2012年3月9日金曜日

*How do new-born babies keep their memories?

【乳幼児期の記憶はどこにあるのか?】(子どもの能力を引き出すために)

●乳幼児期の記憶

 乳幼児期の記憶は、私が学生のころは、「ない」とされていた。
が、それがとんでもないまちがいであったことを証明したのが、ワシントン大学のメルツオフ※である。

しかもその記憶は、おとなの私たちとは比較にならないほど、まさに怒涛のように脳の中に記憶される。
まわりの空気、匂い、音、母親の肌のぬくもり、息づかいなどなど。
そしてそれがやがてその子供の心の基礎となる。
目を閉じてやすらかに眠る乳児。
けっして、軽く考えてはいけない。

(注※……乳幼児の記憶)

「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられていた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシントン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達なため記憶は残らないとされてきた。
現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。
しかしメルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということになる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。
たとえば幼児期に親に連れられて行った場所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。
これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわかりやすい。

●相互作用

 では、その一方で、あの乳幼児(新生児を含む)も、周囲のおとなたちに対し、いろいろな働きかけをしていることも、最近、わかってきた。
わかりやすく言えば、あの赤ちゃんが、(あかちゃんがだぞ!)、おとな(とくに親)を、操っている!

 つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識しているわけではない。
無意識のうちに、そうする。

 さらに親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
それについても、脳内で麻薬を与えたときと同じような領域で反応が起き、脳内が高揚した状態になるためと説明されている※。

「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれるものである。

(注※……母親の陶酔感)

 時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。
『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似たような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。
母親の子への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理の解明に役立つと期待される』と。

●おっぱい

 ここではさらに話を一歩、進める。
どうすれば、乳幼児期の記憶をさぐることができるか。
またどうそれを教育の場で、応用することができるか。
最近、私は、こんな発見をした。

 4、5歳児の幼児でも、女性の乳房(おっぱい)に対して、強く反応する子どもと、そうでない子どもがいることがわかった。
最初は子ども(生徒)たちをからかうつもりで、おしゃぶりを私の机の上に置いてみた。
そのおしゃぶりに対する反応が、子どもによって、微妙にちがう。
まったく関心を示さない子どももいれば、トローッと甘い顔つきになる子どももいる。
条件反射的に、口をもぐもぐさせる子どももいる。

 そこで私は、「こういうのを使ったことがある人?」と聞く。
が、ほとんどの子どもは、「使ったことはない!」と答える。
弟や妹が使っていると答える子どもは、いる。
しかし自分は、使ったことはない、と。

 さらに「お母さんのおっぱいを飲んだことがある人?」と聞く。
が、このばあいも、ほとんどのこどもは、「ない」と答える。
そんなはずはないと思い、何度も念を押し、聞く。
が、それでも「ない」と答える。

(ただし中には、5、6歳になるまで、母親のおっぱいをのんだり、吸ったりしている子どももいる。)

 で、私自身の記憶をさぐってみる。
「私は、どうなのか?」と。
あるいはあなた自身は、どうか。

 私のばあいも、母親のおっぱいを吸った記憶は、ない。
ぼんやりと何かしら記憶しているようには感ずるが、直接的にはない。
が、ここにあげた子どもは、まだ4、5歳。
そんな子どもでも、「ない!」と。
が、さらに不思議なことがある。

●口唇期

 ときどき何かのことでふざけているようなとき、私は子どもたちにこう聞く。
「おっぱい、好きな人?」と。
 
 すると、ほとんどの子ども(5、6歳の年長児)は、吐き捨てるようにこう答える。
「嫌い!」と。
4、5歳の年中児でも、そう答える。
そこで私は強い口調で、こう言う。

「ウソを言うな。好きだったら、好きと言え」と。
すると何人かは、恥ずかしそうにこう言う。
「……好きだよ……」と。
が、おおっぴらに、「好き!」と答える子どもは、いない。

 もっともフロイト流に考えれば、「おっぱいが好き」(=おっぱいに特別の関心をもつ)という子どもは、口唇期に何かの(こだわり)をもっていることが多いという。
依存性が強く、ストレスに弱いとされる(渋谷昌三「心理学」)。

●心理テスト
 
 渋谷昌三氏は、「心理学」(西東社)の中で、こんな興味深いテストを紹介している。
そのまま紹介させてもらう。

++++++++++++++++++++++++

Q:つぎの5つは、赤ちゃんの身の回りにあるものです。
それぞれを頭の中で、思い浮かべてみてください。
もっとも印象深いのは、それですか?

