2009年10月14日水曜日

*Oct 14th E-Magazine

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   14日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの叱り方(How to give a good scolding to Children)

++++++++++++++++

子どもの叱り方については、たびたび
書いてきた。
本の中でも書いてきたし、雑誌の中でも
書いてきた。
HPの中でも書いてきた。

で、ここでは、その先について書いてみたい。

++++++++++++++++

●なぜ、叱り方が問題になるのか

 「子どもの叱り方がわからない」と悩んでいる親は、多い。
懇談会の席などでも、よく話題になる。
で、そのたびに私は、こう思う。
「どうしてそんなことが問題なるのか」と。

 で、それについて書く前に、こんなことがある。

20年ほど前に、私が書いた子育て格言集の中に、『子どもは親の芸術品』という
のがある。
親というのは、自分の子どもを、自分自身の芸術品のように考える傾向が強い。
つまり子どもというのは、自分の(作品)というわけである。
こんな失敗をしたことがある。

 ある日のこと。
ショッピングセンターの一角にあるレストランで、食事をしていたときのこと。
隣のテーブルに座った子ども(年齢は5歳くらい)が、自分の顔よりも大きな
ソフトクリームを食べていた。

 おとなにはふつうの量でも、子どもにはそうでない。
そこで思わず、私はこう言ってしまった。
「そんなにたくさん、食べないほうがいいよ」と。

 が、この言葉が、母親を激怒させた。
「いらんこと、言わんでください!」
「あなたの子じゃ、ないでしょ!」と。

 私はその場を、平謝りに謝り、何とかやり過ごしたが、以後、そうしたお節介は
しないことにしている。

●なぜ母親は、激怒したか

 なぜ、あの母親は、そのとき激怒したか?
私は親切心から、そうアドバイスしただけである。
当時、白砂糖の過剰摂取が、問題になり始めていた。
マウスの実験では、脳水腫を起こすことまでわかっていた。

 理由をあれこれ考えてみた。
が、結局は、母親と子どもの間に、(壁)がないことが理由であることに気がついた。
このことは溺愛児と呼ばれる子どもをみると、よくわかる。
(溺愛児についても、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)

 子どもを溺愛する親は多い。
とくに母親に多い。
私は勝手に「溺愛ママ」と呼んでいるが、溺愛ママの特徴のひとつに、親子の間に
壁がないことがあげられる。
密着度が高すぎて、親イコール子、子イコール親といった状態になる。
だからこのタイプの母親は、自分の子どもが批判されたり、けなされたりすると、
それに対して猛烈に反発する。
あたかも自分が批判されたり、けなされたかのように、激怒することも珍しくない。

 子どもどうしの喧嘩でも、中へ割って入ってきたりする。

 溺愛ママは別としても、日本人は、欧米人に比べて、親子の密着度が高い。
とくに母親と子どもの密着度が高い。
こうした日本人に対して、アメリカ人の親のばあい、「子どもは、神からの授かりもの」
という考え方をする。
つまり子どもから一歩退いて、子どもを見る。
そういう見方が、自然な形で身についている。

●親子の壁

 親子の間に壁がないから、(あるいは密着度が高いから)、親は一歩退いたところで、
自分の子どもを見ることができない。
そのため子どもを叱ることに、自ら、ある種の抵抗感を覚える。
「子どものできが悪いのは、私の責任」と。

 だから当然叱るべき場面になっても、自分でその責任をしょいこんでしまう。

 こうした意識が、「子どもの叱り方がわからない」「どう叱ればいいのか」という
問題に、つながっていく。

●では、どうすればよいか

 子どもの叱り方で悩んだら、まず、あなた自身が、自分の子どもをどう見ているかを
判断する。
先にも書いたように、密着度が高ければ高いほど、子どもを客観的に見ることができない。
それが(悩み)につながっている。
そういうケースは、たいへん、多い。

 さらにこの問題は、日本人独特の民族性とも、深くからんでいるため、解決は容易で
ない。
子どもを(自分のモノ)と考える。
1人の独立した人間というよりは、モノと考える。
少なくとも欧米人と比べると、その傾向は強い。
その上さらに、日本人のばあい、父親の存在感が薄い。
その分だけ、母親の影響力が強い。

 これらのことが、親子、とくに母子の密着度を高くする。
それが(叱り方)をむずかしくする。

 が、反対に、子どもから一歩退いてみたらどうだろうか。
子どもの見方が一変するのみならず、叱り方の問題は、自然に解決する。
できれば、自分の子どもであっても、1人の独立した人間として見る。
それができれば、あとは自然体。
そして親は、人生のよき先輩として、また子どものよき友として、子どもを
励まし、ほめ、ときには叱る。

●補記

 ついでに言うなら、(子どもを叱る)ためには、親側の方に、それなりの哲学
や倫理観がなければならない。
親が信号無視や駐車違反を平気でしながら、子どもに向かって、(叱る)は、ない。

