2009年7月31日金曜日

*Crisis of Divorce

【ある夫婦の問題】

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東北のある県にお住まいの、TRさん(男性)より、
夫婦の問題についての相談がありました。

それについて、考えてみたいと思います。

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【TRさんより、はやし浩司へ】

お忙しいところ申し訳ございません。

今家の中は妻と娘の問題で騒然、混沌としておりどう解決していけばいいかわからない状態です。先生のお知恵をいただき何とか解決の糸口を見つる事が出来ればと思っています。宜しくお願いします。

妻とは職場結婚し20年経ちます。私は整形外科医師で、妻は元看護師です(結婚と同時に退職)。結婚当初から気に入らないことがあると、1週間でも口を利かなくなり私を無視するところがありました。離婚を匂わせる発言も数回ありました。私はどちらかと言うと家族の絆・連帯を重んじたいほうで、家内にはそれも重荷になっていたようです。

1年3か月前ちょっとしたことで家内が激高し、それ以来寝室は別で、家庭内別居の状態が続いています。元々お互いにセックスレスだったこともあり、今は家内に触れただけで大声を上げて嫌がるようになってしまいました。

激高したちょっとしたことについて少し書きます

・・・早めに病院に行かねばならず、・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・車庫内で家内は興奮し近所に聞こえるような大声で泣きながら怒り始めたので、平謝りに謝った。翌日自動車会社に私から電話謝罪し、「たいした傷ではないので大丈夫ですよ」と言ってもらった。

その日以来、寝室は別になった・・・

対外的に妻は非常に良い人で、幼稚園や小学校でお母さん連中に慕われています。私の両親にも献身的で、祖父母が存命だった時は、病院への送り迎えや母が仙台で手術を受けたときなどは家族のために、ウィークリーマンションを借りたり、下準備を全て行ってくれ、至れり尽くせりで、家族は感謝していました。

また私の父が2年3か月前に亡くなり、F市で暮らしていた母と統合失調症の弟が2人残されたので、3か月ほど前I市の我が家から500メートルはなれたところのマンションを借りるのにも尽力してくれました。

でも私には家庭内別居になってから「おはよう」「おやすみ」「おかえり」などの基本的な挨拶さえも全くありません。

12歳になる長女は、3歳頃から、「どうして、どうして」といいながら2~3時間は泣くことがしばしばありました。家が微妙な状態になった頃突然受験すると言って、中学受験を決意しました。私が殆どマンツーマンで勉強を見ました(家庭教師もつきましたが)。今は片道1時間半かかるM町までバスと電車を乗り継いで通学しています。

しかし今だ1週間に1回くらいは、「自分だけどうして、どうして」と、2~3時間大声で幼児返りのようにして泣き続けます。私立中学入学当初は「一番になる」と豪語していましたが、最近は反抗期も重なり、イライラが強く腰を据えて勉強できなくなってきています。中間テストの2週間前は椅子に座ったと思ったら、数秒で立ち上がることを繰り返し、下の子供が寝ると歯磨きをし始める有様に成りました。

もちろん成績も200人中180位くらいでした。「こうやって自分は落ちこぼれていくんだ」と、自分に言い聞かせているようにつぶやきます。今は下の子と帰ってきてから2~3時間遊んで(と言うより遊んでもらって)、下の子が寝る9頃から1時間かけて、10分くらい宿題をして寝てしまいます。

制服も帰ってきてからどんなに注意しても脱いだままにしています。「勉強したほうがいいのでは」などというと、「今しようと思っていたところなのに、言われたからやらない!」と拒絶します(言わなかったら殆どしません)。

下の子には思いっきり意地悪をすることが多く、家内は娘を怒ります。娘はここぞとばかり、「下の子ばかりかばってどうして自分だけ怒られなければならないの、下の子の方が悪いのに」と言ってまた泣きます。

家内にダッコを求めますが、家内は仁王のように腕組みして立ちはだかり、私に対するのと同じように、「触られたくない」と、拒絶します。弟との差を感じてますます娘は泣きます。

長男は今のところ明るい社交的な子に育っており、母の愛情も充分受けています。でも家庭内のギクシャクのためか、切れやすくなってきています。

私の対応としては、出来るだけ家庭内で明るく振舞い家内が嫌な (しつこくする)ことを出来るだけ避けるようにしています。でも家内は冷たい・・・

離婚相談のA先生に、円満になれるように相談し始めたところです(家内に内緒で)。家内に第三者に入ってもらって相談することで建設的になれればと話を持ちかけましたが、「それは修復したいと思っている人のすることで、私はこの家にも子供にも未練がない。親権もくれてやる。あなたにしても、子供にしても帰ってくるのが苦痛だ。私を早く一人にさせて。」と言います。

全てが本心でないのでしょうけど、私に対することは本心と思われます。「子供には両親が必要だし、下の子が20歳になるまでは我々の責任だ」と説得していますが、最近は内心そこまで持たないのではと思います。

家内の精神面がかなり荒廃していると思われ、精神科の先生にも相談し安定剤を処方したことがありますが、「私は精神病なんかではない!」と言い、1回内服してくれただけで拒絶されました。それからは何か相談しても、(娘のことに関しては会話がかろうじて出来ます)、「精神病の人に聞かないで」と言われてしまいます。

出来るだけ家内を解放し、実家のT市に少しでも帰るよう仕向けていますが、外へ向けての完ぺき主義の家内は、夏祭りの準備などで殆ど帰れないようにがんじがらめになっています。

今まで家族のためにと思って頑張って働いていたのに、私も死にたい気持ちになったりしています。ただこのまま私が死んでしまったら子供たちがかわいそうで、母と妹も引っ越してきてどうしようもないし、私が弱ったらだめと言い聞かせています。

わたしの精神もかなり磨り減っており、本を片っ端から本を読んだり、Y先生の「悟りの子育て」などを読み漁っています。

とに角怒らずに子供を過保護かもしれないけど、抱きしめるようにしています。
ダブルベットで上の子と私は一緒に寝ています。下の子のベットで家内は寝ていますが、私の部屋が涼しいので、下の子もダブルベットに来るようになり、3人で川の字に寝ることが多くなりました。

このままでは子供の精神が壊れてしまうのではないかということと、家内も相当壊れてきているのではないかと言うことが心配でなりません。最近は、(家内にだけ秘密)、両方の家族に実情を説明し、サポートを期待しています。

あと私に出来ることは何でしょうか?
このまま現状維持で子供は大丈夫でしょうか?
やはり子供が巣立ってから離婚になるのでしょうか、子供のために今離婚したほうが良いのでしょうか?

無理難題の質問してしまい申し訳ありません。
何卒ご回答宜しくお願いします。

【はやし浩司より、TRさんへ】

●運命論

 こうした問題は、離婚問題にかぎらず、やがて流れるところに流れ、そこで解決します。
その(流れ)を感じたら、身を任すこと。
離婚問題、子どもの問題も、その結果として、自然に解決していきます。

(流れ)、……それを私は「運命」と呼んでいますが、この運命というのは、それに
逆らえば、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。
しかしそれを受け入れてしまえば、向うからシッポを巻いて逃げていきます。
(現在は、きばをむいて、あなたに襲いかかっている状態です。)

今のあなたは、(離婚する決意もできず)、同時に(関係を修復する決意もできず)、その
はざまで、悶々と苦しんでいます。
つまり「このままではいけない」という気持ちと、「何とかしたい」という気持ちの中で、
はげしく葛藤しています。
「何かをしなければならない」という気持ちと、「何をしたらいいのだ」という気持ちの
中で、です。

 こうした心の状態は、心理学でいう、『フリップ・フロップ理論』で、説明されます。
つまりどちらにころぶこともできず、フラフラの状態ということです。
もともとは、無神論の人が有神論に、有神論の人が無神論になるときの心理状態を
説明したものです。(日本では、この理論を知っているのは、私だけかと思います。)

 が、こうした状態に、人は、それほど長くは耐えられません。
はげしい葛藤がしばらくつづいたあと、コロリとどちらかに倒れます。
だから私は勝手に、『コロリ理論』と訳しています。

 そうそう私が言う「運命論」というのは、今はやりの、スピリチュアル(霊的)な
ものではありません。
私たちには、それぞれ無数の目に見えない糸がからんでいます。
家族の糸、社会の糸、環境の糸、生い立ちの糸などなど。
その(糸)がときとして、私たちの進む方向を、勝手に決めてしまいます。
で、振り返ってみると、そこに(道)ができているのを知ります。
私はそれを「運命」と呼んでいます。

●離婚
 
 順に考えていきます。

 まず離婚ですが、離婚そのものが、子どもの心に影響を与えるということは、あり
ません。
子どもはそのつど状況を受け入れ、それに適応していきます。
が、離婚に至る、家庭騒動は、子どもに大きな影響を与えます。
はげしい夫婦喧嘩、対立、騒動、言い争い、いがみあい、など。
(子どもというのは、環境的な変化には、すばらしい適応能力を示します。
が、愛情の変化には、たいへんもろいということです。)

子どもが乳幼児であれば、基本的不信関係、基底不安の原因となることもあります。
心の開けない子どもになったり、慢性的な不安感をいつも覚える子どもになったりします。
最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のほとんどは、乳幼児期の
親子関係(とくに母子関係)に起因するというところまでわかってきました(九州大学)。

 だから家庭騒動は、最小限に。
離婚するにしても、「明るく、さわやかに」(某タレント談)が、鉄則です。

●潔癖症 

 で、奥さんの潔癖症が、気になります。
神経症のひとつということになっていますが、こだわりが強い分だけ、やはり心の病を
もっておられるように感じます。
病識があればよいのですが、いただいたメールによれば、その病識がないようですね。
こういうケースのばあい、奥さんが平常なとき、「それが本来の姿」と、奥さんに
気づかせるのがよいわけです。
が、家族(=夫のあなた)では無理です。
 
 たとえばTRさんが、その話題をもちだせば、とたんに烈火のごとく、奥さんは、
それに反発してしまうでしょう。
だからカウンセリング……ということになります。
どなたか間に入って、奥さんと冷静に話せる人がいらっしゃるとよいのですが……。
(あるいは奥さん自身は、すでにそれに気づいておられるのかもしれません。
自分でもどうしようもなく、自己否定から自暴自棄になっておられる可能性もあります。)

 私は、こだわりの強さと、心の緊張状態から、奥さんのうつ病を疑っていますが、
そのあたりのことは、一度専門医に相談なさってみられたらどうでしょうか。
(奥さんも、そういう点では、表面的にはともかくも、不幸にして不幸な家庭環境に
育った女性とみてよいのでは(?)。
とくに奥さんと、奥さんの母親との関係が、乳幼児期に、不全だったように感じます。)

●子どもの進学

 つぎに12歳の長女の進学問題についてです。
この際、子どもの進学問題については、あきらめなさい。
つまりTRさんの手に負えるような問題ではないということです。
が、鉄則があります。

(1)「なるようになれ!」と、自分の心から進学問題を切り離すこと。
(2)「許して、忘れる」を貫くこと。
(3)「暖かい無視」を忘れないこと。
(4)「求めてきたときが、与えどき」と心得て、すかさず、必要なことはしてやること。

 これが「あきらめる」の意味です。
「捨てろ」とか、「育児放棄しろ」とか、そういう意味ではありません。
もちろんお嬢さんを切り離せということではありません。
切り離すのは、「進学問題」だけです。
どんなに成績が悪くても、「友」として、子どもの横に立つということです。

 で、その上で、私は、『あきらめは、悟りの境地』という格言を考えました。
そこは実におおらかで、すばらしい世界です。
子育ての極致のようなものです。
あなたも勇気を出して、あきらめてみてください。
気が楽になりますよ。
「お前の分は、オレががんばってやるからな」と宣言すればよいのです。

 あとは娘さんが、自分で自分の道をさがし、求めていくでしょう。
親としてはつらくも、さみしいときかもしれませんが、TRさんのできることにも
限界があるということです。
で、しばらくは迷い、悩んだりしますが、その分だけ、お嬢さんは、たくましく
育っていきます。
私たち親ができることと言えば、子どもをうしろから見守るくらいなことだけです。
子どもが巣立つときというのは、そういうものです。

●自分を追い込まないこと

 はげしく葛藤しているということは、この時点においては、結論を出さないこと。
そのほうが、賢明かと思われます。
『迷っているときは、結論を急がない』『悩んでいるときは、結論に向かわない』が、
原則です。

 重要なのは、とくに奥さんに対して、未練を残さないように、(あるいは反対に深い愛情を感ずるまで)、心の整理をしておくことではないでしょうか。
「別れれば、まったくの他人」、あるいは反対に、「死ぬときは、いっしょ」と、心の覚悟
をどちらかに決めること。
また決まるまで、自分の心を見つめること。

 その覚悟ができるまで、「急がない」が、原則です。

 私も事情は異なりますが、同じような立場になったことが、数回、あります。
で、こういうときはジタバタしない。
(流れ)を感じたら、その(流れ)に身を任す。
コロリとどちらかに倒れるまで、待つ。
結論はそのあと、自ずと出てきます。
そしてそのとき、きわめて自然な形で、離婚もでき、また子どもの問題も解決します。
「何だ、こんなことだったのか!」とです。

 今、TRさんは、「子どもが20歳になるまで」とか、「娘の進学が心配」とか、
いろいろと自分を追い込んでいます。
心理学的には、TRさんは、自責型人間ということになります。
(奥さんは、それに対して、他責型?)
あまりそういうふうに、考えない方がよいです。
こうした問題は、なるようにしかならないし、またなるようになっていくものです。
もう少し肩の力を抜いて、無責任になるところは、なる。
ズボラになるところは、ズボラになる。
あるいは、仕事に没頭する……。
幸いにもすばらしいご職業をおもちなのですから、それこそ好き勝手なことができるはず。

 私たち夫婦も、月例行事のように夫婦喧嘩をしています。
しかしそういうときは、(こんなことを、おおっぴらに書くと、叱られそうですが)、
「女など、本気で、相手にしない」です。
(結構、男尊女卑思想に染まった部分もありますので……。)

 私など、一年中、「母親」という女性の世界で生きていることもあって、いつもそう
感じています。
「女など、本気で、相手にしない」です。
(私のワイフはワイフで、「男など、本気で、相手にしない」と考えていますよ。)

 それに離婚と言っても、いまどき、何でもないことです。
日本人も、20数%の人が、離婚を経験しています。
アメリカの離婚率より、やや低いかな……というところです。
5組に1組、あるいは5人に1人ということです。
あまりおおげさに考える必要はありません。

●もし、できれば……

 もし、できれば、負けを認めるという方法もあります。
プライドはみな、捨てて、こう言うのです。
「お前を愛している。お前なしでは生きていかれない。もう一度、ゼロからやりなしたい。
協力してほしい」と。

 奥さんの前で、心を丸裸にしてみるのです。
心底、心から、そう叫んでみるのです。
離婚するにしても、またしないにしても、一度は、その関門を通りくぐらなければなり
ません。
「やるだけのことはした」という思いが、仮に、それが奥さんに通じなくても、あなたの
心をさわやかにします。

このとき、子どもを理由(ダシ)にしてはいけません。
「修復しよう」という下心も捨てます。
ありのままに、ありのままのあなたの心を語ります。
TRさんは、TRさんだけのことを考えて、行動すればよいのです。
またそれが(すべて)です。

 あなたの真心が伝われば、奥さんの心もそれで溶けるはず。
が、溶けなければ、それまで。
あとは(流れ)に静かに身を任せます。
運命を受け入れ、それに身を委ねます。

●私のこと

 話は変わりますが、私も、最近、「故郷」とは縁を切る覚悟をしました。
言うなれば、故郷との離縁です。
(簡単なようで、これは実際には、たいへんなことですよ!)
今度、法事をすませたら、それでおしまい。
親戚づきあいも、なし。
ご愛想も、体裁もなし。
ついでにxxとも、お別れ。
自然のなりゆきで、そうなりました。
が、実にさわやかな気分です。

 家族自我群(呪縛感)の中で、もがき苦しんでいるときは、ほんとうにたいへんでした。
運命をのろい、運命にさからっていたからです。
が、まず最初に、(いい子)ぶるのをやめました。
誤解を解く努力も、やめました。
どうせその程度の人たちなのですから、言いたいように言わせておけばいい。
いろいろ口は出しても、何もしてくれないことがわかったからです。
1人、2人ではない。
全体として、縁を切る。
そういうふうに考えて、運命を受け入れました。

 それ以上に大切なことは、残りの人生を、楽しく有意義に生きることです。
私はすでにやるべきことはした。
じゅうぶん、した。
だからだれにも、うしろ指をささせない!
そういう思いが、私を、今、支えてくれます。
「逃げる」のではなく、「過去の亡霊を断ち切って、前に進むのです」。
どうか、参考にしてみてください。

 (いただきましたメールの転載許可に、感謝します。)

*Diary of July 31st

●足跡

私のBLOGや掲示板、それにYOU・TUBEのほうに、いろいろと
書きこみをしてくる人がいる。
たいていは好意的なものだが、中には、批評を通り越して、非難、さらには、口汚く
ののしるものもある。
先日も、私のYOU・TUBEの動画について、こう書いてきた人がいた。
「こんなひどいレッスンを受ける子どもたちが、かわいそう。即刻、教室を閉鎖すべし」
と。

しかしYOU・TUBEのばあい、「足跡」がそのまま残るしくみになっている。
コメントを書いた人を逆追跡すると、その人が制作、アプロードした動画を、そのまま
見ることができる。
つまりその動画から、その人を特定することができる。
その人は、そんなことも知らず、私の動画にコメントを書きこんだらしい。

それにしても、ほんの一部だけを見て、「閉鎖すべし」はない。
何が気に食わなかったのか……?
……というより、私はその女性をよく知っている。
10年ほど前、私の教室に怒鳴りこんできた女性である。
「あなたは、先祖を否定している。そういう人間は教師としてふさわしくない!」と。
(Rデザインの、Kさんですね!)

