2009年7月22日水曜日

Big Devil vs Small Devil

●近況・あれこれ(090722)

●私は「男」ではない?

 若いころほどではない。
ないが、今でも若い女性の胸元が見えたりすると、ドキッとする。
が、最近の若い女性、それに母親たちは、無防備と言えば、無防備。
それに大胆。

 話はそれるが、学生時代、金沢で外人相手の観光ガイドのアルバイトをしていた
ことがある。
そのときのこと。
カナダ人夫婦が、女子高校生を連れてやってきた。
その女子高校生が、今で言うタンクトップというのを着ていた。
当時、ああいう服装をしている日本の女性は、いなかった。
若い女性でもいなかった。
そのため、私は金沢の街の中をいっしょに歩きながら、しばしば歩けなくなってしまった。
どうして歩けなくなってしまったについては、今更、ここに書くまでもない。

 が、今では、タンクトップなど、珍しくも何ともない。
とくにこの浜松市には、南米からの労働者たちがたくさん住んでいる。
一番多いときで、3万人前後になった。

 その人たち。
これまた大胆というか、ノーブラの上に、胸元を大きく開けた、薄いシャツ一枚。
店の中で通り過ぎたときなど、目のやり場がない。
どうしたらいいか、そのつど迷う。

 そうした影響もあるのだろう。
このところ日本の若い女性たちも、大胆になってきた。
若い母親たちも、大胆になってきた。
平気で(?)、胸元を見せたりする。
が、私はそういうとき、別のことを考える。
「私だって、まだ男だ!」と。

 若い母親たちから見れば、私は、彼女たちの世代からはるか離れた
ジー様ということになる。
私自身の若いころを思い出してみると、若い母親たちがどう思っているか、よくわかる。
20代、30代のころ、50歳、60歳の人は、別世界の人のように思えた。
はっきり言えば、どうでもよい世界の人たちに思えた。
それはわかる。
しかし私は、今でも「男」である。
「男」を棄てたわけではない。
だから、ドキッとする。
と、同時に、「ああ、私は男に思われていないのだ」と知り、がっかりする。

 何年か前のことだが、こんなこともあった。
ある母親が私に、こう言って相談してきた。

 「兄(小3)と妹(幼稚園児)が、私のおっぱいを取りあって、喧嘩をします。
どうしたらいいでしょうか」と。

 話を聞くと、「兄が左、妹が右と決めているのですが、それでも喧嘩になります」と。
で、私は、思わず、「どうして?」と聞いてしまった。
「どうして兄が左で、妹が右?」と。
するとその母親は、私の目の前で、両方の胸を両手で下からもちあげて見せ、
「ほら、先生、左のほうが大きいでしょう」と。

 そのとき気がついたが、その母親はノーブラだった。
そしてそのときも、こう思った。
「私だって、男だ」と。

 その母親は、美しい人だった。
それでよけいに印象に残った。

 で、この話をそのあとワイフにすると、ワイフもこう言った。
「かわいそうね。あなたは、男と見られていないのよ。
牧師さんか、まあ、そんな人のように思われているのよ」と。

 しかし結びに、もう一言。
私だって、まだ「男」だア!


●人間性の壊れた人

 今日、ドライブをしながら、ワイフとこんな会話をした。
先日、私の庭に、マムシが出た。
その話をすると、ワイフの義兄の家にも、一度、マムシが出たことがあるという。
しかもそのマムシというのは、どうやら義兄の隣人が投げ込んだものらしい、と。

私「それって、殺人未遂だよ」
ワ「そうね、それでかまれて死ねば、殺人罪よね」
私「そうだよ」と。

 しかしマムシに名前があるわけではない。
つまり隣人が投げ込んだという証拠もない。

 そこで話が進んだ。
私「じゃあさあ、今度そういうことがあったら、マムシを隣へ投げ返してやればいい」
ワ「そんなこと、できないわよ」
私「それもそうだね。そういうことをすると、気分が悪くなるよね」
ワ「そうよ。……でも、そういうことが平気でできる人というのは、すでに
人間性が破壊されている人とみていいわね」

私「そう、まともな人なら、そういう隣人とは関わりたくない。そう思うよ」
ワ「でもね、そういう人は多いわよ。そういうことが平気でできる人……」
私「そう言えば、それに似たような話を、A君(学生時代の友人)から、
聞いたことがあるよ」と。

 それはこんな話だ。

 数年前、その友人の父親が死んだ。
90歳だったという。
それまで父親は、実家に、ひとり住まい。
友人の姉が訪れてみたときには、すでに死後、2、3日もたっていたという。

