2012年3月16日金曜日

*A Man who has Something

【本物の人vsニセモノの人】byはやし浩司 2012-03-16

●本物の人

 一言、二言、言葉を交わしただけで、それがわかる。
本物の人というのは、そういう人。
知性や理性が、バチバチと光る。
先日会った、村松秀太郎画伯も、そうだった。
思わず私は、こう聞いてしまった。
「あなたは、いったい、何者ですか」と。

 ずいぶんと乱暴な聞き方をしてしまった。
が、村松秀太郎画伯は、やさしそうに笑いながら、こう言った。
「日本画を書いていますよ」と。

●本物と偽物

 一方、ニセモノの人は、ニセモノと、これまたよくわかる(失礼!)。
同じく、その温泉で、別の男性に出会った。
名古屋市から来ているという人だった。
が、その男性のばあい、同じく一言、二言、言葉を交わしただけで、その男性の「底」が見えてしまった。

 こうした(ちがい)は、どうして生まれるのか。
見た目には同じでも、中身がちがう。
その(中身)が、そのまま外に出てくる。
 
 が、誤解してはいけない。
中身のある人ほど、一見、ヘラヘラとした印象を受ける。
けっして、いかめしい顔つきをしているのではない。
やさしそうな、それこそ、どこにでもいるような人に見える。
が、一言、二言、言葉を交わしただけで、火花を飛び散る。
バチバチというか、ビリビリというか……。

 村松秀太郎画伯にしても、最初から、そういう人と知っていたわけではない。
が、言葉を交わした瞬間、「この人は、ただ者ではない」とわかった。

●精神の完成度

 絶え間ない心の鍛錬こそが、その人を光らせる。
あのパスカルも、そう書き残している。
釈迦も、「精進」という言葉を使った。
私は今まで、こう書いてきた。

 「精神の鍛錬法は、肉体の鍛錬法と似ている。
究極の鍛錬法というのはない。
1日でもサボったら、その日から健康は下り坂に向かう。
同じように精神も、1日でもサボったら、その日から精神は下り坂に向かう」と。

 が、肉体の鍛錬については、外から見ても、わかりやすい。
それなりに健康的で、たくましい体つきをしている。
が、精神の鍛錬については、外から見ただけでは、わからない。
ワイフは、「オーラ」という言葉を使う。
「それなりの人には、オーラが出ている」と。
しかし私は、オーラなるものを、信じない。

(1973、4年ごろ、ロシアのある科学者が、京都大学へやってきた。
そこでオーラの実験をしてみせた。
薄暗い部屋で、10人ほどの研究者が集まっていた。
当時は、「キルリアン」と呼んでいた。
オーラとキルリアンとは、同じものなのか。
あとで詳しく調べてみるが、かなりインチキ臭いものだった。
以来、私は、オーラなるものを信じない。
またそんなものがあるはずもない。)

 やはり、言葉である。
言葉のやり取りを通して、その人の精神の完成度を知ることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

真・善・美の追求。
学者は真を追求する。
宗教家は善を追求する。
芸術家は美を追求する。

私はものを書くことによって、何を追求しているのか。
ただの道楽なのか。
私はものを書きながら、いつも「私」を追求する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●私とは何か

 「私」というのは、昔から、哲学の世界では、大きなテーマだった。
スパルタの七賢人の一人のターレスも、『汝自身を知れ』と言っている。
自分を知ることが、哲学の究極の目的というわけだ。
ほかに調べてみると、たとえばパスカル(フランスの哲学者、1623~62)も、『パンセ』の中で、こう書いている。

 「人間は不断に学ぶ、唯一の存在である」と。
別のところでは、「思考が人間の偉大さをなす」ともある。

 この言葉を裏から読むと、「不断に学ぶからこそ、人間」ということになる。
この言葉は、釈迦が説いた、「精進」という言葉に共通する。
精進というのは、「一心に仏道に修行すること。
ひたすら努力すること」(講談社「日本語大辞典」)という意味である。
釈迦は「死ぬまで精進しろ。それが仏の道だ」(「ダンマパダ」)というようなことを言い残している。

