2012年1月25日水曜日

●2011年の終わりにbyはやし浩司

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 1月 31日臨時号
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【1】2012年01月31日臨時号□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●寒い朝(12月27日)

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昨日、最後の歳暮の品を、発送した。
「最後」というのは、私はそれぞれの人に、
それぞれの歳暮の品を、送っている。
親類の人たちには、正月に口にしてもらえるのが、
いちばんよい。
そう考え、親類の人たちには、
いつもぎりぎりの年末に送っている。

今日は、12月27日。
火曜日。

昨日、日本列島は、今年いちばんの寒気に見舞われたとか。
この浜松市でもわずかだが、雪が降った。
寒いというより、冷たかった。
夕方、ワイフと市内のレストランへ行ったが、
肌が切れるような冷気を感じた。
そのころ気温は、2~3度ではなかったか。

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【リビドーvsサナトス】(創造vs破壊、生と死のはざまで……)

●心理学で考える、善と悪

●隕石

 昨日、子ども(中学生)たちと、隕石の話になった。
1人が、「2012年に、巨大な隕石が落下し、人類が滅亡するかもしれない」と言った。
それに答えて、ほかの子どもたちが、「おもしろい」とか、「○○国に落ちればいい」とか言った。

 「この日本に落ちるかもしれないよ」と私が言っても、本気にしない。
むしろ楽しみにしているような雰囲気さえある。
ことに深刻さが、まるでわかっていない。
が、こうした心理を、どう理解したらよいのか。
つまり危機的状況を、子どもたちは明らかに楽しんでいる。
こうした心理を、どう理解したらよいのか。

●死へのあこがれ(サナトス)

 フロイトは、「生への欲求」を、「リビドー」と定義した。
その「リビドー」に対して、人間には、「死への欲求」もあると説いた。
「死への欲求」を、「サナトス」という。

 ここでいう「サナトス」とは、自己に向かう破滅的な力を、総称していう。
必ずしも「死」もしくは、「自殺」を意味するのではない。
当然のことである。

 この2つの相反した欲求が、人間の中で、同時に起こる。
「生」と「破滅」。
このことは、年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる。
生命力(=リビドー)そのものが弱くなり、その陰から破滅的なエネルギーが顔を出してくる。
つまり(リビドー)を、生産的な生命力とするなら、(サナトス)は、破滅的な破壊力ということになる。

●創造vs破壊

 誤解してはいけないのは、(サナトス)自体が、エネルギーであるということ。
虚無的になり、逃避し、その結果として「死にたい」というのとは、中身がちがう。
ちがうことは、子どもたちの世界をのぞいてみると、わかる。

 たとえば子どもたちと、ドミノ倒しをしたとする。
ドミノを順に並べ、あとでそれを倒す。
(積み木遊びでも、何でもよい。)

 すると子どもたちの心理が、(リビドー)と(サナトス)の間で、はげしく揺れ動いているのがわかる。
「長く並べたい」という思いは、創造性によるものと考えられる。
「早く倒してみたい」という思いは、破壊性によるものと考えられる。
この両者が、交互に顔を出し、子どもたちの行動を裏から操る。

●フロイト

 フロイトの理論でたいへん興味深いのは、つぎの点である。
フロイトは、ひとつの心理状態があるとすると、他方に、それと相反する心理状態があると考える。
こうした相反する心理状態を、フロイトは、「アンビバレンツ」と名づけた。

 このことは、交感神経と副交感神経に結びつけて考えてみると、わかりやすい。
人間の脳の命令は、つねに(プラス)と(マイナス)が、同時に働く。
「動け」という命令に対して、「止まれ」という命令。
どちらか一方が強すぎると、行動はちぐはぐなものとなる。
つまりこの両者が、バランスよく働いたとき、人間の行動はスムーズなものとなる。

 人間の心理にも、同じように考えることができる。

●プラス型vsマイナス型

 幼児に接していると、常に(プラス型)と(マイナス型)があるのがわかる。
たとえば同じ赤ちゃん返りという現象にしても、下の子ども(弟、妹)に対して攻撃的になるケースがある。
嫉妬がからんでいる分だけ、執拗かつ陰湿になりやすい。
反対に、ネチネチと甘ったるい言い方をし、赤ちゃんぽく演ずることによって、親の関心をひこうとするケースもある。
5、6歳児になって、とつぜん、おもらしをしたりするなど。
(この両者の混在型もあるが……。)

 フロイトも、たぶん、同じような現象をどこかで見たにちがいない。
「生きたい」という欲求があるなら、当然、「死にたい」という欲求もあるはず。
フロイトがそう考えたところで、何もおかしくない。

●バランス

 要はバランスの問題ということになる。
そのバランスをうまくコントロールしながら、良好な人間関係を保つ。
そのコントロールする力が、「理性」ということになる。
またそれができる人のことを、人格の完成度の高い人という。
ピーター・サロベイのIQ論を引き合いに出すまでもない。

 最初の話に戻る。

 子ども(中学生)たちは、隕石の話をしながら、「そうであってはいけない」という思いと、「そうあってほしい」という思いの中で、揺れ動く。
が、子どもたちであっても、そこに理性の力が働く。
「そうであってほしい」という思いは、冗談として、脳の中で処理される。

 もっとわかりやすい例としては、銀行強盗がある。
私もよく夢想する。
「どうすれば、うまく強盗ができるか」と。
そのときも、「やってみたい」という気持ちと、「やってはだめだ」という気持ちが、同時に働く。
しかし実際に、行動に移すことはない。
脳の中で、強いブレーキが働く。
それが「理性の力」ということになる。

●距離感

 こう考えていくと、では「理性の力」とは、何かということになる。
もちろん程度の差がある。
力の強い人もいれば、そうでない人もいる。
そこでその程度を決めるのが、「距離感」ということになる。

 先に銀行強盗の例をあげた。
わかりやすいから、銀行強盗にした。

 その銀行強盗。
「一度、危険を犯せば、一生、楽な生活ができる」というのは、たしかに魅力的に聞こえる。
あとは遊んで暮らせる。
(もちろん失敗すれば、一生、刑務所の中で過ごすことになるが……。)
だれかが、「おい、林、一度してみないか?」と言ったとする。
そのとき、私は、それをどう思うだろうか。

 ……そこでこう考える。
銀行強盗をするにも、銀行強盗から遠い距離にいる人がいる。
頭の中で空想することはあっても、「実行」ということは、まったく考えない。
が、ひょっとしたら、何かのきっかけさえあれば、「実行」を考える人もいるかもしれない。
このタイプの人は、それだけ銀行強盗に近い距離にいるということになる。
つまりこの「距離感」をつくる力こそが、「理性の力」ということになる。

(私は映画が好きだから、よく映画のシナリオを自分で考える。
そのひとつとして、銀行強盗を頭の中で夢想する。
どうか誤解のないように!)

