見えてくる。
その価値観が優勢になったとき、マネー教はあなたの中から、姿を消す。
●食べたら損
で、結論は、「食べたら損」ということになる。
いっときの欲望を満足させることはできるが、かえって健康を損(そこ)ねる。
同じように、いくらそのチャンスがあったとしても、人をだましたら、損。
ずるいことをしたら、損。
自分を偽ったら、損。
その分だけ、心の健康を損なう。
「損(そん)」とは、もともと「損(そこ)なうこと」をいう。
失うことを、「損」というのではない。
が、今では、金銭的な損を、「損」という。
またそういうふうに考える人は多い。
「食べたら損」なのか、「食べなければ損」なのか。
そういうふうに迷うときがあったら、あなたも勇気を出して、「食べたら損」を
選択してみたらどうだろうか。
たったそれだけのことだが、あなたの心に、何らかの変化をもたらすはず。
ついでに言うなら、マネーが日本で、一般社会に流通するようになったのは、
江戸時代の中期ごろから。
このことについては、以前、私がかなり詳しく調べたから、まちがいない。
つまりそれまでは、日本人は、マネーとは無縁の生活をしていた。
私が子どものころでさえ、「マネー」を、おおっぴらに口にすることは、
卑しいこととされていた。
それが今は、一変した。
何でも、マネー、マネー、マネーとなった。
マネー教の信者になりながら、信者であることにさえ気がつかなくなってしまった。
その結果が、「今」ということになる。
(付記)
「食べ物を残すことはもったいない」という意見に、一言。
レストランへ行くと、「お子様ランチ」というのがある。
同じように、「シルバー・ランチ」、もしくは「シルバー・メニュー」のようなものを、
もっと用意してほしい。
最近の傾向として、レストランでの料理の量が、多くなってきたように感ずる。
全国規模で展開しているレストランほど、そうで、たいてい食べ残してしまう。
しかしこれは食料資源という面で、「もったいない」。
私も、そう思う。
だから高齢者向けに、高齢者用のメニューをふやしてほしい。
「カロリー少なめ、塩分少なめ、糖分控え目、ハーフサイズ」とか。
もちろん値段も、その分、安くしてほしい
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て
Hiroshi Hayashi 林浩司 BW BW教室 マネー教 金権教 金権教
団)
Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司
●金権教
+++++++++++++++++
お金がすべて……。
お金しか、信じない。
そういう人は、多い。
称して、「金権教」という。
+++++++++++++++++
●戦争の後遺症
あの戦争が残した最大の後遺症と言えば、
金権教と考えてよい。
それまでは天皇が神だった。
その天皇が人間宣言をして、神の座をおりた。
とたん、多くの日本人は、行き場を失ってしまった。
心のより所を失ってしまった。
戦後しばらくの間、放心状態になってしまった人も多い。
戦後、雨後の竹の子のように新興宗教が生まれたのも
そのためと考えてよい。
が、中でも最大の新興宗教といえば、金権教ということになる。
「マネー教」と言ってもよい。
「マネーがすべて」「マネーがあれば幸せ」「マネーがあれば、どんな
夢もかなう」と。
基本的には、現在の日本は、いまだにその(流れ)の中にある。
かなり大ざっぱな書き方をしたが、大筋ではまちがっていない。
●仕事第一主義
ひとつの価値観を妄信すると、他の別の価値観が犠牲になる。
これは私の価値観というよりは、私たちの世代に共通した価値観と言ってもよい。
今でこそ、「仕事より家族のほうが大切」と考える人は多い。
しかし私たちが、20代、30代のころは、そうではなかった。
「仕事か家族か」と問われれば、みな、まちがいなく「仕事」を選んだ。
「仕事あっての家族」と考える人もいた。
だから「仕事」という言葉は、それ自体が、トランプでいえば、ジョーカー
の働きをした。
A「明日、会合に出てくれますか?」
B「私は、仕事がありますから」
A「ああ、それなら結構です」と。
戦前の「お国のため」が、「会社のため」になった。