となると、答は出たようなものか。
つまり「私」というのは、その「考える部分」といことになる。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 あなたが今、政治家であったとする。
そんなある日、一人の事業家がやってきて、あなたの目の前に大金を積んで、こう言ったとする。
「今度の工事のことで、私に便宜(べんぎ)をはかってほしい」と。

 このとき、考えない人間は、エサに飛びつく魚のように、その大金を手にしながら、こ
う言うにちがいない。
「わかりました。私にまかせておきなさい」と。

 しかしこれでは、脳のOS(基本ソフト)の範囲内での行動である。
そこであなたという政治家が、人間であるためには、考えなければならない。
考えて、脳のOSの外に出なくてはいけない。
そしてあれこれ考えながら、「私はそういうまちがったことはできない」と言って、そのお金をつき返したら、そのとき、その部分が「私」ということになる。

 これはほんの一例だが、こうした場面は、私たちの日常生活の中では、茶飯事的に起こる。
そのとき、何も考えないで、同じようなことをしていれば、その人には、「私」はないことになる。
しかしそのつど考え、そしてその考えに従って行動すれば、その人には「私」があることになる。

 そこで私にとって「私」は何かということになる。
考えるといっても、あまりにも漠然(ばくぜん)としている。
つかみどころがない。
考えというのは、方法をまちがえると、ループ状態に入ってしまう。
同じことを繰り返し考えたりする。
いくら考えても、同じことを繰り返し考えるというのであれば、それは何も考えていないのと同じである。

 そこで私は、「考えることは、書くことである」という、一つの方法を導いた。
そのヒントとなったのが、モンテーニュ(フランスの哲学者、1533-92)の『随想録』である。
彼は、こう書いている。

 「私は『考える』という言葉を聞くが、私は何かを書いているときのほか、考えたことがない」と。

 思想は言葉によるものだから、それを考えるには、言葉しかない。
そのために「書く」ということか。
私はいつしか、こうしてものを書くことで、「考える」ようになった。
もちろんこれは私の方法であり、それぞれの人には、それぞれの方法があって、少しもおかしくない。
しかしあえて言うなら、書くことによって、人ははじめてものごとを論理的に考えることができる。
書くことイコール、考えることと言ってもよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ついでに、「キルリアン」について書いた原稿をさがしてみる。
なおキルリアンについて、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『キルリアン写真(キルリアンしゃしん、Kirlian photography)とは、対象物に高周波・高電圧を掛けて発生させたコロナ放電による発光現象を撮影した写真のこと。
撮影時には、周波数 3 kHz 前後・電圧 30 kV 以上が用いられる。
対象物から発散する水蒸気の電離・発光現象を撮影するため、撮影対象物は水分を帯びた物体であれば生体・非生体を問わない(握り締めることにより、僅かな汗を帯びたコインでも像を得られる)。
また、真空中では水蒸気が速やかに拡散するため、像を得ることが出来ない』と。

 私が何人かの科学者たちと、京都大学で見た実験は、ここに書いたようなものだった。
半信半疑で、「ヘエ~~?」というような雰囲気で見ていたので、記憶の内容は、きわめてあいまいである。
現在「オーラの写真」として公表されているものは、この「キルリアン現象」によるものと考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「スピリチュアル」というインチキ(Spiritual Boom in Japan)

More and more people believe in Spirits, a kind of uncertain superstition in Japan. They believe the former existence or life after death. But where are they? Does it really exist? Books written by E-bara, a founder of this spiritual boom in Japan has succeeded in having sold more than 7 million copies of his books. I would rather say here that it is very dangerous to believe in such and such the existence of Spirits, since it is closely connected with Cult or Sect, a very radical religions. We have to be more careful about them.

