2010年2月26日金曜日

*Chunichi Syunzyu Column

●中日春秋(2010-2-24)「直葬についての誤解」

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今朝の中日新聞、『中日春秋』に、こんなコラムが載っていた。
いわく「……葬儀業界には、『直葬』という言葉があるのだそうだ。
病院から火葬場へと直行、翌日葬儀なしで、荼毘(だび)に付す。
それが格安の『直葬プラン』らしい。
とにかく『省く』は、当節のキーワードだ。
第一は不況による節約ムードのせいだろうが、少し前、ある業界の卸売会社
の経営者から聞いた話には、やりきれない思いがした……」(以上、原文のまま)と。

つまり、節約ムードの中で、省く目的で、「直葬」がふえている、と。

以下、「省く」ということで、中間卸売会社が省かれる例、インターネットで、
小売店が省かれる例がつづく。

そしてしめくくりは、「……効率化の名の下、今後も一層、旧来の手順や仕組みを
「省く」方へと社会を押しやるに違いない。
そしてその都度、省くべきでない何かも一緒に省かれていくだろう」と。

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●すでに30%以上が直葬

 要するに、「直葬というのは、省くことから生まれた」。
その理由は、「不況による節約ムードだ」と。
しかしこのコラムを書いた人は、このコラムを書くまで、「直葬」という言葉すら知らなかったらしい。
「言葉があるのだそうだ」、つまり「……そうだ」と、書いている。
たぶん、若い人か、今まで葬儀を経験したことのない人なのだろう。
が、現実は、ちがう。
「不況」、「節約」、「省く」に関係なく、すでに首都圏では、30%以上もの人たちが、その直葬により、葬儀を行っている。

 もちろんその中には、ほかの宗教を信じている人も含まれる。
無神論の人も含まれている。
さらに主義主張をもち、自己の哲学に従って、直葬を行っている人もいる。
今ごろ「……そうだ」というのは、おかしい。

●思慮

 思慮の深さは、その人の書いた文章を読んでみればわかる。
とくに、こうしたデリケートなテーマについて書いた文章を読んでみればわかる。
……というより、人の死に関する文章を書くときは、この私でも細心の注意を払う。
このコラムを書いた人は、しかし、直葬というより、それを行う遺族たちの心を、「節約」と決めつけた上、「不況によるもの」と、大上段に切り捨てている。
無神経というか、傲慢というか……?
あまりにも思慮がない。
ないというより、浅い。
浅すぎる!
私たちの世界の用語を使えば、「切り口が甘い」。

 批判はさておき、直葬について、改めて考えてなおしてみたい。

●節約が理由ではない

 その第一。
私は、(私のワイフも)、直葬を望んでいる。
理由はいくつかあるが、何といっても、現在の葬儀の仕方には、おおきな疑問を覚える。
私たちの主義、主張に反する。
「不況」、「節約」、「省く」が、理由ではない。
またそれを押しつけられても、困る。

 あえて言うなら、3人の息子たちに、迷惑をかけたくないという思いがある。
さらに言えば、僧侶による読経を拒否したからといって、どうしてそれが「省く」ことになるのか。
その前に、僧侶による読経に、どれほどの意味があるというのか。
和式仏教、さらには北伝仏教に対する疑問が、それにつづく。

●金銭的な負担

 その第二。
現実問題として、たいていの人は、それまでの介護で、クタクタになっている。
「親の介護が2年つづけば、兄弟関係は壊れる」とも言われる。
遺産相続問題がからめば、なおさら。
みながみな、裕福なわけではない。
介護により、親の財産どころか、自分の財産まで食いつぶしてしまっている人も多い。

 私も一昨年、実兄と実母を相次いで亡くした。
それまでの30年以上、生活費、税金をすべて負担してきた。
その上で、葬儀となった。

 実兄のときは、葬儀費用だけで、200万円を超えた。
加えて僧侶への供養、戒名料などなど。
計250万円以上。
一方、親族などからの香典による収入は、60万円弱。

 2か月後に今度は、母が他界した。
私は質素に葬儀を行うことを決めた。
が、それでも、……つまりいくら節約(?)しても、僧侶を呼ぶような葬儀となると、100万円をくだることはない。
僧侶のほうから、「お宅は、みな、院号がついていますから」と、戒名に、院号をつけることを求めてきた。
戒名によって、値段が異なることは、すでにみなさん、ご存知の通り。

