2012年1月28日土曜日

*Mother Cmplex in "Always, the sunset at 3-chome"

【ALWAYS、3丁目の夕日 ’64】

++++++++++++++++++++

私たちの世代には、冒頭からググーッとくる映画だった。
だから私たちの世代は、ググーッと楽しめばよい。
何も考えず、ググーッと楽しめばよい。

「ALWAYS 3丁目の夕日 ’64」は、そういう映画。
私が17歳(高校2年生)のときの映画ということになる。

(もともとそういう意図でもって作られた映画。
素直にその意図に乗って、楽しめばよい。)

星は、4つの★★★★。
身を切るような深夜の冷を、ものともせず、市内の劇場まで足を運んだ。
笑った、泣いた……。
よかった。

が、ほめてばかりいてはいけない。
気になった点は、いくつかある。

その第一。
完ぺきに近いほど、「マザコン映画」。
登場する男性は、みな、3枚目。
バカ丸出し。
その一方で、女性は、みな、マドンナ(聖母)。
人格の完成度が、きわめて高い。
それが不自然すぎるほど、極端。

プラス、権威主義。
合計で3人の医師が登場するが、3人とも神がかったほど、崇高な精神の持ち主ばかり。
人道主義者(ヒューマニスト)。
それが監督(作者)がもっている「医師観」なのだろうが、本当にそうかな?
そう考えてよいのかな?
これも極端すぎる。

さらに言えば、茶川竜之介の父親が登場するが、「こんな父親はいるのかなあ?」と。
森進一が歌う『♪おふくろさん』そのままのような、父親。
息子をあえて崖っぷちに立たせるため、演技で(?)、息子を勘当(=絶縁)したという。
勘当しながら、息子の活躍を、陰で喜んでいたという。
つまりお涙頂戴映画。

『送り人』もそうだったが、このところ、この種のお涙頂戴映画が、日本映画の流行にもなっている。

++++++++++++++++++++++++

●マドンナ(聖母)

 この映画の監督(作者)がそうというのではない。
(私自身は、コミック版の原作を、ほとんど読んでいない。)
一般論として、マザコン男性ほど、マドンナを求め、女性の間を渡り歩く。
が、マドンナと言えるような女性は、今どき、存在しない。
(存在するわけがない!)
だから、これも一般論だが、マザコン男性ほど、浮気しやすく、離婚しやすいと言われている。

 マドンナ……どんなわがままを言ったりしたりしても、いつも自分を暖かく包んでくれる、聖母のような女性をいう。
慈愛に満ちた母親のように、自分を理解し、深く愛してくれる、聖母のような女性をいう。

 それについては、いくつかの原稿を書いたことがある。
あとで紹介することにして、もう一点。

●恋愛至上主義vs恩義

 映画の中で、自動車工場に勤める若い女性が、医師に求婚される。
そのとき、若い女性(堀北真希演ずる六子)が、結婚すべきかどうかで悩み、迷う。
世話になった店の主人や妻への「恩義」のはざ間で、悩み、迷う。

 ……というか、私が若いころは、みな、そうだった。
私人も、学生時代、恋愛を経験した。
しかし収入がないこと、親や家の問題、未来が不確定であったこと、相手の女性の家の格式などなどを考え、別れた。
もちろん親への恩義も、無視することができなかった。
そういうことを考え、結婚には至らなかった。

 が、現在はちがう。
恋愛したとたん、ノーベル賞か何かでも取ったかのように、それを第一に考え、そのまま結婚へ、突っ走ってしまう。
またそうであることを、「理想」であるかのように錯覚している。
映画『タイタニック』のジャックとローズを思い浮かべればよい。
これを称して「恋愛至上主義」(はやし浩司)という。

 映画を観ながら、「今の若い人に、そういう心理は理解できないだろうな」と、そんなことを考えた。

「そういう心理」というのは、「恩義という心理」である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

今までに書いた原稿をいくつか紹介します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●理想の女性

 「Y」という、雑誌を購入。
私たちの年代層をねらった雑誌。
それを読みながら、ワイフが、こう言った。

 「男って、死ぬまで、理想の女性を追い求めるって、ホント?」と。

 雑誌を横取りしてみると、それには、こうあった。
ある舞台監督と女優との対談だった。
K(監督)「男っていうのはね、死ぬまで、理想のマドンナ(聖母)を、追い求めるものなんですよね。
女性には、それがありませんか?」
S(女優)「女性には、ないと思います」と。

 私は、それを読んで、すかさずワイフにこう言った。
「理想の女性を追い求めるという姿勢は、マザコンの特徴の一つだよ」と。

 つまりマザコン性の強い男性ほど、頭の中で、理想の女性を夢想する。
つまり究極まで自分を愛してくれる女性を、だ。
わかりやすく言えば、自分の母親の代用してくれる女性を追い求める。