 が、むずかしいことではない。
親は、常にルールを守る。
約束を守る。
ウソをつかない。

 この3つだけを、かたくなに守ればよい。
その積み重ねが、その親の人格を作る。
その人格がしっかりとしてくれば、親は、自然な形で、またそれほど考えることなく、
子どもを叱ることができるようになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子どもの叱り方 子供の叱り方 叱る方
法 はやし浩司 叱り方の基本 子供の叱り方について 子供をどう叱るか)

(追記)

 要するに、自分が、叱られるべきようなことを多々しておきながら、子どもを
叱ろうというのは、ムシがよすぎるということ。
先にも書いたように、信号無視、駐車違反、運転中の携帯電話を平気でしておきながら、
子どもに向かって、「約束を守りなさい」「ルールを守りなさい」は、ないということ。

 私の知人(女性、現在60歳くらい)に、こんな人がいる。
口がうまく、ウソばかりついている。
一事が万事、万事が一事。
ひとつのウソがバレそうになると、つぎのウソで塗りかためる。
あるいはバレると、とぼける。
その場だけの言い逃れをして、あとそれを既成事実化してしまう。

 結果、どうなったかだが、家庭教育はメチャメチャ。
2人の息子がいたが、2人とも、よき家庭づくりに失敗し、今はどこに住んでいる
かさえもわからないという。

 その女性だが、私が知るかぎり、子どもたちがまだ小さいころは、ガミガミ言って
ばかりいた。
つまり叱ってばかりいた。
が、2人の息子の方は、そういう母親を裏から見抜いていた。
ユングのシャドウ論を借りるまでもない。
その結果が、「今」ということになる。

 親であることには、それなりのきびしさが伴う。
その(きびしさ)を乗り越えるのも、親の務めということになる。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ショッピングセンターで

 ワイフと散歩をしながら、ショッピングセンターへ行ってきた。
その電気店に、ランニングマシン(ルームランナー)が置いてあった。
試してみた。
時間、もしくは距離をインプットすると、それを表示しながら、床が回転する。
それに合わせて、歩いたり、ランニングしたりする。

 値段は、6万円弱。
買うか、買わないか、迷った。
このところ紫外線を避けるため、散歩は、日没後と決めている。
しかしそのマシンがあれば、いつでも運動ができる。

 で、ふと見ると、そのマシンの前に、こんな宣伝文句が張ってあった。
「リハビリに最適」と。

 それを読んで、私はこう考えた。
「リハビリが必要になったら買った方が得なのか、それともそうならないよう、
予防のために買った方が得なのか」と。

 たとえば事故や病気などで、リハビリが必要になったとする。
そのときこうしたマシンは、役に立つ。
それはわかる。
しかし同時に、同じマシンを使えば、健康を増進でき、その類の病気になるのを
未然に防ぐことができるかもしれない。

 だから「どちらが得か」と。

 ・・・そのときのこと。
私の頭の中に、今まで考えたことがないことが、思い浮かんだ。
(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)というのが、それ。

 「リハビリに最適」という文句は、(そこに見える危機)を言ったもの。
しかし私だっていつ、そのリハビリを必要とする体になるかもしれない。
そうしたマシンを否応なしに、買わなければならない立場になるかもしれない。
今はかろうじて健康だから、それ、つまり(リハビリをするという危機)が見えないだけ。
つまりそれが、(そこに見えない危機)ということになる。

 少し長い前置きになったが、(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)に
ついて書いてみたい。
うまく自分の考えをまとめられるかどうか、自信はないが、書いてみる。

●そこに見える危機

+++++++++++++++++

何か不幸なできごとが起きたとする。
事故、病気、災難、何でもよい。
すると人は、そこを起点にものを考え始める。
しかしその不幸なできごとが、本来なら
起こったであろう、さらに大きくて、
不幸なできごとを防いでくれたかも
しれない。

禅問答のような話だが、未来はいつも、
その起点を基準に、プラスの方向か、
マイナスの方向のどちらかに向かう。
確率論的には、50%vs50%とみる。
つまり「フィフティ・フィフティ」。

たとえばあなたの息子が、学校へでかける
とき、玄関先で足をすべらせ、転倒したとする。
足の骨を骨折したとする。
するとあなたは息子の不注意をなじり、
学校へ行けなくなったことを、叱るかも
しれない。

しかしもしそのとき、いつものように
学校へでかけていたら、途中で、交通事故に
あって、障害が残るような大きなけがを
していたかもしれない。
そう考えれば、玄関先で転倒したことは、
むしろ幸運なできごとだったということになる。

するとあなたは、こう反論するかもしれない。
交通事故にあう確率は、ぐんと小さい。
そんなありえない話を前提に、玄関先で
転倒したことを幸運だったと思えと言われても、
それはできない、と。

++++++++++++++++++++

●そこに見える危機

 私たちは常に、(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)の間で生きている。
(そこに見える危機)というのは、たいていはすでに起きた危機と考えてよい。
先の例で言うなら、息子が玄関先で転倒したような事故をいう。

 が、もしそのとき、息子がいつもの時刻どおりに目をさましていたら、その事故は
起きなかったかもしれない。
たまたまその朝は、寝坊をしてしまった。
そのままでは遅刻してしまう。
そこで息子はあわてて玄関を飛び出した。
転倒した。

