2010年4月7日水曜日

*Fixed Idea

●固定観念

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固定観念。
その固定観念というのは、一度できると
それを打ち破るのは、容易なことではない。
その人の「常識」となって、脳の中で
固定化してしまう。
(だから、「固定観念」という。)
固定化してしまうのみならず、新しい観念の流入を
阻止してしまう。

「私はだいじょうぶ」と思っている人も
いるかもしれない。
「私はいつもものごとをフレキシブルに
考えている」と。

しかし私たちは、無意識のまま、その
固定観念に縛られている。
そしてそれが当たり前と思うあまり、
もっと大切なことを、置き去りにしてしまう。
たとえば……。

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●寸又峡へ

 今日は寸又峡(すまたきょう)という温泉地へ、
やってきた。
静岡県ではよく知られた温泉地である。
JR東海の金谷(かなや)駅から千頭(せんず)へ。
大井川鉄道に乗り換え、そこから寸又峡へ。
(金谷から千頭まで、1時間30分。)

 その寸又峡へは、今回で3度目。
今回は、『翠紅苑(すいこうえん)』という旅館に、一泊することにした。
5つ星の、★★★★★。
寸又峡イチ……というか、「これだけの旅館は、静岡県にも、そうはない」と
言われるほど、評価の高い旅館。
以前からうわさには聞いていたが、そのとおりだった。
玄関を入ったとたん、それがわかった。

都会にある大きな洗練された旅館とは、ちがう。
田舎の小さな旅館である。
が、ズシリとした重みが伝わってきた。
慣れ親しんだ田舎の家を訪れたような、そんななつかしささえ、私は感じた。
 
 で、その途中でのこと。
ここからが「固定観念」の話。

千頭から寸又峡温泉までバスに乗った。
その車内で、またまたあのガイド。
日本独特の、あのガイド。
録音テープによる、あのガイド。

「当地は、江戸時代は○○藩のxxの領地で……何とか何とか」
「中部電力が……何とか何とか」
「発電電力は、十数万キロワット……何とか何とか」
「右手奥に見ます山が……何とか何とか」
「前方に見えてきます山が……何とか何とか」
「ここが峠で、右下の谷は……何とか何とか」と。

 うるさいのなんのと言ったらない。
そういうのが旅のサービスと、バス会社は思い込んでいる。
聞いても、すぐ忘れる。
意味のない情報。
それがなんと40分もつづいた。
こういうのを「固定観念」という。
わかるかな?

 では、外国ではどうか?
……というより、旅には旅の、もっとふさわしいガイドというのがあるはず。
たとえば「このあたりには、ニホンザルやニホンカモシカが出没します。
運がよければ、山の肌にそれを見ることができます。
また木の種類も多く、数百種が生育しています。
春には、20種類以上の野鳥が観察されます。
珍しい鳥にxxがいます」とか、など。

 私たちは静かな旅を楽しむためにやってきた。
自然を楽しむためにやってきた。
社会科の勉強にやってきたのではない。
が、話すほうも、聞くほうも、何も疑問をもたない。
車内ガイドというのは、そういうものと、それぞれが勝手に思い込んでいる。
それが固定観念ということになる。

(ついでに言うと、この時期、ふだんは観光客も少なく、静かな旅になるはずだった。
しかしたまたまどこかの歩く会の人たち、15、6人と乗り合わせた。
その人たちのおしゃべりの、うるさいことといったらなかった。
車内ガイドなど、何も聞いていない。
音声に負けじと、みながさらに大声で話し合っていた。)

●流転

 で、少しまじめな話。

 ますます世の中の動きが速くなってきた。
こうまで動きが速くなってくると、ついていくだけでたいへん。
昨日の常識が、今日は、非常識となる。
が、もっともそれに気づいている間はよい。
動きに合わせて、自分を変えていくことができる。
しかし時として、固定観念にしばられ、世の中の動きを見失うことがある。

