2009年10月17日土曜日

*My Life

【私の幼児教育byはやし浩司】

●生徒あっての仕事

 私のばあい、いつもそこにスポンサーがいる。
親というスポンサーがいる。
お金を受け取って、親のニーズに応える。
それが私の仕事。

 親が、こうしてほしいと言えば、そうする。
親が、ああしてほしいと言えば、そうする。
私にとって、教育論というのは、別の世界での話。
現実とは、いつも切り離して考える。
子育て論に至っては、さらに別の世界での話。
親が赤色を求めれば、赤色に自分の体の色を変える。
青色を求めれば、青色に自分の体を変える。

 生徒あっての私の仕事。
親の意向に逆らうなどということは、私の仕事ではありえない。
それにもうひとつ。
私はいつも、生徒に頭をさげなければならない。
もちろん、親にも。
「来てください」と頭をさげる。
すべては、そこから始まる。

●権威主義

 親たちもまた、私をそういう目でしか見ていない。
これは昔も今も、同じ。
皮肉なことに、親たちが、この世界では、もっとも権威主義的なものの考え方をする。
こと子どもの教育となると、さらにそう。
さらに保守的になる。

学校絶対主義。
学歴信仰。
学校神話。
そして受験制度。

 この日本では、教育といえば、受験教育を意味する。
「人間選別機関」という言葉は、私が考えた。
今から25年以上も前、「教材新聞」という新聞の中で、使わせてもらった。
学校という教育機関が、(教育)ではなく、人間を選別するための機関として機能している。
受験教育に、それを見る。

 それをだれもがおかしいと感じている。
私もおかしいと感じている。
しかしそれを口に出して言う勇気は、だれにもない。
もちろん私にも、ない。

●あなたは黙っていろ

 私が最初に、疑問に感じた子どもは、FBという名前の女の子だった。
名前からして、朝鮮半島出身の人とわかった。
しかしそのことは、私の見方に影響を与えることはなかった。
当時の私は、むしろ親朝鮮派。
学生時代、UNESCOの交換学生として、韓国に行っていたこともある。

 しかしその女の子は、どうしようもないほどの、つまり手がつけられないほどのドラ娘だった。
言い忘れたが、当時幼稚園の年長児。
わがままで自分勝手。
親は市内にパチンコ店を、数店ももち、裕福な生活をしていた。
が、そういう環境の中で、日本人の私たちを、「下」に見ていた。
軽蔑していた。

 で、ある日のこと。
私はその子どものことで、母親にその女の子の問題点を告げようとしたときのこと。
が、すぐさま母親は、私の言葉をさえぎった。
こう言った。
「あんたは、黙って、私の娘の勉強だけをみていてくれればいい」と。
つまり「余計なことは言うな」と。

 私の立場は、当時も、そして今も、基本的には変わっていない。

●浜松市

 浜松市という町は、不思議な町である。
名古屋市の経済圏に身を置きながら、その3倍以上も離れている東京の方に目が向いている。
名古屋の文化が、浜松市へ入ってくるということは、まず、ない。
浜松市へ入ってくる文化のほとんどは、東京からである。
また「東京から来た」というだけで、何でもありがたがる。

 こう書くと浜松市の人たちは不愉快に思うかもしれない。
しかし事実は事実。
浜松の人たちは、東京に対して、かぎりないコンプレックス(劣等感)をもっている。
反対に、ときどき東京から転勤などで浜松市へやってくる人などは、浜松を、かなり「下」に見る。
おもしろいほど、「下」に見る。
「下」というのは、「田舎」。
「地方」。
浜松の人たちを、遠慮なく「田舎者」と呼ぶ。
先の衆議院議員選挙で落選した、KTさつき氏などは、堂々とこう言い放った。
「私が土下座すれば、(浜松の)田舎者は、イチコロよ」(「諸君」)と。

 だいたいにおいて、浜松の人が、浜松の価値を認めていない。

●高校の序列

 加えてぬぐいがたいほどの学歴信仰。
私が浜松に住み始めたころ、……というのも、そうした風潮は少しずつ変わってきたが、この浜松では、出身高校で、その人の価値が決められた。
大学ではない。
高校である。