●サナトス

 さらに踏み込んで考えてみよう。

 フロイトの理論に従えば、リビドーの強い人は、当然、サナトスも強いということになる。
反対にリビドーの弱い人は、当然、サナトスも弱いということになる。

「生きよう」という力の強い人であれば、お金に困れば、銀行強盗を、より強く考えるかもしれない。
反対に、もとから「生きよう」とする力の弱い人であれば、銀行強盗を考える力も弱いということになる。

 つまり「銀行強盗を考えない」からといって、理性の力が強いということにはならない。
もとから生きる力の弱い人は、銀行強盗をしようという気力も弱い。

●善人論vs悪人論

 このことはそのまま、善人論、悪人論に結びつく。

 よいことをするから、善人というわけではない。
(善人の仮面をかぶり、悪いことをしている人はいくらでもいるぞ!)
悪いことをしないから、善人というわけでもない。
(小さな世界で、小さく生きている人は、いくらでもいるぞ!)
善人が善人であるためには、そこにある「悪」と積極に闘わねばならない。
その積極性のある人を、「善人」という。

 つまり「生きる力(リビドー)」の強い人は、「死にたいという力(このばあいは、破滅的な力)」も、同時に強いとことになる。
言い換えると、その分だけ、「理性の力」も、強くなければならない。
もし生きる力だけが強く、理性の力が伴わなければ、その力は破滅的な方向に向かってしまう。
生きる力が強い人は、それだけ悪に手を染めやすいということにもなる。

●バランス感覚

 そこで重要なのが、バランス感覚。

 私たちは、(生きたいという力)と、(死にたいという力)、
(創造したいという願望)と、(破壊したいという願望)、
さらに言えば、(善)と(悪)。
その相反するエネルギーの中で、絶妙なバランスを保ちながら生きている。
このバランスが崩れたとき、悪人は悪人になる。
行動が破滅的になり、それがときとして自分に向かう。

 さて、本論。

●老人論

 私は先に、こう書いた。
「年をそれなりに取ると、実感として理解できるようになる」と。
その理由は、年を取ると、生きる力が弱くなる。
そのためそれまで姿を隠していた、サナトスが、姿を現すようになる。
現在の「私」についてではなく、過去の「私」について、である。

 その点、子ども(中学生)たちは、正直に自分を表現する。
自分を隠さない。
しかし同時に、それは私自身の過去の姿でもある。
私も心のどこかで、こう思ったことがある。
「隕石か何か落ちてきて、地球なんか、木っ端微塵に壊れてしまえばいい」と。

 実のところ、最近でもときどきそう思う。
そういう自分が、よく見えるようになる。

●善人vs悪人

 ……こうして考えていくと、結論はただひとつ。
善人も悪人も、違いは、紙一重。
ついでに言えば、成功者も失敗者も、違いは、紙一重。
見た目には大きな違いに見えても、紙一重、と。

 被災地で被災者のために懸命に働く人を、私たちは善人と言う。
隕石の落下を望むような人を、私たちは悪人と言う。
が、そのちがいは何かと言えば、その間には、何もない。
ちょっとしたきっかけで、善人は悪人になる。
悪人は善人になる。

 善人の裏には悪がある。
悪人の裏には善がある。
善だけの善人はいない。
悪だけの悪人はいない。

 ではそのちがいは何かと言えば、「理性の力」ということになる。

 そのきっかけを、どう作っていくかが、結局は「教育」ということになる。
先に書いた「距離感」を作っていくのが、「教育」ということになる。

 今朝は、善と悪について、心理学の立場で考えてみた。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

以下、2006年にBLOGで発表した原稿です。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【善と悪】(2006-04-28記)
 
●昆虫のような脳みそ

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「昆虫のような脳みそ」と書いたことに
ついて、コメントの書きこみがあった。

「お前は、いったい、何様のつもり?」と。

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 「昆虫のような脳みそ」という言葉を使ったことに対して、コメントの書きこみがあった。「お前は、いったい、何様のつもり?」と。

 たしかに辛(しん)らつな言葉である。私も最初聞いたとき、そう思った。恩師のT教授が、いつも口ぐせのように使っている言葉である。いつの間にか、私も、そのまま使うようになってしまった。しかし、私にも、言い分がある。

 いつだったか、私は、善と悪は、平等ではないと書いた。西欧社会では、『善は神の左手、悪は神の右手』と説く。しかし平等ではない。

 善人になるのは、意外と簡単なことである。約束を守る、ウソをつかない。この2つさえ守れば、どんな人でも、やがて善人になれる。

 しかし自分の中に潜む悪を、自分から追い出すことは、容易なことではない。とくに乳幼児期までに心にしみついた悪を追い出すことは、容易なことではない。生涯にわたって、その人の心の奥底に潜む。

 それについては、以前に書いたので、ここでは、そのつぎを考えてみたい。

 仮にここに10人の人がいたとする。が、そのうちの9人が善人でも、1人が悪人だったとする。数の上では善人のほうが、多いということになる。が、やがてその9人は、1人の悪人に、翻弄(ほんろう)されるようになる。最悪のばあいには、9人の善人たちは、たった1人の悪人の支配下に置かれるようになるかもしれない。

 悪のもつパワーには、ものすごいものがある。一方、善の力は、弱い。善人たちが集まって考えた、社会のルールやマナーが、少人数の悪人によって、こなごなに破壊されるということも、珍しくない。

 この点でも、善と悪は、平等ではない。

 恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」という言葉を使う背景には、もつろん軽蔑の念もある。しかしそれ以上に、いつも私は、そこに怒りの念がこめられているのを感ずる。「せっかく知的な世界を作ろうとしているのに、昆虫のような脳みそをもった連中が、それを容赦なくこわしてしまう」と。

 T教授は、あの東大紛争(1970)を経験している。T教授の理学部研究室は、その東大紛争の拠点となった安田講堂の向かってすぐ右側裏手にあった。そのため、T教授の研究室は、爆弾でも落とされたかのように、破壊されてしまった。うらみは大きい。日ごろは穏やかな恩師だが、こと学生運動については、手きびしい。「昆虫のような脳みそ」という言葉は、そういうところから生まれた(?)。

 「私は善人である」と、自分を悪人の世界から分けて考えることは、簡単なこと。悪いことをしないから、善人というわけでもない。よいことをするから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は、善人になれる。

 その(戦う)という部分に、この言葉がある。「昆虫のような脳みそ」と。「サルのような脳みそ」という言葉もある。そういえば数年前にベストセラーになった本に、「ケータイをもったサル」というタイトルのもあった。

 あえて言うなら、「昆虫のような脳みそ」というのは、「バカの脳みそ」ということになる。しかし誤解しないでほしい。「バカなことをする人を、バカ」(「フォレスト・ガンプ」)という。知的な能力をさして言うのではない。恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」と言うときは、「せっかくすばらしい能力をもちながらも、その能力を、悪のために使ってしまう人」を意味する。

