2012年3月4日日曜日

●「ヒューゴの不思議な発明」byはやし浩司

●映画『ヒューゴの不思議な発明』

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

夕方になって、ワイフが、こう言った。
「『ヒューゴの不思議な発明』を見に行かない?」と。
昨夜、『戦火の馬』を見たばかり。
「2晩つづけてかア?」と私が聞くと、「浜北へ行けばいい」と。

浜北(浜松市の北区)には、もうひとつ、別の東宝映画劇場がある。
「別に劇場の問題ではないのだがなア……」と思いながらも、それに従う。
ネットで調べると、午後6時5分、開演とある。
45分しかない……ということで、あわてて車に飛び乗る。

「どうしてわざわざ遠方の劇場へ行くのか?」と、
そんなことを考えながら、車を走らせる。
浜松市内にも、劇場がある。
市内だったら、20分もかからない。

で、劇場へ着いたのが、6時10分。
チケットを買っていると、カウンターの女性が、こう言った。
「今は、予告編です」と。

最近、予告編の時間が長い。
……長くなった。
1回に、5~6作は、見せる。
時間を計ってみたことがあるが、15~20分。
つまり6時5分といっても、実際、映画が始まるのは、6時25分ごろ。
あわてる必要はない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『ヒューゴの不思議な発明』

 言葉の問題。

「ヒューゴの不思議な発明」というタイトルを見たら、あなたは何を、どう連想するだろうか?
たぶん、こう考えるにちがいない。
「ヒューゴという少年が作った、何か不思議な発明」と。
私も、実は、そう思っていた。

 が、ヒューゴは、実際には何も発明していない。
古い機械人形をフィックスした(=直した)だけ。
つまりタイトルがおかしい。

 そこで原作を調べてみると、「Hugo(ヒューゴ)」となっていた。
ただの「Hugo」だけ。
「ヒューゴの不思議な発明」というのは、「ヒューゴのもっていた」という意味。
つまり所有格。

 主役というより、「柱」は、ベン・キングズレーが演ずるジョルジュ・メリエス。
映画の途中から、私は、同年齢ということもあって、ジョルジュ・メリエスのほうに強くひかれた。
ヒューゴというより、メリエスのほうに、感情移入をしてしまった。
過去の成功や栄華を懸命に忘れようとしている、メリエス。
そこに強く共感した。

 子ども向けの子ども用映画ということであれば、ヒューゴということになる。
ヒューゴが主役。
そういう意味では、子ども向けのファンタジー映画ということになる。
星は文句なしの、5つ星。★★★★★。
『ネバー・エンディング・ストーリー』と並ぶ、名作と考えてよい。

 また、ジョルジュ・メリエスについては、ほぼ実話ではないかと思われる。
ファンタジー映画の、まさに先駆者。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『ジョルジュ・メリエス

 マリー=ジョルジュ=ジャン・メリエス(Marie Georges Jean Méliès、1861年11月8日1938年1月21日)は、フランスの映画製作者で、映画の創生期において様々な技術を開発した人物である。
パリ出身。
「世界初の職業映画監督」と言われている。
SFXの創始者で、多重露光やディゾルブ、ストップモーションの原始的なものも開発した。
もともとはマジシャンで劇場経営者であったが、1895年、同じくフランスのリュミエール兄弟による映画の公開を見て、映画製作に乗り出した。
彼の最も有名な作品は1902年の映画『月世界旅行』である。
題名の通り月へ探検に行く物語だが、1本の映画の中で複数のシーンがあり、物語が存在するという、当時としては画期的なものであった』(以上、ウィキペディア百科事典)と。

●1861-1938

 ジョルジュ・メリエスは、77歳で没していることになる。
本当にパリ鋭気構内で、おもちゃ屋を営業していたかどうかは、知らない。
映画の中では、そのころヒューゴと知りあったことになる。
が、やはり気になるのは、「過去の成功や栄華を懸命に忘れようとしている、メリエス」という部分。

 彼が手がけていたファンタジー映画は、第一次世界大戦とともに、闇に葬られる。
フィルム(=セルロイド)のほとんどは、再利用され、女性の靴のかかとになったという(映画)。
メリエス自身も、「映画の流行は一過性のもの」と思っていたらしい(映画)。
が、私は、その映画を見ながら、高校時代の恩師、平井孝一先生を思い出していた。
話がぐんと脱線するが、許してほしい。

●平井孝一先生

 私が知りあったとき、平井孝一先生は、70歳を過ぎていた。
75歳前後ではなかったかと記憶している。
美濃市の南、山沿いにあった小さな集合住宅に住んでいた。
本当に小さな集合住宅で、2間ほどしかなかったと思う。
国語の元先生だった。

 私は高校1年から2年まで、その先生から古文を学んだ。
週に1度、先生の家に行き、個人レッスンを受けた。
おかげでというか、当時は全国規模の古文だけの試験があり、私は全国で8位の成績を収めることができた。
(受験者数は、全国で30万人前後だったと記憶している。)

 平井孝一先生は、もともと郷里の美濃市出身だった。
実家から150メートルもない、造り酒屋の身内の1人と聞いていた。
その平井先生と縁をつないでくれたのは、母だった。
母が、平井孝一先生に、家庭教師を頼んでくれた。