 どこかの宗教団体に属しているらしい。
が、そのときは、私は訳もわからず、しばらくしてからその女性に電話すると、
夫にあたる男性が出た。
その男性は、「すみません」「すみません」だけを繰り返した。
妻の行状に、かなり困っているといった様子だった。

 ついでに言うと、私は一度だって、「先祖」なるものを否定したことはない。
人、それぞれ。
ただ言えることは、私自身も、つぎの世代の人たちにとっては、その「先祖」に
なる、ということ。
私は、私。
つぎの世代の人たちは、つぎの世代の人たち。
だからつぎの世代の人たちに、恩を着せるようなことだけは、したくない。
つぎの世代の人たちは、つぎの世代で、勝手に生きていけばよい。
私という「先祖」に遠慮する必要はない。

 そういう思いが私にはあるから、私は「先祖」という言葉を口にしたことはない。
そういう私の生き様を、その女性は、「否定した」ととらえた。……らしい。

 話は脱線したが、BLOGにせよ、HPにせよ、何かの書きこみをするときは、
じゅうぶん注意したほうがよい。
何らかの足跡が残る。
その足跡から、その気になれば、あなたが書いたということが、わかってしまう。
こんな例が、ある。

 2年ほど前だが、同じように、同じようなことを書いてきた女性がいた。
が、文章に、独特の特徴があった。
(今回も、「即刻」「閉鎖すべし」という2語に特徴があった。)
そこでその文章から、いくつかの言葉を抜き出し、ヤフーの検索エンジンにかけてみた。
するとズバリ、同じような文章が、いくつか検索できた。

 よほど文章を書きなれた人は別として、そうでない人は、同じような文句を使って、
同じような文章を書く。
その女性は、別のBLOGに、別のコメントを書いていた。
そして「Yxxxx」というハンドル・ネームを残していることまでわかった。

 そこで今度は、「Yxxxx」というハンドル・ネームを検索してみた。
すると、同じ名前を、メールアドレスの一部に使っていることもわかった。

……ということで、私はその女性が、神奈川県のC市周辺に住む、YYという
女性であることまで知ることができた。

 だから私はそのコメントの返事に、こう書いた。

「神奈川県C市のYYさん、かなりきびしいコメントですね。
たいへん参考になりました」と。

 みなさんも、コメントを書きこむときは、くれぐれも、注意したほうがよい。
もしそれが犯罪につながるような内容であれば、そのまま警察に通報される
ことにもなる。
そうなれば、「ただの書きこみです」では、すまなくなる。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

●パソコンは、ほしいときが華(はな)。

 パソコンは、高価な買い物であることにはちがいない。
10~20万円といっても、命が短い分だけ、高価。
長く使っても、せいぜい2年。
それに合わせて、周辺機器を買いそろえたりすると、かなりの金額になる。

 そのパソコンについて、最近こんなことを考える。
「買ったら、損なのか、それとも買わなければ、損なのか」と。

 で、私の得た結論は、こうだ。
「買わなければ、損」。
それには理由がある。

 少し前、何かのことで、ひどく落ち込んだときがある。
何をするにも、おっくうになった。
もちろんパソコンに向かうのも、いやになった。
もちろん頭の中は、からっぽ。
休眠状態。
文章を書こうにも、アイディアそのものが浮かんでこない……。

 言うなれば、私は認知症の疑似体験をしたということになる。
(あるいは、本当に認知症になりつつあるのかもしれない……。)
が、もし本当に認知症になってしまったら、それこそパソコンどころではなくなって
しまう。
文章が書けなくなってしまう。
考えることもできなくなってしまう。

 だからそのあとワイフに私は、こう言った。
「新しいパソコンがほしいと思っているうちが、華(はな)だね」と。
つまり「パソコンなんか、いらない」と私が言い出したら、私は、お・し・ま・い。
それを思ったら、新しいパソコンを買うことなど、何でもない。
それにあえて付け加えるなら、パソコンは、現代の必需品。
「生きるための道具」と言い換えても、けっして、過言ではない。

 で、話は変わるが、今、我が家には、ひとつだけ「家宝」と言えるようなものがある。
古九谷焼きの布袋様(ほてい様)の置き物である。
江戸時代のものだと思うが、年代はわからない。
しかし精緻な作りは、ほかにはない。
恐らくその道の職人が、何か月以上もかけて作り上げたものにちがいない。
値段をつければ、数百万円以下ということはないだろう。
昔、私の祖父が、「浩司、これひとつで、家が一軒、建つ」と言っていたのを覚えている。

 その置き物を見ながら、ときどき「パソコンと置き物とどちらが価値があるか」と
考える。
布袋様の置き物のほうは、これから先も、何代もその価値を保ちつづけるだろう。
一方、パソコンのほうは、それこそ2年ごと、長くて5年ごとに、その寿命を終える。
大切に磨いて使っても、意味はない。
で、これについても、私の結論は、こうだ。

 布袋様の置き物のほうは、売ってはじめて、その価値が出る。
それまでは、ただの置き物。
見た人が、「ほほう、これはすばらしいですね」と言って、それで終わってしまう。
で、その布袋様を売ったとする。
数百万円なら数百万円でよい。
問題は、そのお金を、どう使うか、だ。
どう、有効に使うか、だ。

 一方、パソコンのほうは、今を生きる私を側面から支えてくれる。
その道具としての、パソコンがある。
だからやはり最新のものが、ほしい。

 たとえば今、原稿ファイルを読み出そうとすると、読み出すだけで、10分ほど
時間がかかる。
そのファイルは、約3万ページもある。
それを書き換えたあと、保存をかけると、今度は、20分ほど時間がかかる。
HPについては、保存をかけるだけでも、ちょうど2時間10分ほど時間がかかる。
こうした問題が解決できるなら、10~20万円は、安い。

私「もしぼくが、新しいパソコンに興味を示さなくなったら、ぼくはおしまいだね」
ワ「そうね。新しいパソコンがほしいと言っているうちが、華(はな)よね」
私「そうだね。ぼくもそう思う。そういう気持ちが消えないように、がんばるよ」と。

 だから、今、「買う」といっても、心のどこかで、「買わなければならない」
という、おかしな意思が働く。

(布袋様は、写真に撮って、近々、マガジンHTML版のほうに載せておきます。)

 
Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

●二男のラジオ番組

 前から話には聞いていたが、二男が、ときどきラジオのトーク番組に出るように
なった。
今朝も、それを聴いた人がいて、その話をしてくれた。
「息子さんが出てましたよ」と。

昨年までは、ときどき、「これからラジオで話すよ」という連絡が届いたりしたが、
最近は、ない。
ないから、それを聴いた人から、連絡を受けて知る。

 息子の活躍を耳にするのは、うれしい。
何というか、手にしたバトンを、もうひとりの「私」に手渡すような気分である。
もう少し大げさに言えば、「分身を残した」感じ。
「これでぼくも、死ねるなア」と。

 ラジオの中では、今、本を書いているようなことを言っていたとか。
二男は子どものころから、独特の感性をもっている。
数年前も、一時帰国した折、地元の中学校で講演をした。
そのときのこと。
二男は、破れたTシャツを着て、講演をした。
ギターを弾きながらの講演だったという。
私にはそういうマネはできない。
言い換えると、二男という息子は、そういう息子である。

 本名は、「林宗市(はやし・そういち)」。
どこかでその名前を耳にしたら、どうか、よろしく。
現在は、アメリカのインディアナ州立大学で、スパコン(スーパーコンピュータ)の
技師をしている。
世界中のスパコンをつないで、ひとつにするという、とんでもない仕事を手がけている。

 先に「うれしい」と書いたが、ソラ恐ろしい感じすらする。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

*Magazine, dated July 31st

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.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○   
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 7月 31日
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休みます。

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●幼児教育のコツ

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幼児を教えるときの、最大のコツは、
教える側が、それを楽しむこと。
「教えよう」という気持ちは、そこそこに。
とにかく、童心に返って、楽しむ。
楽しんで楽しんで、その渦(うず)の中に、子どもを
巻き込んでいく。

あとの判断は、子どもに任す。
どう判断し、それをどう生かすかは、子どもの問題。
教える側の、私の問題ではない。

++++++++++++++++++

●私にとってのBW教室

 「来たくれば来ればいい」「来なくてもかまわない」。
そこまで割り切らないと、幼児教室はつづかない。
子どもに媚(こび)を売っても、無駄。
親に媚を売っても、無駄。 
子どもが親の手を引っ張って、やってくる。
そうでなければ、まず子どもがいやがる。
ついで親も、それを理由にして、やめる。
「子どもがいやがりますから……」と。

 よく職場が苦痛という人がいる。
しかし私のばあい、職場が、ストレス発散の場所。
子どもたちといっしょになって、ワーワーと騒いでいるだけで、気が晴れる。
気分がスカッとする。

 もちろん(仕事)だから、それなりの(効果)は期待される。
が、そこは心配、無用!
子どもたちのほうが、勝手に伸びてくれる。
『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』。
成績のことを書くのは気が引けるが、みな、ぞれぞれの学校でトップクラスの
成績を収めている。
が、それだけではない。
どの子どもも、小中学校で、リーダー格となって、活躍している。

 なぜ、そうなるか?

 それには、一度、『BW公開教室』の動画を見てほしい。
「はやし浩司のHP」→「最前線の子育て論byはやし浩司」→「公開教室」
へと、進んでくれればよい。

 とくに比較してほしいのは、BWへやってきたばかりの年少児、年中児の子ども
たちと、BW教室で、1~2年、訓練を受けた年長児や小1児の子どもたちの動画。
迫力がちがう。
つまり指導の仕方によって、子どもたちは、ここまで伸びる!

 (たぶんに宣伝ぽいが、そういう下心は、もうない!
自分のしていることに、自信があるから、今回、こうして公開することにした!)

●「やりたい!」「やってやる!」

 子どもの側からみて大切なことは、(やる気)。
何か新しい問題を出したとしよう。
そういうとき、「やりたい!」とか、「やってやる!」とか言って食いついてくれば、
それでよし。
そうでなければ、そうでない。
中には、「やってやろうじやないか!」「林(=私)を負かしてやる!」とか言う子どもも
いる。
そういう子どもは、伸びる。
またそういう子どもにする。

 つまりおとなの優位性を押しつけないように。
またときには、バカな先生のフリをして、子どもに自信をもたせる。
そのサジ加減が、こうした子どもたちの指導の、醍醐味でもある。
おもしろい!

 つまりそういう子どもたちにするから、学校でもリーダー格となって活躍する。
言い換えると、今、そうでない子どもが多すぎる。
飼いならされたペット(失礼!)のような子どもたちばかり。
たくましさそのものに、欠ける。
だからよけいに目立つ。

●2009年6月

 公開教室に、はじめて、ファンメールが届いた。
外山さんというお父さんからのもの。
「娘が、喜んで見ています」と。

 うれしかった。
励まされた。
「とくに女学生の先生が好きです」と。

 私はときどき女学生の先生のフリをする。
それが気に入られたようだ。
だから早速、昨日、そのフリをして動画に収めた。
(公開教室、6月号に収録。)

 実のところ、公開教室と言いながら、子どもたちに見てほしい。
親や教職に就いている人には、見てほしくない。
ぜったい見てほしくないのは、同業者!
とくに幼児教育関係の本を書いている、インチキ・ライターたち!

 先日もネットサーフィンしていたら、どこかの幼稚園の幼児教室が、
私の持論の一つである、『友を責めるな、行為を責めよ』をテーマにして
講座を開いていた。
(『友を責めるな 行為を責めろ』で、検索してみるとよい。
「よ」と「ろ」のちがいだが、どこの幼稚園か、それですぐわかるはず。)

 ほかに『やればできるはずは禁句』というタイトルで、本を書いている人も
いる。
新聞の広告によれば、何10万部も売れているとか。
これも私の持論。
もう20年近くも前に書いた本に、そのまま使っている。
どこのどういう人が、そういうことをしているかも、インターネットで検索して
みればわかるはず。

 こうした持論は、何百人も、何百人も子どもと接してみて、はじめてそこに
浮かびあがってくるもの。
学者や医師が、つかめるような話ではない。

 まだ、ある!

 『いじめられっ子は、やさしくなる』とかいうのもある。
私は、「背中にチョークで落書きされた中学生」を例にあげたが、その本の
中では「カバンにチョークで落書きされた中学生」になっていた。

 偶然の一致?

 どうしてみな、こういうずるいことをするのだろう。
だからそういう連中には、見てほしくない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
友を責めるな、行為を責めよ 友を責めるな 行為を責めろ はやし浩司 
いじめられっ子 チョークでいたずら書き はやし浩司 やればできるはず 
やればできる やればできるは禁句 やればできるはずは禁句)

●6月27日

 少し頭が熱くなった。
今朝の私は、少し神経がピリピリしているようだ。
昨夜寝る前に見たビデオがよくなかった。
殺人がテーマのビデオだった。

 寝る前に、ああいうビデオを見るのはよくない。
寝つきも悪い。
寝起きもよくない。

 それに今朝、体重を計ったら、61・5キロ。
努力した甲斐があった。
かなり血糖値はさがっているはず。
だからピリピリする。
こういうときは、夫婦喧嘩に気をつけよう。

 ……ということで、今日も始まった!


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(17)

●文字の前に運筆練習を

 文字を書くようになったら、(あるいはその少し前から)、子どもには運筆練習をさせる
とよい。一時期、幼児教育の世界では、ぬり絵を嫌う時期もあったが、今改めてぬり絵の
よい点が見なおされている。子どもはぬり絵をすることで、運筆能力を発達させる。

ためしにあなたの子どもに丸(○)を描かせてみるとよい。運筆能力の発達した子どもは、
きれいな(スムーズな)丸を描く。そうでない子どもは多角形に近い、ぎこちない丸を描
く。言うまでもなく、文字は複雑な曲線が組み合わさってできている。その曲線を描く力
が、運筆能力ということになる。またぬり絵でも、運筆能力の発達している子どもは、小
さな四角や形を、縦線、横線、あるいは曲線をうまく使ってぬりつぶすことができる。そ
うでない子どもは、横線なら横線だけで、無造作なぬり方をする。

 ところでクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは、親指、人差し指、それ
に中指ではさむようにしてもつ。鉛筆は、中指の横腹に鉛筆を置き、親指と人差し指で支
えてもつ。鉛筆をもつようになったら、一度、正しい(?)もち方を練習するとよい。(と
くに正しいもち方というのはないが、あまり変則的なもち方をしていると、長く使ったと
き、手がどうしても疲れやすくなる。)ちなみに年長児で約50%が鉛筆を正しく(?)も
つことができる。残りの30%はクレヨンをもつようにして鉛筆をもつ。残りの20%は、
それぞれたいへん変則的な方法で鉛筆をもつ。

 さらに一言。一度あなた自身が鉛筆をもって線を描いてみてほしい。そのとき指や手、
さらには腕がどのように変化するかを観察してみてほしい。たとえば横線は手首の運動だ
けで描くことができる。しかし縦線は、指と手が複雑に連動しあってはじめて描くことが
できる。さらに曲線は、もっと複雑な動きが必要となる。何でもないことのように思う人
もいるかもしれないが、幼児にとって曲線や円を描くことはたいへんな作業なのだ。

 「どうもうちの子は文字がへただ」と感じたら、紙と鉛筆をいつも子どものそばに置い
てあげ、自由に絵を描かせるようにするとよい。ぬり絵が効果的なことは、ここに書いた
とおりである。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(18)

●権威主義は断絶のはじまり

 「私は親だ」というのが、親意識。この親意識が強いと、子どもはどうしても親の前で
いい子ぶるようになる。もう少しわかりやすく言うと、仮面をかぶるようになる。その仮
面をかぶった分だけ、子どもの心は親から離れる。

 親子の間に亀裂を入れるものに、3つある。リズムの乱れと相互不信、それに価値観の
ズレ。このうち価値観のズレの一つが、ここでいう親の権威主義である。もともと権威と
いうのは、問答無用式に相手を従わせるための道具と考えてよい。「男が上で女が下」「夫
が上で妻が下」「親が上で子が下」と。もっとも子どもも同じように権威主義的なものの考
え方をするようになれば、それはそれで親子関係はうまくいくかもしれない。が、これか
らは権威がものを言う世界ではない。またそういう時代であってはならない。

 そこであなた(あなたの夫)が権威主義者かどうか見分ける簡単な方法がある。それに
は電話のかけ方をみればよい。権威主義的なものの考え方を日常的にしている人は、無意
識のうちにも人間の上下関係を判断するため、相手によって電話のかけ方がまるで違う。
地位や肩書きのある人には必要以上にペコペコし、自分より「下」と思われる人には、別
人のように尊大ぶったりいばってみせたりする。

このタイプの人は、先輩、後輩意識が強く、またプライドも強い。そのためそれを無視し
たり、それに反したことをする人を、無礼だとか、失敬だとか言って非難する。もしあな
たがそうなら、一度あなたの価値観を、それが本当に正しいものかどうかを疑ってみたら
よい。それはあなたのためというより、あなたの子どものためと言ったほうがよいかもし
れない。

 日本人は権威主義的なものの考え方を好む民族である。その典型的な例が、あの「水戸
黄門」である。側近のものが三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう!」と一喝すると、周囲
のものが皆頭をさげる。ああいうシーン見ると、たいていの日本人は「痛快!」と思う。
しかしそれが痛快と思う人ほど、あぶない。このタイプの人は心のどこかでそういう権威
にあこがれを抱いている人とみてよい。ご注意! 


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(19)

●頭をよくする方法

 もう一五年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」という雑誌に、こんな論文が
載った。「ガムをかむと頭がよくなる」と。この世界ではもっとも権威ある雑誌である。で、
その話を母親たちの席で話すと、「では……」と言って、それを実行する人が何人か出た。

で、その結果だが、たとえばN君は、数年のうちに本当に頭がよくなってしまった。I君
もそうだった。これらの子どもは、年中児のときからかみ始め、小学1、2年になるころ
には、はっきりとわかるほどその効果が表れてきた。N君もI君も、幼稚園児のときは、
ほとんど目立たない子どもだった。どこかボーッとしていて、反応も鈍かった。が、小学
2年生のころには、10人中、1,2番を争うほど、積極的な子どもになっていた。

 で、それからもこの方法を、私は何10人(あるいはそれ以上)もの子どもに試してき
たが、とくに次のような子どもに効果がある。どこか知恵の発育が遅れがちで、ぼんやり
しているタイプの子ども。集中力がなく、とくに学習になると、ぼんやりとしてしまう子
どもなど。

 ガムをかむことによって、あごの運動が脳神経によい刺激を与えるらしい。が、それだ
けではない。この時期まだ昼寝グセが残っている子どもは多い。子どもによっては、昼ご
ろになると、急速に集中力をなくしてしまい、ぼんやりとしてしまうことがある。が、ガ
ムをかむことによって、それをなおすことができる。5,6歳になってもまだ昼寝グセが
残っているようなら、一度ガムをかませてみるとよい。

 なおガムといっても、菓子ガムは避ける。また1つのガムを最低でも30分はかむよう
に指導する。とっかえひっかえガムをかむ子どもがいるが、今度は甘味料のとり過ぎを心
配しなければならない。息を大きく吸い込んだようなとき、大きなガムをのどにひっかけ
てしまうようなこともある。走ったり、騒いでいるようなときにはガムをかませないなど
の指導も大切である。もちろんかんだガムは、紙に包んでゴミ箱に入れるというマナーも
守らせるようにしたい。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(20)

●子どもに子どもの育て方を

 子どもに子どもの育て方、つまりあなたから見れば孫の育て方を教えるのが子育て。「あ
なたがおとなになり親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふ
うに子どもを叱るのですよ」と。つまり子どもに子育ての見本を見せる。見せるだけでは
足りない。しっかりと体にしみこませておく。

 10年ほど前だが、厚生省が発表した報告書に、こんなのがあった。「子育ては本能では
なく、学習である」と。つまり人間というのは(ほかの高度な動物もそうだが)、自分が親
に育てられたという経験があってはじめて、自分が親になったとき子育てができる。

たとえば一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。人間はなお
さらで、つまり子育てというのは、本能でできるのではなく、「学習」によってできるよう
になる。が、それだけではない。もしあなたがあなたの子どもに将来、心豊かで温かい家
庭を築いてほしいと願っているなら(当然だが……)、今あなたはここで、心豊かで温かい
家庭とはどういうものかを子どもに見せておかねばならない。あるいはそういう環境で子
どもを包んであげる。さらに「父親とはこういうものです」「母親とはこういうものだ」と、
その見本を見せておく。そういう経験が体にしみこんでいて子どもははじめて、自分が親
になったとき、自然な形で子育てができるようになる。

 そこで問題はあなた自身はどうだったかということ。あなたは心豊かで温かい家庭で育
てられただろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、一度あなたの子育
てを見なおしてみたほうがよい。あなたの子育てはどこかぎこちないはずである。

たとえば極端に甘い親、極端にきびしい親、あるいは家庭をかえりみない親というのは、
たいてい不幸にして不幸な家庭に育った人とみてよい。つまりしっかりとした「親像」が
入っていない。が、問題はそのことではなく、そのぎこちなさが、親子関係をゆがめ、さ
らにそのぎこちなさを次の世代に伝えてしまうこともある。しかしあなた自身がその「過
去」に気づくだけで、それを防ぐことができる。まずいのはその「過去」に気づくことな
く、それにいつまでも振り回されること。そしてそのぎこちなさを次の世代に伝えてしま
うことである。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【精神的一貫性】(Consistency of our Thought)
Can we be the same under any condition of the circumstances? If so, it is OK, but if it
ins’t, it is not OK.)

++++++++++++++++++++++++++++++

「精神的一貫性」というのは、つまり思想的同一性のことをいう。
状況が大きく変わっても、いつも同じ思想をもちつづけることをいう。
簡単に言えば、「信念」ということになるが、信念ともややちがう。
「思想的一貫性」というか、「人間的な一貫性」とか、状況に影響を
受けない「一貫性」をいう。

が、こう書くと、「何だ、そんなことか」と思う人も多いかと思う。
「そんなことなら、だれにでもできる」と。
しかしそう断言するのは、ちょっと待ってほしい。

たとえば暴力団の男性がいる。
それらしい風体に、それらしい服装。
見るからにそういう人と、わかる。
が、そんな人でも、家庭では、よき夫であり、よき父親であったりすることが多い。
常識も通ずる。
冗談も通ずる。
ちょっとふつうの人とはちがうかなという印象を与えるかもしれないが、
(ふつうの人)と、どこもちがわない。
そういう人を見ると、「なんだ、この世には悪人などいない」と、だれしも思う。
(何も暴力団の構成員がみな、悪人と言っているのではない。誤解のないように!)

が、私の言いたいのは、その逆。
そんな(ふつうの人)でも、状況が変わると、コワ~イ男性に変身したりする。
「泣く子も黙る……」というのは、大げさかもしれないが、そういう男性に
変身したりする。
一喝されただけで、ふつうの人なら、それだけで震えあがる。

家庭ではよき夫であり、父親である。
しかし取り巻く環境が変わると、コワ~イ男性に変身する。
つまり暴力団のこの男性には、「人間的な一貫性」がないということになる。
(あまりよい例でなくて、ごめん!)

