2012年3月18日日曜日

●日本人は山岳民族

【山岳民族】(日本人は、もともと山岳民族だった?)

●浜松から、寸又峡(すまたきょう)温泉まで

 先日、寸又峡温泉へ行ってきた。
浜松からだと、一度、JRの東海道線に乗り、金谷(かなや)まで行く。
そこから大井川鉄道に乗り、千頭(せんず)まで。
さらにバスに乗り、寸又峡温泉まで。

 しかしもうひとつ、寸又峡温泉へ行くルートがある。
浜松から山間部を抜け、直接、寸又峡温泉に行くルートである。
その(浜松)(金谷)(寸又峡温泉)を線で結んでみると、ほぼ正三角形になるのがわかる。
距離的には、浜松から山間部を抜け、寸又峡温泉に行ったほうが、近いということになる。
が、山間部は、(昔は)、道路事情も悪く、その分だけ、時間もかかった。
が、今は、道路も整備された。
浜松の人でも、寸又峡温泉へ行くとき、その山間部を通り抜けていく人がいる。
先日も、近くの山の中の道を、寸又峡温泉から迎えに来たバスが走っているのを見た。
そのバスは、寸又峡温泉から、浜松まで、山間部の道路を通ってやってきた。

 道理で……というか、あの武田勝頼が、愛知県の長篠(ながしの)までやってきた理由が、それでわかった。

はじめて長篠の合戦場跡を訪れたとき、私はこう思った。
「どうしてこんな山奥へ、武田勝頼は来たのか」と。
武田勝頼は、そこで織田信長の鉄砲部隊と出会い、敗れる。

(注※……長篠の戦いについて。
『長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、天正3年5月21日(ユリウス暦1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で勃発した戦い』(ウィキペディア百科事典)。

●美濃地方と飛騨地方

 同じようなことだが、岐阜県にも、それがある。
たとえば、岐阜県の美濃地方の山奥(板取村、郡上村)から、飛騨地方(高山、下呂方面)へ行くときは、一度、岐阜市まで出なければならない。
私が子どものころは、そうだった。

 が、不思議なことに、美濃地方の山奥と、飛騨地方とは、文化的に類似性が多い。
さらにその先は、富山市へとつながっている。
また反対に、美濃地方の山奥は、福井県の大野市ともつながっている。
今とちがい、昔の人は、歩いて、山越えをした。
またそのほうが、ずっと近かった。

 川沿いに道が発達し、さらに海沿いに交通網が整備されたのは、鉄道や自動車が発達してからのこと。
私が驚いたのは、こんなこと。

 たとえば岐阜県美濃市の実家から、北陸の福井市や金沢市へ行くときのこと。
私が学生のころの話である。
そのときは、一度、岐阜市まで出る。
そこからJR東海道線に乗り、米原まで行く。
米原からは、北陸本線に乗り換え、福井市や金沢市へ向かう。

 が、こんなことをしなくても、昔の人なら、美濃市からさらに山奥へ入り、峠を越えて、福井市へ向かった。
距離的には、ずっと近い。
(ただしこの道は、現在は獣(けもの)道になっていて、猟師でないと越えられないとのこと。)
私は、それを知って、驚いた。
つまり(道のり)でいう距離と、(直線距離)でいう距離。
その両者の実感が、あまりにも、かけ離れていた。

●原発事故

 さらにこんなことも。
あの福島第一原発の事故のあと、近くの浜岡原発、さらには、福井県にある、敦賀(つるが)原発のことが、気になった。
もし事故でも起きたら……、と。

 そこで距離を測ってみた。
あくまでも地図上での直線距離だが、現在の敦賀市から岐阜市まで、直線距離で、65~70キロしかない(350万分の1の地図上で、1・9センチ)。
名古屋市まで、91キロしかない(同じく、2・6センチ)。
もし敦賀原発が事故を起こしたら、岐阜市はもちろん名古屋市も、避難対象地域になる。
(福島第一原発の事故のときは、西風が幸いした。
が、敦賀原発のときは、西風は命取りになる。)