 つまりすでに事故は、息子が寝坊をした段階で、(そこに見える危機)に向かって、
まっしぐらに進んでいたということになる。
が、そのときは、それがわからない。
つまりまだ(そこに見えない危機)だったということになる。

●健康論

 このことは、健康論についても言える。
つぎのような例は、多い。

 胃の調子が悪いと思って、たまたま病院で検査をしてもらったら、まったく
別のところに悪性腫瘍が見つかった、など。
このばあいは、胃の調子が悪いというのは、(そこに見える危機)ということになる。
が、そのときは、別のところに悪性腫瘍があるなどとは思っていない。
それが(そこに見えない危機)ということになる。

 もっともこのばあいも、いつも(そこに見えない危機)があるわけではない。
たいていは胃薬を処方してもらい、それで胃の調子は、もとにもどる。
悪性腫瘍が見つかる・・・というより、悪性腫瘍がある確率は、ぐんと低い。
つまり(そこに見える危機)の向こうに、いつも(そこに見えない危機)が
潜んでいるわけではない。

●賢人と愚人

 (そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)。
賢者は、いつも(そこに見える危機)の向こうに、(そこに見えない危機)があること
を知る。
愚者は、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になってから、あわてふた
めく。

 たとえば「今」というこのとき、あなたの身のまわりを静かに観察してみよう。
一見、平和でなにごともなく過ぎていく毎日だが、よくよく考えれば、身のまわりは、
(そこに見えない危機)だらけということがわかるはず。
それがわかると、(今の状態)が、きわめて恵まれた状況であることがわかってくる。

 もう少し具体的に考えてみよう。

●二番底、三番底

 子どもが非行化するときというのは、きわめて短時間でそうなる。
たとえばある夜、あなたの娘が、門限を破って、夜遅く帰宅したとする。
それが(そこに見える危機)ということになる。

 そこであなたは娘を叱る。
「二度と門限を破ってはいけない」と強く、諭(さと)す。
が、その向こうには、(そこに見えない危機)が待ち受けている。
つぎにあなたの娘は、門限を破ったとき、叱られるのがいやで、そのまま外泊
してしまうかもしれない。
それが(そこに見えない危機)ということになる。

 つまりこうしてあなたの娘は、あっという間に、二番底、三番底へと落ちていく。
(外泊)→(連泊)→(家出)と。
さらに進んで、異性と同棲、子どもの出産と進むかもしれない。

●では、どうするか

 大切なことは、いつも(そこに見える危機)を、受け入れていくということ。
受け入れてしまうと、(そこに見えない危機)まで、見えてくるようになる。
冒頭の話について言えば、こうなる。

 玄関先で転倒した子どもについて、「あわてて飛びだしたから、転倒した」と。
そしてなぜあわてて飛びだしたかについては、「寝坊をしたから」と。
もし同じような状態で、道路を横切っていたら、交通事故にあっていたかもしれない。
つまりそのとき、(そこに見えない危機)が、見えてくる。

 門限を破ったあなたの娘についても、そうだ。
たぶんあなたは、「うちの娘にかぎって」とか、「まさか」と思っているかもしれない。
しかし対処の仕方によっては、最終的には、「家出」ということにもなりかねない。
つまりそこまで、(そこに見えない危機)が見えてくる。

●ランニングマシン

 リハビリを必要とするようになってから買うよりも、それ以前から、つまりそうした
病気になる前から、予防のために買う方が、得。
そのほうが長く使える。
それに遅かれ早かれ、そういう時期は、やってくる。
70歳かもしれない。
80歳かもしれない。

 やがて外の道路を歩くのも、つらくなる。
それがここでいう(そこに見えない危機)ということになる。
が、私は、ショッピングセンターで、ランニングマシンを見たとき、(そこに見えない
危機)を、見ることができた。
つまりこの段階で、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になった。

 家に帰ってきてから、私はワイフにこう言った。
「あのマシンを買おう」「どうせ必要になるから」と。

 で、ひとつの教訓を得た。
それが先に書いた教訓である。

賢者は、いつも(そこに見える危機)の向こうに、(そこに見えない危機)があること
を知る。
愚者は、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になってから、あわてふた
めく。

●終わりに

 何ともまとまりのない、つまり焦点のボケたエッセーになってしまった。
要するに、私たちは、日常的に、(そこに見えない危機)に囲まれているということ。
そうした危機が、そこにあることを忘れてはいけないということ。
その上で、今、(そこに見える危機)を、見直してみるということ。
あるいは(そこに見えない危機)を基準に、現在の(そこに見える危機)を考える。
賢く生きるための、これはひとつの原則ではないだろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司

●危機感vs道徳の完成度

+++++++++++++++

巨大な危機が人類というより、
地球全体を襲いつつある。
そうした危機に直面したとき、
それがあまりにも巨大すぎるためか、
危機感そのものがわいてこない。

どうしてだろう?

