2010年2月13日土曜日

*Don't get beated down, Kazuhiro Kokubo!

【服装の乱れ?】(国母和宏選手の服装の乱れ問題)(改)

●「日本人よ、障子を開けて、外を見ろ」

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国母和宏選手(東海大)の公式服装の着方が
乱れていたと批判されている問題で、日本選手団の
橋本聖子団長は12日(日本時間13日)、
同夜開催される開会式への国母選手の出席を
取りやめさせると発表した。
(2010年2月)

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●報道記事より

 まず毎日JPの記事を紹介する。

++++++++++++以下、毎日JPより++++++++++++++

バンクーバー五輪のスノーボード・男子ハーフパイプ日本代表、国母和宏選手(東海大)の公式服装の着方が乱れていたと批判されている問題で、日本選手団の橋本聖子団長は12日(日本時間13日)、同夜開催される開会式への国母選手の出席を取りやめさせると発表した。17日に予定されている競技には、橋本団長の判断で参加できることになった。国母選手は会見に同席し、「責任を重く感じています」と謝罪した。

 国母選手は会見で「応援してくださる方々に、雪の上でいい滑りを見せられるよう頑張ります」と述べ、開会式については「チームのみんなと出たかった。残念です」とした。

 批判の電話などが多数寄せられた全日本スキー連盟(SAJ)では、日本オリンピック委員会(JOC)に国母選手の大会出場辞退を申し出た。これを受け、橋本団長が12日に国母選手と話し合った結果、大会出場を認めることが決まった。橋本団長は「私がすべての責任を負い、全力でサポートしたい」とした。また、「責任を取るのは大会で自分を出し切ること。子供たちに夢を与えるのが、いまの彼の仕事だ。本人は反省している」と述べた。

 国母選手はバンクーバーに移動した際、公式ブレザーを着用しながら、ネクタイを緩め、ズボンを腰の低い位置まで下げるなどしていた。また、10日に開かれた会見では「反省してまーす」と語尾を伸ばして語ったが、反省の色が見られないとの批判も出ていた。

++++++++++++以上、毎日JPより++++++++++++++

つづいて、YAHOO NEWSより

++++++++++++以下、YAHOO NEWSより++++++++++++++

スノーボード男子ハーフパイプ日本代表の国母和宏選手(東海大)の、公式服装の乱れと会見での態度が問題となっている件について、国母選手が在学する東海大学がWebサイトに「大学といたしましても誠に遺憾に思っております」などとする見解を掲載した。

++++++++++++以上、YAHOO NEWSより++++++++++++++

また毎日新聞は、つぎのように報じている。

++++++++++++以下、毎日新聞より++++++++++++++

公式服装が乱れていたと批判されているスノーボード男子ハーフパイプ日本代表、国母和宏(東海大)は、12日(日本時間13日)に行われた開会式の出席を取りやめた。同日午前、日本選手団の橋本聖子団長と話し合いを持ち、国母に参加自粛を促した。全日本スキー連盟は出場辞退を申し出ていたが、橋本団長の判断で、17日の競技には出場する。

 国母と橋本団長は12日、記者会見して謝罪した

++++++++++++以上、毎日新聞より++++++++++++++

●東京オリンピック

 私が高校生のとき、東京オリンピックが開催された。
もう40年以上も前のことである。
そのときのこと。

日本選手団は、一糸乱れぬ入場行進をして見せた。
「一糸乱れぬ」である。
歩き方、顔の向け方、礼の仕方、などなど。
手の上げ方、その角度まで、同じだった。
それを報道しながら、ニュースキャスターたちは、「すばらしい行進です」と、ほめちぎった。

 が、一方、欧米の選手たちは、バラバラ。
バラバラというより、行進の「体」をなしていなかった。
それを見て、その当時の私は、「何と、だらしない行進なんだろう」と思った。
思ったが、今から思うと、私というより、日本人の感覚ほうが、世界の常識から、ずれていた。

●乱れた服装?

