2012年1月3日火曜日

*What is the forune teller?

【占星術というカルト】

●「占いを信ずる」……「はい」(27・0%)!

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雑誌「MOM」にこんな調査結果が載っていた。

「占いは好きですか」……「はい」と答えた人(79・0%)

「占いを信じますか」……「はい」と答えた人(27・0%)
          ……「いいときだけ、信じる」と答えた人(57・1%)
           (以上の両者を合計すると、84・1%!)

「どんな占いが好きですか」……星座占い(51・8%)
             ……手相(17・9%)
             ……タロット・カード(11・8%)
              (以下、血液型、生年月日、姓名判断、四柱推命……とつづく)

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●雑誌「MOM」

 雑誌「MOM」は、雑誌名からして、女性向けのもの。
ここに出てきた数字は、女性、とくに育児まっさかりの母親を対象にしたものと考えられる。
が、それにしてもというか、私はここに出てきた、「27%」「星座占い」という数字と言葉に驚いた。
約3人に1人の女性(母親)が、占いを信じていることになる。
しかも「星座占い」という、訳の分からないものを信じている人が多いという。

●占星術

 占星術は、立派な宗教である。
とくに占星術とイスラム教の間には、密接な関係がある。
占星術イコール、イスラム教、イスラム教イコール、占星術と考えてよい。
それについては、以前、いろいろな原稿を書いてきた。
さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術

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今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

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 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)占星術」である。
今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。
星が見えるところ、すべての世界に、それがある。
興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。
ならば、その万物の構成要素から、神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。
わかりやすく言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。
だからそれら万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。
ついで、それらと一体として連動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て誕生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。
原理的には、男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。
例がないわけではない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。
つまり生まれたとき、すでに1歳とするのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。
イスラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書いたように、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。
少なくとも、占星術では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判断する、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体占星術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の動きを参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。
あるいは生物という単位で、ものを考えるべきではないのか。
たとえば公園の広場に住む、アリを考えてみればよい。
もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、清掃作業によるもの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわけではない。公園に住むアリ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二次元、つまり天空という平面で見ているにすぎない。
星々までの距離は、計算に入れていない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎない。
サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。
宇宙船で、100光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。
1000光年も先に行けば、もっと、変わる。
星位という概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。
占星術イコール、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八丁で、占星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。しかしこれだけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きることを放棄することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するようなもの。それでもよいと言うのなら、それはそれでかまわない。
そのあとの判断は、それぞれの人の勝手。私の知ったことではない。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作、見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。
占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。
つまり占星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性がある。
事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。
つまり、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味をなくす。
たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算盤を見つめながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、ローソクを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。
……というより、それはあなたの宗教性による。
意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたいして、それを超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということになる。
笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。
信仰心といっても、おおざっぱに言えば、2種類ある。
ひとつは、教えを重要視するもの。
もうひとつは、超自然的なパワーを盲信するもの。
前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということになる。

 もちろん、その中間もある。
色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。
宗派によっても、ちがう。
しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、絶対的な存在を、信仰の中心に置く。
「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭では、信者を黙らせることはできない。

 神や仏がよい。
あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教が生まれる。
そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給のバランス関係によって、発展したり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。
どこかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかった。
ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本でも、中国でもあったようだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、私の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。
こと「星」について言えば、日本人は、元来、無頓着な民族と言える。
星座、それにつづく天文学については、それについて研究したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。
(これは多分に、私の認識不足によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。
(発達したのではなく、発展した。誤解のないように。)
もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、もっともらしい(占い)に飛びついた。
占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うまく答えたということになる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のスキマを埋めていた。
私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見ながら、その年の計画を立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」そのものがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。
そして今に見る、占星術、全盛期を迎えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。
占星術師なる人物が、テレビに顔を出さない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、それは疑わしい。
占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、占いは、神秘主義と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が高い。
あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的宗教団体は、表向きは、なりを潜めている。
が、しかし今の今も、社会の水面下で、その勢力を拡大していることを忘れてはならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、わかったものではない。
忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。
しかもその信仰は、神秘主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(かっぽ)している。
それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。
また外見上、いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力をなくした人々