+++++++++++++++++++++++++++++++

●一貫性の確立

 自分の中に、いかにして一貫性を構築するか。
簡単なことのようで、それが難しい。
私たちはそのときどきの(縁)に応じて、変化する。
自分を作り変える。
よい人間に作り変えることもあるが、ときには、(縁)に応じて、悪い人間に作り
変えることもある。

 たとえば私がたいへんよく知っていた人に、KY氏という人がいた。
私が子どものころ、すでに60歳くらいだった。
そのKY氏は、あの関東軍七三一部隊で、教授を務めていた。
(研究部隊ということで、内部では、「教授」という肩書になっていた。)
関東軍七三一部隊がどんな部隊であったかについては、今さらここに書くまでもない。

 が、私が知るかぎり、KY氏は、穏やかで、やさしい人だった。
私が子どものころには、近くの川に魚釣りに連れていってくれたこともある。
碁の打ち方を教えてくれたこともある。
そのKY氏が関東軍七三一部隊の教授であったことは、幸いにも(?)、KY氏が
亡くなってから、10年ほどしたときのことである。
私はそのとき30歳くらいになっていた。

 そのKY氏を思い浮かべながら、いまだに、それが信じられないでいる。
私が知っていたKY氏から、関東軍七三一部隊で教授職をしていたKY氏は、
とても想像できない。
はたしてその両者は、同一人物だったのか。

中国のハルピンでは、関東軍七三一部隊は、身の毛もよだつような悪業を重ねていた。
関東軍七三一部隊では、中国人や朝鮮人、さらにはロシア人まで、生きたまま解剖して
いたという。
教授職だったKY氏が、善人だったとは、とても思えない。
が、日本へ帰ってきてからは、一転、私が知るかぎり、仏様のような人間になっていた!
そういうKY氏を思い浮かべると、「この世の中には悪人はいない」「悪いのは戦争だ」
ということになる。
戦争が、KY氏をして、KY氏のような人間にした、と、
が、同時に、このことを反対に言うと、こうなる。
「どんな善人でも、戦争に行くと、悪人になる」と。

 もしKY氏に一貫性があったら、関東軍七三一部隊に入隊したとしても、
それをよしとしなかったはず。
反対に、日本へ帰ってきてからも、鬼のような人間のままであったはず。
が、そのつど、KY氏は、大きく変化した。
(善人)から(悪人)、その(悪人)からまた(善人)へと。

 つまりこれが私が言う、「精神的一貫性」ということになる。

●ナチスドイツ
 
 ナチスドイツは、あのアウシュビッツだけでも、1200万人以上ものユダヤ人を
虐殺した。
第二次大戦で死んだ日本人が、300万人。
日本人が殺した外国人が、300万人。
合計しても、1200万人には、とても及ばない。

 そういう事実を知ると、日本人なら、みなこう言う。
「私たちは、そういうことはしない」と。
「日本人は、そんな残虐なことはしない」とも。
しかし本当に、そうか。
そう断言してよいだろうか。
少なくともあなたには、そういう自信はあるだろうか。
(残念ながら、私には、ない。)

 もし仮に、東南アジアからの不法移民が、この日本に、100万人単位で住んでいたら、
どうだろうか。
その数が、200万人、300万人……となり、さらに1000万人、2000万人と
なったら、どうだろうか。
しかもそうした不法移民が、日本の経済を牛耳るようになったとしたら……。
彼らは日本の文化風習には同化せず、自分たちの言葉を話し、自分たちの宗教を信ずる。

 そういう状況になったときでも、あなたは、「人間はみな、平等だ」と言って、平然と
していられるだろうか。
ヒットラーが政権を握る前のドイツは、まさにそういう状況だった。
(だからといって、ナチスドイツのした行為を正当化しているのではない。
誤解のないように!)

●ドイツ人vs日本人

 「私たち日本人は、ナチスドイツがしたようなことはしない」と言うのは簡単。
「私たちはドイツ人とは、ちがう」と。
しかしそれだけの精神的一貫性を、私たち日本人は、ほんとうにもっているだろうか。
が、私の印象では、もし日本が同じような状況になったとしたら、ひょっとしたら
日本は、ナチスドイツがしたよりも、もっとひどいことをするかもしれない。
悲しいかな、日本には、それだけの文化的な蓄積すらない。
忘れてならないのは、ゲーテやシラー、さらにはベートーベンを生み出したドイツですら、
そんなことをしたということ。

 そこで精神的一貫性。
精神的一貫性が確立していれば、まわりの状況が変わったとしても、私は私でいられる。
そうでなければ、そうでない。
一貫性のない人は、まわりの状況に応じて、そのつど主義主張まで、変えてしまう。
カメレオンのように、周囲の色に合わせて、自分の色まで変えてしまう。
考えようによっては、これほど、恐ろしいことはない。
どう恐ろしいかは、先に書いたとおりである。

●精神的一貫性の確立
 
 実は今、私は精神的一貫性の確立について、悩んでいる。
考えようによっては、それほど深刻な問題ではないかもしれない。
しかし悩んでいる。

 私は昨年、実兄と実母を、あいついで亡くした。
2度の葬儀と、それにつづく法要の数々。
四九忌まで、毎週1回ずつの法要、そして百か日忌。
が、それが今度は、1周期!
来年には、また3回忌。
(仏教では、死んだ前の日から年数を数え始めるため、2年目に、3回忌をする。)

 が、こうした法要の根拠は、鎌倉時代にできた『地蔵十王経』という、偽経である。
まっかな偽教である。
どこの寺も、偽教ということを百も承知の上で、それを根拠に法要を私たちに強いてくる。
しかしこうした法要そのものが、私の主義主張と、まっこうから対立する。
「長いものには巻かれろ」式の妥協をすることも考えた。
しかし妥協を繰り返すのも、このところ、疲れた。
だから「悩む」ということになる。

●ケチ
 
 こう書くと、「ケチ」と誤解する人がいるかもしれない。
しかし今、介護費用も、相当な額になった。
当時、救急車で一回、病院へ運ばれただけで、それだけで、15万円前後の費用がかった
(08年)。
救急車は無料だが、病院での検査、治療費などなど。
(無駄な検査の多いのには、驚いた!※)
で、救急車で運ばれると、たいてい特別の個室をあてがわれる。
「大部屋があいていないので、個室で」となる。
この費用が大きい。
1泊するだけでも、3万円弱。
数泊しれば、10万円。
帰りも救急車というわけにはいかない。
寝台つきのタクシーを使うと、料金メーターの数字が、1000円単位であがっていく。
それで15万円前後ということになる。

 そこへもってきて、葬儀。
今、全国平均で、1回の葬儀にかかる費用は、240万円前後。
香典でまかなえる人も多いと聞くが、私のばあいは、香典で集まったのは、実兄のときも、
実母のときも、40万円程度でしかなかった。
あとは私の持ち出しということになった。

が、それで終わったわけではない。
今では、一回の法事ごとに、寺に支払う布施にしても、5万円が相場。
初盆ともなると、いくら安くあげても、数10万円はかかる。

生きている人間にお金を使うのは当然としても、どうして死んだ人間にまで、こうまで
お金を払いつづけなければならないのか。

いや、お金にこだわっているわけではない。
死者にそれだけのお金を使うくらいなら、その分、今、生きている人たちのために
使いたい。
事実、私は息子たちの学費については、一円たりとも惜しんだことはない。

 私はケチではない。
こうした儀式そのものが、私の主義主張に反している!

●私たちは、だいじょうぶか?

 精神的一貫性を保つのは、容易なことではない。
戦地に赴く兵士にしても、そうだ。
先に書いたKY氏にしても、兵士になる前は、私やあなたとどこもちがわない、
ごくふつうの人だったにちがいない。
が、そういう状況に包まれたとたん、その人は、その人になる。
精神的一貫性そのものが、どこかへ吹き飛んでしまう。

 では、私はだいじょうぶなのか?
あなたは、だいじょうぶなのか?

●ではどうしたらよいのか

 では、精神的一貫性を保つためには、どうしたらよいのか。
それについては、2つの方法がある。

(1)適当に妥協して生きる。
(2)徹底的に自分の主義、主張を貫く。

 たとえば法事にしても、私は、そのつど、「旅行の一環」と位置づけてきた。
法事に行くたびに、それを利用して、あちこちを旅行した。
地元の旅館に泊まるのも楽しかった。
「法事」と構えると、疲れる。
角が立つ。

 が、先にも書いたように、このところ妥協するのにも、疲れを覚えるようになった。
そこで「悩む」ということになるが、これについては、今まで書いたとおりである。
そこで(2)の徹底的に自分の主義、主張を貫くということになる。
法事というのは、しなければならないものではない。
だれかに義理立てしてまで、しなければならないようなものではない。
私は私。
そういう私を、あれこれ言う人がいたら、言わせておけばよい。

 ということで、母の1周忌を最後に、私は縁を切る。
「縁」と言っても、「寺との縁」のことではない。
不確かで、あやふやな自分と「縁」を切る。
その上で、妥協できることについては、妥協する。 
適当にやって、それですますこところは、すます。
それが私にとっての、精神的一貫性ということになる。

●終わりに……
 
 精神的一貫性を保つためには、確固たる信念と哲学をもたねばならない。
が、もつだけでは足りない。
それを自分の中で、熟成させなければならない。
が、熟成させるだけでも足りない。
自分のもつ文化性を高め、その文化性で、自分の心を包まねばならない。
本を読み、芸術をたしなむ。
信念と哲学が、自分を支える強いバネとなるのは、そのあとのことである。

と、同時に、妥協できる部分については、妥協する。
まわりの人たちがそれで安心するなら、妥協する。
お金の問題ではない。
それが人間が、本来的にもつ(やさしさ)ということになる。
また、その(やさしさ)を忘れてはいけない。

……ということで、精神的一貫性についてのエッセーを終わる。
精神的一貫性をもつことが、いかに難しいかということを、このエッセーを通して
読者の方にわかってもらえれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
精神的一貫性 精神的統一性 信念と哲学 はやし浩司 一貫性の確立)

(※付記)

救急車で運ばれると、まず検査。
また検査。
検査につぐ検査。
そこである日、私は担当のドクターにこう言った。
「検査していただけるのは、ありがたいですが、その結果、治療していただけるのですか?」
と。
するとそのドクターは、わざわざ私を応接室へ招いて、こう言った。
「治療はしません」「延命処置もしません」と。

そこで私が、「じゃあ、検査しても意味ないではないですか」と言うと、
あっさりと、「そうですね」と。
要するに、老人が、病院の金儲けの道具にされていた。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●消息

 昨日薬局で、20年ぶりに、Mさんという人と会った。
1年ほど、いっしょに仕事をした仲間である。
年齢の話になったとき、「ぼくのほうが、林君より、一回り年上だったのか」と
言った。
歳は、71~2歳ということになる。

 立ち話だったが、当時の人たちの消息を聞くことができた。

(社長)ともによく知っている社長の名前が出た。
ある貿易会社の社長をしていた。
その社長はそのあと、重い精神病を患い、4、5年前に他界したという。
「あの人は注射で殺されたようなものだね」と、Mさんは言った。
病院で暴れたため、いつも注射を打ちつづけられたから」と。

(社長の奥さん)よい人だった。
親切な人だった。
その奥さんも、やはり4、5年前に、他界したという。
最期は脳腫瘍だったという。

(YGさん)その会社で営業部長をしていたのが、YGさん。
テニスで国体にも出たような人だった。
で、ある高校で顧問として指導していたが、そこで女子高校生と関係をもって
しまった。
それで東京へ追放。
……という話は、表の話で、実は、「幼女に性的いたずらをして、刑務所に
入っていた」とのこと。
私にはよくしてくれた人なので、信じられなかった。

(社長の子どもたち)社長には、2人の息子と、1人の娘がいた。
娘のほうは知らないが、2人の息子は、ともに高校を強制退学。
結婚して、それぞれ2人の子どもをもうけたが、浮気が原因で2人とも、離婚。
今は、その子どもたちの養育費すら払えないほど、生活が困窮しているという。

(社長の兄弟たち)社長の兄弟は、2人、いた。
Mさんは、その兄弟たちについては知らないといった。
ただ1人の弟の妻は、電車に飛び込んで、自殺したという。
「新聞にも出ていたから、林君も知っているだろ?」とMさんは言ったが、
私は知らなかった。

 言い忘れたが、Mさんは、その会社で、専務をしていた。
私はときどきその会社で、貿易の手伝いをしていた。

私「当時は、全盛期だったのに……」
M「そうなんだよ。社長が使う電話の電話料金だけで、月に300万円もあった」
私「300万円……?」
M「電話魔でね。一日中、世界中に電話をかけていた」
私「知らなかった……。金払いのいい人とは思っていた。
シンガポールへ電報をその場で打ってやっただけで、チップだといって、10万円を
くれたこともあります」と。

 で、その会社は、そのあとまもなく倒産。
Mさんとは、1、2度、街の中で会ったことがある。
が、それからさらに20年。

 今は、ある会社の経理顧問をしながら、収入を得ているという。
10分ほどの立ち話だったが、人生の重みをズシリと感じた。

 『おごれるもの、久しからず』か?


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司
 
●私の、うつ病薬

++++++++++++++++++++

ダイエットと同時に、徐々に私を襲ってきたのが、
うつ病。
脳間伝達物質が不足し、それが脳の機能を低下させる。
行動力が落ちる。
頭の回転が鈍る。
悶々とした気分がつづき、ときに厭世(えんせい)的になる。
血糖値が低下するから、慢性的な低血糖状態にもなる。
ささいなことで、キレやすく、カッとなりやすい。

が、薬がないわけではない。
私のばあい、新しい電子製品を買うと、どういうわけか、
気が晴れる。
そのままうつ状態を脱することができる。

+++++++++++++++++++++

●次期パソコン

 秋に、最新型のパソコンを買う。
そのころWINDOW7も、発売になる。
64ビットマシンで、人間にたとえるなら、脳みそが4人分ついたようなパソコンである。
(実際には、8つの仕事を同時にこなす。)
いまどき、1テラバイトのハードディスクは、常識。
う~~ん。
そういう目標があるから、今は、パソコンを買うこともできない。
こういうときはパソコンでも買うのが、いちばんよいのだが……。

(この間、半日!)

 で、結局、1テラバイトのハードディスクを、今、買ってきた。
値段は、8700円。
韓国のS社製のものもあった。
こちらは値段は7000円だったが、回転数が遅いので、やめた。
(+あのような反日国家の製品を買うのは、どうも気が進まない。)

 今夜、ハードディスクの取り換え作業をするつもり。
毎年夏になると、ハードディスクが1台くらいは、壊れる。
その予防のため。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●パソコンの修理

+++++++++++++++++++

昨日、1テラバイトのハードディスクを買ってきた。
1テラバイト=1000GBである。

ちょうど10年前、10GBのハードディスクのパソコンが売りに出された。
それを知って、私たちは驚いた。
が、今は、1テラバイト!
それを現在、メインで使っているパソコン(ビスタ)の
ハードディスク(300Gバイト)と、つけ替えることにした。

で、夜になって仕事が一段落したところで、作業、開始!
(その前に、元のハードディスクのエラーチェックと、
新しいハードディスクへのコピーを、すませておいた。
かかった時間は、3時間+2時間の、計5時間。)

そこからは、ハードディスクを入れ替え、配線をしなおすだけの
簡単な作業のはずだった。
が、ここでまたまた失敗。

不自然な姿勢で、ぐいと力を入れて配線を押し込んだとたん、端子が割れてしまった。
ゾ~~~ッ!
マザーボードのばあい、ほんの一部でも欠けたら、マザーボードごとすべて、
取り替えなければならない。
破損したのは、コネクターのコードほうだった。
しかしマザーボードのほうも、同時に、破損したかもしれない。

恐る恐る電源を入れる……。
ハラハラ、ドキドキ……。
やはり、パソコンが、立ち上がらなくなってしまった。
いろいろ試してみたが、やはりだめだった。

……冷や汗、タラタラ……。
……冷や汗、タラタラ……。

途中からワイフが手伝ってくれたが、ウンともスンとも動かない。
1年半ほど前にも、同じ失敗をした。
そのときは、マザーボード側の端子を破損してしまった。
ピンが一本、折れただけだったが、マザーボード全体を交換しなければならなかった。

そのときの悪夢が、フラッシュ・バック!
修理には最低でも、2~3週間はかかる。
仮にリカバリーということにでもなれば、すべてイチから再セットしな
ければならない。

ドキドキ、ハラハラ……。

しかたないので、隣に置いてある、別のパソコン(XP)に電源を入れた。
しばらくそれ使うしかない。
ア~~~ア!

(こういうときのため、データは、2重、3重と、べつの場所に保存してある。
だからデータが失うということはない。
しかし気分は重い。)

 で、今日は日曜日。
朝起きると一番に、もう一度、パソコンを点検。
古いパソコンのコネクターを抜いてきて、壊れたコネクターと交換してみた。
が、何と、である!
あっさりとパソコンが起動したではないか!

 これには驚いた+うれしかった!

 ……ということで、今日は、ついでに書斎を大掃除。
書斎の机の位置を替えた。

 パソコンという化け物は、それなりに、ほどほどに動いているなら、
けっして冒険してはいけない。
いじってはいけない。
いちばんこわいのは、知ったかぶり。
知ったかぶりして、あちこちいじると、とたんに故障する。


Hiroshi Hayashi++++++++June09++++++++++はやし浩司

●視野の狭い女性

+++++++++++++++++++++++

あるとき、1組の夫婦が、ある寺にやってきた。
そして寺の住職にこう言った。
「私の家は、何かに、たたられている。
ついてはお祓(はら)いをしてほしい」と。

そこで住職がその夫婦の話に、耳を傾けるところとなった。

+++++++++++++++++++++++

●つづく不幸(?)

 たいした不幸という不幸ではない。
どこにでもある話である。
しかしその夫婦には不幸だった。
こういう話である。

 その夫婦には、2人の息子と1人の娘がいた。
が、2人の息子は、それぞれ高校時代に、傷害事件を起こし、2人とも強制退学。
1人の娘は、やはり高校を卒業すると、15歳年上の男性と、駆け落ち。
よくある話である。
それを「たたり」と言うには、少し無理がある。

 で、それからほぼ10年。
2人の息子は結婚。それぞれ2人の子どもをもうけた。
その夫婦にとっては、孫ということになる。
娘は、そのまま静岡市に定住。
2人の子どもができた。
が、ここから、つぎの「たたり?」が始まる。

 息子の両方とも、結婚後5~7年で、離婚。
そのまま定職にも就かず、実家を出たり入ったり……。
その夫婦が養育費の連帯保証人になっていたこともあり、夫婦のところに、
養育費の督促が届くようになった。

 が、「世間体が悪い」という理由で、その夫婦は、2人の息子を自分の家には住まわせ
なかった。
もちろん養育費も払わなかった。

●私のところへ

その住職は、私を紹介した。
住職と私は、20年来のつきあいがある。
で、それからしばらくして、その夫婦は、私のところへ、相談にやってきた。
夫婦の年齢は、ともに58歳(当時)。
夫の職業は、大手の自動車会社勤務。
妻は、パートで、当時できたばかりの老人ホームで、給食の手伝いをしていた。

 が、相談といっても、相談にならなかった。
妻のほうは多弁だった。
一方的に、ペラペラと、しゃべりつづけた。
が、その妻とは正反対に、夫は静かな人だった。
長い間、東北地方にある研究所へ単身で赴任していたという。
3人の子どもたちは、少年、少女時代、父親との接触は、ほとんどなかった。

 妻はこう言った。
「これだけ苦労して、育ててやったのに……」
「あれだけ、いろいろ世話をしてやったのに……」
「私は、どれほど苦労したかわからない」
「息子の嫁や孫たちは、私に苦労ばかりかけていた」と。

 2人の息子が、高校を強制退学になったことについても、
「息子たちは悪くない」
「学校の教師の誤解によるもの」
「警察が私たちの言い分を聞いてくれなかった」
「大きな怪我をしたのは、むしろ息子たちのほうだ」と。

 妻のほうは、本当に、よくしゃべった。

●反論

 子どもは家族の(代表)にすぎない。
子どもに問題が起きたら、家庭環境のどこかに問題があると考える。
それが2例、3例とつづいたら、なおさらである。

 私の印象では、父親の存在が、たいへん希薄だった。
とするなら、原因は、母親の育児姿勢にある。
が、母親は、「私は正しい」、
「私はまちがったことは何もしていない」の一点張り。
聞く耳すらもっていなかった。
私が何かを問いかけると、即座に、その数倍の反論がはね返ってきた。

私「養育費は払ったほうがいいですね」
妻(私の話をさえぎって)、「私は孫の世話を、xxxxx」
「誕生には、xxxxx」「病気になったときには、xxxxx」と。
それをことこまかく説明した。
つまり「私には、払う必要はない」、
「むしろ私のほうが、慰謝料をもらいたいくらいだ」と。

しかし先にも書いたように、一度しゃべり始めると、止まらない。
それを聞いている私のほうが、気が変になりそうだった。

●視野

 それぞれの人には、それぞれの視野というものがある。
その視野は、みなちがう。
と、同時に、その視野には、広い、狭いのちがいがある。
もちろんその視野は広ければ広いほどよい。
しかしその妻は、異常なまでに、狭かった。

 一方、夫のほうはというと、かなりの権威主義者。
話の随所で、「男だから……」「女だから……」「親だから……」という
『ダカラ論』を、ときどき、口にした。

 こういうケースのばあい、「相談」と言いながら、実際には、相談にならない。
私は黙って、妻の愚痴を聞くだけ。
「そうですね」「そうですね」と。
で、「お祓い」ということになった。

●住職への報告
 
 その夜遅く、私は住職に電話した。
報告の電話である。
その夫婦にとっては深刻な問題かもしれないが、教育的には大きな問題ではない。
今どき強制退学にしても、離婚にしても、珍しくもなんともない。
おおげさに考える必要はない。
それに袋小路に入ったわけではない。
妻が勝手に袋小路に入ったと思い込んでいるだけ。
問題になるとしたら、「世間体」ということになる。
夫も妻も、その世間体に苦しんでいた。

 ただ気になったのは、夫のほうは一見静かな人のようだったが、キレやすく
一度キレると、自分をコントロールできないようなタイプの人だったということ。
住職がそれを私に話してくれた。
「あの方は、怒ると、『テメエ!』『このヤロー』という言葉を使いますよ」と。
私が「信じられませんね」と言うと、住職は、カラカラと笑った。

 つまりこういうことらしい。
夫は権威主義者。
昔からの男尊女卑思想を強くもっていた。
妻は、多動型の多弁性がり、人の話を聞かない。
万事にこまかく、うるさい。
過干渉ママに加えて、情緒がかなり不安定だった。
精神安定剤を常用しているという。
そういった家庭環境が、長い時間をかけて、3人の子どもして、そういう子どもにした。

●では、どうするか?