 たとえば私たちが子どものころは、「出世」という言葉が、もてはやされた。
「末は博士か、大臣か」と。
そんな言葉もあった。
しかし今は、時代も変わった。
権威主義そのものが、崩壊した。
価値観も変った。
出世主義に替わって、家族主義が台頭した。
ちょうど2000年ごろを境に、この2つが逆転した。

それまでは「仕事のためなら、家族は犠牲になって当然」と、みなが
考えていた。
しかし2000年を境に、仕事より家族を優先する人のほうが、多くなった。
「家族主義」を唱える人も現れた。
(この私のことだが……。)

 が、固定観念というのは、恐ろしい。
60代になっても、70代になっても、さらに80代になっても、
出世主義に毒されている人は多い。
毒されるならまだしも、「私は正しい」と、自分の価値観を他人に押しつけてくる。
言葉に出して言うことはないが、雰囲気でそれがわかる。
そういう人に出会うと、どう話を合わせてよいか、困ってしまう。
またどう話したところで、理解してもらえないだろう。
こんなことがあった。

●ある男性
 
 その人(男性・75歳)はある都市銀行の部長職を最後に、銀行を退職した。
そのあとしばらく子会社の金融調査会社に籍を置いた。
現役時代は、それこそ名刺一枚で、どこの会社でも社長室まで、素通りできた。
輝かしいキャリアである。 
が、退職と同時に悲劇が始まった。

「オレは偉い」といくら叫んでも、だれも相手にしない。
しないばかりか、「あいつはつきあいにくい」と、みながその人を敬遠し始めた。
本来ならここで世の流れの変化に気づき、それに自分を合わせるべきだった。
退職と同時に、自分を変えるべきだった。
しかしそれを認めることは、その人にとっては、自己否定につながってしまう。
出世だけを目標に、家族を犠牲にしてきた。
友人を犠牲にしてきた。
「一社懸命」でがんばってきた。
その結果が「今」ということになる。
まわりの人にしても、「あなたは、もっと大切なものを犠牲にしてきましたね」とは、
とても言えない。

 だからその人は、75歳になった今でも、過去の亡霊にしがみついている。
20歳になった孫娘が2人いるが、そのうちの1人が、工場勤務の工員と結婚することに
なったときのこと。
その人は、孫娘に、こう言って反対したという。
「まともな仕事をしている男と結婚しなさい!」と。

●偏見

 まともな仕事?

 私も・・・と書くのは、今でも気が引けるが、私もこうした偏見に、かなり
苦しんだ。
仕事にまともな仕事も、まともでない仕事もない。
もちろん犯罪がらみの仕事は別だが、稼ぐ金(=マネー)に、名前はつかない。

が、40年前の日本には、「まともな仕事論」というのがあった。
今でも、残っている。
どこかの企業(大きければ大きいほどよい)に勤めて、その年齢にふさわしい地位
で仕事をするのが、「まともな仕事」と考えられていた。
が、それこそまさに士農工商時代の亡霊!

 で、今は私のような仕事をしている人を、「フリーター」という。

フリーターねえ……?
この言葉を考えた人は、相当のセンスの持ち主と考えてよい。
「フリーマン(自由人)」でもない。
「フリー」に「ター」をつけて、ややバカにしたニュアンスを加味した。

が、当時は、風来坊とか無頼(ぶらい)とか、無宿者とか呼ばれた。
そういうレッテルを張られて、社会のワクの外に置かれた。
私もそうだった。
たとえば大手の銀行で、カードを発行してもらおうとしたことがある。
カードがやっと流通し始めたころのこと。
が、「審査の結果・・・」というような返事が来て、拒否されてしまった。
銀行の預金残高を示すコピーをつけて申し込んだが、だめだった。

(念のため申し添えるなら、フリーターが不利なのは、職業的に問題があるからではない。
社会制度上、不利になるようにできている。
日本という国は、どこかの組織に属する労働者については、手厚く保護する。
組織に属さない個人は、保護しない。
公務員とフリーターの(差)を見れば、それがわかる。

しかしこれだけは忘れてはいけない。
むしろ社会の活力、エネルギー、それにダイナミズムは、フリーターと呼ばれる
人たちの間から生まれる。
豊田佐吉も本田宗一郎も、日本を背負って立った人は、みんなフリーターだった!)