 だから何も遠慮することはない。この言葉は、堂々と使えばよい。昆虫のような脳みそをもった人たちを見たら、そう言えばよい。何も善人が、遠慮して生きる必要はない。遠慮したとたん、私たちは、その悪人の餌食(えじき)になる。

 このエッセーが、そのコメントを書いてきた人への、反論ということになる。(コメントそのものは、即、削除してしまったが……。)

 で、私が何様のつもりかって? ハハハ、見たとおりの、ただのドンキホーテ。セルバンテスの男。ハハハ。

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4年前に書いた原稿を、ここに添付します。

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●善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているのがわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリスト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべてが、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「~~しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツを並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ているとか、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。ときとして、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づかない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)ことにはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げているだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこで改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書いたが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、これから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろうか。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲んではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースでは、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくない」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それを説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できるというわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなってしまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、「神の力」ということになる。
(02-10-25)※

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●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われるとか、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をいう。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこに小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。

 いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)をここに転載する。

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●四割の善と、四割の悪
(以前、掲載したのと同じ原稿です。お許しください。)

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答えている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それがわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけをどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。

問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)

 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「子どもたちへ」より)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司






Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●数遊び

今日のテーマは、数遊び。
年中児(4~5歳児)のみなさんです。
数をテーマに、子どもの脳をいろいろな角度から、刺激してみました。


(1)


(2)


(3)


(4)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司


【2011年の終わりに】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【今日が仕事納め】(明日から、冬休み!)

●サイゼリアで夕食(12月27日)

 夜のクラスまでに、1時間半の空きができた。
ワイフと2人で、サイゼリア(レストラン)へ行った。
夕食をとり、1時間ほど、そこで過ごした。

 教室の外へ出ると、身を切るような冷気を感じた。
寒かった。

●正月の予定

 正月の予定は、とくになし。
温泉地も、この時期はどこも満員。
料金も高い。
だから例年、私たちは静かにしている。
たぶん、今年も、そうなるだろう。

 初詣なるものは、この数年、していない。
が、初詣の先取りというのは、している。
12月の終わりに、近くの神社へ行く。

人ごみが平気な人もいる。
そうでない人もいる。
が、私は基本的には、人ごみが苦手。
落ち着かない。
だから先取り。

「今年もよろしく」ではなく、「来年もよろしく」と。
いつもそう祈念する。

●年賀状

 「年賀状はどうするの?」とワイフ。
「明日、書くよ」と私。

 昔は手書きで、1週間仕事だった。
今は、プリンターを操作するだけ。
片手間で、できる。
楽になった。
が、同時に、ありがたみが消えた。

 それもあって、数年前、年賀状廃止宣言なるものをした。
が、それでも(人とのつながり)は、残る。
この1、2年、逆戻り。
出す枚数が、ふえてきた。

 ここは自然体で考えるしかない。
なりゆきに任せる。
それが(人生の流れ)。

●保安院

 今日のニュース。
保安院が、東京電力に対して、厳重注意をしたという。
東京電力の(いいかげんさ)を、問題にしたらしい。
が、そんなことは、当初から、わかっていたこと。
3・11大震災から、すでに9か月もたっている。
どうして、今ごろ?

 私たち一般庶民の目から見ると、保安院も東京電力も同じ。
同じ穴のムジナ。
当初はその両方が、肩を並べて、記者会見に臨んでいた。

●計画停電→料金値上げ→国有化

 3・11大震災直後、東京電力は「計画停電」なるものを、実施した。
「私たちをいじめると、停電しますよ」と。
が、そのあと、電力が不足したという事実は、まったくない。
そこであの手、この手を使って、「国」から金(マネー)を出させようとした。
が、それがうまくいかないとわかると、今度は、「料金の値上げ」という言葉を使うようになった。
「私たちをいじめると、料金を値上げしますよ」と。

 幼稚な心理。
 幼稚な発想。
 幼稚な脅迫。

 そこで政府は、伝家の宝刀を抜いた。
「国有化するぞ」と。
逆に東京電力を脅した。

 が、その前に、責任問題を明確にしてほしい。
これだけの被害を出しながら、責任者がいないでは、すまされない。
東京電力はすでに、こう言って、防波堤を立てている。

「私たちは国の基準に従い、許可を得てやっている(つまり責任はない)」
「私たちは国の指示通りに、行動している(つまり責任はない)」と。

 どこまでも狡猾(こうかつ)な東京電力。

●北朝鮮と天皇制

 だれもが、そこまでわかっている。
知っている。
しかしそれを口に出して言うことは、この日本では、タブー。

 北朝鮮の新しい指導者は、金正恩。
その金正恩……。

独裁制がおかしい?
世襲制がおかしい?
偶像化がおかしい?
権威化がおかしい?

 が、私たち日本人は、それを声に出して言うことができない。
言えば、日本という国自体が、自己矛盾の世界に落ち込んでしまう。
北朝鮮という国は、皮肉なことに、戦前、戦時中の日本とそっくり。
日本以上に、日本的?

 私が子どものときでさえ、(戦後、10年近くもたってのことだったが)、「天皇」と呼び捨てにしただけで、父に殴られた。
「陛下と言え!」と。

 「日本と北朝鮮は違う」と主張する人も多い。
しかしどこがどう違うのか?
それをきちんと説明できる人はいるのだろうか。

 日本に言論の自由があるというのは、ウソ。
言論の自由度にしても、日本は、178か国中、11位(国境なき記者団2010)。
順だけをみれば、まずまず。
が、皇室問題に関しては、どうか?

男系男子?
賛成、反対?
男はよい?
女はダメ?

 今どき、こんなアホなことを議論している国は、そうはない。
……おっと、口がすべった。
日本の言論の自由も、ここまで。
この程度。

●北朝鮮を支持?

 中国が北朝鮮支持の姿勢を、鮮明にし始めた。
が、こんなことは、最初からわかっていたこと。
6か国協議が始まったときから、私はこう書いてきた。
「茶番劇」と。
「泥棒に、泥棒の管理を任せるようなもの」とも。

 その結果が、今。

 が、いつか必ず、現在の歴史を振り返るときがやってくる。
そのとき、恥をかくのは、中国。
現在の今の今も、政治犯収容所には、約20万人もの人が収容されているという。
「10年もたたずして、みな死んでいく」(脱北者証言)とも。
単純に計算すれば、1年で、2万人。
50年で、100万人。
あるいはそれ以上。

 現在の悲惨な状況は、やがて明るみになる。
そのとき中国は、現在の中国を、どう弁解するつもりなのか。

●「窮乏者の年末」

 数日前、どこかの新聞社が、こんな社説を載せていた。
題して「窮乏者の年末」(仮称)。

 記事は読まなかった。
読むまでもなかった。
現在、「どうやって年越しをしたらいいのか」と、困っている人は多い。
お金がなくて、途方に暮れている人は多い。
そういう人たちへの、励ましの記事。
表題だけで、中身がわかった。
が、ここでパラドックス。