戦前の「兵士」が、「企業戦士」となった。
仕事第一主義は、そこから生まれた。
「会社人間」という言葉も、そこから生まれた。
しかしそれを裏から支えたのが、金権教ということになる。
●ぜいたくが当たり前
お金がなければ、不幸になる。
それは事実。
しかしお金では、幸福は買えない。
それもまた事実。
お金で私たちは欲望を満足させることはできる。
しかしその欲望には、際限がない。
戦後生まれの私たちと、今の人たちを比較するのもどうかと思うが、
いろいろな場面で、私は、その(ちがい)を強く感ずる。
とくに今の若い人たちの(ぜいたく)を見たりすると、ときに、それに
ついていけないときがある。
もう15年近くも前のことだが、こんなことがあった。
息子たちが、スキーに出かけた。
スキーをするということ自体、私たちの世代には、考えられないことだった。
どこかの金持ちの、最高のぜいたくということになっていた。
が、その息子が、手ぶらでスキーにでかけ、手ぶらで、スキーから帰ってきた。
「荷物はどうした?」と聞くと、息子たちは、平然とこう答えた。
「宅急便で送った」と。
私には、その(ぜいたくさ)が理解できなかった。
そこで息子たちを叱ったのだが、少しあとになって、そのことを友人に話すと、
「今は、みな、そうだ」という返事をもらった。
あとは、この繰り返し。
それが無数に積み重なって、現代という時代になった。
●あるのが当たり前
しかし今はよい。
何とか日本の経済は、持ちこたえている。
しかし日本の経済が、後退期に入ったら、どうなるか。
たとえば今では、子ども部屋といっても、完全冷暖房が常識。
夏は、一晩中、冷房をかけっぱなしにしている。
冬は、一晩中、暖房をかけっぱなしにしている。
今の子どもたちに、ボットン便所で用を足せと言っても、できないだろう。
何でも、「あるのが当たり前」という生活をしている。
これではいくらお金があっても、足りない。
足りないから、その負担は、結局は、親に回ってくる。
ざっと見聞きした範囲でも、現在、親から仕送りしてもらっている若い夫婦は、
約50%はいるとみてよい。
結婚式の費用、新居の費用、出産の費用などなど。
さらには子ども(=孫)のおけいこ代まで。
しかしこうした(ゆがんだ生活観)を支えているのも、金権教ということになる。
「お金を出してやれば、親子の絆(きずな)は深まるはず」
「お金を出してやれば、子どもは、それに感謝するはず」と。
子どもについて言えば、クリスマスのプレゼントにせよ、誕生日のプレゼントにせよ、
より高価なものであればあるほど、よいということになっている。
●金権教と闘う
金権教といっても、まさにカルト。
一度自分の体にしみついたカルトを抜くのは、容易なことではない。
長い時間をかけて、その人の人生観、さらには人生哲学になっている。
「あなたはまちがっていますよ」と言っても、意味はない。
その人は、かえって混乱状態に陥ってしまう。
言うなら言うで、それに代わる別の価値観を容易してやらなければならない。
……と書いたが、それは私たち自身の問題でもある。
金権教と闘うといっても、金権教自体と闘っても、意味はない。
自分の中に新しい価値観を構築し、その結果として、金権教と闘う。
金権教を自分の中で、無意味化する。
が、だからといって、マネーを否定せよとか、マネーには意味がないとか、
そんなことを言っているのではない。
現代社会では、マネーに背を向けては、生きていけない。
しかし毒されすぎるのも、危険と、私は言っている。
へたをすれば、人生そのものを、棒に振ってしまう。
事実、そういう人は多い。
そこでもしあなたに子どもがいるなら、育児の場で、金権教と闘ってみよう。
(1) 子どもには、ぜいたくをさせない。
(2) 子どもには、高価なものを買い与えない。
(3) 子どもには、必要なものだけを買い与える。
少しテーマがちがうが、あのバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)は、
こう書いている。
「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれ
ど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを
与えられる」と。
要するに、「程度を超えない」ということ。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●徘徊(はいかい)心理(Walk About)
+++++++++++++++++
私には、徘徊ぐせがある。
それに気づいたのは最近だが、
ほぼまちがいない。
私には、たしかに徘徊ぐせがある。
たとえば職場でいやなことがあったりすると、
私はそのまま道路に出て、家まで歩いて帰る。
ふだんは、自転車やバス、タクシーで帰る。
が、そういうときは、歩いて帰る。
といっても、急ぎ足で歩いても、1時間半はかかる。
ゆっくり歩けば、2時間以上はかかる。
家に帰ると、ワイフが、私にこう言って叱る。
「どうして電話してくれなかったの!」と。
しかし電話など、できるものではない。
電話する気にもならない。
私は歩くことで、悲しさやつらさを忘れる。
頭の中を、からっぽにすることができる。
それにそういうときというのは、本当のことを
言うと、家には帰りたくない。
どこかを、……とくに目的地はないが、ただ、
どこかをめざして、歩きたい。
当然、歩くと言っても、トボトボ……
という感じになる。
スタスタではない。
が、フラフラというほどでもない。
トボトボ……、である。
まっすぐ家路をめざすというよりは、気が向いた
ところで、角を曲がり、そのまま路地を歩く。
++++++++++++++++++
●徘徊
職を失った人が、失ったことは家族に話さないで、いつものように会社に
出かけるフリをするという話を、よく聞く。
ネクタイを締め、カバンをもって、家を出る。
しかし会社には行かない。
そのままどこかで時間をつぶす。
そして帰宅時刻になると、家路をめざす。
「ただいま!」と言って、家の中に入る。
そういう話を聞くと、多くの人は、「どうしてそんなバカなことをするのか」と
思うかもしれない。
しかし私には、そういうことをする人の気持ちがよくわかる。
私も、同じような立場になったら、同じようにするだろう。
いつものようにネクタイを締め、カバンをもち、会社へ出かけるフリをする。
そしてどこかで時間をつぶして、その時刻になったら、家に帰る。
そういう自分と、先に書いた徘徊ぐせと重ねあわせてみると、そこに徘徊する
老人の心理が浮かびあがってくる。
帰宅するときばかりではない。
家の中で何かいやなことがあると、私は家を出る。
飛び出すというような大げさな行為ではないが、家を出る。
そしてそのあたりを、トボトボと歩き回る。
もしそういうのを「徘徊」というのなら、徘徊ということになる。
で、そういう行動の延長線上に、痴呆老人の、あの徘徊があるとするなら、
徘徊する老人たちの心理が、私には痛いほど、よく理解できる。
徘徊する老人たちは、背中に感ずる不安や心配から逃れたい。
歩けば、それから遠ざかることができると思う。
頭の中をからっぽにすることができる。
だから歩く。
が、けっして目的もなく、歩くわけではない。
歩くこと自体が、目的なのである。
歩くことによって、悲しみや苦しみを忘れることができる。
そこに何があるかわからないが、しかし、何かあるかもしれない
という期待が、心をなぐさめてくれる。
実際、歩いていると、それだけで気がまぎれる。
ワ「どうしてバスに乗って来なかったの?」
私「そういうのとは、ちがうよ」
ワ「タクシーだって、あるでしょ!」
私「そういうのとも、ちがうよ」
ワ「電話くらいしてくれればいいのに。迎えに行ったわよ」
私「そういうのとも、ちがうよ」と。
私は老人になり、認知症か何かになったら、まちがいなく徘徊老人になるだろう。
今の今でさえ、徘徊ぐせがある。
何かいやなことがあると、そのまま外へ出てしまう。
出て、歩き出してしまう。
が、しかし私が認知症か何かになって、徘徊するようになっても、
そのままにしておいてほしい。
歩きたいだけ、歩かせてほしい。
できればそうしてほしい。
……多分、無理だろうが……。
Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司
●映画『真夏のオリオン』
++++++++++++++++
私は潜水艦映画が、大好き。