 こうした偏見もまた、それぞれの人の固定観念によって生まれる。
その固定観念が集合されて、その時代の社会通念となっていく。
が、それは同時に社会を硬直化させる原因となる。

●これからの日本
 
 話が大上段になるが、これからの日本が、これからの未来を生き残るには、
こうした固定観念を、ひとつひとつ、ていねいに打ち砕いていく以外に、道はない。
何度も書くが、2050年には、このままでは、日本はアジアの中だけでも、
ごくふつうの小さな国になってしまう。
2050年というと、40年後である。
現在の小学生たちが、50歳前後になるころである。

 が、さらに心配されるのは、そこで日本の衰退が止まるわけではないということ。
60年後・・・、80年後・・・。
それを思うと、ぞっとする。
そのときのことを考えて、日本がどうあるべきかを考える。

一説によれば、「アジアもEUのように連合化される」と説く人もいる。
それもそのひとつの選択肢かもしれない。
あるいはアジア大陸を飛び越えて、日本がEUの一員になることも考えられる。
しかし今の日本を思うと、中国や韓国と、連合するということは、ありえない。
その間に横たわる民族的な溝(みぞ)は、あまりにも深い。

 で、固定観念を破る。
たとえば現在、アジアの経済の中心地は、シンガポールである。
東京でもないし、北京でもない。
シンガポールである。
たとえばアジアの経済ニュースは、一度シンガポールに集約され、そこから世界に
発信される。
そのシンガポールは、ありとあらゆる制度を、世界に向けて自由化してきた。
アメリカ人の医師だって、シンガポールでは、自由に開業できる。
アメリカやオーストラリアで取得した資格を、そのまま生かして仕事ができる。
もちろん使用する第一言語は、英語。

 今からでも遅くない。
日本も40年後を見据えながら、これからの日本がどうあるべきかを考える。
そのために私たち1人ひとりがもっている固定観念を、打ち破る。
シンガポールは、40年をかけて、ここまでの地位を築いた。
日本だって、その気になれば、つぎの40年で、現在の地位を取り返すことが
できる。

●具体的に・・・

 言うまでもなく、日本の資産は、「人」。
その人を育てる。
その要(かなめ)となるのが、「教育」。
そこで教育の世界では、こうする。

(1) 主要教科以外のクラブ化。
  主要教科は、学校での単位制にする。
  そのほかの科目(語学、絵画、音楽、体育、技術など)は、クラブ制にする。
 「民活」を導入する。

(2)教科書検定制度の廃止と教科書の廃止
 「教科書」ではなく、「テキスト」という感覚にする。
  テキストの選択は、学校単位、教師単位の自由裁量に任せる。
  学力は、各種の検定制度を使って、学外で判断する。

(3)無学年制の採用とカリキュラムの多様化
 「単位制」というのは、無学年制を意味する。
  同時に、カリキュラムはその子どもの能力、才能、やる気に応じて、多様化
  する。
  数学の得意な子どもは、毎日数学の授業を受けられるようにする。
  さらに「電子テキスト」ができれば、学校の外でも、授業は可能になる。
「学校」というワクの中の教育に、こだわらなければならない理由はない。
  これからはそういう時代になる。

 「電子テキスト」というのは、最近アップル社から発売になった、i-Pad
  のようなものをいう。
  それ1台をもっていれば、1台の中に、数百冊分の教科書を保存できる。
  もちろん毎年、更新することもできる。

 少し乱暴な書き方をしたが、ショックを感じてほしかったから、そうした。
ともかくも今の日本の教育に欠けるのは、「活力」。
「教育の活力」ではない。
「子どもたちの活力」。
教師も生徒も、固定観念にしばられ、身動きができないでいる。
子どもたちが窒息してしまっている。
これでは日本の未来は、お先真っ暗!
たとえばここに書いた電子テキストにしても、韓国では2011年から、
すべての学校で採用するという。
が、この日本では、そういう話すら、出てこない。