 一方、浜岡原発(御前崎)から浜松までは、たったの35~40キロ(約1センチ)!
風向きにもよるが、東風でも吹いたら、一巻の終わり。

 日本地図を、こういう視点でながめるようになったのは、やはりあの福島第一原発の事故が理由だと思う。
それまでは、そういう見方は、あまりしなかった。
実感距離というか、「車で~~時間」「電車で~~時間」と。
それでもって、「近い」「遠い」を判断していた。

 で、冒頭の話に戻る。

●山岳民族

 日本列島が、オーストラリア大陸のように平地だったら、私たちがもっている距離感覚は、大きくちがっていただろう。
そこに山があるため、その山によって、距離感が狂ってしまった。
……というか、正確な距離感をもてない。
「遠い」と思っていたところが、意外と近かったり、反対に、地図上で「近い」と思っていたところが、意外と遠かったりする。

 さて昔の武将たちは、近道、つまり山越えをしながら、合戦を繰り広げていた。
結局、私の言いたいことは、この1点につきる。
またそういう視点がないと、戦国時代のあの時代の人々の動きを、理解することができない。

 繰り返しになるが、現在のように、川沿いに一度海に出て、そこから海沿いに移動するという方法は、列車や自動車が発達してからのこと。
それまでの日本人は、山から山へ、歩きながら移動していた。
またそれぞれの地方の文化も、そのルートで、つながっていた。

 日本人は、もともとは、山岳民族であった……ということになる。

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

【書くことのすすめ】

●衰退する文章表現力

 それがよいことなのか、悪いことなのかというと、悪いことに決まっている。
この日本では、本(文章)を読む人が、どんどんと減っている。
その一方で、コミック(漫画)を読む人は、どんどんと増えている。
今に始まった現象ではない。
原稿を探してみるが、私はすでにそれについて、20年以上前に書いたことがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

原稿番号を調べたら、(#406)になっていた。
1999年ごろに書いた原稿ということになる。
それ以前のは、見つからなかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(406)

●Nさんの相談より(2)

 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。
祖母がいた。
「ハネやハライが、メチャメチャだ。ちゃんと見てほしい」と。
私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したときのことである。
あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。
そういうときも私は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。
が、それにも抗議。「答がちがっているのに、どうして丸をつけるのか!」と。

(私は子どもの努力に対して、丸をつける。
答の正誤など、どうでもよい。
あるいは子どもを励ますために、丸をつける。)

 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。
よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。
最近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。
「右利きはいいが、左利きはダメ」と。
私の二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意された。
書道の先生ということもあった。
そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願すると、その先生はこう言った。
「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほうがよい」と。
そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまった。
書き順どころではない。
文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうとしなくなってしまった。

 近く小学校でも、英語教育が始まる。
その会議が10年ほど前、この浜松市であった。
その会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。
つまり二画と決まりました。
同じようにMとWは四画と決まりました」と。
私はその話を聞いて、驚いた。
英語国にもないような書き順が、この日本にあるとは!

 そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、25度傾けて書けと教えられたことがある。
今から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本の教育はおもしろくない。
つまらない。
たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚える前に、文字そのものを嫌いになってしまう。

日本のアニメやコミックは、世界一だと言われているが、その背景に、子どもたちの文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。

だいたいこのコンピュータの時代に、ハネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに守らねばならない理由が、一体どこにあるのか。
「型」と「個性」は、正反対の位置にある。
子どもを型に押し込めようとすればするほど、子どもの個性はつぶれる。
子どもはやる気をなくす。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●文章表現力

 一方で、最近の若い人たちの書く文章には、独特のものがある。
(けっして、ほめているわけではない。)
主語や述部を省略する。
感情をそのままぶつける。
何に対してそう思うのか、その説明もない。
思考がバラバラに飛び散ってしまい、自分の考えを、文章としてまとめることができない。
つまり「意味不明」。

 で、その背景にあるのが、思想のコミック化。
アニメ化でもよい。
たとえば爆弾が破裂する図を描き、それでもって「怒っている」ことを表わす。
そういう表現の仕方は、うまい。
が、言葉として、怒りの様子を表現することができない。
たとえば子どもたちの世界。
二極化が進んでいる。