 そのこともあって、浜松市内の高校には、明確な序列があった。
S高校、A高校、B高校、C高校、D高校……、と。
だからこんな会話がよく交わされた。

「あの人、C高校なんですってねエ~」
「えっ、あの人、S高校なんですかア~」と。

 それを本人もよく知っているから、たとえば自分がS高校の出身だったとすると、それとなく会話の中に、自分の出身高校名を入れる。
「今度、S高校の同窓会がありましてね」とか、など。
あるいは「S高校のOB会で、ゴルフコンペをしました」とか、など。

 何かにつけて、出身高校の名前が、よく出てきた。
今でも、その残像は、かなり色濃く残っている。

●番外教師

 私は午前中から、午後2時ごろまでは、幼稚園で、幼稚園講師の仕事をした。
無資格だった。
当時は、保母という職種はあったが、保父はなかった。
「保父」という名前が世間に出てきたのは、私が30歳を過ぎてからではなかったか。
保育士という名前にいたっては、私が45歳を過ぎてからではなかったか。

 当時の幼稚園教諭は、同じ教師の中でも番外。
ほとんどの幼稚園教師は、高卒で、そのあと簡単な通信教育を受けて幼稚園の教師となった。
中卒のまま保母資格を取り、やはり通信教育で幼稚園教師になった人も、多かった。

 で、なぜ無資格だったか?

 当時の状況をよく知る人なら、みな知っている。
幼稚園の教師の資格など、わざわざ取ってまでするような仕事ではなかった。
おかしな序列があって、一番上が、大学の教授。
その下が高校の教師、つづいて中学校の教師。
一番下が、小学校の教師。
幼稚園の教師は、そのワクの外にあった。
つまり番外。

 「資格、資格」とうるさくなったのは、私が45歳を過ぎてからのことではなかったか。
中央の官僚たちは、まず資格制度を整備する。
それを管理する団体を作る。
そこを自分たちの天下り先にする。
保育士という資格がうるさくなったのも、そういう(流れ)があったからにほかならない。

●同窓会

 ちょうど30歳になったとき、高校の同窓会があった。
その席でのこと。
担任教師だったTMが、私にこう聞いた。
「林(=私)は、どんな仕事をしているのか?」と。

 が、私には答えようがなかった。
今で言う「フリーター」という言葉さえなかった。
だから、幼稚園での講師をしている話のほか、いくつかを並べた。

 それを聞いてTMは、こう言った。
「お前だけは、訳の分からない仕事をしているな」と。
みなに聞こえるような大きな声だった。

 高校の教師にしてみれば、幼稚園の講師の仕事など、仕事にもならない仕事ということになる。
私にはその常識(?)が理解できたから、黙るしかなかった。

●収入

 私の幼稚園での給料は、当初、月額2万円だった。
大卒の初任給が、6万円前後になり始めていたころである。
そこで私は園長と相談して、午後2時以後は、自由にしてもらった。
自由にしてもらって、予備校の講師や塾の講師、それに家庭教師などをした。

いろいろな会社の貿易顧問もした。
M物産時代の経験とノウハウが、役に立った。

 あのYAMAHAにしても、当時、本社の中にすら、貿易部はなかった。
名古屋のM物産が、YAMAHAの貿易を取り仕切っていた。
ほかにパンフレットの翻訳など。
仕事は、あった。
お金になった。

 幼稚園の給料は2万円だったが、当時、つまり20代の半ばで、すでに私は毎月70万円前後も稼いでいた。

●ほかに

 当時の私は、こんな仕事もしていた。
夕刻、新幹線で東京へ、向かう。
そのまま羽田から、香港や台北へ飛ぶ。
時差もあるから、向こうの時刻で、夕方から夜にかけて商談をまとめる。
そして午前2、3時の飛行機で羽田へ戻る。
羽田へは、午前6時~6時半に着く。
新幹線に飛び乗る。
9時には、浜松へもどり、幼稚園で仕事をする。

 ときどき香港のみやげをもって帰ることもあった。
しかし私が「今朝、香港から帰ってきました」と言っても、だれも信じなかった。
当時、羽田、香港の航空運賃だけでも、10万円前後。
幼稚園の教師の月給が、3万円前後。