「予算がない」(つまり、予算的な余裕がない。)
「教科書会社がYESと言わない」(文科省の天下り先になっている。)と。

考え方のひとつとして、参考にしてほしい。

●再び、固定観念

 ただ誤解しないでほしい。
固定観念がすべて悪いというのではない。
それがあるからこそ、日々の生活はスムーズに流れる。
たとえば冒頭に書いた、車内ガイド。
あのガイドにしてもそうだ。
バス会社も、またそのバスに乗る客も、それがガイドというのは、そういうものと
思っている。
だからこそ、問題なく、……というより、それほど深く考えることなく、ガイドを流し、
また客も安心して、それを聞く。
「無難」という言葉は、そういうときのためにある。

 そういうこともあるが、一方で、私たちがもつ固定観念を一度、疑ってみる。
それによって、ひょっとしたら、そこに潜む「真理」に、一歩近づくことができる
かもしれない。
たとえば先のガイドも、20年後には、こう変わるかもしれない。

「……このあたりの開発は、自然保護のため、きびしく規制されています。
野生のニホンザル、ニホンカモシカの保護のため、保護区も制定されました。
保護区の制定のために、地元の人たちが闘ってきた様子は、映画にもなり、
みなさんご存知の通りです……」と。

(はやし浩司 固定観念 固定観念論 こだわり 教育のこだわり 常識 硬直した教育行政 教育のクラブ化 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 固定観念 常識論)

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(補記)

●子どもの活力

 先日、こんなことがあった。
ある生徒の母親から、その生徒にパソコンを選んでやってほしいという依頼を受けた。
こういう依頼は、楽しい。
私は自分のパソコンを選ぶようなつもりで、1台を選んでやった。
同時に、私もそれがほしくなり、同じものを買った。

 で、そのパソコンをその生徒に渡した。
そのときのこと。
ふだんから明るい子どもだった。
活発な子どもで、頭もよい。
そんな子どもだったが、パソコンを渡したとき、さらに別人のようにその子どもの顔が、
輝いた。

 私はその顔を見て、驚いた。
私はその子どもがそんなふうに輝いたのを見たことがない。
すでに6年近くつきあっていたのだが、はじめて見る顔だった。

 「ああ、子どもって、こんなふうに輝くのか!」と。
言い換えると、今の教育には、子どもを輝かせる「力」がない。
もともと子ども本来の立場になって、組み立てられていない。

 どこかのエラーイ先生が、「教育とはこういうもの」と勝手に決め込み、
それを子どもたちに押しつけているだけ。
これでは子どもたちの力を引き出す(=educe)ことはできない。
ばあいによっては、子ども本来がもつ活力を、押し殺してしまうことにもなりかねない。

 日本の教育が、基本的な部分でもつ欠陥は、こんなところに隠されている。
だからこそ私は、声高に訴える。
「教育を自由化しろ!」と。

(はやし浩司 教科書の自由化 教育の自由化 子どもたちの活力 子供の活力 教育の活力。)

●電子テキスト

 最近、アップル社から、i-padなるものが、発売になった。
値段は、4万円前後とか。

 そこで計算してみる。
それ1台あれば、本体だけで、数百冊分のテキストを収納することができる。
100冊分だけでもよい。
1冊、300~400円前後として、それだけで、3~4万円分ということになる。
もちろん必要に応じて、メモリーの内容を更新することもできる。
さらに通信機能をつければ、もっとビジュアルな表示も可能。
テキストを音声で読みあげたり、図形の変化を、動画にして示すなど。
 
 「紙」という資源の節約にもなるだろうが、それについては、おそらく教科書会社
が、猛烈な反対運動をしかけてくるにちがいない。

「電子テキスト(教科書)になったら、私たちは生きてはいかれない」とか何とか。
文科省と教科書会社の癒着については、過去、たびたび問題になっている。
中央官僚たちの天下り先にもなっている。
一筋縄ではいかないだろうが、それがここでいう「硬直性」ということになる。

