2009年10月25日日曜日

*A Japanese film "Unsinkable the Sun"

●パソコン

パソコンの世界では、つぎつぎと新製品が発売になる。
そのたびに、機能は向上し、デザインもよくなる。
そのたびに、新しいのが欲しくなる。
 
こういうのをビョーキという。
ドーパミンの分泌がさかんになる。
線条体で条件反射が起きる。
自分でもそれがよくわかっている。
わかっているが、それがなくなったら、私もおしまい。
つまり「欲しい」と思ううちが、花。

たとえばこの2か月ほど、政治に関して、興味をなくしてしまった。
どうでもよくなってしまった。
とくに先の衆議院議員選挙以来、気が抜けてしまった。
が、これではいけない。

……というより、あちこちのサイトを見ていたら、私の原稿が、
いくつかの政治団体で、紹介されているのを知った。
羽田空港問題、成田空港問題について書いた原稿も、それぞれのサイトで、
紹介されているのを知った。
(ついでに旅行記も、紹介されていた。)

それがよい刺激になった。
久しぶりに、政治問題を考えたくなった。

で、最近の話題は、何と言っても、鳩山首相の「東アジア共同体構想」。
ASEANの各国を、日本のワクの中に取り込もうという構想である。
しかしこんな構想は、最初から、うまくいくはずがない。
失敗するに決まっている。

だいたい、「ASEANプラス3」って、何?
「3」というのは、「日本、中国、韓国」の3か国をいう。
3か国といっても、呉越同舟というか、水と油と砂が混ざっているようなもの。
中国を連れていったら、まとまる話もまとまらなくなる。
もともとASEANというのは、中国の脅威に対抗して始まったもの。
韓国だって、どんな下心をもっているか、わかったものではない。

……とまあ、政治問題について書くときは、かなりの(怒りのエネルギー)を
要する。
そのエネルギーがないと、書いていても、つづかない。
途中で、どうでもよくなってしまう。

しかしこのところ、気力が弱くなった。
(怒りのエネルギー)が、あまりわいてこない。
平和というか、平穏というか……。
たとえて言うなら、おいしいごちそうを、腹いっぱい食べたあとのような感じ。
そこで、あえて(怒りのエネルギー)を奮い立たせる。

カーッ!

あのね、鳩山首相。
アメリカを日本から離反させるのは、まずい。

なぜ、この時期に、脱・アメリカ追従外交なの?
一方、どうして今、日本は中国に擦り寄らなければならないの?
日本は、自由主義貿易陣営の一員ではなかったの?
いろいろと問題はあるが、だからといって今、社会主義体制を求めているわけではない。
それになぜ、鳩山首相は、こうも急ぐの?
こうした日本の命運を左右するような外交問題は、じっくりと基盤を固めてからする。
それが常識。
政権を奪ったとたん、「東アジア共同体構想」は、ない。

今、鳩山首相、あなたがすべきことは、官僚政治をつぶすこと。
やりたい放題のことをしている官僚たちに、ストップをかけること。
民主主義を、国民の手に戻すこと。
その本命を忘れて、大きなアドバルーンばかりあげて、どうするの?
こんな稚拙な外交を繰り返していると、自民党が喜ぶだけ。
ついでに中国や韓国が喜ぶだけ。
K国だって、喜ぶ。

怒る前に、何だか、日本の政治が心配になってきた。
もう少しすると、あのASO前首相が、「それ、見たことか!」と、声をあげ始めるかも。


●10月25日の終わりに……

いろいろ考える。

(どう生きるか?)vs(どう死ぬか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(まだがんばれる)vs(だいじょうぶだろうか?)。
この2つが、交互に私の心の中で闘う。
(年齢など気にしない)vs(あと10年かな?)。
この2つが、交互の私の心の中で闘う。

おとといの夜も、深夜劇場へ行く途中、足の不自由な人を見かけた。
年齢は私より少し若かった。
50代の半ばごろの人か。
背も高く、ほっそりとした人だった。
脳卒中?
懸命に一本杖で身を支えながら、ゆっくりと歩いていた。
私はその人をよけながら、エレベーターの中に身を隠した。

「明日はわが身?」。
明日はだいじょうぶでも、あさってはわからない。
あさってはだいじょうぶでも、そのつぎの日は、わからない。
1年の命を10年に延ばして、何になる?
10年の命を20年に延ばして、何になる?
明日は明日。
明日は、確実に、そこにやってくる。