 そういう人たちは、新聞代を払うお金もない。
つまり新聞を読まない。
読まない人に向かって、「がんばれ」と励ましても、意味がない。

 貧乏の恐ろしさは、それを体験したものでないと、わからない。
まさに精神の拷問。
長くつづくと、心そのものが腐る。

●リビドーvsサナトス

 昨日、善悪論を、心理学の世界で考えてみた。
15枚ほど原稿を書いた。
が、どうもうまく、まとめることができなかった。
そのことを、夕食をとりながら、ワイフに話した。

 要するに、生命力が強い人ほど、同時に、破壊力も強いということ。
フロイトは、生命力を「リビドー」、破壊力を「サナトス」と呼んだ。
人は、この2つの力を、同時にもっている。
つまり飛躍した意見に聞こえるかもしれないが、こういうこと。
善への志向性が強い人ほど、悪への志向性が強いということ。

 で、それをコントロールする力が、「理性」ということになる。
が、この理性ほどアテにならないものはない。
そこで釈迦は、「精進」という言葉を使った。
正しくは「正精進」。
つまり「中正かつ公正な精進」。
この場合の「正」は、「ごくふつうの」という意味。
わかりやすく言えば、「人が総じてもっている常識的な」という意味。

 その常識を日々に、研さんし、磨く。
それが正精進。
それがないと、人は偏(かたよ)ったものの考え方をするようになる。
これが理性のコントロールを狂わせる。

●最後の一仕事

 今年も、残すところ、あと1クラス。
それが終われば、冬休み。
帰りにワイフと打ち上げ会。
毎年、そうしている。

 ……今年も、いろいろあった。
本当に、いろいろあった。
その「いろいろ」という言葉の中に、ぎっしりと思い出が詰まっている。
が、こうして無事、年を越せることに感謝する。
大きな病気は、しなかった。
みな、健康だった。
来年(2012年)も、現状維持。
それを目標に、がんばる。
がんばるしかない。

 さあ、これから教室に戻り、一仕事。

(以上、市内、サイゼリアにて、はやし浩司 2011-12-27夕方記)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司


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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 1月 30日
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●無事、64歳!

 2011年を振り返る。
あれこれ振り返る。
いろいろあった。
あったが、私は無事、64歳になった。
昭和22年(1947年)生まれ。
団塊の世代、第1号。

 先週、10年ぶりに、1人の男が我が家を訪ねてくれた。
突然の訪問だった。
話を聞くと、今は大学を卒業し、浜松の貿易会社に勤務しているという。
OBである。
年中児(幼稚園)から、中学3年まで、私の教室に通ってくれた。
「まだ高校3年生くらいかなと思っていたよ」と告げると、「そんなはずないですよ」「もう10年になりますよ」と言って笑った。

 10年!

 あっという間の10年だった。
と、同時に、こう思った。
「よくもまあ、この10年間、無事だったなあ」と。
その男のことではない。
この私が、無事だったなあ、と。

●2012年

 来年のことは、わからない。
何やら大変な年に、なりそう。
悪い予感がする。

 いちばん心配なのが、日本経済。
EU、中国、アメリカ……。
どのひとつが経済破綻しても、そのまま日本も破綻する。
あるいは日本のほうが、先に破綻するかもしれない。
(私が心配したところで、どうにもならないが……。)

経済の世界には、「イベント・リスク」という言葉がある。
不測の事態(=イベント)による、危険因子(=リスク)をいう。
今回の3・11大震災も、そのひとつ。
今、日本の経済は、薄氷の上を、恐る恐る歩いている。
何か起きたら、おしまい。
そのまま奈落の底へ……。

 私について言えば、今までは無事だった。
しかし2012年のことは、私にもわからない。
無事、来年、65歳を迎えることができるだろうか。

●老人段階論

 退職後の友人たちをみていると、一定のパターンがあるのがわかる。
称して「老人段階論」。

(1) 準備期……老後に向けて、何かの運動(体力づくり)を始める。
(2) 活動期……「何かをしなければ」と言いながら、行動を開始する。
(3) 限界期……突然の病気になったり、仕事が行き詰ったりする。
(4) 葛藤期……老人になることに抵抗し、心理的にはげしく葛藤する。
(5) 受諾期……老人であることを認め、心の整理を始める。

 ほとんどの人が、判を押したように、運動を始めるのは興味深い。
ウォーキング、ランニング、サイクリング、ゴルフ、テニスなどなど。
それまでに下地のできている人は別として、たいていは、長続きしない。
ちょっとした病気や怪我がきっかけで、そのまま休んでしまう。
このとき自分に、「限界」を覚える。

 また自分が老人であることを認めるのは、平均して75歳だそうだ。
それまでは抵抗する。
「私はまだ若い!」と。

●どちらが現実なのか?

 再び、この1年を振り返ってみる。
あれこれ思い出してみる。

……あの3・11大震災は、あまりにも現実離れしていた。
この世のできごととは、思えなかった。
同時に、今の今ですら、こうして無事でいられることが、不思議でならない。
どうして3万人近い人たちが、あっという間に、津波に飲み込まれたのか。
どうして今、私がこうしてここに生きているのか。
どちらが現実なのか。
それを考えていると、心の中がバラバラになってしまう。
 
 だから9か月たった今でも、こう思う。
「あの3・11大震災さえなければ……」「あの原発事故さえなければ……」と。

●2012年

 ともあれ、とにかく生きていくしかない。
あれこれ悩んだところで、どうにもならない。
2012年は2012年。
今日できることは、今日、する。
がんばってする。
その結果として、明日はやってくる。
2012年は、やってくる。

 が、2012年は、先にも書いたように、たいへんな年になりそう。
ロイターは、つぎのように報道している(12月23日)。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

……2012年は米国とロシアとフランスで大統領選が行われ、中国ではポスト胡錦濤体制が始動する。欧州はソブリン危機の不透明感が晴れず、民主化の波を受けた中東は政治的動揺が続き、経済の悪化は世界各地でデモなどの混乱を引き起こす可能性がある。足元では、ユーロをめぐる不安が根強く、核開発を続けるイランをイスラエルが軍事攻撃するとの懸念も残ったままだ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 もう少しこの記事を、整理してみる。

(1) 2012年は米国とロシアとフランスで大統領選が行われ、
(2) 中国ではポスト胡錦濤体制が始動する。
(3) 欧州はソブリン危機の不透明感が晴れず、
(4) 民主化の波を受けた中東は政治的動揺が続き、
(5) 経済の悪化は世界各地でデモなどの混乱を引き起こす可能性がある。
(6) 足元では、ユーロをめぐる不安が根強く、
(7) 核開発を続けるイランをイスラエルが軍事攻撃するとの懸念も残ったままだ。

 が、本当に困るのは、以上のことではない。
こうした不安定な状況がつづくと、発展途上国のもならず、先進国においても政情が不安定になること。
ロイターは、つぎのよう結んでいる。

『……中東の紛争やユーロ圏の崩壊といった事態が避けられたとしても、専門家の間では、経済成長の鈍化と失業率の上昇に伴い、先進国でも発展途上国でも社会不安のリスクが増大し、世界中で政治情勢は難しさを増すと指摘する声は多い』と。

 この先、北朝鮮がどう出てくるか。
それもこの日本にとっては、心配の種。

●現状維持

 2012年も、「現状維持」。
それだけで精一杯。
それができれば、御の字。

 健康イコール、運動。
ボケ防止イコール、仕事。
何も望まない。
何も期待しない。
ただひたすら、懸命に、かつまじめにその日を生きる。

 抱負?
そんなもの、あるわけない。
とにかく現状維持。
結果は、あとからついてくる。

2011/12/24
メリークリスマス!