●文章vsコミック

 早い子どもで、すでに小学校へ入学するころには、二極化が始まる。
「本が好きな子ども」「本が嫌いな子ども」と。
それが小学高学年(5、6年生)になると、より、はっきりとしてくる。
「本が好きな子ども」「コミックが好きな子ども」と。
その割合は、1:9くらいではないか。
コミックのほうが好き(=文章になった本は、ほとんど読まない)という子どものほうが、圧倒的に多い。

 それが悪いというのではない。
が、そのため、文章表現力が、極端に落ちる。
先に書いたような「意味不明」の文章が、多くなる。
たとえば昨日も街中を歩いていたら、歩道で色紙を売っている人を見かけた。
その1枚に、こんな文章が書いてあった。

『夫婦は、意見のぶつけ愛』と。

 一瞬、「うまいこと書くなあ」と思ったが、そこで思考停止。
「どういう意味なのか?」と考えたが、そこまで。
言わんとしていることは、何となくわかる。
「夫婦というのは、たがいに言いたいことを言う。
それを許しあうのが、愛」と。

 が、問題は、それにとどまらない。

●書くことの重要性

 映画『マーガレット・サッチャー・鉄の女の涙』に中に、こんなセリフが出てくる。
記憶によるものなので、不正確だが、こういうセリフ。

「考えたことを書く。
書いたことは、行動になる。
行動は、習慣になる。
習慣がその人の人格を作る」(記憶)と。

 考えるから、人間は人間である(パスカル)。
が、考えるだけでは足りない。
それを書いて文章にする。
書くことによって、論理力を養う。
知性や理性も、それによって磨かれる。
行動の基盤になる。
で、それが習慣となり、長い時間をかけ、その人の人格を作る。

 書くことには、そういう意味が含まれる。
が、書かなかったら、思考は堂々巡りする。
それこそ60代になっても、70代になっても、こう言う。
「お前は、男だろが。男らしくしろ!」と。

 20代のころ、あるいは10代のころ身につけた常識(?)のまま、そこで進歩が停止する。
事実、このタイプの人は、多い。
特徴をあげてみる。

(1)考え方が、世俗的(=俗っぽい)
(2)意見といっても、だれかの受け売り(=どこかで聞いたような話)
(3)ものの考え方が、直感的で、感情的(=論理性がない)
(4)内容が平べったく、深みがない(=繰り返しが多い)
(5)言葉の使い方が、不正確(=「男的にはねえ……」と言ったりする)
(6)「ダカラ論」が多い(=「男だから……」「日本人だから……」と)
(7)視野が狭い(=視野が狭く、関心のあることしか、話さない)
(8)言葉がつながらない(=「ア~~」「ウ~~」が多い)

 が、何よりも大きな特徴は、(9)繊細な会話ができない、など。
料理にたとえるなら、海賊焼きのようなものはできるが、日本料理のようなものは、できない。
(あまりよいたとえではないが……。)

●ものを書こう

 ものを書くということは、考えること。
考えなければ、ものを書くことはできない。
言葉は、論理。
その言葉が集まって、文章になる。
その文章をまとめるとき、また考える。
この繰り返しが、その人の論理力を深める。

 もうひとつ、ついでに言えば、こういうこと。

 ものを書いていると、ときどき、(稀に)、キラリと光るものを見つけるときがある。
それまで知らなかったこと、気がつかなかったこと、など。
荒野の中で、宝石を見つけるようなもの。
私のばあい、それがあるから、文を書くのがやめられない。
……というのは、あくまでも私の個人的な話。
みながみな、そうというわけではないかもしれない。

 ともかくも、ものを書こう。
書いて、自分の(考え)を、形にしよう。
パスカル(フランスの哲学者、1623~62)は、『パンセ』の中で、こう書いた。

 『人間は不断に学ぶ、唯一の存在である』と。
別のところでは、『思考が人間の偉大さをなす』とも。

 この言葉をもじると、こうなる。

「人間は不断に学び、書く、唯一の存在である」と。
さらに言えば、「書くことが、人間の偉大さをなす」とも、

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