 そのほかにも、私はいくつかのテレビ局の企画も書いていた。
代筆もした。
すでにゴーストライターとして、何冊かの本も出していた。

 が、幼稚園での仕事はやめなかった。

●私の天職

 話せば長くなるが、私は自我の同一性の問題に苦しんでいた。
私はもとはと言えば、大工になりたかった。
高校へ入ってからは、工学部の建築学科をめざした。
しかしそれが途中で転向させられてしまった。
文学部から、法学部へ、と。

 私の人生が狂ったのはそのとき。
メチャメチャと言ってもよい。
以来、自分をさがすのに、苦労をした。
で、やっと「天職」と思ったのが、幼稚園での仕事だった。
給料は問題ではなかった。
給料だけを考えたら、とっくの昔に、私は、幼稚園での仕事をやめていただろう。

 たとえば香港へ行く。
上海製のハリ麻酔器(低周波発信機)を、買う。
値段は、5~6万円。
それを日本へもってくると、12~15万円で売れた。
いつも3~5台はもってきたから、それだけでも、30~50万円の利益になった。

●幼児を教える

 この職業観は、今でも変わっていない。
幼児を教えながら、それを仕事と意識することは、めったにない。
むしろ私のほうが、楽しませてもらっている。
私のやりたいように、やらせてもらっている。

 で、話を戻す。

 当時、幼稚園教育の世界には、テキストらしいテキストは、ほとんどなかった。
まったくなかったと断言してもよい。
教育的には、恐ろしく貧弱な世界で、「教育」というよりは、ただ「子どもを預かる」というだけの世界であった。
こう書くと、古い教師は怒るかもしれない。
が、しかしこの私の意見に反論できる教師はいないはず。

 年間の行事を追うだけ。
あとはお絵かきだの、お遊戯だの、まあ、その程度。
さらに知育教育、さらには幼児の心理にまで踏み込んで教育するということは、「絶対」という言葉をつけてよいほど、絶対、なかった。

 はっきり言えば、レベルが低かった。

●教材

 私は香港へ行くたびに、……毎週のように香港へ行っていた。
そこで幼児教育教材を買い求めていた。
香港には、当時は、イギリスの総督府が置かれ、教育はすべてイギリス式で行われていた。
幼児教育の教材も豊富だった。
私はそれを日本へ持ち帰り、翻訳し、私の勤める幼稚園でそれを使った。

 で、そのうち、それらの教材を、東京の出版社へ送るようになった。
今でこそ、中学生や高校生が、修学旅行で外国へ行く時代である。
しかし当時は、そうではなかった。
日本は、まだ貧しかった。
外国は、まだ遠かった。

 そういう教材が、学研という出版社の目に留まった。
それがのちの「幼児の学習」「なかよしがくしゅう」という雑誌につながっていった。
私が26、7歳のときのことである。

 これらの雑誌は、その2誌で、毎月47~8万部も売れた。
当時の子どもたちの4分の1から3分の1が、その雑誌を購入したことになる。
これらの雑誌は、学研のコンパニオン制度の中で、各家庭に配本された。

●田舎根性

 私は浜松市に住みながら、すでにそのころ、浜松市に幻滅を覚え始めていた。
先にも書いたように、浜松市の人たちは、地元、浜松市の価値を認めていない。
認めようともしなかった。

 私が教材の原稿を、東京の出版社に送るようになったのも、そのため。
一度、東京を経由すれば、浜松市の人たちも、その価値を認めてくれる。
私はそう考えた。

 が、現実は、それほど甘くはなかった。
そこにはもうひとつ、学歴信仰という壁があった。
私が若かったということもある。
しかし私の意見に、耳を傾けてくれる親はいなかった。
仮にいたとしても、どこかの大学の教授が別の意見を言ったら最後、そのまま私の意見は否定された。

 権威主義という壁である。

 浜松市というと、工業都市を連想し、かつ街道の宿場町を連想する人は多い。
そのため、開放された、進歩的な都会を想像するかもしれない。

 たしかにそういう面はある。
しかしそれは工業にかぎっての話。
HONDA、YAMAHA、SUZUKIは、すべてこの浜松市で生まれ育った。
知らない人も多いかもしれないが、TOYOTAも、この浜松市で生まれ育った。
(TOYOTAの豊田佐吉は、浜松市に幻滅して、若いころ、浜松市を去っているが……。)