 「国母選手はバンクーバーに移動した際、公式ブレザーを着用しながら、ネクタイを緩め、ズボンを腰の低い位置まで下げるなどしていた」という。
写真も紹介されていたが、髪の毛も、長髪で、アフリカン・スタイル。
シャツも、そでが外に出ていた。

 が、結論から先に言えば、どうしてそれが乱れた服装なのか?
国母選手は、国母選手なりに、そういう服装を、意図的に、かつ、ファッショナブルに表現してみせた。
私はその写真を見たとき、「マイケル・ジャクソン、そっくり」と思った。
つまりマイケル・ジャクソンの服装に、よく似ていた。
それがわからなければ、あのビル・ゲイツ氏を見ればよい。
彼は世界中を飛び回って、公式の場で講演を重ねている。
が、いつもヨレヨレのシャツに、ジーパン姿である。

●きちんとした服装

 一方、ではきちんとした服装というのは、どういう服装をいうのか?
「講演」という言葉を使ったので、私のことを書く。

 私は今でも、講演をするたびに、どんな服装で行くべきか、悩む。
本当なら、ありのままの服装で行きたい。
ありのままの服装で、ありのままの自分を話したい。

 が、会場がホテルであったり、何かの大会であったりすると、どうしても服装まで、硬くなってしまう。
ネクタイを締め、ブレザーを着て行く。
が、そのつど、こう思う。
「どうしてこんな服装をしなければならないのか?」と。
日ごろの私は、そんな格好など、したことがない。

●ファッション

 ファッションということになれば、国母選手の服装は、どこも乱れていない。
腰パンがだめだというなら、どうしてだめなのか、その理由をきちんと説明できる人はいるだろうか。
自分たちの服装とちがうからといって、それを乱れていると考えるなら、それこそ、まちがっている。
まちがっていることは、人生を半世紀以上生きた人なら、みなわかる。

 たとえば江戸時代には、職業によって、着物の色が決まっていた。
柄や使う色の数も制限されていた。
そうした名残は、戦後になっても残っていて、「ホワイトカラー」とか、「ブルーカラー」という言葉になった。
江戸時代には、士農工商の工民は、青い色の着物しか着られなかった。
それが「ブルーカラー」になった。

 さらに言えば、私が子どものころには、(男の色)、(女の色)というのまで決まっていた。
だから男の私が、赤いズボンや、赤いシャツを着るなどということは、考えられなかった。
考えられなかったというより、ありえなかった。

●画一性

 画一性が、いかに不気味なものであるかは、その外の世界に住んでいる人にはわかる。
あのOM事件のとき、OM真理教の信者たちは、みな、白い装束に身を包んでいた。
それを見て、だれしも、不気味と感じた。

 が、そう思う私たちだって、欧米人から見た、私たちの姿に気づいていない。

 あるアメリカ人(女性、当時30歳くらい)は、こう言った。
「ヒロシ、この前、海へ行って、驚いた。
日本の女子高校生たちは、みな、黒い水着で泳いでいた。
気味が悪かった」と。

 そこで私が、「では、アメリカの高校生たちは、どんな水着で泳ぐのか」と聞くと、その女性は、こう言った。
「みんな、自分の好きな水着を着る」と。
この話は、30年近くも前の話だが、それ以後、日本人の意識が変わったかというと、それはない。
というより、欧米人の感覚は、さらに先に進んでいる。

●意識のちがい

 服装が乱れているかどうかは、結局は、それを着る人、見る人の意識の問題ということになる。

 「乱れている」という基準は、他人に不快感を与えるかどうかで決まる。
そのとき、自分のもっている基準で、その服装を判断してはいけない。
たとえば臭いとか、不潔とか、そういうことであれば、「乱れている」ということになる。
しかし腰パンであろうが、シャツのそでが出ていようが、あるいはユルユル・ネクタイであろうが、どうしてそれが問題なのか?

 国がちがえば、服装もちがう。
たとえば子どもたちは、「男の人がスカートをはいたら、おかしい」と言う。
しかし世界には、男でも、スカート、もしくはそれに似た服を着ている民族は、いくらでもいる。
スコットランドやマレーシアを例にあげるまでも、ない。
インドネシアの民族衣装だって、それに近い。

●自由の象徴

 40年以上も前の、あの東京オリンピックを思い出してみてほしい。
残念ながら、団長の橋本聖子氏は若い。
若いから、当時の日本を知らない。
だから「乱れている」という。
しかし今、日本の選手団だって、欧米人にならって、バラバラの入場行進をしているではないか。
またそのほうが自然。
「自由」の象徴。
「乱れている」というのなら、あのころを基準にすれば、日本の選手団全員、乱れている。
開会式を、全員、辞退したらよい。

●ルール?