 しかし長い目で見て、こうした流れは、もうだれにも止められない。
紙製のテキスト(教科書)はなくなり、やがてすぐ電子化される。
参考書や辞書などは、必要に応じて、それぞれの子どもがダウンロードして使う。
そういう時代は、すぐそこまできている。
また日本には、その技術がある。
なのに、どうして日本は韓国のあとばかり、追いかけなければならないのか。

(はやし浩司 電子ブック 電子教科書 教科書の電子化 電子ブック化 (はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 電子教科書)


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

【寸又峡温泉、「翠紅苑(すいこうえん)」にて】

●『逢わせ屋』

 旅館も、ネットで調べ、ネットで申し込む時代になった。
またそのほうが、料金も安い。
私はいつも、そうしている。

 で、夕食後、2度目の入浴。
湯が体にあたると、ヌルッとした感じになる。
「美人作りの湯」だ、そうだ。

 で、今は、ワイフはテレビを見ている。
番組名は、『逢わせ屋』とかいうもの。
生き別れになった人を、会いたい人の側に立って、探し出すという番組。
今夜見たのは3例だったが、3例とも、生き別れになった親をさがすというものだった。
当初、「他人の不幸を、もてあそんでいる!」と、かなり強い反発を覚えたが、3例とも、
最後には、もらい泣きをしてしまった。
テレビ局の意図はどうであれ、その向こうにある人間ドラマに感動した。
親を探す子ども。
子どもを思う親。
それぞれに複雑な事情があり、それぞれがそれぞれの思いの中で、懸命に生きている。
それに感動した。

●紙一重

 で、その番組に、1人の女性が出てきた。
年齢は35歳という。
女性がいちばん美しく輝く年齢だが、その女性はどこか疲れて見えた。
それもそのはず。
父親がみなちがう、5人の子どもをかかえていた。
しかもシングルマザー。

 話を聞くと、自分を捨てていった父親に一度会って、父親の本心を聞いてみたい、と。
父親が家を出て行ったあと、その女性は、継父に育てられていた。
いろいろあったらしい。
少女のころから、非行グループに入り、荒れるに荒れた。
で、その番組を見ながら、その女性について、当初は、「ずいぶんと勝手な母親だなあ」と
思った。
ここにも書いたように、父親がみなちがう5人の子どもをかかえている。
(5人だぞ!)

 もしそういう子どもたちがおとなになり、同じように、「父親に会いたい」と言ったら、
どうなるのか、と。
その母親は、それぞれの子どもの父親探しを手伝うのだろうか、と。

 が、幸福な人も、不幸な人も、(その女性が不幸と言っているのではない。誤解のない
ように!)、紙一重。
見た目には大きく違っても、紙一重。
不幸な人は、何をやっても裏目、裏目と出て、不幸になっていく。
自分の意思とは無関係に、不幸になっていく。
どうしようもない(糸)に引きずられるうちに、そうなっていく。

 画面を通して話を聞いているうちに、目頭が熱くなってしまった。

●「刷り込み」

 人間にも鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかって
いる。
生後まもなくから、7か月くらいまでの間が、その時期。
この時期を通して、親子関係(とくに母子関係)は、本能に近い部分にまで、脳の
中に、深く刻み込まれる。
この時期を「敏感期」という。

 で、こういう書き方は、それ自体が、たいへん不謹慎なこととは思う。
思うが、もし番組に出てきた人たちが、敏感期を経験していなかったら、こうまで
涙ながらに親をさがすことはしなかっただろう、と。
たとえば先の女性には、5人の子どもがいる。
みな、父親がちがうという。
ほとんどが妻子もちの、年上の男性という。
話の雰囲気からすると、5人の子どもたちは、生まれながらにして、父親には
会っていないということになる。
ということは、「刷り込み」はなされていないということになる。
つまり将来的に、「お父さんに会いたい」と、涙ながらに訴えることはない。