 視野を広くするためには、より賢くなるしかない。
日ごろから、自分の文化性を磨き、高めていく。
より多くの情報に接し、見聞を広めていく。
これは世間体と闘うための鉄則でもある。

 が、残念ながらその母親には、その教養もあやしかった。
人格の完成度が低く、ものの考え方が自己中心的で、それに加えて、わがままだった。
ああでもない、こうでもないと、愚痴を並べるだけ。
話にならなかった。
私が、「~~してはどうでしょうか」と何かを提案しても、「そんなのは無駄」
「やってみた」「息子は黙っているだけで、返事もしない」と、
間髪を入れず、それを否定した。

 で、住職は乞われるまま、その数日後、その夫婦のためにお祓いをした。
私が「ご住職もたいへんですね」と言うと、「はあ、これもお努めの一つですから」と。

 視野の狭い人というのは、そういう女性のことをいう。
そうそう何かの話のついでに、「ビデオなんかは、見たことがありますか?」と
聞いたら、「見ません」ときっぱりと言った。
「本も読んだことがない」とも。
理由を聞くと、「読むと、頭が痛くなるから」と。
自分で自分の視野を狭くしている。
そのことにさえ、その女性は気づいていなかった。

 が、これは何も女性だけの問題ではない。
男性もまた、結婚して子どもをもうけたら、そのときから、ただひたすら学習、あるのみ。
その努力を忘れてはいけない。
忘れたとたん、その女性のようになる。

(09年06月記)
(注:この話はフィクションで、いくつかの古い話をひとつにまとめたものです。)


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司

●静岡県・知事選(民主主義の危機)(改)

++++++++++++++++

静岡県の知事選が始まった。
4氏が立候補している。
保守系(前副知事)が1人。
野党系が候補統一に失敗し、今のところ
保守系候補が有利。

同時に、昨日、こんなニュースが伝わってきた。
何でもJ党が、宮崎県のA知事に、衆院選挙
への出馬を要請したという。
が、驚くべき発言が、そのA知事の口から出た。
「総裁候補にしてくれるなら、受ける」と。
A知事というのは、元、お笑いタレント。

それに対して、野党がいっせいに、反発。
「J党も、ここまで落ちぶれたのか」(亀井氏)と。

そう、J党は、ここまで落ちぶれた!

++++++++++++++++++

●民主主義の危機

 どうしてAS氏のような人が、総理大臣?
 どうしてAZ氏のような人が、宮崎県の県知事?
「あんな人物が?」と言ってもよい。
……良識のある人なら、みな、そう思っている。

 「選挙で選ばれたのだから、民衆の代表」ということになるが、もしそうなら、
それこそ民主主義政治の欠陥と断言してもよい。
知名度や家柄だけで議員が決まるとしたら、選挙そのものが意義をなくす。
もっとも、民主主義が生まれたころには、(マスコミ)は、まだ存在していなかった。
かくもマスコミが選挙に影響を与えるなどとは、だれも予想していなかった。
が、今は、ちがう。
その一例が、宮崎県知事ということになる。

このあたりで、一度、(知名度)と(選挙)の関係について、だれかが断をくだして
おかないと、日本のみならず、世界中がメチャメチャになってしまう。

 もっともそれに対抗する方法がないわけではない。
有権者である私たちが、より賢くなることである。
が、それよりも先に、民主主義の欠陥ばかりが、肥大化する。
良識をもった人たちの良識など、こうした欠陥の前では、嵐の中のローソクのようなもの。
その結果が、AS総理大臣ということになる。
AZ宮崎県県知事ということになる。

 何が、総裁候補だ!
バカも休み休み言え……と書きたいが、今、日本の民主主義政治は、そこまで堕落して
いる。

●落下傘候補

 これは何も静岡県のことだけにかぎらない。
今、全国の都道府県+大都市では、落下傘のように、中央の官庁から候補者がおりてきて、
県や大都市で、要職の選挙戦を繰り広げる。
選挙などというものは、いわば(飾り)のようなもの。
当選すれば、そのまま要職に。
落選すれば、また元の職場に復帰。
 称して「落下傘候補」という。

 「中央から来た」というだけで、何でもありがたがる、この田舎根性。あさましさ。
一方、「中央から来てやった」という、この中央集権意識、あさましさ。
この両者の(あさましさ)が合体して、今の日本がある。

 たしかにこうした落下傘候補は、中央官庁とのパイプは太い。
だから巨額の建設資金を中央から、呼び込むことができる。
その結果が、サッカー場であり、空港ということになる(静岡県)。
しかしそれで潤ったのは、建設業界だけ。
残ったのは、場違いなほど立派な箱モノと、この先延々とつづく、赤字、また赤字。
当然、その赤字は、県民が負担することになる。

 この浜松市にしても、駅前に、これまた立派な、アクトタワーという建物がある。
建設費は2000億円とも3000億円とも言われている。
いったい、どれだけの税金が投入されたのか、されなかったのか、いまだもって、
よくわからない。
が、そのアクトタワーが生み出している利益など、ほとんどない。
市は、(公務員だから)、職員の人件費などはすべて棚にあげて、「黒字になった」
とさかんに宣伝している。
しかし「黒字」程度では、私たちは納得しない。
当時、2000億円を、年率5%で貯金しても、毎年、50億円の利息が手に入った
はず。
つまりそれ以上のものを稼いで、はじめて「黒字」と言ってほしい。

 もうバカげた箱モノ作りはやめよう。
それがいかにバカげているかは、あの簡保センターを見ればわかるはず。
数10億円もかけて作った箱モノが、たったの数万円!
こうして私やあなたの税金が、日々に、ドブへ、ドブへと捨てられている!

(参考)

時事通信はつぎのように伝える。

『自民党の古賀誠選対委員長は23日(090623)、宮崎県庁でAZ夫知事と会談し、
「今の自民党にない新しいエネルギーが欲しい」と次期衆院選への出馬を要請した。これ
に対し、知事は「わたしを次期総裁候補として、次の衆院選を戦う覚悟があるのか」と条
件を提示し、即答を避けた』と。

これに対して、JIJICOMは、次のように伝える。

『…… 「ここまで落ちたか、もの悲しい」―。国民新党の亀井静香代表代行は24日の
記者会見で、自民党の古賀誠選対委員長がAZ宮崎県知事に次期衆院選への出馬を要請し
たことについて、自民党が落ちぶれたと嘆いてみせた。

 亀井氏は「自民党は人材がいないということを天下にさらした」と指摘し、「わらにもす
がる思いで(AZ氏に)頼る(つもりの)ようだが、大いに最後のあがきをおやりになれ
ばいい」。衆院選後の政権交代を疑わないだけに、「自民党もそれなりの終えんを迎えても
らいたい。散るも桜。散り際が良ければまた芽が吹く」とも語った』と。


Hiroshi Hayashi++++++++June.09+++++++++はやし浩司


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2009年7月30日木曜日

*Young Teen Agers' Minds

(特集)【思春期の子どもの心】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの心がつかめない(?)

+++++++++++++++++

心がつかめない娘(小6)について、
そのお母さんから、こんな相談があり
ました。

この問題について、考えてみたいと
思います。

+++++++++++++++++

どこからお話ししていいのか分りません。沢山の問題があるように思うのですが・・・。
どうか、少しでも、問題点が整理できればと、こちらのHPに投稿させて頂きました。

事の始まりは、先日娘の担任の先生から電話があったことです。

「実は、P子さん(=私の娘、小6)が、最近、A子さんにひどい言い方をしているようだ。下校中、上下関係があるように見える」と言われました。それがたいへん、気になりました。

さらに、「実は去年の冬ごろ、ちょっとした事件がありまして」と、聞かされました。

先生の話の内容は、こういうことでした。娘のP子が、B子さんに本を貸したのですが、なかなか返してくれないので、「返して」と言ったところ、B子さんは、「私は借りていない」と言ったとのこと。

「確かにB子さんに貸したはず」と娘は言いましたが、しかし別の子から、「あっ、私、借りてるよ」と、本を渡されました。娘はB子さんに謝り、この件は終了しました。

ところが、その後、B子さんが、「私のペンがない!」と騒ぎ出しました。周りの友人も手伝って、探したところ、それが娘のP子の筆箱の中に、あったというのです。「あっ、そのペン私のじゃない?」と、B子さんが言ったといいます。それを見ていた先生も中に入り、娘に聞くと、「違う、これはお母さんに買ってもらったもの」と答えたというのです。

先生は「じゃあ、お母さんに聞いてもいいですか?」と、娘のP子に訪ねると、「ダメ」と答えたというのです。

それはおかしいなーと、いうことで、周りからも疑われた。・・・・と、いう事がありました。先生は、「もう、このことは済んだことなので、いいのですが・・・・。しかしP子さんが、A子さんにひどく当ることなどを、とても心配しています。おうちでも話しあってみてください」と言いました。

 初耳でした。でも、結果として娘はみんなの前で泥棒にされてしまったのでしょうか。
とにかく、真実を知りたいと、私は、娘に聞いてみました。

まず、A子さんのことですが、娘のP子は、「思い当たることはない、何の事を言っているのかわからない」と言いました。無意識でも、つまりこちらがその気でなくても、相手が傷ついているとしたら、とっても悲しい事だから、これから気をつけてねなどと、話しました。次にペンの事を聞いたのですが、その話になるろ、娘は泣きだしてしまいました。

 ・・・・実はこのずっと以前から気になっていたのですが、子どもたちは文房の交換をしているようです。「このペンどうしたの? この前買ったペンはどこ行ったの?」と私がP子に聞くと、屈託なく、「うん、友達が交換してっていうからいいよって」とか言います。

私「え? 何で?」
娘「どうしても欲しいって言うし、交換ならいいかなって。それに断る理由がないから」とのこと。

これもショックでしたが、きちんと「物をもっと大切にして欲しい。簡単に交換しないでほしい。。。」などなど沢山話しこれからはしないでねと、そのときは、そういう話で終わりました。

 で、本題ですが、「ペンのことだけど、こんなことがあったんだって? そのペンはどうしたものなの?」と聞くと、娘はなかなか答えようとしませんでした。そこで(1)持ってきてしまった、(2)拾った、(3)自分で買った、(4)その他の中のどれ?、と聞くと、やっとの事で、「交換したもの」と言いました。

「じゃあ何であの時、そういわなかったの?」と聞くと、泣くばかりです。泣いて泣いて、やっと聞けたのが、「交換しようって言われてしたのに、Bちゃんがどうしてそんな事を言い出したのか分らなくって」と。

私「あなたは泥棒だと、他の人はそう思うよ、それでもいいの?」
娘「盗んだと思われてもいい。それでも自分の思いは言えない」と。

 最近、大きくなってきて、少し手が離れてきたと思って手を抜いてしまったと、我にかえりました。低学年のころは、毎日のように主人と夜、子どもたちのことについて話し合っていたのも、最近ではしていない事にも気付かされました。

で、昔からの悩みの種は、娘(相談の娘小6・この下に小3の妹がいます)の、対人関係についての問題です。

私が働いていたため、娘が1歳半のときから保育園へ預けました。教育熱心で有名な保育園でしたが、右を向きなさいと指示されても、右を向かないような娘でした。そんなわけで、先生も、娘にかなり手を焼いていたようでした。何度も主人と呼び出されては、「お宅の子は人を見る」とこんこんと言われました。

人見知りが極端にはげしく、突然話し掛けられたりすると、かたまって口を閉ざしたり、下を見る、隠れるなどの行為をしました。ですから、極力休日は、家族で一緒にのんびりゆったり、栄養を蓄えるつもりで、常に皆で横に手をつなぎ、時には後ろに回り背中をなでながら過ごしていました。

小学校の入学時には、「大丈夫、なにも心配要らないよ」と、ぽんっと送り出したりしましたが、当時は、本当に元気よく通っていました。が、大人に理解されにくい性格は中々変わることもなく、「こう思ってるんだよ!」などと、口にした事は無いようです。

が、その一方で、娘は、地道に努力するタイプで、昨年、放送委員になったのですが、家で練習し、運動会やおひつの放送も、物怖じせず、こなしていきました。

一時期、これは、何かの障害なのではないかと、悩みました。が、素人判断も出来ず、なんとかやっていけていましたので・・・・。

現在も、三者面談などでは体をこわばらせ、手に冷や汗をかいています。落ち着きがなくなり、なんとか作り笑いをしてみせたりするのですが、それも先生にはふざけているように見えるのか、あまりよい印象は与えていないようです。

 そのような関係の先生ですが、今回の話し合った結果を、その先生に連絡しました。

私としては、なんとか、先生にだけでも誤解を解きたい。このままでは娘のP子がかわいそうとの思いで話しました。

先生は「分りました。ペンの事は申すんでしまった事なので、(確かに時がたちすぎている)、今さら蒸し返すのも何ですのでやめます」と言ってくれました。またペンのことについては、「やはりあのペンはB子さんのものだったわけだ。でも、B子さんは、交換した気は全く無いですよ」とのこと。私は「また相談にのって頂きたいので、よろしくお願いします」と言えただけです。

先生は、本当に娘のことを心配しているのか不安になりました。なぜ先生は、娘の側を少しでも見ようとしてくれないのでしょうか。私は常に平等を心がけ、こちらが悪いのでは、と思いながら話を聞くようにしているのですが。。。

長々とすみません。娘から話しを聞いて、娘には、「お母さんは、あなたを信じている。本当に信じている。世界で一番の味方だから」「分った、お母さんが守ってあげる。心配しないで。でも、努力しようね」と、言いました。

A子さんには本当に申し訳ない事をしたと思っています。とてもおとなしい子です。B子さんは、大人うけする、ハツラツとしたとても気持ちのいい子です。クラスのリーダー的存在。親友の子と喧嘩をした時だけ、娘に愚痴を言いにくるようです。

私は今、娘に何をしたらいいのか。先生に何を言ったらいいのか。主人とも話し合っていますが、行き詰まってしまっています。

本当に長くなって申し訳ありません。毎晩、この問題を考えていると、眠れません。アドバイスをお願いします。
(大阪府、KR子、P子の母親より)

【はやし浩司より、P子さんのお母さんへ】

 メール、ありがとうございました。

 まず、最初に、一言。

 この種の問題は、たいへんありふれた問題です。はっきり言えば、何でもない問題です。

 まず、A子さんについてですが、A子さんは、P子さんに、いじめられていると訴えただけのことです。ただP子さんには、その意識はなかった。つまり(いじめている)という意識がないまま、結果として、いじめているという雰囲気になってしまった。それだけのことですが、これも(いじめ)の問題では、よくあることです。

 B子さんとの本のトラブルについては、P子さんが、ウソを言っているだけのことです。何でもない、つまりは、子どもの世界では、よくあるウソです。一応たしなめながらも、おおげさに考える必要は、まったくありません。

 思春期の子どもは、自立を始めるとき、それまでになかったさまざまな変化を見せるようになります。フロイトの説によれば、イド(心の根源部にある、欲望のかたまり)の活動が活発になり、ときとして、子どもは欲望のおもむくまま、行動するようになります。

 ウソ、盗みなどが、その代表的なものです。万引きもします。性への関心、興味も、当然、高まってきます。しかしそういう形で、つまり親や社会に対して抵抗することで、子どもは、親から自立しようとします。

 ですから、ここに書いたように、一応はたしなめながらも、それですませます。あなたのように、子どもを追いつめてはいけません。これはP子さんの問題というよりは、完ぺき主義(?)のあなたのほうに問題があるのではないかと思います。

それともあなたは、子どものころ、あなたの親に対して、ウソをついたことはないとでも言うのでしょうか? ものを盗んだことはないとでも言うのでしょうか? 親の目の届かないところで、男の人と遊んだことはないとでも言うのでしょうか? もしそうなら、あなたは修道女? (失礼!)