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

【年賀状】(2012年・新年)

 今年の年賀状は、東洋医学(黄帝内経・素問)の一節で飾った。
「毎年、ちがった年賀状を出す」が、私のモットーになっている。
(中には、10年、20年と、まったく文面の人もいるが……。)

『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。
行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。
身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』(上古天真論篇)と。

 が、これだけでは、何ともおもしろくない。
そこでムーディーズなどの評価法を借り、現状を分析してみた。

『2011年の成績

 ボケ度…Aa (ムーディーズ)
 離婚騒動…6回くらい(前年度比-20%)
 一泊旅行…50泊くらい(前年度比+10%)
 仕事…弱含み (日銀短観)
 体力…Bbb (ムーディーズ)(運動量前年度比ー15%)
 精力…Ca 沈没寸前 (ムーディーズ)
 ピンコロ可能性…5年以内に50%(前年度比+10%)
 劇場映画鑑賞…48回(前年度比+10%)』と。

 こうしてできあがったのが、つぎの年賀状。

img237.jpg

 多くの方に、年賀のあいさつを失礼している。
こんな年賀状だが、そういう人たちの目にとまれば、うれしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●映画『山本五十六』、『世にも不思議な留学記』

●12月25日(風邪?)

++++++++++++++++++++

 昨夜、寒い中、がまんしたのがよくなかった。
11時ごろまで、書斎で、あれこれ作業をしていた。
というか、このところ気温センサーが鈍くなったよう(?)。
寒いはずなのに、それほど寒く感じない。
足腰が金属のように冷たくなって、はじめて寒さを感ずる。
昨夜が、そうだった。
「寒い」というより、冷え冷えとした感覚が足の先から腰までやってきて、はじめて外気の冷たさがわかった。
それがわかって、あわてて暖かいはずの布団の中に入った。
が、足の先だけは、なかなか温まらなかった。
足を布団の中でこすりつけたりした。
30分ほど、もがいた。

 ……ということで、今朝は、起きたときからゾクゾクする。
腰が痛い。
のども痛い。
どうやら風邪をひいたらしい。
が、負けてはおられない。

 10分のウォーキングのあと、熱い風呂へ飛び込む。
まだ風邪薬はのんでいないが、あとで葛根湯をのむつもり。

風邪(かぜ)のひき始めは、葛根湯(かこんとう)。
風邪(ふうじゃ)が、体の内部に入り、悪寒がするようになったら、麻黄湯(まおうとう)。
インフエンザのばあいは、張仲景の『傷寒論』(『傷寒雑病論』ともいう)が、参考になる。
後漢時代の医家である。

(注:ただし、張仲景が言う「傷寒・雑病」というのは、チフスやコレラのような伝染病をさすという説もある。
「傷寒」というのは、文字通り、「寒邪に敗れる」を意味する。
それもあって、私は「インフルエンザ説」を唱える。)

 ともあれ、今日は、とくに予定はなし。
家で静かにしている。
ゾクゾク……。
症状が麻黄湯に近くなってきたような感じがする。 

++++++++++++++++++++++

●「はやし浩司 目で見る漢方診断」

 たった今、ヤフーの検索機能を使って、「はやし浩司 目で見る漢方診断」を検索してみた。
2340件、ヒットした。
そのトップに、「AMAZON COM JP」があった。
それをクリック。
私の本が、AMAZONで、6339円で売られているのを知った。
紹介には、こうあった。

「……状態の悪い本です、カバーがなく、ページに水ぬれ跡がずっとついています。書き込みや線引き、ページの欠落はありませんが、読めればよい方向けです」(わだ古書店)と。

 うれしかった。
ボロボロの中古本が、6339円!
少し状態のよい本になると、7000~9000円で取り引きされている。
現在、その「目で見る漢方診断」は、HPのほうで無料で公開している。
興味のある人は、どうか、そちらを見てほしい。

http://bwtachiyomi.ninja-web.net/page051.html

(私が生きている間の、早いもの勝ち! ……つまり死んだら、HPは、閉鎖になり、公開も終わるという意味。
無料で読むなら、今のうち!)

 おかしなもので、最近は、自分の書いた本を参考にし、ものを書くことがときどきある。
『目で見る漢方診断』にしても、100%、私が書いた本である。
にもかかわらず、同時に2000年前(黄帝の時代になると、5500年前)に、他人によって書かれた本のような感じもする。
自分の本であって、自分の本でない?
その本を書いたころでさえ、遠い遠い昔のような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 目で見る漢方診断 東洋医学 はやし浩司 東洋医学基礎編 基礎篇 東洋医学基礎篇 黄帝内経 素問)

●映画『山本五十六』

 昨日の午後、映画『山本五十六』を観てきた。
久々に観る、邦画である。
CGの稚拙さは随所に見られたが、星は3つの、★★★。
よかった。
途中、何度か涙がこぼれた。

 ただし悪役の新聞記者の演技が、大げさ。
露骨。
俳優そのものの、脳みそが薄っぺらい。
だから演技に、深みが出てこない。

知的な俳優が、ああいう役をこなせば、すばらしい俳優ということになる。
が、そうでない俳優が、無理に悪役を演ずるから、かえって底が見えてしまう。
現実に、ああまで感情をむき出しにする人がいたら、私たちはその人を「バカ」という。
もし『山本五十六』を観る機会があったら、新聞記者の演技に注目してほしい。
私がここで言っている意味が、わかってもらえるはず。

 で、その山本五十六について、こんな原稿を書いたことがある。
中日新聞に発表させてもらった原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●国によって違う職業観

 職業観というのは、国によって違う。もう30年も前のことだが、私がメルボルン大学
に留学していたときのこと。当時、あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
正規の日本人留学生は私1人だけ。(もう1人、Mという女子学生がいたが、彼女は、もと
もとメルボルンに住んでいた日本人。)そのときのこと。

 私が友人の部屋でお茶を飲んでいると、1通の手紙を見つけた。許可をもらって読むと、
「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。