 で、連絡を受け、あわてて友人が実家へかけつけてみると、1、2通の通帳類を
残して、現金など、財産的価値のあるものは、きれいに消えていたという。
ついでにA君が子どものころ集めていた、古銭や切手も!
その直前に、友人の姉が、すべて持ち出していた。

 が、友人にすれば、それどころではない。
こうした不審死のばあい、警察が介入してくる。
友人は、取り調べも受けた。

 で、葬儀も無事済み、1か月ほどがたったときのこと。
姉から手紙が送られてきた。
中身を見ると、古い株券が10枚ほど入っていたという。
「価値のあるものか、どうか、調べてほしい」と、手紙にはそうあった。

 そこでその友人が、市内の証券会社にもちこみ、調べてもらうと、数千円分の
価値しかないことがわかった。
で、友人は、姉にそのことを連絡した。

 が、この話には裏がある。
実は、A君の姉は、その株券がその程度の価値しかないことを、すでに知っていた。
知っていた上で、A君に送り届けてきた。
よくある『小悪を暴露して、大悪を隠す』という手法である。
小ずるい人間が、よく使う手である。

 つまり小悪を、わざと暴露する。
そうして自分は正直な人間ですということを、相手に印象づけながら、一方で、
大悪を隠す。

ワ「その姉さんという人も、相当の悪ね」
私「そうなんだよな。だれでも頭の中では、いろいろ考える。ときには、悪いことも
考える。しかしそれを実際に実行する人となると、そうはいない」
ワ「そうね、そういうことが平気でできる人というのは、人間性が壊れていると
みるべきね」
私「そうだよ。友人もそう言っていた。『姉とは縁を切った』とね」と。

●善人と悪人

 善人と悪人の(差)は、(距離)の問題と考えてよい。
だれしも、悪いことを考える。
考えるが、実行するとなると、別の覚悟が必要である。
その(考えること)と、(実行)の間には、(距離)がある。
それが善人と悪人の(差)ということになる。

 善人は、その(差)が、大きい。
悪人は、その(差)が小さい。

 たとえば、だれしも、「こうすればいい」というようなことまでは、考える。
その中には、悪いことも含まれる。

私も、若いころは、銀行強盗の仕方を、毎晩のように考えた。
(一度もそれについて書いたことはないが……。というのも、真似をする人が
出てくると困る。しかし私が考えた方法は、完璧なものである。ワイフにそれを
話すと、ワイフは、「ハリウッドへ原稿を送ってみたら」と言った。
つまりそれほどまでに、斬新で(?)、確実性のあるものだった。)

ほかにアメリカ映画のような、現金輸送車の強盗も考えた。
当時、そういう映画がよくはやった。
しかし考えても、私は実行しない。
それが(距離)となる。

 で、話を戻す。
ここに書いた、『小悪を暴露して、大悪を隠す』というのも、その一例である。
それができる人は、できる。
できない人は、できない。

たとえば小悪を暴露することは、それほど難しいことではない。
それによって、自分を善人に仕立てることもできる。
しかしその一方で、大悪を隠すとなると、心は大きく揺れ動く。
人間の心というのは、自己矛盾に対しては、それほどタフにできていない。
精神は緊張状態に置かれ、ついで、不安定になる。

 それがいやだから、つまり心が不安定になるのがいやだから、ふつうの人なら、
それをしない。
(考え)と(実行)の間に、(遠い距離)を覚える。
しかし人間性が壊れている人は、そうでない。
平気でそれができる。
したところで、罪の意識を覚えない。
ごく日常的な行為として、それができる。

ワ「周囲の人たちは、その姉さんのことを、どう思っているのかしら?」
私「そう、ぼくも、それをA君に聞いたことがある。
そしたらA君が言うには、A君の周囲の人たちは、みな、そういう人たちばかり
と言っていた」
ワ「類は友を呼ぶ……だったかしら?」
私「そう。友は類を呼ぶでもいいよ。そういう人たちは、そういう人たちどうしで集まり、
居心地のいい世界を作るもんだよ」
ワ「いや~ネ」
私「ホント」と。

 A君の姉もそうなら、姉のダンナも似たような人という。
一見まじめそうだが、小ずるくて、いつもセコセコしている、と。
さらに姉がいちばん親しく行き来している、伯父にあたる人もそうだという。
まさに『類は、友を呼ぶ』ということか。

●では、どうするか?

