2009年5月18日月曜日

*The Ability of Reading Letters

● 文字

文字を知って、日本人は、飛躍的に進歩した。
文字があるからこそ、人から人へと、情報を伝えることができる。
言いかえると、もし文字がなかったら、……というよりそれ以前の日本人は、
きわめて原始的な民族だったということになる。
進歩をしたくても、進歩のしようが、ない。

私の近辺にも、本をほとんど読んだことがないという人がいる※。
率直に言って、そういう人は、どこか変?
だから私は、こう推察する。
(文字を読んだり書いたりすること)で、脳のある部分が
刺激され、それが(思考力)に結びついているのではないか、と。

だから文字を読んだり書いたりすることがない人は、思考力そのものが、育たない。
私自身も、こうしてパソコンに向かっていないときは、深くものを
考えることができない。
こうして文字を打ち始めて、はじめて脳みそのある部分が、アクティブになる。
そのとき思考力が働き始める。

もう少し、わかりやすく説明しよう。

たとえばあなたが、何かのことでだれかに、怒りを感じたとしよう。
怒りそのものは、悶々とした感情で、それには(形)はない。
その(怒り)に形を与えるのが、言葉ということになる。

「なぜ私は怒っているのか」と。

つまり言葉で表すことによって、人間は感情的感覚を、抽象的概念にする。
そしてそのとき、それを(文字)で表現することによって、(怒り)を
分析し、内容を論理的に考えることができる。
もちろん他人に伝えることもできる。

が、それはかなりめんどうな作業である。
たいていの人は、できるならそれを避けようとする。
難解な数学の問題を押しつけられたときの状態に似ている。
もし文字を書くことがなかったら、「バカヤロー」「コノヤロー」程度の、
感情的表現で、終わってしまっていたかもしれない。
またそのほうが、ずっと楽(?)。

事実、本を読んだことがないという人は、情報だけが脳みその表面をかすっている
といったような印象を受ける。
感情のおもむくまま行動しているといった感じもする。
言葉にしても、頭の中で反すうするということを、しない。
そういう意味で、(文字)には、特別の意味がある。

ただ「使う」とか「使わない」とかいうレベルの問題ではない。
万葉仮名を使うことによって、日本人は、日本人としての「個」を確立した。
また文字を使ったからこそ、その時代を今に、伝えることができた。
だからこそ、その時代を、私たちは「個」としてとらえることができる。

冒頭にあげた難波宮跡から見つかった木簡は、7世紀中ごろのものとみられている(同書)。
つまり日本人が日本人としての「個」をもち始めたのも、そのころと考えてよい。

それまでの日本人は、言うなれば、「個」のない、ただの原住民に過ぎなかった。
……というのは言い過ぎかもしれないが、隣の中国から見れば、そう見えたにちがいない。
そのころすでに中国では、何千もの漢字を自由に操って、文学や思想の世界だけではなく、
科学や医学の分野においても、世界をリードしていた。

(※付記)

昔、私の知っている女性に、こんな人がいた。
口は達者で、よくしゃべる。
情報量も多く、何かを質問すると、即座に答がはね返ってくる。
が、その女性(当時、50歳くらい)の家を訪れてみて、驚いた。
新聞はとっているようなのだが、本とか、雑誌が、ほとんどなかった!

で、ある日のこと。
その女性が、ある問題で困っているようだったので、私は資料を届けることにした。
本をコピーしたので、それが20~30枚になった。
ところが、である。
私がその資料をテーブルの上に置いたとたん、その女性はヒステリックな声を
あげて、こう叫んだ。

「私は、そんなものは、読みません!」と。

で、そのときは、そのまま私のほうが引きさがった。
私のほうが何か悪いことでもしたような気分になった。

が、そのあとも、似たようなことが、2度、3度とつづいた。
私は、その女性が、何かの障害をもっているのではないかと疑うようになった。

識字能力……読み書きできる人のことを、識字者という。
それができない人を、非識字者という。
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関=UNESCO)では、識字について、
「日常生活における短い簡単な文章の読み書きができる人を識字者、できない人を非識字者」と定義している。