私が喜んで、「外交官ではないか! おめでとう」と言うと、その友人は何を思ったか、そ
の手紙を丸めてポイと捨てた。「アメリカやイギリスなら行きたいが、99%の国は、行き
たくない」と。考えてみればオーストラリアは移民国家。「外国へ出る」という意識が、日
本人のそれとはまったく違っていた。

 さらにある日。フィリッピンからの留学生と話していると、彼はこう言った。「君は日本
へ帰ったら、ジャパニーズ・アーミィ(軍隊)に入るのか」と。私が「いや、今、日本で
は軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の伝統ある軍隊になぜ
入らないのか」と、やんやの非難。

当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、そのまま出世コース
ということになっていた。で、私の番。

 私はほかに自慢できるものがなかったこともあり、最初のころは、会う人ごとに、「ぼく
は日本へ帰ったら、M物産という会社に入る。日本ではナンバーワンの商社だ」と言って
いた。が、ある日、1番仲のよかったデニス君が、こう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
を言うのはよせ。日本のビジネスマンは、ここでは軽蔑されている」と。彼は「ディスパ
イズ(軽蔑する)」という言葉を使った。

 当時の日本は高度成長期のまっただ中。ほとんどの学生は何も迷わず、銀行マン、商社
マンの道を歩もうとしていた。外交官になるというのは、エリート中のエリートでしかな
かった。この友人の一言で、私の職業観が大きく変わったことは言うまでもない。

 さて今、あなたはどのような職業観をもっているだろうか。あなたというより、あなた
の夫はどのような職業観をもっているだろうか。それがどんなものであるにせよ、ただこ
れだけは言える。

こうした職業観、つまり常識というのは、決して絶対的なものではないということ。時代
によって、それぞれの国によって、そのときどきの「教育」によってつくられるというこ
と。大切なことは、そういうものを通り越した、その先で子どもの将来を考える必要があ
るということ。

私の母は、私が幼稚園教師になると電話で話したとき、電話口の向こうで、オイオイと泣
き崩れてしまった。「浩ちャーン、あんたは道を誤ったア~」と。母は母の時代の常識にそ
ってそう言っただけだが、その一言が私をどん底に叩き落したことは言うまでもない。

しかしあなたとあなたの子どもの間では、こういうことはあってはならない。これからは、
もうそういう時代ではない。あってはならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 通俗性 はやし浩司 
金権教 はやし浩司 ディスパイズ despise  軽蔑という言葉を使った はやし浩司 山本五十六)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作。
これも中日新聞で発表済み。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

イソロクはアジアの英雄だった【2】

●自由とは「自らに由る」こと

 オーストラリアには本物の自由があった。自由とは、「自らに由(よ)る」という意味だ。こんなことがあった。

 夏の暑い日のことだった。ハウスの連中が水合戦をしようということになった。で、一人、二、三ドルずつ集めた。消防用の水栓をあけると、二〇ドルの罰金ということになっていた。で、私たちがそのお金を、ハウスの受け付けへもっていくと、窓口の女性は、笑いながら、黙ってそれを受け取ってくれた。

 消防用の水の水圧は、水道の比ではない。まともにくらうと学生でも、体が数メートルは吹っ飛ぶ。私たちはその水合戦を、消防自動車が飛んで来るまで楽しんだ。またこんなこともあった。

 一応ハウスは、女性禁制だった。が、誰もそんなことなど守らない。友人のロスもその朝、ガールフレンドと一緒だった。そこで私たちは、窓とドアから一斉に彼の部屋に飛び込み、ベッド
ごと二人を運び出した。運びだして、ハウスの裏にある公園のまん中まで運んだ。公園といっても、地平線がはるかかなたに見えるほど、広い。

 ロスたちはベッドの上でワーワー叫んでいたが、私たちは無視した。あとで振りかえると、二人は互いの体をシーツでくるんで、公園を走っていた。それを見て、私たちは笑った。公園にいた人たちも笑った。そしてロスたちも笑った。風に舞うシーツが、やたらと白かった。

●「外交官はブタの仕事」

 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「おめでとう」と言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。彼は「ブタ」という言葉を使った。

 あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれとはまったくちがっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内のほうがよい、と考えていたようだ。また別の日。

フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入るのか」と。「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコール、出世を意味していた。

 マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があった。軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、そのマカティに、家つき、運転手つきの車があてがわれた。またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英雄だった。これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民地になったという暗い歴史がある。

 そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそんなこと言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあるごとに、日本へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。ほかに自慢するものがなかった。が、国変われば、当然、価値観もちがう。

 私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと信じていた。しかしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い知らされた。

 時、まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●山本五十六

 私がいたカレッジには、世界中から学生たちが集まっていた。
アジアからの学生も、70~80人、いた。
が、それらの学生たちは、山本五十六だけは、尊敬していた。
先の原稿の中で書いたことは、事実である。

 東条英機は嫌われていたが、山本五十六は、尊敬されていた。
今でも、「白人と対等に戦った最初のアジア人」と言った相手の名前と顔をよく覚えている。
タン・アー・チュウアン君である。
マレーシアから来ていた留学生だった。
そのタン君について書いた原稿もある。

 それを掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●処刑になったタン君【12】

●日本人にまちがえられたタン君

 私の一番仲のよかった友人に、タン君というのがいた。マレ-シアン中国人で、経済学部に籍をおいていた。

 最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。そのタン君。ある日私にこう言った。

 「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、「じゃ、お前の名前を、日本語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中国語じゃないか」と笑った。

 そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。
「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、マレー人そのものを、どこかで軽蔑していた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にまちがえられると、もっと怒る。タン君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。街を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、タン君は、地面を足で蹴飛ばしながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのタン君には一人のガ-ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとしなかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。が、やがて卒業式が近づいてきた。

 タン君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そのタン君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニ-は……」と。喉の奥から絞り出すような声だった。「ジェニ-は四二歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、夫から訴えられている」と。

 そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのタン君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教授の部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。

 田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。教授はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、タン君がマレ-シアで処刑されたと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

 この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでタン君が生きているとしたら、それはそれですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、タン君は、マレ-シアで、一九八〇年ごろ処刑されている。タン君は大学を卒業すると同時に、ジェニ-とクアラルンプ-ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。

 しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をしてみたが、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、見つけた新聞記事によるものだ。

 その後、タン君は、マレ-シアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポ-ルの墓地に埋葬されているという。

 田丸教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼にで会ってからというもの、「私は日本人だ」と言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 タン君 タン・アー・チュアン マレーシア 田丸謙二 はやし浩司 世にも不思議な留学記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

これらの原稿は、以下のところで紹介している。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●では、今日は、ここまで

 やはりこれから葛根湯をのんでくる。
そのあとのことはわからないが、しばらく布団の中で横になるつもり。
ワイフは、現在、美容院へ行っている。
ワイフが帰ってくるまで、無事、生きていたい。