 人生も長ければ、それでもよい。
しかし10年など、あっという間に過ぎてしまう。
とくに60歳を過ぎると、人生も秒読み段階に入る。
そうなると、無駄な人と、無駄な時間を過ごすこと自体が、苦痛となる。

 さらに人間性に欠ける人たちとつきあっていると、こちらの人間性まで、
変調してしまう。
つまりその分だけ、時間を無駄にする。
そこで教訓。

(1) 小数の人たちと、より深く交際する。
(2) より高次元の人を選んで、交際する。
(3) 低次元の人たちとは、勇気をもって、縁を切る。

 原稿をさがしてみたら、昨年(08年)の3月に、同じようなことを書いたのを
知った。

それをそのままここに、転載する。
ここに書いたことが、ひとつの結論になるのではないだろうか。

++++++++++++++++++++++++

●私らしく生きる(I live as I am.)

If someone speak ill of you behind you, what will you do? In may case I cope with such a
problem, just ignoring him or her. We don’t have to be a good friend for all the people.
There is a saying in England, that we can’t be a good man to two people together. In
Japan we say that those who wish to be a good man to everyone are called “8-direction
good man”. We rather despise this sort of man. This means to be a good man to someone
means to be a bad man to another man. We are often forced to choose one of them.
Moreover the older we get, the less time we have. We don’t have time to waste but to go
forward with good people around us. Our life itself is so limited. This is an article I write
about it.

+++++++++++++++++

ときとして人との交わりは、わずらわしい。
こちらが望まなくても、災いは、向こうからやってくる。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとする。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。

弁解したり、反論したり、言い争う必要もない。
「必要もない」というより、
そういうことをしても、意味はない。

サルはサルと喧嘩する。
イヌはイヌと喧嘩する。
(ちょっと言いすぎかな?)

その相手が気になるということは、
あなた自身も、そのレベルの人間ということ。
あなたが相手を超えてしまえば、
その相手が気にならなくなる。

無視すればよい。
相手が近づいてきたら、それなりに
適当にあしらっておけばよい。

やがて相手は、自らを追いこんでいく。
あなた以上に、苦しんだり、悩んだりする。
いやな思いをする。

つまりは、「根くらべ」ということになる。

その根くらべのできる人を、「丸い人」という。
「賢い人」という。

私のばあいも、あるときから、八方美人で
あることをやめた。
英語の格言にも、「2人の人にいい顔はできない」
というのがある。
年を重ねれば重ねるほど、そうで、人は人を
選んで生きるようになる。

言いかえると、「去る人は追わず」ということか。
そのため友人の数もぐんと減るが、その分だけ、
残り少ない友人たちとの関係が、濃密になる。

・・・というものの考え方に、当初は、自信がなかった。
「広く浅くつきあうことこそ大切ではないか」と
迷ったことも、しばしばある。

たしかにビジネスの世界では、そうかもしれない。
知人の輪は、それが広ければ広いほど、利益につながる。
「名刺の数が多ければ多いほど、金が入る」と説く人もいる。

が、私は、エイズを発症した一人の青年の
手記を読んだとき、私は、自分の考え方が
正しいと確信をもった。その青年は、こう書いていた。

「私の人生は残り少ない」「無駄にできる時間はない」
「だから無駄な人と無駄な時を過ごす時間は、もうない」と。

それを書いたのはアメリカ人の青年だった。
で、それを読んだとき、私もこう思った。
「私にも無駄にできる時間は、もうない」と。

その後、その青年は、半年足らずで亡くなったそうだ。
しかしその青年の半年と、私がまだもっているであろう
10年と、どこがどうちがうというのか。
20年でもよい。
半年を短いといい、20年を長いと、どうして言う
ことができるのか。

この広い宇宙を基準にして考えれば、半年であろうと、
20年であろうと、ともに星がまばたきする瞬間に
過ぎない。どこもちがわない。

しかも20年あるとはかぎらない。明日、交通事故
か何かにあうかもしれない。あさって、不治の病を宣告
されるかもしれない。

だったらなおさら、私には、無駄にできる時間はない。
さらに言えば、無駄な人と無駄に過ごす時間は、ない。

・・・と考えていくと、自と結論が出てくる。

私たちは人を選びながら、生きていく。
当然のことながら、相手も、私という人間を選びながら
生きていくだろう。「あの林はいやなヤツだ」
「あの林とは、もうつきあわない」と。

しかしそれはそれで、かまわない。
かまわないから、私は私で生きていく。
人は、人、それぞれ。

あなたを悪く言ったり、非難したり、
中傷したりする人がいたとしても、気にしない。
言いたいように、言わせておけばよい。

そういう人と、こちら側から、あえて
仲よくする必要はない。ないから、別れる。
古い言い方をするなら、「縁を切る」。
縁を切って、そのまま忘れる。
時の流れに任せる。