閉所恐怖症だからこそ、潜水艦映画が、大好き。
潜水艦の出る映画は、ほとんどすべてを観てきた。
……ということで、今夜、映画『真夏のオリオン』を観てきた。
涙もろくなったせいもあるが、何か所で
涙がポロポロと出た。
が、だからといって、映画がよかったわけではない。
星は2つもむずかしいかなというところの、2つ。
★★(-)
理由がある。
++++++++++++++++
(1)冒頭のシーンとラストのシーンで、元潜水艦の乗組員だった老人と、
若い女性が、会話を繰り返す。
そのセリフが不自然。
まるでよくできた作文を読んでいるかのよう。
だいたい、「こんなところで老人と若い女性が面会するだろうか?」と
思うような場所で、2人は、面会する。
(2)その若い女性だが、美しく見せたいという気持ちはよくわかる。
しかし化粧のしすぎ。
歩き方も、カメラを意識しすぎてか(?)、不自然。
ぎこちない。
つまり自然ぽさのないのが、日本映画の欠点。
(3)くだらない説教と、説明が多すぎる。
何も私たちは反戦映画を見に行ったわけではない。
また乗組員が何かの装置を操作するたびに、その説明がつづく。
さらに例によって例のごとく、俳優たちが、力みすぎ。
もう少し肩の力を抜いて、自然ぽく演技してほしかった。
(4)いわゆる「お涙ちょうだい」的な構成が、できすぎ。
一枚の楽譜が、乗組員の命を救ったというストーリーだが、どこか『一杯の
かけそば』風。
昔、『ビルマの竪琴』という映画があった。
『真夏のオリオン』を観ている最中、その映画を思い出した。
(5)エンディングで、「映画が終わった」と思って席を立ったところで、突然、
映画のおまけシーンが出てくる。
「せいこいことをするな」と、私は感じた。
やり方が、姑息。
だから星は2つでもむずかしいかな……ということで、★★(-)。
日本映画よ、もっと「自然ぽさ」を追求せよ!
「映画というのはこういうものでござる」式の演技には、うんざり!
俳優が心底、その人物になりきって演技する。
映画のおもしろさは、そこから生まれる。
その原点を、もう一度、みなが確認してほしい。
(辛辣な批評で、ごめん!)
Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司
●中国の教育の現状
++++++++++++++++++
中国の教育の現状を知ると、そのまま
それが40年前、30年前の日本であることを知る。
中国は日本を追いかけているのか。
それとも日本とは別の道を進みつつあるのか。
あるいは日本も中国も、同じなのか。
Record Chinaは、中国の教育にかけるのは、
「議論」と「消化」であると看破している。
+++++++++++++++++++
Record Chinaは、中国の教育の現状について、『中国では、哲学者は育たない』
と出して、つぎのように伝える(ヤフー・ニュース・09・06・14日より転載)
『2009年6月、米紙ボストングローブは記事「米国人学生の目から見た中国の教育」
を掲載した。米国の私立小学校、公立中学校を卒業した学生が、中国の教育について語っ
た。12日、鳳凰鋭評が伝えた。
米国の教室では子どもたちはいつもわいわいと騒いでいた。一方、北京の学校は厳粛な空
気に包まれて息苦しいほど。しかしボストンの学校で学んだことは北京の学校で学んだこ
とよりも多かったように思う。
中国の勉強方法といえば、教科書の暗唱、黙って問題を解く、あるいは声をそろえての発
話練習など。すべては受験の準備にあてられている。それも仕方がないところだろうか、
中国の高校や大学は点数だけで計られるからだ。中国の学生が必死に勉強するさまは、名
門ハーバード大学を目指す米国学生ですらもかなわないだろう。
ただし自由討論や自分なりの解決方法の模索に慣れた米国人学生にとって中国の授業はあ
まりにも空虚で制約されたもののように思える。中国では1クラスには平均45人の学生
がいる(ボストンでは28人)。学生の数も教師が一人一人に気をかけることを難しくして
いる。
中国の教育課程は自由度が少なく、数学もコンピューターの授業もただ一つの解決方法し
かない。作文の機会も少なく、読む本といえば歴史や古典、漢詩ばかりで小説を読むこと