たまたまその男の人は、そこにいる。
たまたま私は、ここにいる。
ちがいなど、どこにもない。
ゆいいつのちがいは、私は私の目を通して、その男の人を見ていること。
その男の人は、その男の人の目を通して、私を見ていること。
私がその男の人で、その男の人が私であっても、何も不思議でない。
しかし……。

私は、その苦痛に耐えられるだろうか。
その男の人の目を通して、私を見る私に、耐えられるだろうか。
その自信は、まったくない。

今日の健康など、明日は、あてにならない。
明日はよくても、あさっては、あてにならない。
そう思いながら、ウォーキング・マシーンの上で、歯をくいしばる。
「あと、10分……、あと5分……」と。
私にあるのは、「たぶん、明日もだいじょうぶだろう」という小さな希望だけ。
その希望に、自分をつなげて、今日という1日を終える。

(少し、今夜は暗いかな……?)

みなさん、今日も、楽しい1日をありがとう!
今日は、朝、8時まで寝ていました。
午後に、山荘へ行き、昼寝。
帰りに、パソコンショップで、WINDOW7を見て、
それから書斎へ。
夕食まで、1時間ほど、YOUTUBEで音楽を聴きました。
明日もがんばります!


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●映画『沈まぬ太陽』

 静岡県では、今日、参議院議員の補欠選挙がある。
その投票に行く途中で、この文章を書いている。
(もちろん車の中で……。)

 が、道路が、日曜日ということもあって、大渋滞。
少しイライラしていたら、ワイフが、「このまま映画に行かない?」と。
こういうとき、夫は、妻に従うのがよいそうだ。
先日買った雑誌(「プレジデント」)に、そう書いてあった。
熟年離婚の危機はかろうじてかわしたが、安全圏に入ったわけではない。

 「時間的には、『沈まぬ太陽』がいいわ」ということで、そのまま劇場へ。
投票は、劇場からの帰りにすますことにした。

●日本映画

 日本映画のつまらない点は、自然ぽさがないところ。
役者の個性を利用するというよりは、無理な役作りをするところにある。
知性の感じさせないような人が、科学者の役をしたり、スケベそうな男が、
正義を説いたり……。
その(無理)が、映画を、つまらないものにする。

 先日も、「火TENの城」というのを見てきたが、途中で出てきてしまった。
ああいう(できすぎた映画)を見ていると、かえって不愉快になる。
何もかも、頭の中で先に予想ができてしまう。
「このつぎは、こうなるぞ」と。
そのとおりに、役者が演じ、ストーリーが運ぶ。
だからおもしろくない。

(この間、『沈まぬ太陽』を見た。長い映画だった。)

●『沈まぬ太陽』

 主演の渡辺腱(父親役)と、名前は知らないが、息子役の男優。
この2人の演技が、きわだって光った。
よかった。
あとの俳優は、率直に言って、見るに耐えないというか、「これが演技です」
というような演技。
つまらなかった。
たぶん、監督の演技指導のままに演技していたのだろう。
語り方はもちろん、視線のはずし方まで、みな、同じだった。

 映画を見れば、どこの航空会社がモデルになっているかは、一目瞭然。
「よく、あの会社が、こんな映画を許可したね」と、何度も、ワイフと言いあう。
最後の結末がさわやかだったからよかったが、もし醜いまま終わっていたら、
訴訟問題になっていたかも。
時期が時期だけに、あの会社にとっては、たいへんまずい。
現在、経営再建中。

 内容的には、シリアスな社会派映画を見た感じ。
私も若いとき、M物産という会社にいた。
そういう立場で言うと、「現場は、あんなものではない」というのが、私の感想。
もっと生々しく、毒々しい。

それに日本の映画は、どうしてこうまでお説教がましいのだろう?
お金を出して、劇場まで足を運ぶのだから、もう少しサービス精神を旺盛にしてほしい。
つまり私たちを、楽しませてほしい。
ときに安っぽい論理で、人生観を語られたりすると、その場でシラケてしまう。

 見終わったとき、ワイフに私も、こう言った。
「早く、M物産をやめて、よかった」と。
もしあのままあの会社で働いていたら、今ごろは、死んでいるか、身も心も、
ズタズタにされ、私は廃人になっていたはず。