どうせ私にしても、あなたにしても、
50年を超えて、生き残ることはない。
100年を超えることは、ぜったいに、ない。

そう考えて、私は私で生きていけばよい。
あなたはあなたで生きていけばよい。

やがて相手は、自らの愚かさの中で、
自らクビをしめていくだろう。
不愉快な思いをするのは、その相手自身ということになる。

(追記)

 私のまわりにも、口だけ出してくる人は多い。しかし口を出すくらいなら、だれにだっ
て、できる。しかもこちら事情も知らないで、そう言ってくるから、たまらない。あるい
は、どこからか一方的な情報だけを聞いて、そう言ってくるから、たまらない。

 さらに権威主義というか、1、2歳、年上というだけで、そう言ってくる。私は内心で
は、「ごちそうさま」と思うが、しかしそれは言わない。言っても無駄。それなりの人物な
ていない。

 だから相手にしない・・・ということになる。が、相手にしないでおくと、その相手は
ますます墓穴を掘り始める。騒げば騒ぐほど、だれからも相手にされなくなる。

 大切なことは、そういう相手はもちろん、そういうことも忘れて、私は私、あなたはあ
なたで、サバサバと生きていくということ。「無視する」というのは、そういう意味。

(追記2)

 この原稿をたまたま横にいたワイフに読み聞かせると、ワイフはこう言った。「冠婚葬祭
がそうね」と。

 ワイフの姉(=私の義理の姉)は、いつもこう言っているという。「もう何十年もつきあ
いはないのに、冠婚葬祭の連絡を受けたりすることがある。うちは本家(ほんや)だから、
顔を出さないわけにはいかない。しかし出るたびに、どうしてこんなつきあいをしなけれ
ばならないのかと疑問に思う」と。

 「田舎」と呼ばれる地方では、こうした風習を断ち切るのは容易ではないかもしれない。
「親戚づきあい」という言葉が、いまだに色濃く残っている。しかしみなが、声を合わせ
ていっせいに断ち切れば、この日本も変わる。

ワ「でも、私たちが断ち切るということは、私たちも相手の人から、断ち切られるという
ことになるのじゃない?」
私「そうだね。だからぼくは、たとえばお前の葬式やぼくの葬式には、だれも来なくても
かまわない。息子の結婚式だって、ほんとうに祝ってくれる人だけが集まってくれた。ぼ
くはそれでいいと思う」
ワ「孤独にならないかしら?」

私「みんな、ほんとうは、孤独なんだよ。みんなその孤独を、ごまかしながら生きている
だけなんだよ。しかしいくらごまかしても、孤独から逃れることはできない」
ワ「冠婚葬祭に、みなが集まってくれるからといって、孤独がいやされるというものでは
ないわね」
私「そう。孤独というのは、もっと別のところにある。だからもっと別の戦い方をしなけ
ればならない。孤独と戦うということは、そんな簡単なことではないんだよ」と。

 私が臨終のときは、ワイフと、もしできれば息子たちがそこにいてくれれば、それでよ
い。葬式も、そうだ。派手な葬式など、望むべくもないが、そんなものをしてくれる必要
はまったくない。

ワ「でも、叔父や叔母の葬儀などは、どうしたらいいの?」
私「そのときの気持ちに、すなおに従えばいい。参列したいと思えば、参列すればいい。
そうでなければ、参列しなければいい。義理にしばられる必要はない」
ワ「でも、相手が、不愉快に思うわよ」
私「そう思うなら思わせておけばいい。どうせその程度の人間関係なんだよ」
ワ「でも反対に、うちの葬式には、だれも来なくなるわよ」
私「ハハハ、それも結構。いいじゃない、それで。どうせその程度の人間関係。うるさい
連中は、こちらから願い下げだよ」と。

(追記3)

 「親戚づきあい」とは言うが、私自身の人生を振りかえってみたとき、たとえばこの私
をその家に一泊させてくれたことがある親戚と言えば、母の実家の1軒しかない。金銭的
な援助を受けた親戚といえば、1軒もない。

 (反対に我が家に泊めてやった親戚となると、何十人もいるぞ!)

 こうした事情は、いまでは、たいていどこの家庭でも似たようなもの。親戚といっても
形だけ(?)。そんな親戚も、少なくない。が、なぜか、日本人は、「親戚」というだけで、
その言葉にしばられる。

 私たちは今、「親戚づきあい」そのものを考えなおす時期に来ているのではないだろうか。
江戸時代の昔ならいざ知らず、今は、もう「血筋」にしばられる時代ではない。こだわる
時代でもない。またそうであってはいけない。

 親戚であっても、また親戚でなくても、そこにあるのは、純然たる人間関係。その人間
関係は、中身を見て判断する。形や外見ではない。中身だ。

 (今日の私の意見は、少し、過激かな?)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

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