 それはともかくも、ある日平井孝一先生は、1冊の本を私にくれた。
古語辞典だった。
それには、「平井孝一編」とあった。
私は驚いた。
今とちがい、当時は、「本」というだけで、たいへんな価値があった。
戦時中に印刷されたもので、見るからに疲れた感じの本だった。
が、本は本。
ズジリと重かった。
その平井孝一先生が、ある日、こう言った。

「私はね、岩国高校で、校長をしていたんですよ※」と。

 岩国高校というのは、広島県岩国市にある高校である。
「ほら、錦帯橋(きんたいばし)という橋があるでしょ。学校は、あの橋のそばにありましたよ」と。

 そのときはじめて、私は、平井孝一先生が、たいへんな人物であったことを知った。
小さな集合住宅に住んでいたから、それまではその程度の人としか思っていなかった。

が、先生は私に古文を教えながら、一言も、それ以外、自慢たらしいことは言わなかった。
自分の過去についても、私に話してくれたのは、2年間で、それだけ。
理由はわからない。
ともかくも、平井孝一先生という人は、そういう先生だった。

(注※……平井孝一先生の略歴・岩国高校ホームページ)
http://www.iwakuni-h.ysn21.jp/soumu/principal/principal.html
岩国高校のホームページによれば、平井孝一先生は、昭和18年4月から、昭和21年3月まで、岩国高校で校長をしていたことがわかる。
(昭和24年に、岩国中学から学制改革により、岩国高校となる。)

 映画を見終ってから、家に着くまで、私は平井孝一先生のことを考えていた。
私が大学生のとき、平井孝一先生は亡くなった。
が、私は葬式にも行かなかった。
そういう負い目を感じていたので、私は、ワイフには、平井孝一先生の話はいっさい、しなかった。

●過去

 メリエスにかぎらず、人には、それぞれ重い過去がある。
が、そうした過去が、正当に評価されるということは、まず、ない。
本当に、一部の、しかも本当に運がよかった人だけが、晩年になって、注目を集める。
再評価される。

 平井孝一先生にしても、そうだ。
岩国高校は、江戸時代の(養老館)藩学校から始まる。
岩国高校のホームページによれば、明治13年創立とある。
たいへんな伝統校と考えてよい。
そんな高校の、元校長だった。

 が、郷里の美濃市で、平井孝一先生を知っている人は、ほとんどいなかった。
元高校の教師だったということを知っている人もいなかっただろう。
私の記憶にまちがいがなければ、そのとき平井孝一先生には、子どもはいなかった。
先に書いた集合住宅にも、妻と2人だけで、静かに……というより、ひっそりと暮らしていた。

 ……どうしてだろう?
平井孝一先生には、子どもはいなかったのだろうか。
ふと今、大きな疑念が私の心の中で、渦を巻き始めた。
どうしてだろう?

●平井孝一先生

 郷里の知人に電話をする。
その結果、平井孝一先生は、美濃市内の今廣酒造店の親類の人とわかった。
電話をすると、電話口の女性は、こう言った。
「平井孝一は、うちの親戚の者です」と。

私「昔、お世話になった、林という者です。平井先生の消息を聞きたくて電話しました」
女「はあ、ずいぶん前に亡くなりましたよ」
私「岩国高校で、校長をなさっておられた平井孝一先生です」
女「そうです。まちがいありません」
私「で、先生のことを調べ、原稿にしているのですが、……先生にはご家族の方がいらっしゃったのでしょうか」
女「いますよ。娘さんですが、今年、88歳になられますよ」と。

 平井孝一先生には、娘さんがいた。
私が知りあったころには、すでに39歳だったとうことになる。
現在は、隣町の関市に、住んでいるという。
よかった!

 娘さんが近くにいたということを聞いただけで、ポーッと心が暖かくなった。
ささやかだが、こうして今、平井孝一先生のことを、記録に残すことができる。

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●ジョルジュ・メリエス

 もし『ヒューゴの不思議な発明』という映画を見なかったら……。
私はここでジョルジュ・メリエスという人を、もう死ぬまで知ることはなかっただろう。
ただ部分的には、記憶に残っていないわけではない。
あのガラス張りのスタジオにしてもそうだ。
何かの記録映画で、それを見たことがある。
あの『月世界旅行』にしても、何度か見たことがある。

 ただ今回、『ヒューゴの不思議な発明』を見て、見方が180度、変わった。

 若いころ、その映画を見たときには、何というチャチな映画だろうと思った。
そう思った記憶が、映画の内容より、しっかりと残っている。
が、今は、ちがう。
当時の人たちは、100%、あの映画を見て、肝を抜かれたにちがいない。
驚き、笑ったにちがいない。
この私だって、小学3年生のころ、テレビなるものを見て、仰天した記憶がある。
テレビにはカーテンがつけられ、みな、正座してそれを見た。
祖父はこう言った。

「浩司、こちらから向こうが見えるということは、向こうからもこちらが見えるということだ」と。

 祖父は本気でそう信じていた。
だからカーテンをつけた。
正座した。
ついでに言えば、テレビの司会者などに向かって、本気であいさつをしていた。

いわんや、第一次大戦前のフランス。
当時の人の気持ちがよくわかる。
わかるだけに、「チャチ」という言葉は、吹き飛んでしまった。
『ヒューゴの不思議な発明』は、そういう点でも、すばらしい映画だった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ヒューゴの不思議な発明)


Hiroshi Hayashi+++++++March. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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