2011年6月1日水曜日

*E-Magazine (June 1) 2011

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   11年   6月   1日号
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2011年月2日2日現在……1475号
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********安全は確認しています。どうか安心して、お読みください*****

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

小学1年生(6)歳児に、大きな数を教えてみる。

1、10、100、1000、10000・・・(一、十、百、千、万・・・)

●種まきレッスン

 私はこうした一連のレッスンを、「種まきレッスン」と呼んでいる。
「教える」というよりは、「種まき」。
「種」として、子どもの脳の中に、まいておく。
そのときは、すぐ効果が現れなくても、それがしばらくすると、別の形で
現れてくる。
あるいは学校などで、その学習をしたとき、理解するのを助ける。
だから「種まき」。

重要なコツは、「楽しませること」。
具体的には、笑わせ、心を開放させること。
「楽しかった」という思い出が、やがて子どもを前向きに引っ張っていくように
なる。

【小1(6歳児)はどこまでできるか?】BW教室byはやし浩司 2011・5月


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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 2011-05-10)

Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

はやし浩司先生へ

ご無沙汰しております。
長崎県のKHです。
浜松からこちらに引っ越してから、もう3年になります。

本日は、小学5年生の息子の事でご相談したい事がありましてメールいたします。

担任の先生の事です。
4月に新学期が始まりました。担任はこの春、日本から新しくいらした30代後半の女性
です。

初日、学校の様子を聞くと、「先生こわい~」とのこと。

とにかくよく怒るようです。クラスに一人、口の達者な男の子がいて、特にその子が怒ら
れているようです。

先生の怒り方をまねして教えてくれるのですが、その怒り方が乱暴なのに驚きました。
「テメエらそれでも5年生かよ!!」「(上記の男の子に向かって)テメエのようなヤツが
いるから授業が進まないんだよ」「お前らアホか」などなど。言う事を聞かない子の腕を引
っ張って、引きずって廊下に出したり、胸をつかんだりもするそうです。先生の意にそわ
ない事を言ったり、したりすると、すぐに黒板を叩いたりするとも言います。

同じクラスのお母さんたちに聞くと、私が息子から聞いた事と同じような事を聞いていま
した。ただ、私たち母親は、子供からの話だけで、実際の様子を見たり、聞いたりしてい
ません。


毎日「学校はどうだった?」と聞くといつも怒った先生の様子ばかり話します。

1か月がすぎました。先生の様子は変わらないようです。怒られていない子までが怖がっ
て萎縮してしまっています。こんな事言ったらきっと怒られる、こんな事やったら怒られ
る、といった感じです。息子も最近はひどくイラついています。

先生のいいところは?と聞いても、考えつかないようです。

この春、その先生は他県から転入してきました。4月が始業式。慣れない土地で、生活も
仕事も一から、という事で大変なのだろうと思ってはいるのですが、毎日毎日息子から先
生の愚痴を聞いているうちに異常なものを感じ始めています。

学年主任の先生がいらっしゃいます。
その先生に相談を……という父兄もいます。

もう少し様子を見るべきなのでしょうか?

長崎県、KH(母親)より。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●KHさんへ

 こんにちは!

 この種の問題は、(1)けっして、単独行動をしないこと。
(2)まわりの人が動き出すまで、静観する、です。

 間に子どもがいるため、ここは慎重に!
もちろんあなたの子どもに直接的な被害(?)があれば、話は別です。
しかし今の状況では、様子をみるのが、最善かと思います。
またみなといっしょに行動に出るときには、一気に出る、です。
校長、もしくは副校長に直接談判することも、覚悟してください。

 実のところ、友人(58歳、現在小学校長)も、似たような問題をかかえ、
悩んでいます。
明らかに「不適格教師」なのですが、知人の指導に従わないばかりか、何か
指導めいたことを口にすると、猛烈に反発し、手がつけられなくなるとのこと。
教師の世界は、ふつうの会社における人間関係とは、かなりちがった部分があることを、
知っておかれるとよいでしょう。
校長といえども、人事権はありません。
学年主任といっても、年功序列型で、持ち回り的な存在です。
つまり親たちが騒いでも、何か犯罪行為でもなければ、ただの「騒ぎ」で終わって
しまうということ。
あるいは転校という形で、うやむやに終わってしまうということ、です。

 もっともその程度の「こわい先生」は、私たちが子どものころは、どこにでもいました。
毎日、剣道で使う竹刀(しない)をもって、学校へ来ていた教師(中学英語)もいました。
そういう点では、私たち団塊の世代は、たくましく育てられています。

 一方、この静岡県では、今では生徒に何かを命令する先生はいません。
「~~しませんか?」(提案型)、「~~してくれませんか?」(依頼型)の言い方が、
一般化しています。
掃除でも、昔のように、「掃除しなさい!」と言う先生は、いません。
それがよいことなのか、どうか、私にはわかりません。
(私自身は、そういう言い方をしませんので……。)