 もしP子さんに問題があるとするなら、乳幼児期に、母子の間で、しっかりとした信頼関係が結べなかったという点です。母子の間でできる信頼関係を、心理学の世界では、「基本的信頼関係」といい、それが結べなかった状態を、「基本的不信関係」といいます。

 この信頼関係が基本となって、その後、先生との関係、友人関係、異性関係へと発展していきます。

 そのころの(不具合)が、今、P子さんの対人関係に、影響を与えているものと思われます。が、しかしそれは遠い過去の話。今さら、どうしようもない問題です。

 ですから今は、「うちの子は、人間関係を結ぶのが苦手だ」「他人に心を開くのが苦手だ」「外では無理をして、いい子ぶる」「自分の心の中を、さらけ出すことができない」と、割り切ることです。だれでも、ひとつやふたつ、そういう弱点があって、当たり前です。

 大切なことは、そういう子どもであることを、認めてあげることです。認めた上で、P子さんを理解してあげることです。「なおそう」とか、そういうふうに、考えてはいけません。(どの道、今さら、手遅れですから……。)

 あとはP子さん自身の問題です。もしP子さんが、もう少しおとなになり、人間関係の問題で悩むようなことがあったら、ぜひ、私のHPを見るように勧めてあげてください。あるいはマガジンの購読を勧めてあげてください。無料です。同じような問題は、そのつどテーマとして、マガジンでもよく取りあげていますので、参考になると思います。

 で、今、あなたの目は、P子さんのほうに向きすぎています。そんな感じがします。しかも、P子さんへの不信感ばかり……! 心配先行型の子育てが、いまだにつづいているといった感じです。

 ですからあなたはあなたで、もう少し、外に向かって目を向けられたらどうでしょうか? 多分、あなたはP子さんにとっては、うるさい、いやな母親と映っているはずです。たかがペンぐらいの問題で、親からここまで追及されたら、私なら、机ごと、親に向かって投げつけるだろうと思います。ホント! 今では、ペンといっても、いろいろありますが、100円ショップで、3~5本も買える時代です。

 いわんや子どもが泣きだすほどまで、子どもを追いつめてはいけません。またこの問題は、そういう問題ではないのです。

 さらに学校の先生も、それほど、おおげさには考えていないはずです。先にも書きましたが、こうした問題は、まさに日常茶飯事。ですから、先生がP子さんのことを悪く思っているとか、娘が誤解されてかわいそうとか、先生が親側に立ってものを考えてくれないとか、そういうふうに考えてはいけません。

 またP子さんに向かって、「信じている」とか何とか、そんなおおげさな言葉を使ってはいけません。また使うような場面ではありません。繰りかえしますが、たかがペン1本の問題です。わかりやすく言えば、P子さんが、B子さんのペンを盗んで、自分の筆箱に入れた。それだけのことです。

 多少の虚言癖はあるようですが、それもこの時期の子どもには、よくあることです。(もちろん病的な虚言癖、作話、妄想的虚言などは、区別して考えますが……。)

 あなたにも、それがわかっているはず。わかっていながら、P子さんを追いつめ、P子さんの口からそれを聞くまで、納得しない。つまりは、あなたは、完ぺき主義の母親ということになります。

 P子さんは、いい子ですよ。放送委員の一件を見ただけでも、それがわかるはず。そういうP子さんのよい面を、どうしてもっとすなおに、あなたは見ないのですか。あなたが今すべきことは、そういうP子さんのよい面だけを見て、あなたはあなたで、前を見ながら、前に進む。今は、それでよいと思います。つまりは、それが(信ずる)ということです。言葉の問題ではありません。

 またこうした問題には、必ず、二番底、三番底があります。あなたはP子さんの今の状態を最悪と思うかもしれませんが、しかし、対処のし方をまちがえると、P子さんは、その二番底、三番底へと落ちていきますよ! これは警告です。

 反対の立場で考えてみてください。私なら、家を出ますよ。息が詰まりますから……。P子さんが、家を出るようになったら、あなたは、どうしますか。外泊をするようになったら、どうしますか。

 ですから今は、「今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、様子をみる」です。

 だれしも、失敗をします。人をキズつけたり、あるいは反対に人にキズつけられながら、その中で、ドラマを展開します。悩んだり、苦しんだり……。そのドラマにこそ、意味があるのです。子どもについて言えば、そのドラマが、子どもをたくましくします。

 P子さんは、たしかにいやな思いをしたかもしれませんが、それはP子さんの問題。親のあなたが、割って出るような問題ではないのです。親としてはつらいところですが、もうそろそろ、あなた自身も、子離れをし、P子さんには、親離れをするよう、し向けることこそ、大切です。

 とても、ひどいことを言うようですが、私はあなたの相談の中に、子離れできない、どこか未熟な親の姿を感じてしまいました。あなたはそれでよいとしても、P子さんが、かわいそうです。

 で、たまたま昨夜、『RAY』というビデオを見ました。レイ・チャールズの生涯をつづったビデオです。あのビデオの中で、ところどころ、レイ・チャールズの母親が出てきますが、今のあなたに求められる母親像というのは、ひょっとしたら、レイ・チャールズの母親のような母親像ではないでしょうか。

 最後に、もう一言。

 こんな問題は、何でもありませんよ! 本当によくある問題です。ですから、「A子さんに申し訳ない」とか、B子さんがどうとか、そんなふうに考えてはいけません。今ごろは、A子さんも、B子さんも、学校の先生も、何とも思っていませんよ。

 あなた自身が、心のクサリをほどいて、自分のしたいことをしたらよいのです。心を開いて! 体は、あとからついてきますよ!

 すばらしい季節です。おしいものでも食べて、あとは、忘れましょう! 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子どもの虚言 子供の虚言 盗み)

+++++++++++++++

いくつか、今までに書いた
原稿を添付しておきます。

+++++++++++++++
 
【信頼関係】

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答えてあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくことができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気にしない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというのは、避ける。
(030422)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 信頼関係 親子関係 親子の信頼関係 基本的信頼関係 不信関係 一貫性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 

【感情の発達】

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達する、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)〇歳~一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)一歳前後~二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感情の形成期。

(複雑感情形成期)二歳前後~五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情などの、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしその日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休んで、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさんは、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成するということ。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考えてみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、いつごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもっていたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、すぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつかいしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせてみたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうまん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこう言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子どもたちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」でもよい。しかし「幼稚園」は、……?
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 基本感情 人間的感情形成 感情形成期)

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【不安なあなたへ】

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらった。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいない。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなかった。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなければいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四時間か五時間。途中で食事をしても、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジリジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着いたよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いたけど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなかったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそこらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。この埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

● 親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
● 何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
● しかしその友だちとは、仲がよい。
● そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
● が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
● そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そんなわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のばあいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあってほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってしまうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そもそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによって、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りないことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ども自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないとしても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できることと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょうずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということになる。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごくふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」はそうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題ということになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるのは、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなければならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもりが、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることすら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらしい。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほしくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決するのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよい。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たとえば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶりをしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないのと同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止したりしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうであるように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のことで考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いちいち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなたはそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三〇歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんてさみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取られた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子どもを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということになる。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が二三歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にたたき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職業をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子どもは生きている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは事実である。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、さらにはよい仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似ている。「うちの子は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲームをしながら、「エメラルドタウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものようなもの。あるいは、どこがどう違うのというのか。(だからといって、それがムダといっているのではない。そういうドラマに人生のおもしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよい。またそこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、この世界から消えてなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人間どうしが、今、いっしょに、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あなたは子育てにまつわる、あらゆる問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだけではすまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。しかしその子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなたはダメな子だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子どもは自己不信から、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなってしまう。へたをすれば、一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内容は別として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の根底にある、「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか心配先行型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は何かといえば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わだかまり」があったことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼児期、少女期にあるのではないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。あなた自身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていなかった可能性があります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関係を結ぶことができなかったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップを経て、形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許される」という絶対的な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあと、園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなります。どこかいい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出すことができないからです。

さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自分の子どもすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、あらゆる信頼関係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的には、夫や子どもに対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を感じたりしやすくなります。子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」という意味で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的にどうこうというのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、親に対して、全幅に心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそうなら、「恵まれた環境」ということになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こうした問題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国というか、こと子育てについては黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始めます。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じような手法を用います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言えば、自分の中の過去を知るということです。まずいのは、そういう過去があるということではなく、そういう過去に気づかないまま、その過去に振りまわされることです。そして結果として、自分でもどうしてそういうことをするのかわからないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりますが、やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになります。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるいはさらに、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青年期にかけて、不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成りたっているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとしたら、あなたが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、本当にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子どもを嫌っているのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の子どもを判断しているのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つです。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭ければせまいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これは私の経験ですが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければなりません。(当然ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言っていたのでは、仕事そのものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面のときから、その子どもを好きになります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかしこれだけは言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。とくに幼児については、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。ですからASさんも、一度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさわしくない子どもかどうか、一度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前にもう一つ大切なことは、あなたの子ども自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるようにしかならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作るようなものです。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の関係が、今の関係というわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとしても、それはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある程度は干渉できても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰りかえし起きてきます。たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなとき、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるかどうかということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに反対する権利はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どんな友だちを選んだとしても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題ということです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、判断して、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずるのです。「うちの子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずはない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っていると、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子どもだと思っていると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そしてあなたの前で、自分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、たいがいの人間関係は、ますます悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バトルを繰りかえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。こうした例をみてみてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということです。とくに、姑が嫁にもつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思うと、何かにつけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えようと、ますますよい嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。こうした相乗効果が、たがいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていませんか。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題ということになります。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあなたは悪くない面まで、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子どもは、あえて自分の悪い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不思議なもので、自分をよい子だと信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せようとします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも言えます。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験しておくことは、それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間になることが知られています。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要といえば必要なのです。むしろまずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子どものときは、優等生で終わるかもしれませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、さまざまな問題を引き起こすようになります。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですからこれからのことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなことは、何度も起きてきます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが子ども。そして子育て。そういう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設計図に子どもをあてはめようとすればするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設計図から離れていきます。そして「まだ前の友だちのほうがよかった……」というようなことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だちとつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三番底」とか呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1) 相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろい子ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげてね。きっと喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロールします。

(2) あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっているわ」「あなたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。これから先、子どもはあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子どもは、あなたの信頼をどこかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるようになります。「親の信頼を裏切りたくない」という思いが、行動を自制するということです。

(3) 「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきらめは、悟りの境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。子どもというのは不思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。伸びも、そこで止まります。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始めます。「まだ何とかなる」「こんなはずではない」と、もしあなたが思っているなら、「このあたりが限界」「まあ、うちの子はうちの子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いなおすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったところもあるかもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことについて、また何か、わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼します。
(030516)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 さらけ出し 子育て不安 育児ノイローゼ)

*The Language Ability of Children

(特集)【子どもの言葉】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「先生は、S? それともM?」

+++++++++++++++++

中学生のSさんが、突然、私にこう
聞いた。

「先生、先生は、S? それとも
M?」と。

ギョッとした。が、そこはとぼけて、
「服はみんな、Mサイズだよ。下着は
Sかな?」と。

するとSさんは、「そうじゃないわよ。
先生は、サド? それともマゾ?」と。

+++++++++++++++++

 学生言葉というのがある。学生しか通じない言葉である。あとで以前、それについて書
いた原稿を添付しておくが、今度は、「SとM」。

 そこでSさんに、話を聞くと、こう教えてくれた。

 「いじめる側に回って、いじめるのが好きな人を、Sというのよ。反対に、いじめられ
る側に回って、いじめられるのを楽しむ人を、Mというのよ」と。

私「いじめられて楽しい人なんているの?」
S「いるわよ。そういう趣味の人も」
私「それはおかしいよ。趣味だなんて……」
S「いじめられる側って、結構、気楽なものよ」
私「あのねえ、そういう考え方をするバカがいるから、いじめの問題は、いつまでもつづ
くんだよ」と。

 しかしサドとか、マゾとか、そういう言葉が、中学生の子どもの口から出てくるとは、
想像もしていなかった。ホント!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心をつかむために

 あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、
意味を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。

●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い

 8問のうち、5~6問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心
をしっかりと、つかんでいる。

 正解は、つぎ。

○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴ
ンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」

 あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・
ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、
ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。

あなたの子どもは目を白黒させて、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試して
みてほしい。女子だったら、「私、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、
やっぱりかごちゃんが一番、すてきだと思うわ」と。コツは、さりげなく、サラリと子
どもの前で言うこと。

●子どもの言葉

●子どもの言語能力(Language Ability of Children)
What is the difference between men and apes? T. Sawaguchi says it is the difference
between men who has language ability and the apes which do not have language ability. It means to improve the language ability is an essential part of education, especially when the boys or girls are at the proper age for the education.

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ついでに……、
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」
と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

私も、そう思う。

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澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のあるなしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子どもに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくると、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることができる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるのではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要がある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このことは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳)

*The Human Right of the Children

【1】(特集)【子どもの人格論】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの人格】

●幼児性の残った子ども

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人格の核形成が遅れ、その年齢に
ふさわしい人格の発達が見られない。

全体として、しぐさ、動作が、
幼稚ぽい。子どもぽい。

そういう子どもは、少なくない。

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 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいという
ことではない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくら
でもいる。

 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年
生ごろになると、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成
が遅れ、乳幼児期の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなもの
がある。

(1) 独特の幼児ぽい動作や言動。
(2) 無責任で無秩序な行動や言動。
(3) しまりのない生活態度。
(4) 自己管理能力の欠落。
(5) 現実検証能力の欠落。

 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、
できない。自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしま
う。

 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と
過関心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人
格の核形成を遅らせる。

 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ど
も」という(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、
YES・NOがはっきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲
気に流されて、周囲に迎合しやすくなる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

【人格の完成度の高い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。
○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。
○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。
○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。

【人格の完成度の低い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。
○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。
○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。
○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。

 では、どうするか?

 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。

(1) まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。
(2) 親の育児姿勢に一貫性をもたせる。
(3) 『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。

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今までに書いた原稿の中から
いくつかを選んで、ここに
添付します。

内容が少し脱線する部分があるかも
しれませんが、お許し下さい。

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(1)【子どもの人格を認める】

●ストーカーする母親

 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居するこ
とになった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していた
のが、娘の実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも…
…」と考えていたが、そのもくろみは、もろくも崩れた。

 が、結婚、2年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家
庭騒動の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、
珍しくない。しかしここからが違った。なおこの話は、「本当にあった話」とわざわざ断り
たいほど、本当にあった話である。

 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)
による復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当
たった!」「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた
人生を返せ!」と。それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、
はやく死んでしまえ!」「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろっ
てやる!」「親を不幸にしたものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではな
い。

どこでどう監視しているのかわからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけ
で、○○レストランで、お食事? 結構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっ
ているあんたを見ると、親としてなさけなくてね」「今日、あんたが着ていたセーターね、
あれ、私が買ってあげたものよ。わかっているの!」と。

 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、
何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が
悪くなると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、
フラフラするわ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえる
のに」「もう、長いこと会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしく
ないわよ」「明日あたり、私の通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。

●自分勝手な愛

 親が子どもにもつ愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。ここで
いう代償的愛というのは、自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手でわがままな愛を
いう。たいていは親自身に、精神的な欠陥や情緒的な未熟性があって、それを補うために、
子どもを利用する。子どもが親の欲望を満足させるための道具になることが多い。そのた
め、子どもを、一人の人格をもった人間というより、モノとみる傾向が強くなる。いろい
ろな例がある。

 Aさん(60歳・母親)は、会う人ごとに、「息子なんて育てるものじゃ、ないですねえ。
息子は、横浜の嫁にとられてしまいました」と言っていた。息子が結婚して横浜に住んで
いることを、Aさんは、「取られた」というのだ。

 Bさん(45歳・母親)の長男(現在18歳)は、高校へ入学すると同時に、プツンし
てしまった。断続的に不登校を繰り返したあと、やがて家に引きこもるようになった。原
因ははげしい受験勉強だった。しかしBさんには、その自覚はなかった。つづいて二男に
も、受験期を迎えたが、同じようにはげしい受験勉強を強いた。「お兄ちゃんがダメになっ
たから、あんたはがんばるのよ」と。ところがその二男も、同じようにプツン。今は兄弟
二人は、夫の実家に身を寄せ、そこから、ときどき学校に通っている。

 Cさん(65歳・母親)は、息子がアメリカにある会社の支店へ赴任している間に、息
子から預かっていた土地を、勝手に転売してしまった。帰国後息子(40歳)が抗議する
と、Cさんはこう言ったという。「親が、先祖を守るために息子の金を使って、何が悪い!」
と。Cさんは、息子を、金づるくらいにしか考えていなかったようだ。その息子氏はこう
話した。

「何かあるたびに、私のところへきては、10~30万円単位のお金をもって帰りまし
た。私の長男が生まれたときも、その私から、母は当時のお金で、30万円近く、もっ
て帰ったほどです。いつも『かわりに貯金しておいてやるから』が口ぐせでしたが、今
にいたるまで、1円も返してくれません」と。

 Dさん(60歳・女性)の長男は、ハキがなく、おとなしい人だった。それもあって、
Dさんは、長男の結婚には、ことごとく反対し、縁談という縁談を、すべて破談にしてし
まった。Dさんはいつも、こう言っていた。「へんな嫁に入られると、財産を食いつぶされ
る」と。たいした財産があったわけではない。昔からの住居と、借家が二軒あっただけで
ある。

 ……などなど。こういう親は、いまどき、珍しくも何ともない。よく「親だから……」「子
だから……」という、『ダカラ論』で、親子の問題を考える人がいる。しかしこういうダカ
ラ論は、ものの本質を見誤らせるだけではなく、かえって問題をかかえた人たちを苦しめ
ることになる。「実家の親を前にすると、息がつまる」「盆暮れに実家へ帰らねばならない
と思うだけで、気が重くなる」などと訴える男性や女性はいくらでもいる。

さらに舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との折り合いが悪く、家庭騒動を繰り返してい
る家庭となると、今では、そうでない家庭をさがすほうが、むずかしい。中には、「殺し
てやる!」「お前らの前で、オレは死んでやる!」と、包丁やナタを振り回している舅す
ら、いる。

 そうそう息子が二人ともプツンしてしまったBさんは、私にも、ある日こう言った。「夫
は学歴がなくて苦労しています。息子たちにはそういう苦労をさせたくないので、何とか
いい大学へ入ってもらいたいです」と。

●子どもの依存性

 人はひとりでは生きていかれない存在なのか。「私はひとりで生きている」と豪語する人
ですら、何かに依存して生きている。金、モノ、財産、名誉、地位、家柄など。退職した
人だと、過去の肩書きに依存している人もいる。あるいは宗教や思想に依存する人もいる。
何に依存するかはその人の勝手だが、こうした依存性は、相互的なもの。そのことは、子
どもの依存性をみているとわかる。

 依存心の強い子どもがいる。依存性が強く、自立した行動ができない。印象に残ってい
る子どもに、D君(年長児)という子どもがいた。帰りのしたくの時間になっても、机の
前でただ立っているだけ。「机の上のものを片づけようね」と声をかけても、「片づける」
という意味そのものがわからない……、といった様子。そこであれこれジェスチャで、し
まうように指示したのだが、そのうち、メソメソと泣き出してしまった。多分、家では、
そうすれば、家族のみながD君を助けてくれるのだろう。

 一方、教える側からすれば、そういう涙にだまされてはいけない。涙といっても、心の
汗。そういうときは、ただひたすら冷静に片づけるのを待つしかない。いや、内心では、
D君がうまく片づけられたら、みなでほめてやろうと思っていた。が、運の悪いことに(?)、
その日にかぎって、母親がD君を迎えにきていた。そしてD君の泣き声を聞きつけると、
教室へ飛び込んできて、こう言った。ていねいだが、すごみのある声だった。「どうしてう
ちの子を泣かすのですか!」と。

 そういう子どもというより、その子どもを包む環境を観察してみると、おもしろいこと
に気づく。D君の依存性を問題にしても、親自身には、その認識がまるでないということ。
そういうD君でも、親は、「ふつうだ」と思っている。さらに私があれこれ問題にすると、
「うちの子は、生まれつきそうです」とか、「うちではふつうです」とか言ったりする。そ
こでさらに観察してみると、親自身が依存性に甘いというか、そういう生き方が、親自身
の生き方の基本になっていることがわかる。そこで私は気がついた。子どもの依存性は、
相互的なものだ、と。こういうことだ。

 親自身が、依存性の強い生き方をしている。つまり自分自身が依存性が強いから、子ど
もの依存性に気づかない。あるいはどうしても子どもの依存性に甘くなる。そしてそうい
う相互作用が、子どもの依存性を強くする。言いかえると、子どもの依存性だけを問題に
しても、意味がない。子どもの依存性に気づいたら、それはそのまま親自身の問題と考え
てよい。

……と書くと、「私はそうでない」と言う人が、必ずといってよいほど、出てくる。それ
はそうで、こうした依存性は、ある時期、つまり青年期から壮年期には、その人の心の
奥にもぐる。外からは見えないし、また本人も、日々の生活に追われて気づかないでい
ることが多い。しかしやがて老齢期にさしかかると、また現れてくる。先にあげた親た
ちに共通するのは、結局は、「自立できない親」ということになる。

●子どもに依存する親たち

 日本型の子育ての特徴を、一口で言えば、「子どもが依存心をもつことに、親たちが無頓
着すぎる」ということ。昔、あるアメリカの教育家がそう言っていた。つまりこの日本で
は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独
立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。私が生まれ育った岐
阜県の地方には、まだそういう風習が強く残っていた。今も残っている。

親の権威や権力は絶対で、親孝行が今でも、最高の美徳とされている。たがいにベタベ
タの親子関係をつくりながら、親は親で、子どものことを、「親思いの孝行息子」と評価
し、子どもは子どもで、それが子どもの義務と思い込んでいる。こういう世界で、だれ
かが親の悪口を言おうものなら、その子どもは猛烈に反発する。相手が兄弟でもそれを
許さない。「親の悪口を言う人は許さない!」と。

 今風に言えば、子どもを溺愛する親、マザーコンプレックス(マザコン)タイプの子ど
もの関係ということになる。このタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するため
に、親を必要以上に美化するので、それがわかる。

 こうした依存性のルーツは、深い。長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのもの
がもつ習性(?)とからんでいる。私はこのことを、ある日、ワイフとロープウェイに乗
っていて発見した。

●ロープウェイの中で

 春のうららかな日だった。私とワイフは、近くの遊園地へ行って、そこでロープウェイ
に乗った。中央に座席があり、そこへ座ると、ちょうど反対側に、60歳くらいの女性と、
五歳くらいの男の子が座った。おばあちゃんと孫の関係だった。その2人が、私たちとは
背中合わせに、会話を始めた。(決して盗み聞きしたわけではない。会話がいやおうなしに
聞こえてきたのだ。)その女性は、男の子にこう言っていた。