 宗教性と理性は、常に対立関係にある。
とくに注意したいのが、宗教がもつ神秘性。
この神秘性に毒されると、理性そのものが破壊される。

このあたりで、もう一度、しっかりと結論を出しておきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宗教とは何か(カルトについて考える)

【宗教VSカルト論】BYはやし浩司

●インチキ予言

 「2011年の5月21日に、世界はを終末を迎える」。
そんな予言をした宗教団体があった。
が、5月21日には、何も起こらなかった。

そこでその宗教団体の「長」は、計算ミスとし、
今度は10月21日に、終末を迎えると言い出した。
が、その10月21日にも、世界は終末を迎えることはなかった。
終末を迎えたのは、皮肉なことに、リビアのカダフィ大佐だった。
 その宗教団体は、「カダフィ教」を信奉する宗教団体だったのか。
ロイター・NEWSは、つぎのように伝える。

『今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。

 ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審判の日」と予言して一躍話題の人となった。
その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミスだと釈明し、新たに10月21日を世界の終末の日と予言し直した』(以上、ロイター)と。

●終末論

 キリスト系のカルト教団体は、よく「終末」という言葉を口にする。
英語で「apocalypticism(終末論)」と書くことからもわかるように、それが「ーism(主義)」になることもある。

つまり教えの「柱」。
「世界はやがて終末を迎える」という大前提で、教義を組み立てる。

 が、カルトがカルトと呼ばれる所以(ゆえん)は、ここにある。
不安と希望、バチと利益(りやく)、終末と救済を、いつもペアにし、信者を獲得し、誘導する。

 とくに終末論は、ユダヤ教のお家芸。
ユダヤ人は、紀元前1000年の昔から、そのつど歴史の中で迫害されてきた。
そのつどユダヤ教では、終末論を唱えた。
つまりそういう暗い歴史の中で、「終末論」は、「ーism」として、独立した。

●思い込み

 現在、人間はいろいろな問題をかかえている。
国際経済は、ガタガタ。
アジアに目をやれば、タイの大洪水。
この日本も、原発問題で右往左往。
 が、それら十把ひとからげにして、「終末」は、ない。
いわんやそれを預言し、日時まで特定する。

人にはそれぞれ(思い込み)というのはある。
が、それにも程度というものがある。
その程度を組織的に越えたとき、それを私たちは「カルト」と呼ぶ。
つまり「狂信」。

 アメリカだけの話ではない。
この種のインチキ預言は、世界中のいたるところで発生している。
もちろんこの日本でもある。

4~5年前だったか、「北朝鮮が攻めてくる」と預言した仏教系の宗教団体があった。
13世紀に起きた蒙古襲来になぞらえ、それを預言した。
各新聞の1面を借り切って、それを預言した。
が、その日には何も起こらなかった。

●エアーポケット

 不安や心配が重なると、心に穴が開く。
スキができる。
スキができると、合理的な判断力が低下する。
そのとき、人は、とんでもないことを信ずるようになる。
ふつうの状態なら、一笑に付すようなことでも、信ずるようになる。
私はこれを「心のエアーポケット」と呼んでいる。

 が、この心のエアーポケットは、だれにでもある。
私にもあるし、あなたにもある。

たとえば「家庭内宗教戦争」。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家庭内宗教戦争(2004年3月の原稿より)

 こういう時代なのかもしれない。
今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は多い。
夫婦の間で、そして親子の間で。

 たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。
いや、本当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしまう。
そして気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。

 ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。

 「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。

 明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。
そして夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。

 家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。
価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、どうでもよい部分については、それなりにうまくいく。
しかし基本的な部分では、わかりあえなくなる。

 その妻は、夫にこう言った。
 「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。
それがかろうじて、こうして何とか、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおかげよ。
それがわからないのオ!」と。

 そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。
彼らが言うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。

 が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そんなの見たくもない!」と。

 こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむける。

だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろんのこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。
「接するだけでも、バチが当たる」と教えているところもある。