 こうしたトラブルを避けるため、本来なら、アメリカのように複数の教師で指導に
あたるようにするのが望ましいですね。
アメリカでは、クラスの教師+インターン(学生)+当番の親の3人で指導するのが、
一般化しています(小学低学年)。
オーストラリアでも、教師と当番の親の2人で指導するのが一般化しています(南
オーストラリア州・小学低学年)。

 ともかくも、今は、様子を見てください。
子どもが過度に萎縮し、神経症のような症状が出てきたら、またメールをください。
なおほかの親から、相談があっても、よき聞き役に徹すること。
「私もそう思う」などと言ってしまうと、今度はあなたの言った言葉として、学校中に
広がってしまいます。
それが理由で学校にいられなくなってしまった親も、います。

 つまりこの問題は、それくらいデリケートな問題ということです。
繰り返しますが、間に子どもがいるため、行動、言動は慎重に!

 では、今日はこれで失礼します。

 浜松の放射線量も、徐々にふえています。
心配です。

はやし浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●たったの5・24マイクロシーベルトだって(?)

++++++++++++++++++++

25年前にメルトダウンを経験した
ロシアのチェルノブイリ。
その周囲30キロは、今でも「立ち入り禁止
区域」になっている。

誤解があるといけないので、正確に
記事を転載させてもらう。

+++++++++++以下、JIJICOM++++++++++++++

……炉心溶融事故が起きた原発4号機。コンクリート製の「石棺」で覆われているが、近
づくと放射線量計が毎時5.24マイクロシーベルトを表示し、「ピッピー」と警告音が鳴
り続けた。通常の50倍を超える放射線量だ。

●放射線量と人体への影響

 「石棺内部には溶解した核燃料が約180トン残っているが、放射能が外部に漏れない
よう新たなシェルターを建設する国際プロジェクトが開始された」。原発の周囲30キロの
立ち入り規制区域管理局のハロシャ局長は記者団との会見でこう強調した。
 事故直後に建設された石棺は老朽化が進んでおり、放射能漏れの懸念がある。このため、
欧州連合(EU)や日本などの支援で新シェルター建設が計画され、昨年から基礎工事が
始まった。

+++++++++++以上、JIJICOM++++++++++++++

●たったの5・24マイクロシーベルト

 本当のところ、「シーベルト」という単位を聞いても、私には何もわからない。
センチとかグラムとか、そういう単位がもつ実感が、わいてこない。

 が、あのチェルノブイリでは、今でも5・24マイクロシーベルトの放射線量が
観測されるという。

「5・24マイクロシーベルト」?
「たったの5・24マイクロシーベルト」?
福島県では、校庭利用の基準は、毎時3・8マイクロシーベルトだそうだ(注※)。
つまり3・8マイクロシーベルト以下になれば、校庭の使用が許可される。
5・24と3・8。
その差は、たったの1・4!

 日本で聞いている数値と、あまりにもかけ離れているような気がする。
今では「マイクロシーベルト」と聞いて、驚く人はいない。
その1000倍の「ミリシーベルト」という単位が、ふつうになりつつある。

 が、ロシアのチェルノブイリでは、たった5・24マイクロシーベルトで、
「周囲30キロが、今でも立ち入り禁止区域」になっているという。
もしそんな基準をこの日本に当てはめたら、やがてこの日本は、全土が、
立ち入り禁止区域になってしまう。

 放射性物質というのは、拡散される時期が長ければ長いほど、そこで積算される。
毎日、0・1マイクロシーベルトでも、体内で蓄積されれば、10日で、
1マイクロシーベルトになる。
もちろん地中にしみこんだり、水とまざって流れていく分もあるだろう。
しかし基本的には、「溜まっていく」。

 さらにおかしなことに、毎日の放射線量はそれほどでもないはずなのに、
昨日(5月12日)、神奈川県の茶から、基準値を超える放射線が観測された。
いったい、こういう現象を、どう理解したらよいのか。

(毎日、文科省は、各地で観測された最大放射線量をネット上で、公開している。
それによれば、東海地方では、おおむね0・04~0・05マイクロシーベルトで、
「平常値」となっている。

神奈川県も「平常値」のはず?)