(1)ほ乳瓶、(2)おしゃぶり、(3)おまる、(4)おむつ、(5)ガラガラ

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 このテストによって、心の別室(はやし浩司)に抑圧された「隠蔽(いんぺい)記憶」をさぐることができるという。
乳幼児でも、おとなでも、自分にとって不快な記憶は、心に別室をつくり、それを押し込めてしまう。
それを心理学の世界では、「抑圧」という。
そこでその中身が何であるかを知る。
このテストも、そのひとつというわけである。
どれにいちばん関心があるかを知り、その隠蔽記憶をさぐる。

 で、渋谷昌三氏は、つぎのように、診断している(同書)。

(1)ほ乳瓶やおしゃぶりを選んだ人……依存心が強く、ストレスに弱い正確です。
(2)おまるやおむつを選んだ人……まじめで几帳面で、強情なところもあり、倹約家の面もあります。
(3)ガラガラを選んだ人……虚栄心が強く、めだちたがり屋。

 渋谷昌三氏は、つぎのように説明している。

『それぞれのものは、口唇愛期(誕生、1歳未満)、肛門愛期(1歳~3歳)、エディプス期(3~6歳)※に対応したものです。
どの時期に(こだわり)をもっているかで、ちがう性格が形成されるといわれています」(以上、同書)と。

 つまり、記憶というのは、視覚的なものとはかぎらないということ。
いわばガスのようになって、脳の中に残る。
そのガスが、さまざまな形で、その人の性格を作る基盤になっていく。
「形」としての記憶がないからといって、「記憶がない」と考えるのは、正しくない。

(注※……エディプス、エディプスコンプレックス)

 ソフォクレスの戯曲に、『エディプス王』というのがある。
ギリシャ神話である。物語の内容は、つぎのようなものである。

 テーバイの王、ラウルスは、やがて自分の息子が自分を殺すという予言を受け、妻イヨカスタとの間に生まれた子どもを、山里に捨てる。
しかしその子どもはやがて、別の王に拾われ、王子として育てられる。
それがエディプスである。

 そのエディプスがおとなになり、あるとき道を歩いていると、ラウルスと出会い、けんかする。
が、エディプスは、それが彼の実父とも知らず、殺してしまう。

 そのあとエディプスは、スフィンクスとの問答に打ち勝ち、民衆に支持されて、テーバイの王となり、イヨカスタと結婚する。つまり実母と結婚することになる。

 が、やがてこの秘密は、エディプス自身が知るところとなる。
つまりエディプスは、実父を殺し、実母と近親相姦をしていたことを、自ら知る。

 そのため母であり、妻であるイヨカスタは、自殺。
エディプス自身も、自分で自分の目をつぶし、放浪の旅に出る……。

 この物語は、フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六~一九三九)にも取りあげられ、「エディプス・コンプレックス」という言葉も、彼によって生みだされた(小此木啓吾著「フロイト思想のキーワード」(講談社現代新書))。

 つまり「母親を欲し、ライバルの父親を憎みはじめる男の子は、エディプスコンプレックスの支配下にある」(同書)と。
わかりやすく言えば、男の子は成長とともに、母親を欲するあまり、ライバルとして父親を憎むようになるという。
(女児が、父親を欲して、母親をライバル視するということも、これに含まれる。)

 この説話から、一般に、成人した男性が、母親との間に強烈な依存関係をもち、そのことに疑問をもたない状態を、心理学の世界では、「エディプスコンプレックス」という。
母親からの異常な愛情が原因で、症状としては、同年齢の女性と、正常な交友関係がもてなくなることが多い。