 「オバアちゃんと、イッチョ(一緒)、楽しいね。楽しいね。お山の上に言ったら、オイ
チイモノ(おいしいもの)を食べようね。お小づかいもあげるからね。オバアちゃんの言
うこと聞いてくれたら、ホチイ(ほしい)ものを何でも買ってあげるからね」と。
 
 一見ほほえましい会話に聞こえる。日本人なら、だれしもそう思うだろう。が、私はそ
の会話を聞きながら、「何か、おかしい」と思った。60歳くらいの女性は、孫をかわいが
っているように見えるが、その実、孫の人格をまるで認めていない。まるで子どもあつか
いというか、もっと言えば、ペットあつかい! その女性は、5歳の子どもに、よい思い
をさせるのが、祖母としての努めと考えているようなフシがあった。そしてそうすること
で、祖母と孫の絆(きずな)も太くなると、錯覚しているようなフシがあった。

 しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえばこの日本では、誕生日にせよ、クリスマ
スにせよ、より高価なプレゼントであればあるほど、親の愛の証(あかし)であると考え
ている人は多い。また高価であればあるほど、子どもの心をつかんだはずと考えている人
は多い。しかし安易にそうすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。仮に一時的
に子どもの心をつかむことはできても、あくまでも一時的。理由は簡単だ。

●釣竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け

 人間の欲望には際限がない。仮に一時的であるにせよ、欲望をモノやお金で満足させた
子どもは、つぎのときには、さらに高価なものをあなたに求めるようになる。そのときつ
ぎつぎとあなたがより高価なものを買い与えることができれば、それはそれで結構なこと
だが、それがいつか途絶えたとき、子どもはその時点で自分の欲求不満を爆発させる。そ
してそれまでにつくりあげた絆(本当は絆でも何でもない)を、一挙に崩壊させる。「バイ
クぐらい、買ってよこせ!」「どうして私だけ、夏休みにオーストラリアへ行ってはダメな
の!」と。

 イギリスには、『子どもには釣竿を買ってあげるより、子どもと一緒に、魚釣りに行け』
という格言がある。子どもの心をつかみたかったら、モノを買い与えるのではなく、よい
思い出を一緒につくれという意味だが、少なくとも、子どもの心は、モノやお金では釣れ
ない。それはさておき、その六〇歳の女性がしたことは、まさに、子どもを子どもあつか
いすることにより、子どもを釣ることだった。

 しかし問題はこのことではなく、なぜ日本人はこうした子育て観をもっているかという
こと。また周囲の人たちも、「ほほえましい光景」と、なぜそれを容認してしまうかという
こと。ここの日本型子育ての大きな問題が隠されている。

 それが、私がここでいう、「長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがもつ習
性(?)とからんでいる」ということになる。つまりこの日本では、江戸時代の昔から、
あるいはそれ以前から、『女、子ども』という言い方をして、女性と子どもを、人間社会か
ら切り離してきた。私が子どものときですら、そうだった。

NHKの大河ドラマの『利家とまつ』あたりを見ていると、江戸時代でも結構女性の地
位は高かったのだと思う人がいるかもしれないが、江戸時代には、女性が男性の仕事に
口を出すなどということは、ありえなかった。とくに武家社会ではそうで、生活空間そ
のものが分離されていた。日本はそういう時代を、何100年間も経験し、さらに不幸
なことに、そういう時代を清算することもなく、現代にまで引きずっている。まさに『利
家とまつ』がそのひとつ。いまだに封建時代の圧制暴君たちが英雄視されている!

 が、戦後、女性の地位は急速に回復した。それはそれだが、しかし取り残されたものが
ひとつある。それが『女、子ども』というときの、「子ども」である。

●日本独特の子ども観

 日本人の多くは、子どもを大切にするということは、子どもによい思いをさせることだ
と誤解している。もう10年近くも前のことだが、一人の父親が私のところへやってきて、
こう言った。「私は忙しい。あなたの本など、読むヒマなどない。どうすればうちの子をい
い子にすることができるのか。一口で言ってくれ。そのとおりにするから」と。
 私はしばらく考えてこう言った。「使うことです。子どもは使えば使うほど、いい子にな
ります」と。

 それから10年近くになるが、私のこの考え方は変わっていない。子どもというのは、
皮肉なことに使えば使うほど、その「いい子」になる。生活力が身につく。忍耐力も生ま
れる。が、なぜか、日本の親たちは、子どもを使うことにためらう。はからずもある母親
はこう言った。「子どもを使うといっても、どこかかわいそうで、できません」と。子ども
を使うことが、かわいそうというのだが、どこからそういう発想が生まれるかといえば、
それは言うまでもなく、「子どもを人間として認めていない」ことによる。私の考え方は、
どこか矛盾しているかのように見えるかもしれないが、その前に、こんなことを話してお
きたい。

●友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。親には3つの役目がある、と。ひとつはガイ
ドとして、子どもの前を歩く。もうひとつは、保護者として、子どものうしろを歩く。そ
して3つ目は、友として、子どもの横を歩く、と。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし友として、子どもの横を歩くの
が苦手。苦手というより、そういう発想そのものがない。もともと日本人は、上下意識の
強い国民で、たった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩と、きびしい序列をつける。男が上、
女が下、夫が上、妻が下。そして親が上で、子が下と。親が子どもと友になる、つまり対
等になるという発想そのものがない。ないばかりか、その上下意識の中で、独特の親子関
係をつくりあげた。私がしばしば取りあげる、「親意識」も、そこから生まれた。

 ただ誤解がないようにしてほしいのは、親意識がすべて悪いわけではない。この親意識
には、善玉と悪玉がある。善玉というのは、いわゆる親としての責任感、義務感をいう。
これは子どもをもうけた以上、当然のことだ。しかし子どもに向かって、「私は親だ」と親
風を吹かすのはよくない。その親風を吹かすのが、悪玉親意識ということになる。「親に向
かって何だ!」と怒鳴り散らす親というのは、その悪玉親意識の強い人ということになる。
先日もある雑誌に、「父親というのは威厳こそ大切。家の中心にデーンと座っていてこそ父
親」と書いていた教育家がいた。そういう発想をする人にしてみれば、「友だち親子」など、
とんでもない考え方ということになるに違いない。

 が、やはり親子といえども、つきつめれば、人間関係で決まる。「親だから」「子どもだ
から」という「ダカラ論」、「親は~~のはず」「子どもは~~のはず」という「ハズ論」、
あるいは「親は~~すべき」「子は~~すべき」という、「ベキ論」で、その親子関係を固
定化してはいけない。固定化すればするほど、本質を見誤るだけではなく、たいていのば
あい、その人間関係をも破壊する。あるいは一方的に、下の立場にいるものを、苦しめる
ことになる。

●子どもを大切にすること

 話を戻すが、「子どもを人間として認める」ということと、「子どもを使う」ということ
は、一見矛盾しているように見える。また「子どもを一人の人間として大切にする」とい
うことと、「子どもを使う」ということも、一見矛盾しているように見える。とくにこの日
本では、子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせ、子どもに楽をさせ
ることだと思っている人が多い。そうであるなら、なおさら、矛盾しているように見える。
しかし「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」という視点に立
つなら、この考えはひっくりかえる。こういうことだ。

 いつかあなたの子どもがあなたから離れて、あなたから巣立つときがくる。そのときあ
なたは、子どもに向かってこう叫ぶ。

 「お前の人生はお前のもの。この広い世界を、思いっきり羽ばたいてみなさい。たった
一度しかない人生だから、思う存分生きてみなさい」と。

つまりそういう形で、子どもの人生を子どもに、一度は手渡してこそ、親は親の務めを
果たしたことになる。安易な孝行論や、家意識で子どもをしばってはいけない。もちろ
んそのあと、子どもが自分で考え、親のめんどうをみるとか、家の心配をするというの
であれば、それは子どもの問題。子どもの勝手。しかし親は、それを子どもに求めては
いけない。期待したり、強要してはいけない。あくまでも子どもの人生は、子どものも
の。

 この考え方がまちがっているというのなら、今度はあなた自身のこととして考えてみれ
ばよい。もしあなたの子どもが、あなたのためや、あなたの家のために犠牲になっている
姿を見たら、あなたは親として、それに耐えられるだろうか。もしそれが平気だとするな
ら、あなたはよほど鈍感な親か、あるいはあなた自身、自立できない依存心の強い親とい
うことになる。同じように、あなたが親や家のために犠牲になる姿など、美徳でも何でも
ない。仮にそれが美徳に見えるとしたら、あなたがそう思い込んでいるだけ。あるいは日
本という、極東の島国の中で、そう思い込まされているだけ。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間として自立させること。自立さ
せるということは、子どもを一人の人間として認めること。そしてそういう視点に立つな
ら、子どもに社会性を身につけさえ、ひとりで生きていく力を身につけさせるということ
だということがわかってくる。「子どもを使う」というのは、そういう発想にもとづく。子
どもを奴隷のように使えということでは、決して、ない。

●冒頭の話

 さて冒頭の話。実の娘に向かって、ストーカー行為を繰り返す母親は、まさに自立でき
ない親ということになる。いや、私はこの話を最初に聞いたときには、その母親の精神状
態を疑った。ノイローゼ? うつ病? 被害妄想? アルツハイマー型痴呆症? 何であ
れ、ふつうではない。嫉妬に狂った女性が、ときどき似たような行為を繰り返すという話
は聞いたことがある。そういう意味では、「娘を取られた」「夢をつぶされた」という点で
は、母親の心の奥で、嫉妬がからんでいるかもしれない。が、問題は、母親というより、
娘のほうだ。

 純粋にストーカー行為であれば、今ではそれは犯罪行為として類型化されている。しか
しそれはあくまでも、男女間でのこと。このケースでは、実の母親と、実の娘の関係であ
る。それだけに実の娘が感ずる重圧感は相当なものだ。遠く離れて住んだところで、解決
する問題ではない。また実の母親であるだけに、切って捨てるにしても、それ相当の覚悟
が必要である。あるいは娘であるがため、そういう発想そのものが、浮かんでこない。そ
の娘にしてみれば、母親からの電話におびえ、ただ一方的に母親にわびるしかない。

実際、親に、「産んでやったではないか」「育ててやったではないか」と言われると、子
どもには返す言葉がない。実のところ、私も子どものころ母親に、よくそう言われた。
しかしそれを言われた子どもはどうするだろうか。反論できるだろうか。……もちろん
反論できない。そういう子どもが反論できない言葉を、親が言うようでは、おしまい。
あるいは言ってはならない。仮にそう思ったとしても、この言葉だけは、最後の最後ま
で言ってはならない。言ったと同時に、それは親としての敗北を認めたことになる。

が、その娘の母親は、それ以上の言葉を、その娘に浴びせかけて、娘を苦しめている。
もっと言えば、その母親は「親である」というワクに甘え、したい放題のことをしてい
る。一方その娘は、そのワクの中に閉じ込められて、苦しんでいる。

 私もこれほどまでにひどい事件は、聞いたことがない。ないが、親子の関係もゆがむと、
ここまでゆがむ。それだけにこの事件には考えさせられた。と、同時に、輪郭(りんかく)
がはっきりしていて、考えやすかった。だから考えた。考えて、この文をまとめた。
(02-9-14)※

++++++++++++++++

(2)【育児の一貫性】

子育ての一貫性

 以前、「信頼性」についての原稿を書いた。この中で、親子の信頼関係を築くためには、
一貫性が大切と書いた。その「一貫性」について、さらにここでもう一歩、踏みこんで考
えてみたい。

 その前に、念のため、そのとき書いた原稿を、再度掲載する。

++++++++++++++++++++++

信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、同じようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、
子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、
ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの3つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第1世界という。園や学校での世界。これを第2世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第3世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第2世界、つづいて第3世界へと、応用して
いく。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第2世界、第3世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の
基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなば
あい、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第2世界、第3世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出せる環境」をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役
目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよ
い。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じよう
に接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くな
るというのは、避ける。

+++++++++++++++++++++

 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、もの
すごいものがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、
適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言
う人がいる。A氏(60歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありまし
た」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそ
う言う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建
主義的であったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があった
からにほかならない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるというこ
とは、いかにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラ
フラしていて、どうして子どもが育つかということになる。
(030623)
(はやし浩司 一貫性)

++++++++++++++++++++++

(3)【子育て自由論】

●親子でつくる三角関係

 本来、父親と母親は一体化し、「親」世界を形成する。

 その親世界に対して、子どもは、一対一の関係を形成する。

 しかしその親子関係が、三角関係化するときがある。父親と、母親の関係、つまり夫婦
関係が崩壊し、父親と子ども、母親と子どもの関係が、別々の関係として、機能し始める。
これを親子の三角関係化(ボーエン)という。

 わかりやすく説明しよう。

 たとえば母親が、自分の子どもを、自分の味方として、取り込もうとしたとする。

「あなたのお父さんは、だらしない人よ」
「私は、あんなお父さんと結婚するつもりはなかったけれど、お父さんが強引だったのよ」
「お父さんの給料が、もう少しいいといいのにね。お母さんたちが、苦労するのは、あの
お父さんのせいなのよ」
「お父さんは、会社では、ただの書類整理係よ。あなたは、あんなふうにならないでね」
と。

 こういう状況になると、子どもは、母親の意見に従わざるをえなくなる。この時期、子
どもは、母親なしでは、生きてはいかれない。

 つまりこの段階で、子どもは、母親と自分の関係と、父親と自分の関係を、それぞれ独
立したものと考えるようになる。これがここでいう「三角関係化」(ボーエン)という。

 こうした三角関係化が進むと、子どもにとっては、家族そのものが、自立するための弊
害になってしまう。つまり、子どもの「個人化」が遅れる。ばあいによっては、自立その
ものが、できなくなってしまう。

●個人化

 子どもの成育には、家族はなくてならないものだが、しかしある時期がくると、子ども
は、その家族から独立して、その家族から抜け出ようとする。これを「個人化」(ボーエン)
という。

 が、家族そのものが、この個人化をはばむことがある。

 ある男性(50歳、当時)は、こんなことで苦しんでいた。

 その男性は、実母の葬儀に、出なかった。その数年前のことである。それについて、親
戚の伯父、伯母のみならず、近所の人たちまでが、「親不孝者!」「恩知らず!」と、その
男性を、ののしった。

 しかしその男性には、だれにも話せない事情があった。その男性は、こう言った。「私は、
父の子どもではないのです。祖父と母の間にできた子どもです。父や私をだましつづけた
母を、私は許すことができませんでした」と。

 つまりその男性は、家族というワクの中で、それを足かせとして、悶々と苦しみ、悩ん
でいたことになる。

 もちろんこれは50歳という(おとな)の話であり、そのまま子どもの世界に当てはめ
ることはできない。ここでいう個人化とは、少しニュアンスがちがうかもしれない。しか
しどんな問題であるにせよ、それが子どもの足かせとなったとき、子どもは、その問題で、
苦しんだり、悩んだりするようになる。

 そのとき、子どもの自立が、はばまれる。

●個人化をはばむもの 

 日本人は、元来、子どもを、(モノ)もしくは、(財産)と考える傾向が強い。そのため、
無意識にうちにも、子どもが自立し、独立していくことを、親が、はばもうとすることが
ある。独立心の旺盛な子どもを、「鬼の子」と考える地方もある。

 たとえば、親のそばを離れ、独立して生活することを、この日本では、「親を捨てる」と
いう。そういう意味でも、日本は、まさに依存型社会ということになる。

 親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子。かわいい子イコール、よい子とし
た。

 そしてそれに呼応する形で、親は、子どもに甘え、依存する。

 ある母親は、私にこう言った。「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、
さみしいもんですわ」と。

 その母親は、自分の息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、「嫁に取られた」
と言う。そういう発想そのものが、ここでいう依存性によるものと考えてよい。もちろん
その母親は、それに気づいていない。

 が、こうした依存性を、子どもの側が感じたとき、子どもは、それを罪悪感として、と
らえる。自分で自分を責めてしまう。実は、これが個性化をはばむ最大の原因となる。

 「私は、親を捨てた。だから私はできそこないの人間だ」と。

●子どもの世界でも……

 家族は、子どもの成育にとっては、きわめて重要なものである。それについて、疑いを
もつ人はいない。

 しかしその家族が、今度は、子どもの成育に、足かせとなることもある。親の過干渉、
過保護、過関心、それに溺愛など。

 これらの問題については、たびたび書いてきたので、ここでは、もう少しその先を考え
てみたい。

 問題は、子ども自身が、自立することそのものに、罪悪感を覚えてしまうケースである。
たとえばこんな例で考えてみよう。

 ある子どもは、幼児期から、「勉強しなさい」「もっと勉強しなさい」と追い立てられた。
英語教室や算数教室にも通った。(実際には、通わされた。)そしていつしか、勉強ができ
る子どもイコール、優秀な子ども。勉強ができない子どもイコール、できそこないという
価値観を身につけてしまった。

 それは親の価値観でもあった。こうした価値観は、親がとくに意識しなくても、そっく
りそのまま子どもに植えつけられる。

 で、こういうケースでは、その子どもにそれなりに能力があれば、それほど大きな問題
にはならない。しかしその子どもには、その能力がなかった。小学3、4年を境に、学力
がどんどんと落ちていった。

 親はますますその子どもに勉強を強いた。それはまさに、虐待に近い、しごきだった。
塾はもちろんのこと、家庭教師をつけ、土日は、父親が特訓(?)をした。

 いつしかその子どもは、自信をなくし、自らに(ダメ人間)のレッテルを張るようにな
ってしまった。

●現実検証能力 

 自分の周囲を、客観的に判断し、行動する能力のことを、現実検証能力という。この能
力に欠けると、子どもでも、常識はずれなことを、平気でするようになる。

 薬のトローチを、お菓子がわりに食べてしまった子ども(小学生)
 電気のコンセントに粘土をつめてしまった子ども(年長児)
 バケツで色水をつくり、それを友だちにベランダの上からかけていた子ども(年長児)
 友だちの誕生日プレゼントに、酒かすを箱に入れて送った子ども(小学生)
 先生の飲むコップに、殺虫剤をまぜた子ども(中学生)などがいた。

 おとなでも、こんなおとながいた。

 贈答用にしまっておいた、洋酒のビンをあけてのんでしまった男性
 旅先で、帰りの旅費まで、つかいこんでしまった男性
 ゴミを捨てにいって、途中で近所の家の間に捨ててきてしまった男性
 毎日、マヨネーズの入ったサラダばかりを隠れて食べていた女性
 自宅のカーテンに、マッチで火をつけていた男性などなど。

 そうでない人には、信じられないようなことかもしれないが、生活の中で、現実感をな
くすと、おとなでも、こうした常識ハズレな行為を平気で繰りかえすようになる。わかり
やすく言うと、自分でしてよいことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。

 一般的には、親子の三角関係化が進むと、この現実検証能力が弱くなると言われている
(ボーエン)。

●三角関係化を避けるために

 よきにつけ、あしきにつけ、父親と母親は、子どもの前では、一貫性をもつようにする
こと。足並みの乱れは、家庭教育に混乱を生じさせるのみならず、ここでいう三角関係化
をおし進める。

 もちろん、父親には父親の役目、母親には母親の役目がある。それはそれとして、たが
いに高度な次元で、尊敬し、認めあう。その上で、子どもの前では、一貫性を保つように
する。この一貫性が、子どもの心を、はぐくむ。

++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
中日新聞に発表済みの原稿である。

++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができる
のか。その中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。
だからお母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうなら
ないでね」と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、
母親から離れる。離れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもら
う。賢い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そし
て船頭役は母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょ
うね」(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっ
ても、子どもの前ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう
援護する。「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意
見があるなら、子どものいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」
と、まず子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、
子どものいないところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教
育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中
で、こう書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会
だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子
どもに見せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものば
かり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にして
みるとよい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から
追い出してみるとよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれ
ば、それで親子の信頼関係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明にな
ったら、あなたはどうするだろうか。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつ
くる。そういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話
しあう様であり、いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじ
めて、子どもは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。
その第一歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

● あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。
つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの
問題として、家庭教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、も
ともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行
動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは
言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれ
るタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込ん
でくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう
言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を
変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつにな
ったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるい
は自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、
精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のも
とだけで子育てをするなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がな
い。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同
士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り
飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。た
またまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机
を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、
子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

+++++++++++++++++

【終わりに……】

 子どもは子どもらしく……とは、よく言う。しかし「子どもらしい」ということと、「幼
児性の持続」は、まったく別の問題である。

 また子どもだからといって、無責任で、無秩序であってよいということではない。どう
か、この点を誤解のないように、してほしい。
(はやし浩司 子供らしさ 幼児性の持続 子供の人格 人格の完成度)

2009年7月29日水曜日

*Hostess rather tha Nurse

●看護師より、ホステス(Hostess rather than Nurse)

韓国の朝鮮N報が、『公務員より、ホステスのほうが、
女子高生に人気』と題して、こんな記事を掲載している。

+++++++++以下、朝鮮N報(090729)+++++++++++++++

 日本の女性たちが就きたがらなかった職業、ホステスが最近、堂々と、あこがれる高所得の職業として人気を集めている。今年、東京の文化学研究所が女子高生1154人を対象に世論調査を行ったところ、ホステスが40種の人気職業のうち12位になったという。公務員は18位、看護師は22位だった。

 こうした現象の裏には、日本では高卒の若い女性の就業機会が非常に少ないという現実がある。ところが最近、深刻な不景気の影響で、多くの女性が抵抗感なくホステスなどの職業を選ぶ傾向が増えている。日本でホステスとして1年間働くと、難なく10万ドル(約1億2000万円)以上稼げる場合もある、と米紙ニューヨーク・タイムズは報じた。

 一部の女性は桃華Eさん(27)のようなシンデレラ・ストーリーを夢見ている。シングルマザーの桃華さんはホステスを経て、テレビで人気者となった。衆議院にはホステスの経験のある太田K議員(29)がいる(衆議院解散前)。ホステスに対しては日本の宗教団体や女性団体が、ホステスが客との性関係を強要されることで、女性が性風俗産業に進出するきっかけになっていると批判している。

+++++++++以上、朝鮮N報(090729)+++++++++++++++

 朝鮮N報の記事を整理してみる。

(1) 40種の人気業種のうち、ホステスが、12位。
(2) 公務員は、18位、看護師は、22位。
(3) 1年間ホステスとして働くと、約1億2000万円の収入になることもある。
(4) 桃華さんは、ホステスを経て、テレビで人気タレントとなった。
(5) ホステスを経験した、太田Kという衆議院議員もいる。

 この分だと、近い将来、「おとなになったら、ホステスになる」と言う幼稚園児が、
続出するようになるかもしれない。
ホステスという職業に偏見はないが、非生産的職業であることには、ちがいない。
社会の中で、有機的に人と関わりあっていくという要素も希薄。
時代が変わったのか?
それともそう考える、私の頭が古いのか?