平たく言えば、日本は、今、たいへんなときにある。
その存亡の危機の崖っぷちに立たされていると言っても過言ではない。
不測の事態が不測の事態を呼ぶ。
さらに「想定外」のことが、連続して起こる。
今は、そういう状態。

●鈍化する感覚

 それにしても、日々に感覚が鈍化していくのには、驚かされる。
私自身ですら、「メルトダウン」の恐ろしさは、よく知っていたはず。
チェルノブイリ事故のときは、体が震えた。
しかし今、それがこの日本で起きている。
明日には、その影響が、この静岡県にまで及んでくるかもしれない。
しかし今は、それがない。
つまり緊張感がない。
緊迫感もない。
ニュースを見ながら、「コンクリートで塞げばいい」などと、のんきなことを言っている。

 つまりこうして、(現実)と(感覚)が遊離していく。
「ミリシーベルト」くらいでは、驚かない。
現に今、「5・24マイクロシーベルト」と聞いて、「たったの?」と思っている。

 しかし現実は、重い。
5マイクローシーベルトと言えば、静岡県で観測されている放射線量の約100倍。
25年たった今でも、チェルノブイリでは観測されているという。
周囲30キロが立ち入り禁止区域になっているという。

 そこで重要なことは、この緊張感を失わないこと。
失ったとたん、油断が生まれる。
事故が拡大する。

 あのとき、みな、こう思ったはず。
「原発なんて、もうこりごり」と。
しかしもうすでに、産経新聞などは、原発必要悪論を堂々と論じ始めている。
この変わり身の速さこそが、危険。
心配。
油断こそ、禁物ということになる。

(2011年5月14日夜記)

(注※)(日本経済新聞より)

文部科学省は13日、福島第1原子力発電所事故を受けて屋外活動を制限していた福島市立
渡利中学校で実施した放射線量調査で、校庭利用の基準である毎時3.8マイクロシーベルト
を12日に続いて下回ったと発表した。屋外活動の制限対象になった13校・園すべてで基
準を下回ったことになる。制限解除の対象になるが、同省は放射線量が比較的高い学校な
どの調査を続ける。


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●短い瞬間

 オーストラリアの友人のR君が、「作者不詳」として、こんな詩を送ってくれた。訳は、
私が感じたまま、つまり原文を読んで感じたまま、直感でつけた。どうか「誤訳」と、笑
わないでほしい。

I read of a man who stood to speak
At the funeral of a friend
He referred to the dates on her tombstone
From the beginning to the end.

友の葬式の日、皆の前で、
私は、追悼の言葉を述べた男の話を読んだことがある。
その男は、その女性の、生まれた日と、
死んだ日について、話した。

He noted that first came her date of birth
And spoke the following date with tears,
But he said what mattered most of all
Was the dash between those years.

その男は、彼女が生まれた日付を言った。
そして涙ながらに、つづく死んだ日付について話した。
しかし、誕生と死の間の
その時の流れの、何と短いことよ。

For that dash represents all the time
That she spent alive on earth...
And now only those who loved her
Know what that little line is worth.

その日付から日付までが、すべての時を表し、
彼女が、この地上で生きたことを示す。
いまや彼女を愛した人たちのみが、
その一行に、彼女のすべての価値を知る。

For it matters not how much we own;
The cars ... the house ... the cash,
What matters is how we live and love
And how we spend the dash.

どれだけ私たちがもっているか。
車や、家や、お金にせよ、そんなことは問題ではない。
大切なことは、いかに生きて、いかに愛して、
その短い瞬間を、どう過ごしたか、だ。

So think about it long and hard
Are there things you'd like to change?
For you never know how much time is left,
That can still be rearranged.

だから深く、静かに考えてみたらよい。
あなたには、変えたいものがあるか、と。
残された時間は、あまりにも少ない。
やりなおしがきくのは、今しかない。

If we could just slow down enough
To consider what's true and real,
And always try to understand
The way other people feel.

何が真実で、何が本物か、それを考えるために、
ほんの少しだけ時間をスローダウンすしてみるがよい。
そしていつも、ほかの人たちの感じ方を
理解してみるがよい。

And be less quick to anger,
And show appreciation more
And love the people in our lives
Like we'd never loved before.

怒りを鎮めよ、
もっと人に愛を示せ、
私たちの人生の中の人々をもっと愛せよ、
私たちが愛されたことがないほどまでに人を、愛せよ。

If we treat others with respect
And more often wear a smile...
Remembering that this special dash
Might only last a little while.

ほかの人を敬うなら、
そしてもっと微笑むなら、
この短い瞬間は、もう少しだけ、
長くつづくだろう。

So when your eulogy's been read
With your life's actions to rehash...
Would you be proud of the things they say
About how you spent your Dash?
(Author Unknown)

あなたを作り変えるなら、いつか、あなたの葬儀で、
あなたの賛美が読まれるとき、
彼らが口にすることを、あなたは誇りに思うだろう。
あなたがその短い瞬間をどう過ごしたかについて……。
(作者不詳)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【日本人の依存性と従順性】

++++++++++++++++++

毎年、5月3、4、5日に、浜松祭りが
催される。
東海地方でも、最大級の祭りである。
例年だと、50万人以上もの、観光客が集まる。

が、今年は3・11大震災が理由で、中止。
浜松市長の鶴の一声で、それが決まった。
表向きの理由は、「謹慎」。
が、本当の理由は、「安全管理」。
「安全管理ができないから、中止」
(中止通達書)と。