 2011/12/25朝記

Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●1日遅れのクリスマス

 12月25日。
1日遅れのクリスマス。
ワイフは「老人組はクリスマスなど、しないわ」と居直っている。
「……しかしねエ~」と、私。

 それで1日遅れのクリスマス。
25日になって、クリスマスをすることになった。

夕食の材料を買いに行ったついでに、ケーキを一個。
「売れ残りのケーキはありますか?」と聞くと、店員はあっさりとこう言った。
「今日が本番です」と。

 ホント?
知らなかった……!
我が家では12月24日の夜に、ずっとクリスマスを祝っていた。

 「シャンパーンが1本、あるわ」とワイフ。

●寒い

 日昼でも、気温は6度前後。
寒いというより、冷たい。
午後1時ごろ、雹(ひょう)が降った。
が、私はそのころ、昼寝中。
ちょうど1時間40分。
1レム分、ぐっすりと眠った。

 今夜は山荘で1泊するつもり。

●岐阜は大雪

 従兄が餅を送ってくれた。
「郡上のやきもち」という餅だった。
故郷の温もりが、プ~ンと香った。

礼の電話をした。
あれこれ話をした。
岐阜(関市板取村)では、昨夜から雪が降り始めたという。
「30センチは積もった」という。

 「いいなア」と思う気持ち半分。
「たいへんだなア」と思う気持ち半分。

●不景気

従兄は何度も「不景気」という言葉を使った。
「浜松もひどいもんですよ」と言うと、「がんばるしかないねエ」と。

 そう、がんばるしかない。
生きるのもたいへん。
死ぬのもたいへん。
簡単には死ねない。
だからがんばるしかない。

●乾杯!

 ……ということで、今夜、1日遅れのクリスマス・パーティを開いた。
ケーキとシャンパーンだけ。
プレゼント交換もない。

 食事の終わりに、「メリークリスマス」。
それに乾杯。
それだけ。

 棚の上のクリスマスカードも、どこかさみしそう。
「R君から、クリスマスカードは来た?」とワイフに聞くと、「ほら」とそこを指さした。
見ると、棚の上に並んでいた。
「会いたいなア」と私。
「3月に、またオーストラリアへ行こうか?」とワイフ。

 「クリスチャンでもないぼくたちが、クリスマスだなんて、おかしいよ」と。
そう言って、自分を慰める。
さみしいクリスマス。
言い訳をする。

●形相

 近所に、そのあたりでも評判の意地悪ジー様がいる。
何かにつけ、意地悪。
利己主義というか、自分の家の前にだれかが車を止めただけで、パトカーを呼ぶ。
30分も止めておくと、写真を撮る。
撮った写真を警察へ送る。
私も一度、やられた。
一事が万事。
万事が一事。
……というジー様。

 で、そのシー様、今年、80歳くらいになった。
久しぶりにその顔を見た。
散歩の途中だった。
ワイフも横にいた。
が、その顔を見て、ゾッとした。
ワイフも、そうだったとあとで言った。

 なぜ、ゾッとしたか……。
……つまり、そういう顔。
ゆがんでいた。
恐ろしい形相をしていた。

 「心がゆがむと、顔もゆがむね」と。
そんな話をワイフと2人で、しあった。

●老人心理

 老人には老人独特の心理がある。
独特の死生観と言うべきか。
ワイフの父親は、生前、いつもこう言っていた。
「申し訳ない、申し訳ない」と。
「自分だけ生き残り、日本へ帰ってきて、申し訳ない」と。

 行きは3000人。
帰ってきたのは、たったの300人。
ワイフの父親は、戦時中、ラバウルへ出兵していた。

 その一方で、知りあいが死ぬたびに、「あいつが死んだ」「こいつが死んだ」と喜ぶ人もいる。
表では悲しんでいるフリをするが、それは演技。
仮面。

常人には理解できない心理だが、そういう老人もたしかに、いる。
世間体を気にし、見栄や体裁ばかりを気にする。
だからそういう死生観になるのか。
あるいはそういう死生観をもっているから、そういう人生観になるのか。

 ワイフの父親のような老人もいれば、心のゆがんだ老人もいる。
そのちがいは、日々の積み重ねによって決まる。
老人になってから、決まるのではない。
若いころからの生き様によって、決まる。

●小雨

 山荘へ向かう途中、小雨が降り始めた。
午後6時だった。
が、外は真っ暗。
路面が鏡のように、街の明かりを照り返していた。
寒々とした景色だった。

 よく見ると、雨ではなく雪だった。

●『2012年・マヤ予言の謎』

 買い癖。
コンビニへ行くたびに、この種の本を買う。
今夜は『2012年、マヤ予言の謎』(Gakken)。

 「予言など当たるわけがない」と思いつつ、ついつい買ってしまう。
よい例が「ノストラダムスの大予言」。
結果は、ハズレ!
あれほどまでに騒いでおきながら、ハズレもハズレ、大ハズレ!
1999年の終わりにあったのは、「2000年問題」だけ。
全世界のコンピューターが狂うと言われた。
が、それも、結局は何ごともなく、終わった。

 今夜は、私は、これを読む。
暇つぶしには、この種の本がいちばん。
読んでいるうちに、たいてい眠くなる。

●イスラエルによるイラン攻撃

 新年早々というか、ひょっとしたら明日かも知れない。
イスラエルによるイラン攻撃が心配される。
可能性の問題ではない。
時間の問題。

 運転しながらワイフがこう言った。
「いつかしら?」と。

私「だれもが、そうでないと思っているときさ」
ワ「じゃあ、いつ?」
私「ぼくはクリスマスの夜と思っていた。が、何ごともなかった。つぎは新年だろうね」と。

 こうした奇襲攻撃は、相手がいちばん油断しているときをねらう。
相手が構えていたら、奇襲攻撃にならない。

 が、それをきっかけに原油価格の高騰。
とたん、世界経済は、さらにおかしくなる。

●人類滅亡7つの可能性

 『2012年、マヤ予言の謎』によれば、人類滅亡には、7つの可能性があるという。
そのまま書き出してみる。

(1) バイオハザード
(2) 小惑星NEOの衝突
(3) スーパー・ソーラーストーム
(4) 超新星ベテルギウスの爆発
(5) エイリアンの侵略
(6) 氷河期の到来
(7) 闇の集団による世界統一

 マヤが以上のことを予言しているわけではない。
2012年に起こるかもしれないということで、7つの可能性があげられている。
で、私なりに、その可能性を採点してみる。

(1) バイオハザード……いつ起きてもおかしくないが、2012年とはかぎらない。
(2) 小惑星NEOの衝突……直径が10メートル前後のものは、ありうる。
(3) スーパー・ソーラーストーム……ほぼ確実視されている。規模は不明。
(4) 超新星ベテルギウスの爆発……どうかな?
(5) エイリアンの侵略……地球など侵略しても、意味はない。
(6) 氷河期の到来……海流の流れが変わると、局地的に極寒期に入ることもありえる。
(7) 闇の集団による世界統一……何を今さら! すでに無数の集団が誕生している。