 朝鮮N報は、「1億2000万円」という数字をあげているが、
1桁まちがえているのではないか?
10万ドルが正しいのか?
それとも1億2000万円が正しいのか?
しかしいくら何でも1億2000万円はない。
10万ドルは、1200万円。
1月に、100万円。
それなら納得できる。

 が、その額にしても、平均的な看護師の約5倍。
私たちが子どものころには、「芸人」「芸能人」というのは、「まともな職業」としては、
認められていなかった。
江戸時代の昔には、さらにそうであったにちがいない。
が、今はちがう。
有名テレビタレントたちが、「文化人」として、国や都から表彰される時代になった。

だから今、「女子高校生たちが、ホステスになりたがっている」という記事を読んでも、
頭の中が混乱するだけ。
どうも自信がもてない。
「これでいいのかなあ……?」と思ったところで、思考が停止してしまう。
しかしこれだけは言える。

 職業というのは、日々の研鑽の中で、進歩、進化するものであるということ。
絶え間ない学習と努力が、それを裏から支える。
が、ホステスの第一の条件は、(若さ)と(美しさ)。
つまり若いうちは、それなりに稼げるかもしれないが、30代、40代になったら、
どうするのか。
タレントになったり、国会議員になったりするのか。
が、そういう人は、例外。
よほどの能力とチャンス、それに魅力に恵まれないと無理。
……とまあ、そう言い切る自信も、私にはない。

 お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする時代である。
『ゴルゴ13』の愛読者が、総理大臣になったりする時代である。
つまり日本中が今、ギャク化している。
女子高校生の世界も、またしかり。
そのひとつが、これ。
「看護師より、ホステス」と。

 要するに、(1)日本人の自己中心化がより進んでいるということ。
そのために、(2)安楽にお金を稼いだ方が得という風潮が、蔓延しているということ。

 こうした風潮に対して、「ホステスに対しては日本の宗教団体や女性団体が、
ホステスが客との性関係を強要されることで、女性が性風俗産業に進出する
きっかけになっていると批判している」と、記事は結んでいる。
それを読んで、少しだけ、安心する。

 で、今、子どもたちのもつ職業観は、大きく変わった。
小学校の高学年児でも、「おとになったら、お笑いタレントになりたい」と言う子どもは、
いくらでもいる。
が、それはそれ。
ここまで変わっているとは、私も知らなかった。
東京の文化学研究所が、女子高生1154人を対象に世論調査を行ったということだから、
これらの数字は、信頼してよい。

 再び、「これでいいのかなあ……?」と思ったところで、この話は、おしまい!
このつづきが、どうしても書けない。

(補記)

 子どもでも、たとえば正月のお年玉をもらったりすると、新しいフルートを買うために、
貯金すると言う子どもがいる。
(現在教えている、中2のOKさんが、そうだぞ!)

 一方、そのまま享楽的に使ってしまう子どももいる。
意味のないおもちゃや、ゲーム機器を、それで買ったりする。

 前者を、生産的な考え方をする子どもというなら、後者は、非生産的な考え方
をする子どもということになる。
しかし子どもでも、飽食とぜいたくに慣れてしまうと、ものの考え方が、非生産的に
なる。

 一部の子どもたちがそうであるのは、しかたのないことかもしれないが、それが
全体となってきたとしたら、この日本は、どうなるのか?
つまりそれこそまさに、「亡国の風潮」。
「これは個人の問題」「個人がそれでよければ、それでいいんじゃナ~イ」という
レベルの話ではない。
またそれですませてはいけない。

 宗教団体や女性団体だけに任せておくのではなく、教育界、さらには国をあげて、
改めて、この問題を考えなおしてみる必要がある。


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

*Magazine (August 24th)





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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   24日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(355)

●女性は家の家具?

 いまだに女性、なかんずく「妻」を、「内助」程度にしか考えていない男性が多いのは、
驚きでしかない。いや、男性ばかりではない。女性自身でも、「それでいい」と考えている
人が、二割近くもいる。たとえば国立社会保障人口問題研究所の調査(2000年)によ
ると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくしない」と答えた夫は、いずれも50%以上。
「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、76・7%いる。が、その反
面、「反対だ」と答えた女性も23・3%もいる。

 ここで「平等に負担」の内容だが、外で仕事をしている夫が、時間的に「平等に」家事
を負担することは、不可能である。それは当然だが、しかしこれは意識の問題。夫が「家
事を平等に負担すべき」と考えながら、妻の仕事をみるのと、夫が、「男は仕事さえしてい
ればそれでいい」と考えながら、妻の仕事をみるのとでは、その見方はまるで変わってく
る。

今の日本の現状は、男性たちが、あまりにも世の通俗的な常識に甘え、それをよいことに
居なおりすぎている。中には、「女房や子どもを食わせてやっている」とか、「男は家庭の
中でデーンと座っていればいい」とか言う人もいる。仕事第一主義が悪いわけではないが、
その仕事第一主義におぼれるあまり、家庭そのものをまったくかえりみない人も多い。

 ……というようなことを、先日、ある講演会で話したら、その担当者(男性)が講演の
あと、私にこう言った。「このあたりは三世代同居が多いのです。そういうことを先生(私)
が言うと、家族がバラバラになってしまいます。嫁は嫁として、家の中でおとなしくして
いてくれなければ、困るのです」と。

男性の仕事第一主義についても、「農業で疲れきった男が、どうして家事ができますか」と
も。私があきれていると、(黙って聞いていたので、納得したと誤解されたらしい)、こう
も言った。「このあたりの若い母親たちは、家から出て、こうした講演会へ息抜きにきてい
るのです。むずかしい話よりも、はははと笑えるような話をしてください」と。

 これには正直言って、あきれた。その男性というのは、まだ30歳そこそこの男性。今
の日本の「流れ」をまったく理解していないばかりか、女性の人権や人格をまったく認め
ていない。その男性は「このあたりは後進国ですから」とさかんに言っていたが、彼自身
の考え方のほうが、よっぽど後進国的だ。

それはともかくも、こんな現状に、世の女性たちが満足するはずがない。夫に不満をもつ
妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した「第2回、全国家庭動向調査」(19
98年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答えた妻は、51・7%しかいな
い。この数値は、前回1993年のときよりも、約10ポイントも低くなっている(93
年度は、60・6%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と答えた妻も、5
2・5%もいた。当然だ。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(356)

●わだかまり論

 ほとんどの人は、自分の意思で考え、決断し、そして行動していると思っている。しか
し実際には、人は意識として活動する脳の表層部分の、その約20万倍※もの潜在意識に
よって「動かされている」。こんなことがあった。

 J君(小3)と父親は、「とにかく仲が悪い」という。母親はこう話してくれた。「日曜
日にいっしょに釣りに行ったとしても、でかけたと思ったら、その行く途中で親子げんか
が始まってしまうのです。風呂にもときどきいっしょに入るのですが、しばらくすると、
まず息子がワーツと泣き声をあげて風呂から出てくる。そのあと夫の『バカヤロー』とい
う声が聞こえてくるのです」と。

 そこでJ君を私のところへ呼んで話を聞くと、J君はこう言った。「パパはぼくが何も悪
いことをしていないのに、すぐ怒る」と。そこで別の日、今度は父親に来てもらい話を聞
くと、父親は父親でこう言った。「息子の生意気な態度が許せない」と。父親の話では、J
君が人をバカにしたような目つきで、父親を見るというのだ。それを父親は「許せない」
と。

 そこであれこれ話を聞いても、原因がよくわからなかった。が、それから一時間ほど雑
談していると、J君の父親はこんなことを言い出した。「そう言えば、私は中学生のとき、
いじめにあっていた。そのいじめのグループの中心にいた男の目つきが、あの目つきだっ
た」と。J君の父親は、J君が流し目で父親を見たとき、(それはJ君のクセでもあったの
だが)、J君の父親は、無意識のうちにも自分をいじめた男のめつきを、J君の目つきの中
に感じていた。そしてそれがこれまた無意識のうちに、父親を激怒させていた。

 こういうのを日本では、昔から「わだかまり」という。「心のしこり」と言う人もいる。
わだかまりにせよ、しこりにせよ、たいていは無意識の領域に潜み、人をその裏からあや
つる。子育てもまさにそうで、私たちは自分で考え、決断し、そして子育てをしていると
思い込んでいるが、結局は自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。

問題は繰り返すことではなく、その中でも、ここに書いたようなわだかまりが、何らかの
形で、子育てに悪い影響を与えることである。が、これも本当の問題ではない。だれだっ
て、無数のわだかまりをかかえている。わだかまりのない人など、いない。そこで本当の
問題は、そういうわだかまりがあることに気づかず、そのわだかまりに振りまわされるま
ま、同じ失敗を繰り返すことである。

 そこであなたの子育て。もしあなたが自分の子育てで、いつも同じパターンで、同じよ
うに失敗するというのであれば、一度自分の心の中の「わだかまり」を探ってみるとよい。
何かあるはずである。この問題は、まずそのわだかまりに気がつくこと。あとは少し時間
がかかるが、それで問題は解決する。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(357)

●お人よしは、命取り?

このところ毎日のように、ウィルス入りのメールが届く。私のばあい、まずプロバイダ
ーが、ウィルス検査をしてくれる。この段階でウィルスが入っていると、そのメールを
削除したり修復したりしてくれる。(たいていはそのまま削除され、「削除しました」と
いう連絡だけが私に届く。)が、それでもすり抜けてくるメールがある。

それについては、今度は私のパソコン自体で検査する。この段階で、ウィルスが混入して
いれば、同じように削除する。で、それでも安心できない。私はさらにパソコンを使い分
ける。あるいはプレウィンドウ画面に表示する前に、(?)と思われるメールは削除すると
いう方法で対処している。が、だ。それでもすり抜けてくるメールがある。

私はメールアドレスを公開しているため、(ふつうは、こういう公開はしてはいけない)、
悪意をもった人からの攻撃を受けることがある。つい先日もその攻撃を受けた。あたか
も読者からの質問のような体裁を整えたメールだった。「うむ……?」と迷ったが、うか
つにも開いてしまった。恐らく市販のウィルス検査ソフトにひかからないように、自分
で改変したウィルスだったのだろう。とたんパソコンの動きがおかしくなった。もっと
もそれほど悪質なウィルスではなかったようで(?)、簡単な操作で修復できたが、ウィ
ルスによってはシステム全体を破壊されることもある。

インターネットの世界では、お人よしは命取りになる。「あやしい」と思ったら、即、削
除、また削除。これしかない。しかし、それは口で言うほど、簡単なことではない。自
分の中に本来的にある、「人格」、つまり私のばあい、「お人よし」との戦いでもある。「ひ
ょっとしたら子育てで困っている人からのメールかもしれない」「少し(件名)がおかし
いが、まだパソコンになれていない人からのものかもしれない」と思ってしまう。

そのメールを開いたときもそうだ。そう思って開くと、わけのわからない相談内容。一応
子育ての相談ということになっていたが、どこかトンチンカンな内容だった。「しまった!」
と思ったときには、もう遅かった。

私は改めて、こんなメモをパソコンの上に張りつけた。「あやしげなメールは、即、削除。
お人よしは命取り」と。しかしそれを張りつけたとき、別のところで、自分の人格がま
た一つ削られたような気がした。「私はもともとそんなクールな人間ではないのになあ」
と。しかしそうであるからこそ、また心に誓う。「あやしげなメールは、即、削除」と。
そういうことを誓わねばならないところに、インターネットの問題点が隠されている。 





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(358)

●子どもの表情

 昔から、『子どもの表情は親がつくる』という。事実そのとおりで、表情豊かな親の子ど
もは、やはり表情が豊かだ。うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには
悲しそうな顔をする。(ただし親が無表情だからといって、子どもも無表情になるとはかぎ
らない。)しかしこの「表情」には、いろいろな問題が隠されている。

 その一。今、表情のない子どもがふえている。「幼稚園児でも表情のとぼしい子どもは、
全体の二割前後はいる」と、大阪市にあるI幼稚園のS氏が話してくれた。程度の問題も
あり、一概に何割とは言えないが、多いのは事実。私の実感でも二割という数字は、ほぼ
的確ではないかと思っている。ほかの子どもたちがドッと笑うようなときでも、表情を変
えない。うれしいときも悲しいときも、無表情のまま行動する、など。

(最近では、サイレントベービー論を否定する説が優勢になってきた。生まれつきという
よりは、親の拒否的育児姿勢によってそうなると考えるのが常識的になってきた。200
9年7月。)

 原因のひとつに、乳幼児期からのテレビ漬けの生活が考えられる。そのことはテレビを
じっと見入っている幼児を観察すればわかる。おもしろがっているはずだというときでも、
またこわがっているはずだというときでも、ほとんど表情を変えない。保育園や幼稚園へ
入ってからもそうで、先生が何かおもしろい話をしても、ほとんど反応を示さない。あた
かもテレビでも見ているかのような感じで先生の方をじっと見ている。

このタイプの子どもは、ほかに、吐き出す息が弱く、母音だけで言葉を話すなどの特徴も
ある。「私は林です」を、「ああいあ、ああいえう」というような話し方をする。こうした
症状が見られたら、私は親に、「小さいときからテレビばかり見ていましたね」と言うこと
がある。親は親で、「どうしてそんなことがわかるのですか?」と驚くが、タネを明かせば、
何でもない。が、この問題はそれほど深刻に考える必要はない。やがて園や学校生活にな
れてくると、表情もそれなりに豊かになってくる。

 その二。子どものばあい、とくに警戒しなければならないのは、心(情意)と表情の遊
離である。悲しいときにニコニコと笑みを浮かべる、あるいは怒っているはずなのに、無
表情のままである、など。心(情緒)に何か問題のある子どもは、この遊離現象が現れる
ことが多い。たとえばかん黙児や自閉症児と呼ばれる子どもは、柔和な表情を浮かべたま
ま、心の中ではまったく別のことを考えていたりする。そんなわけで逆に、この遊離が現
れたら、かなり深刻な問題として、子どもの心を考える。

とくに教育の世界では、心と表情の一致する子どもを、「すなおな子ども」という。いや
だったら「いや」と言う。したかったら、「したい」と言う。外から見ても、心のつかみ
やすい子どもをすなおな子どもという。表情は、それを見分ける大切な手段ということ
になる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(359)

●親しみのもてる子ども

 こちらが親切にしてあげたり、やさしくしてあげると、その親切や、やさしさがそのま
ま、スーッと心の奥深くまで染み込んでいくのがわかる子どもがいる。そういう子どもを、
一般に、「親しみのもてる子ども」という。

一方、そういう親切や、やさしさがどこかではね返されてしまうのを感ずる子どももいる。
ものの考え方が、ひねくれていたりする。私「今日は、いい天気だね」、子「今日は、いい
天気ではない。あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるか
ら、いい天気ではない」と。

 親しみのもてる子どもとそうでない子どもの違いは、要するに心が開いているかどうか
ということ。心が開いている子どもは、当然のことながら、心の交流ができる。その心の
交流が、互いの親近感をます。そうでなければそうでない。

 そこであなたとあなたの子どもの関係はどうだろうか。あなたは自分の子どものことを、
親しみのもてる子どもと思っているだろうか。それともどこかわけのわからない子どもと
思っているだろうか。こんなチェックテストを用意してみた。

(1) あなたの子どもは、あなたの前で、したいことについて、「したい」と言い、したく
ないことについては、「いやだ」と、いつもはっきりと言う。言うことができる。

(2) あなたの子どもはあなたに対して、子どもらしい自然な形で、スキンシップを求め
てきたり、甘えるときも、子どもらしい甘え方をしている。甘えることができる。

(3) あなたの子どもが何かを失敗し、それをあなたが注意したり叱ったとき、子どもが
なごやかな言い方で、「ごめんなさい」と言う。またすなおに自分の失敗を認める。

 この三つのテストで、「そうだ」と言える子どもは、あなたに対して心が開いているとい
うことになる。そうであれば問題はないが、そうでなければ、あなたの子どもへの接し方
を反省する。「私は親だ」式の権威主義、ガミガミと価値観を押しつける過干渉、いつもピ
リピリと子どもを監視する過関心など。さらに深刻な問題として、あなた自身が子どもに
対して心を開いていないばあいがある。

子どものことで、見え、メンツ、世間体を気にしているようであれば、かなり危険な状態
であるとみてよい。さらに子どもに対して、ウソをつく、心をごまかす、かっこうをつけ
るなどの様子があれば、さらに危険な状態であるとみてよい。あなたという親が子どもに
心を開かないで、どうして子どもに心を開けということができるのか。

 子どもの心が見えなくなったら、子どもの心が閉じていると考える。「うちの子は何を考
えているかわからない」「何をしたいのかわからない」「何かを聞いてもグズグズしている
だけで、はっきりしない」など。この状態が長く続くと、親子の関係は必ず断絶する。も
しそうなればなったで、それこそ、子育ては大失敗というもの。親しみのもてる子どもを
考えるときには、そういう問題も含まれる。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(360)

●被害妄想(心配過剰)

 こんな話を聞いたら、あなたはどう思うだろうか。「Aさん(32歳女性)が、子ども(4
歳)と道路を歩いていたときのこと。うしろからきた自転車に、その子どもがはねられて
しまった。子どもはひどく頭を打ち、救急車がくるまで意識がなかった。幸いけがは少な
くてすんだが、やがて深刻な後遺症があらわれた。

子どもから集中力がなくなり、こまかい作業ができなくなってしまった。事故のとき、脳
のある部分が酸欠状態になり、それで脳にダメージを与えたらしい。で、その事故から5、
6年になるが、その状態はほとんどかわっていない」と。

 こういう話を耳にすると、母親たちの反応はいろいろに分かれる。(1)他人の話は他人
の話として、自分の子どもとは切り離すことができるタイプ。(2)「自分の子どもでなく
てよかった」と思い、「自分の子どもだったら、どうしよう」と、あれこれ考えるタイプ。

ふつうは(「ふつう」はという言い方は、適切でないかもしれないが)、(1)のように考え
る。しかし心配性の人は、(2)のように考える。考えながら、その心配を、かぎりなく広
げていく。「歩道といっても安全ではない」「うちの子もフラフラと歩くタイプだから心配
だ」「道路を歩くときは、うしろも見なくてはいけない」など。

 もしあなたがここでいう(2)のタイプなら、子育て全体が、心配過剰になっていない
かを反省する。こうした心配過剰は、えてして妄想性をもちやすく、それが子育てそのも
のをゆがめることが多い。過保護もそのひとつだが、過干渉、過関心へと進むこともある。