●ある親子のケース

 富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。
あと少しで、2000年というときだった。

 U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。
その一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。

 全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。
もともとは、さらに大きな母体団体から分離した団体だと聞いている。
わかりやすく言えば、その母体団体の中の、過激派と呼ばれる信者たちだけが、別のSS教をつくって独立した。
それがSS教ということになる。

 教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。
それが約1時間。それが終わると、集会、勉強会。そして布教活動。

 相談してきた男性は、こう言った。

 「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せなくなりました。
週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。
 それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、勧誘を始めたことです。
 何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。

 部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の勝手ではないか」と思うかもしれない。
しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想像を絶するものである。

 「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。
今は、どんなことを言っても、受けつけません。
親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。

●カルトの下地

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団は生まれ、そして成長する。

 だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味はない。
原因のほとんどは、その信者自身にある。
もっと言えば、そういう教団に身を寄せねばならない、何かの事情が、その人自身に、あったとみる。

 冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。

 どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。
仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えているよう。
その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそうになってしまう。

 何のための人生?
 なぜ生きているのか?
 どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにある?
 どこに求めればよいのか?
 何もできないむなしさ。

力なさ。
そして無力感。

 しかし不安。世相は混乱するばかり。
社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。
何のために、どう生きたらよいのか。
心配ごともつきない。
自分のことだけならともかくも、子どもはどうなるのか?

 国際情勢は?
 環境問題は?

 そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。
いくら「私は私だ」と叫んでも、その私はどこにいるのか?
 生きる目的は何か?
 それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
 どこにどう救いを求めたらよいのか?

 ……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。
その穴のあいたところに、ちょうどカギ穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。
 それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。
彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとたん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。

 信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。
とたん、孤独感も消える。すばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にする。

 しかし……。
 それは錯覚。
幻想。
幻覚。
亡霊。

 一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。
思想を注入してもらうかわりに、自らの思考力をなくす。
だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。

 少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。
あるいは教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。
さらに足の裏を診断してもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお金を教団に寄付した信者もいた。

 常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。

 が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。
そういう信者でも、会って話をしてみると、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人である。
「どこかおかしのか?」と思ってみるが、どこもちがわない。

 だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠陥のない人は、いない。

●どうすればよいか?

 妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係は、すでに破壊されたとみてよい。
夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になったと考えてよい。
親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。
親はともかくも、子どものほうは、もう親を親とも思っていない。

 しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚を禁止している。
またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養を第一に考えている。
 そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始めた」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。

 こうなったら、もう方法は、三つしかない。

(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。

 私は、第3番目の方法をすすめている。
富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言った。

 「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明してみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どうだ!』と。

 つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。
会社の経営者としては、すでに適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすかの、どちらかを覚悟しなさい。
夫婦でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。

 そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひたすら無視。また無視です。

 この問題だけは、あせってもダメ。
無理をしても、ダメ。
それこそ5年、10年単位の時間が必要です。
頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。

 あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。
今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。

●常識の力を大切に!

 今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。
信者数もふえている。
つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。

 では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。
どう自分たちを守ればよいのか。

 私は、常識論をあげる。
常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。

 むずかしいことではない。
おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、あなたの心を守る。

 家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。
「おかしいものは、おかしいと思おうではないか。
それはとても大切なことだ」と。

 そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。
これも方法は、簡単。ごくふつうの人として、ふつうの生活をすればよい。
ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩をする。
もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。
(おかしなもの)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。

 あとは、自ら考えるクセを大切にする。
習慣といってもよい。
何を見ても、ふと考えるクセをつける。
そういうクセが、あなたの心を守る。

 さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ!
 みなさんといっしょに、戦うぞ!
 世の正義のため、平和のため、平等のために!

 ……と少し力んだところで、このつづきは、またの機会に!