日本では、昔、文字を読めない人を、「文盲」と呼んだ。
しかしその後の教育の整備が進んで、今では、文盲の人はいないということになっている。
そこで近年では、(1)文字は読めても、(2)それを理解できない人を、非識字者と
位置づける学者も多い。

ポイントは、一応の読み書きはできる。
しかし読んでも、それを理解することができない、というところにある。

で、たとえばその女性のばあい、(1)文字を目で拾って、読むことはできる。
簡単な手紙を書くことはできる。
しかし、(2)論説的な文章になると、それを理解することができない。
それができる人には、何でもないことかもしれないが、文字が活字として、
こうまで一般に普及したのは、ここ100年前後のことである。
能力が、それについていないという人がいたとしても、おかしくない。

たとえば工事中の現場を見たとする。
地面が掘り返され、工事車両が並んでいる。
私たちは、そうした様子から、そこが工事中であると知る。

が、「工事中」という文字を見たときはどうだろうか。
大脳後頭部の視覚野に映し出された映像の中から、まず文字だけを選び出さなければ
ならない。
つづいてその情報を、今度は、側東部や頭頂部が、
そこでそれまでに蓄積してあった情報と照合する。
さらに記憶となって残っている情報と照合する。
そこではじめて「工事中」という文字の意味を知る。
つまり文字を理解するというのは、それまでにたいへんなことだということ。
それができる人には、何でもないことかもしれないが、そうでない人にはそうでない。

このことは、LD児(学習障害児)をみると、わかる。
ある一定の割合で、文字を読んでも理解できない子どもがいる。
たとえば算数の応用問題が、できない、など。
そこで私が「声を出して読んでいい」と言って、声を出して読ませたり、
別の紙に書き写させたりすると、とたん、「わかった!」とか、言う。
一度、自分の声で読み、それが耳を経由すれば、理解できるというわけである。

ただし程度の差もあり、また診断方法も確立されていないため、このタイプの
子どもが、どれくらいの割合でいるかということについては、わからない。

さらに言えば、文字を読んでも理解できない点について、識字能力に問題があるのか、
それとも、知的能力そのものに問題があるのか、その判別もむずかしい。

しかしそういう子どもがいるのは、事実。
20人に1人くらいではないか。
だとするなら、その延長線上に、文字を読んでも理解できないおとながいると考えても、
おかしくない。

私は、その女性が、そうではないかと疑った。
と、同時に、いろいろな面で、思い当たることがあった。
先に書いたように、その女性の周辺には、本だとか雑誌など、そういったものが、
ほとんどなかったということ。
反対に、私のばあい、本に埋もれて生活をしているので、そういう生活そのものが、
たいへん奇異に見えた。

またビデオ・デッキも、なかった。
「ビデオは見ないのですか?」と聞くと、「ああいうものは、疲れるだけ」と。
とくに洋画は、まったく見ないと言った。
あとから思うと、字幕を読むのが苦痛だったためではないか。

……そうこうしながら、それから10年ほど、たった。
話を聞くと、その女性は、この10年間、ほぼ同じような状態ということがわかった。
が、そこに認知症が加わってきた。
周囲の人たちの話では、的をはずれた言動や、はげしい物忘れが目立つようになってきた
という。
今のところ、日常の生活に支障をきたすようなことはないそうだが、「どこか、
おかしい?」と。

となると、当然のことながら、識字力は、衰退する。
(文字を読まない)→(文字から遠ざかる)の悪循環の中で、文字を読んでも
ますます理解できなくなる。

ワイフはその女性について、最近、こう言った。
「あの人には、文化性を感じないわ」と。
文化性というのは、生活を心豊かに楽しむための、高い知性や理性をいう。
その逆でもよい。
高い知性や理性をもった人は、生活を心豊かに楽しむことができる。
つまり文化性のある人は、音楽を楽しんだり、本を読んだりする。
それがその女性には、「ない」と。

私もそう感じていたので、本文の中で、「率直に言って、そういう人は、どこか変?」
と書いた。

なおあのモンテーニュ(フランスの哲学者、1533~92)も、こう書いている。

「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほか、
考えたことはない」(随想録)と。

(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 識字
識字者 非識字者 文字 文盲 文章の読めない子ども 文を理解できない子供)

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