 不謹慎な書き方になるが、そういう心配はない。
発達心理学的に考えると、そうなる。
言い換えると、その女性がああまで父親に会いたがっていたのは、そこに
「刷り込み」があったからと考えられる。
さらに言い換えると、「刷り込み」による「力」には、それほどまでに強力な
パワーがあるということになる。

 ともかくも、番組の中で、その女性は父親と再会する。
抱き合って再開を喜ぶ。
泣きあう。
それを見て、私も、思わずもらい泣きをしてしまった。
「よかった」と思った。

●残酷な番組

 ……しかし、一言。
 それにしても残酷な番組である。
一見、不幸な人を助けるような番組に思えるが、その実、不幸な人を、食い物に
している。

 本来なら、つまり本当に人助けが目的なら、そうした(人探し)は、人知れず、
それがだれともわからないまま、したらよい。
番組にするにしても、ショー化(=見世ものに)するのは、最小限にしたらよい。
が、見た人ならわかると思うが、最初から最後まで、ただの「ショー」。
「お父さんは……!」と言って、ボックスになった部屋の取っ手に手をかける。
そこでコマーシャル。

 説得に応じて父親が来ていれば、親はそのボックスの中にいる。
そうでなければ、一通の手紙が置いてある。
「さあ、どうかな?」と視聴者に思わせながら、コマーシャル。
これを「ショー」と言わずして、何と言う?

 だいたいテレビ局が、人探しをすること自体、基本的な部分で、おかしい!
テレビ局が、そうした人探しをしているNPO団体なり、探偵社を取材と
いう形で報道するなら、まだ話もわかる。
どうしてテレビ局が、人探しなのか?
どこでどうつながるというのか?

 ……という回りくどい言い方は、やめよう。
こうした番組は、まずプロダクションが企画を出してくる。
「こういう番組なら、視聴率を稼げますよ」とか、何とか言って、出してくる。
それに応じてテレビ局側は、企画会議を開く。
その場でOKが出れば、プロダクション側は、番組の制作に取りかかる。
私はその間のやり取りを、番組の向こうに感じた。
ある種の(薄汚さ)を感じた。
だから、ここに「不幸な人を、食いものにしている」と書いた。

 ついもらい泣きしてしまった私だが、だからといって、こういう番組を支持
しているわけではない。
すばらしい番組だったと言っているのでもない。
低劣番組であることには、ちがいない。
それも、どうか誤解しないでほしい。

●翠紅苑(すいこうえん)

 実名を書いた以上、悪口は書けない。
書く必要もない。
これからその翠紅苑を出て、岐路につく。
料金を少しケチったので、料理はまあまあといったところ。
しかし旅館のもつ雰囲気は、最高!
食堂には、昭和30年代のテレビが並べてあるところかもわかるように、
われら団塊の世代には、グッとくる。

 そう、団塊の世代、お勧め旅館。
風呂もきれいで、清潔だった。
湯質もよい。
先にも書いたが、都会の一流旅館のような洗練された旅館とはちがうが、
一級旅館であることには、ちがいない。
寸又峡という山奥にあることを勘案するなら、「超」をつけてもよい。
私はじゅうぶん満足した。
ワイフと2人で、「よかったね」と言い合って、この部屋を出る。

(交通)
JR金谷駅から大井川鉄道。
1時間30分。
千頭(せんず)で下車、寸又峡温泉行きのバスで、約40分。

では……。


Hiroshi Hayashi+++++++April 2010++++++はやし浩司

●帰りの電車

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千頭(せんず)からJR金谷まで。
電車の中で、ほとんど眠っていた。
ワイフも眠っていた。
「昨夜は、よく眠れなかった」と、
一言、つぶやいた。
「旅館のふとんって、寝にくいわ」とも。

JR金谷で、東海道線に乗り換える。
いつだったか昔、オーストラリア人と
同じ行程を旅したとき、そのオースト
ラリア人が、こう言ったのを覚えている。
「電車を乗り換えるたびに、電車が
大きくなっていく」と。