+++++++++++++++

●海面上昇

まず、つぎの毎日JPのニュースを読んでみてほしい。
この記事を読んで、あなたはそこにある危機を、どの程度強く感じ取ることが
できるだろうか。

『WWF:今世紀末、1メートル超の海面上昇 北極圏、温暖化で……報告書

北極圏での温暖化の影響で、今世紀末には1メートルを超える海面上昇が起こるとの報告
書を、環境保護団体の世界自然保護基金(WWF)がまとめた。「気候変動に関する政府間
パネル(IPCC)」が07年に予測した18~59センチの海面上昇を大きく上回る。グ
リーンランドなどの氷床や各地の氷河の減少が、世界的な影響を及ぼすと分析している。

 報告書によると、北極圏の気温は過去20年で、世界平均の2倍のペースで上昇し、氷
床や氷河の消失を招いた。また、永久凍土が溶けることにより温室効果ガスのメタンの放
出に拍車がかかり、温暖化を促進させているとしている』(09年9月13日)。

 要点をまとめると、こうなる。

(1)IPCCは、今世紀末(2100年ごろ)には、海面上昇は、18~59センチと
予想していた。

(2)しかしWWFがまとめた報告書によれば、1メートル近くになるという。

(3)北極圏の気温上昇は、世界平均の2倍のペースで上昇しつづけている、と。

 韓国の海運業者(?)は、さっそく北極海経由の韓国→ドイツ航路を開始した。
インド洋→アフリカ経由の航路より、はるかに短時間で物資を輸送できる。

●危機感の喪失

 もし海面が1メートルも上昇すれば、東京都全体が水没することになる。
この浜松市にしても、中心街の大半が、水没することになる。
「北極や南極の氷が溶けてしまえば、海面上昇は止まる」と考えている人も
いるかもしれない。
しかし海面上昇は、その後もつづく。
気温上昇によって、海水が膨張するからである。
海面上昇は、氷が溶けることによってではなく、海水の膨張によって起こる。

 また「1メートルくらいなら、何とかなる」と考えてはいけない。
下水管などの生活インフラは、そのまま役に立たなくなってしまう。
台風などの高潮時には、さらに大きな被害が出るようになる。
それに、ここが重要だが、仮に予定通り排出ガスが規制されたとしても、
それで気温上昇(地球温暖化)が止まるわけではない。
仮に今世紀末は、何とかなっても、2200年には、どうなっているか
わからない。

 不測の事態が、さらに不測の事態を引き起こし、二次曲線的に気温が上昇
するということも考えられている。
もしそうなれば、この地球の気温は、100年(たった100年だぞ!)を
待たずして、400度C近くにまで上昇するかもしれない。
もしそうなれば、「地球温暖化」ではなく、「地球火星化」ということになる。

●能力的欠陥

 怖ろしいことを書いた。
読者のみなさんを不安にさせたかもしれない。
しかし私がここで書きたいのは、そのとき、ほんの少しでよいから、あなた自身の
心の中をのぞいてみてほしいということ。
あなたは(そこにある危機)を、どの程度深刻に感ずることができただろうか。

 が、書いている私でさえ、ある種の不安感は覚えるが、そこまで。
それ以上の深刻さが、生まれてこない。
これはどうしたことなのか?
それとも私にだけ起こる、おかしな現象なのか?
深刻になる前に、「どうしようもない」とあきらめてしまうせいなのか?
 
 つまり人は、そこにある小さな危機には、敏感に反応する。
しかし遠くにある巨大な危機に対しては、鈍感に反応する。
もし(危機の大きさ)(危機への距離感)によって、危機感が変化するとするなら、
それは人の、どういう能力的な欠陥によるものなのか。
またその能力的欠陥を克服するためには、どうしたらよいのか。

 つまりこのあたりの能力的欠陥を克服しないかぎり、地球温暖化の問題は、
根本的には解決しない。
「北極海の航路が使えるようになった」と喜んでいる海運業者を、例にあげる
までもない。

 さらに言えば、こうした問題に取り組んでいる研究者や、政府関係者にしても、
「形」だけの心配で終わってしまう可能性もある。
「立場上、地球温暖化を問題にしているだけ」と。

●触角

 こう考えていくと、危機感の問題は、つまるところその人のもつ触角の長さに
よって決まるということになる。
触角が長ければ長いほど、より遠くにある危機を、自分のものとして実感できる。
そうでなければ、そうでない。

 では、触角を長くするためには、どうしたらよいのか。
その前に、触角は長い方がよいのか、それとも短い方がよいのかという問題もある。
しかし道徳論でも、より視野の広い人ほど、道徳の完成度の高い人とみる(コールバーグ)。

 それについては、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++

【子どもの道徳・道徳の完成度】

●地球温暖化

+++++++++++++

子どもたちほど、地球温暖化の
問題を真剣に考えているという
のは、興味深い。

他方、おとなほど、この問題に
関して言えば、無責任(?)。

「何とかなるさ」という言い方をする
おとな。「だれかが何とかしてくれ
る」とか、「私ひとりが、がんばって
も、どうしようもない」とか。

そんなふうに考えているおとなは、
多い。

+++++++++++++

 道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)。

 いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分がその立
場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動できるかどうか
で、その人の道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点とする
なら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、その人の道徳的
完成度は決まる。