 その工業を除けば、浜松市は、何かにつけて保守的。
ごく最近に至るまで、浜松市のみならず、この静岡県は、政治の世界でも、保守王国(=自民党独裁)として知られていた。

 教育の世界では、さらに保守的だった。
私にはその保守性を打ち破るだけの権威がなかった。

●講演会

 当初、幼児教育といっても、手探りだった。
ロクなテキストもなければ、教材もなかった。
教師となるような教師すら、いなかった。

 メルボルン大学のロースクールにいた私には、驚きでしかなかった。
ときどき東京あたりから、どこかの教授が講演にやってきたりしたが、どの講演も、的をはずれたトンチンカンなものばかりだった。
それもそのはず。

 研究室の奥で、何かの研究はしているらしい。
しかし実際、幼児に接したことのない教授が、その権威だけで、「幼児教育とは……」と論ずるから、話がおかしくなる。

 W大学の教授が浜松市へやってきたときも、そうだった。
著名な教授だったから、私もかなり期待して出かけていった。
しかしそれも、意味のない講演だった。
あとで話を聞いたら、赤ん坊の歩行の仕方を研究している教授ということだった。
赤ん坊の歩行の研究?
ハイハイする赤ん坊の歩き方が、トカゲのような爬虫類の歩行の仕方と同じ。
だから人間も、爬虫類の流れをくんでいる、と。

 そういう教授が、一方で、「幼児教育とは……」と論ずる。
そういうおかしさが、当時は蔓延していた。

 もちろん幼稚園教育の場でも、似たような話があった。

●本物の包丁?

 私はそこで毎日のように、レッスンが終わると、10~15分程度の懇談会を開いた。
「幼児教育は、母親教育」という持論を編み出した。
母親教育なくして、幼児教育は成り立たない。

 が、いろいろな失敗がつづいた。
母親といっても、若い女性。
そういう女性たちと、レッスンのあとに、個人的に話し合うというのは、何かにつけて誤解を招いた。

 そのため懇談会はやがて、週一回になり、月一回になった。
その当時した失敗談については、別のところに書いたので、ここでは省略する。

 が、その一方で、私にはおかしな現象が置き始めた。
「母親恐怖症」という現象である。

●母親恐怖症

 当時の私は、20代のはじめ。
母親たちは若くても、20代の終わりから35歳前後。
私には、みな、こわいオバチャンに見えた。
(そのしばらくあとに、「オバタリアン」という言葉も生まれた。)

 実際、いくつかのトラブルに巻き込まれた。
そのたびに、私は、どんどんと「母親恐怖症」になっていった。
「母親」あるいは、「お母さん」と意識したとたん、下半身から、スーッと性欲が消えていくのを、よく感じた。

 つまりそれくらい、私には、「母親」というのは、恐ろしい存在だった。
が、事情をよく知らない仲間などは、こう言った。
「林(=私)は、うらやましいよ。お前は、女づくしの世界に生きているからな」と。

 しかし実際には、私は、こと幼稚園の世界では、女を感じたことはなかった。
若い女性教師に対しても、また母親に対しても……。
たとえばあるとき、私服で歩いている同僚の女性教師を通りで見かけたとき、「ああ、この人も女性だったのか」と、感心したこともある。

 母親恐怖症は、私が40歳を過ぎるころまでつづいた。
そのころになると、私のほうが年上になり、母親たちが、はるか年下に見えるようになった。

 で、今は、どうか?
おかしなことに、母親たちと、女子高校生たちとの区別ができなくなってしまった。
10代後半の高校生と、若い母親たちが同じに見える……?

 これは余談。

●本物の包丁?