●山荘にて

 山荘では、ワイフはいつものようにビデオを見始めた。
私は、TOSHIBAのR631を叩き始めた。
ウルトラ・パソコン。
R631は、週刊アスキー誌で、今年のベスト・バイ賞を受賞した。
この賞に異議はない。
たしかに完成度が高い。
使えば使うほど、愛着がわいてくる。

●騎士道

 ワイフの見ているDVDの中に、こんなセリフがあった。
『デビル・クエスト』というDVDである。
主演は、ニコラス・ケイジ。
そのニコラス・ケイジ演ずる騎士が、1人の若者に騎士(ナイト)の称号を与える。

 「身が灰塵となるまで……神に忠誠を誓うべし……」(記憶)と。

 西洋の騎士道の原点である。
スケールが大きい。
相手は「神」。
「日本の武士道とは、ずいぶんと違うなア」と、私。
日本的に考えるなら、『仏に忠誠を誓うべし』となるのか?
しかし『仏に忠誠』というのも、おかしい。

●死に際の美学

 そう言えば、昨日観た映画、『山本五十六』の中にも、武士道を思わせるセリフがいくつか出てきた。
たとえばこんなセリフ。
役所公司演ずる山本五十六が、こう言う。
「武士は、夜討ち(=暗殺)をしかけるときも、相手の枕を一度蹴る。
蹴って相手が起きあがったところで、相手を殺す」(記憶)と。

 つまり武士たるもの、宣戦布告もしないで、真珠湾を攻撃するような卑怯なことはしない、と。

 これも死に際の美学ということになる。
正確には、「殺しの美学」?
そのときは「うまいこと言うなア」と、感心した。

●卑怯

 では、イスラエルはどうか?
一度、宣戦布告をしてから、イランを攻撃するだろうか。
それには前例がある。
一度、イランの核施設を攻撃したことがある。
が、イスラエルはそういう布告をした例(ためし)がない。
いつも奇襲攻撃。
日本流に考えれば、武士道の精神から完全にはずれている。

 だいたい西洋の騎士道には、「卑怯」という言葉そのものが、ない。
あえて言えば、「ずるい(sneaky)」という言葉がある。
が、殺し合いに、ずるいも何もない。

●映画『聯合艦隊司令長官・山本五十六』

 映画『聯合艦隊司令長官・山本五十六』は、よい映画だった。
直後の評価では、星を3つ、つけた。
しかし1日たった今、少しずつだが、評価が崩れてきた。
私が映画『トラ・トラ・トラ』を観たのは、1970年。
オーストラリアにいたころ。

 その『トラ・トラ・トラ』と比べたら、……というか、『山本五十六』は、比較にならない。
つまりお粗末。
「空前のスケールで描く、一大巨編」(公式サイトおよび広告)と言うほど、すごくはなかった。
そのあと発表された映画『パールハーバー』と比べても、そうだ。
比較にならない。

 ……たしか最後のところで、こんなナレーションもあったように記憶している。
「戦後70年もたち……」「私たちは……を忘れている」(記憶)と。

 日本映画の悪いところ。
必ず、こうした説教がましい説明が入る。
説教がましい説明が、映画そのものを台無しにしてしまう。

●卑怯(2)

 Weblio辞書には、こうある。

「卑怯を英語に訳すと(おくびょう)、 cowardice(卑劣)。
【形式ばった表現】 meanness卑怯な(おくびょうな) cowardly;
《口語》 chicken(卑劣な)
【形式ばった表現】 mean(不正な)」と。

 卑怯イコール、臆病(おくびょう)ということになる。
私は武士道でいう「卑怯」は、「ずるい」のほうに近いと思う。
これは解釈の違いによるものか。

 少し気になったので、Weblio辞書を使って、「卑怯」の英訳を調べてみた。

●正月休み

 正月休み。
10日も、ある。
どうしようか。

ワイフは「あちこちへ旅行しよう」と言う。
私も、そう思う。
しかし今年は、まだ計画を立てていない。
とくに行きたいところは、ない。

 行くとしたら、「ひおき」(民宿)。
岐阜県板取村にある、「ひおき」。
明日にでも電話をしてみよう。

●おでん

 時刻は午後9時。
先ほど、ワイフがこう言った。
「9時以後は、何も食べてはだめよ」「太るから」と。
その9時が、近づいてきた。

 家からもってきた、おでんが食べたい。
うらめしい。
が、ここはがまん。
現在、体重は66キロ。
適正体重より、2キロもオーバー。

●死生観

 ところでこのところ、おかしな死生観が漂うようになった。
たとえばこんなふうに、考える。

 何かの大病になったとする。
そのとき私は、どうするか、と。

 大病と闘う人もいる。
闘っている人もいる。
しかし私のばあい、闘っても、意味はない。
だからこう思う。
「息子たちにはもちろん、ワイフにも知らせないでおこう」と。
つまり静かに、その時を迎えよう、と。
手遅れなら、手遅れでもよい。
私はもう、じゅうぶんすぎるほど、長く生きた。
無理に生きて、みなに迷惑をかけるくらいなら、さっさと死んだほうがよい。

 たぶん、ワイフも同じ考えだろう。
ああいう性格の女性だから、大病になっても、私には知らせないだろう。
静かに死ぬことだけを望むだろう。
命を天に預ける。
共に命を天に預ける。
ジタバタしない。

 ……そんな死生観。

●「ああ、これで死ねるのか」

 だからといって、誤解しないでほしい。
「死にたい」と書いているのではない。
生きたい。
どこまでも生きたい。
しかし同時に、「死」が、それほど怖い存在ではなくなってきた。
この正月(2011年)に廊下で倒れたときも、こう思った。
「ああ、これで死ねるのか」と。

 不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
本当に不思議なほど、穏やかな気持ちだった。
あれほどまでに死を恐れていた私が、穏やかな気持ちだった。
そのほうが、私にとっては不思議だった。

この世に未練はない。
はじめから期待していない。
期待していないから、未練はない。

●孫たち

 孫(誠司と芽衣)のビデオ(YOUTUBE)が届いた。

http://youtu.be/1PAtjz0jPsA

 送ったプレゼントは無事、届いたようだ。
誠司は「石」に関心をもっている。
芽衣は「料理」に関心をもっている。
この時期、子どもたちは自分の方向性(思考回路)を決定する。

 与えるものには、慎重でありたい。

●就寝

 今日の総括。
今日は、どうだったか。

一言で表せば、寒い1日だった。
それ以外、印象の薄い1日だった。
とくに成果なし。
平凡な1日。

 不完全燃焼感を心の底で押しつぶしながら……、
みなさん、おやすみなさい!

 ……私たち夫婦は、冬場はいつも、布団乾燥機で布団を暖めながら寝る。
その音が寝室のほうから聞こえてくる……。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 孫 誠司 芽衣 Sage Mae Soichi727 林 宗市 Soichi Hayashi はやし浩司 2011-12-25)

Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

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