 「一糸乱れぬ」という、あのきわめて全体主義的な、どこかの独裁国家の軍事パレード的な行進感覚が、いまだに、この日本に残っている。
今回の国母選手の服装問題に関する記事を読んだとき、まっさきに、私はそれを感じた。
むしろ欧米人の感覚からすれば、「日本人も変わったなあ」と、むしろそちらのほうに感心するかもしれない。

 日本人というと、画一的でおもしろくない。
それが欧米人がもつ、日本人観である。
そうした感覚は、欧米の映画に出てくる日本人を見れば、よくわかる。
欧米的であることが、すべて正しいというわけではない。
しかし一度は、欧米人の視点から、日本をながめてみたらよい。
むしろ今だに、学校の教科書よろしく、制服を決め、その着方まで決めている日本のほうが、おかしい。
狂っている。

 日本のオリンピック理事会は、「スポーツにはルールがある」というようなことを理由にして、国母選手を非難している。
ルール?

 ルールは、競技の世界でこそ、守るべきもの。
またそこで守れば、じゅうぶん。
どうして服装にまで、ルールがあるのか?

●軍国主義時代の亡霊

 恐らくさらに40年後には、開会式の服装すら、自由になるだろう。
今は、それはわからない。
私たちだって、40以上も前の、あの東京オリンピックのとき、あの行進を見て、「日本人はすばらしい」と思った。
しかし今になってみると、私たち日本人のほうが、世界の(非常識)だった。
軍国主義時代の亡霊を、そのまま引きずっていた。

 そのことは、あのK国の軍事パレードを見ればわかる。
ああいう軍事パレードをする国を、だれも「正常」とは思わない。
自由が一方にあって、その上で、ああした行進をするなら、まだ理解できる。
しかし国全体が、そして国民一人ひとりが、みな、日常生活の中で、軍事パレードをしている。

 もちろん、あのK国には、思想の自由はない。

●反省?

 まあ、あえて言うなら、国母選手の服装は、発展途上国である、この日本では、早すぎたということ。
理解されなかったということ。
おおかたの日本人は、眉をひそめたであろう。
そういう(常識)の壁を破るのは、簡単なことではない。
また国母選手も、そこまで肝がすわっていたわけではない。

 だから記者会見場では、頭をさげ、うなだれていた。
橋本聖子団長は、こう述べた。
「責任を取るのは大会で自分を出し切ること。子供たちに夢を与えるのが、いまの彼の仕事だ。本人は反省している」と。

 「子どもたちの夢」?
・・・いろいろ書きたいことはある。
山ほどある。
が、そんなことで、子どもたちの夢は、破れない。
またそんなことは、夢でも何でもない。
もしそうなら、マイケル・ジャクソンは、世界中の子どもたちの夢をつぶしたことになる。

●結論

 日本人よ、もうこういうバカげた画一性を、他人に押しつけるのをやめよう。
オリンピック選手は、競技の場で、勝負すればよい。
どんな格好あろうが、またどんな服装をして行こうが、そんなことは競技とは関係ない。
そういう(自由)が基本にあって、その上で、何らかの統一性をもたせるというのであれば、それはそれ。
私も納得する。
しかしその(自由)も知らないような民族が、過去の亡霊に引きずるのは、まちがっている。

 何も教科書問題とからめるわけではないが、欧米先進国の中で、「検定制度」をもうけているのは、この日本だけ。
文科省は、「国定と検定はちがう」と反論している。
が、どこもちがわない。

 また「欧米にも検定機関がある」と反論しているが、オーストラリアにしても、検閲するのは、(性的表現)と(暴力的表現)のみ。
むしろ(歴史)などは、検閲してはいけないと、釘をさしている。

 国母選手が、あっさりと謝ってしまったことのほうが、問題。
本来なら、教育の自由を守るべき母校の大学が、国母選手を批判しているほうが問題。
どうして出身校の大学が、「大学といたしましても誠に遺憾に思っております」などと発言するのか。
発言できるのか。
それこそ、世界の笑い物。

 欧米では、今では、大学の単位は共通化され、「出身校」という概念そのものがない。
だからこうした発想は、欧米では、まったく理解されない。
報道記事の中には、「国母和宏選手(東海大)」と、わざわざ大学名を入れているのもある。
つまりこうした発言そのものも、世界の非常識。

 今回の国母選手の、服装問題を考えたとき、私の結論は、ただひとつ。
日本人よ、「障子をあけて外を見ろ」(豊田佐吉の言葉より)。

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