●ガスを知る

 「ガスを知る」という経験は、日常生活の中でもよくする。
たとえば街角で、どこかで見たことのある人に会ったとする。
そのときのこと。
どこで会ったかも覚えていない。
名前も覚えていない。
どういう関係だったかも覚えていない。
が、その瞬間、つまり会った瞬間、不快な思いに満たされることもあれば、反対に、懐かしさがこみあげてくることもある。

 これは知覚できる意識が反応する前に、脳の奥深いところにガスのようにたまっている記憶が先に反応するためと考えてよい。
『坊主、憎ければ、袈裟まで憎い』というのも、そのひとつ。
ときとして、そのガスが、印象を決めてしまう。

 乳幼児期の記憶は、言うなれば、脳の中でガス状になってたまる。
もちろん論理や分析、あるいは言葉や映像を伴った記憶ではない。
ぼんやりとしている……という意味で、「ガス」という言葉を使った。
そういう記憶である。

 言い換えると、乳幼児と接するときは、ガスがどのように記憶されているか、それに注意を払えということになる。
モノを買い与えるとか、どこかへ連れていくとか、そういうことではない。
(おとなには、そういう記憶ほど、強く印象に残るかもしれないが……。
またそういうのをもって、「記憶」と考えやすいが……。)
ガスである。
その場の雰囲気、温もり、環境、安心感や不安感などなど。
ぼんやりとしていて、実体がない。

 が、こうしたことを理解することにより、即、それを教育の世界でも役立てることができる。
たとえば何かを教えるときも、教える内容や、できる・できたではなく、雰囲気。
「楽しかった」という思いだけを大切に、つくっていく。
それがやがて、子どもを伸ばす原動力になっていく。

 以前に書いた原稿をいくつか、参考までに、ここに載せておく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 隠蔽記憶 抑圧 エディプス はやし浩司 ディプスコンプレックス はやし浩司 ワシントン大学 メルツオフ メルツォフ ベイラー はやし浩司 母親の脳内反応 麻薬 陶酔感 はやし浩司 ベイラー医科大学 乳幼児の記憶)

Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

●子どものやる気論(参考原稿、2010年10月記より)

【子どものやる気論】自発的行動(オペラント)

●ほめる



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子どもは、ほめて伸ばす。

これは家庭教育の大鉄則!



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●灯をともして引き出す



 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を
意味する(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」と
いう単語に由来する。



 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。
そのせいか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参
観している私のほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。



 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、そ
れが強化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。



●脳内ホルモンが脳を活発化させる



 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときに
は、脳内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活
動を活発化し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。



 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつ
ぶる。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳
内ホルモンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、
伸び始める。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よく
みられる現象である。が、それだけではない。



ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことが
あった。



●子どもをほめるときは本気で



 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴
るは当たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出
されていた。



 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休み
になる少し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにし
た。



 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。
ウソや仮面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、
あなたを思う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、
そのAさんも、あなたのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返
報性」という言葉がある。



 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。
相手の好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子
どもを伸ばす。



●「先生、肩もんでやるよ。」



 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助
手席に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。



 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれま
せんが、今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」
と。



 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解
した。頭もよい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こ
んなことがあった。



 いつもより30~40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K
君は、少し恥ずかしそうにこう言った。



 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。



 私はだまって、K君の好意を受けた。

(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 
子どものやる気 子供の集中力 思考力)
(以上、2006年5月記)
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もう一作、「やる気」について書いた
原稿を添付します。
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【子どもの中の子ども】

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子どもを見て、教育してはいけない。
教育するときは、子どもの中の子どもを見て、する。

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●乳幼児の記憶

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子どもの中の子どもとは、何か?
それについて話す前に、乳幼児の
記憶について書いた原稿を
読んでほしい。

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「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィーク誌・2000年12月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられていた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシントン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達なため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期にわたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォフらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということになる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわかりやすい。

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わかりやすく言えば、あの乳幼児ですらも、
着々と記憶をたくわえ、「私」を作る
準備をしているということ。

やがてその「私」が、私の意思すらも、
ウラから操るようになる。

では、「私の意思」とは何か?

