2010年2月28日日曜日

*Realism in a Dream

【胡蝶の夢】

●夢と現実(2)

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昨日、「夢と現実」について書いた。
うまくまとまらなかった。
そこで今日、もう一度、それについて
書いてみたい。

またまたわかりにくい文章でごめん!

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●夢

 私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
中には、指の爪ほどの大きさのあるダイアモンドもあった。
ほかに、ルビーやサファイアなどもあった。

 が、夢の途中で、私はそれが夢であることに気がついた。
ときどきそういうことがある。
夢を見ながら、「これは夢だ」と。
そこでつぎに私は、どうすれば、この宝石を、現実の世界へ持ち帰ることができるか、それを考えた。
今までにも、そういう夢をときどき見たことがある。
が、目が覚めたとたん、夢の中で手にしたものは、すべて消えていた。

●強欲

 目が覚めてから、私は私が見た夢について考えた。
夢の中の私は、見苦しいほど、強欲だった。
それに警戒心も、猜疑心も強かった。
「だれかに盗まれるのではないか」と、それを心配した。

 日ごろ、私はそういう私になるのを、避けているはず。
また身近にそういう人がいると、そういう人を人いちばい嫌っているはず。
そういう私が夢の中では、見苦しいほど、強欲だった。
それを思い出しながら、「私の知性や理性は、どこへ消えてしまったのか」と。
あるいは夢の中では、脳の活動分野がちがうため、知性や理性は機能しないのかもしれない。
知性や理性をコントロールするのは、前頭連合野。
その前頭連合野は、まだ眠ったままだったのかもしれない。
しかしそれにしても、強欲だった。
欲望のまま……というか、私は完全にドーパミンに支配されていた。

●薄もやの向こう

 一方、こんなことも言える。
ときどき小学生たちを見ながら、「私にも、小学生だった時代があるはず」と。
で、私が小学生だったころを思い出そうとする。
とくによく覚えているのは、小学3年生のころの私である。
1年間だけだが、那須(なす)先生という、よい先生に恵まれた。
思い出の数が、とくに多い。
あるが、どれも、薄もやの向こうに隠れて、よく見えない。
大画面に大きく映像が映るというよりは、脳の一部に、小さく映る。
しかもそれぞれが断片的で、輪郭がはっきりしていない。

 そういう自分を思い浮かべてみると、あのころの私が、まるで夢の中の私のように思えてくる。
眠っているときに見る夢と、区別がつかない。

さらに今のように、人生も晩年になってくると、(私自身は、「晩年」という言葉が嫌いだが……)、今までの自分、つまり過去全体が、夢の中のできごとのように思えてくる。
つまり(現実)とは言うが、その(現実)が、夢の中のできごとのように思えてくる。

●非現実主義

 現実も夢も同じようなもの。
ちがいは、どこにもない。
あるいは、どこがどうちがうというのか……。

 ……というふうに考えるのは、危険なことでもある。
現実と夢、もっと正確に言えば、現実と空想の世界を、混だくさせることは、危険なことでもある。
よい例が、神秘主義。
あやしげな宗教団体は、その神秘主義をうまく操って、信者を洗脳する。
洗脳して、操る。
だからというわけでもないが、私たちは常に、現実主義に基盤を置いて、ものを考える。
生きる。

 「人生は夢のごとし」と口で言うのは構わないが、だからといって、人生は無意味とか、現実には価値がないと考えてはいけない。
その上で、「夢と現実」のつづきを書く。

●死ねばおしまい

 あの世があるにせよ、またないにせよ、私たちは死ねば、この世から消える。
脳みそですら、分子レベルまでバラバラにされて、地球上のありとあらゆるものに、再生されていく。
もちろんその一部は、人間を含めた、ほかの生物の一部となっていく。
それを「あの世」というのなら、「あの世」はある。
「あの世」という言葉に問題があるなら、「つぎの世界」と言い替えてもよい。

 ということは、(主体)である「私」が消えるわけだから、私たちは、この現実の中のモノを、ゴミひとつ、チリひとつ、つぎの世界へもっていくことはできない。
今、億万長者になって得意になっている人も、莫大な財産を築いて喜んでいる人も、死ねばおしまい。

 つまりこの「死ねばおしまい」という部分が、「目が覚めたらおしまい」という部分と似ている。
似ているというより、同じ。
私は目が覚めたとき、それを知った。
つまり私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
しかし目が覚めたら、それらはすべて消えていた。

●夢のごとし

 繰り返しになるが、平均寿命までまで、あと15、6年と言われるようになると、とたんに、今までの人生が、まるで夢の中のできごとのように思われてくる。
先に、私は私が小学3年生のときのことを書いた。
しかし何も小学3年生のときにかぎらない。

 20代のころも、30代のころも、40代のころも、同じようなもの。
どれも脳の中では、断片的な一部の記憶でしかない。
たしかに60数年生きてきたはずなのに、その実感がない。
もともと記憶というのは、そういうものかもしれない。
「記憶がある」といっても、それは脳の中の電気信号のようなもの。
「形」があるわけではない。
言い替えると、「人生は夢のごとし」と言うのは、それほどまちがっていないということになる。

 夢と現実。
今、ここに見えている世界は、たしかに現実だが、それは今というこの一瞬にすぎない。
それ以外は、すべて夢。
眠っているときに見る夢と、どこもちがわない。

●現実=夢

 そこでこう考えたら、どうだろうか。
ここにある現実そのものが、夢である、と。
今は、「現実」かもしれないが、一瞬先には、夢になる。
10年もすれば、脳の一部の断片的な記憶でしかなくなる。

 つまり私たちは、現実という夢の中にいながら、「これは夢だ」と気がつく。
つまり私があの夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に持ちながら、「これは夢だ」と気がついたように、である。

 が、私はその夢の中で、何とかしてその宝石を、現実の世界へもってこようとした。
その方法はないかと考えた。
いちばんわかりやすい方法は、宝石の入った袋を、しっかりと手で握ること。
私は子どものころは、そうしていた。
「目が覚めても、放さないぞ」と。

 これは夢の中の話だが、しかし現実のこの世界では、私たちは、日常的に、同じようなことをしている。
お金はもちろん、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついている人は多い。
(だからといって、それが無駄と書いているのではない。誤解のないように!)