(はやし浩司 カルト カルト信仰)
(040328)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●信者がいるから宗教団体は生まれる

 先の原稿を書いてからだけでも、もう7年になる。
実はこの問題については、私が30歳ぐらいのときから書き始めているので、30年以上になる。

 が、今でもこのタイプのインチキ教団は、跡を絶たない。
モグラ叩きのモグラのように、叩いても叩いても、顔を出す。
それもそのはず。

 宗教団体があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教団体が生まれる。
たとえばあの終戦直後。
今で言う「新興宗教」が、それこそ雨後の竹の子ように生まれた。
中には「信心すれば金持ちになれる」と説き、急成長した宗教団体もある。
たぶんにカルト的だったが、その日の食べ物に困る人たちにとっては、そんな判断力はない。
「金持ちになれるなら……」と、多くの人が、その宗教に飛びついていった。

●スピリチュアル?

 ……という話は、たびたび書いてきた。
では、どうすればよいかについても、たびたび書いてきた。
ただ言えることは、こうしたカルト教団の「芽」は、児童期のかなり早い段階でできるということ。

 原稿をさがしてみたら、2007年の12月に書いた原稿が見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 霊感商法が、またまた増殖しているという(中日新聞・2007・12・20)。

 いわく、「悪質な霊感商法が、再び増えている背景には、(前世)(生まれ変わり)などの言葉がメディアをにぎわせ、(ヒーリング)(スピリチュアル)といったブームがあるようだ」(同紙)と。

わかるか?

アホな番組を一方で、無分別に垂れ流すから、それを真に受けた純朴な人たちが、だまされる。

全国霊感商法対策弁護士連絡会で活動している、WH弁護士は、つぎのように語っている。

 「有名人がスピリチュアルについて語るなど、ブームにより警戒心が薄れ、霊感商法への敷居が低くなった。被害にあいやすくなっている」(同紙)と。

 たとえば……、
「死んだお父さんが、助けを待っている」
「(あなたは)昔、祖父が殺したヘビの生まれかわりだ」(同紙)などといって、祈祷料を取られたり、物品を買わされたりする、と。

 「今月4日(=12月4日)に行われた電話相談で、寄せられた電話はわずか4時間ほどの間に、59件、被害金額では計1億3300万円にのぼった。2000万円もの被害を訴えた人もいたという」(同紙)ともある。

中には、「スピリチュアルな子育て法」などという、これまた「?」な育児本まである。書店へ行くと、この種の本が、ズラリと並んでいる。

 「前世」だの、「来世」だの、バカなことを口にするのは、もうやめよう。
釈迦ですら、そんなことは一言も言っていない。
ウソだと思うなら、『法句経』を、ハシからハシまで読んでみることだ。
そんなアホな思想が混在するようになったのは、釈迦滅後、数百年もしてからのこと。ヒンズー教の輪廻転生論がそこに入り込んだ。

いわんや、占星術?
 ばか!
 アホ!
 インチキ!

 あのね、占星術は、立派なカルト。
そういうものを、天下の公器をつかって、全国に垂れ流す。そのおかしさに、まず、私たちが気づかねばならない。
私がたまたま見たテレビ番組の中では、どこかのオバチャンが、こう言っていた。

「あなたの背中には、ヘビがとりついている。毎朝、20回、シャワーで洗いなさい」と。

もう、うんざり!
 反論するのも、いや!
 ばか臭い!

が、問題は、子どもたち。

 10年ほど前だが、私が調査したところでも、約半数の子どもたち(小学生、3~6年生)が、占い、まじないを信じていた。
今は、もっと多いのでは……? そしてそれが日本の子どもたちの理科離れの一因になっているとも考えられる。

 子どもたちに与える影響を、少しは考えろ。
あるいは自分の頭で、少しは考えて、番組を作れ!
それとも君たちは、どこかのカルト教団と結託しているのか?