ある母親は、子ども(小四女児)が遠足に行った日、日焼け止めクリームを渡すのを忘れ
た。そこで心配になり、そのクリームをわざわざ遠足先まで届けたという。「紫外線に多く
あたると、おとなになってから皮膚ガンになるから」と。また別の母親は、息子(小6)
が修学旅行に行っている間、心配で一睡もできなかったという。「どうして?」と私が聞く
と、「あの子が皆にいじめられているのではないかと心配でなりませんでした」と。

 もっともこうした妄想性が自分の範囲でとどまっているなら、まだよい。しかしその妄
想性が他人に向けられると、大きなトラブルの原因となる。ある母親は、自分の息子(中
1) が不登校児になったのは、同級生のB男のせいだと思い込んでいた。そこで毎晩
のようにB男の母親に電話をしていた。いや、電話といっても、ふつうの電話ではな
い。夜中の2時とか3時。しかもその電話が、ときには1時間とか2時間も続いたと
いう。

 こうした妄想性は、いわばクセのようなもの。一度クセになると、いつも同じようなパ
ターンで考えるようになる。どこかでその妄想性を感じたら、できるだけ軽い段階でそれ
に気づき、そこでブレーキをかけるようにする。たとえば冒頭の話で、あなたが(2)の
ように考える傾向があれば、「そういうふうに考えるのはふつうでない」とブレーキをかけ
る。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●実家を売る(2)

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実家を売ることにした。
買い主の言い値で、売ることにした。
現在、その相手と交渉を進めている。
「損」とか「得」とかは、考えない。
そういうのではない。
私は早く、あの実家とは縁を切りたい。
ついでに郷里とも、縁を切りたい。
それが目的だから、価格など、関係ない。
どうでもよい。

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●故郷

 一抹のさみしさは、ある。
ないとは言わない。
しかしそれ以上に、うれしい。
「うれしい」というよりは、気持ちが軽い。
心に張り付いた、重荷がこれでやっと、はずせる。
私にとって、「実家」というのは、そういうもの。
「故郷」というのは、そういうもの。
それがやっと、はずせる。

●縁を切る

 同時に法事の問題もある。
実兄と実母の一周忌がつづく。
墓の問題もある。
しかしあとは、成り行き。
成り行きに任せる。
なるようになる。

 そのときは、そのとき。
陰でいろいろ言っている人もいるようだ。
だれかがひとりで、騒いでいる。
が、言わせておけばよい。
気にしない。
「故郷と縁を切る」ということには、そういう意味も含まれる。

●相続

 昨日、20年来の友人(SGさん、男性、64歳)と、話した。
その友人は、8人兄弟の長男。
広い農地をもっている。
それでこう言った。
「ご先祖様には、感謝しなくちゃア」と。

 実父が死んだときのこと。
遺産相続でもめないようにということで、
葬儀の席で、現金を兄弟たちに分配したという。
その額、1人あたり、1000万円。
それを条件に遺産相続を、放棄してもらった。
「たいへんでしたね」と私が言うと、
「(兄弟どうしで)もめるのは、いやだからねエ」と。

●人それぞれ

 SGさんの親のように、多額の遺産を残す親もいれば、その一方で、
借金を残す親もいる。
借金どころか、隠し子を残す親さえいる。
遺族たちは、葬儀の席でそれを、はじめて知ったりする。

 私のばあいは、そうした問題は、とくになかった。
遺産といっても、60坪と33坪の土地だけ。
(それだけでもありがたいが……。)

が、それ以上に、母が死んだとき、同時にあの重圧感から解放されたのが、うれしかった。
ほっとした。
葬儀のあと、ぼんやりとした気分がつづいたが、それは母を失ったさみしさというよりは、
自分の過去の一部が切り取られたようなさみしさだった。
ポッカリと穴があいたような気分だった。
今度も実家を売ることになって、似たようなさみしさを感じている。

 二度とあの時代は戻ってこない。
あの時代に帰ることもない。

●SGさん

 SGさんのばあいは、地目がまだ農業用地のとき、父親名義から自分名義に
書き換えておいたという。
その直後、都市計画法による大規模開発の計画地に組み込まれ、多額の現金が手に入った。
それでそういうこと、つまり兄弟たちに現金を渡し、遺産相続を放棄させることができた。
SGさんが、「ご先祖様」と、「ご」と「様」をつける理由は、そこにある。
しかし私のばあいは、逆さまに吊るされても、そういう言葉は出てこない。

 私が親不孝者なのか。
できそこないなのか。
それとも、こういう私にしたのも、親の責任なのか。

●私の父

 私の母は、住職の妻とまちがえられるほど、寺に入りびたりだった。
そのことで父と母は、いつも言い争っていた。

 一方、父は、私が知るかぎり、ただの一度も墓参りなるものをしていない。
父が墓参りして、手を合わせている姿を、見たことがない。
祖父にしても、そうだ。
そう言えば、父や祖父が、家の中の仏壇に手を合わせている姿さえ、私の記憶の中には
ない。
私は、そういう祖父や父の死生観を、しっかりと、受け継いでしまった(?)。

●一周忌

 郷里に住む知人にたずねたところ、盆供養にせよ、一周忌にせよ、それをするか
しないかは、喪主が決めればよいとのこと。
実際には、しない人もふえているという。

 「しなくてもいいものですか?」と、私が驚いていると、「しなくても、寺は何も
言ってきませんよ」と。

私「しかしお墓があります……」
知「寺のほうで管理してくれていますか」
私「寺とは離れた場所にありますから……」
知「それなら、放っておけばいいでしょう」
私「……そういうものですか。知りませんでした」と。

●心の問題

 形だけやればよいという問題ではない。
若いころならともかくも、今さら自分の哲学をねじまげるもの、難儀なこと。
「妥協」という言葉もあるが、妥協するのも疲れた。
私の生まれ故郷は、冠婚葬祭だけは、派手にする地域である。
そのたびに、莫大な費用がかかる。

 だからやはり、ここは心の問題ということになる。
心が通じていれば、お金の問題など、何でもない。
たとえば私の息子たちは、結局は3つずつ、大学を出た。
長男は、キャxx大学、メルxx工科大学、東海xx学校。
二男は、ワチxx大学、ヘンダxxx大学、インxxxx大学。
三男は、横xx大、フリxxx大学、航x大学。

 しかし一度だって、学費を惜しんだことはない。
心が通じ合っているときというのは、そういうもの。
心が通じていないときは、たとえ1万円でも、惜しい!

●さて、どうするか?

 「実家」で、私は、60年間、苦しんだ。
残りの人生がどれだけあるか私にはわからない。
が、せめて残りの人生くらいは、実家を考えないで、過ごしたい。
この解放感を大切にしたい。
10年か、20年か?

 世の中には、『子はかすがい』という諺(ことわざ)がある。
同時に『子は、三界の足かせ』ともいう。
これらをもじると、こうなる。
『家族は、かすがい』『家族は、三界の足かせ』と。

 (かすがい)にするか、(足かせ)にするかは、結局は親しだいということ。
私自身の心境を弁解するつもりはないが、それは私という子どもの責任ではない。
つまり私という子どもの責任では、ない。

 今の私が、「私」。
これが「私」。
あとはすべて、私自身の判断ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July・09++++++++++はやし浩司

●文章

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文章というのは、しばらく書かないでいると、書けなくなる。
方向が定まらない。
的確に自分の考えを、まとめられない。
文章のリズムさえ、つかめなくなる。
「漢字」については、さらにそうした現象が、顕著に現れる。
少し前だが、どこかのショッピングセンターで、「札幌」という漢字が書けなくて、
恥ずかしく思ったことがある。

そういうのを、度忘れというが、では、読解力は、どうなのか?
読解力も、同じように考えてよいのか。
たとえば私は最近、読解力が低下したのか、ときどき目の前の
文章がよく理解できないときがある。
今は、グラフィック(画像)編集ソフトに取り組んでいる。
説明書を、眠る前に毎晩、読んでいる。
しかしどうも意味が、よくわからない。
カタカナ文字ばかりで、チンプンカンプン。
集中力そのものが、鈍ってきた。

 どうしたことか?

++++++++++++++++++++ 

●認知症

 またまた認知症の話。
私の世代の者たちにとっては、認知症は、深刻な問題である。
だれがそうであっても、「明日は我が身かな」と考える。
で、読解力が低下したことについて、「これは認知症によるものではないか」と、
ふと、心配になる。

 何かの方法で、自己診断することはできないものなのか。
たとえばこんな文章を考えてみた。
一読して、意味がスラスラとわかったら、あなたはかなりの読解力があるということに
なる。

【テスト】

(1) 叔母の義理の姉が、私の妹の夫と昔からの知り合いで、義理の姉の息子が、
今、妹の娘を学校で教えている。

(2) 新アカウントでログオンし、デスクトップに「USMxxxx」という
フォルダーが作成されていることを確認したあと、「ファイルと設定の転送ウィザード」
を起動して画面を進め、「転送先」を選んでクリックする。 

 (1)は、関係が複雑。
頭の中で系図を描きながら聞かないと、意味がわからない。
(2)は、用語が縁門的。
コンピュータに通じていないと、意味がわからない。

 別の知人(女性、現在65歳)は、今回、アルツハイマー病と診断された。
その知人のばあい、その数年ほど前から、文章が読めなくなったという。
生命保険会社から送られてきた書類だったというが、「こんなもの、私が読んでも
わからない!」と叫んで、それを手で払いのけてしまったそうだ。
 
 そういうこともあるから、この問題を軽く考えてはいけない。

●集中力と拡散力

 ここで集中力の話を書いたので、拡散力についても、書いておきたい。
「拡散力」というのは、私が考えた言葉である。

 集中力というのは、ある特定のことがらに神経を集中させることをいう。
それに対して拡散力というのは、四方八方に、注意力を分散させることをいう。
具体的に考えてみよう。

 たとえば台所で、漢方薬を煎じていたとする。
弱火で、30~40分ほど、煮込まなければならない。
と、そのとき庭を見ると、キュウリの棚が、風にあおられて、大きく傾いて
いるのが目に付いた。
ほかの野菜も、水が不足しているのか、元気がない。
私は庭へ出る。
とたん犬のハナが小屋から出てきて、おやつをねだる。
私はキュウリの棚を直す。
水道の蛇口をひねって、大きな水がめに、水を注ぐ。

 こういう状況のとき、ひとつのことをしながらも、あちこちに注意力を分散しなければ
ならない。
これが拡散力である。
が、このとき拡散力が鈍くなると、ひとつのことに気を奪われるあまり、水道の蛇口を
閉め忘れたり、ガスコンロの火を消し忘れたりする。
加齢ともに集中力が鈍くなることは、あちこちで指摘される。
しかし同じように、拡散力も鈍くなる。

●文章力

 それに文章力というときには、「鋭さ」も含まれる。
「切り込みの深さ」ともいう。
ただ誤解がないように言っておくが、難解な文章イコール、(深い)ということではない。
文章というのは、平易であればあるほど、よい。
読みやすければ読みやすいほど、よい。

 大切なのは、中身。
その中身で決まる。
たとえば名文中の名文と言われている文章に、『方丈記』がある。

『行く川の流れは絶えずして、

しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。
世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し』と。

わかりやすい文章だが、一文読むごとに、はっと我に返る。
それが(深さ)ということになる。
(鋭さ)ということになる。

 しばらく文章から遠ざかっていると、その(鋭さ)が消える。
……というより、毎日書きつづけているからこそ、文章というのは書ける。
そういう習慣の中から、(鋭さ)が、生まれる。
鋭い文章というのは、書こうとして書けるものではない。
書いているうちに、そこにキラリと光る。
「何だろう?」と思ってみると、それが(鋭さ)ということになる。

●駄文

 で、このところ私が書く文章が、ますます駄文化しているのが、よくわかる。
あとで読み直してみたり、それ以前に書いた文章と読み比べてみると、それがわかる。
どうでもよいことを、ダラダラと書いている。
この文章にしても、そうだ。
(鋭さ)がどこにもない。
あえて言うなら、「拡散力」という言葉を考えたところ。
それはひとつの収穫だが、それ以外に、見るべきものがない。
読むに耐えないというか、つまらない。
だから、この話は、ここでストップ。

 一度、気分を変えてみる。
明日は、ワイフと近くの温泉に行くことになっている。
それに期待したい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●満腹中枢と摂食中枢(男と女)(Man and Woman)

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脳幹に視床下部と呼ばれる部位がある。
その中に、「食欲中枢」と呼ばれる部分がある。
その食欲中枢は、満腹中枢と摂食中枢に分かれる。
満腹中枢というのは、「お腹(なか)がふくれた」という
ことを感じ取る部分。
摂食中枢というのは、「お腹がすいた」ということを
感じ取る部分。

ここまでは私も知っていたが、最近、こんなことを
知った。

女性の性欲本能、つまりSックス中枢は、このうちの
満腹中枢に隣接しているという。
一方、男性の性欲本能、つまりSックス中枢は、
摂食中枢に隣接しているという(「人体の不思議」
日本文芸社)。

新しい考え方、ゲット!

(ネット禁止用語に抵触するため、「交尾行動」を、「Sックス」など
というように、表記します。)

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●男性と女性のちがい

 「人体の不思議」(上述)は、こう書いている。

『……一般に、女性は恋愛をすると食欲を感じなくなることがあるといわれますが、
それは、このSックス中枢が活発に働くため、満腹中枢までもが満たされているからとも
考えられます。
 
 男性のSックス中枢は、女性とは異なり、空腹を感ずる摂食中枢に隣接しています。
生命の危険を感ずると、男はB起してしまうといわれることもありますが、これも
Sックス中枢の位置に関係していそうです。

 つまり飢餓で死に直面すると、なんとしてでも種族を保存しなくては、という感情が
起こるように脳がつくられているのです』と。

 しかも、だ。
第一性欲中枢(異性を求める性欲中枢)について言えば、男性のそれは、女性のそれの
約2倍もの大きさがあるという。
つまりその分だけ、男性のほうが、Sックスに関して、女性より攻撃的ということになる。

 なるほど!

 で、これで今まで私が感じていた謎のいくつかが、解けた。
男性と女性の、(性)がもつ、基本的な(ちがい)といってもよい。
その理由が、わかった。

●男と女

 所詮、人間も動物。
同じというか、どこもちがわない。
動物時代からの本能(脳幹)を、しっかりと保持している。
が、こうした本能、つまり脳自体が構造的にもつ能力のままに行動したら、「人体の
不思議」の中にもあるように、人間社会は、メチャメチャになってしまう。

 そこでこうした本能をコントロールするのが、大脳連合野ということになる。
(私はこの仮説を、すでに10年以上も前から、考えていたぞ!)
人間のばあい、大脳連合野の発達がとくに進んでいる。
その大脳連合野が、中心部からわき起きてくる(性欲)を、コントロールする。
それが「知性」ということになる。

 それにもし男性のみならず、女性までもが、性欲について攻撃的になったら、それこそ
たいへんなこと(?)になってまう。
人間もいたるところで、交尾を始めるようになるかもしれない。
(反対に女性のように、男性までもが、受動的になってしまっても、困るが……。)
要するに、長い間の進化の過程を経て、人間も、「実にうまく」できているということ
になる。

●満腹中枢vs摂食中枢

 満腹感を感ずる満腹中枢。
空腹感を感ずる摂食中枢。
何かのタンクの警報機にたとえるなら、満タン警報機と、カラ警報機ということになる。
それを脳の中心部にある視床下部という部位が、担当している。
私自身も、実は、こうした機能について、「本で読んで知った」というだけの立場で
しかない。
が、それにしてもおもしろい。

 が、疑問がないわけではない。

 女性のSックス中枢は、満腹中枢の隣にある。
男性のSックス中枢は、摂食中枢の隣にある。
それはわかるが、これらの両社はそれぞれ、どのように関連しあっているのか?
単純に考えれば、女性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に満腹中枢も
刺激され、満腹感が生まれるということになる。

 他方、男性のばあいは、Sックス中枢が刺激されると、同時に摂食中枢も刺激され、
空腹感が生まれるということになる。

 ……あるいは、その反対なのか?

 そこで自分自身のことを振り返ってみる。
(私も「男」だぞ!)

 腹が減ったときと、満腹のときと、どちらのときのほうが、性欲をより強く感ずるか?
……というより、経験的に、Sックスしたあとなど、よく空腹感を覚えることがある。
「終わったから、食事に行こうか」というような会話を、ワイフとした記憶がある。
……あるいは、その逆かもしれない。

 ともかくもどのように影響しあっているのか、それがよくわからない。
あるいは、影響しあうといっても、そのレベルの話ではないのかもしれない。
たとえばここでいう「空腹感」というのは、「危機状態」をさすのかもしれない。
それも極限的な危機状態。
その本にも書いてあったが、生命の危機を覚えたりすると、B起することもあるそうだ。
「最後に種族を残そう」という本能が働くためらしい。

 どうであるにせよ、たいへん興味深い。
「私は私」と思って、みな、考え、行動している。
が、実際のところ、脳に操られているだけ。
それだけは確かなようだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 満腹中枢 摂食中枢 視床下部)


Hiroshi Hayashi++++++++July.09+++++++++はやし浩司

●離婚と離縁(ある離婚劇)

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熟年離婚がふえている。
正確には、婚姻歴20年以上の人の離婚を、「熟年離婚」という。
その熟年離婚が、この20年間で、4倍にふえているという。

そんな中、3年前、私の知人が、離婚した。
婚姻歴は、ちょうど20年。
子どもも、2人、いる。
現在、高校生と中学生。
離婚したといっても、事情が、やや複雑。
知人、つまりその男性は、養子縁組をして、妻側の戸籍に入っている。
しかも筆頭。
こういうケースのばあい、離婚したからといって、即、離縁ということにならない。
(昔は、離婚、即離縁ということになったが、現在は戸籍法が変わり、離婚と離縁は、
まったく別のものとして扱われている。)

知人側は、妻側の父親の保有している財産の分与を求めている。
一方、妻側は、「1円も渡さない」と、がんばっている。

+++++++++++++++++++++++

●泥沼化

 知人のケースのばあい、離婚しても、戸籍上は、妻側の両親の「子(=養子)」としての
身分は残ったまま。
繰り返すが、離婚(=婚姻関係の解消)と離縁(=養子縁組の解消)は、まったく別。
別の事項として扱われている。
妻の実父が死去すれば、当然のことながら、遺産相続権を行使することができる。
そこで妻側は、知人に離縁に応ずるように求めているが、知人側は、それを拒否。
それがこじれに、こじれて、泥沼化。

 離婚してすでに3年になるが、養子縁組は、そのままになっているという。
知人側の言い分しか聞いていないが、内情は、こういうことらしい。

(1) 離婚したとき、私(=知人)には、責任はなかった。
一方的に、妻側から、「性格の不一致」を主張された。
(2) 妻側の両親と同居し、両親の生活を支えてきた。

 一方、妻側の母親は、数年前に死去。
昔からの財産家で、もし父親が死去すれば、莫大な財産が、知人のものとなる。

 で、こういうケースのばあい、個人が役所へ出かけていって、自分で解決するのは、
たいへん難しい。
家庭裁判所で調停するといっても、そうは簡単にいかない。
相手の妻(実際には元妻)も応じないだろうして、たいていその場で、喧嘩もんかに
なる。
さらに財産分与、養育費、慰謝料の問題のほか、知人が戸籍の筆頭になっているため、
戸籍を「抜く」ということもできない。
できなくはないが、手続きが複雑。
そんなわけで、弁護士に相談するのが、いちばん、よい。
ワイフを通して、そういう相談があったので、私は、そう答えておいた。

●養子縁組は慎重に

 もちろん養子縁組をしても、その後、良好な家族関係を築いている人も多い。
しかし少数とはいえ、私の知人のようなケースも、ないわけではない。
が、こと養子縁組ということになれば、慎重にしたほうがよい。
知人のケースでも、婚姻届だけを出して、妻側の家に同居するという方法も
なかったわけではない。
昔は、これを「入り婿」と言った。
(女性が結婚して、夫側の家庭に入ったばあいが、それに相当する。)
そうすれば万が一、離婚ということになっても、手続きが楽。

 ともあれ、こうした問題は、一度こじれると、とことんこじれる。
「他人は、やはり、他人」となる。

 離婚劇にもいろいろあるが、ここまで複雑となるケースは、そうはない。
話を聞いていて、私自身も、頭の中がゴチャゴチャになってしまった。
だからやはり、ここはプロ、つまり弁護士に任せた方がよいということになる。

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