2010年4月30日金曜日

*Idle Mind

●怠けた心

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今夜は、仕事が終わるのが9時半ごろ。
それはそれとして、今夜は、ワイフが、
仕事を手伝いに来てくれる。
そのため、家に帰るには、2つの方法が
ある。

(1) いつものように自転車で帰る。
(2) ワイフの車で、ワイフといっしょに
帰る。

4月もあと少しというのに、外はまだ肌寒い。
風は弱まったとはいえ、向かい風。
ワイフと自動車に乗って帰れば、楽。
しかし健康のためには、自転車のほうがよい。
こういうとき、私はどう判断したらよいのか。
どう行動したらよいのか。

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●怠け者

 人間は、基本的には、怠け者。
できるだけ体を動かさずに、楽にしたい。
心のどこかで、いつもそう願っている。
もし私の肉体が、肉体自身の健康を考えるなら、肉体は何らかの形で、
脳に、「運動したい」という信号を伝えるはず。
このところやや(1~2キロ)、体重もオーバーぎみ。
が、どういうわけか脳のほうは、「自動車に乗って帰ろう」という方向に、
私を導きつつある。
肉体の側からの働きかけは、まったくない。
考えてみれば、これはおかしなことだ。

●無駄な運動?

 もし人間が基本的に怠け者なら、ヒト(人類)は、とっくの昔に絶滅していたはず。
が、今にいたるまで、20数万年を生き延びてきたということは、それなりの健康
管理を自分でしてきたということになる。
運動もそのひとつだが、原始のヒトたちは、生きるために体を動かしていた。
運動のための運動ということは、しなかった。
そのことは、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればわかる。
彼らの動きは、すべて、(生きること)と直結している。
無駄な(?)運動はしない。

 が、人間の生活は便利になった。
私などは、一日の大半を、座って過ごす。
私の仕事は、そういうもの。
となると、(運動不足)→(不健康)の悪循環に陥りやすい。
が、それを判断するのは、肉体のほうではなく、脳のほうである。
肉体のほうは、むしろ「休め」「休め」と、私に命令している。

●肉体

 が、これはおかしい。
冒頭の話に戻るが、肉体にしてみれば、自身の健康を考えるなら、自転車で
帰るほうがよいに決まっている。
よいに決まっているが、それについては沈黙を守っている。

 たとえばエネルギーが不足してくれば、血糖値がさがり、それを視床下部にある
センサーが感知して、空腹感を引き起こす。
睡眠不足のときも、そうだ。
病気になったときも、そうだ。
しかしこと運動不足については、そういうセンサーが働かない。
エネルギー不足のときは、「腹が減った!」という意思を、脳に伝える。
が、運動不足については、それがない。
「運動したい!」という意思は、生まれてこない。
むしろ、「楽をしたい」と。

●矛盾

 つまり(肉体の状態)と(脳の反応)が、矛盾している。
本来なら運動不足を感知した肉体が、「運動したい」という意思を、脳に
伝えてもよいはず。
あるいは運動することによる快感を、引き起こさせてもよいはず。
が、そういう反応は、どこからも起きてこない。
で、ここでもし私が肉体の誘惑に負けたとしたら、明日は、もっと太ってしまうはず。
体の調子も悪くなるはず。

 一方、今夜家に帰るとき、ひと汗かけば、明日の朝は、爽快な気分で迎えられるはず。
もっともそれを知っているのは、肉体のほうではなく、脳のほう。

●命令

 そこで私の脳は、肉体に、あえて(「あえて」だ)、命令をくだす。
「今夜は自転車で帰れ!」と。
が、肉体のほうは、それにすなおに従うわけではない。
どこか躊躇している。
「できれば、車に乗って帰りたい」と。
これはどうしたことか?