 年末にかけて、この種の番組が、ますますふえている。
思考力をなくしたテレビ局。思考力をなくしたプロデューサー。そして視聴者たち。
日本人は、ますますバカになっていく。私には、そんな気がしてならないのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの指導では

 学校教育の場では、宗教論、政治論はタブーになっている。
その理由はよくわかる。
宗教論にせよ、政治論にせよ、それらは両刃の剣。
宗教を否定しても、それ自体が宗教論になる。
政治論にしても、一方を否定すれば、その反射的効果として、他方の支持につながる。
私も、いろいろな失敗をした。

 それについては、このあとに原稿を添付しておく。
日付は不明だが、2001年ごろ書いた原稿ではないかと思う。
 が、家庭においては、もしあなたが私の意見に賛同してくれるなら、子どもの前では、きっぱりと否定したらよい。
そういう毅然とした態度、姿勢が、子どもの中で、合理的な判断力を育てる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【宗教論】byはやし浩司(2001年ごろの原稿より)

●宗教について

●霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。

 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じた」とか言う。
これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなければならない。
数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。
しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難のワザである。

 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。
非公式の調査でも、約七〇~八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。
「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。
で、それはそれとして、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はいくらでもいる。
またこの出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。
たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万件ものアクセスがあるという(二〇〇一年秋)。

 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできない。
だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。

 私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、ものの考え方を一八〇度変えなければならない。
これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじのようなものだ。
宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。
「当たるかもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。
もちろん当たれば、もうけもの。そのときはそのときで考えればよい。

 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。
見たことも、感じたこともないのだから、これはしかたない。
で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけもの。
それから霊の存在を信じても遅くはない。
何と言っても、霊の世界は無限(?)

 時間的にも、空間的にも、無限(?)
 そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足りない小さなもの(?)
 
 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。
だからこの世界を、まず大切にしたい。
神様や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。ただ言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。
人間として懸命に生きる。
そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様のほうこそ、まちがっている。

 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼りたくない。
私は私。どこまでいっても、私は私。

 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(1)

 小学一年生のときのことだった。
私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

 そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

 「奇跡」という言葉がある。
しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。
「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

 一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。
どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは!

 あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……?

 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。
窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

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宗教について(2)

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。
 たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。
これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

 しかしこれでは意味がわからない。
こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。
宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。
要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。
つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。
しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。
「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。
頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。
つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。
問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

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宗教について(3)

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。
その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。
他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

 私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。
いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。
悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か?

 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。
しかしそれは地獄でも何でもない。
教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。
さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまう。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

 人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。
医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。
しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(4)

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。
こんな失敗をしたことがある。
一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。
「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私はこう言った。
 「バチなんてものは、ないのだよ。
それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

 翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。
「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。
その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。
一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「
先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。
私は「真理」のことだと思ってしまった。
そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。
実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。
その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。
が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。
一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。
夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。
そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。
叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。
その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(5)

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。
そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
だから宗教を否定しても意味がない。
それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。
その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。
それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。
そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。
その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。
「先生、神様って、いるの?」と。
私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。
おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。
あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。
そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。
霊魂や幽霊についても、そうだ。
ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。
信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。
「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。
いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独

 孤独であることは、まさに地獄。
無間地獄。だれにも心を許さない。
だれからも心を許されない。
だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。
だれも愛さない。
だれからも愛されない。
……あなたは、そんな孤独を知っているか?

 もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自分の心に、耳を傾けてみよう。
あなたは何をしたいか。
どうしてもらいたいか。それがわかれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。
あなたの中のあなた自身を信ずればよい。
あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇万年を生きてきた、常識が備わっている。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。
ほかの人に親切にすれば、心地よい響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、どこまでも誠実に生きる。
ウソをつかない。
飾らない。虚勢をはらない。
あるがままを外に出してみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。
ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこまでも誠実に生きてみる。
人を助けてみる。人にものを与えてみる。
聞かれたら正直に言ってみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。
が、もし、あなたが進んで心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周囲の人を温かく、心豊かにする。
一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たくし、邪悪にする。
だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。
静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。
言いたいと思うことを言えばよい。
ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、逃れることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
たったこれだけのことで、あなたはあなたの常識をみがくことができる。
大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさないこと。