 その「しがみつく」という行為が、「目が覚めても、放さないぞ」と、手を握った行為と同じ。

●パンコ

 夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
だからといって、それがどうしたというのか。
だれしも、こう言うにちがいない。
「夢は夢。夢の中で、そういう夢を見ただけ」と。

 しかしそれと同じことを、ひょっとしたら、私たちは、この現実の世界でしているのではないだろうか。

 わかりやすい例として、もう一度、私が小学3年生だったころの話をしてみる。

 あのころは、「パンコ」という遊びが流行(はや)っていた。
地方によっては、「メンコ」とか、いろいろな呼び名がある。
地面に置いた相手のカードを、自分のカードで叩いてめくったら、自分のものになるという遊びである。
私たちは毎日のように、カードの枚数を競い、絵柄を自慢しあった。
その遊びに夢中になったということは、それだけ強欲になったことを意味する。

 が、それも今となっては、まるで夢の中のできごと。
現実にそれをしたはずなのに、今は、何も残っていない。
夢の中で手に入れた宝石も、子どものころに手に入れたパンコも、同じ。

 あえて言うなら、眠っているときに見る夢は、数分前後で、消える。
が、過去は、もう少し長い時間をかけて、消える。
しかしそれが数分であれ、10年であれ、どういうちがいがあるというのか。

●宝石を持ち帰る

 夢の中の私は、見苦しいほどまでに強欲だった。
袋いっぱいの宝石をしっかりと握りながら、「だれにも渡したくない」と考えた。
「だれかに奪われるのではないか」と警戒した。
「これは夢だ」とわかっていても、そうした。

 で、つぎに考えたことは、その宝石を、現実の世界に持ち帰ることだった。
そこで私は、子どものころの私のように、その袋をしっかりと手に握った。
幼稚というより、それ以上の理性や知性が、働かなかった。
が、当然のことながら、目が覚めたとたん、その袋は消えていた。

 ……というのは、夢の中の話だが、実は、これと同じことを、私は現実の世界でもしていることを知った。
この現実の世界全体を、「夢」と考えると、それがわかるはず。

(だからといって、非現実主義に走るのも危険である。
これについては、先に書いたとおり。)

 つまりそう考えることによって、私たちは、つぎのステップへと、自分を昇華させることができる。

●欲望の虜(とりこ)

 「私」には、無数の(しがらみ)が取り巻いている。
「私」自身が、欲望の塊(かたまり)と表現しても、さしつかえない。
もちろんだからといって、「欲望」を否定してはいけない。
この「欲望」が、生きる力の源にもなっている。

 フロイトが説いた「性的エネルギー」、ユングが説いた「生的エネルギー」といったものは、それをいう。
その(エネルギー)を取り除いたら、私たちは、ただの生きる屍(しかばね)。

 しかしこの現実世界全体を、「夢のようなもの」と考えることによって、私たちは、欲望との間に一線を引くことができる。
つまり私たちを、より客観的に、外からながめることができるようになる。

 まずいのは、現実主義に走りすぎるあまり、欲望の虜(とりこ)になりながら、そうであることに気づかないこと。
そういう人を、仏教の世界では、「餓鬼」という。
その餓鬼になってしまう。

●夢は夢

 ……あの夢を見てから、数日が過ぎた。
で、今は、こう考える。

 「私たちが『現実』と思っている、この現実世界全体にしても、夢のようなものだなあ」と。
静かに目を閉じてみると、さらにそれがよくわかる。
その現実世界の夢の中で、私たちは、日々にあたふたとしながら、生きている。
先にも書いたように、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついて生きている。
それが無意味とは言い切れない。
つまり人間がなぜ、こうして生きているかといえば、そのドラマを作るため。
そのドラマに意味がある。
価値がある。

 が、夢は夢。
どこまでいっても、夢は夢。
今の私は、そう考える。

●(補記)

 このエッセーを書きながら、脳の一方で、私は荘子の『胡蝶の夢』を、ずっと考えていた。

「荘子の思想を表す代表的な説話として『胡蝶の夢』がある。「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れている(以上、「ウィキペディア百科事典」より転載)。

荘子は神秘主義に走り、俗世間からの徹底した離脱を説いた。
「無為自然」とは、それをいう。
『胡蝶の夢』は、その象徴的な逸話として紹介されることが多い。

 「荘子が夢を見て、蝶になったのか」、それとも、「蝶が夢を見て、荘子になったのか」。
たいへんわかりにくい話だが、私も今回、同じような経験をした。
「私は、夢の中で、現実を体験したのか」、それとも、「現実の中で、夢を体験しているのか」と。

 が、再三再四書いているように、だからといって、神秘主義に走り、「現実は無意味」と考えてはいけない。
私たちは、今、ここに生きている。
生きているからこそ、夢も見る。
眠っているときの夢もそうだが、「現実も夢のよう」というときの夢も、そうである。
生きていなければ、どちらの夢であるにせよ、夢を見ることはない。
この問題を考えるときは、いつもそこを原点として考える。
 

Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

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