それについて書いた原稿が
つぎのもの。

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●意思

 最近の研究では、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということがわかってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。するとあなたは、そのミカンに手をのばし、それを取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなたは、その命令に従って、行動しているだけ、という。詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活動が始まっているというのだ。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、すでに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことになる。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、ものすごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気信号や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてしまう。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということになってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の食堂へおりていく。そのとき私は、こう思うだろう。「これは私の意思だ。私の意思で、食堂へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をする」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけということになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さからってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をしてみよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我がある。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといってもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようになる。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいたとする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そうだ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロールされている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだが、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている(?)。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……。
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

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そこでひとつの例として、「子どもの
やる気」について考えてみたい。

子どものやる気は、どこから生まれるのか。
またそのやる気を引き出すためには、
どうしたらよいのか。

少し話が脱線するが、「私の中の私を知る」
ためにも、どうか、読んでみてほしい。

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●子どものやる気

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子どもからやる気を引き出すには
そうしたらよいか?

そのカギをにぎるのが、扁桃体と
いう組織だそうだ!

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 人間には、「好き」「嫌い」の感情がある。この感情をコントロールしているのが、脳の中の辺縁系にある扁桃体(へんとうたい)という組織である。

 この扁桃体に、何かの情報が送りこまれてくると、動物は、(もちろん人間も)、それが自分にとって好ましいものか、どうかを、判断する。そして好ましいと判断すると、モルヒネ様の物質を分泌して、脳の中を甘い陶酔感で満たす。

たとえば他人にやさしくしたりすると、そのあと、なんとも言えないような心地よさに包まれる。それはそういった作用による(「脳のしくみ」新井康允)。が、それだけではないようだ。こんな実験がある(「したたかな脳」・澤口としゆき)。

 サルにヘビを見せると、サルは、パニック状態になる。が、そのサルから扁桃体を切除してしまうと、サルは、ヘビをこわがらなくなるというのだ。

 つまり好き・嫌いも、その人の意識をこえた、その奥で、脳が勝手に判断しているというわけである。

 そこで問題は、自分の意思で、好きなものを嫌いなものに変えたり、反対に、嫌いなものを好きなものに変えることができるかということ。これについては、澤口氏は、「脳が勝手に決めてしまうから、(できない)」というようなことを書いている。つまりは、一度、そうした感情ができてしまうと、簡単には変えられないということになる。

 そこで重要なのが、はじめの一歩。つまりは、第一印象が、重要ということになる。

 最初に、好ましい印象をもてば、以後、扁桃体は、それ以後、それに対して好ましい反応を示すようになる。そうでなければ、そうでない。たとえば幼児が、はじめて、音楽教室を訪れたとしよう。

 そのとき先生のやさしい笑顔が印象に残れば、その幼児は、音楽に対して、好印象をもつようになる。しかしキリキリとした神経質な顔が印象に残れば、音楽に対して、悪い印象をもつようになる。

 あとの判断は、扁桃体がする。よい印象が重なれば、良循環となってますます、その子どもは、音楽が好きになるかもしれない。反対に、悪い印象が重なれば、悪循環となって、ますますその子どもは、音楽を嫌いになるかもしれない。

 心理学の世界にも、「好子」「嫌子」という言葉がある。「強化の原理」「弱化の原理」という言葉もある。

 つまり、「好きだ」という前向きの思いが、ますます子どもをして、前向きに伸ばしていく。反対に、「いやだ」という思いが心のどこかにあると、ものごとから逃げ腰になってしまい、努力の割には、効果があがらないということになる。

 このことも、実は、大脳生理学の分野で、証明されている。

 何か好きなことを、前向きにしていると、脳内から、(カテコールアミン)という物質が分泌される。そしてそれがやる気を起こすという。澤口の本をもう少しくわしく読んでみよう。

 このカテコールアミンには、(1)ノルアドレナリンと、(2)ドーパミンの2種類があるという。

 ノルアドレナリンは、注意力や集中力を高める役割を担(にな)っている。ドーパミンにも、同じような作用があるという。

 「たとえば、サルが学習行動を、じょうずに、かつ一生懸命行っているとき、ノンアドレナリンを分泌するニューロンの活動が高まっていることが確認されています」(同P59)とのこと。