県の機動隊員ほか多数の警察官が、東北へ
駆り出されている。
そのため「じゅうぶんな安全管理ができない」と
いうことらしい。

++++++++++++++++++

●40年前

 40年前の浜松祭りは、おもしろかった。
本当におもしろかった。
このあたりの人たちの言葉を借りるなら、「血が騒いだ」。
町内ごとの練(ね)り(「練り隊」)が、随所で、別の練りと衝突した。
そのたびに怒号と衝突音。
旗ざおで殴りあう音、悲鳴。
その上には、汗が湯気になり、白いモヤが漂った。
もちろん、けが人も出た。
救急車も走り回った。
が、今は、そのころと比べると、まるでウサギの行進。
祭りの世話役の指示に従い、整然と並んで歩くだけ。
全員、提灯を手に持っている。
またそれをもたないと、祭りに参加できない。
練りの衝突そのものが、ありえない。

 だから私はこう言う。
「浜松祭りは、参加するもの。見るものではない」と。
参加してはじめて、おもしろい。
見ているだけなら、何もおもしろくない。

●自己責任

 「自己責任」という言葉がある。
この日本では、すでに死後になっている言葉である。
上はジー様から、下は赤ん坊まで、みな、キバを抜かれてしまった。
ことあるごとに、みな、こう言う。
「国が……」「国が……」と。

 言うまでもなく、「自由」と「依存」は、相克(そうこく)関係にある。
自由であろうとすればするほど、他者への依存性は低くなる。
依然性が高くなればなるほど、自由の幅はせばめられる。

また「自由」は「独立」に、「依存」は「隷属」に、それぞれつながる。
さらに言えば、自由は、常に不完全性をともなう。
「あいまい性」と言い替えてもよい。
たとえば管理された社会には、自由はない。
最近(11年4月)、私はこんな経験をした。

 メルボルン市(オーストラリア)で、オーバーランド号という列車に乗った。
アデレード行きの長距離列車である。
で、その列車が、メルボルンから1時間半ほどのところにある、ジーロンという町
に着いた。
予定より、20分も早く着いた。
そのとき車内アナウンスが流れた。
「20分早く着いた。ここで客が17人乗ることになっている。
その客を待つ」と。

 しばらくすると、何人かの客が、プラットフォームを歩いていくのが見えた。
それがその17人の客だった。
その直後、また車内アナウンス。
「客が乗ったので、出発します」と。

 ご存知のように、日本では、ぜったいにありえない光景である。
私はその「不完全性」に、たまらないほどの「自由」を覚えた。

●3・11大震災

 あの3・11大震災のときのこと。
あれだけの震災にありながらも、この日本では、暴動が起きなかった。
略奪も起きなかった。
壊れたコンビニからでさえ、ものを盗む人もいなかった。
店員がいるところでは、客はちゃんとお金を払ってものを買った。
しかも店員は、むしろ安い価格で、客にものを売ったという。

 被災者たちが身を寄せた避難所でも、そうだった。
みな、整然と並んで、「秩序」を守った。
「上」からの指示に従った。
用意された場所に身を置き、用意されたものを口にした。
それを見た外国の特派員たちは、みな、例外なく驚嘆の声をあげた。
「日本人は、すばらしい!」と。
私の40年来の友人(日本人)も、こう言った。
「あれこそが、日本人が本来的にもつ美徳」と。

 たしかにそうかもしれない。
私も、そう思った。
しかしそうでないかもしれない。
少しひねくれたものの見方をしてみる。

 ひとつには、被害の大きさが、あまりにも「想定外」だった。
想像を絶する心理状態。
そういう心理状態を、「想定内」にある心理学で分析することはできない。
私たちは、「絶望」というものがどういうものであるかさえ、知らない。
絶望のどん底で、人がどのようにものを考え、行動するか。
想像することはできても、それを知ることは不可能。

 3・11大震災で被災した人たちの心理状態を、私たちがどうこう分析
することはできない。
失礼というより、あまりにも恐れ多い。
ただ私たちができることは、そういう人たちを見て、そういうものかなと
思う程度。
家族、家、職場、地域を失った人たち。
別の見方をすれば、暴動を起こしたり、ものを略奪するほどのエネルギーさえ
残っていなかった。
そういうふうにも、考えられなくはない。

●あえて……

 が、ひとつだけあえて口をはさむとしたら、こういうことも言える。
本当にそれが日本人が本来的にもつ美徳のひとつかというと、私はそうではない
ような気がする。
「気がする」というだけで、断言しているわけではない。
たとえば当時、どの避難所でも、みな、こう言った。
「国が……」「国が……」と。
「国が何とかしてくれるべき」と。
それを聞いたとき、私はこう思った。
「ひょっとしたら、日本人は、本物の自由知らないのではないか」と。