 言うまでもなく、このタイプの男性は、無意識のうちにも、「母親」から、自分を切り離
すことができない。

 だから一般論として、つまり心理学の常識として、マザコン性の強い男性ほど、現実の女性を愛することができない。
そのため、浮気率が高くなる。
女性から女性へと、渡り歩く傾向が強くなる。
当然のことながら、離婚率も高くなる。
 実際、このタイプの男性と、結婚生活をつづける妻は、たいへん! ……と思う。
このことは、反対の立場で考えてみると、わかる。

 もしあなたの妻が、何かにつけて、あなたに、理想の「男」を、求めたとしたら、あな
たはどうするだろうか。
たくましくて、包容力があって、生活力もある。
おまけにハンサムで、かっこいい。
どんなことをしても、許してくれる。さいごのさいごまで、あなたのめんどうをみてくれる……と。

 多分、あなたは、こう言うだろう。
「やめてくれ! オレは、ふつうの人間だ!」と。

 対談した女優が、「女性には、ないと思います」と答えたのは、しごく当然のことである。

私「この監督は、自分が、マザコンであることに気づいていないね」
ワイフ「でも、何かと、話題作を発表しているわよ」
私「だから、こういう雑誌で、対談しているんだろ」
ワ「そうね」と

 理想の女性などというのは、いない。
いるはずもない。だから追い求めるだけ、ムダ。
追い求められる女性のほうだって、疲れる。
その監督は、若くして、母親をなくしている。
だからよけいに、母親の代用をしてくれる女性を、心の中で追い求めているのかもしれない。

私「ある男性はね、会社で昇進したりするとね、奥さんに電話をする前に、実家の母親に電話をしていたそうだよ」
ワイフ「マザコンね」
私「そうだよ。しかしね、本人は、そうは思っていない。自分は、親思いの、孝行息子と思いこんでいた」
ワ「奥さんも、たいへんね」
私「そこでこのタイプの男ほど、自分の母親を美化する。『ぼくの母は、ぼくが、そうするにふさわしい人だ』とね」

ワ「自分の母親が、理想の女性というわけね」
私「そう。究極の愛で自分を包んでくれる、理想の女性というわけだよ」
ワ「でも、そうして、男は、マザコンになるの?」
私「女性にも、マザコン性の強い人はいるよ。でも、やはり男性に多い。理由は、結論を
先に言えば、父親不在だからだよ」
ワ「父親の存在感がないということ?」

私「そう。子どもは、だれしも、母親との絶対的な関係の中で、生まれ育つ。それが悪い
というのではない。それは人間の成長には、必要不可欠なものだ」
ワ「が、そのままになってしまったというわけ」
私「そうなんだよ。そこで、その絶対的な関係を、是正するのが、父親の役目ということになる。が、その父親の存在感がない。だから、濃密な母子関係のまま、おとなになってしまう」

ワ「でもね、もし、その父親が、マザコンだったら、どうするの」
私「ハハハ、それは問題だア。どうするんだろ。困った問題だね」と。
 しかし、こうまで堂々と、自分のマザコン性を主張する人がいるとは! もちろん本人は、それに気づいていない。対談の内容は、要するに、その監督は、舞台芸術をとおして、理想の女性を追い求めているということだそうだが……。
 しかし……?

 (マザーコンプレックス)いわゆるマザコン。
成人した男性が、母親との間に、依存関係を保ち続け、そのことに疑問や葛藤を感じていない状態。
このような男性は、母親からの過剰な愛情によって、青年期に達成されるべき、同年代の異性との交友関係をもつために必要な人格の確立ができなかったと考えられる(深堀元文「心理学のすべて」)。

(教訓)

 母親は、子育てをする。
それは当然だが、子どもがある年齢に達したら、子どものほうが、親離れするように、仕向けなければならない。
あるいは父親が、母子関係に割って入り、その関係を是正しなければならない。
「ある年齢」というのは、多少個人差はあるが、年齢的には、満8歳前後をいう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【女性のマザーコンプレックス】

+++++++++++++++++++++

マザコンというと、男性だけの問題と
考えている人は多い。
しかし女性のマザコンも、それと
同じくらい、多い。

+++++++++++++++++++++

●依存と愛情(Mother Complex)