 わかりやすく言えば、好きなことを一生懸命しているときは、注意力や集中力が高まるということ。

 そこで……というわけでもないが、幼児に何かの(学習)をさせるときは、(どれだけ覚えたか)とか、(どれだけできるようになったか)とかいうことではなく、その幼児が、(どれだけ楽しんだかどうか)だけをみて、レッスンを進めていく。

 これはたいへん重要なことである。

 というのも、先に書いたように、一度、扁桃体が、その判断を決めてしまうと、その扁桃体が、いわば無意識の世界から、その子どもの(心)をコントロールするようになると考えてよい。「好きなものは、好き」「嫌いなものは、嫌い」と。

 実際、たとえば、小学1、2年生までに、子どもを勉強嫌いにしてしまうと、それ以後、その子どもが勉強を好きになるということは、まず、ない。本人の意思というよりは、その向こうにある隠された意思によって、勉強から逃げてしまうからである。

 たとえば私は、子どもに何かを教えるとき、「笑えば伸びる」を最大のモットーにしている。何かを覚えさせたり、できるようにさせるのが、目的ではない。楽しませる。笑わせる。そういう印象の中から、子どもたちは、自分の力で、前向きに伸びていく。その力が芽生えていくのを、静かに待つ。

 (このあたりが、なかなか理解してもらえなくて、私としては歯がゆい思いをすることがある。多くの親たちは、文字や数、英語を教え、それができるようにすることを、幼児教育と考えている。が、これは誤解というより、危険なまちがいと言ってよい。)

 しかしカテコールアミンとは何か?

 それは生き生きと、顔を輝かせて作業している幼児の顔を見ればわかる。顔を輝かせているその物質が、カテコールアミンである。私は、勝手に、そう解釈している。
(はやし浩司 子供のやる気 子どものやる気 カテコールアミン 扁桃体)

【補記】

 一度、勉強から逃げ腰になると、以後、その子どもが、勉強を好きになることはまずない。(……と言い切るのは、たいへん失礼かもしれないが、むずかしいのは事実。家庭教育のリズムそのものを変えなければならない。が、それがむずかしい。)

 それにはいくつか、理由がある。

 勉強のほうが、子どもを追いかけてくるからである。しかもつぎつぎと追いかけてくる。借金にたとえて言うなら、返済をすます前に、つぎの借金の返済が迫ってくるようなもの。

 あるいは家庭教育のリズムそのものに、問題があることが多い。少しでも子どもがやる気を見せたりすると、親が、「もっと……」「うちの子は、やはり、やればできる……」と、子どもを追いたてたりする。子どもの視点で、子どもの心を考えるという姿勢そのものがない。

 本来なら、一度子どもがそういう状態になったら、思い切って、学年をさげるのがよい。しかしこの日本では、そうはいかない。「学年をさげてみましょうか」と提案しただけで、たいていの親は、パニック状態になってしまう。

 かくして、その子どもが、再び、勉強が好きになることはまずない。
(はやし浩司 やる気のない子ども 勉強を好きにさせる 勉強嫌い)

【補記】

 子どもが、こうした症状(無気力、無関心、集中力の欠如)を見せたら、できるだけ早い時期に、それに気づき、対処するのがよい。

 私の経験では、症状にもよるが、小学3年以上だと、たいへんむずかしい。内心では「勉強はあきらめて、ほかの分野で力を伸ばしたほうがよい」と思うことがある。そのほうが、その子どもにとっても、幸福なことかもしれない。

 しかしそれ以前だったら、子どもを楽しませるという方法で、対処できる。あとは少しでも伸びる姿勢を見せたら、こまめに、かつ、すかさず、ほめる。ほめながら、伸ばす。

 大切なことは、この時期までに、子どものやる気や、伸びる芽を、つぶしてしまわないということ。

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では、「私」とは何か?
その中心核にあるのが、「性的エネルギー」(フロイト)
ということになる。
「生的エネルギー」(ユング)でもよい。

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● 生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)

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では、いよいよ核心?