 同時に、以前書いた原稿を思い出した。
『休息を求めて、疲れる』(イギリスの格言)という原稿である。
いくつか書いたので、そのまま掲載する。

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●休息を求めて疲れる(ロマンを求めて)

 いまだに悪夢と言えば、修学旅行のときのものだ。集合時刻が近づく。私は大部屋で寝ている。皆はすでにカバンを整理して外へ出ようとしている。私は自分の靴がどこにあるかもわからない。トイレはどこだ。まだ朝食も食べていない……。記憶にはないが、多分私は子どものころ、旅行でそういう思いをしたのだろう。いや、それ以上に私たち団塊の世代は、どんなことでも、乗り遅れるのを何よりも恐れていた。

 前年までのクラスは五クラス。しかし私たちの学年からは、一一クラス。しかも一クラス、五五人平均。粗製濫造とはまさにこのことで、私はサッカーにしても、一チーム、二五人で戦うものだとばかり思っていた。

 確かに私たちの世代は、いつもうしろから何かに押されていた。立ち止まっただけで、言いようのない不安感に襲われた。はげしい競争。そしてまた競争。こうしてあの会社人間、仕事人間は生まれたが、そうであってはいけないと思っていても、休暇で一週間も休みが続いたりすると、それだけで申し訳ない気持ちになる。

私が見る悪夢は、その延長線上にあるにすぎない。「日本は資源のない国だ」「貿易で国を支えるしかない」「欧米に追いつけ、追い越せ」「立派な社会人となれ」などなど。私たちはこういう言葉を、毎日のように、それこそ耳が痛くなるほど聞かされた。結果、今のような日本がなったが、そこでまたふと立ち止まってみると、やはり言いようのない不安感に襲われてしまう。

 そうそうイギリスの格言に、「休息を求めて疲れる」というのがある。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、イギリスでは、愚かな生きかたの代名詞にもなっている。オーストラリアの友人も、何かのことで私があせっていると、「ヒロシ、気楽にせよ。休息を求めて疲れるな」と、よく言ってくれた。しかし今になっても、その「休息」はどこにもない。なぜだろうか。

 貯金といっても、底が知れている。退職金などもちろんないが、年金にしても、本当にもらえるかどうかわからなくなってきた。息子たちにしても、私が世話をすることはあっても、その反対は、まず期待できない。期待もしていない。私はこうして死ぬまで働くしかない。

 話は変わるが私の友人の弟は、四二歳の若さで会社勤めをやめ、退職金をもってマレーシアへ渡った。そしてそこで中古のヨットを買って、航海に出たという。「今ごろね、あいつね、マレーシアで知り合ったフランス人女性と二人で、インド洋を航海しているはずです」と。その友人は笑って話してくれたが、私には夢のような話だ。いや、夢ではない。私にだってできる。いつかはできる。それをしなければ、いつまでたっても、あの悪夢から解放されることはない。

 今回は私たち団塊の世代の、挫折とロマンを聞いてもらいたくて筆をとった。この中に一つの教育論を感じとっていただければ幸いである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなっている格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がいる。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。

「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」ということは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどなすべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。
 
同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……と、私は心配する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「休息を求めて疲れる」。

イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言でもある。
「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできなくなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。
もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八八か所を巡礼をしてみたい、と。
そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないのか?」と。

私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかった。
名誉や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味があるというのか。
私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。

だから○○部長の名前で稼いだ100万円も、幼稚園の講師で稼いだ100万円も、100万円は100万円。
問題は、そのお金でどう生きるか、だ。
サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組織に、義理立てをしなければならないのか。

未来のためにいつも「今」を犠牲にする。
そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分の時間をつかめない。
たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。
幼稚園は小学校の入学のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学は就職のため……と。社会へ出てからも、そうだ。
子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを途中で変えることはできない。
いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終わる。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。
学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試験が終わったら、ひとりで映画を見に行こう」と。
しかし実際そのテストが終わると、その気力も消えてしまった。
どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望が生まれるものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。

先の「四国八八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをしたら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。
私の経験では、多分、その人は四国八八か所めぐりはしないと思う。退職したとたん、その気力は消えうせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。
「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日という結果は明日になればやってくる。
そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけはしてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 沈まぬ太陽 映画「沈まぬ太陽」 休息を求めて疲れる 休息を求めて、疲れる 今を生きる子育て論)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct. 09+++++++++はやし浩司

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