 たとえばひとつの例で考えてみよう。

 あなたはショッピングセンターで働いている。そのとき1人の男性が、万引きをしたと
する。男性は品物をカートではなく、自分のポケットに入れた。あなたはそれを目撃した。

 そこであなたはその男性がレジを通さないで外へ出たのを見計らって、その男性に声を
かけた。が、あなたは驚いた。他人だと思っていたが、その男性は、あなたの叔父だった。

 こういうケースのばあい、あなたなら、どう判断し、どう行動するだろうか。「叔父だか
ら、そのまま見過ごす」という意見もあるだろう。反対に、「いくら叔父でも、不正は不正
と判断して、事務所までいっしょに来てもらう」という意見もあるだろう。

 つまりここであなたの公正さが、試される。「叔父だから、見過ごす」という人は、それ
だけ道徳の完成度が低い人ということになる。

 またこんな例で考えてみよう。

 今、地球温暖化が問題になっている。その地球温暖化の問題について、いろいろな考え
方がある。コールバークが考えた、「道徳的発達段階」を参考に、考え方をまとめてみた。

(第1段階)……自分だけが助かればばいいとか、自分に被害が及ばなければ、それでい
いと考える。被害が及んだときには、自分は、まっさきに逃げる。

(第2段階)……仕事とか、何か報酬を得られるときだけ、この問題を考える。またその
ときだけ、それらしい意見を発表したりする。

(第3段階)……他人の目を意識し、そういう問題にかかわっていることで、自分の立場
をつくったりする。自分に尊敬の念を集めようとする。

(第4段階)……みなでこの問題を考えることが重要と考え、この問題について、みなで
考えたり、行動しようとしたりする。

(第5段階)……みなの安全と幸福を最優先に考え、そのために犠牲的になって活動する
ことを、いとわない。日夜、そのための活動を繰りかえす。

(第6段階)……地球的規模、宇宙的規模で、この問題を考える。さらに、人類のみなら
ず生物全体のことを念頭において、この問題を考え、その考えに沿って、行動する。

 この段階論は、子どもたちの意見を聞いていると、よくわかる。「ぼくには関係ない」と
逃げてしまう子どももいれば、とたん、深刻な顔つきになる子どももいる。さらに興味深
いことは、幼少の子どもほど、真剣にこの問題を考えるということ。

 子どもも中学生や高校生になると、「何とかなる」「だれかが何とかしてくれる」という
意見が目立つようになる。つまり道徳の完成度というのは、年齢とかならずしも比例しな
いということ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子供の道徳 道徳の完成度 道徳 完成度 はやし浩司 道徳の完成度 コールバーク 
道徳完成度 完成度段階説)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●道徳の完成度(2)

+++++++++++++++++++

道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、
(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)という。

 いかに公正であるか……相手が知人である
とか友人であるとか、あるいは自分がその立場
にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、
公正に判断して行動できるかどうかで、その人の
道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児
が見せる原始的な自己中心性を原点とするなら、
いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的
であるかによって、その人の道徳的完成度は決
まる。

+++++++++++++++++++

 この2日間、「道徳の完成度」について、考えてきた。「言うは易(やす)し」とは、よ
く言う。しかし実際に、どうすれば自己の道徳を完成させるかということになると、これ
はまったく別の問題と考えてよい。

 たとえば公正性についても、そのつど心の中で揺れ動く。情に動かされる。相手によっ
て、白を黒と言ってみせたり、黒を白と言ってみせたりする。しかしそれでは、とても公
正性のある人間とは言えない。

 またその視野の広さについても、ふと油断すると、身近なささいな問題で、思い悩んだ
り、自分を取り乱したりする。天下国家を論じながら、他方で、近隣の人たちとのトラブ
ルで、醜態をさらけだしたりする。

 コールバークの道徳論を、もう一度、おさらいしてみよう。

(1)「時、場所、そして人のいかんにかかわらず、公正に適応されるという原則」
(2)「個人的な欲求や好みを超えて、個人の行為を支配する能力」(引用文献:「発達心理
学」ナツメ社)。

 そこで重要なことは、日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要、ということになる。常
に公正さを保ち、常に視野を広くもつということ。が、それがむずかしい。ときとして問
題は、向こうから飛びこんでくる。こんな話を聞いた。

 よくある嫁―姑(しゅうとめ)戦争だが、嫁の武器は、子ども。「孫がかわいい」「孫に
会いたい」という姑の心を逆手にとって、その嫁は、姑を自分のよいように操っていた。
具体的には、姑のもつ財産をねらっていた。

 いつしか姑が、息子夫婦の生活費を援助するようになっていた。嫁の夫(=姑の息子)
の給料だけでは、生活が苦しかった。質素に生活すれば、できなくはなかったが、嫁には、
それができなかった。嫁は、派手好きだった。

 そのうち、姑は、孫(=嫁の息子、娘)の学費、教育費まで負担するようになった。し
かし土地などの財産はともかくも、現金となると、いつまでもつづくわけではない。そこ
で姑が、支出を断り始めた。「お金がつづかない」とこぼした。とたん、嫁は、姑と息子と
娘(=姑の孫)が会うのを禁止した。