「私」とは何か。
また教育の世界では、「私」をどう考えたら
よいのか。

私は、ひとつの仮説を考えた。

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●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

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昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1~2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分 視床下部 大脳前頭前野)

++++++++++++++++

教育の世界では、表面的な子どもだけを
見て、教育してはいけない。

教師のひとつひとつの行動、言動が、
どのように子どもの中に形成されていくか。
それを観察しながら、教育する。

あるいは反対に、その子どもが、その
子ども自身の中の、どのような「私」に
コントロールされているか、それを
的確に判断しながら、教育する。

それが教育の原点ということになる。

++++++++++++++++

【私とは?】(What is “Me”?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have found in these ten years.

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ~~~~~ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論 教育の原点)


Hiroshi Hayashi++++++++May.08++++++++++はやし浩司

●言語能力

 ついでに、澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性を決める。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のあるなしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子どもに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくると、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることができる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからないが、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるのではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要がある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このことは、決して笑いごとではすまされない。

(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist メルツオフ メルツォフ 乳幼児の記憶 視床下部 辺縁系 扁桃核 扁桃体 カテコールアミン はやし浩司)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

【参考原稿】

【新生児の謎】

●人間の脳の大きさは、母体の産道(骨盤)の大きさに比例する

+++++++++++++++++

進化の過程で、人間の脳は、より
大きくなってきた。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクゥス) ……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容量……約350~400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

+++++++++++++++++

胎児は母体の産道(骨盤の間)をくぐり抜けて、生まれる。
そのときもし胎児の頭の大きさが、産道よりも大きければ、胎児は、母胎の産道をくぐり抜けることができない。

だから『人間の脳の大きさは、母体の産道の大きさに比例する』。

胎児の頭が大きくなればなるほど、母体の産道の直径は大きくなければならない。
もし胎児が産道をくぐり抜けることができなければ、胎児が死ぬか、反対に母親が死ぬかのどちらかになる。
が、反対に、母体の産道が大きくなればなるほど、胎児の頭も大きくなるかといえば、それは言えない。

たとえば人間以外のほかの動物のばあい、頭よりも体のほうが大きい。
またその多くは、2体以上の子どもを出産する。
頭の大きさが問題になることは、ない。
つまりほかの動物のばあい、母体の産道の大きさは、頭というより、体の大きさによって決まる。(その反対でもよいが……)。

が、人間だけは、いびつなまでに、頭だけが大きい。
なぜか?

●頭を大きくするために

人間の脳を、今以上に大きくするためには、母体の産道を大きくするか、胎児そのものを、人工胎盤で育てるしかない。
よくSF映画の中にも、そういうシーンが出てくる。
大きな水槽の中で、胎児が人工飼育(?)されているシーンである。

水槽の中に胎児が浮かび、へその緒は、水槽外の栄養補給装置とつながっている。

この方法であれば、胎児は何の制約も受けず、自分の頭、つまり脳を大きくすることができる。いくら大きくなっても、出産時の問題は起きない。

「あれはSF映画の中の話」と思う人もいるかもしれないが、現在の科学技術だけをもってしても、けっして、不可能ではない。
現在でも、一度体外に取り出した女性の卵子に、人工授精させ、再び母体に戻すという方法は、ごくふつうのこととしてなされている。
あと50~100年もすれば、こうした方法、つまり人工胎盤を用いた育児法が、ごくふつうのこととしてなされるようになるかもしれない。

●2つの問題

が、ここで2つの問題が起きる。
厳密には、3つの問題ということになるが、3つ目は、このつぎに書く。

ひとつは、こうして生まれた子どもは、頭が大きくなった分だけ、つぎの代からは、自然分娩による出産がむずかしくなるだろうということ。
代を重ねれば重ねるほど、むずかしくなるかもしれない。

「ぼくは人工胎盤で生まれたから、ぼくの子どもも、人工胎盤で育てる」と。
そう主張する子どもがふえることも考えられる。

もうひとつの問題は、『頭が大きくなればなるほど、脳の活動は鈍くなる』ということ。

脳というのは、コンピュータの構造に似ている。
とはいうものの、シナプス間の信号伝達は、電気的信号ではなく、化学反応によってなされる。
この(化学反応)という部分で、脳は大きくなればなるほど、信号伝達の速度が遅くなる。
言いかえると、脳は小さければ小さいほど、信号伝達の速度が速い。
このことは昆虫などの小動物を見ればわかる。
こうした小動物は、知的活動は別として、人間には考えられないような速い動きをしてみせる。