+++++++++++++++++

「マザコン」というと、男性だけにある
特異な現象と思っている人は多い。

しかし女性にも、マザコンの人は
いくらでもいる。
同性というだけで、目立たない。

これについては、何度も書いてきた。
ここでは、さらにもう一歩、話を進めて
みたい。

これには男性も女性も関係ないが、
母親にベタベタと甘えているからといって、
それだけ、母親への愛情が深いかという
と、そういうことはない。

マザコン性というのは、母親への依存性を
いう。
依存性イコール、愛情の深さではない。

よくあるケースは、それまではマザコンで
あった女性が、母親が認知症になったとたん、
母親への虐待し始めるというもの。

依存できなくなったときが、縁の切れ目(?)
ということか。

もちろん、中には、そのままの状態で、見た目には
良好な(?)人間関係をつづける親子もいる。
しかしそういうケースは、少ない。

つまりマザコンタイプの人は、常に「理想の
女性像(マドンナ)」を、母親に求める。
母親は、常に、その理想の女性でなければ
ならない。

が、母親がその期待(?)に応えられなく
なったとき、マザコンタイプの人は、それを
すなおに受け入れることができない。
あるいはそれを許すことができない。

たいてい、その段階で、はげしく葛藤する。

ある女性(60歳くらい)は、自分の母親が
認知症になりつつある段階で、そのつど、
パニック状態になってしまった。

母親が、就寝中に尿を漏らしただけで、親戚中に
電話をかけたりした。

「お母さんが、オシッコを漏らしたア~!」と。

が、先にも書いたように、依存性イコール、愛情の
深さではない。

たとえば夫婦についても、そうで、配偶者に
強い依存性があるからといって、つまり見た目には
ベタベタに仲のよい夫婦に見えたとしても、
たがいに深い愛情があるとはかぎらない。

言うまでもなく、「愛」というのは、どこまで
相手を「許して忘れるか」、その度量の深さで決まる。
つまりその分だけ、愛には、常に孤独と苦しみが
ともなう。

さらに言えば、愛には熟成期間が必要。
たがいに困苦を乗り越え、その結果として、
人は「愛」を自覚することができるようになる。

一方、依存性は、その人自身の情緒的欠陥、精神的
未熟性に起因する。
情緒的欠陥、精神的未熟性をカバーするために、
相手、つまり母親(父親、配偶者)に依存する。

「母親に依存する」ということと、「母親を愛する」
ということは、まったく異質なものである。

このことは子どもの世界を見れば、よくわかる。

親に依存している子どもは多いが、親を愛している
子どもというのは、皆無とみてよい。
あっても、「思いやり」程度。
たとえば病気になった親を、看病するとか、など。
年少の子どもであれば、なおさらである。

子どもが「愛」を自覚するのは、思春期前夜から
思春期にかけてである。

また話は少しそれるが、よく「マザコン男性ほど、
離婚率が高い」と、言われる。
それもそのはずで、つまりその分だけ、マザコン男性は、
配偶者に、理想の女性(マドンナ)像を求めすぎる。
あるいは押しつけすぎる。
それが夫婦の間に、キレツを入れる。

さらにマザコンタイプの人ほど、自分がマザコン的で
あることを正当化したり、ごまかすため、
母親を、ことさら美化する傾向が強い。

(ファザコンも同じように考えてよい。)

「私の親を批判したり、悪口言ったりするヤツは、
たとえ女房、子どもでも許せない」と息巻くのは、
たいていこのタイプの男性と考えてよい。
(男性にかぎらない。女性でもよい。)

話をもどす。

人間関係、とくに親子関係、夫婦関係を見るときは、
この(依存)と(愛情)に焦点をあてて考えて
みるとよい。

また別の人間関係が見えてくるはず。

+++++++++++++++++++

以前書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++++

●マザコンの果てにあるもの

++++++++++++++++

マザコンについて、補記します。

++++++++++++++++

 子どもをでき愛する親は、少なくない。
しかしでき愛は、(愛)ではない。
自分の心のすき間を埋めるために、親は、子どもをでき愛する。
自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うために、子どもを利用する。
つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。
代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。
つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。
このタイプの親は、自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。
無意識のまま、そうする。こうしてたがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。
いくつかの特徴がある。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
でき愛ぶりを、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。
ベタベタというか、ドロドロしている。
自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。
ある母親は、私にこう言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子どもをなぐりつけたくなります。
その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。
しかし概して言えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。
父親がいるかいないかわからないといった、状態。

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコンになるケースは少なくない。
むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになるよりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっしょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。
が、それが40歳の娘であったりすると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏見が、娘のマザコン性を見逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。
したがって、それから生まれるマザコン性もまた、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。
いつも、心のどこかで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取られた」と、みなに訴えた。
そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。
マザコンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというのは、心の奥の内側の問題である。
外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人はいくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それに気づくことは少ない。
……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘したりすると、こう答えたりする。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサになれと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視しやすい。
美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、正当化するために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。
また親は親で、子どもが中学生くらいになったら、子離れをする。
こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならなくなることがある。
そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。
宗教にたとえるなら、本尊のようなもの。
その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定することに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。
マザコンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。
親は、悪人であってはならないのである。
また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すことができない。

 そして母親が死んだとする。
依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこそ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ~ん」と、泣き叫ぶようになる。

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるようになる。
そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。
ある男性(映画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そういうものです」と。
(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困るが……。)
自ら、「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。
子どもをマザコンにして、よいことは、何もない。

(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 マドンナ 映画監督 マザコン マザコン映画)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんどうをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。

(はやし浩司 マザコン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘 はやし浩司 マザーコンプレックス マドンナ 女性のマドンナ化 偶像化 理想の女性形)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。