息子(小4)と娘(小1)は、「おばあちゃんに会いたい」と言った。
嫁は、「会ってはだめ」「電話をしてもだめ」と、自分の子どもにきつく言った。
姑は「孫たちに会いたいから、連れてきてほしい」と、嫁に懇願した。
嫁は間接的ながら、「お金がなかったら、土地を売ってお金をつくってほしい」と迫った。

 ……という話を書くのが、ここでの目的ではない。こういう話は、あまりにも低レベル
というか、あさましい。できるなら、こういう話は聞きたくない。話題にしたくもない。
が、現実の世界では、こうした問題が、つぎからつぎへと起きてくる。いくら道徳的に高
邁(こうまい)でいようとしても、ふと気がつくと、こうした問題のウズの中に巻き込ま
れてしまう。

 言いかえると、道徳の問題は、頭の中だけで論じても、意味はないということ。この私
だって、偉そうなことなら、いくらでも言える。それらしい顔をして、それらしい言葉を
口にしていれば、それでよい。それなりの道徳家に見える。

 しかし実際には、中身はガタガタ。私はその嫁とはちがうと思いたいが、それほどちが
わない。そこで繰りかえすが、「日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要」ということにな
る。

 私たちは常に試される。この瞬間においても、またつぎの瞬間においても、だ。何か大
きな問題が起きれば、なおさら。そういうときこそ、日々の鍛錬が、試される。つまりそ
の人の道徳性は、そういう形で、昇華していくしかない。

(道徳性について、付記)

 高邁な道徳性をもったからといって、どうなのか……という問題が残る。たとえばこん
な例で考えてみよう。最近、実際、あった事例である。

 あなたは所轄官庁の担当部長である。今度、遠縁にあたる親類の1人が、介護施設を開
設した。あなたは自分の地位を利用して、その親類に、多額の補助金を交付した。その額、
数億円以上。

 そのあなたが、ある日、その親類から、高級車の提供をもちかけられた。別荘の提供も
もちかけられた。飲食して帰ろうとすると、みやげを渡された。みやげの中には、現金数
百万円が入っていた。
(お気づきの人もいるかと思うが、これは実際にあった事件である。)

 こういうケースのばあい、あなたならどう判断し、どう行動するだろうか?

 「私はそういう不正なことは、しません」と、それを断るだろうか。その勇気はあるだ
ろうか。また断ったところで、何か得るものは、あるだろうか。

 私はそういう場に立たされたことがないので、ここでは何とも言えない。しかし私なら、
かなり迷うと思う。今の私なら、なおさらそうだ。いまだに道路にサイフが落ちているの
を見かけただけで、迷う。

不運にも(?)、この事件は発覚し、マスコミなどによって報道されるところとなった。
しかしこうした事例は、小さなものまで含めると、その世界では、日常茶飯事。それこ
そ、どこでも起きている。

 つまり道徳性の高さで得られるものは、何かということ。それがこの世界では、たいへ
んわかりにくくなっている。へたをすれば、「正直者がバカをみる」ということにもなりか
ねない。

 ところで、少し前、中央教育審議会は、道徳の教科化を見送ることにしたという。当然
である。
 道徳などというものは、(上)から教えて、教えられるものではない。だいたい道徳を教
える、長の長ですら、あの程度の人物。公平性、ゼロ、普遍性、ゼロ。どうしてそんな人
物が、道徳を口にすることができるのか。

 「学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会は、18日、道徳の授業を教科と
しない方針を固めた。政府の教育再生会議は、規範意識の向上を目的に、第二次報告で道
徳を『徳育』としたうえで、教科化するよう求めていた。もともと中教審の内部では、教
科化に慎重な意見も強かったが、安倍首相の辞任後、『教育再生』路線との距離の置き方も、
明確になった格好だ」(中日新聞)とある。

 わかりやすく言えば、安倍総理大臣が辞任したこともあり、安倍総理大臣が看板にして
いた徳育教育(?)が、腰砕けしたということ。

 閣僚による数々の不祥事。加えて、安倍総理自身も、3億円の脱税問題がもちあがって
きている。「何が、道徳か!」、ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
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●危機感について

 触角の長さというのは、つまるところ、その人の道徳性の完成度と関係がある
ということになる(コールバーグ)。

 道徳性の完成度の高い人ほど、触角が長くなり、遠くにある危機をも、そこに
ある危機として認識できる。
そうでなければ、そうでない。
日常のささいな問題に心を奪われ、その先を見ることができない。
加齢とともに、さらにこの傾向は強くなり、やがてそこらのオジチャン、オバチャンへと
変身していく。

 そのひとつのバロメーターが、地球温暖化の問題ということになる。
私たちがこの問題に対して、いかに深く危機感をもちうるかによって、その一方で
自分の道徳の完成度を知ることができる。

 私のように、「それがあまりにも巨大すぎるためか、危機感そのものがわいてこない」
というようであれば、道徳の完成度はまだまだ低いということになる。

(ついでに、補記)