つまり頭を大きくすることによって、より高度な知的活動ができるようになる反面、たとえば運動能力をともなう作業的な活動になると、かえって遅くなってしまう可能性がある。
歩くときも、ノソノソとした動きになるかしれない。
ひょっとしたら、頭の反応も鈍くなるかもしれない。

これら2つの問題は、克服できない問題ではない。
が、もうひとつ、深刻な問題がある。

●豊かな感情は人間の財産

人工胎盤で育てられた子どもは、はたして人間的な感情をもつだろうか?

豊かな感情は、安定した母子関係の中ではぐくまれる……というのが、現在の常識である。
とくに生後直後から、満2歳前後までに、その子どもの感情、つまり情緒的発達は完成される。

しかし胎児のばあいは、どうだろうか。
胎児は母親の母体内にいる間、母親の愛情を感ずることはないのだろうか。

が、これについては、「感じている」と考えるのが、自然である。
最近の研究によれば、誕生直後の新生児ですら、実は母親に向かって(働きかけ)を行っていることがわかってきた。
たとえば新生児は新生児で、本能的な部分で、自らの(かわいさ)を演出することによって、親の愛情を自分に引きつけようとする。
つまり新生児の側からも、働きかけがあるということになる。
それまでは、たとえば愛情表現にしても、母親から新生児への一方的なものと考えられてきた。
「母親から新生児への働きかけはあっても、新生児からの働きかけはない」と。

母親から新生児へ、新生児から母親へ。
こうした相互の(働きかけ)を、「ミューチュアル・アタッチメント(Mutual Attachment)」という。

が、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、誕生直後から始まると考えるのには、無理がある。
あらゆる生物は、もちろん人間もだが、その成長過程において、連続性を維持しながら成長する。
誕生と同時に、突然、「ミューチュアル・アタッチメント」が始まるというわけではない。
胎児は胎児であるときから、「ミューチュアル・アタッチメント」は始めていると考えるのが、自然である。

となると、人工胎盤のばあい、胎児は、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、できないということになる。
人工胎盤の中の胎児は、暗くて冷たい、孤独な世界でもがき、苦しむということになる。
いくら働きかけをしても、それに応えてくれる母親は、そこにいない!

仮に100歩譲って、何とか情緒面の問題を克服して誕生したとしても、今度は、そういう子どもに対して、卵子の提供者でしかない母親が、母親としてのじゅうぶんな愛情を感ずることができるかどうかという問題もある。

母親は10か月という長い期間、自分の胎内で子どもを育てるうちに、母親としての愛情を自覚する。
あるいは出産の苦しみをとおして、その愛情を倍加させる。
もちろん夫の役割も無視できない。
妻の出産を喜ぶ夫。
そういう姿を見て、母親である妻は、さらに子どもへの愛情を倍加させる。

こうしたプロセスを省略した子どもが、はたして、感情豊かな子どもに成長するかどうかということになると、あ・や・し・い。

●人間の脳

ところで進化の過程で、人間の脳は、より大きくなってきたと言われている。

ちなみに、猿人、原人、旧人、新人、現代人の脳容積はつぎのようになっている。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクトゥス)……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容積……約350~400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

ここで私は、「進化」という言葉を使ったが、実のところ現代人の祖先というのは、定かではない。
ただ言えることは、人間(ヒト)は、猿(サル)から進化したのではないということ。
反対に、たとえばチンパンジーにしても、やがて人間のように進化するということは、ありえない。
人間は、人間。
猿は、猿。
それぞれが、完成された個体である。

もちろん人間がここまで進化する過程の中では、猿人→原人→旧人→新人のそれぞれの段階で、無数の新種が生まれ、そして絶滅していった。
たとえばよく知られた例として、ネアンデルタール人がいる。
ネアンデルタール人は、人間の祖先であるホモサピエンスとそれほど能力的には差がなかったものの、今から1万数千年前に、絶滅している。