 当時、浜松市内で、園長をのぞいて、男性の講師を置いている幼稚園は、私が勤めていた幼稚園だけだった。
そういうこともあった。
隣町のHK市で、幼稚園教師の研修会があった。
その席でのこと、それぞれの教師が、実際の指導法を披露していた。
その中のひとつ。
ある女性教師がこう言った。

 「私の幼稚園では、本物の包丁を使って、子どもたちに野菜を切らせています」と。

 会場から拍手がわきあがった。
私は、それを聞きながら、ぼんやりとしていると、男性が私ひとりだけということもあって、白羽の矢が立った。
で、こう聞かれた。
「そこの先生、あなたはどう思いますか?」と。

 私はとっさの質問に戸惑った。
そのこともあって、思わず、こう答えてしまった。
「そんなことは、家庭で、親が教えればいいことです」と。

 つまり当時の幼児教育は、その程度。
その程度のレベルを、「教育」と呼んでいた。

●古い話

 浜松市の悪口ばかり書いたので、気分を悪くした人も多いかと思う。
それについては、こう締めくくりたい。

 この話は、あくまでも当時の話。
年代的には、1970年から1990年にかけての話。
それ以後は、この浜松市も大きく、変わった。
とくに2000年に入ってからは、親や子どもたちの意識も、変わった。
出身高校で、人を判断するという風潮も、今やそよ風程度。
話題にする人も、ほとんどいない。

 もちろんだからといって、受験戦争が緩和されたというわけではない。
むしろ、親たちの受験熱は、過激になってきている。
とくに中高一貫校ができてから、浜松市の教育は一変した。

 それまでは「受験」と言えば、高校受験を意味した。
公立高校が第一で、私立高校は、あくまでもスベリ止め。
が、2000年以後は、これが逆転した。

 今では私立の中学、高校が第一で、公立高校がその受け皿的な存在になってきている。
まず私立中学校を受験する。
そこで落ちた子どもが、公立高校に拾われる……。

 だからそれまでは中学に入ってから始めればよかった受験教育が、今では小学4年、あるいは5年にまで下がってきている。
早い子どもだと、小学3年生くらいから、受験塾に通い始める。

 こういう世界で、「教育論」を説いても、意味はない。
親たちが耳を傾けない。
耳を傾けないから、私も話さない。

 私は親たちのもつニーズを感じ取り、それに応えるだけ。
スポンサーは、あくまでも親。
その親たちに背を向けて、この仕事はできない。

●知らぬフリ

 この世界の第一の鉄則は、内政不干渉。
その子どもの問題点がわかっていても、知らぬフリ。
たとえばかん黙児にせよ、AD・HD児にせよ、自閉症スペクトラムにせよ、そういう子どもとわかっていても、知らぬフリをする。

 実際には、40年もこんな仕事をしていると、その子どものもつ問題点は、会った瞬間にわかる。
わかるが、それを口にするのは、タブー。
さらには、私のばあい、その子どもの1年後、5年後、10年後の姿まで見える。
どの段階で、どのような問題を起こすかもわかる。
わかるものはわかるのであって、どうしようもない。

 しかしそれも、口に出して言うのはタブー。
いわんや、診断名を具体的に口にするのは、タブー中のタブー。
診断名を口にできるのは、専門のドクターだけ。

●10%のニヒリズム

 もちろん失敗もした。
数多くの失敗もした。
「この人だけはだいじょうぶ」と信じて話したことが、そのあと大問題になったという例は、多い。

 こうした経験を通して、私は少しずつ利口になっていった。
口も重くなっていった。

 私はバカな、何も知らない、ただの教師。
そのほうが気も楽だった。
今も、そのほうが、気が楽。

 それに正直に告白するが、どうせ説明したところで、若い親たちには、私の話すことなど、理解できない(失礼!)。
この世界には、「10%のニヒリズム」という言葉さえある。
若いころ、どこかの教師が教えてくれた言葉である。

 つまりわかっていても、わからないフリをする。
結局子育てというのは、親自身が、自ら失敗を重ねながら、その中から、自分で学んでいく。
それしかない。
そのとき「この親は失敗する」とわかっていても、黙って見ているしかない。

 それはちょうど、若い女性がタバコを吸っているのを見るときの気持ちに似ている。
女性がタバコを吸って、よいことは何もない。
妊娠、出産にも、深刻な影響を与える。

 しかしそういう女性に向かって、だれが「タバコはやめたほうがいいですよ」と、言うことができるだろうか。
それこそいらぬお節介。
だから黙る。
口を閉ざす。
その(冷たさ)が、「ニヒリズム」ということになる。