●実家からの解放

 話はぐんと私的になるが、私は60年を経て、やっと「実家」から解放された。
実に重苦しい、60年間だった。
実家を売り飛ばし、家財のほとんどを、近所の人たちに無料で配った。
そのあとのこと。
とたん、毎朝見る、夢の内容まで変わってしまった。
これには驚いた。
それをワイフに話すと、ワイフも驚いた。

 私のこうした行為に対して、中には不満に思っている人もいるらしい。
すでにそういう話が、漏れ伝わってきている。
が、私が今感じている爽快感は、何物にも、替えがたい。

 で、私はそれまで、(そこにある現実)に、毎日のように惑わされた。
心は地球、人類、教育へと、自由に駆け回るのだが、ふと気がつくと、そこに(実家)
がある。
あまりにも生々しく、毒々しい。
いくら自分では高邁(こうまい)であろうとしても、ふと油断すると、そこにある
(現実)に振り回されてしまう。
あの夏目漱石も、同じようなギャップに悩んだ。
小説『こゝろ』(こころ)が、それである。

 最終的には、『こゝろ』の中の先生は、友人Kの自殺の罪悪感を克服することが
できず、明治天皇の崩御、乃木希典の殉死を契機に、自殺を決行する。

 もちろん私は自殺などしないが、(実家)から解放されてはじめて、私の人生を
私のものにすることができた。
それはあまりにも生々しく、毒々しい自分との決別できた瞬間でもあった。

 実家を、超安値の、破格価格で売り飛ばした。
が、価格など問題ではない。
私はそうすることで、実家そのものを、爆破したかのような爽快感を味わった。
事実、その翌朝、死んだ実兄が夢の中に現れた。
実兄は、私と腕を組みながら、うれしそうに笑っていた。
で、私が、「準ちゃん(=兄)、仇(かたき)は取ってやったぞ」と言うと、
実兄は、さらにうれしそうに笑った。

 夢は夢だが、その夢が、私の深層心理にあったすべてを表現している。

●触角を長くするために

 触角を長くするためには、いつも心を遠大な、宇宙の果てに置く。
そこにあまりにも生々しく、毒々しい世界があるなら、できるだけ早く、決別する。
自分の心から切り離す。

 同時に2つの世界を経験すると、それこそ魂を切り裂かれるような苦痛を覚える。
自分の人格がバラバラになっていくように感じることさえある。
そうでなくても、おかしな緊張感が、じわじわと精神をむしばむ。
これは精神の健康にとっても、よくない。
私のばあいは、実家のことが頭の中を横切るたびに、情緒そのものが不安定になった。
ワイフに八つ当たりしたとことも、多い。

 道徳の完成度を論ずるときの、ひとつの参考になれば、うれしい。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●9月13日

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ぽっかりとあいた、日曜日。
久しぶりの休日。
だれに会うという約束もない。
とくに予定もない。

昨日は、ワイフと散歩中、突然の
大雨に見舞われた。
そのため近くにあったレストランで、
雨宿り。
私はジュースを3杯も飲んだ。
ワイフは、コーヒーと紅茶を2杯も飲んだ。

久々の雨である。
私の記憶によれば、2か月ぶりの雨?
芝生の種をまいてからの、はじめての雨?

これから先、1日、1日と
秋らしくなっていく。

++++++++++++++++

●新しいHP

 現在、新しいHPの開設を考えている。
カラフルで、楽しいものを考えている。
その構想を頭の中で練っているだけで、楽しい。

 そうそう昨日、Twitterに登録してみた。
YOU STREAMも試してみた。
FACEBOOKも試してみた。
で、今度は、Twitter。

 今のところ、残念ながら、それがどうしておもしろいのか、よくわからない。
現在Twitterを楽しんでいる人は、私をフォローしてみてほしい。


●携帯電話

 Twitterのことを書いたので、携帯電話についても書いておかねばならない。
現在、多くの人が、携帯電話でHPを見たり、インターネットを楽しんでいる。
小説まで読んでいる人もいるという(G県のAさん)。

 私も携帯端末機をもっているが、使うのは、旅行のときだけ。
それをふつうのパソコンにつなげば、モデムとしても使用できる。
やや不便だが、今のところ、それで満足している。

 が、話を聞いていると、結構、おもしろそう。
小さなUSB端末をミニパソコンに装着すると、どこでもインターネットが
楽しめるようになるという。
「やってみたい」という思いは強いが、手を広げすぎるのもよくない。
そのうち収拾がつかなくなる。
(すでに今、収拾がつかなくなってきているが……。)


●WINDOW7が、待ち遠しい

 10月下旬に、WINDOW7が、発売になる。
それに合わせて、パソコンメーカー各社から、新製品が発売になる。
楽しみ。

 しかし……。
VISTAが発売になったとき、当時としては、最先端をいくパソコンを購入した。
が、今では、ノートパソコンでも、その程度の能力はもっている。
2、3週間前に買った、T社のノートパソコンにしても、そうだ。
がっかりしたというより、この世界の進歩の速さに驚く。

 私の物欲エネルギーは、そういうわけで爆発寸前。

(1)WINDOW7搭載、64ビット最先端パソコン。
(2)カラーレザープリンター。
(3)24~5インチクラスの、大型モニター。

 この3つは、どうしてもほしい。
(現在、ワイフをあれこれと説得中!)