 手始めに、空を見てみよう。
あたりの木々を見てみよう。
行きかう人々を見てみよう。そして今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよう。
つっぱることはない。
いじけることはない。
すねたり、ひがんだりすることはない。
すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。
そのときは、「今夜は家には戻らない」と、そう思った。
しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけてみた。
「お前は、ひとりで寝たいのか?
 ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。
すると本当の私がこう答えた。
「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝たい」と。

 そこで家に帰った。
帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだった。
自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。
しかし私がそうして心を開いたとき、ワイフも心を開いた。
と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。
さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。
あなたの心に、がまんすることはない。
ごまかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。
あなたが心を開かないで、どうして相手があなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。
みなは、それができないから、苦しんだり、悩んだりする。
本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認め、自分が弱いことを認める人をいう。
みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をはったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
一見、何でもないことのように見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無間地獄から抜け出る、最初の一歩となる。
(以上、2001年ごろに書いた原稿)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年10月23日の朝に

 ロイターNEWSを読んで、改めて「宗教とは何か」について考えた。
 言うまでもなく宗教とは、教えに沿ってするもの。
儀式ではない。
教え。
中身。
儀式をしたからといって、宗教を信じていることにはならない。
儀式がまちがっているというのではない。
ただ儀式には、えてして、盲目性がともなう。
その盲目性が、こわい。
理性の目を曇らす。

 が、最近の私は、さらにちがった考え方をするようになった。
カルトに身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。
しかしそれは同時に、自分の時間、つまり命を無駄にする行為である、と。
そういうふうに考えるようになった。

 そうでなくても、真理への道は遠い。
寄り道をしているヒマはない。
おかしな思想を、(思想と言えるようなモノではないが……)、注入されれば、その時点で回り道をすることになる。

 若いときはそれでもよいかもしれない。
いろいろな経験のひとつとして、回り道をする。
しかし60歳を過ぎると、そうはいかない。
命そのものが、秒読み段階に入る。
私のばあいも、平均余命まで、あと15年になった。
「15年」というと、長い年月に感ずるかもしれない。
しかしそれもあっという間に過ぎる。
それが60歳を過ぎると、実感として、よくわかるようになる。

 現に今、こうして過去に書いた原稿をさがしてみた。
それをここに添付した。
日付を調べてみると、2001年ごろに書いた原稿ということがわかる。
つまり、もうそれから10年の年月がたっている。
「もう10年!」と驚くと同時に、「この先の10年も、同じようにあっという間に過ぎていくにちがいない」と思う。

 だから回り道をしているヒマはない。
……という意味で、カルトには気をつけたほうがよい。
私たちは私たちで、自らの足で立って生きていく。
不完全でもよい。
失敗つづきでもよい。
懸命に生きていく。
そこに私たちが生きている意味がある。

 要するにこれから先も、わけのわからないことを口にするカルト教団がつぎつぎと現れてくるはず。
そういうものには、じゅうぶん、警戒したらよい。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年01月03日朝

 今朝は、占いからはじまり、宗教について考えてみた。
この文章の中に出てくる、「富山市U市の男性」というのは、「新潟県X市の男性」である。
よく覚えている。
私の家まで、2度も来てくれた。
またそのあと、毎年、新潟産の米を届けてくれた。

 もう10年近くも前のことである。
今、その男性を思い浮かべながら、「元気だろうか?」と思った。
遠い昔のような気もするが、ごく最近のできごとのような気もする。

 大切なことは、思考力。
自分で考えるという思考力。
最後に、思考力について書いた原稿を掲載する。
こうしたカルトと闘うためには、思考力しかない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力とは何か

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。 

「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、
「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル(「パンセ」)、
さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。
それほど楽なことではない。
それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。
いろいろな条件を組み合わせながら解くのだが、それで解ければよし。
しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。
子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

 もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救われる。
大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテルを張られてしまう。
だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。
が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じような苦痛がついて回る。

 それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。
そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。
一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性

……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。
とくに人生論や価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。

●退化性

……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。
それはスポーツ選手が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。

●先鋭化

……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。
ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。
もちろんこのほか、年齢的な問題もある。
私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。
集中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。
そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止する人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。
個人差というより、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。
概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構造になっていない。
それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると考えられる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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