 このニヒリズムがないと、教師は自分の職業を支えることができない。

●家族の代表

 2000年に入ってから、「子どもは家族の代表」という考え方が、広く浸透してきた。
若いころ「幼児教育は母親教育」と一脈を通ずる考え方である。

 つまり子どもに何か問題が起きたとしても、それは子どもだけの問題ではないということ。
家族という環境の中で、その子どもはなるべくして、そのような子どもになっていく。
だから子どもに何か問題があったとしても、その問題だけをながめていても、その子どもの問題は解決しない。

 家族という環境の改善が、必要不可欠となる。
たとえば親の過干渉、過関心で萎縮してしまった子どもがいる。
こういうとき親は身勝手なもので、そういう子どもを見ながら、「どうすればうちの子は、もっとハキハキするでしょうか」と相談してくる。

 しかし正すべきは、子どものほうではない。
親のほうである。
親の育児姿勢のほうである。
そういう例は多い。

●誤解

 しかし重要性という点では、幼児教育……というより幼児期の教育ほど、重要なものはない。
大学の教育より、重要。
その上、奥が深い。
幼児教育は、その人間の基礎をつくる。
方向性をつくる。
もちろん(心)もつくる。

 それからの教育は、その基礎の上に立った方向性に従ってなされるだけ。
中には、「幼児教育なんて……!」とはき捨てる人もいる。
しかしそれこそ無知と誤解。

 幼児教育イコール、幼稚教育。
幼児の相手をするだけの簡単な教育。
そう考えている人は多い。

 一度、「人間の性格、その人の人格の基礎は、幼児期にできます」と話したときのこと。
ある男性(個人の自転車屋を経営)は、笑ってこう言った。

 「そんなバカなことがあるか。人間の性格、人格は、おとなになってからできる」と。

 つまりそれが当時の、そして現在も残っている、幼児教育への偏見と誤解ということになる。

●笑えば伸びる

 最初に書いたように、私がした幼児教育というのは、まず、子どもたちに来てもらわねばならない。
子どもたちが「来たくない」と言えば、それでおしまい。
しばらくすると、親たちは、それを理由にして、私の教室を去っていく。

 だからいつしか、私は子どもたちが楽しむ教室に心がけた。
これは思わぬ副産物を産み出した。
『笑えば伸びる』という私の持論も、そこから生まれた。

 まず子どもたちを笑わせる。
楽しませる。
第一に、それは教室の経営を安定させるためである。
しかし笑うことによって、子どもたちの心は明らかに変化する。
「障害」という言葉は、安易に使えない。
しかし笑うことによって、また笑わせることによって、「~~障害」という障害が、治っていく。
それが、私にもわかった。

 たとえば軽度のかん黙症、自閉傾向のある子ども(自閉症ではない)などは、数週間も指導すれば、治ってしまう。
私には、「治った」とわかっていても、もちろん、それを口に出すことはないが……。

 さらに言えば、心を開放できない子どもは、多い。
程度の差もあるが、約3分の1はそうではないか。
症状がひどくなると、情意(心)と、表情(顔に表れる表情)が、不一致を起こすようになる。
教える側から見ると、何を考えているか、わからない子どもということになる。

 そういう子どもでも、ゲラゲラ笑わせると、(……そういうふうに笑うようになるまでがたいへんだが……)、やがて情意と表情が一致してくるようになる。
私の仕事は、もちろん知的能力を伸ばすこと。
しかしそれでは私自身が、満足できない。
そこでやがて私は、本を書くようになった。

●教材稼業

 その前に、私は、教材作りに、面白さを覚えていた。
浜松市を相手にするより、全国を相手にしたほうが、おもしろい。
こと教材作りに関しては、私の頭の中から、(浜松市)は消えた。
どうでもよかった。

 いろいろな教材を手がけた。
大手の出版社で商品化した教材も多い。
というのも、出版社は出版社。
出版のノウハウはもっていたが、やはり実際、幼児を教えたことのある編集者は皆無だった。
そこに私の存在価値があった。
仕事はそのつど、こなしきれないほど、回ってきた。
私は毎晩のように、速達を届けるため、郵便局へ車を走らせた。

 が、やがて限界を感ずるようになった。
40歳を過ぎてからではないか。

 私が制作した教材は、出版社の担当者が替わるたびに、別の作者の名前で発表されるようになった。
さらに教材の世界には、著作権というものが、ない。
私が作った教材にしても、それが新案のものであっても、どんどんと盗用されていった。
教材の世界では、クマさんが、ウサギさんに変わっただけで、別の教材になる。