かつての「霊」ブームが、「スピリチュアル」ブームに変わった。
インチキもインチキ、どうしてそういったインチキが、こうまで堂々と、この世の中で、大手を振って歩くのか。歩くことができるのか。

「前世」だの、「オーラ」※だの、はては、「守護霊」だのと、科学性はゼロ。
ただの迷信。「守護霊」という言葉にしても、ほんの30~40年前に、この日本に現れた。
何かのオカルト・ブームがきっかけだった。

雑誌などを読むと、「スピリチュアルと、宗教とは、ちがう」と説く人は多い。
「スピリチュアルは、宗教ではない」「だから危険性はない」と。

当然ではないか。

宗教には、まだ哲学がある。スピリチュアルには、それがない。
ないから、迷信。ただ、それだけに、ヘタなカルトより、タチが悪い。

思考性を他人に預けてしまうことの恐ろしさを、なたは、知っているか?
他人ならまだしも、わけのわからないものに預けてしまう恐ろしさを、あなたは、知っているか?

「あなたはキツネの生まれ変わり」だの、「ヘビの生まれ変わり」だの、はては、「あなたの先祖は、人を殺している。そのタタリ」だのと、とんでもないことを言われ、それを真に受けてしまう。

そのおかしさ、バカらしさ、まず、それに私たちは、気づくべきではないか。

……と書いても、私がひとりで叫んでも、意味はない。大河の中にクイを一本打つ程度の効果しかない。

スピリチュアル・ブームの火付け役となった、E原氏の本は、総発行部数で、700万部を超えているという(「日本の論点」2008)。
Aテレビ系列の彼の番組では、毎回、2けた台の視聴率を稼いでいるという。

700万部だぞ! 私のBLOGやHPへのアクセス件数は、累計で、先月、月間ベースで、やっと10万件を超えた。
が、それでも、70分の1! テレビの視聴率と比べたら、かないっこない。

単純に計算しても、10%の視聴率としても、それだけで、1200万人。
そういう人たちが、インチキをインチキとも気がつかず、テレビという巨大マスメディアに、言いように操られている。
いったい、日本の良識は、どこへ消えた!

だから私は、あえて叫んでやる! 

こんなインチキを野放しにしておいたら、やがて日本は再び、たいへんなことになるぞ!

スピリチュアル・ブームくらいなら、まだよい。
思考力を失った人間がどうなるか? 
あのO真理教によるサリン事件を思い出してみればよい。
あるいは、現在のK国でもよい。さらには戦前の日本でもよい。

共通してそこにいるのは、思考力を失った人間たちだ。
さらに言えば、思考力を失った、若者たちだ。子どもたちだ。

……実は、今、私も、こうした迷信との戦いに直面している。

実家の仏壇を、私の家に移そうと考えているのだが、それについて、親類縁者の人たちから、「ショウ抜きをしなさい」「ショウ入れをしなさい」と言われている。

「ショウ」って、何? どんな漢字をあてるの?

つまり仏壇といっても、ただの箱。
そこで所属宗派の僧侶に来てもらい、「魂」を抜いたり、入れたりしてもらえということらしい。

バカげた迷信だが、それを口にしている人たちは、本気らしい。
「ショウを抜かないで仏壇を移動すると、バチが当たる」とか、「ショウ入れをしないと、位牌をまつっても意味がない」とか、さらには「故人が成仏できない」とか言う。

結構なご意見だが、そういう人たちは、一度、YOU TUBEで、世界の音楽なり、民族舞踊なりを見てみたらよい。
つまり一度、世界から日本を見てみることだ。そして日本人のほかに、どこのバカがそんなことを口にしているか、一度、調べてみたらよい。

釈迦だって、そんなことは、一度も言っていないぞ! 
バカヤロー!