 基本的には、やや疲れぎみということもある。
今日も、けっこう、忙しかった。
それに年齢的にも、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
つまり(怠け心)の正体は、実は、「寿命」と関係があるのではないかということになる。
話が少し飛躍したので、わかりにくいかもしれない。
つまり肉体は、すでに死に向かいつつある。
そのため、「怠けろ」「怠けろ」と、私に命令している。
またそういった意識が、DNAそのものの中に、組み込まれているのかもしれない。

 「怠けろ」「不健康になれ」「死ね」と。
しかしそう考えると、先にあげた「矛盾」が、説明できる。

●健康論

 私は決定した。
今夜はどんなことがあっても、自転車に乗って帰る。
このまま怠けた心の言いなりになっていたら、私はそのまま「死」に向かって
まっしぐら。
・ ・・というほど、大げさな問題ではないかもしれないが、日々の積み重ねが、
その人の健康を決める。
寿命を決める。

 が、ひとつだけ、誤解しないでほしい。

 運動というのは、それを始めるときには、いつも(つらさ)が伴う。
しかしひとたび始めてしまうと、私のばあい自転車にまたがったとたん、言いようのない
解放感を覚える。

 帰り道の途中には、ゆるい上り坂があって、その坂を上りきると、今度は、長い
下り坂になる。
その峠の部分までは苦しいが、下り坂を下っていくときの爽快感は、何とも言えない。
私はスキーをしたことはないが、スキーで、白銀の世界を突っ切っていくときは、
こんなものだろうなと、よく想像する。

 また汗をかき、家に帰って扇風機の前に立ったときもそうだ。
つまり肉体自身は怠け者だが、そうした爽快感を、肉体はよく知っている。
だから強くは抵抗しない。
「怠け心」というのは、そういうもの。
「がんばれるものなら、がんばってみな」と。

●センサー

 やがて人間もさらに進化すれば、脳の中に、こんなセンサーができるように
なるかもしれない。

「運動不足だから、運動せよ」と。
もっとも(命令)では、人間の肉体は動かない。
そこでエネルギー不足のときと同じように、空腹感に似たものを引き起こす。
それに応じて、脳のほうは、つぎの行動を決定する。
「自転車に乗って、運動せよ」と。
さらに進化すれば、「脚力をつけろ」「背筋力をつけろ」と、そうなるかもしれない。

 が、今はまだそういうセンサーはない。
ないから、どうしても脳のほうからの命令がないと、肉体は動かない。
動こうとしない。
つまりは、これも脳の自己管理能力の問題ということになる。

 私のばあい、まだその自己管理能力が、健在ということか。
この能力が衰退したら、私は楽なことばかりを願うようになる。
不健康になる。
「死」に向かう。
そのとき寿命が尽きる。


Hiroshi Hayashi++++++May.2010++++++はやし浩司

●4月29日(昭和の日)(改)

●歩き方

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毎朝、起きると同時に、ウォーキングマシンで、
運動をする。
それが1日の始まり。
が、今朝は、とりあえず、10分だけ。
気分があまりよくない。

そのウォーキングマシンを使うようになってから、
1年あまり。
「人の歩行」に興味をもつようになった。

若い人はともかくも、50代、60代の人に
ついては、歩き方を見ると、その人の
健康度を、おおよそ知ることができる。

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●ウォーキングマシン

 歩き方にも、いろいろある。
いろいろあることを、ウォーキングマシンを使うようになってから、知った。
専門用語は知らないので、自分流の(用語)を使う。

 まず、私のようにO脚ぎみの人は、足の裏の外側(小指からかかとにかけての外側)
から地面に足をつける。
そのため、歩くとき、ペッタン、ペッタン・・・というような音がする。

 そこで歩き方を変える。
足の裏の内側(親指からかかとにかけての内側)から地面に足をつける。
とたんにスタスタ・・・という感じになる。

 つぎに大切なのは、大またで歩くこと。
大またで歩こうとすると、ウォーキングマシンの性質として、さらに足を後方へ、
ぐいぐいと引っ張ってくれる。
床が電動で回転している。
それが相乗効果となって、ますます大またで歩くようになる。

 で、こうして自分の歩き方を矯正しながら、20分も歩いていると、
背中の下部から上部にかけて、ジワーッと、血が上ってくるのがわかる。
東洋医学では「気」という。
それが首筋あたりまで、上ってくるのがわかる。
同時に、ぼんやりとした頭がすっきりしてくる。

 最後は軽くジョギング風に早足で歩いて、すます。
が、このときも、つま先で走るようにする。
ひざをできるだけ高くもちあげて走るようにする。
これを1~2分するだけで、とたんにウォーキングが、有酸素運動に変わる。
ハーハーとあえぐようになる。
少し暖かい日だと、汗が上半身ににじみ出てくる。