 では、実用新案特許を申請すればよいということになるが、それは出版社の仕事だった。
個人の私には、負担が大きすぎた。
財政的な負担も大きい。
それにめんどう。
それ以上に、つぎつぎと湧き起きてくるアイディアを、いちいち特許申請するなどということは、不可能だった。

 たとえば、あの先生には悪いが、「100マス計算」などという言葉がある。
縦と横に数字を書き、100マスの計算をさせるというあれである。
あんなのは(失礼!)、当時、私も含めて、少しアイディアを働かせている教師なら、みな、それをしていた。
ただひとつのちがいは、実用新案の申請をしたか、しなかったかのちがいだけだった。

●本

 教材稼業からは、足を洗った。
それにはいろいろな理由がある。
しかしここに書いても意味はない。
愚痴になる。

 その代わり、私は、本を書くようになった。
文章を書くのは、嫌いではなかった。
若いころから、いろいろな人のゴーストライターとなって、本も書いていた。
翻訳もしていた。

 で、本を書くようになった。
多い年には、1年で、10冊以上も書いたことがある。
私は文章を書くことに、楽しみというか、生きがいを覚えるようになった。
インターネットの時代になって、それにますます拍車がかかった。

 というのも、それまでは、こうした仕事は、中央でなければ成り立たないという社会的常識が支配していた。
地方は地方。
地方で、いくらモノを書いても意味はない。
だれもがそう思っていたし、私もそう思っていた。
しかしその壁が、インターネットで取り外された。

 しかもおもしろいことに、インターネットの世界では、東京そのものを通り越して、世界中に発信できる。
私には、これほど小気味のよいことはなかった。

●教育論の限界

 その親のレベルがどうであれ、子育てには、その親の哲学、人生観、価値観など、すべてが凝縮される。
裏を返して言うと、教える側にしても、そこに自分の哲学、人生観、価値観を凝縮する。
教育というのは、車の運転にたとえるなら、運転をするだけのもの。
しばらく運転していれば、だれだって、うまくなる。

 が、それだけでは足りない。
そこでその教師の哲学、人生観、価値観などが試される。
教師といっても、教育論だけを書いていてはいけない。
ときには哲学、人生観についても、書いていく。
そういう姿勢があってこそ、はじめて、親たちと対等に接することができる。

 私のばあいも、20代~30代のころは、東洋医学に興味をもった。
30代~40代のころには、宗教に興味をもった。
合計すれば、10冊以上の本を書いた。

 そうした裏からの支えがあって、はじめて、私たちは、自分の教育論を展開できる。
そういう点では、(教育)は、奥が深い。
専門分野だけを、月謝(給料)をもらって切り売りするというのは、またその範囲で満足するというのは、教育者の名に恥じる。

●こうして40年

 こうしてすでに40年近い年月が過ぎた。
40年!
自分では、「まだまだだいじょうぶ」と思っているが、本当のところ、自信はない。
しかもその自信は、年々、小さくなってきている。

 頭の活動も、鈍ってきた。
体力もつづかなくなってきた。
何よりもこわいのは、集中力が弱くなってきたこと。

 ここまでで、約10ページ分(40字x36行)の原稿を書いたが、そろそろ疲れを感ずるようになった。
若いころは、40ページ近くは、一気に、平気で書いていた。

 この先のことはわからない。
しかしものを書ける間は、できるだけ書いていきたい。

 ……と、少し話が脱線したが、子育て論というのは、あくまでも、ひとつの「説」に過ぎない。
親たちですら、読まない。
「どうすれば、あなたの子どもを有名大学に入れることができるか」という話になると、親たちは、目を輝かせて、私の話を聞く。
しかし子育て論について言えば、そういう反応は、ない。
直接的な利益に結びつかない。

 だから再び、同じ話になる。

「親というのは、自分で失敗するまで、それを失敗と気がつかない」と。
あるいは「親は自分で失敗してみて、はじめて賢くなる」でもよい。
それまでは、私たちはただの傍観者でいるしかない。
ただひたすら、知らぬフリをしながら……。
ただひたすら、バカな教師のフリをしながら……。