 不完全性を認めない。
あいまいさを認めない。
そのため独立性を失い、自己責任という言葉を忘れてしまった。

 そこで短絡的に、私はこう結びつける。
日本人は、あまりにも長くつづいた官僚制度の中で、「国」の中に、「己(おのれ)」
を埋没させてしまった。
その結果、「国」というより、体制に隷属的になってしまった。
人とはずれたことをすることに、罪悪感を覚え、その一方で、「出る釘を
容赦なく叩いた」。

 その結果が、今では」ないか、と。

●サンケイスポーツ

 ところで数日前、こんな記事が、サンケイスポーツに載っていた(HPより)

+++++++++++以下、サンケイスポーツ+++++++++++++

●「自己責任」に住民らがキレた。

東京電力福島第1原発から半径20キロ以内の立ち入りが禁止されている「警戒区域」に
自宅がある住民の、初めての一時帰宅が10日、始まった。
第1陣はK村の54世帯92人。

帰宅直前に説明会が開かれたが、国側が「自己責任で立ち入る」とする同意書に署名を求
めると、住民らは「責任を押しつける気か!!」と怒りを爆発させた。(以上、
サンケイスポーツ)

+++++++++++以上、サンケイスポーツ+++++++++++++

●国の同意書

 ことのいきさつは、こうらしい。

(1)住民たちの、一時帰宅が「認められた」。
(2)住民たちの、一時帰宅が「始まった」。
(3)国側が「自己責任で立ち入る」という同意書に署名を求めた。
(4)これに住人たちが、反発した。
(5)「責任を押しつける気か!!」と。 

 先ほども書いたように、被災者の人たちの気持ちは、被災者たちにしかわからない。
「想定内」の世界に住んでいる私たちが、とやかく言うのは、許されない。
またそれはたいへん危険なことでもある。
私たちがすべきことは、まず被災者の人たちの声に耳を傾ける。
それを受け入れ、納得する。
その上で、自分の意見を添える。

 が、ここで国側から「自己責任」という言葉が出てきたことに注目してほしい。
「国」といっても、「役人=官僚」のことをいう。
つまり国側の言い分は、こうだ。

 「行くのは自由だが、その結果、あとあとどんな放射線障害による症状が
現れても、私たちには責任はありませんよ」と。
あるいはこういうことかもしれない。
「自分で考えて行動し、その結果についての責任は自分で取りなさいよ」と。

●放射線障害

 こと放射線障害については、「しきい値」というのは、ない。
あるはずもない。
「しきい値」というのは、「これ以下なら、安全」という基準をいう。
ごく微量でも、放射線は放射線。
危険であることには、変わりはない。
宝くじを例にあげ、考えてみればよい。

 1本買っただけで当たる人もいれば、100本買っても、当たらない人もいる。
「量」の問題ではなく、「確率」の問題。
もうひとつ付け足すなら、「時間の問題」。
放射線をたくさん浴びれば浴びるほど、晩発性の放射線障害が現れる確率は
高くなる。
障害が現れる時間も、早くなる。
「~~シーベルト以下なら安全」とか、「~~時間以内なら安全」と言うのは、
まったくのナンセンス。
1年以内に症状が現れなくても、10年後に、現れるということもある。

 そんなことは、常識。
逆に言うと、被災者の方には失礼な言い方になるかもしれないが、これだけは、
許可を求めるとか、求めないとかという問題ではない。
「許可」という言葉そのものが、なじまない。

一方、国側にしても、「認める」とか、「認めない」とかという問題ではない。
そんな権限は、たとえ国にもない。
ないにもかかわらず、「認める」という言葉を使うから、話がおかしくなる。
が、「認める」という言葉を使ってしまった。
言い換えると、「国が責任を負う」ということを宣言してしまった。
が、これでは困る。

●積算される放射性物質

 放射線の値が高い地域に足を踏み入れれば、危険に決まっている。
浴びる放射線の量にもよるが、それよりもこわいのが、放射線物質。
空中に漂う、放射線物質。
放射線物質は、たとえば微粒子の形で、呼吸や飲食物とともに、体内に取り込まれる。
蓄積される。
それが内部被爆を誘発する。
これがこわい。

 だからというわけでもないが、政府(原子力保安院)やNHKの解説委員の言う
言葉を信用してはいけない。
ときどき彼らは、たとえばこう言う。
「この値は、1時間、放射線を浴びたとしても、胸のレントゲンを1枚、撮った程度の
量です」と。

 バカめ!