●老人の歩き方

 で、私はこの半年ほど、通りで歩いている人を見かけると、その人を観察するように
なった。

 まず若くて健康な人だが、そういう人は、つま先を使って、ひざを高くあげて
歩いているのが、わかる。
反対に老人になればなるほど、足のかかとのほうを使って、足を引きずるように
して歩いているのが、わかる。
ひざもあがらない。

 さらに何らかの脳の病気をかかえている人は、それぞれ独特の歩き方をする。
たとえばP病の人は、足がもつれるような歩き方をする。
前かがみになって、小またで歩く。
脳梗塞の人は、片方の足を、腰の回転をうまく使って、前へ差し出すようにして歩く、
などなど。
腰痛もちの人は、腰痛をかばうような歩き方をするし、骨に異常のある人は、腰を
曲げて歩く。
またひざに故障がある人は、脚そのものが、外側に大きく歪曲する。
ヨタヨタした歩き方になる。

 だから……というわけでもないが、私はひとつの健康法を編み出した。
その第一。
大またで、足をまっすぐ前に差し出して歩く。
足をまっすぐ伸ばして歩くことも、大切。
あとはつま先をよく使い、軽くかかとをあげながら、歩く。
(つま先で歩いていると、アキレス腱の上部のふくらはぎがあとで痛むこともあるが、
それはよい徴候とみる。)
さらにひざを高くあげながら、歩く。
また私のようにO脚気味の人は、足の内側から地面につけるようにし、左右のひざを
できるだけ近づけて歩くとよい。

 ……以上のことを、日常的に心がける。
それがウォーキングマシンを使って学んだ、歩き方の健康法ということになる。
なお、近く、乗馬マシンというのも買うつもり。
ときどき近くのショッピングセンターで試乗させてもらっている。
あれはたしかに腰の運動になる。
それを昨日、自分なりに確認した。

 老化は、腰とひざからやってくる。
腰やひざが痛くなってからでは、遅い。
まだ健康なうちから、予防に心がる。

●不気味な足音

 昨日、ギリシアの国家経済が破綻した。
つづいてポルトガル、アイスランドもあぶない。
EU全体も、大きくぐらついている。
しかし忘れてならないのは、この日本もあぶないということ。
「2011年度の予算は成り立たなくなるのでは?」と危惧されている。
この日本は、国家税収(40兆円前後)の大半(38兆円前後)を、公務員の人件費に
投入している。
そのほかの必要経費は、すべて借金。
「国債」という借金で、まかなっている。
こんなメチャメチャな財政運営をしている国は、そうはない。

 が、もし国債が売れなくなったら……つまりお金を貸してくれる人がいなく
なったら、日本は、そのとたん、破産。
予算そのものが、成り立たなくなる。

 それを避けるためには、内需を拡大して、日本経済を活性化させる。
簡単に言えば、みながもっているタンス預金を引き出して、それを市中へ流す。
が、あらゆる指標が、悪いほうへ、悪いほうへと向っている。
日本の国際的格付けも、そのつど、下方修正されている。

 中国のバブル経済もひどいが、韓国のバブル経済も、ひどい。
日本も今、ミニバブルから中型バブルへと向っている。
つまり世界中の国々が、お金をバラまいている。
が、こんなことをつづけていたら、それこそ、世界は、おしまい。
いつか……といっても、その時期はすぐそこまで迫ってきているが、世界経済は、
まとめて破綻する。
世界中の札束が、紙くずと化す。

 どうしたらよいのだろう……?

要するに、個人資産は、私たち個人が守るしかない。
方法については、ここには書けないが、大衆に迎合し、いっしょになって
ザザーッ、ザザーッと動いていたら、そのまま奈落の底に。
08年末のリーマンショックで、金融資産を、100分の1程度にしてしまった
人さえいる。
その人は、1億円の金融資産を、100万円にしてしまった!

 こわいぞ!
今度の嵐は!
中国のバブル経済がはじけたら、ドバイショックの1000倍の威力があるとか
(某経済誌)。
「1000倍」と言われてもピンとこないが、そのあと世界は、未曾有の大恐慌へ
と突入する。
(2010・4・29記)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

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