が、それで終わるわけではない。
それにつづく、七七回忌、一周忌などなど。
今年は三回忌。
私のばあい、仏壇を新調し、「精(しょう)抜き」「精入れ」の法事もしなければならなかった。

●中身は様々

 その第三。
親子関係、親族関係といっても、中身は様々。
「親だから……」「子だから……」という『ダカラ論』ほど、いいかげんなものはない。
『ダカラ論』は、論理ではない。
その『ダカラ論』で苦しんでいる人となると、ゴマンといる。
私自身が、そうだった。

 無神経な親族は、表面的な部分だけを見て、また一方的な意見だけを聞いて、容赦なく私に『ダカラ論』をぶつけてきた。
「浩司君、君は男だろが」とか、「何と言っても、親は親だからな」とか、など。
「本家だからな」と言った人もいた。
そうした『ダカラ論』から受ける苦痛には、相当なものがある。
そのつど、自分のもっている主義主張をねじまげなければならない。
世俗に妥協しなければならない。
 
 もちろん良好な親子関係、親族関係がベースにあれば、問題はない。
またそういう人たちから見れば、直葬というのは、「とんでもない葬儀の仕方」ということになる。
またそういう人たちの感覚からすれば、「不況」、「節約」、「省く」という言葉も出てくる。
先の中日春秋のコラムを書いた人は、たぶん、きわめて恵まれた家庭環境の中で、生まれ育った人なのだろう。
が、見方を変えれば、ノー天気。

●直葬

 私の恩師のT先生も、直葬を望んでいる。
会うたびに、私にそう言う。
東京大学の副総長(総長特別補佐)も経験している。
「天皇陛下のテニス友だちなのだから、先生は、そういうわけにはいきませんよ」と、私は言う。
しかしT先生は、すでにそう決めている。
意志は固い。

 T先生がそうであるからというわけではない。
それ以前から、私は戒名なし、葬儀なしの直葬を望んでいる。
私は、葬儀そのものの意義を認めていない。
それが納得できなければ、あなたも、一応仏教徒なのだから、釈迦からはじまって、現在に至る仏教なるものを、一度は、紐解いて調べてみたらよい。

 ためしに『地蔵十王経(地蔵菩薩発心因縁十王経)』あたりから調べてみたらどうだろうか。
和式仏教が、いかにインチキにインチキを重ねてできあがったものかが、それでわかるはず。
戒名の由来について、調べてみるのもよい。
が、何よりも重要なことは、釈迦の原点に立ち返って、仏教をもう一度、見直してみること。

 私は、その結果、直葬でよい……というより、直葬を強く望むようになった。

●人の死

 「誕生」が静かなものであるように、「死」もまた静かなもの。
仰々しく、儀式を行う方が、おかしい。
たとえば親類や友の死にしても、「ああ、あの人は、もう亡くなった」で、よいではないか。
私の死にしても、私は、だれにも知らせなくてもよいと、家族に伝えてある。
いつかだれかが、「あの林(=私)は、~~年前に死んだそうだ」と言ったところで、一向にかまわない。
そのほうが自然。

 もしその人を弔う方法があるとするなら、その人の(心)に触れること。
私のばあいなら、いつか、どこかでだれかが私の書いた文章を読んでくれれば、それでよい。

 さらに言えば、葬儀というと、死者を弔うための儀式と考える人は多い。
しかし現実には、葬儀は、その人の人生に終止符を打つことによって、その人の人生に、その時点で、区切りをつけてしまう。
「ああ、あの人の人生は終わった」と。
しかしむしろそちらのほうが、その人に対する冒涜ではないのか。

 少なくとも、私は「死」という死によっては、死なない。
肉体が滅んだからといって、死んだことにはならない。
反対に、ただ息(いき)ているだけなら、生きていることにはならない。
「死」のとらえ方そのものが、ちがう。
だからこそ、今、こうして自分をさらけ出して、文章を書いている。

●中日春秋

 中日春秋の論説が、年々、浅くなっていると感ずるのは、私だけだろうか。
この「直葬」に関するコラムを読んでも、そこにあるのは、「直葬は悪である」という、きわめて通俗的なものの見方でしかない。
中には、本当に貧しくて、したくても、それができない人もいる。
さらに独居老人、孤独死の問題もある。
それらを一緒くたにして、「省く」という言葉を使って、書き殴ってよいものか。

 一読して、「おかしい?」と感じたので、こうして文章にして書いてみた。

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