(トロッコ列車)→(大井川鉄道)→
(東海道線)→(新幹線)と。

そのときは、「おもしろいことを言うな」と、
私は思った。

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●3人の女性

 目の前の席に、3人の女性が座っている。
民主党の小沢幹事長を、そのまま女性にしたような感じ。
たいへん失礼な言い方とは思うが、顔を見たとたん、そう思った。

3人とも、欲求不満のかたまりといった感じ。
鋭い視線と、それ以上に、不満そうな顔。
「女」であることを、とっくの昔に捨てきっている。
そのオバタリアンたちが、小声だが、間断なくしゃべりつづけている。

 その向かって左隣には、4歳くらいの女の子を連れた南米人。
窓の外の景色を、楽しそうにながめている。

今、その3人の女性たちが、大きなバッグからスルメを出して食べ始めた。
少し前まで、3人そろって、ガムをかんでいた。
恐ろしいほどの迫力。
傍若無人(ぼうじゃくぶじん)。
年齢は65歳前後か。
顔の上半部よりも、下半部のほうが、大きい。
かみつかれたら、痛そう。

 そう言えば、うち1人は、どこか、見覚えがある。
浜松の女性かもしれない。
もしそうだとすると、この原稿は、ヤバイ!
だからこの話は、ここまで。

●女を捨てる

 「人は女に生まれない、女になるのだ」と書いたのは、ボーボワール。
その言葉をもじると、こうなる。
「女は女を捨てるのではなく、女として相手にされなくなる」と。

 ところで60歳という人生の峠(とうげ)に立つと、こんなことが
わかる。
60歳というそのときを見ると、その人は80歳を過ぎて生きるか、
70歳までに死ぬか、おおよその見当がつく。
80歳を過ぎて生きる人は、健康に留意し、それなりの努力をしている。
70歳までに死ぬ人は、酒を飲み、タバコを吸い、運動もほとんど
していない。
もちろん何かの大病をすれば話はちがってくるが、ひとつの目安としては
正しい。

 人間性も、またしかり。
60歳というそのときを見ると、その人がやがてオバタリアン(オジタリアン
でもよいが)になっていくか、それなりの人間性を保持していくか、おおよその
見当がつく。
(その3人の女性のことを書いているのではない。誤解のないように!)

 人間性を保持していく人は、それなりの努力をしている。
そうでない人は、そうでない。
日々を怠惰に過ごしながら、怠惰に過ごしているという意識すらない。
また「そうであってはいけない」と、自分にムチを打つこともない。
むしろ、「私は完成された人間」と、居直ってしまう。
そのとたん、その人がもつ人間性は、かぎりなく後退していく。

●温泉で……

 今朝は、5時ごろ起きて、温泉につかった。
出て脱衣所のところで、72歳という男性と知り合いになった。
長く造船所で、造船技師をしていたという。
退職後は、パイプに内側に、塩ビを張りつける……というような特殊な
仕事をしていたという。
健康的な肉体。
シャキシャキとした、話し方。

 私はその男性を知ってうれしくなった。
「健康の秘訣は何ですか?」と聞くと、こう話してくれた。
「朝と夕に、毎日2回、45分間ずつ、散歩をしています」
「それと食事には、たいへん気をつかっています」と。

 私はその男性を見ながら、「ぼくも、まだまだがんばれる」と実感した。
私より10歳、年上ということになる。
あとでワイフに、「ぼくはまだ、10年はだいじょうぶだよ」と告げた。
その男性の話をした。

 健康でがんばっている男性と話をするのは、楽しい。
生きる力そものを、もらうことができる。
それに生きる目標になる。
 
 電車はあと数分で、JR浜松駅に到着する。
では……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ボーボワール 人は女に生まれない。女になる 女は女に作られる 健康 寸又峡温泉 シモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール )


Hiroshi Hayashi+++++++April. 2010++++++はやし浩司

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