●近況

 今朝、体重計に乗ってみたら、59・8キロ。
よかった!
(5日前には、62・5キロだった。)

で、昨夜、床に就く前に、猛烈な空腹感を覚えた。
視床下部にある血糖値センサーが、血糖値の低下を感知し、ドーパミンを
大量に放出した。
それが猛烈な空腹感を引き起こした。

さっそくワイフが、「カップヌードルでも食べたら?」と、私を誘惑。
が、それを口にしたら、おしまい。
またまたリバウンド。
「脳みそにだまされないぞ」と自分に言って聞かせて、歯を磨いた。
歯を磨いてしまえば、何も食べられない。
2度も歯を磨くのは、めんどうなこと。
だからそういうときは、先に、歯を磨いてしまう。

 窓の外には、水色の空が広がっている。
白い筋雲が美しい。
朝食のあと、自転車で、佐鳴湖を一周してみよう。

 ……ということで、9月13日も、始まった。
全世界のみなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●価値観の転換(ライフサイクル論)


+++++++++++++++++


(したいこと)から(すべきこと)へ。
中年期から老年期の転換期における、
最大のテーマが、これ。
ユングは、満40歳前後を、『人生の
正午』と呼んだ。
この年齢を過ぎると、その人の人生は、
円熟期から、統合期へと向かう。
ユングは、『自己実現の過程』と位置
づけている。


それまでの自分を反省し、では自分は
どうあるべきかを模索する。
事実、満40歳を過ぎるころになると、
(したいこと)をしても、そこにある種の
虚しさを覚えるようになる。
「これではいけない」という思いが、より強く
心をふさぐようになる。
同時に老後への不安が増大し、死の影を
直接、肌で感ずるようになる。


青春時代に、「私とは何か」を模索するように、
中年期から老年期への過渡期においては、
「私の使命とは何か」を模索するようになる。
自分の命の位置づけといってもよい。
そして(自分のすべきこと)を発見し、
それに(自分)を一致させていく。
これを「統合性の確立」という。


この統合性の確立に失敗すると、老年期は
あわれで、みじめなものとなる。
死の待合室にいながら、そこを待合室とも
気づかず、悶々と、いつ晴れるともない
心の霧の中で、日々を過ごす。


ただ、中年期、老年期、その間の過渡期に
しても、年齢には個人差がある。
レヴィンソンは、『ライフサイクル論』の
中で、つぎのように区分している
(「ライフサイクルの心理学」講談社)。


45歳~60歳(中年期)
60歳~65歳(過渡期)
65歳~   (老年期)


日本人のばあい、「自分は老人である」と自覚
する年齢は、満75歳前後と言われている。
また満60歳という年齢は、日本では、
定年退職の年齢と重なる。
「退職」と同時に発生する喪失感には、
相当なものがある。
そうした喪失感とも闘わねばならない。


そういう点では、こうした数字には、
あまり意味はない。
あくまでも(あなた)という個人に
あてはめて、ライフサイクルを考える。
が、あえて自分を老人と自覚する必要はないに
しても、統合性への準備は、できるだけ
早い方がよい。
満40歳(人生の正午)から始めるのが
よいとはいうものの、何も40歳にかぎる
ことはない。


恩師のTK先生は、私がやっと30歳を過ぎた
ころ、こう言った。
「林君、もうそろそろライフワークを
始めなさい」と。


「ライフワーク」というのは、自分の死後、
これが(私)と言えるような業績をいう。
「一生の仕事」という意味ではない。


で、私が「先生、まだぼくは30歳になった
ばかりですよ」と反論すると、TK先生は、
「それでも遅いくらいです」と。


で、私はもうすぐ満62歳になる。
「60歳からの人生は、もうけもの」と
考えていたので、2年、もうけたことになる。
が、この2年間にしても、(何かをやりとげた)
という実感が、ほとんど、ない。
知恵や知識にしても、ザルで水をすくうように、
脳みその中から、外へこぼれ落ちていく。
無数の本を読んだはずなのに、それが脳の
中に残っていない。
残っていないばかりか、少し油断すると、
くだらない痴話話に巻き込まれて、
心を無意味に煩(わずら)わす。
統合性の確立など、いまだにその片鱗にさえ
たどりつけない。


今にして、統合性の確立が、いかにむずかしい
ものかを、思い知らされている。


そこで改めて、自分に問う。
「私がすべきことは、何なのか」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ユング 人生の正午 ライフサイクル論 統合性の確立 はやし浩司
老年期の心理


+++++++++++++++++


●計画


 満65歳になったら、反カルト教団活動を再開するつもり。
私がもっている(もうひとつの顔)を、公表する。
そして宗教に名を借りて、人の心をもてあそんでいるような教団を、
片っ端から攻撃してやる。
この20年間、静かにしてきたが、もう遠慮はしない。
それまであと3年。
今は、静かにその準備を重ねている。


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