●未熟化する新生児

仮に産道の大きさはそのままで、胎児の頭だけが大きくなったら、どうなるか。
先にも書いたように、胎児は、母親の産道をくぐり抜けることができなくなる。
そうなれば母体である母親が死ぬか、胎児が死ぬかの、どちらかしかない。

が、ほかに方法がないわけではない。

胎児の頭がまだ、産道をくぐり抜けることができる大きさの段階で、出産するという方法である。
つまり新生児としては未熟だが、その段階で母体から離され、そのあと、母体の外で育てる。
現に新生児の体重は、3200グラム弱(平均)とされているが、(平均体重は、この10年、年々減少傾向にあるが……)、その1か月後には、体重は、約1・5倍に増加する。
2か月で2倍になる新生児も少なくない。

つまり人間の子どもの出産は、きわめて微妙な時期を選んでなされることが、これでわかる。
もし出産時が、1か月早ければ、新生児は、特別な介護なくしては生きていくことすらむずかしい。
一方、もし1か月遅ければ、体重が増加し、ついで頭も大きくなり、出産そのものがむずかしくなる。

ちょうどよいころに、ちょうどよい、……というギリギリのところで母親は子どもを出産する。子どもは、うまく産道をくぐり抜ける。

が、疑問は、残る。

なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか、という疑問である。
新生児のばあい、少なくとも生後6か月まで、保護者による手厚い保護がないかぎり、自分で生きていくことはおろか、動き回ることすら、できない。

●進化論への疑問

ここにも書いたように、人間は人間として、今に見る人間に進化した。
「今の今も進化しつづけている」と説く人もいるが、反対に、「同時に退化しつづけている」と説く人もいる。

突然変異というのは、まさに両刃の剣。
突然変異によって進化することもあるが、それまでの重要な遺伝子を喪失することもある。
つまり進化と退化は、相互に関連し合いながら、同時進行的に進むと考えてよい。

が、それはさておき、人間が今に見る人間になるについて、「ダーウィン的な進化論では説明できない進化」と説く学者も少なくない。

進化論の世界では、「10万年に1回の、ささいな変化」でも、「突然変異」とみるのだそうだ。
が、こと人間に関していえば、ほぼ20万年単位で「大・突然変異」を繰りかえし、今に見る人間になった。

たとえば「人類の祖先は、420万年前からずっと二足歩行していたにもかかわらず、350万年前の猿人の脳容量は、ほとんどチンパンジーと変わっていない」(「るい・NETWORK・生物史」)そうだ。

「二足歩行するようになったから、脳容積が大きくなった」という従来の常識にも、よくよく考えてみればおかしいということになる。

そこで現われたのが、「作為説」。
「つまり人間は、その進化の過程で、何ものかによって、作為的に改良された」という説である。

この説を説く学者も少なくない。

『……スミソニアン協会の著名な生物学者オースチン・H・クラーク氏は、進化論についてこう述べています。

「人間が下等な生命形態から、段階的に発達してきたという証拠はない。いかなる形においても人間をサルに関連づけるものは何もない。人間は突然に、今日と同じ形で出現した」』(指摘:「宇宙GOGO」HPより)と。

「なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか」という疑問についても、未熟なまま生まれるというように、だれかによって操作されたとも、考えられなくはない。

そのだれかとは、だれか?

このあたりから、話が、SF的になる。
あるいはどこか宗教的になる。
実際、こうした説に基づいて活動しているカルト教団もある。
だから私の話は、ここまで。

この先のことは、皆さんの判断に任せるが、UFOが存在し、当然、宇宙人が存在するというこになれば、私たち人間が、その宇宙人によって何らかの(作為的な改良)を受けたことがあるのではないかと考えても、おかしくない。

とくに(脳)については、そうである。
なぜ私たちの脳は、こうまで飛躍的に進化してしまったのか?
わずか5500年以前には、私たちは火の使い方すら知らない新石器人間であったことを考えるなら、この疑いは大きくなることはあっても、小さくなることはない。

(注)自分で読み返しても、稚拙な内容の文章だと思う。
文章もへたくそだし、つっこみも甘い。
が、私はここを出発点として、さらにこの問題について、考えてみたい。

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Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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