さらにあえて言うなら、日本の仏教も、そんなことばかりしているから、若い人たちに、ソッポを向かれる。
「葬式仏教」と揶揄(やゆ)される理由も、そこにある。
結局は、スピリチュアルと中身は、同じ。

話をもどす。

「考えること」には、ある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。

そのとき横にいた人が、そっと、解答の出ている用紙を見せてくれたら、あなたはどう感ずるだろうか。あなたは、ある種の陶酔感すら覚えるかもしれない。

だからほとんどの人は、できるだけ考えることから、遠ざかろうとする。
避けようとする。考えたところで、答が出てこないかもしれないという不安があるなら、なおさらだ。

スピリチュアル・ブームは、そういう人たちの上に乗っている。
だから私は、「危険である」という。

前世も来世もない。この100年は、何とかもちこたえるとしても、200年、300年後には、人類はもちろん、あらゆる生物が、この地球上から消える。
このままでは、そうなる。

そういう(現実)を前にして、「前世」だの、「来世」だのと、それを口にする、おかしさ。
そのおかしさに、まず気づいたらよい。

大切なことは、自分の脳みそで考えて、自分で行動することだ。
不完全で未熟かもしれないが、そこに人間が生きる意味そのものが、隠されている。

だから1人でも多くの人が、私と声を合わせて、こう言ってほしい。
「あんなのは、インチキだよ」と。その一声が、私たちの良識となって若者たちや、子どもたちの未来を明るくする。

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(注※)
私が「オーラ」(?)なるものに出会ったのは、1970年のはじめごろのことだった。

(今、計算してみたら、1974、5年ごろのことだった。その記録は京都大学理学部のほうには、残っているはず。)

京都大学に、ソ連のある科学者(?)がやってきて、それを実演してみせてくれた。
その科学者は、科学的にオーラを光の映像にすることに成功したということだった。
私は、何人かの医師と連れだって、それを見るために、わざわざ京都大学まで出かけていった。

(たしか当時、鍼灸の世界ではよく知られていた、良導絡研究所の研究所の人が、声をかけてくれたように記憶している。
経絡とは何か。
その研究の過程で、だれかに呼ばれて、そこへ行った。)

そのときの実験は、こういうものだった。

(細部は記憶によるものなので、正確ではない。)

たとえば内臓のどこかに病変があると、その人が発するオーラの色が変わるというものだった。
たとえば健康な人のオーラは、美しいxx色をしている。
しかし肝臓が悪くなったりすると、その色がxx色に変化する、と。

(色が変化するだけではなく、オーラの形や現れ方まで変化するという。)

体のあちこちに電極をつけていた。今から思うと、静電界か、電磁場を人工的につくり、それを暗室で、発光させることによって、オーラ(?)を観察するというものではなかったか。

もちろん、そのあと、それは手品に近い、インチキと証明された。
人間にオーラなど、ない。
あっても、見ることも感ずることもできないはず。
ものごとは、常識で考えたらよい。

(注:ここで、キルリアンとオーラを同一視しているが、ひょっとしたら別物かもしれない。念のため。)

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●言葉

 話を戻す。

 私はやはり「言葉」と思う。
あるいは、研究者であれば、論文、芸術家であれば、作品、さらに宗教家であれば、「言葉」ということになる。
生き様でもよい。
とにかく、「見た目」では、わからない。
(わかることもあるが……。)

 私は、その人を判断するときは、その人の書いた文章を読む。
また文章を読まないと、落ち着かない。
たとえば簡単な例では、講演の依頼がある。

そういった依頼を電話で受け取っても、不安でならない。
日時、場所、など。
私自身の脳みその老化の問題もある。
電話で日時、場所を聞いても、すぐ忘れてしまう。
メモも、そのため、アテにならない。
が、こういう仕事のばあい、記憶違いは、許されない。
そこであえて先方には、こうお願いする。

「一度、FAXででもいいですから、依頼書を書いていただけると、ありがたいのですが」と。

 が、やはり直接的には、「言葉」ということになる。
言葉が、その人の内面世界を、直接表わす。
「先に書いた、一言、二言……」というのは、そういう意味である。

しかし私はそれでよいとしても、言葉には、2極性がある。
私が相手を判断するということは、相手もまた、私を判断していることになる。
私のほうは、相手を、「ただ者ではない」と判断する。
しかし相手は、どうなのか。
そういう私の「底」を見てしまうのか。
言い換えると、私は、そういった人たちには、どういう人物に映るのか。
残念ながら、私自身は、私をそういう「眼」で見たことがないので、わからない。