 もちろん情報は提供する。
しかしその情報をどう使い、どう生かしていくかは、私の問題ではない。
それを読む、親自身の問題である。

 もちろん親のほうから、質問があれば、話は別。
「うちの子は自閉症スペクトラムと診断されました。
どう指導したらいいでしょうか」と聞かれれば、そのときこそ、私の出番。
私の経験が生きる。

●仕事として……

 ところで最近になって、こう思うことが多い。
日本という社会の中で見ると、幼児教育というのは、番外。
とくに日本が、マネー一辺倒の中で、高度成長をつづけていたときは、そうだった。

 私自身も、大学を卒業すると同時に、M物産という商社に、就職先を見つけた。
あの当時、少なくとも私の仲間に、教師になるような男はいなかった。
(法学部は、全員、男だった。)
みなが、銀行や商社、証券会社、保険会社へと就職先を見つけていった。

 こうした職業観というのは、それぞれの時代で、それぞれの国によって、みなちがう。
が、当時の日本は、そうだった。
マネー、マネー、マネー……。
どこを向いてもマネー、マネー、マネー……。
今でもそういう風潮は色濃く残っているが、当時は、もっとすごかった。

 私はそういう世界からはじき飛ばされた。
が、62歳という年齢になり、自分の人生を振り返ってみたとき、私自身もまた、その流れの中で踊らされていただけということがよくわかる。

 が、その一方で、幼児教育の本当の楽しさが理解できるようになってきた。
一応、(教える)という使命を与えられているから、親たちの意向に逆らうことはできない。
しかしその範囲の中でも、子どもたちと接しているだけで、楽しい。

 そこはウソや濁りのない世界。
純粋で、無垢の世界。
たとえばどんなに気分が落ち込んでいても、子どもたちに接したとたん、パッと気が晴れる。
こんな仕事は、そうはない。

 で、今、多くの同窓生たちは、50歳を過ぎるころにはリストラを経験し、第二、つづく第三の人生を歩み始めた。
さらに60歳で定年になり、定年延長とは言いながらも、毎年短くなっていく職場に、不安を感じながら、仕事をつづけている。

 こう書くからといって、私のしてきたことが正解などと書くつもりはない。
人は、人それぞれ。
私は私。

しかし金儲けのもつ空しさというか、それもよくわかるようになるのも、この年齢ということになる。
それはちょうど、軍国主義時代において、軍人をめざすようなもの。
戦争が終われば、……というより、戦争そのものが、意義を失えば、それでおしまい。
それに似たようなことが、戦後の日本で、再び起きた。

 人は生きることで、何かを残す。
それが戦後は、たまたま「金儲け」ということになった。
しかしその「金儲け」には、生きがいを結びつける力は、あまりない。
もっとわかりやすく言えば、みな、巨大な機械のパーツ。
あなたがいなくても(失礼!)、あなたの代わりをするパーツは、いくらでも待機している。
地位や名誉にしてもそうだ。

 だからこの年齢になってはじめて私は、自分のしてきたことに、意味を見出し始めている。
だれもしなかった道。
少しおおげさな言い方になるかもしれないが、未開の原野を歩いたような満足感。
子どもたちと接しながら、20代のときや30代のころには感じなかった(楽しさ)を覚え始めている。

 「おじいちゃん」とか、「ジジイ」と呼ばれながら、幼児を相手にする。
それが楽しい。

●最後に

 親は子どもを産むことで、親になるが、しかしそれだけで親になったとは言えない。
親である以上、学習を怠ってはいけない。
つねに学習、あるのみ。
相手は、人間の子どもである。
とくに子どもの心理についての学習は、必要不可欠。
この世界には、『無知は罪悪』という格言もある。

 私が考えた格言だが、親の無知が、子どもの心をゆがめるケースは少なくない。
言うなれば、無知ほど、恐ろしいものはない。
たとえばかん黙症の子ども(年中女児)に向かって、「どうしてあなたは、もっと大きな声で話せないの!」と叱りつづけていた母親がいた。

 親の過干渉や過関心で、萎縮してしまう子どもとなると、ゴマンといる。
精神障害の引き金を引くケースも少なくない。

 だから『無知は罪悪』。

 ざっと自分の人生を振り返ってみた。
あなたの子どもを再認識するための一助になれば、うれしい。

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