 1時間に1枚ということは、1日に、24枚。
1年で……?
放射線物質を吸い込んでいれば、それが内部被爆として、10年単位でつづく。
20年単位でつづく。
(これに対して、X線でレントゲンを撮るのを、外部被爆という。
が、外部被爆は、一時的なもの。)

 つまり、そういうゴマカシが多すぎる。
ゴマカシが多いから、国民も、「国」を信じなくなる。

●国の責任

 危険だったら、「危険」と言えばよい。
あとの判断は、被災地の人たちに任せればよい。
被災地の人たちにしても、「国」に「自己責任」という言葉をつきつけられる前に、
「自己」を考えたらよい。

 つまり同意書を求める国も国なら、それを求められて怒る住民も住民ということになる。
「責任論」ということになれば、日本中のどこにいても、また同意書があっても、
なくても、その因果関係がはっきりすれば、責任を追及すればよい。

 同意書があるからといって、国は責任を逃れることはできない。
同意書を書いたからといって、責任の追及を放棄したわけではない。

 禁止区域に入っても、(「立ち入り禁止区域」という言葉は、まだ使われていないが)、
また入っていなくても、責任論は、国はまぬがれない。
反対に、禁止区域外にいたとしても、障害が現れ、因果関係がはっきりすれば、国は
責任を取らなければならない。
たとえ「想定外」であっても、だ。

●ショック!

 ところで今日(5月13日)、こんなショックなことがあった。
ネットの報道によれば、小田原市産のお茶が、出荷停止処分になった。
規定値を超えた放射性物質が検出されたためという。

 小田原市といえば、神奈川県。
東京都より、静岡県側に近い。
予想はしていたが、かくも早く、やってくるとは思っていなかった。
言い換えると、すでに千葉県全域、東京都全域は、放射性物質に汚染されている。
常識で考えれば、そうなる。

福島第一原発から小田原市まで、280キロ、
福島第一原発から私が住む浜松市まで、408キロ(グーグルアース上で測定)。
ちなみに、福島第一原発から東京までは、210キロ。
この浜松市が汚染されるのは、もはや時間の問題。
福島第一原発の状況は、日増しに悪化する一方。
この先も、放射性物質は、絶え間なく、たれ流される。

 すでに東京都の地価は、10%程度、下落し始めたという。
「バブル崩壊」という言葉を使う人もいるが、実際には、東京都に住む人たちが、
東京都を離れ始めた。
私はそう解釈する。

 ……ところで今日から、中部電力御前崎原子力発電所が停止措置に入った。
それに対して、どこかのノー天気な市長は、交付金が少なくなると心配していた。
バカめ!

 今に牧之原(御前崎を取り囲む茶の産地)のお茶も、出荷停止になる。
これも時間の問題。
そうなったとき、その市長は、何と言うのだろう。

●どうすればいいか

 私なら、数キロ離れたところに、巨大な穴を掘る。
日本の土木機械を総動員してでも、そうする。
そこに発電所で出る汚水をパイプで引き込む。

 この際、地下水が汚染されるとか、そんなこまかい手順を心配しているばあいではない。
緊急事態である。

 つぎにメルトダウンを予想し、(すでにメルトダウンしているが)、数十万トンの
コンクリートと、数百台のユンボやブルドーザーを用意する。
当然、東京都の首都機能を、名古屋や大阪に移す。
ものごとは先手、先手で、対策を練る。
またそうであってこそ、はじめて「対策」ということになる。

 「水位計を調べてみたら、原子炉はすでにメルトダウンしていました」(1号機)では、
話にならない。
報道によれば、対策を練るのは、これからという。
生ぬるいというか、まるで「うさぎの行進」。
こんなことを繰り返していたら、本当に、この日本は終わってしまう。

●自由

 自由とは、もともと「自らに由る」という意味である。
自分で考え、自分で行動し、自分で責任を取る。
それを「自由」という。

 よく日本は自由な国と言う。
しかしこの日本では、アホな人たちがアホなことをする自由は、ある。
が、本物の自由があるかというと、私はそうは思わない。
あるとしても「しくまれた自由」(尾崎豊「卒業」)。
しくまれた自由を自由と錯覚し、その中でうさぎの行進をしているだけ。
今の今も、そうだ。
「祭をやめます」と言われれば、何も文句も言わず、それに従う。
従うだけ。

 どうじて庶民の祭を、役人のご都合主義によって、中止しなければならないのか。
そのあたりから、日本人は、「自由」というものを考えなおす必要がある。
あるいは自分に問いかけてみる必要がある。

 「果たして私たちは、自由なのか」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 自由論 浜松祭 中止 福島第一原発事故 放射線 放射線被害)


Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●老後、それぞれの生き方

ある女性。
今年60歳。
現在、北海道M町の有料老人ホームに住んでいる。
名前を、Yさんとしておく。
そのYさん、ときどき旅行に出かける。
先月は、浜松へやってきた。
四国へ行く途中ということだった。

有料老人ホームといっても、そこに住んでいるのは健康な老人ばかり。
仕事をつづけている人も多い。
またその有料老人ホームには、ゲストルームというのもある。
友人が客として、泊まることもできるという。
言うなれば、自活式のホテルのようなもの。
「老人ホーム」という名前から受ける、ジジババ臭さはどこにもない。
Yさんは、そう言う。