 さらに言えば、本物であっても、またそうでなくても、それはその人、個人の問題。
つまり「結果」。
ただこういうことは、言える。

 本物の人に出会うというのは、本当に楽しい。
同時に、うれしい。
自分がそうであるというわけではないが、仲間に出会ったような喜びさえ覚える。
まじめに、ただまじめに、ひたすら懸命に何かを追い求めてきた。
そういう人には、そういう人独特の(はね返ってくる言葉)がある。
雰囲気がある。
それを知るのは、本当に楽しい。
孤独感そのものが、癒される。

 ……ということで、今朝は、ここまで。

 先ほど、ある雑誌社から、原稿依頼をもらった。
その見本原稿を書いた。
おまけとして、それをここに添付する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【愛と甘やかし】


●「許して忘れる」


 (愛)ほど、ばく然とした概念はないですね。が、尺度がないわけではないわけではありません。
「許して、忘れる」。英語では、「For/give & For/get」といいます。
この英文を注意深く読むと、「子どもに愛を与えるために許し、子どもに愛を与えるために忘れる」とも読めますね。
その度量の深さで、親の愛は決まる……と考えてください。


が、「許して忘れる」と言っても、もちろん子どもに、好き勝手なことをさせろという意味ではありません。
親は子どものできの悪さを見せつけられるたびに、悩み、苦しみ、ときには、袋小路へと叩き落とされます。
子どもにかぎらず、人を愛するということは、それほどまでに、つらいこと。
ときに身を引き裂かれるような思いをすることもあります。
ホレホレと子どもを抱いたり、頬ずりするのは、愛でも何でもありません。
そんなことなら、そこらのイヌやネコでもしていますよ。


●誤解


 が、この日本には、大きな誤解があります。
子どもに楽しい思いをさせること、楽をさせること、それが「親の愛」と。
また「それによって、親子の絆は太くなる」と。
が、実際には、逆効果。
一度、保護、依存の関係ができると、それを断ち切るのは容易なことではありません。
「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生がいました。
結婚式の費用について、親が、「半分くらいなら……」と言ったら、それに対して激怒。
「親なら、親らしく責任を取れ。結婚式の費用ぐらい出せ」と迫った、息子もいました。

規範のない、盲目的なでき愛を、(愛)と誤解している人は多いですね。
俗にいう、子どもを甘やかしながら、甘やかしていること自体に気がついていない。
結果、子どもは、ドラ息子、ドラ娘になります。
今や1億、総ドラ息子、ドラ娘と言ってよいほど、このタイプの子どもは多いですよ。

 自分勝手で、わがまま。
自己中心的で、利己的。
生活への耐性も失われます。
ある女の子(小4)は、突然、タクシーで家まで帰ってきました。
「どうして?」と話しを聞くと、こう答えたそうです。
「おばちゃんの家のトイレは汚れていて、気持ち悪かったから」と。
ドラ息子、ドラ娘になればなったで、苦労するのは、結局は子ども自身ということになります。


●筋(すじ)


 それがどういうものであれ、子育てには、一本の(筋)が必要。
わかりやすく言えば、(一貫性)。
具体的には、YES/NOをはっきり伝え、筋を通す。その筋がなくなったとき、親の心にスキが生まれ、子どもはそのスキをついて、ドラ息子、ドラ娘になります。
その筋のないことを、「甘やかし」といいます。
親の愛とは、基本的には、まったく異質のものと考えてください。


 あのバートランド・ラッセル※は、こう書き残しています。


『親として、必要なことはする。しかし決してその限度を超えてはいけません。そんな親のみが、真の家族の喜びを与えられます』と。


 (限度)をわきまえている親を、賢い親といいます。
親になるのは、簡単なこと。
しかし賢い親になるのは、本当にむずかしい。
一生のテーマと考えてよいほど、むずかしい。
安易に、節度のない愛に溺れてはいけません。

※…イギリス・ノーベル文学賞受賞者、哲学者)

では、今日も、がんばります。
2012/03/16


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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