は少ない。しかしこうしたなか、学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消化すること
ができない。米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部
であるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない。中国の学校にも多くの長所が
あろうが、しかし哲学者を育てるものではないようだ』(以上、翻訳・編集KT)。
この記事の中で、とくに気になったのは、「学生は議論の機会を持てず、学んだ知識を消
化することができない」という部分。
「議論」と「消化」。
さすがアメリカの学生。
鋭いことを指摘している。
(1)議論
日本の教育の最大の欠陥といえば、「議論しない」という点にある。
「議論を許したら、教育がバラバラになってしまう」と考える風潮すらある。
明治の昔から、さらに江戸時代の寺子屋の昔から、この日本では、「もの言わぬ従順な民づ
くり」が基本だった。
「教育」という言葉にしても、「教え育てる」(田丸謙二先生指摘)。
さらに「学ぶ」という言葉も、「マネブ」、つまり「まねる」に由来するという(同)。
つまり上意下達方式が、日本の教育の(柱)になっている。
(2)消化
知識や情報は、脳の中で一度加工されて、はじめて意味をもつ。
加工されない知識や情報は、ただの知識であり情報。
田丸先生は、「そんなものは、今ではインターネットで自由に手に入れることができる」と
言っている。
つまり無価値。
そういう無価値なものを、価値あるものと錯覚しているところに、日本の教育の最大の悲
劇がある。
(ちょっと言いすぎかな?)
もちろん、だからといって情報や知識を否定しているのではない。
大切なことは、情報や知識を得たら、それを頭の中で加工すること。
わかりやすく言えば、「自ら考えること」。
田丸先生は、「Independent Thinker」(自分で考える人)という言葉を使って、それを説明
している。
「教育では、自分の頭で考えさせることが、何よりも大切」と。
1971年にペキン大学に留学したことのあるD・キシア君(現在、私の親友)は、こう話してくれた。
「みな、中国の学生はテープレコーダーみたいだった」と。
つまりみな、同じようなことしか、言わなかった、と。
同じようなことを田丸先生も、私に話してくれたことがある(YOUTUBEに収録)。
それから40年。
中国はいまだに、その流れの中にあるらしい。
では、この日本はどうなのか?
だいじょうぶなのか?
その一例として、私はテレビ番組の、あのバラエティ番組をあげる。
何もバラエティ番組が、日本人の脳みそに影響を与えていると思っているわけではない。
ああいう番組が無数にあり、つぎからつぎへと同じような番組が生まれているというとこ
ろに、日本人の思考能力の貧弱性が集約されている。
視聴率を稼げるから、テレビ局もそういった番組を作りたがる。
つまり日本人が総バラエティ番組化しているのではなく、日本人自身が、そういう番組を
下から支えている。
脳に飛来した情報を、ペラペラと口にしているだけ。
だれも考えない。
何も考えない。
だからいくら話をしても、その話は、そのままどこかへ消えていく。
ただの雑談。
もちろん哲学を生み出すなどということは、夢のまた夢。
言うなれば、情報のゴミ。
そのゴミの中に埋もれながら、私たちは生きている(?)。
(これも、ちょっと言いすぎかな?)
ともあれ、「議論」と「消化」。
この記事を読んで、私はこの2つの言葉に、ドキッとした。
つづいて、「米国人にとっては深く思索すること、決断することこそが教育の重要な一部で
あるが、中国の中高生にはほとんどこうした経験がない」とまで言い切っている。
「さすが、アメリカの学生!」と、私は感心した。
と同時に、「いつになったら、日本の学生も、そういうことを言うことができるようになる
のか」と、不安になった。
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2009年7月17日金曜日
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