●新しい生き方

 新しい生き方を模索している老人は、多い。
そういう人がふえてきた。
今までの老人観を自ら打ち破り、自分なりの生き方を模索する。
実行する。
Yさんは、こう言う。
「一応生活の基盤をそこに置き、あとはあちこちを旅行して回っています」と。

 友人は、日本中にいるという。
中にはネットで知り合った人もいる。
また1人の友人ができると、友人の紹介からまたべつの友人ができる。
そうして自分の住む世界が、広がっていく。

 もちろん仕事もしている。
詳しくは聞かなかったが、週に3日ほど。
時間は、合計で、週に10時間ほど。
書き忘れたが、夫とは、5年前に死別。
そのとき得た遺産が、生活資金の基盤になっている。

●不良老人

 老後に「形」はない。
大切なのは、自分流に生きること。
他人の目を気にしないで、生きること。
私は私、あなたはあなた。
今は、そういう時代になりつつある。

 で、私たち夫婦はといえば、自称、「不良老人」。
いつも不良老人を目指している。
なにごとにつけ、不良ぽく生きる。
時間に縛られない。
「らしさ」に縛られない。
見栄、体裁、世間体は気にしない。
が、何よりも大切にしているのが、計画性のない生活。
そのときしたいことは、その瞬間に決める。

 「不良老人」と書いたが、実は、私たち夫婦は、若いときから、そうしてきた。
若いときは「不良夫婦」。
その私たちが、そのまま今の年齢になった。
ただし自分では、自分を「老人」とは思っていない。
思っていないが、「不良老人」と呼んでいる。
つまりこれも、ひとつの生き方。

●将来のこと

 「先はどうなるか?」と。
以前は、よく考えた。
55歳を過ぎたころのことではなかったか。
ものを買うときも、どこかでブレーキが働いた。
「どうせ無駄になる」と。
が、今は、かなりちがう。
おかしなことに、このところ年を重ねるごとに、あまり考えなくなった。
たとえば仕事にしても、50代のころより、積極的になってきた。
今の今も、新しいことにチャレンジしている。

 「今度は子どもたち(=生徒たち)に、確率論を教えてみよう」とか、
そういうことだが、それを考えていると楽しい。

●変化
 
 「老後は規則正しい生活をするといい」と説く人は多い。
東洋医学でもそう教える。
あるいは「老後になったら、コンパクトな生活に心がけるといい」と説く人もいる。
いろいろな考え方がある。
またそれぞれの人は、人生の集大成として、老後の生き方を定める。

 が、私のばあい、(あくまでも現時点での話だが)、「変化」を大切にしている。
つねに生活に変化をもたらす。
さらに言えば、「緊張感」。
緊張感の持続に心がけている。

 これも若いときからの習慣かもしれない。
趣味にしても、周期的に変化する。
数か月単位で変化する。
だからほとんどのことは、経験した。
50歳を過ぎてからは、パソコンを主体とした趣味になった。
が、それでもその合間を縫って、いろいろなことをしている。
今は、温泉旅行。
それが楽しい。

●今、したいこと

 先日、オーストラリアへ行ったとき、メルボルンからアデレードまで、
「オーバーランド号」という列車に乗った。
そのとき案内してくれた友人(オーストラリア人)が、もっとすごい列車があると
話してくれた。

 北の端にあるダーウィンから、南の端にあるアデレードまで走る、縦断鉄道がある、と。
そのときは、フ~ンという感じでその話を聞いていた。
が、それから1か月。
日増しに、その列車に乗りたくなってきた。
ワイフに話す回数も、ふえてきた。
「なあ、x月に乗ってみないか?」と。

 今のところワイフは、あまり乗り気ではない。
二男が住むインデアナポリス(USA)に行きたがっている。
孫にも会いたいらしい。
しかし私は、その列車に乗りたい。
あるいは、この際、その2つとも実行してみるという手もある。

●山荘で

 ……といっても、実は、今朝は少し調子が悪い。
山荘へ来る前、途中の店で、カツ丼を食べた。
閉店間際の、午後10時ごろだった。
そのせいか、朝起きたとき、胃が少し痛かった。
しばらくうつ伏せに寝ていたら、楽になった。
大きな病気でないことは、わかっている。
2か月前に、胃カメラを飲んで検査している。
が、心配。

 若いときとちがって、そういう無理はできなくなった。
精神はともかくも、肉体のほうは、正直。
年齢相応に弱っていく。
変化を、あまり好まない。
たとえば一晩、徹夜をすると、その後遺症は数日、残る。

 で、今朝は、朝食抜き。
たぶん昼食も抜く。
あるいは軽く食べて、すます。

●うつ病

 知人(女性)でうつ病になってしまった人がいる。
かなり重症らしい。
一日中、だれとも会わず、部屋の奥で寝ているという。
窓を開けるのもいやがるとか。
夜も電気をつけない。

 年齢は80歳くらい?
若いときは活発な人で、宗教団体にしても、3つも4つも、掛け持ちで信仰していた。
「神様に悪い人はいない」というのが、その人の口癖だった。

 が、だれでもうつ病になる。
私だって、なる。
あなただって、なる。
心の病気。

 今朝、ワイフとその人の話になった。
「どうしてああなってしまったのか」という話をしているうちに、「どうすれば、
ああならないですむか」という話になった。

 うつ病といっても、基本的には、脳の機能障害。
脳ホルモンの分泌が、変調して、人は、うつ病になる。
慢性的なストレス、つまり心配ごとや悩みは、よくない。
それが脳ホルモンの分泌に、変調をきたす。

 老後は、ほがらかに、楽しく生きるのがよい。
……ということで、最初の話になった。

 どこかの有料老人ホームに籍を置き、そこを拠点に、好き勝手なことをする。
それもひとつの生き方。
ワイフはこう言う。

「そのうち気力も弱くなってくるから、今のうちに準備しなくちゃあ」と。

 老後には、そういう問題もある。
つまり「気力」。

●気力

 こうしてものを書くにも、気力が必要。
「書きたい」と思う気力。
それがないと、ものは書けない。
が、その原動力といえば、「怒り」。
私のばあいは、「怒り」。

 たとえば昨日は、夕食を食べたあと、浜岡原子力発電所についての原稿を書いた。
「怒り」があったから、一気に書けた。
言うなれば、私の正義感に火がついた。
が、もしそれがなかったら、ただの世間話程度の原稿で終わってしまったかもしれない。

 ただ誤解してほしくないのは、「怒り」といっても、感情的な「怒り」をいうのではない。
論理的な「怒り」。
それが爆発して、やがて原稿につながっていく。

●昨夜の「怒り」

 実は、昨夜は、それについては書かなかった。
しかしどうも、あの世界は、胡散(うさん)臭い。
阪神大震災のときも、こんなことがあった。

 あの大震災のときのこと。
どこかの高速道路の橋けたが折れて、倒れた。
それについてルポを書いていた友人がいた。
明らかに手抜き工事が原因だった。
が、その原稿を書き始めて間もなくのころ、その友人が行方不明になってしまった。

 最初にそれに気づいたのは、京都で出版社に勤めている、X氏だった。
そのX氏から問い合わせがあった。
「○○さんを知らないか?」と。

 X氏は、こう言った。
「○○さんは、消されたかもしれない」と。

 この日本では、巨大利権団体を攻撃した原稿を書くと、命の危険にさらされる。
宗教団体、ゼネコン、政治団体などなど。
とくに政治結社は、こわい。
X氏は、それを言った。
で、私たちがあれこれ心配していると、1年後、またひょっこりと○○さんが現れた。
理由を聞くと、こう言った。
「暴力団の連中に、追いかけまわされましてね」と。

 日本に言論の自由があると思っているのは、日本人だけ。
あたりさわりのない、バカなことを書いている間は、よい。
しかし一線を越えると、とたん、攻撃の嵐にさらされる。
私も何度か、経験した。

 つまり今回の福島第一原発、さらには御前崎原子力発電所について、私は何か、
胡散臭いものを感じている。
本当にそうとは言い切れないが、その向こうに巨大な利権団体がうごめいている。
この日本を食い物にしている。

 そういう点でも、今回の管直人首相の発言は、たいへん勇気のいるものだった。
表にこそ出てはこないが、今ごろは、電力会社のみならず、官僚、ゼネコンの猛攻撃に
さらされているにちがいない。
だからこそ、私たちが立ち上がる必要がある。
管直人首相を、裏で支える必要がある。

 この世界には、「御用学者」というのがいる。
同じように、「御用ライター」というのもいる。
巨大利権団体の意向に沿った記事を書かせ、世論を自分たちの都合のよいように誘導
していく。

法外な原稿料を払い、ライターを懐柔するという方法が一般的。
半端な原稿料ではない。
原稿1本で、ふつうの人の年収分の原稿料を払う(「週刊現代」)。
こうして「御用ライター」を育成していく。

 昨夜は、久しぶりに、その「怒り」を覚えた。

●団塊の世代

 が、その一方で、ときどきこう思う。
「私たち団塊の世代ががんばらなくて、ほかのだれががんばるか」と。
「怒り」といっても、私のためではない。
世のため、人のため。
……というのは、大げさかもしれない。
しかしそういう自負心もないわけではない。

 ……ということで今朝も始まった。
時は2011年5月13日。
雨戸を開けると、まだどこかに淡さを残した森の木々が、やさしく風に揺れていた。
その向こうには幾重にも重なった森の木々、そして水色の空。
先ほど、ワイフが窓も開けた。
ひんやりとした春の乾いた風が、サーッと吹き込んできた。

 今日の計画……。
連休中は家で静かにしていた。
が、これからが私の出番。
がんばろう!


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